フランスの人口減退問題
鰯︑はしがき 〜
南亮三 入六
郎
︑
フランスは人ロ減退問題の古典國である︒減退の恐怖はすでに十八世紀に起り︑また時にはそれ以前にも時
人の注意を集めた︒從つて自然増加(死亡以上の出生の超温)を促進する意昧での凡ゆる角度からの人ロ政策が永
い年代に亙つて繰返し企書・實施せられて來たのもこのフラシスに於いてであつた︒吾々はフランス人ロ問題
の本質と経過を探り︑叉その封策のあとを吟味することに依つで始めて︑現代文化諸國民の多かれ少なかれ當
面しつ︑ある出生率減退及び人ロ萎縮問題の本膣に接近し得るであらう︒.'
筆者ば最近相前後して本問憲に關する二つの包括的な外國文献を手にした︒一はスペングラーの﹃フランス
うラユヨ人ロ減退論﹄であり︾二はボサドウスキーの﹃フランス人口問題研究﹄である︒敦れも力作であるが特に前者
うラは人ロ統計的分析に優越を示し︑後者は文献史的研究に於いて際立つた得黙を現はしてゐ為︒いまと嵐に爾奢︑
1) 2)
3)
J・ 」・Spengler,Francefa『esdepopulation・Durham:DukeUniv・Press,Ig38・
PP・3i3・.
IP・・ad・wsky=W・hn・ ・ID・ ・B・vδ1k・r・ng・p・ ・blrminF・a・k・ei・hUnt・ ・s・・hung・n
(BeiheftzumArchivfUrBev61kerungswissenschaftun"・Bev61kerungspolitik), LeipzigIg39.SS・134・
フ ラ ン ス 入 自 勇 の 手 に な る 漸 著 と し て ばHubet‑Bunle・Bbverat,Lapopulation
dqlaFranc『,LibrairieHachette,pp.24g.が あ う カ;こ れ は 專 ら 入 口 統 計 的 研
を根幹とし︑聞々若干の資料と私見を加へながら︑
ふのである︒
二︑7ラ7ス人口の登展様相 フランス人旦問題の全貌を理解するに役立たしめたいと思
さて先づフランスな過去に於いて如何煮る人口獲展を途げたのであるか︒最も早い統計歎字の一は一七〇〇
年のそれで︑フランス人口はこの年一千九百六十七萬であつたゆその後一七六二年には二千百七十七萬︑一七
ボゴロラ八四年には二千四百八十萬と推算芒れた︒然しながら︑スペングラーの探索によれ幟︑一八〇〇年以前の人ロ
増加率は大巾に攣動したのであつて︑十三・四世紀には着實に増加したかと思ふとその次の世紀には大減退を
來すといふ風に︑必すしも均齊的な獲展過程を辿らなかった︒人口が再が増加し始めたのは十八世紀の申葉以
後のことである︒けれども全ヨーロッパ申に占むるフランス人ロの相封的比重は︑既に早くも一八〇〇年以前
に於いで減少し始めてゐた︒その比重の最も優勢であつたのは十七世紀申葉で一八%を占めてゐたが︑十八世
紀申葉には一五%となり︑更に一八〇〇年には後述の如くに一四%毫となつてしまつた︒
十九世紀に入つてフランス人ロは絶封的増加数に於いては十八世紀に於けるよりも大であつた︒それは一部
分版圏の援大にも依るのであるが︑それを考慮に入れてもフランス人ロがこの世紀で増加したことは確かであ
ラ︒る︒一八〇六年以偉の各セン覧サスの激字を集計せる第一藻によると︑普佛職争及び欧洲大戦の影響を受けたる・'フランスの入口減退問題(南).八七
究 に 限 ら れ て ゐ るo影
1)Spengler,Francefacesdepopulation,P.Ig」 兜.
2)Posadowsky:Wehner,pasBev61kerungsprobleminFrahkreich,S .1。
ぢゴ一・八七一.年及び一九二一.年の藪字を除をて︑︑セ.シナス毎に増加を示してゐ・る︒然しながら吾々は既にご︑で﹂'︑
第1表 フ ラ ン ス ・の 人 口 (1866『一ig36年)
年'・
1
面 積(李 方キ官)
1争
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入 口 ・.(馳 千)
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増 加%.
