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19世紀後半における沿岸漁業の変貌構造−長崎香焼島漁業について−

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(1)

19世紀後半における沿岸漁業の変貌構造 67

19世紀後半における沿岸漁業の変貌構造

−長崎香焼島漁業について−

市川信愛

1 問題の所在

(1)視  角

(2)時  期

2 香焼島における漁共の分立一藩制末期の漁業−

(1)地先漁業・採取漁業

(2)鋼組漁業

(3)粗相漁業の伝来

3 網元漁業の展開一明治前期の香焼漁業−

(1)漁業制度の改革

(2)網元眉の形成とその分解

(3)漁業生産力の発展

4 結  語

1 問 題 の 所在

(1)視  角

19世紀におけるわが国海面漁業の展開を大別すれば,その端緒から行われ

(1)

た採取的地先漁業から沿岸漁業の分立が進展し,徳川末期の1850年代には,

沿岸漁法の大半はほぼ出そろうに到ったといわれる。明治初期1870年代にお(2)

ける漁業制度の改革をへて,沿岸漁業はその展開の−頂点を記録するが,明 治中期(1900年以降)に入ると,沖合から遠洋への転回をみるとともに,沿 岸漁業は急速に衰退へと向う。正に幕末から明治前期にかけての19世紀後半 は,わが国沿岸漁業がその発展のピークに到達したときであり,その過程で

(2)

打ち出された生産関係は,以来わが国漁村の階層構造を基本的 lこ規定するこ ととなるのであるO

今日の日本漁業の階層構造についてみると、ごく少数の会社=資本制漁業 を頂点として個人経営がとれにつぎ,圧倒的多数の零細漁家が基底をなし、

T字型を呈しているO この低辺部を構成する沿岸漁業は,日本資本主義の 確立期=1900年までに形成された零細漁民が,独占資本への移行lこともない 構造的な滞留人口へと再編されたものである口小稿はかかる日本資本主義の

「基礎規定」の創出過程が,長崎県香焼島漁業において,如何なる形態をと ったかを考察し,そこにどのような一般性と特殊性がみられるかを切らかに

(3)  しようとするものであるO

なおここで「漁業の発展」を規定する諸条件と,法礎的概念を明確にして おとう口そもそも漁業は「本源的食糧の獲得」として営なまれ人類の歴史と ともに古い。その発展=剰余生産物の増大を規定する第ーの条件は,労働対 象である潟、族を生育させる漁場のもつ自然的豊度である。漁場は「剰余労働 一般の自然発生的基礎」であり,その「自然発生的生産性は,一切の剰余労

(4) 

働の基礎」をなすものであるD 漁業生産への投下労働量(漁撹)は,これに 相応する漁具=労働手段なしには不可能であり,その意識的適用の仕方によ

って漁業生産力が規定されるO

一方漁業における生産関係=漁場の所有関係は,漁業の生産力の各発展段 階に照応しつつ反作用を及ぼすものとして発展の第二の条件(社会経済的側 面)をなす。換言すれば漁村の諸階層の動向=漁民屈の分解を通じて,漁場 の利用形態が規定され一定の漁業の生産方法が成立し,発展し,ないしは官:

滞し衰退するO 本稿では不充分ながら以上の基本的法則性をもあわせ検証す る乙とをねらいとしたつもりである。

(2) 時 期

香焼の漁業の変遷を概観すると,もともと農業の附属として行なわれてい た自給的採取漁業から,法制末期には鮪(シピ) ,組(イワシ)を中心とす る網組漁業への発展をみ,明治初期にほ商人的網元の成立を早期j的に達成す る。だが1890年代にはじまる島内産業資本の形成に対応し,網元資本の鉱,

(3)

19!任紀後半における沿岸漁業の変貌問造 69 

工業部門への転身がすすみ,漁業は次第に衰退へのコースをたどるo大正期 に入ると,島内における資本制工業の発展(造船,石炭,コークス)と対照 的に,漁業は資本主義化の契機を遂にとらえることなく,沿岸零細漁業へと 洗 激 し , 貧 窮 化 し て し ま うO

小稿の考察は,香焼島沿岸漁業の二転期,その端緒として民業から漁業の 分立が行われた注制末期の漁業の態様,およびわが国資本主義の原始蓄積期 に対応して商品生産の拡大=漁業生産力の発展と綱元資本の蓄積が進んだ明 治前期(分村まで)に限定するD これは明治中期における綱元資木の成熟と その漁業外への転身一一主に石炭,コークス産業投資のための準備段階に照 応する。転身以降,とくに日露戦争以後における戦後不況から,大正,昭和 の恐慌にかけては香焼漁業の沿岸漁業への出降と零細漁民の滞留=相対的過 剰人口形成のプロセスがつづく。これは呑焼漁業が,当初は島内産業の規定 者としての地位から,独占段階に入るとともに構造的沿岸漁業の底辺部へと 組み入れられる過程にほかならない。

