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安 井 敏 晃

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(1)

ハザード概念について

⎜⎜ 保険論におけるモラル・ハザード及びモラール・ハザードを 中心として ⎜⎜

安 井 敏 晃

■アブストラクト

本稿では,ハザード概念,モラル・ハザードおよびモラール・ハザードに ついて検討を加えた。その結果,保険論におけるハザードには,他のリスク 関連科学と比べて特徴的な点が認められることを指摘した。また,従来はも っぱら保険の弊害として捉えられてきたモラル・ハザードにおける効果を再 確認した。さらにモラール・ハザードについても,保険の弊害とは言い切れ ないことを改めて確認した。

■キーワード

ハザード,モラル・ハザード,モラール・ハザード

はじめに

現在,ハザード概念は保険論以外の他のリスク関連科学においても広く用 いられている。しかしながらこれら他分野におけるハザードの意味は,保険 論における意味とは大きく異なっていること,さらにハザードのなかでもと りわけ取り上げられることの多いモラル・ハザード(日常会話にさえ用いら れる)には,本来の用法とはまったく異なる場合があることが指摘されてい

*平成19年10月28日の日本保険学会大会(桃山学院大学)報告による。

/平成20年10月27日原稿受領。

(2)

る 。このように同じ言葉でありながら意味内容が異なることは,無駄な混 乱を招く場合があるが,逆に他分野の概念と比較することで,それぞれの学 門領域におけるハザード概念を立体的に把握できる場合もあろう。そこで本 稿では,他のリスク関連科学における視点を参考に,このハザード概念につ いてモラル・ハザード概念およびその類概念であるモラール・ハザードを中 心に考察してみたい。

1.ハザード概念

まず,ハザード自体がどのように捉えられているのか確認しておきたい。

ハザード自体は工学や心理学など様々な分野でも用いられるが,田村も指摘 するようにそれらは保険論における意味内容とは異なる場合がある 。

リスク・コミュニケーション論の分野におけるハザードを最初にあげる。

これは社会心理学の一分野として発達してきた。例えば原子力発電所を建設 する際や事故が生じた際には,発電所を運営する電力会社と周辺の住民との 間で,リスク情報に関する伝達が必要となるが,そのようなコミュニケーシ ョン等を研究する分野である 。この分野においては,ハザードは例えば 被害の重大性 ,あるいは 人や物に対して,傷害を与える可能性がある行 為ないしは現象 と説明される場合がある 。またさらに, いいかえれば,

リスクとは,ハザードがどのくらいおこりやすいか,という期待値であると いうことができる とある 。この ハザードがおこりやすい という用例 では,保険論ならばペリルの意味を, 被害の重大性 ならば損害の大きさ

1) 田村[2008],

pp

.5‑43。

2) 田村[2008],

pp

.74‑75。

3)

NRC

によると,これは, 個人,集団,組織間での情報および意見の相互 交換プロセス。リスクの特性に関する種々のメッセージや,関心,見解の表明,

またはリスクメッセージや,リスク管理のための法的および制度的な取り決め への反応などを含む ,とある。NRC編〔1997〕,p.365。

4) 吉川[2000],

p

.40。

5) 吉川[2000],

pp

.40‑41。

(3)

のことをそれぞれ意味するものと考えられよう。

お な じ 分 野 で 次 に 米 国 研 究 審 議 会(National Research Council,

NRC

)の定義をみよう。ハザードは, 人ないし物に対して危害を及ぼす恐 れのある行為または現象。ハザードの大きさとは,その深刻さの程度および 危害を受ける人数など,生じるかもしれない危害の程度のことである と ある。ここでみられる ハザードの大きさ という用法から,少なくともこ れらは保険論におけるハザードの用法とは異なっていることがわかる。

次に環境科学に関わる分野における用法を見てみる。例えば環境リスクに 関する報告書では,ハザードを 打撃または傷害を生じさせる可能性がある もの と定義している 。同分野における定義としては他の例もあげよう。

