ヨ ー ロ ッ パ 農 村 社 会 史 研 究 と 共 同 体 再 考 ‑
北西ドイツ農村史の視点から平井進
戦後史学において長らく前近代の共同体(農業共同体あるいは農村共同体)論の準拠枠とされた大塚久雄﹃共同体の基礎理論﹄はすでに「省みられない古典」となり'ヨーロッパ史に関していえば、これまで一定の批判が行なわれてきたにもかかわらず'それに代わる中・近世農
村社会の理解枠組が形成されるには至っていないように思われる。本稿は、それに対して'中.近世の農村社会像の再構築の手がかりを探りたい。
まず'﹃基礎理論﹄に描かれた「中世」(=農業革命以前)ヨーロッパのいわゆる共同体的関係(あるいは共同体的土地制度)を整理し、それは特定の定住・耕地形態と結びつくことが多く、
必ずしも全ヨーロッパ的になりたつものではなかったと考えられることを示す。そして、筆者
がフィ
ー
ルドとするドイツ北西部を例にして、定住形態・耕地形態から地帯区分しつつ'現実に近世農村社会に存在した地域団体(ゲマインデ)と農村住民の共同性のあり方'それらと市場経済化との関係を概観する。
結論として'第一に'中・近世ヨーロッパ内においても農村社会の共同体的関係の地方的な多様性が考慮されるべきであり、第二に、そうした多様性をもつ共同体的関係の多くは'少な
‑ともドイツ北西部をみる限り'土地保有単位としてのホ
ー
プを基礎として組織された地域的な資源管理組織であり、結果としてホー
プ保有者の利益組織として機能し得る存在であったと小括されよう。はじめに
戦後史学における代表的な共同体論として肯定的にであれ批判的にであれー挙げられてきたのは、大塚久雄3r=E﹃共同体の基礎理論﹄(初版一九五五年・改版一九七〇年、以下﹃基礎理論﹄)であるといってよいだろう。我が国の歴(2)史学、特に経済史学の共同体論における同書の影響は、それへの賛否はどうであれ、かつては「呪縛」として語られる(3)ほどであったが、現在では同書はすでに「省みられない古典」となっているといわれる。﹃基礎理論﹄は、発展段階論
的に構成されたその土地所有論(共同占取と私的占取との関係論)において社会構成史な日本農村史把握と理論的に通(4)(5)底し、より直接的に同書の共同体類型論が近世日本村落の理解に理論的枠組を与えることや同書の土地配分原理区分が(6)その共同性の分析基準として参照されることもあった。現在の近世日本史研究においては、土地所有などの所有諭を中
心に共同体とその変容を把握するという基本視角はなお継承に値するという見解があるが、同書のみならず共同体論自(7)体が正面から取りあげられることはほとんどないといわれる。(8)ヨーロッパ史に関していえば'理論的な根拠が文献学的。実証的に激しく議論されたその「アジア的形態」論ほどで
はないものの、﹃基礎理論﹄における中世ヨーロッパの農村共同体把握(「ゲルマン的形態」論)には'批判1必ずし(9)も明示的にではないにせよ‑も含めて様々な指摘やコメン‑が、主に個別研究のなかでなされてきた。しかし、農村
史・農業史研究が縮小するなかで前近代の農村共同体への関心が次第に弱まり、批判的な検討が十分に総合されない内
に、あるいはそれらが歴史学におけるヨーロッパ農村共同体像の再構築に結実しない内に、いつの間にか「省みられな」
くなったのではなかろうか。このことは、﹃基礎理論﹄における「ゲルマン的形態」論の要約が経済史の教科書で近年
ヨーロ ッパ農村社会史研究 と共同体再考‑ 北西 ドイツ農村史の視点か ら
