牙中軍統制の問題 牙中軍統制の問題
矢
野
主
税
序 ︸
周知の如く牙中軍は唐代藩鎭に於ける藩帥護衛の精強部隊であるわけ
であるが︑この牙心癖が藩鎭牙軍の中心をなしていた以上︑藩帥のこれ
に封ずる信頼度は極めて高かったわけである︒叉その反面その統制︑把
握も亦最も意を用いたととろであった︒では︑藩帥は如何なる手段によ. つて彼の牙中道を統制︑把握したであろうか︒これを藩帥と牙申軍將校
藩帥と牙申兵との關係の二方面から考察してみたいと思う︒
私は別置に於て︑唐代藩鎭に於ける藩中軍存績の問題に言及して︑何
が故に勲等軍の存績が藪十百年に及ぶものがあったかの疑問を提出し︑
更にこれの解決の爲に婦中軍の團結の問題を考察すべき事を指摘してお ① いた︒この小論に於ては︑この疑問の解決にもふれる乏ころがあろう︒
第電飾︑牙中薬校の統制︒
牙二軍統制に於て︑何よりも先づ一塩軍事校たる牙將の掌握が考慮せ
られねばならなかったことはいうまでもない︒藩帥と錐も︑﹂牙將を通じ
てのみ牙中兵の掌握は行い得たからである︒例えば︑資治通鑑雀二百四
十四︑太和五年春正月の條に︑
庚申︒盧龍監軍奏︒李載義與勅使宴謹辞場︒後車副兵馬使楊争覇與其
徒︒呼喋資糧︒
という如き︑或は同書巻二百二十四︑大暦七年秋七月の條に︑
青龍節度使朱希彩−⁝・淺爆管卒︒孔目官話懐画因衆怒︒三間殺之︒衆
未知所從︒経略副使朱灌螢於城北︒其弟稻將牙内感︒楽楽百曲人於衆 中大言日︒節度使非朱副使不可︒衆皆從之︒ とある如く︑或は己の掌握する毛髪兵を以て反齪を起し︑或は軍衆を煽 動するという如きことは︑屡々史上に見えるところであって︐知計たる 者がよく部下語中兵を掌握していたことを示すものである︒ 從って牙中締統制︑把握の鳥には︑直接牙中売を掌握しているこの牙 將を掌握することが必要であり︑その爲には藩帥と牙將の關係を常に密 接ならしめる如き方法がとられねばならなかった︒その爲に考えられた のが︑第一に血縁的乃至は欝血隊的結合關係を利用することであり︑第 二には個人的人格的結合關係の利用であり︑第三に特別の場合があった︒ 第一の場合に重ては︑①兄弟︑或は子弟︑或は一族の者を牙將に任命す る場合と︑②姻族關係にある者を任命する場合とがあり︑第二の場合は の永く藩帥に從事し︑親子代代主從關係を結ぶ場合と︑②文それ程でな くとも相野に永く藩帥に從馴して︑緊密な關係がその聞に成立している 場合があり︑第三の場合は特に藩帥が信頼をよせて任命した場合があっ
た︒先づ第一の場合の兄弟︑子弟︑一族の者を任命した例をみるに︑蕾唐 書巻十八下︑宣宗本紀によれば︑ 大中十一年⁝⁝二月︒⁝ド:以成徳軍節度鎭翼深趙観察虚器等使︑起復 雲起忙種.守左金吾衛大鰐軍同花︑検校兵部儒書︑鎭州大都督短長史 王紹鼎︒爲銀青光緑大夫︑検校術書強健射︒絵恋猫故︒⁝⁝三月目起
復朝講大夫︐深州刺史︑御史大夫︑兼成徳軍節度判官王紹灘︒可検校
6 一
一
左散騎常職︑鎭府左司馬知府事︒充成徳軍節度副使︑幾充都知兵馬使︒
以成徳軍中衛兵馬使︑銀青光緑大夫︑検校太子賓客︑簑監察御史.上
柱國王景胤︒可本官深州刺史︑本州團練守促使︐槍校擁立糧嚢侍︒右
紳武大言軍知軍事王紹孚︒可落起復︑依前門棘武大將軍︒紹諮︑紹孚
鎭州王紹鼎之弟也︒盛業︑紹鼎之子也︒
とある︒これは成徳軍が王紹鼎︼族によって固められている例であるが ⑨ かくの如く節度使が自己の節度を固めたのは普通のことであった︒この 様な場合に心中軍も亦一族の手によって掌握されていたと考えられる︒
この成徳軍の場合︑中軍兵馬使王景胤は節度使紹鼎の子であったのであ
る︒或は叉︑資治通下巻二百五十八︑大当元年夏四月の條には︑宿州將
張鏑逐刺史張紹光︒附干時博︒全謹話諸軍討之︒博出兵掠端山︒ 全忠遣牙三都指揮・使朱友裕︒撃殺三千庶人︒檎石君和︒友裕︑全忠之
子也︒ とあり︑同書巻二百六十五︑天蕨元年八月遅條には︑
宣州観察使豪語卒︒篤行密葬其子.牙内業軍使渥爲宣州槻察使︒
とあるが︑共に子が牙内軍を統率した例である︒更に︑奮唐書巻一意五
十六︑韓搾山允儒冊によれ帥は︑
充依舅玄佐︒歴河陽昭義牙將︒及兄弘節制宣武︒召蹄主親兵︒奏授刀
史大夫︒