中西はダイオキシンに関する議論について,ハザードとリスクの区別がない ことを批判し次のように述べている。 ある物質の1グラムのもつ毒性が他 の物質1グラムの毒性に比べて大きければ,その物質はハザードである。ダ イオキシンは間違いなくハザードである 。これは前述の報告書の定義を念 頭におくと理解しやすい 。さらにその後に 人の健康への危険度つまりリ スクはその物質の毒性の強さと摂取量とで決まる としている。

リスク工学の入門書では,都市が直面するリスクがいくつもあることを指 摘した後で次のような記述がある 。 …わが国で最も取り組まなくてはな らないハザード(hazard)として,ここでは地震を取り上げることにする とある。そして脚注で 異常な自然加害力のこと として 災害発生の潜在 的要因となるものをハザードと呼ぶ のだと説明する。この説明では地震が ハザードとされているが,言うまでもなく保険論における定義からするなら ばこれもむしろペリルと捉えられる。

これらに対して,周知のように保険論においてハザードはペリルないし損

6)

NCR

編[1997],

p

.364。

7) 佐藤他[1998],

p

.187。

8) 中西[2004],

p

.144。

9) 遠藤・村尾[2008],

p

.52。

(4)

失を創出あるいは拡大させるものとして捉えられている。リスク自体および ハザードの中でもモラル・ハザードの定義には議論があり,論者により異な る場合が多い。それに対してこのハザード自体については論者により大きな 違いは見られない。比較的最近の米国における定義 を例にとると,例えば

Rejdaはこれを 損失の可能性を作り出す,あるいは,増加させる状況 と

する 。Baranoffは 損失発生の背後にあり,損失の可能性,損失の強度,

あるいはその双方を増加させる状況 としている 。また

Trieschmann

は 特定のペリルによる損失のチャンスを増加させたり,ペリルが生じた場合 の損失をより深刻にさせる 状況としている 。

このようにハザード概念は分野により意味するところがかなり異なってい る。保険論における用法であれば,ペリルを意味するところがハザードと捉 えられたり,あるいは損害と理解すべきところがハザードとして理解されて いた。しかしながら逆の見方をすれば,むしろ保険論だけが異なっていると 思われる点がある。少なくとも前述した保険論以外のリスク関連科学のハザ ードの定義には,一見ばらばらのようであるが共通点がある。いずれも,ハ ザードは災害であれ人の死亡であれ不幸な出来事に関わっているのである。

それに対して保険論におけるハザードは必ずしも関わってはいない。

保険論におけるハザードは通常ペリル(すなわち保険においては保険事 故)と関係がある。もちろん保険においても,損害保険においては通常保険 事故は何らかの不幸な出来事である。火災保険における火災,自動車保険に おける衝突,地震保険における地震などはそうである。しかしながら生命保 険における生存保険の場合には事情が異なる。現在純粋な形態での生存保険 は存在しないので,養老保険を例にとろう。30歳で30年満期の養老保険にお

10) なお,ここで紹介した3冊はいずれも

Risk Management and Insurance

と題した書籍であるが,内容はリスク・マネジメント論というよりはわが国に おける保険論に近いため,本稿では保険論の書籍として扱っている。

11)

Rejda

[2005],

p

.5.

12)

Baranoff

[2004],

p

.18.

13)

Trieschmann

=Gustavson[1998],

p

.11.

(5)

ける保険事故は保険期間内の死亡と60歳時点での生存である。他ならぬ還暦 を迎えることが保険事故となるのである。還暦や喜寿など不幸どころか,通 常慶事とされる事象が保険事故とされている。

それゆえ保険におけるハザードはその作用が幸福につながる場合がある。

長寿の場合なら,温暖な気候,バランスのとれた食習慣,ストレスのない快 適な住環境等がハザードとして作用するということになる。繰り返すがこの ようなハザードは,少なくとも前述した他のリスク諸科学においては見られ ないものである。

このように保険論におけるハザードは,むしろ好ましいものも含まれてい た。先ほどのハザードの定義,例えば 特定のペリルによる損失のチャンス を増加させたり,ペリルが生じた場合の損失をより深刻にさせる状況 から すると一見奇妙にも思えるが,この場合のペリルはいわゆる事故一般のこと ではなく保険事故のことであるから,もちろん問題となる訳ではない。しか しながらこれらの保険論におけるハザードの定義は,保険論の体系の中で考 えても若干疑問の残る部分がある。モラル・ハザードを手がかりに次にそれ を見てみたい。