なお,戦中,戦後の呑焼漁業は外来造船資本(川南)の島内進出を契機と し,その外業部としての資本制漁業の成立が一時期みられるが,それは統制 経済という特殊な環境と,川南という戦時新興財閥資本のもつ特異な体質の ために,極めて短命な企業経歴を終えんするoそして1967年,香焼の陸継島

(5)  化に伴い香焼漁業は物理的にも壊滅するにいたるのである。

以上が,本市~SI乙課した分析視角と時期であるO

(1) 沿岸漁業とは漁業院を韮尚として経営される海面漁業の総称であって,漁業法の 指定するトローノレ漁法,以西機的底曳網漁業および母船式漁業,捕鯨業およびカ ツオ・マグロ漁業ならびに内水面漁業以外の漁業である。『漁業法』第146 l

(2)  羽原又吉『日本漁業経済史~ (ド巻)参照

(3)  i日前「原始奇蹟j自における西九州畑作良栄の変貌杭造J (W地方史研究』第11 4守所収)は,同じ問題視向から12業について論究したものである。

(4) 向坂訳『資本論~ (岩波)ill2, 377頁 漁 場 と は , 一 般 に 労 働 対 象 そ の も の でなく,労働対象の生育の場であり「自然」の一部である。すなわち,漁業にあ

(4)

つては労働対象は回続する魚群であって,その拍主主=生産は,漁船その他の労働 手段を通じてのみ可能となるのである。

(5)  乙の時期に関する一連の関連研究には次のものがある。

河地貫一「限界炭坑島の資本主義展開序説J(rr経営と経済』節目3号) 前川忠良「松尾造船・川南工業・三菱造船J(同第115号)

有国辰男「幕末・維新期の石炭産業のー側面J(同第116号)

香焼島における漁業の分立 一 一 法 制 末 期 の 漁 業 ー ー

(1)  地先漁業=採取漁業

香焼における漁業の原初形態は,民業と不可分に結びついた地先漁業=採 取漁業であったと考えられるが,法制末期 (=19世紀)における香焼の漁業 は,農業から漁業の分立期としてとらえることができ,既にそれは,香焼島

=農業t r立ノ尾島=漁業という形態で分化しはじめていた。

大正7年『郷土誌』によれば「由来本島(香焼島の乙と,筆者注)は水田 に之しく,品地は殆んど丘なれども地味は肥え……,気候温和なるを以っ て,甘諸には最適せるを以って,元農を以って生業とし,蔭ノ尾は漁業を以 って専業とせり」とあり,指呼の聞にありながら香焼島は農業,蔭ノ尾島は 漁業と,基幹産業l乙対象的な相違のあったことを指摘しているo 文末附図 参照)

これは藩制期の身分をそのまま記載している『任申戸籍Jl (明治5年)に よってみても,香焼島には全く漁業者を見出しえないのに,蔭ノ尾島にあっ ては全戸39のうち漁業と明記されたもの6戸を数える乙とによって裏づけさ れる。農業の島=香焼,漁業の島=f答ノ尾という相違は,両島にみられる自 然条件の著しい差違に因ると言えるが,これをもって直ちに香焼島における 漁業の欠除t j法ノ尾島における農業の欠落と速断することは危険であろうo

『壬申戸籍』の職業区分が,もっぱら幕藩体制下の身分制=貢租賦課義務に よってなされ,高持百姓のみを農としていることから類推すると,漁とは海 成負担漁民とみるべきであり,民業の島=香焼には海成の欠除,漁業の島=

(5)

19世紀後半における沿岸漁業の変貌構造 71 

ほノ尾には年貢(米)の欠落とみるのが当をえているのであろうD

ともあれ,今日確認しうる史料をもってする限り, 18世紀末葉までの香焼 漁業(蔭ノ尾を含めて)は,制度的には蔭ノ尾島の住民によって支えられて いたと考えるよりほかない。その漁業の実態がいかなるものであったかにつ いても全く手掛りをつかみえないが,ただ文政年間 (19世紀初頭)の編纂と

カゲオ

いわれる『長崎名勝図絵~ (長崎県立図書館所蔵)のなかに「蔭l峡」島とし て紹介され,その中の小字名として,網破早瀬l崎(アミヤブリハヤセザキ) と海老瀬(エピゼ)の両地名がみられることから,この近海が好漁場であ り,網漁業が既に行われていた乙とが推察されるにとどまるのであるo ( 示省略)

なお, /1Stノ尾=漁業,香焼=農業という地域分化は低生産性と自給経済の 当時にあっては,主として自然的条件によって規制されたものであり,商品 経済の発展のもとで形成される産業の地域間分業とは,おのずから異質のも のである。かかる前期的産業分化は隣接硫黄島にもみられ,島内lこ硫黄村,