とあるのは︑弟を以て牙中軍を掌握せしめたものであろうし︑同書雀一
百四十一︑田弘正傳には︑
田弘正本名興︒⁝⁝補講之第二子︒⁝⁝伯父承嗣愛重之︒歯応安之世
爲衙内兵馬使︒
とあるのは︑族人に牙中軍を委ねた例である︒或は又︑資治通鑑巻二百
四+八︑會昌四年閏月の條に︑
灘人聞三州降大挙︒暦書︑王協︑謀殺劉積野宮贈︒旗雲從画龍軍使匡
周鍍隠勢︒誼患之︒言於積日︒+三郎在牙院︒・諸語言言莫敢事︒恐爲
牙申竃統制の問題 十三郎所響町獲罪︒以此失山東︒今誠得十三郎不入︒則諸嬢始敢誰言︒ 釆於衆入︒必獲長策︒積召匡周鍮︒滞貸病不入︒匡周怒日︒我在院中︒ 故諸將不敢有異圖︒猿江院︒家必滅突︒ と記すところによれが︑劉積の磁器兄匡周が牙中宮を掌握し︑以て藷將 を抑えて劉氏一族の重鎭であったことが明である︒ さて︑以上の藷例は︑一族兄弟即ち血縁關係にある者を以て牙詰軍統 率を行った例であるが︑これに評し︑準血縁關係者︑即ち姻族關係者を 以て牙將に任命した例は︑奮郵書春㎞百四十五︑李忠臣傳に︑ 忠臣性前篇好色︒將吏妻女多被誘脅以通之︒叉足無紀綱︒所黙黙暴︒ 人不堪命︒而以妹婿張恵光竪町將︒侍勢望虐︒⁝⁝俄以恵光爲節度副 使︒令恵光子爲衙將︒陵横甚斜影父︒ とあり︑或は叉同書巷一百四十二︑王士眞傅によれば︑ ハ 士眞︑武俊長子︒少饒桿冠於軍中︒況謀有断事︒李寳臣爲帳中野將︒ 循以女妻之︒⁝⁝左右謂惟岳日︒先相公委任武俊︒詩嚢大夫︒蓑有治 命︒今我肝謄︒爲大夫者武俊耳︒叉士眞即大夫妹婿︒保無異志︒ とあるが︑前者は妹婿及びその矛を以て衙將に宛てた例であり︑後者は 娘の婿を以て帳中親將即ち衙將となし︑主將の特別なる親任が與えちれ ている例である︒ 更に︑妻の一族を以て宛てた例は︑冊府元鐘雀四百七十一﹃事事部に
李悪爲宣武節度使︒⁝−悪復令愚妻弟蜜墨黒親兵︑宿直衙内︒
と見える如きがある︒
次に第二の場合に於ける︑親子代代主從關係を結んだ例について考察 しよう︒奮唐書雀一百四十二︑王廷湊傳によれ.ば︑
玉廷湊︑本廻鵤阿布思之種族︒世隷安東都護府︒始点解毒寄之︒事李
寳臣父子︒王武俊養爲假子︒醗果善闘︒武俊愛之︒⁝⁝租︑父世世爲
正氏騎將︒累遷右職︒廷湊製麺寡言︒雄猜有噺︒煙害承元意馬兵馬使
とあるが︑これによれば廷湊の曾祀泥寄之は王武俊の假子となり︑その
7
一 一牙申軍統制の問題
後組父も父も共に代々王氏に仕えて騎將となった乏いう︒五誌上はその
武勇を買われて王武俊の假子となったのであろうが︑その假父子關係は
代々爾者の關係を緊密なものたらしめたらしく︑廷臣に及んでは︑武俊
の孫承元の三内兵馬使となったのである︒これ親子代々主從關係を結び ③ 世々藩帥の信任する武將となった好例である︒
次に永く藩帥に名品し距場合の例を見るに︑資治通計巻二百六十四︑
天復三年祭十月の條によれば︑
雪隠︒︵劉郷︶始出汐︒⁝⁝逡螂詣大梁︒⁝⁝全野慰螢飲之酒︒僻以
量小︒全忠日◎取蜘冗州︒量何大臣︒以爲元魚島押牙︒此時四鎭將吏︒
皆功臣奮人︒郵一旦以降將居留民︒諸賢具軍禮︒拝遠見︒螂三廻自如︒
と見えるが︐此等功臣︑助人とは.胡三省の註によれば︑
朱全江迎車駕干鳳翔︒野芒臨監迎攣果毅功臣︒薔人與全忠出入行聞最
久者︒ という如き者で︑此等の人々が︑朱全忠所領の四鎭の將吏であったので
あって︑湯中軍將校も是等の永く朱全忠につき從つた人々によってなっ
ていたことは︑奮五代史巻二十三︑劉郷伝に︑
太租牙下諸將皆四鎭醤人︒購一且以麗族之臣︒麟居衆人之右︒
といえるとろによって明であろう︒以上の如く︑牙中軍曹校には藩帥に
永く從事し︑特に深い主從關係を結んだ入汝が任ぜられることも多かっ
た︒
次に第三の場合の例としては︑前述の二郷の如きも降將であるにも拘
らす︑特に信任重用せられた例であるが︑更に奮愚書巻一百三十一﹃李
瀬傳には︑
初誤射琳豊野︒悪童騎至柵下︒與激語︒親澤其縛︒署苗齢將︒秀琳感
恩︒期於効報︒⁝⁝瀬乗聞常語︵李︶肪及李忠義︒屏人而語︒或至夜
分︒忠義亦降將也︒
とあるが︑この昊.秀琳︑湯量︑李忠義は拝呈將であるに拘らず︑李懇に
,
よって非常な信任を受けたのであったが︑この申︑李鮪は特に信任厚く ④ 山南東道節度の一中軍たる六院兵馬の統一を委ねられたのであった︒他