2.モラル・ハザード⑴

まずモラル・ハザード自体の定義を見ておきたい。引用されることの多い

Rejda

の定義を見ておこう。それによれば, モラル・ハザードは,損失の頻

度や強度を増加させる個人の不誠実や性格上の欠点 である 。そしてその 例として保険者から保険金を詐取するための事故の偽装や,詐欺的な保険金 請求,請求額のつり上げ,売れ残った付保された商品への放火をあげている。

この

Rejdaの例にもみられるが,モラル・ハザードには強く作用している

にも拘わらず,実際には事故を生じさせてはいない場合がある。このことは 事故を生じさせないものの,事故が生み出す損害には影響を及ぼすという意

14)

Rejda

[2005],

p

.5.

(6)

味ではない。事故そのものが実際には生じていない場合さえあるということ である。

モラル・ハザードによる保険金詐取の具体的事例をとりあげた伊藤の研究 は, アフロス , 事故招致 , 不実申告 , その他 に類型化している 。 この中で 事故招致 以外の類型においては,必ずしも実際の事故そのもの にモラル・ハザードが作用しているわけではない。例えば アフロス とは,

事故や 事故の原因が発生していることを知って締結 された保険契約を 意味している。また 不実申告 の場合とは,事故後に免責事由に該当して いることを隠蔽したりする場合である。 その他 とされたものには,架空 事故や水増し請求がある。水増し請求も事故を奇貨として過大な請求をする わけであり,事故自体を発生させているわけではない。そして架空事故に至 っては事故を偽装するものの事故自体が発生していないのである。

このようにモラル・ハザードは架空事故の場合に典型的に見られるように,

実際に保険者の支払保険金を発生させたり,その総額を増加させるというよ うに,明らかに作用しているにもかかわらず,現実の事故そのものが発生し ていない場合があるという特徴がある。モラル・ハザードが保険金詐欺と関 わる以上このことは自明のことであると思われるかもしれないが,前述のハ ザード概念の定義からすると実はこの点は奇妙である。例えばハザードは 損失の可能性を作り出す,あるいは,増加させる 状況であった 。ある いは 特定のペリルによる損失のチャンスを増加させたり,ペリルが生じた 場合の損失をより深刻にさせる 状況であった 。しかし,この場合に被保 険者には事故も損害も発生していない。

この状況はエンドポイントの設定ということから生じると考えられよう。

エンドポイントとはリスク関連科学で用いられる概念であり,リスク学事典

15) 伊藤[1970],

pp

.65‑70。

16) 伊藤[1970],

p

.65。

17)

Rejda

[2005],

p

.5.

18)

Trieschmann

=Gustavson[1998],

p

.11.

(7)

では 影響判定点 いう訳語があてられている 。中西はこのエンドポイン トを どうしても避けたいこと と説明し,このエンドポイントが起きる確 率をリスクとしている 。例えばこのエンドポイントをガンの発生とするな ら様々な物質を発ガン性という観点から比較することができる。さらにすす めてエンドポイントを死亡とすれば,さまざまな病気をそれぞれ比較するこ とができるのである 。つまり因果の連鎖のなかで,どの事象の発生を好ま しくないものとして目を向けるポイントとするかということになろう。何ら かの物質を摂取してしまうリスク,ガンになるリスク,あるいは死亡してし まうリスクといった様々な段階のなかで,どの段階に焦点をおくとするのか ということである。

そこで保険論においては,このエンドポイントはどこにおかれるのかとい う点を考えてみる。保険論においては事故,そして事故の結果としての損害

(あるいは経済的不安定)が生じると考えられているから,通常はエンドポ イントを事故あるいは損害と考えても問題はない。しかし前述のように,モ ラル・ハザードの事例では架空事故の場合のように被保険者には損害がない ときがあるから,その場合にはエンドポイントがないことになる。つまりハ ザードが働きかけるものがないということになる。