(10)に至るまで事実上無批判に叙述され続けていることに逆説的に現れているように思われる。\}昨年公刊された﹃「共同体の基礎理論」を読み直す﹄は、共同体論のそうした現状に一石を投じようとした企てであり、﹃基礎理論﹄の「ゲルマン的形態」論を土地所有(占取)の動態(定住と相続)という観点から近年の研究の実証的成(12)果に対峰させる形で批判的に検証し、封建社会と近代資本主義社会の連続面を示した。そして、同書も必ずしも問題と
し得なかった'﹃基礎理論﹄がいう「ゲルマン的形態」の枠組を中・近世ヨーロッパ農村における土地用益システム
(特
(.=lに耕地形態)の多様性という観点から批判する成果が最近提出された。本稿は、﹃基礎理論﹄に対する従来の指摘や最近の研究動向を筆者なりに受けとめ、筆者が調査・研究してきたドイ
ツ北西部(北西ドイツ)を例にして地域団体(ゲマインデ)のあり方‑これまで直接的に触れられることは少なかっ
た‑に注目することによって農村社会における共同性の実態を示し、ヨーロッパ農村共同体像を再構築する手がかり
をドイツ史研究の立場から探りたい。そして、そうした考察によって、同時に、本書の主題である日本の近世農村の共
同性を再考する一助となることをも期待している。
本稿の構成は'次のようになる。まず'﹃基礎理論﹄がいう「ゲルマン的形態」としての農村共同体における共同体
的関係とそれを構成する諸要素を整理し、そうした共同体的関係がヨーロッパ全域でなりたつものではなかったと考え
られることを示したい。次に、近世北西ドイツの事情から、現実の農村社会における共同体的関係を含む共同性とそれ
らを制度化した地域団体の存在のあり方、それらと市場経済化との関係を検討したい。そして、ヨーロッパにおける農
村共同体をどうとらえるべきかという点から、それまで提示した諸事実をまとめ、最後に、特に近世に関して、より一
般的に若干のことを提起したい。
﹃共同体の基礎理論﹄におけるヨーロッパ農村共同体像
﹃基礎理論﹄における共同体とは'前近代、つまり近代資本主義社会に先行する社会の「基礎的生産様式」であ(;)る「農業共同体」(アグラ
‑
ルデマインデAgrargemeinde)としての土地占取団体と定義され、これが単にゲマインデ('t)
Gemeindeとも呼ばれている。かかる共同体は歴史上生産力の発展に応じて、「アジア的」、「古典古代的」、「ゲルマン的」といった諸形態をとり得たとされる。同書によれば、中世ヨーロッパでは、土地を隣人集団(「村落」‑村落定住=
集村の場合のみならず小村・散居制も含むとされる)が共同占取したうえでその内部において各成員'つまり個々の農
民家父が私的に占取するという、土地占取者の隣人集団(村落共同体)として共同体の「ゲルマン的形態」が成立して(16)いた。(17)(1)「ゲルマン的形態」の構成をみれば、以下のように整理できよう。
①共同体内の土地は、住宅。宅地HausundHof'菜園地
G aT
ten、共同耕地Ackertand
\commonaeldt共同地Allmende\commonからなるとされる。(ート.I②共同体の各成員(農民家父)は屋敷地。菜園地、共同耕地上に散在する多数の耕地片(持分地)'共同地持分を保有し、それらの権利の総体がフープェHufeと定義される。各フープェに含まれる耕地は、共同耕地の区画である新区(19)(ゲヴァンG
ew an
n\fuユ○コg)ごとに地条(または不規則な方形)の形で存在し、柳区ごとにその大きさが形状や位置。(20)地味も考慮して等しくなるよう配分され(「耕区制Gew an ns
ystem」)'したがってその合計面積もフープェ間で均等(≡〇モルグン)になる。また、いわゆる総有Gesamteigentumの下にある共同地の持分は共同耕地上の耕地の保有規模に
ヨーロッパ農村社会史研究 と共同体再考‑ 北西 ドイツ農村史の視点か ら
3珊四応じて単位化・定量化された(以上フ
ー