の二入も亦︑牙中軍営校に任ぜられたものと見て間違いあるまい︒この
記事に引つ聖いて雲壌書は︑
鮪始募敢死者三千人︒以爲突將︒朔脚自教習之︒⁝⁝十月將襲察州︒⁝
:・十日夜︒以李砧違警將三干爲先鋒︒李忠義副之︒
と述べているが︑これ李朔心が准西の姦雄呉元濟をその居城に襲った時の
ことである︒その先鋒が砧並に忠義であったことは︑彼等が如何に李懇
に信任されていたかを物語るものであろうQ
以上三つの場合︑即ち︑①血縁的乃至準血縁的結合︑の個人的︑入格
的結合︑働特別の結合の三形態のうち︑第一の場合が特に多いようであ
るが︑これは軍團結合の契機が血縁的乃至は準血縁的なものであること
を意味するわけで︑特に注目すべきであろう︒
兎に角︑牙中業の憶想たる者は︑藩帥と極めて密接な關係にある者が
任ぜられたのであって︑それは牙中耳の性格から考えて當然のことであ
ろうQ史上に明確に現われていない場合と難も︑この隔りの場合に含ま
れものと考えて大過あるまい︒
併し乍ら如何に緊密な關係があろうとも︑何等かの理由によってその
緊密さが破れることも︑決して珍らしくはなかったのであるQ即ち牙中
軍將校の藩帥に樹する反逆は屡々見受けるところである︒今一︑二の例
をあげてみよう︒蕾唐書巻㎞百四十二︑王学翼傳をみるに噛
左右謂惟二日︒先相公委任武俊︒以遺大夫ゆ築有治命︒今披即言︒爲 ず 大夫者武俊耳︒叉士眞即大夫妹婿︒保無異志︒今勢危急︒若不坦懐待 之︒若更如康日偏︒即大事去夷創惟薄日︒我等武俊自厚︒不猫先公遺
旨︒当鉦無疑︒即令急潮攻趙州︒士眞更宿患府衙︒與同職遺事︒及武 俊倒曳Q士眞等籔人︒檎惟岳出衙︒経死之︒
と述べている︒王武俊父子は惟岳の父子寳臣の信任を受け.士翼は寳臣
8
脚 剛⑤ の娘婿であり︑且つ帳中親指であることは既に述べた所である︒一って
旧臣の死後も︑武俊父子は惟岳の股肱として人々も信じ︑惟一自らも信
頼をよせていたわけであるが︑俊が惟岳に叛して麟朝せんとするや︑弓 場は直ちに府衙に惟一を唄えてこれを殺したという︒父子二代に亘って
信任せられる主一時係にあり︑且は姻族關係迄も績んでいた親將と難も
﹈朝にしてその府衙に於て反するということすらあったのである︒
次に第二例として︑冊府之轟巻四百三十七︑將底部によれば︑
三悪爲宣武節度便︒⁝⁝而懸悉其奢修︒門内敷百ロ︒皆仰給官司︒不 憧軍政︒賞賓既不及弘靖時︒叉娯酒色︒不親政事︒以嚴刑駅下︒人心
皆怒︒懸復讐其妻弟鰻緩領親兵︒宿直寺内︒緩素驕恣︒顯三無厭︒兵
士念之︒於是宿直將李臣則︑聾志忠︑秦隣等三人︒一入之凝結七号鰍
夜一宿直刀︒入饗緩帳︒認証首︒因大呼︒衙内聞而響︒途叩悪門︒悪 與一受諾左右十数人︒黒髪而走︒
との記述がある︒宿直將というのは︑いうまでもなく︑牙申軍の衙内に
宿直せる將校であろうが︑彼等三人は牙講中の統率を委ねられていた賢
緩を殺したのみならす︑途に藩帥を城外に追激ってしまったのである︒
衙城内に宿直せる將校が︑藩帥の失政をせめて反するに至っては︑全く
牙中軍たるの意味をなさないわけである︒ 第三例として次の如き例をあげることができる︒資治通馬巻二百四十
二︑長慶元年秋七月の條には︑
初田弘正受詔鎭成徳︒自以久徳填入戦︒有父兄之仇︒乃以還兵二千從
赴鎭︒因留以自衛︒⁝⁝都知兵馬天王寺湊本志馬歯布思之種也︒性果
翠陰狡︒潜智嚢齪︒黒眉其︑細故︒以激怒之︒禽以魏兵故不敢獲︒及魏
兵去︒壬戌︒夜庭誤謬憲兵︒諜於府署︒殺弘正及僚佐︑元從將吏沖家
薦三百愛人︒庭岩棚稔留置Q と述べているが︑これは魏博より成徳に移った田弘正が︑魏博より連れ
來つた親衛軍二千を魏博に還した後︑成徳の牙内心知兵馬使たる墨黒湊