大名寺村の二村があるうち,前者は住民全部が漁業に従事し,後者の住民は す べ て 農 業 に 従 事 し て い る ご と く 法 制 期l乙は各地l乙存在していた。深堀誌 にあっては,平戸誌におけるごとく浦=漁業,郷=農業という明確な支配区 分は認められない。ただ「米遣いの経済」といわれる当時にあっては,基幹 産業はあくまで良業と良民におかれていたことは当然であったし,初めに指 摘したごとく,農業の附属物としての地位に,漁業はとどまっていたとみる べきであろう。それは生産力についてみても,採取的段階にとどまっていた

(1)  漁業にくらべ農業は生産手段の面でも格段にすすんでいたからであるo

ところで,香焼島と蔭ノ尾島については,単に産業基盤が異ることから,

農業の島香焼の優位性が類推されるほかに,支配形態としても,香焼は一個 の村となっているのに, 15ノ尾島は本村深堀の配下に組み入れていたことか らも,呑:協同が隣接諸島の中でも社会経済的により進んだ重要な地位を占め

(2)  ていたと思われるo

経済外的事由はしばらくおき,同じ隣接の島高島について iもと深堀村 (3) 

と呑焼村の草刈烏として無人島であった」といわれることからも,呑焼島が

(6)

農業の島として属島を有し,深堀本村(城下町)と比肩するほどの地位を保 有した時期のあった乙とが知られるのである。

言うまでもなく,封建権力による年貢米確保と夫役賦認のための当然の反 対給付として,肥料草・涜採取のための入会は地先,原野=島帆 l乙認められ ていた。従って呑焼島周辺において,海成の対象となるごとき漁業がかりに なかったとしても,地先漁業として志まれたE古墳にあり或程度の漁業の展開 があったことが推察されるのである口

(4) 

地先漁業の一定の展開を示す例としては,明治 9年の県資料に次の記録が あり,当時少なくとも香焼島周辺3ケ所で地先漁業の行われていた事実を示 しているO

呑焼名字栗補外 2ケ所 採深場

深堀村受 50

香焼は当時,大小区制の下で深堀村に含まれていたが,課税の対象となっ ていることから,この採藻はコヤシモを指すのではなく,より商品性の高い 海藻(ワカメ,ノリ,テングサ等)の採藻場であったものと思われる口当時 一般にみられた地先水面の占有利用的採取漁業は,封建的良栄のー属性とし て当然の権利であり,明文化されるまでもなく課税されるものでもなかった からであるD もちろんかかる地先漁業の商品化がいつ頃から始まったかは明 らかでないが,この島の地先海面がどぐ近年まで海草の好繁殖地だったこ と,長崎港という市場に近接していることから,地先漁獲物の商品化はかな り早くから達成され一定の展開をみているものと考えられるO その証拠に,

後述する外来漁民の先進的漁業技術の導入が,蔭ノ尾ではなく香焼島住民に おいて極めてスムーズに果たれるのであるO

(5)  (2) 網 組 漁 業

前述したとおり封建身分としての漁民は香焼島にはいなかったが,デ・

ファクトの漁民は農民のベーjレの下に存在していた。享和元年の『網ノ浦鮪 網太子名所覚帳』は当時の網組漁業の存在を示すものとして唯一の現存記録

(6) 

であろうo これによって当時の漁場制度の一斑を推論することができるo

(7)

73  19世紀後半における沿岸漁業の変貌構造

この文書は呑 乙の両部落は「網ノ浦」として鮪

しぴあみ

網(シビアミ)漁業に従事していた。深堀涯における鮪網はは,すでに16 言うまでもなく「太子」とは当時漁師を呼んだ別称であり,

焼島の中心部落,里と浦に関するもので,

紀において行われており,先進地と目されるから香焼におけるこの存在は不 (7) 

思議ではない。以下『党帳』の記載をそのまま転用し, その内容を検討する

(註記)W覚限』はヨコ長・和紙・和綴・表紙はタテ長タ テ書(タテ 39.0cm,ヨコ 13.5cm)内容はヨコ長 タテ書き墨筆である。 0印は墨の浪度から後日の ものと思われる。@は恐らくO印を訂正(沫消) したものであろう。人名の上にあるカッコ iCJ

印もそのまま聞した。

乙とにしようo

4 μ H Z V

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士 口

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二漁方

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l.  涼1

(8)

1 . 漁 方 太 一 蔵 O

1 . 漁 方 O

1.  治、方 伝 太 郎 O 1.  漁 方 bi O

〆て 拾 弐 口

下 組

1.  漁 方 O

O 1.  漁 方 幸 一 蔵 O 1 . 漁 方

庄 六 郎 1.  漁 方 彦 太 郎 ( 2 9 1.  託.u方 太 一 蔵 O

1.  漁 方 ( 重 四 平 伊 三 郎 O 1.  漁 方

浅 太 郎 O 1.  漁 方 伊 三 次

1 . 漁 方 O

1.  漁 方 万 次 郎 O

1.  漁 方 O

1.  漁 方 O

1.  漁 方

重 蔵 O

〆て 拾 三 口

(9)

75 

与 惣 太 郎

hF

19世紀後半における沿岸漁業の変貌構造

1. 