しかしながらこの場合に保険者は保険金を支払っているから,そこでエン ドポイントを保険金の支払とすると理解しやすい。前述した保険論における ハザードの定義は,例えばペリルや損失に影響を及ぼすと説明されてきたが,

保険論においては,それより保険者の保険金支払に影響をおよぼすと理解し たほうがより適切ではなかろうか。

3.モラル・ハザード⑵

モラル・ハザードには他にも興味深い点がある。ハザードには必ずしも人

19) 日本リスク研究学会編[2006],

pp

.317‑318。

20) 中西[2004],

p

.102。

21) 中西[2004],

pp

.102‑103。

(8)

間社会に悪影響を及ぼさない場合があることは前述した。ハザードのなかで もモラル・ハザードは,他の理由から社会的には好ましいといえる場合があ ることが指摘されているのである 。その一例として医療保険における場合 がよく指摘される 。もっともここでいうモラル・ハザードは,保険に加入 しているからわざと病気になるあるいは傷害を被るという場合を意味しては いない。そのように捉える見解もあるが,それならばモラル・ハザードを考 える余地自体がそもそもあまりないことになる 。そのような場合がないわ けではないが,医療保険におけるモラル・ハザードとしてよく指摘される点 は他にある。それは被保険者側が主体となる場合と病院側が主体となる場 合 に大別されよう。

前者の場合には医療機関への受診回数が増加するという場合が相当する 。 例えば無保険である場合には全額自己負担のため受診を躊躇していたものの,

保険で担保されることにより積極的に受診するようになる場合が該当する。

もちろん,受診回数が増加することに問題が全くないわけではない。老人医 療が無料であった時期に,病院が 老人サロン 化していると揶揄されるよ うな事態が望ましいわけではない。しかしながら公保険として考えるならば,

受療率の増加により,重病が早期発見されるようになることは社会的に望ま しいということができる。医療費を負担できないために医療サービスを受け られず,その結果重症化あるいは死亡に至るという悲惨な状態を防止するこ とは,公保険の目的の一つとさえいうことができるからである 。

22) ミルグロム[1997],

p

.182。

23) 田村[2008],

p

.132。

24) 例えばモラル・ハザードを 医療保険の場合に当てはめてみると,給付率の 上昇に伴って,罹患率や病気の重傷度が高まっていくこと と理解し,そのた め,医療保険において モラル・ハザードを問題とする余地は現実にはそれほ どないように思われる とする見解がある(井口[1992],

pp

.107‑108)。

25) 田村[2008],

p

.129‑134。

26) 田村[2008],

p

.129.,ミルグロム[1997],

pp

.182‑183。

27) 社会保険全般の説明としてある種のサービス消費が増大することを目的の一 つとしている(Black[2000],

p

.548)。

(9)

後者の場合としては保険の存在故に生じる医療費の増加である 。もちろ ん批判されることの多い過剰投薬,過剰診療が問題であることはいうまでも ない。このような不必要な医療サービスを放置することはいたずらに医療費 の増大,保険料の高騰を招き,ひいては医療保険の制度自体をも揺るがしか ねないからである。しかし保険が存在するためにより適切な医療行為を選択 できる場合が考えられる 。例えば非常に効果が高いことは明らかであって も,患者の金銭負担が高額に及ぶことを憂慮して躊躇されていた医療技術が,

保険に担保されることにより医療費負担が軽減されるときには,医師が患者 の負担を気に病むことなく実施することは十分ありうる 。この場合も保険 の存在故に保険金の支払額が増加することになり,モラル・ハザードという ことになる。これもまた保険者側からすれば全く問題がないわけではないが,

国民福祉の観点からは望ましいことであるといえよう。

さらにまた未だ実現していないが,育児保険構想においてはモラル・ハザ ードの作用を目的としているとさえ考えられる 。この育児保険とは少子化 を防止するための対策として,介護保険制度にならって構想された制度であ る。例えば保育サービスを利用する者に給付を行う。この保険制度について は,そもそも保険事故の対象とは考えられない育児を対象とすることに対し て当然反対が予想される。このような批判に対して,実施を主張する 代は 子育てを 社会的に扶養するための手段 と考えればよいとして,さらに この育児保険を活用して子供を増やそうとする,いわばモラルハザードは,