一牙中竃・統制の聞魎 が︑成徳の三内兵を旨して田弘正を殺した事件である︒この場合は︑魏 博と成徳の間の從.來の攻伐や︑−或は前述の如く︑四目が代々王氏に仕え て特別の主四月係を結んでいたことや︑更に︑田弘正が魏博の兵二千を 以て鎭人に臨んだことに封ずる反感等も勿論あったであろうが︑廷湊自︐ 身の性格が果桿陰狡︑詐謀を好んで︑自ら節︒度使たらんとする野望の故 の反逆でもあったであろう︒ 第四例として︑資治町彫巻二百六十六︑開平元年春正月の條の︑次の 記事をあげよう︒ 准南節度使袋侍中︑東西諸道行街街統︑弘農郡王命渥既得江西︒驕恣 釜甚︒・⁝:渥居喪︒書夜酎飲作樂︒⁝⁝左右牙都指揮使張顯︑徐滑泣 諌︒渥朔日︒汝謂我不才︒何不殺我自爲之︒二人催︒⁝⁝顯︑淵潜謀 作齪︒渥父行密乱世︒有親軍瓦町︒螢牙城之内︒渥遷出山外︒以共地 爲射場︒顯︑三三是無所揮︒⁝丙戌︒渥農覗事︒願︑濡.帥牙兵二百︒ 露烈直入庭中︒⁝⁝因数渥親信十野人之罪穿下︒以鐵樋撃殺之︒ と︒これ楊行密の生存中にはその子渥の保護に熱心であった野駈都指揮 使徐温と左牙都.指揮使張顯とが︑渥が鶴野となった後專ら遊樂にふけっ て政治を省みない爲に︑自らの率いる牙内覧を以て︑渥の親信する十飴 入の罪を責めてこれを殺したというのである︒ さて︑以上四例を見るに︑夫々表面的には相當の理由がある︒第一例 に於ては大義親を滅すという立場が考えられ︑第二例に鞭ては︑君︑君 たらすんば︑臣︑臣たらすという立場が考えられるし隔第三例は︑君父 の仇は倶に天を戴かすといえようし︑第四例は︑君側の姦を除くという 理由がつけられる︒而も此等四例を通じて看取出論る共通の黙は︑自ら の立場を最も有利に展開せし.めんが爲の謀反であることである︒ 勿論牙中軍將校が︑藩帥と密接な關係にあり︑常に彼等が協力的な︑
一体的な行動をなしたことは言うまでもない︒けれども術且つ︑自らの︑
立場を有利ならしめる機窓がある場合には︑常に藩冷えの抗孚が用意さ
9
轍 蝋牙中軍統制の問題
れていたという黙を考えねばならない︒元和末孟宗が准西亭定の飴威に
乗じて︑潤青の李師道を征討した時︑師道の部下劉悟が︑
今天子所要者明室一入而已︒悟與公等皆家所駆迫︒使就其其︒何如︒
殺其指使︒整覧以取邸︒立大功︒韓危亡霊富貴耶︒衆成日善︒唯都下
所命コ ④ という態度に出でた如く︑巧に機會をとらえて富貴に至る道を拓くこと が考えられていた如くである︒既に引用した如く︑劉匡周が劉積に野し
て︑
我在院中︒故意將不敢有異圖︒我出院︒家必滅突︒
と警告した言葉を︑こ瓦に想起すべきであろう︒奮唐書聖一百四十二︑
李惟岳傳に︑惟岳の舅谷從政が︑惟岳の田悦︑李正己と連盟して朝命を
拒まんとしたのを諌めた言葉を記して︑
至是営農岳之謀︒慮其覆宗︒︒馬出諌惟岳日︒⁝⁝而況今之將校牢有義
心︒因利乗便︒必相傾陥︒
とあるが︑誠に利によって動き︑便に乗じて策動した當時の將校の態度
を端的に表現せるものであろう︒奮唐書巻一篇四十二︑王承元傳に︑
承元詰之日︒⁝⁝前者李師道未敗時︒議赦浄罪︒師道欲行︒諸將止之
他日殺師道亦諸鐙也︒今払超幸勿爲師道難事︒ と述べたるが如く︑藷將就中牙中飴興校は藩帥め直接掌握下にあったで
あろうけれども︑逆に藩帥も亦︑藷將の牽制下にあったといえるのであ
るQ 第二節︑牙旗兵の統制︒
牙中軍は馬飛の最も親信する高屋であり︑且つ精鋭の部隊であるが故
に︑それを常に自己の掌中におく爲には︑細心の注意が梯われねばなら
なかった︒牙中軍將校に野する用意もその統制の爲の一手段であったわ
けである︒では︑更に進んで︑藩帥は直接牙軍兵に聞しては如何にこれ
を統制して︑自らの爪牙.として活動せしめたであろうか︒ 今黒帯のとった方策を大別すれば︑一慮懐柔策ど抑警策とにわかれる ようである︒とはいえ︑如何なる方策にしても︑自らと習熟兵とを密接 に結びつけて︑牙申兵をして自己の意のままに動かし得る如き掌握を行 うことが主眼であって︑必ずしも懐柔︑抑墜等とはつきり匝思し難い場 合が多く︑寧ろ爾者併行して行われることが︑㎞般的であり︑叉自然で もあったようである︒而も是等の方策に鷹じて︑野中兵の側からも夫々 寡勢があったことも勿論であって︑それも併せて考察することとする︒ 旧唐艶目雀一百八十一︑羅弘信傳によれば︑ 魏之牙中軍者︒自至徳中田承嗣盗擦相︑魏︑漉︑博︑衛︑貝等野州︒
む ら召募野中子弟︒置之部下︒途以爲號︒皆豊給厚賜︒不勝驕寵︒ とて︑魏博牙中脳の優遇歌態が述べられ︑同書巻胴百五十六︑李質伝に