1. 

i 1. 

i 1. 

以上を集計すると第 1表のごとくになる。

句 句 一 牛 択 一 2 0 0 2 0

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;

1

(

年一数一人

3ouo

)一一口 {

0 4 6 2

0

tq

1 4

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和一人一日

0 8 6 1

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1 2 1 2

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‑ 8 

13 0 0 + 7  

‑14  11  + 7  

:t  4 O

4 O

29  38  29 O

10  0 10

11  0 22 14  27  27 13 ‑ 1  (注) 前出『網ノ浦鮪網太子名所党帳』を集計したもの

①  「後年」とは同l限記入修正の年(年不詳)

②  「口数」のうち0.5は半口を示す。

③  人数のうち f2i魚方」は明らかに同人ないし2漁方としてある以外は別 計した。

鮪網組漁方(人数,口数)の推移 l

1 2

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3 0 7 4 2  

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1 2

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(10)

『党帳~ I乙名を連ねる漁師数は延49人,明らかに同人としてある者を合計 すると48人,さらに2ケ所以上に名の出てくる者,万次郎,査平,霊肢をそ

りょうかた

れぞれ同l人とみなすと34人となるo 口数の潟、方数とが同数なことは,漁業 権に対する持ち分を意味しているo里上,旦下,捕の三組のうち,最も持ち 分の多いのは里下組で,旦上組がそれにつぎ,泊‑組は最も少ない。それぞれ の網組が,別々に網を保有していたものか,或いは鮪網代を別々に占有して いたものかについて『党帳』は何も語ってくれない。だが19世紀初頭,鮪網 組がこのように整然とした形で存在していた乙とは判然とするであろうO

いま,数年後に持ち株配分の変更を行ったと推定されるO印をもって再集 計した時系列の変動を対比すると,口数全体としては不変であるし,また各 組ごとの口数も変らないが,漁方持分別の人数ではかなり著しい変化が認め

られるO それは一つの階層分解ともいえる現象を呈しているO

1I乙,漁方持分人数の絶対的減少があるo 3組合計の累計で38人いたも のが,後年には丁度10人減少して28人になる。持分階層別にみると,半漁方 層が全く姿を消し,代りに1潟、方の者が倍増し, i(¥{方屈が半減している。

これは1漁方居への持分集中と,半漁方庖の没落という lつの中居肥大化的 傾向となって現われている。 11h自方j自の実態は明らかでないが,恐らく 1i<<!  方持分をより有利とする条件が作用したものと考えられる。

2I乙,組別にみると,呈上組が15人から12人へ3 (2096)の減に対 し,旦下組は19人から12人へ7 (34%)の減少で最も著しく,反対に油組 では全く変動をみないといった組別でかなりの変動格差のあることである。

しかも,持分数は組ごとに変化しないのであるから,恐らく領主支配による 持分規制が厳格に行われていたであろうし,組内部での持分権の移動には鮪 漁の商品性ともかかわってかなりの激しい競争がなされていたのではあるま

ともあれ,このような激しい階層分解を思わせる持分階居別人数の変動 19世紀初頭この島の鮪網組をゆすぷるような新しい条件の生起によるも のであり,これこそ, ~信網漁業の伝来にほかならないのである D なおここ で,網組漁業の基礎をなす百姓共有漁場(村中入会漁場ともいわれる)につ

(11)

19世紀後半における沿岸漁業の変貌構造 77  いて附言しようO 冒頭にも述べたごとく本来本百姓(高持百姓〉に認められ る貢租義務への対価として与えられるものである。嘉永5年(1852)の戸口 調査によると,百姓63戸とあり,文久2年(1862)の記録では72戸,明治4 年(1871)の『窯改帳』では74戸が検出され,これらはいずれも高持百姓を 指す戸数とみてよいであろう口とするならば,綱組の持口数はほぼその半数 にすぎず一致しない。

この不一致をいかに理解すべきか明らでないが,恐らく領主支配の袖域集 団としての本百姓居全体に対して,漁場占有権=口数の配分は一応まかされ ていたと考えて大過ないのではないか。その証左として,この『覚書』にお いてすら口数の変動がかなりのテンポで進み,いわゆる本百姓屈の分解がみ られるからであるD 換言すればこの良=漁民としての網組漁方の分解は一方 では富裕な良・漁民田を形成し,他方では貧窮漁民を排出し,明治初期にお ける綱元・網子居形成への基礎を準備するのであるo