プェ制度)。各成員の持分であるフープェはいわば農家の規格単位で、「標準的(22)成員」に原理上それぞれl単位ずつ分配された(土地配分の形式的平等).③そして、共同体の各成員は'屋敷地・菜園地を私的。個別に用益、共同耕地上の耕地片を成員間の規範にしたがい
耕作し'経営を補完すべき入会地である共同地は他の成員ともに共同で用益した。
l定の土地占有制度を前提にして、「村落」レベルで共同耕地と共同地について共同性が兄いだされている(共同体
的関係)。そして、前提となる土地占有制度では、「土地﹃占取﹄における形式的平等」を具体化する「耕区制」が決定
的に重視されている。この語は、単に共同耕地においてその下位区分として桝区が存在したことのみではなく、ヴェ‑(23)(24)バーにならい'各桝区において厳格に平等な持分地を与える耕地配分の原則をも合意していることに注意したい。﹃基
礎理論﹄によれば、「およそ﹃耕区制﹄が存在するかぎり﹃ゲルマン的﹄共同体の基本法則である﹃形式的平等﹄の原
理は耕地制度のうえに具体化されることは可能であるし'またそうした﹃耕区制﹄が兄いだされるかぎり'われわれは(25)そこに「ゲルマン的」形態の共同体の存在を承認しなければならない」。(2)そして、このような農村共同体は、現実には、村落の自治組織や教区といった教会行政組織'領主制といった(26)支配機構と「絡み合」っていたことがごく簡単に指摘されている。(3)こうした農村共同体は、成立期からすでに自由な手工業者を「包含」して一定程度前近代社会としては高
度‑の「社会的分業」、つまり「商品交換」・「貨幣経済」を伴ったが、その内部からより本格的に「商品=貨幣経済(27)が展開することによって﹃共同体﹄l般」が最終的に解体するとされる。
﹃基礎理論﹄がいう「ゲルマン的形態」としての農村共同体とは、以上のような諸要素の複合にはかならない。
二ヨーロッパ農村共同体の多様性
しかしながら、このような農村共同体は中世から近代移行期の農業革命までヨーロッパ全域に存在したわけではな
く'共同体的関係のあり方は地域的に一様ではなかったと考えられる。﹃基礎理論﹄は'その「ゲルマン的形態」論と特定の定住形態や土地用益システムとの結びつきを認めてはいないが、
同書で「ゲルマン的形態」のメルクマールとされたといってよい共同耕地における「耕区制」は、同書が依拠したマイ
ツェンやヴェ‑バーの著作においては、ヨーロッパ全体についてではなく'「ゲルマン人の集落」や「もともとゲルマ
ン人が定住していた地域」の集落I塊村H
au fen do
rfあるいは村落定住形態Dorffor m (‑
集村)をとりゲヴァン耕地(28)Ge wan nAu
r(耕区を構成する農地群)をもつゲヴァン村落Gew ann
dorfとされる‑の特徴として述べられているので(29)
(30)ある。マイツェンやヴェ‑バーの定住形態民族起源説はその後の定住史研究の展開によって否定された一方、歴史地理学研究によれば、中。近世においてフ‑フェに応じた土地配分が行なわれた場合現実には耕囲FluT(輪作単位で通常複(31)(32)数の耕区からなる)ごとに行なわれたことが多く、「耕区制」は、﹃基礎理論﹄の否定にもかかわらず、開放耕地上で桝(33)固ごとに共同で輪作が営まれる、三園制農法を中心とする北西ヨーロッパの多囲制農法と結びついていた。そして、そ
れらがl娘には定住形態として集村の諸形態(塊村、広場村p
la tz
dorf'さらに街村StraBen
doTfなども)に結びついたI:7)ことから、同書の想定に反して、「耕区制」は基本的には集村・多国制地帯に存在したといってよい。こうした集村。多国制。「桝区制」の「三位一体」の複合体は、七。八世紀からl二二三世紀まであるいはそれ以降も、農業生産の