少子化対策としては,むしろ歓迎すべき ことであると主張する 。ここで

28) 田村[2008],

p

.132。なお,第三者が主体となるモラル・ハザードの問題に ついては安井[2006]。但し,本稿におけるモラル・ハザードは前稿における 狭義のモラル・ハザードより広義に捉えている。

29) もっとも,田村が指摘するように医療行為が過剰診療か適切な診療かは外部 から知ることは難しい(田村[2008],

p

.132)。

30) 安井[2006],

p

.76。

31) 代[2005],

p

.9。

32) 代[2005],

p

.9。

(10)

は出生数の増加をはかる手段として,モラル・ハザードの作用そのものが育 児保険制度創設の目的の一つとさえ考えることができるのである。

その他にも自賠責保険の例がある。自賠責保険を巡る判決においては,保 険の存在故に加害者の損害賠償責任を認めたと考えられる事例のあることが すでに主張されている 。有名な 妻は他人か事件 であるが,保険がなか ったならば認められなかった損害賠償責任が保険の存在故に認められるとい うことは,これもまた保険が生み出したモラル・ハザードの一例と言うこと ができる。この事例は保険制度自体にとって全く問題がないわけではないが,

自賠責の目的がそもそも第一に自動車事故被害者の救済にある 以上,一概 に非難することはできない。

前述のように医療保険や自賠責保険のような公保険はそもそも政策実現の 手段として用いられるものである。それゆえ目的にかなう限り,モラル・ハ ザードが生じてもそれだけで問題であるとはいえない。モラル・ハザードが 作用しているにもかかわらず,社会的には好ましい場合があるということは モラル・ハザードが保険のもたらす弊害であると簡単に結論できないことを 意味しよう。

4.モラール・ハザード

次にモラール・ハザードについて考えてみたい。まずその定義から見てお こう。Rejdaはモラール・ハザードを 保険が存在するために生ずる損失に ついての不注意や無関心 とする 。具体例として施錠していない車内への 鍵の放置,家の未施錠,ウインカーをしないまま高速道路での頻繁な進路変 更を例にあげている。この定義も保険論における他の論者の見解と大きく異 なるものではない 。

33) 山下[1998],

p

.304,倉田[1989],

p.16。

34) 鈴木[1991],

p

.27。

35)

Rejda

[2005],

p

.5.

36)

Baranoffは,モラール・ハザードを, 損失が発生するチャンスを増加させ

(11)

このようにモラール・ハザードとしては,保険が存在することによる不注 意などがあげられている。この場合にはモラル・ハザードに社会的に好まし い場合など一見考えられないようである。しかしそもそも保険により生じる 不注意とは何か。

実はモラール・ハザードに関してはその存在自体に疑義を呈する見解があ る。田村はモラール・ハザードの実在を具体的に示す材料を探したが それ らしいものはただ一件しか 見つけられないと指摘し,その一件ですらモラ ール・ハザードによるものと断定していない 。

確かにこのモラール・ハザードは前述の定義から明らかなように,そもそ も漠然とした概念である。 保険が存在するために生ずる損失についての

不注意 および 無関心 である 。 不注意 (

carelessness

) と 無関 心 (

indifference

) の両者を包含する状況をあえて説明するならいわば 緊 張感が減少した状態 とでも説明すべきであろう。

この緊張感を欠いた状態について検討する際には,保険制度の弊害ではな く反対にその意義が参考になる。保険の意義について例えば前述の

Rejda

は社会に対する保険の効用(Benefits of insurance to society)として5 つをあげている。すなわち 損失の補償 , 心配やおそれの減少 , 投資フ ァンドの源泉 , 損害防止 , 信用の増大 である。この2番目にあげられ る 心配やおそれの減少(Less worry and fear) の例としては,生命保 険を付保したことによる早期死亡による遺族の経済的な心配からの解放,ま た損害保険を付保したことに よ り,財 産 所 有 者 の 心 が よ り 安 ら ぐ こ と

たり,生じたときの損失の規模を増加させる不注意や関心のなさ としている

(Baranoff[2004],

p

.19)。

Trieschmannらはモラール・ハザードについて, 注意に欠けたり事故を起

こしがちな人の精神的な態度 がモラール・ハザードとして知られているとし ている(Trieschmann=Gustavson[1998],

pp

.11‑12)。

37) 田村[2008],

p

.214。

38)

Rejda

[2005],

p

.5.