(3)  阻網漁業の伝来

この島の漁業を,農業の附属物的地位から分離せしめ独立した生業部門と して自らの足で立たせたものは,外来漁民であり,彼等のもたらした生産手 段(網技術)とそれに対応する生産関係(1種の綱元制と考えられる)であ

(81 

った。大正7年『郷土誌』によれば「究政ノ始メ防州櫛ケ浜,村井菩右エ d!下包次郎等移住シテ偲網業ヲ営メリ, コレラ漁網ノ起源タリ」とあ り,又「究政の中頃l乙至り漁業を営むもの漸次数を加え,嘉永5:~こは総戸 182に対し百姓63戸に減じ漁業家35人を計上レ…・・」と述べているD

移住漁民については,この両名のほかに多数にのぼったことは,オランダ (9) 

難船救助で知られる笠戸屋徳兵衛の存在,栗ノ1Hi部落の栗ケali徳左エ門の碑 文および、小川姓は山口県からの来住者と言われる口碑等から勘案しても推察 に雄くない。また来住者の原住地も単に櫛ケ浜に限らず,当時の移住趨勢と照 して漁業資源の泊沿がようやく表面化し始めた瀬戸内海地域一円と考えて

よいであろうO これら多数の外来漁民達を深堀誌がいかなる処遇で迎えたか 明らかでない。伝住,転職を厳しく禁止していた封建的緊符下にあって,か

(12)

かる移住はあくまで非合法のものであったに追いない。その証拠に『郷土 誌』は19世紀の中葉「漁業家35人を計上し」と記しているにもかかわらず,

それより30余年後で作成された『任申戸籍』には 1人の漁業者も見出せな いのであるO それは『郷土誌』の記述が非公式文書か口碑によるものである のに対し『壬申戸籍』は公式のものとしての公認職業であるためかもしれな い。とすれば事実上 Cdefacto)の漁業ないし漁民はあっも,法当局として は漁民として計上できなかったものであろう口

また注意さるべきことの一つに『郷土誌』の記述方法として,百姓は「戸」

をもって数えているのに漁家は「人」をもって数えていることがあるO これ は漁家自体「移住」とはいいながら,相対的にはかなり非定着性が強く,し かも単身で来住しいつでも他の地方へ移動する傾向をもっていたのではある まいカユロ

いま一つ留志すべきことは『郷土誌』が記す移住者,村井,山下の両人が いずれも漁民にふさわしからぬ「姓」を有していることである。法度をおか した移住者が公然と「姓」を名のるととは奇異とすら考えられるが『壬申戸 籍』のなかに村井喜平,山下幸太郎の名があり,それらはいずれも下級士族

「卒」にランクされているo彼等を移住漁民の後奇とする証左はこの戸籍か ら見出せないし,恐らく他国者という乙とは極力蔭蔽したと考えられるが,

大胆な類推を許されるとすれば,非定住性の強い漁民を定着させる一手段と して姓を与えて優遇し,漁業技術の導入と指導に当らせたのではあるまい か。少なくとも,探網l60人近くを要する大型地曳網技術の導入は,一定の 漁民集団が不可欠であり,かかる集団のヒエラノレヒイの頂点、に位置した漁民 が村井,山下の両人であり藩当局も乙の代表的漁民には一定の処遇を余義な

くされたと思われる。

ところで19世紀,西国諸誌における瀬戸内漁民の移住現象は,五島,西彼 杵郡,対馬にもみられる一般的傾向であった口その要因の第1は前述した瀬 戸内海における漁業技術の発展→魚群の乱獲→資源の泊渇という排出要因と 2は西国諸誌における前財政の窮之化=危機打開のための移住民受け入れ への積極策,第3におくれた漁業技術のうらがえしとしての豊かな漁業資源

(13)

19世紀後半における沿岸漁業の変貌構造 79  の賦存があげられよう。とりわけ, 19世紀初頭に香焼への移住がみられたこ とは,かかる趨勢の中でも早期に属するが,これは開港都市長崎への法制末 期にみられる人口集中現象=内外の人々が長崎港周辺へも住来したことと無 関係ではないであろうO また香焼島は深堀家の城下町深堀本村の港湾が貧弱 であったことから,入国入港船舶の最初の寄港地であったことも人の出入 が香焼島にあっては,かなり自由に行われ得たものと推察されるD

一方,移住漁民のもたらした漁法は,この島に本格的漁業発展の契機を与 えたが,伝来技術が「侃網」という以外に詳しい内容を知る史料がない。鮪 (シピ)定置網は,かなり古くから深拐に行われていたことは,さきにふれ たとおりだが,恐らくこの漁法は当時の一般的イワシ網漁法から類推して,