は︑詔配賦充鎭渉︒充未生︒質穣知悪口事︒使衙牙兵二千人つ皆日給食酒︒ 物力爲之損屈︒ ζ とい玉︑費治通鑑巻二百五十六︑光啓三年二月の條には︑ 鎭海節度使周寳︒募親軍千人︒雪後模兵︒稟給螺髪鎭海軍︒鎭海軍皆︐ 怨︒而後添兵浸驕︒不可制︒ といって︑爾者共に牙中事が他の牙兵に悪し極めて優遇せられていたこ とを示している︒これ等一︑この例によっても明かな如く︑牙中差に干 する物質的優待によって︑彼等の懐柔が行われていたのであった︒既に 述べた如く︑將校と錐も︑利を以て動き︑便に乗じて離合するものがあ ったが︑牙申兵も亦かくの如く喰わすに利を以てして親軍として活動せ しめだのであった︒從って.叉︑利を以て誘わるれば如何なる猛撃をも僻 せない場合すらあった︒例えば︑資治⁝通鑑巻二百四十八︑會昌四年閏月 の條に︑ 劉樹年少儒弱︒押尊王協︑宅内兵馬無二高貴用事︒⁝⁝積込素服出門Q
以母命署誼都知兵馬使︒王協己戒常餐︒積治装於内廃︒李士貴聞之Q
10
嘱 騨書込三兵数千攻誼︒動体之日︒中尊自取捨物︒淫欲與李士貴書桜煮︒
軍士空母︒共殺士貴︒
とあるが︑宅内兵馬使李士貴は︐簾中去たる後馬軍の統率者であろうが
それにも拘らす利を以て誘わるれば︑掌を返す如く叛き去り︑自らの統
率者を殺す如︐きことすら行ったのであった︒從って彼等をして常に親子
としての任を全うせしめ︑るためには︑愈々優遇を加えていかねばならす
而もかかる優遇になれるや︑漸次藩帥を輕蔑し︑藩帥の意卜すると卜う
とは︑逆の結果を齎すこともあったのは︑これ亦當然の成行であった︒
例えば旧唐書巻十九上︑誌宗本紀︑威通三年七月の條によれば︑
初王智興得徐州︒召募申兇蒙之卒︑二千人︒號日銀刀︑鵬旗︑門槍︑挾
馬引軍︒民宿衙城︒自後引驕︒節度使姑息不暇︒田牟鎭.徐日︒毎與驕
卒雑坐︒酒酎撫牛︒時把板爲之唱歌︒其徒日費万計︒毎有気宴︒必先
駅食飯酒︒那寒暑雨︒屋酒三三︒然猫誼諜遜求︒動謀逐帥︒
とて︑徐影絵中軍の驕態を蓮べている︒彼等は藩帥の姑息なる態度によ
って︑時の経つにつれて驕恣となり︑優遇の上にも優遇の加えられんこ
とを望み︑最後には藩帥を逐わんとするにまで至ったというQ優遇は藩
帥の意圖に卸して逆効果を齎らしたことを示している︒事實又︑酒中軍 編成後彼等が藩帥によって優遇される期聞が永くなるにつれて︑換言す
れば時代が降るにつれて︑彼等の態度は釜々藩帥の命を奉ぜす︑己等の
欲するところを行わんとする態度に攣化していくのである︒かくて蝕に
藩帥の親軍として成立︑出獲し乍ら︑次第に黒熱に言立する如き重大な
性格の攣化を來たしたのであった︒例の断面牙毒殺について見れば︑前
掲旧唐書の羅弘信傳のつ穿きに︑
年代寝遠︒父子相当︒親爺前門︒其兇戻者︒無恥豪奪︒験法犯令︒長
吏不能禁︒攣易主帥︒有同職戯︒如皮憲誠︑何贈爵︑韓君雄︑樂彦頑
皆爲其所立︒優奨小不如意︒顎紐族被害︒
と記している︒魏博の牙中豊に重ては︑途に主帥の磨立を日常茶閑事と
牙申軍統制の問題 するに至り︑藩帥たる者が反って牙申軍の意を迎えるに汲々たらざるを 得なくなったのである︒而もとの記事に於て注目すべきは︑牙中土存績 の長期に亘ること玉共に︑﹁父子相盛︑親窯膠嚢﹂といわれる如き︑血 縁的結合關禁・その驕恣可能の蘂として指摘できることであ稿こ の魏博牙申軍は︑天壇三年春正月︑天聴軍節.度使羅紹威が朱黒忠の武力 を借りて徹底的に臓滅する迄つ璽いたのであって︑節度使に思立し︑寧 ⑧ ろ節度使を厭目倒する勢力として最も有名なものであった︒ 併し乍ら︑かかる有様は図り魏博に於てのことのみではなく︑各藩鎭 大同小異の一一であった︒例えば宣武軍の牙申軍は︑早く順順末年頃か ら存し︑且つ早くから藩帥擁立などをなす力のあったととは既に述べだ ところであるが︑その後驕恣制すべからす︑逡に大弾跳を加えるに至る のであるが︑その闇の事情を資治通鑑巻二百四十二︑長淵二年六月以降 の條には︑次の如く傳えている︒ 初張弘靖爲宣武節度使︒屡賞以悦軍士︒強運虚端︒芝原糠⁝之︒性同門︒ 賞勢既薄於弘靖時︒叉峻威刑︒軍士照雨︒懸隔其妻弟餐暖典宿直兵︒ 凶漁︒軍中張之︒牙將李臣則一作観︒秋七月︒王三夜︒即気中斬暖頭 因大呼︒府中響慮︒懸與一子︒鍮城一撮州︒織兵殺内妻ρ推都押漬李 容爲留後︒⁝⁝丙午︒疑李懸爲随州刺史︒即日霜眉宣武節度蓑義成節 