(12)

(greater peace of mind)などをあげている 。Rejda以外にもこれまで 多くの論者が保険の意義として同様の効果をあげている 。例えば,Han-

sellは 不安の除去 等をあげる。我が国においても例えば中出は個人生活

における保険の役割として, 精神的な安心 をあげている 。

しかしながら改めて考えてみると,心配やおそれの減少,不安の除去,精 神的な安心と呼ばれる心の動きと,緊張感が減少した状態とは区別すること ができるものであろうか。心配が減少するというならば,それは緊張感が減 少した状態を意味するのではないか。安心するからには当然不安な状態より は緊張がほぐれていることだろう。心配の減少や不安の除去等は緊張感が減 少した状態と区別できないものではないのか。前述した

Rejda

を例にとる と,モラール・ハザードを不注意や無関心と説明しながらも,安心そのもの とまで言い切っていなかった。また田村も モラール・ハザードは保険加入 の結果, 安心して 注意がおろそかになることであるが,実際,保険料は 安心料という表現はよく見かける とするが,安心そのものまでをモラー ル・ハザードとは捉えていない。また中林は 精神的安定は保険の副次的効 果として認められるべきもので あるけれども,保険加入により注意水準が 低下することを完全には容認できないとする 。ここでは精神的安定がさら に進んだ段階として注意水準の低下がもたらされると考えられているようで ある 。

しかしこれらに対して安井信夫は 保険加入者の心労を排除することは,

保険の1つの効果であ るから,モラール・ハザードを 一概に弊害ときめ

39)

Rejda

[2005],

pp

.27‑28.

40)

Atearn[1989], p

.50,

Hansell

[1996],

p

.8.

41) 中出[2007],

pp

.9‑11。

42) 田村[2008],

p

.109。

43) 中林[2003],

p

.24。

44) 例えば, モラールハザードは,あらゆる契約者側が引き起こしうる ,とし ている(中林[2003],

p

.36)。

(13)

つけるには疑問がある とする。つまり,不安から解放された時点でモラ ール・ハザードが生じていると考えているが,そのように理解できるのでは ないか。

このように心配やおそれの減少や精神的安定がモラール・ハザードと捉え られてこなかった理由としては,前述したようにモラール・ハザードがその 存在自体を疑われるほど,影響が小さかったことが考えられよう。しかしハ ザードは損失の可能性を増加させる状況であればよいわけであるから,実際 に事故を引き起こさなくても,また損害につながらなくてもモラール・ハザ ードと捉えて誤りではないはずである。緊張感の減少は,ほんのわずかであ っても事故発生頻度を増加させるべく(つまりハザードして)作用している。

ハザードは必ずしも事故そのものの主たる原因でなくてかまわない。例えば 異常乾燥注意報が発令されている時に,木造家屋の脇でたき火をしたとして も,必ず火事になるわけではない。もちろん何かのきっかけさえあれば容易 に火事につながりうるから,リスクが高い状況であることに間違いはない。

注意報の発令もなくたき火もない状態に比べて火災の発生確率は高い。しか しながら,この場合は実際に事故が生じているわけではないから,起こって もいない事故の原因となるはずがない。しかし物理的ハザードとして無視で きないことは明らかである。たまたまきっかけが無いから事故につながらな かっただけである。

このように実際に事故につながらなくてもハザードと捉えることは誤りで はない。繰り返すが誰もが保険を購入した点である程度安心する,安心する というからには,不安で緊張した状態に比べた場合,若干ではあっても 緊 張感が減少した 状態であろう。となると前述したようにこれはすでにモラ ール・ハザードが作用している状態と捉えられよう。それならば保険の購入 はすぐにこのハザードを生み出しているということができよう。