大型地曳網であったとみて大過ないであろう口

明治13年長崎県の行政記録である『勧業課事務法・水産の部‑水産調 (全)Jlによれば,西彼杵郡において当時使用されていた地曳網を図解してい る(図示は省く)。これは諸制末期から明治初期にかけてこの地方で栄えた 代表的網漁業であったから,恐らく櫛ケ浜から伝えられた組網は,この地曳 網がこれに近いものであったと考えて大過ないであろう。乙の網漁業は魚群 の来貯を待ってはじめて可能な原始的消根漁法であり,魚群回uliの笠宮な時 代には十分効果をあげることができるが,一度その来瀞が限界l乙達すると当 然存在理由を失なう。西彼杵一帯では明治10年代に入ると急速に衰退へ向っ たといわれるが,それは近くへの魚群図説の減少の上に,乙の網漁法が一統 ごとに50"""'60人の漁夫を必要とする人力主体の操業であり,零良的j<<(夫=網 子労働を不可欠の基盤としたから,維新後の社会環境の変化により,労働力 の確保が極めて困難となったためであった。

しかしながら,地曳網導入に代表される生産力発展の意義は極めて大きい ものであった。網糸の材質に草新的変化をもたらすとともに,規枚も大型化 したからである。すなわち在来網は菜その他の植物センイを素材としていた のに対し,新しい導入網は麻糸を使用し,細かく強靭な網目のため拡張力,

伸縮力ともに強く,かつ腐敗の程度も比較的おそかった。麻網の普及は, 17  世紀まず近散からはじまり,瀬戸内漁民はそれをもとにして,各羽:のtN巧な

(14)

漁網を製作工夫し,漁獲高も著しく増大するに至った。 18世 紀 瀬 戸 内 に お け る魚類資源、泊渇の最大の要因は,かかる網漁業による乱獲にあったといえる

(11) 

のであり,それが19世 紀 西 海 区 と り わ け 長 崎 近 海 へ の 漁 民 移 住 へ と 展 開 す る の で あ る 後 述 , (3)漁 業 生 産 力 の 発 展 , 参 照 )

註(1) 漁業はもともと民業にくらべより強く自然条件に支配される。したがって, 自然 条件の許す泊四において,零細な良耕生、活の補完的よりど乙ろとして営なまれて きた。羽原又吉氏はとれを, r半民半iJflJr半漁半良」というこタイプ=二段階 として山根される。同氏『日本漁業経済史~ (上)

(2)  法制期における呑焼島支配は,呑焼村と呼ばれ文化4年(1807)初めて庄屋制を 定め,毎年10月交替,他IC年寄役12名をおいた。また村内を組制l己分け組頭

をおいた。

当時は, I持品i珪ノ尼は本村深掘に属していたため嘉永5年の戸口調査には当の ほノ尼の分は合まれない。両者が統計上一村として計上されるようになるのは明

治31年の分村以降のことに属する。(前出『郷土誌~

(3)長崎県『市町村勢要覧』昭和33年版27頁。この島への住民移住は五平太に代表さ れる石炭発掘を契機とした。(18世紀〉

(4) 長崎県『各区鮪・ mm網代税・箇所限調書~ (明治9年)県立図書館所蔵。

(5)  r網組制jについて

生産手段の共有を基礎として成立する低位生産漁業段階には,全国各地の漁村 にみられたといってよい。一種の村落共同体経営の漁業だが,徳川末期には漁村 内部の階層分解が進み,二野瓶氏も指摘されるごとく漁場の利用・占有形態は,

「大体百姓の共有であり,そのなかでの持分の分化が進んだ形態」であり,総有

=平等行使権という性格は喪失していたとみてよいであろう。同氏「明治維新と 漁業制度J(W漁業経済研究』第7巻第1‑‑3号所収)

(6)  この『覚恨.lI,こ対応して,経営収支を記した『大福帳』が作成されていたものと 推察されるが,それは散失して確認できなかった。

(7)小倉幸義「姐揚繰網漁業展開の一考察J( W漁業経済研究』第17巻・第l号所収,

50頁より)

「天正年中(157391年)に福田大和守平忠兼は,野母半島の深堀から右馬丞と いう者を呼び寄せ,福田村手熊在日竜崎(タンザキ)を見せると,いかにも鮪網代

(15)

19世紀後半における沿岸漁業の変貌構造 81  に適した浦ということであったので,右馬丞を頭として鮪網代を取り立てた。こ のところをもって網代石に右馬丞と銘を彫りつけ毎年一度つやっ祭を行なった。」