度使︒⁝⁝初李寮既強聴後︒国都知兵馬使三遍爲腹心︒及寮除將軍︒ 不図詔︒質感諌不聴︒愈寄癖磯煮繭︒遣李臣則等︒將兵拒障光顔於慰 氏︒・:⁝寄疾甚︒悉以軍事鵬李質︒臥於家︒丙子O学堂監軍嬬丈壽︒ 画面殺之︒詐爲害牒︒追臣則等至︒皆盛儀︒⁝⁝韓充未至︒質樺知軍 務︒時牙兵三千人︒日給酒食︒物力不能支︒質日︒若韓公纂輯而罷之 則人情大去︒不可留此弊以遺吾帥︒即釜据給︒而後迎充︒鷹匠︒充入 渉︒⁝⁝韓濫掘覗事︒人心粗定︒乃密描眉中洲悪者千門人︒一朝弄父 母妻子悉逐之︒日敢少留境内者斬︒於是軍政大治︒ と︒即ち韓充によって主意軍の兇悪なる者の大追放が行はるるに及んで
儒
11
牙申軍統制の聞︷題
始めて軍政治まるに至ったのであるが.それ迄は厚遇に厚遇が重似られ
而も多少の綱紀の粛正が考えられるや︑叛を計って︑藩帥を逐う有様で
あったことが伺われる︒この檬に綱紀の粛正︑或は驕恣に封ずる抑塵が
藩帥によって企てられるや︑牙中中は殆どこれに害して反抗の熊度に出
たもの﹂ようである︒例えば三野之乱漫四百二十三︑將帥部によるに︑
貞元四年七月︒授張車寄鴇草節度使︒代営繕壊︒癸丑︒寧州成卒反︒
初遊蔑以吐蕃無比︒自將衆戌寧州︒⁝⁝其射乳素当言ゆ畏献甫之厳︒
既因遊壊夜警︒廷内千農人途叛︒
と見える如き例とか︑或は前述鎭海軍に於ける後客兵は︑節度使周覧の
失政と抑墜方針によって︑鎭海軍將劉浩が反した時︑これに同調して反 したと︑前引記事につ賢いて見えている︒鎭海牙中軍は︑一般牙軍に物
し︑乾鱈に於て倍するほどの優遇をうけたにも拘らす︑少しく藩帥が抑
塵的態度に出るや︑全く親衛軍たるの用をなさないのであった︒
更に我々は前掲徐州の銀刀軍等も同橡な有様であり︑途に藩く諒せら
れて牙申軍の壌滅を見るに至った例をあげることができる︒即ち冊府営
輻巻四百一︑將帥部には︑断裂紅中軍の壊滅に至る事情を記して曰く︑
及温言爲節.度使︒士卒素知璋厳︒深負憂疑︒璋開野獣論︒黒鉱管渠︒
給與酒食︒未嘗渥口Q不戦月而漁民︒乃以式代璋︒耐熱忠武︑義成之
師三千︒平定漸東賊仇甫︒便詔式帥二鎭転轍渡惟︒徐卒聞之︒催其勢
無如之何︒至大彰館︒方來迎謁︒居三周︒稿勢爾鎭兵令還︒既謄写執
兵︒即前壷驕卒書写︒徐卒三千樵人︒是日審誌︒縣是兇徒違警︒
と︒この徐﹁州軍が牙中鷺を指していることは︑旧草書巷十九上︑欝欝本
記の威通三年︑四年の條に於て明である︒この徐州町中軍に樹しては︑
屡々綿塵︑粛正の手が打たれているのであって︑例えば旧唐書巻一算六
十三︑曇霞神聖によれば︑大中三年彼が.武寧節度使となった時のことを
記して. 弘正在鎮︒暮薫習去其首悪︒業繋忠義︒詑貰受代︒軍族無畜︒鎭徐四 ︐年︒ とあって︑一時粛⁝正が行われたごとくであるが︑同書雀﹈百六十五︑温 璋傳にも︑ ︐
長屋︒諌共悪者出発翼︒自・嚢中畏法︒
とあり︑彼も亦粛正を行った如くである︒而もその璋にしても牙中軍 に逐われる有檬であったが途に成通三年七月王覇の手によって難く謙せ ⑨ られるに至ったのである︒これ魏硯北中軍と同様に︑藩帥の優遇に増長
し︑藩帥を輕んじ︑途には藩帥を放逐するの驕態を演じ︑護衛親書たるの
任とは全くかけ離れ︑寧ろ帥藩と憤慨する勢力となっている︒かかる牙中
尊の性格の攣化の結果︑途に藩帥による喰殺戦が行はれるに至ったこと︑
殊にそれが殆ど全員に及ぶものであったとは︑注目されねばならない︒
さて︑以上の如き諸例に接するのは︑各場合に於て夫々の理由がある
とはいえ︑結局雲斗と牙属兵の聞が利害得失を以て關係づけられている
ことから起るものであって︑爾者共に利によって動くことを︑その根本
的態度としていることは︑藩帥封牙將の場合に於けると同様であった︒
併し乍ら︑ここに一言しておかねばならぬことは︑藩帥の側からも︑
牙中兵の側からも軍に利害關係に拘ることなく︑それを超えた信頼を相
手に寄せた例も見受けることである︒一例だけあげておくなちば︑珊府
元輪 雀四百二十二︑將頸部に︑
嚢度爲彰義節度︑招飛騨使︒既亭謡講︒・⁝⁝於是察単調黎︒始知有生
人之樂︒度以藥卒爲牙兵︒或以爲反側之子℃其心未安︒不可自去其備︒
度笑而吉日︒吾受命爲彰義軍節度使︒元悪筆檎︒藥人群吾λ也︒汐干