もっとも,保険の購入がそのままモラール・ハザードを生み出すという点

45) 安井信[1973],p.85。但し後にこの見解を撤回している。

(14)

は,別の観点からもすでに論じられている。高尾は保険制度に本来的に内在 する撹乱要因と指摘している 。現在では経済学の教科書においても,保険 の存在が不可避的にモラル・ハザードを生み出すという説明がなされてい る 。例えば保険を購入したことにより,損失に注意を払うインセンティブ が減少することが説明される。経済学では,前述のようにモラル・ハザード とモラール・ハザードとを区別せず両者を併せたうえで論じられているから,

この場合はモラール・ハザードの問題である。損害保険の場合であれば,こ のことはいうまでもなく損害を塡補してもらうために事故防止のインセンテ ィブが減少するということである。

このように保険の購入がモラール・ハザードを必然的に生み出してしまう ことは理解されてきた。いわば保険の副作用としてである。しかし副作用と いうにとどまらず,前述のように不安の減少をもモラール・ハザードに含め るなら,その発生はより積極的に保険の作用 そのもの といえよう。前述 の指摘のように ,モラール・ハザードの発生は他ならぬ保険の効用の一つ として考えてよいのではないか。前述の田村は 安心料 と保険料について 指摘している。また中出は保険の意義として精神的な安心をあげ,そのため に保険料を払うとしている 。そこで改めて保険料の対価という観点からも みてみたい。

保険契約の性質としては有償契約性が認められている 。有償契約である ということは,保険契約の当事者がそれぞれなす出捐が対価的構造を有して いなければならず,対価関係にある二つの給付が必要であるとされる。保険 契約者が保険者に保険料を給付するのに対して,わが国の通説では,保険者 の給付は危険負担給付であると解されている。つまり保険料の対価として保 険契約者がうるのは保険金そのものではなく,保険事故発生の場合に保険金

46) 高尾[1980],

p

.111。

47) スティグリッツ[1994],

pp

.245‑246。

48) 安井信[1973],

p

.85。

49) 中出[2007],

p

.10。

50) 有償契約性の説明は,西島([1992],

pp

.11‑14)によっている。

(15)

を給付することを約束してもらうことにより, 被保険者の将来における経 済不安が現に除去されることが保険の経済的目的 なのである。つまり前 述の指摘のように保険契約者はまさに安心感をうるために保険料を支払って いるのである。保険を購入するとは安心を購入することなのである。

実際少なくとも家計保険において,保険の購入により全く安心が得られな い場合はあり得ないだろう。購入する以上何らかの安心が得られている,そ うでなければ購入しないはずである。この安心するという状況を批判的に捉 えると緊張感が減少した状態と言うことになる。つまりモラール・ハザード が発生するということができる。 安心する ならば不安の状況と比べてほ んのわずかであっても 不注意 になっているはずである。このように考え るとモラール・ハザードは実在しているといえる。しかもこれは他ならぬ保 険料の対価として捉えられるものであった。そうである以上やはりモラー ル・ハザードが弊害であると言い切ることは難しい。

結びにかえて

以上検討してきたように,ハザード概念は分野によりかなり多様であった。

そしてモラル・ハザードおよびモラール・ハザードは,必ずしも常に弊害で あるとだけは言えない場合があることが改めて確認できた。前者はハザード として作用しているにもかかわらず,社会的には好ましい場合がある。後者 は保険が生み出す副作用というよりは,保険の効用の一つと捉えられるため,

保険のもたらす弊害とはいいきることが難しい。

従来これらのハザードは,ともすれば保険制度が生み出した厄介者として,

保険の弊害 という視点から捉えられることが多かった。今後はより多面 的な視点から検討する必要があるのではなかろうか。

(筆者は香川大学経済学部教授)

51) 西島[1992],

p

.14。

(16)

主要参考 献

井口直樹[1992] 老人医療の経済分析 社会保障研究所編 リーディングス日本 の社会保障2 医療 有斐閣。

伊藤東作[1970]

Moral Hazard

についての具体的事例⎜主として自動車保険に ついて⎜ 保険学雑誌 日本保険学会。

遠藤靖典,村尾修編著[2008] リスク工学との出会い コロナ社。

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