(8)  例えば『郷土奈留.] (昭和37年)によれば明治初期,他国人=瀬戸内漁民活動の 状況(恐らく幕末から萌芽があったと思われる)を次のように述べている。

四国海に恵まれ,五島灘・東支那海の好漁場を近くに持つため,他国人の着目 するところとなり,他力資本による 02人)企業の畑縫切網,畑地曳網が発生す るに至った。

(9)  この他,史ノ浦部落には宋ケ浦徳左衛門という外来漁民の碑文が残っている。町 役場下の墓地には「防州都濃郡櫛ケ浜ノ人笠戸屋徳兵衛」と刻んだ墓碑が立って いる。また,この笠戸屋徳兵衛については,難破した南蛮船引揚げについての記 録が残っている。『長崎県人物伝.](大正8年)参照

(10)  関山直太郎「近世農民と土地挙縛の問題J(和歌山大学『経済理論』第35"' 7参照)

(11)  山口和雄『日本漁業史.]29頁以降参照

綱 元 漁 業 の 展 開

一一ー明治前期の香焼漁業一一

(1)  漁 業 制 度 の 改 草

明 治 前 期 (1868""''1900年 ) に お け る 香 焼 漁 業 の 発 達 は め ざ ま し く 島 内 産 業 で 石 炭 に な ら ぷ 基 幹 産 業 の 地 位 を 確 立 す る 。 発 展 の 契 機 を な し た の は , い う ま で も な く 維 新 変 草 に 伴 う 封 建 的 諸 制 度 の 改 革 ・ 撤 廃 と い う 上 部 構 造 の 一 連 の 改 変 に ほ か な ら な い 。 こ の 激 動 期 に お け る 漁 業 を め ぐ る 体 制 整 備 は , 1868  年 ( 明 治 元 年 ) の 「 商 法 大 意 」 布 達 に よ る 問 屋 株 そ の 他 封 建 的 独 占 の 解 放 , 売 買 の 自 由 に は じ ま り1872年 ( 同5年)人身売買,世襲隷属的雇用関係、の廃 止 , 営 業 自 由 の 宣 言 な ど 封 建 的 諸 制 限 の 撤 廃 , 1875年 ( 同8年 ) の 雑 税 廃 止 , 海 面 官 有 , 借 区 制 宣 言 ( 以 下3法 と 略 称 す る ) に よ る 封 建 的 漁 場 独 占 の 崩 壊 お よ び こ れ に つ づ く 明 治10年 代 の 原 蓄 の 強 行 = イ ン フ レ ・ デ フ レ の 継 起 をへて, 1886年 ( 同19年 ) 組 合 咋 則 発 布 に よ っ て 一 応 の 整 備 を 終 了 す るO

以下,呑焼漁業をめぐる制度改草の動向を, 75年 の 13法 」 公 布 と そ の 修

(16)

正および86年の組合準則制度の経総を中心に考察するが,この約20年間は,

明治漁業確立への体制整備期に相当している。

まず1875年の雑税廃止と?毎回官有宣言ならびに借区条例の公布の志味につ いてみると,これは鉱業における1873年の日本鉱法(1870年大政官布告によ る鉱山解放の立場を引きつぐもの)に対応するもので,両者がわず、か2年の 間隔をおいて布告されていることは,漁業も鉱山と同じく絶対主義的領有の 対象とされた乙とを物語っているD 当時,鯨組などの誌営による大規校網漁 業の発注があり,他方では石炭経営におけるi宝営マニュの成立がみられるな

ど,両者にかなりの類似した性格があったからでもあるO

だが,石炭と漁業はわが国資本主義の成立発展とのかかわりあいの中で,

その役割を決定的に具にするO すなわち石炭は,産業資本形成の不可欠の

「パン」であったのに対し,水産物はせいぜい貿易見返品的役割をうけもつ にすぎなかった。そのため75年の「太政官布告」は翌年早くも漁場借区制を 廃止レ慣行を尊重するという方向への逆転がなされ,官有, f古区制の制定か ら撤廃へ急旋回するO このような政策の急変は,全国各地l乙少なからぬ混舌L や入会ifuiEiの紛争さえまき起こした。長崎県も例外でなく,かなりの混乱

が発生したが『勧業課事務待~ (明治13年)は大要次のごとく 記 入して い

漁業慣行はかなりの不公平があるので,営業の公平を確保するため改正の 目的を立て,去る明治7年発議,翌8年12月太政官第国95号をもって海面 官有の御達があった。それ以来各市の漁民等は網代の争願を陸続と起し,

その処理に彼是と困難しつつ推移してきた。そのため明治10年12月県庁よ りの布告(甲第127号)を出し, 海面諸網代拝借のやり方を改め,従来の 借区料金制(入札方法)を11年から全面的に県の貸付免許税制とし,手続 の更新を行なうこととし,免許期間は一律5ヶ年間とする I新規見立網 代」の貸付分を除き次は166月に申詰更新をなすべきこと。

つまり,新しく開発した網代以外は│日慣を尊重という政策転換と,借区l 対する国の借区料徴収を廃止し,その代り府県税を課すという制度上の改正

(1) 