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5き7,699・29,170,
550,986
536,464
550,g86
「
29,350
29,4801 .31Q
30,450
3ち6・ ・ ¶v2,重 零。
32,570・ ・
'33 ,:5401,940
34,230 35,4・oo・.1,860 35,800 36,1go。7go・
37,39Q',、
38,080・ 享,0802)
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37・5go1,400
β8・230
38,350760 38,520 38,980630 .39,270
39,60b・620 39,240 40,870 41,8602,620
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二一 ス及び サ がオァの 併合一 入 口・約30萬 本 厳字 は版 圖 箔 大た 卑 る入 口攣i化を除 き算 鍬 ・ アル サス 。ロー レー ヌの喪失 一 人 ロ約150萬 ア・舷 ・・一 ・十・の 麗 一 人 ・約18ρ萬
●
入八
次の二つ0黙を指摘せねばなちない︒即ちその一は一各十年闇の増加数・はそのま玉では判然たる考察の封象と
ならぬことで︑版圖の壇減にも關係なく叉移民数にも關係なしに純輝のフランス人口の嚢展を物語るものは一
八一六年から一八五六年に至る僅かの期聞に過ぎない︒'そしてこの期聞に於いてフランス人ロの増加比率は七
%から二%へ明白に低下を示してゐるのである︒その二は︑一八六六年以降の歎字は爾度の大⁝戦による影響と
その頃から加遽度的に増加しつ﹂あつた移入民とにょつて紛齪せしめられてをることである︒特に一八七一ー
一八八一年間の百四十萬入といふ大増加は主として喪失せるアルサス・ローレーヌからのラランス故國への露
第2表 列 國 の 入 ロ 増 加
AI800‑‑191c年 間
増加實鮒 増加百砒
フ ラ ン ス 竃3,229 約47%'
ド イ ツ 40,095 〃160%
イ ギ リ 久 27,182蟹 〃3co%
ノ ル 「 ウ エ ー 1,507 〃170%
イ タ リ ア 1◎546i 〃go%
]BI880‑193c年 間
フ ラ ン ス 2,596 約6。5%
ド イ ツ 互9,046 〃42%
イ ギ リ ス 13,974 〃54%
イ タ リ ア 12,770 〃45%
【 ス ペ イ ン
1
6,926 〃42%
ヨ
フランスの入口減退問題(南) へ 還民によつて詮明すべきであり︑更に欧洲大職後特
に一九二一‑一九三一年間の二百六十二萬人の未曾
有の大増加は各國よりの移入民の激増に齢すべきも
のなのである︒
かくて︑十九世紀初頭以降今日に至るまでの百三
十年間︑特にその後孚に於けるフランス人ロの増加
の源泉は︑十八世紀に於ける増加の源泉とは著しく
・異なつてゐる︒十八世紀の増加は專ら死亡以上の出
生の超過に鶴すべきものであつた︒然るに十九世紀
八九
/
九〇
以降の増加はその多くを移入民に員うてゐるのである︒それにも拘らす︑この期聞に於けるフランス人ロの全
助罷としての増加を他の列強の歎字と比較すると︑第二表め如く隔フランスめ獲展が如何に不利であうたかが明
瞭となる︒殊に一八八〇1一九三〇年間の最近の五十年を.とつて見るならばーこの期間には他の諸國も増加
ゆ藩度を鈍らしたのであつたが⁝フランスの歌態は依然悪ズ︑むしろ=贋悪化してゐるのが見られる︒この故)
に︑既に十八世紀申に全ヨーロッパ人ロ申の相封的比重を減じつ玉あつたフランス人ロは︑十九世紀以降に於
いて他の主要諸國に次々に凌駕せられて行つた︒即ち一八〇〇年︑一九〇〇年︑及び一九三〇年に於ける列國
,の相封的比重は攻の如く推移した︒ロシアは二〇・八︑二六・二︑二二・三︒イギリスは八・四︑卵○・六︑︑
一〇・一︒イタリアは九・七︑八・三︑八・五︒ドイツは一三・〇一一四・四︑=二・三︒そしてフランスは
一四・.六︑九・八︑八・五︒かくしてフランスは十九世紀中に全ヨ!ロッパに於ける人ロ比重のヘゲ毛ニーを
失ひ︑二十世紀に入つてこの比重は更に減じて行つた︒一八〇〇年には全人口に於いて凌駕されてゐたのばた
だ・シア一國であつたが︑一八五〇年にはドイツに凌がれ︑一八八〇年にはオレストリデ・ハンガリーに凌が
のれ︑一九〇〇年にはイギリスに凌がれ︑そして一九三〇年にはつひにイタリアに追ひ越されたのである︒
右に描禺せるフランス人口の嚢農態勢は︑國際聞の人口移動に於けるフランスの特殊の位置を考へ合はすこ
とによつて一暦判然となるであらう︒即ち十九世紀から二十世紀にかけてヨーロッパ諸國は大量の海外移民を
出したが︑その籔は一八八一‑一九三〇年の五十年間に︑ドイツニ百七十=偶八千人︑イギリス八百八十六萬
3)Posadowsky,DasBev61kerungspfot》1em,S.2.