父老無罪感泣︒申光之民即時雫定ゆ とあるのは︑藥州の棚元濟が罪悪の奇襲によって漸⁝く謙に服し︑鍵度が
彰義軍節度使として藥州に乗込んだ時のことであるが︑此時論度は思い
切って察卒を以て牙中兵として護衛に宛てたのであった︒爲に察人も感
激して申︑光二州も直ちに降ったというのである︒勿論かかる態度は︑
12 鳳 一
蓑度の如き偉大なる人格にして始めて可能であったのであろうけれども
かかる誠を相手の.腹帯に置くという如き例は他にもないわけではなかつ ⑩
た︒以上の考察によって︑我々は次の如き注目すべき諸黙を指摘すること
ができる︒
第一に︑始め主帥護衛の親軍として成立した憲章軍は︑年代の降るに
つれて次第に驕恣となり︑藩帥の封立者となったことである︒
第二に注目すべき黙は︐牙中書の驕恣は︑軍に藩王の優遇による増長 ということ丈ではないということである︒即ち彼等の﹁驕恣不可制﹂と
いわれるときは︑牙中学成立後多少の年月が維っていること︑換言すれ
ぱ︑牙中墨が牙中鷺自体として團結する丈の年月の経っていることであ
る︒彼等はその土地にそのまま︑長年月の間特別なる軍團として︼般牙
軍よりも優遇されていたわけであるが.その場合︑如何に藩帥が攣ろう とも︑軍團自体の利釜は守らるぺをであり︑その爲には彼等は自ら團結
する必要があった︒その憶測の故にこそ︐驕恣が可能であり︑遜帥が可
能であったであろう︒牙中軍の謙繊が︑豊中軍の大部分或は殆ど全員に 及んだのも亦その爲であったと考えられる︒
第三に注目すべきは︑第二の黙と關蓮させて考うべぎことであるが︑
牙中軍はその土地に長年月干害軍として存していたのであって︑その故 に﹁父子中立︑親黛膠固﹂といわれる如く︑父子代々牙三兵となり︑彼
等自体の團結が行われたのである︒それは恰も︑牙申軍將校が親子代々
同一藩鎭に仕え︐或は長年丹に亘って仕えることの多かったのと相癒す
るものである︒魏博牙中軍が約百五十年置潅西︐徐州の牙中軍も夫々四 ⑪ 十年を越える期聞つ導いているのである︒かかる長年月の生活から生ま れて配る里中軍に於ける血縁性と地縁性とが︑彼等の転結をして彊固な
らしめ︑藩帥に樹立し︑藩帥を放逐し︑これを悪むも力制する能わすと
いう如き有様を生ぜしめたのである︒
牙中軍統制の悶一顯 さて︑以上は主として︑牙申軍が同一藩鎭に於て固定的な課徴をなし た場合のことを述べたのである︒この場合には︑前述の如く︑その土地 を中心として生活するという地縁性と︑親子相繊ぐところの血縁性とに よる團結の傳統は︐藩帥の力を以てしても伸々抑え難いものであった︒ 併し乍ら︑藩帥は常に同一藩鎭に在任するわけではなく︑朝命に從って 移差するのが普通であった︒かかる場合に於ける藩帥と牙中兵との關係 はどうであったであろうか︒ 資治通鑑巻二百三十六︑貞元十七年五月の條以下に︑ 軍士私議日︒朝廷命帥︒吾納之︒即命劉君︒若餅之︒若命帥予尼軍︒ 彼詳覧其魔下前︒吾鵬被斥突︒必拒之︒⁝⁝六月︒甲午︒盈鳳至軍宣 詔旨︒朝家本朔野駈︒今將芹之︒緊要軍勢︒威戎秋︒以李朝嬢爲使︒ 南京副之︒軍勢以爲何如︒諸將皆奉詔︒丙申︒都虞侯史毒言於衆評︒ 李公命牧弓箭︒而逡甲冑二千︒軍士翌日︒正篇欲内鷹下二干爲腹心︒ 吾輩妻子℃其語感乎︒ という記事がある︒これによれば︑藩帥が他軍から移愛して蒙る時には 其腹心の部下を率いて來る風習が普遍的であったと考えられる︒叉新任 地の兵士が︑その様な風習に謝して反感を抱いていたことも明である︒ この様に移鎮の際に多撒の前任地の兵を引具して薪任地に乗込んだこと は︑例えば旧唐書巻+六窓宗本紀︑元和十五年置條には︑ 十一月︒⁝⁝辛亥︒田弘正奏︒王承元以今月九日︒甲兵哺千︒赴三州 州︒ といい︑引つ穿いて︑ 弘正奏︒今月十六日︒入鎮州詑︒ ⑫ といっている如くである︒かかる半煮に際しての腹心の部下が牙中兵で あることは勿論である︒資治通鑑巻贈百四十七︑會昌三年夏四月の條に よれば︑ 黄州刺史杜牧上李徳裕書︒自言︒⁝⁝雲上賞⁝則不然︒自黒皮南下︒不
13 蘭 一
牙申竃・統制の問﹂題
堪附隷︒建中之後︒毎奮忠義︒是以郵公指導︒能羽田悦︒・走朱酒︒常