がなされているD 注目すべきは,法的には75年の官達が翌76年に改正された

(17)

19世紀後半における沿岸漁業の変貌構造 83 

2 区画漁場一覧表(明治8年免許分)

網代の大きさ

(

類│場

タ テ × ヨ ヨ 坪 数

香焼寺浜新二郎 マグロ 神 ノ 島 松 40X27  1080 

楠本岩太郎 " 40X25  1000 

'1 山 下 久 蔵 40X25  1000 

深堀山口理喜蔵 ‑ 香 焼 白 40X30  1200 2942 香 焼 香 田 久 米 蔵 } F

40X30  1200 14726

小 宮 磯 吉

'1 時津幾一造 カ ン ダ イ 40X25  1000 2942

小宮磯一吉 ケンキョウ 40X27  1080 2942

小 宮 杢 重 λ'1  ピ ゼ 40X27  1080 8824

深堀小川与五郎 λ カ ン ダ イ 28X 8  160 172 小 川 中 年

(注)(1)  明治 9 年『勧業課事務簿,諸漁業免許根帳(全)~より作成。

(網代数) (免許者数) (面積) ( 属 人 7ケ所 8 別 坪

属 地 6 "  8 5720 (2)  ほかに香焼栗浦外 2ケ所Iζ採藻場あり

深 堀 村 受 50

(3)備考の税額は明治11年以降の分を参考としてかかげた。

わけだが,長崎県下での改革が徹底したのは香焼の事例からも推察されると おりかなりおくれ80年頃であった。ともあれこれによって明治期漁業の基本 路線がしかれた乙とになる。乙の3年聞は旧慣にとらわれず漁場の使用出願 に対しかなりゆるやかな許可がなされていたため,藩制期以来一貫して保持 されてきた漁業権が極度に動揺し,漁場への新規参入を許し,ひいては乱獲 と資源酒渇を招く要因となった。

明治9年『長崎県勧業課事務簿,諸漁業免許根帳全』では香焼島関係、の借 区出願9件を数え,出願人は2人併願があるため11人で,うち香焼村民は8 人であるo鮪(シピ)網代が主体をしめ8件を数え飾(プリ)網代は1件に すぎない。それ以前の漁業の主体をなしていた鰯網代の出願が一つも見当ら ぬのは恐らく!日慣として既得権を認めたためか,或いはこの年鮪,仰の来訪?

(18)

が極めて著しかったかのいずれかであろうO ともあれかつて「民業専業の 島」といわれた香焼が,深堀本村の人たちと対抗して漁場の免許を得るとと もに,むしろ数において本村を駆逐する勢いを示すことは注目しなければな ら な い ( 第2

なお第1次免許更新の直前の152.....3月に役所が島民の網代出願を調整 するために行なったと思われる「入札」の原票をたまたま町役場倉庫で発見 したので,それを一覧表にして示すと第3表のとおりであるD いかに多くの 島民が漁業に殺倒したか,いし1かえると漁業が当時の産業としていかに有望 視されていたかをうかがうことができるD しかもこれらの網漁業がいずれも 大型定置であり,相当の資本を必要とすることを勘案すれば,これらの住民 が一一一恐らく 1部は士族授産による l時金を未だ保有していたと仮定しでも

(2)  一一資本の蓄積を行なっていたことが推察されるのである。別稿でみるごと

く乙の島における商品経済展開の早熟,それに対応するかなり広範な商人資 本の形成が先行していて始めて,このような競願現象があらわれたものに違 いないからであるO

一方政府は,輸出防渇と漁場秩序のーそうの安定をねらいとし, 1886 (19年) r漁業組合準則」の公布を行なう。茶,蚕糸についても同時期l

「準則」の公布をみるが,これは,資本主義成立前の我が国貿易に占める民 水産物の地位の高さ,産業資本育成強化のための輸入への見返り的地位と役 割を漁業が狙ったことを物語っている口当時長崎港から対華貿易として,輸

す る め

出された海産物は,俵物3品(乾アワビ,総ヒレ,ナマコ)の他に防,エ

きびな

ピ,貝,鰻等の煮干類および海苔等があった口長崎県は長崎港勢の衰運挽 回のねらいもあって, 1880年(同13年)

r

物産取扱概則」を公布,郡区役所 内に「物産世話掛」をおき,

r

広業商会」と特約して輸出用海産物の精製を 促し,金融の措置を講ずるなどしているから,政府の「準則」はむしろ長崎 県の後追い的な性格であったとも考えられる口少し長いが県達の1部を紹介

(3) 

しよう。

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Japan Advanced Institute of Science and Technology JAIST Repository https://dspace.jaist.ac.jp/ Title 地域沿岸域管理の提案 : 沿岸域における利用者の価値