4)Spengler,Francefacesdepopulation,PP.21‑22.
六千人︑イタリア七百十六萬五千︑人に上つてゐるに封し︑フランスは僅かに二十四萬七千人を出したに過ぎな
い︒フランスだけは反封忙來佳者の多い國なのである︒一九三一年の調査ではフランスに現存せる外圃人は総
数二百七十一萬五千人に上り︑實にフランス全人ロの六,六%に及んでゐる︒そして若しこれに現存の麟化人
を加へるならば更に一%を増すことになる︒フランス人ロはか玉る異民族の補給によつて現散を支へてゐるの
であるゆ̀・.
欝ほフランス人口の磯展について看過してはならない今一つの特殊事情拭︑人ロ増加上の外襲的妨害原因.が
他國に於けるよりも激しく働いたことである︒その最大の事件はフランス革命とナポレオン職争で︑この革命
♂せ期及び戦孚期を通じてのフランス入口の損害は︑内輪に見積つても二百萬乃至三百萬人に上るものとされてゐ︑
る︒當時は然しその産兎力はなほ旺盛であつたのでフランス人ロ辱はよくこれを補填して︑革命勃嚢當時の約二
千六百萬人から一八二一年の三千五十萬人にまで増加したわけである︒次いでフランスは普佛職孚で直接間接
の約七十五萬人の生命を損失し︑.欧洲大職では更にそれの何倍かする髭大なる入命を犠牲にしたのである︒
三︑人ロ減退問題の輿論の経懸
'フランスに於ける人ロ減退の懸念は本來十九世紀後牛の現象であるが︑それ以前にも無かつたのではない︒
わ.即ち十八世紀に現はれてをり︑また時々は十八世紀以前にも現はれてゐた︒スペングラーの記蓮によれば︑フ
・フラγスの入口減退問題(南),︑︒虎一
5)'P・ ・ad・w・ky,D・ ・B・ ・δlk・…g・p・ ・b1・m,S.3‑6街 ぼ 大 戦 の 影 響 に つ い て ほ 本 誌 前 號 所 載 拙 稿 「戦 時 及 び 戦 後 に 於 け ろ 入 口 問 題 」 塗 照 。
1)Spengler,Francefacesdepopulat三 〇p,PP・ 】【03‑120・
︑︑九ニ
ランスに於いて初めてこの懸念の現はれたのは十四世紀の後牛から十五世紀にかけての頃であつた︒ζの當時
には黒死病や百年職孚や民族移動などによつてフランス人口は大いに減じたのである︒從つて租税の・輕減や定
期市の開設などの形に於いて結婚や來佳を促がさんとする方策が地方的に講ぜられた︒十.六世紀後牛に於いて
度重なる宗教職争は直接間接に人口を減殺したが︑入ロ増加への政治的關心が再び向けられたのは宰相コ.ルベ
ール(O︒子︒増二曾りー◎︒︒︒)の時代になつてからであつた︒然しその政治活動の終末と共に人口増加策は申噺され
たのみか職争や重税や宗教泊害などによつて入︑民の窮困は深化し︑國外移佳は刺戟され︑積極的妨げは普及し
人口の減退を招來した︒そしてこの事態はルイ十四世の死(一七一五年)まで績いたのであつたが︑正︽か玉る
事態から︑フランス人ロは減退に檎みつ玉あるとの十八世紀的信念が生じて來たのであつた︒
かくて十八世紀の申頃までに︑人ロはたと△糟加してをるとしても極めて遅々たるものであり︑また以前の
世紀に較べてむしろ小さくなつたといふ信念がフラツス人の間に普及した︒この種の意見は元々︑フランス政
︑
府の批評家酒あつたフェネロン(周窪巴o")やヴナバン(<碧げ碧)やボアギルベール(閑o躍σq昆ぴ︒答)などによつて
醸成せられたのであるが︑更にこの信念を強化普及せしめたものは︑入ロに封する妨げは増大し爲めに世界人
ロの密度は古代に比して十分の一に減じたといふモンテスキェーの意見であつた︒人口減退の信念は更にまた
ジ陵べール(︾ケげ①q9⊆げo昌)やヴイルナーヴ(聞.傷⑦<崖o昌6⊆くo)やグゥダアル(Oo⊆畠霞)やブイジオクラット達
によつて強化せられた︒就申フイジオクラットの開組として重きをなしたるケネーの意見では一七五五年のフ