以孤窮寒苦受認︒黄折調製彊梁之衆︒淫情乱離︒人心忠赤︒習術專一
可以審見︒劉墨黒︒吊花求縫︒豊中同者︒只土州随來中軍二干耳︒
と見えているが︑これは澤魏の混融悟が卒し︑子葎諌が若鳥を求めた時
の郵策であるσ旧唐書巻一握六十一︑劉悟傳によれば︑彼は初め朝廷に
聾して忠勤を霊七たが︑寳暦元年没前頃に及んでは漸く驕恣となり︑河
朔三鎮にならって朝廷より猫型の勢力たら・んことを志した︒子・從諌が縫
襲を求めるや︑宰相李経は︑澤灘は内地であって河朔と同一得すべから ざることを論じたのであったが︑上の記述もその時論ぜられた一つであ
る︒これによれば︑澤瀦の地は元來土風忠誠を重んじ︑從諌を支持する
ものは邸州より随い來つた牙中軍こ千にすぎすとしている︒胡三省はこ
れに註して︑
劉群集郷帥滑︒自難訓瀦︒郷兵二千實從之︒唐末所謂元從.也︒
といっている如く︑この難中軍は劉悟の移鎮に從って邸州︑︑滑州︑灘州
へと移り來って劉悟の最も信頼せる軍隊であったのである︒併し乍ら︑
かかる移揖の際に多藪の親衛軍を引つ・れて新乱筆に乗込むことは︑決し
て古くから行われたものではないことは︑資治通鑑巻二百二十︼︑上元
元年十一月の條に︑
王辰︒⁝⁝御史中丞浮野︑守州刺史劉展皆領准西節度副使︒⁝⁝展剛
彊自用︒故三共上者多書之︒節度使王離昇⁝⁝使監軍使内左常侍邪延
傍受奏︒⁝⁝講除之︒延︑恩叢説上日︒⁝⁝然展方古墨兵︒宜以春意之
請除展江潅都統代維頗︒諸共澤兵堅調︒中道執之︒此一夫力耳︒⁝⁝ 藍 熱帯基守州兵七千︒趣廣陵︒
とあるのによって明であって︑劉展を謝する方法として移任が計書され
前任地の早撃を去りて未だ新任地の出撃を掌握しないその聞に諒するな
らば︑これコ夫力耳︒﹂と考えられたのである︒これによ.つて前任地
に於で兵権を掌握していたとしても.︑共の兵力を新任地まで携える風は なかった之と明である︒但しこの時劉展はその州兵をあげて新任地に携. えているから︑この頃からぼつくかかる風習が起りつつあったかとも 考えられる︒上元元年といえば.安史の飢が未だ完全に絡熟しない粛︷示 の時代であるから︑そういうことが起りうる時勢であったであろう︒ とはいえ︑かかる旧任地の兵を新任地に携えることは︑必ずしも適法 の行爲ではなかったのであって.そのことは田弘正の着筆より史実に移 鎮した時のことを記して︒旧唐書巻一百四十㎞︑田弘正傳に︑ 弘﹁正以新語賢人職伐有父兄之怨︒乃以魏兵二千爲衙從︒⁝⁝伍表蓋開 魏兵爲紀綱之僕︒以持衆心︒ とあるが︑この移鎮ば前述の如く元和十五年十一月十六日のことであっ た︒この時に引具した魏卒二千の爲に︑弘正は朝廷に其許可を請うてい るのであり︑或は叉︑同書巻一百六十一︑李光顔傳に︑ 霧十四年西導入冠︒面罵郷寧節度使︒⁝・.・伍許以陳許六千人随赴邪寧︒ とある如く︑前任地六千の託ハを引馨れて新任地にゆくことが勅許されて いるわけである︒かくて︑町中軍を引且ハし︐て新任の鎮に赴く事は上元以 降次第に普遍化されて來たとはいえ︑決して公然と認められたものでは なかったと考えられる︒ かくの如く藩帥と牙中兵とは密接な主從關係を設定しセ︑妻子一族を 引つれて藩帥と共に移籍したものであろう︒從って彼等にして從來の土 地に愛蒲をもち︑その土地を離るることを好まないという場合もあった らしく︑この場合には藩帥との主早漏係も漸絶の殆むなきに至っている 例えば︑寺主面輪毬四亘十二︑將帥部に︑ ママ .令孤楚爲河陽三城節度︒時烏重斎移鎮槍景︒以河陽鋭卒三千︒爲紀綱 ママ 之僕︒士卒不熟去土︒中灘潰散︒ とあるが如きはこれであろう︒蝕に於ても生活する土地を中心とする地 縁性の根強さが現われてい・るわけである︒
結 .語︒
14
一 一以上︑我々は藩鎮軍の根本をなす牙中翁島兵と藩帥の豊隆.を︑藩帥に
よる軍團統制の面から眺めて來たのであるが︑牙申軍將兵の統制は仲々
困難であり︑野中軍︑がそれ自.体として團結し︑地縁的血縁的並等に於て︐
相結ばれ︑藩帥による統制よ.りも寧ろ牙三軍からの牽柵の方が畏い場合
の多かったことを指摘した︒所がこの情勢と關蓮して注目すべきは次の
如き事實のあることである︒資治通堅巻二百五十七︑文徳元年二月の條
に︑