〈書 評〉
小川博久著『保育者養成論』※
志 村 聡 子※※
はじめに
『保育者養成論』(萌文書林,2013年。以下,本書)を執筆した小川氏(以下,著者)は,大 学教員として長きにわたり教員養成・保育者養成を担ってきた。北海道教育大学で教員養成(小 学校,中学校が中心),東京学芸大学で幼稚園教諭養成,定年退職後は日本女子大学で幼稚園 教諭養成その後は聖徳大学で幼稚園教諭養成と保育士養成にかかわった(本書1頁。以下,
頁のみ示す)。保育者養成のみならず保育者の現場研修にも造詣は深く,公開研究保育の指導 園は70園に及ぶ(10頁)。日本保育学会会長を務めたことでも知られ,著者はこれまで『保育 援助論』(生活ジャーナル,2000年),『遊び保育論』(萌文書林,2010)など保育に関連するハー
ドカバーの単行本を出版してきた。このたびの『保育者養成論』という明快な題名は魅力的で,
そこには保育者養成を熟知した著者の自信と気迫さえ感じられる。
少子化で18歳人口が減少する一方,保育者養成を担う大学・短期大学・専門学校(以下,保 育者養成校ないし養成校)は増加の一途をたどってきた。しかし,圧倒的に増加した保育者養 成校の動きと連動して,保育者養成は相対的に質の向上を果たしたのか。本書を通して保育者 養成について熟考する機会としたい。
保育者とは,保育士と幼稚園教諭をともに意味する。保育士は児童福祉法に定義され,児童 福祉施設での職務(保育)を遂行する(保育所保育士と施設保育士に分けて理解されることも ある)。幼稚園教諭は学校教育法に基づき,学校の一つである幼稚園での保育を担う。保育士 の行う「保育」の意味と幼稚園教諭の行う「保育」の意味は厳密には異なるが,就学前施設で の営みとして重なる部分は大きい。近年の保育者養成校では保育士養成課程と幼稚園教諭養成 課程をともに擁し,学生も二つの資格免許の取得を希望する形が一般的である。では,二つの
※Book review:71rα∫η加gαη4εぬ。α oπ(ゾρr83c加01ごθαc加r3 by Hirohisa Ogawa
※※Akiko sHIMuRA 立正大学社会福祉学部子ども教育福祉学科准教授 キーワード:保育者養成,カリキュラム,保育,専門性,反省的思考
Preschool teacher training and education, curriculum, child care, specialization, re且ective thinking
−115一
「保育」を担う専門家の養成について,著者に学んでいくものとする。
本書の構成
本書の構成は以下の通りである。
はじめに一私の職歴と保育者養成とのかかわり 序章 保育者養成の現代的意義
1.本書執筆の動機一問題の所在
2.「保育」の専門性が語られる社会的背景 3.専門性を要請する社会システムの特質 3.「専門家」としての認知の遅れた背景は何か 第1章 保育とは,「保育」の専門性とは
1.保育という言葉の定義について 2.子育ての知恵としての保育 3.ヒトの発達の特色と子育て 4.「保育」という仕事の専門性 第2章 現代社会と「保育者」の存在意義 1.少子化の中での待機児童の増加に潜む問題 2.最近の保育政策をめぐって
3.子どもの養育の親密圏としての家庭や地域の存在は不要か 4.子育て支援と「保育者」養成
5.「保育のニーズの多様化」という考え方は正しいか 6.親と子の関係性としての親と子のカップリング
第3章 近代社会の新たな専門職としての学校教員の誕生一幼稚園教員の魁として 1.専門性をもつ人(専門家)とは
2.専門家養成と大学の誕生
3.近代の大学の成立と専門性の変貌
4.20世紀における人文科学と対立する意味での「専門性」の概念 5.高等教育機関は,職業上の問題解決に役立ってきたか一医学部の場合 6.専門家養成としての教員養成教育
7.新制大学における教職の「専門家」養成の理念と現実
第4章 小学校教育教員養成カリキュラムの課題の変遷を振り返って 1.「保育者」養成カリキュラムの変遷と問題点をどう明らかにするか 2.教員養成の中核をなすものは何か
3.教職専門科目の中核としての教育学と心理学各々の研究分野の問題性 一116一
4.教職科目の中での教育学と教育心理学の関連性
5.教職専門科目と教科専門科目を結ぶ教科教育学の役割とは何か
6.「教科教育」の役割の不透明性の背景は何か一「教科教育学」の不透明性 7.「教科専門」「教科教育」「教育方法」の相互性をどう考えていくか
8。教員養成カリキュラムの中での「教育実習」の位置と役割 第5章 21世紀の教員養成の方向と課題
1.現状の問題点とは何か
2.21世紀における教員養成課程の新たなモデルをどう評価するか 第6章 「保育者」養成カリキュラムの現状と問題点
1.現状を分析する視点を歴史的経緯から 2.「保育者」の専門性の確立のための養成とは 3,現行「保育者」養成カリキュラムの二元性 4.「保育者」養成カリキュラムの課題 5.「保育」実践につらなるカリキュラム構成 第7章 保育者養成の課題と未来的展望 1.幼児と「保育者」の関係理解の特色
2.「ケア」としての保育から教育としての保育へ 3,「保育者」の専門性の基盤としての知とは 4.保育者養成カリキュラムの改革への提案
本書のテーマとは
序章では,本書執筆の動機が語られる。著者によれば「保育者養成や教員養成制度のモデル」
は「医師養成制度」(10頁)であるが,「はたしてそうした総合的性格をどこまで確立し得てい るか」(11頁,下線は引用者による)と問いかける。「その答えは否である」とされ,一例とし て「保育者養成科目(教員養成の場合も事情はまったく同じである)の内容を構成する各科目,
教育内容や教授者の専門性の欠如がある」(11頁,かっこは原文のママ)と述べる。続いて,
次のように述べている。
たとえば,保育学(原理),保育の教育心理学や,領域科目を担当する教師の研究上の 出自は,各々,教育学や教育心理学であったり,表現領域であれば,音楽であったり,美 術であったりする。そしてそのため講義担当者の専門は当然のことながら,自らのアカデ
ミックな出身学歴の分野であるために,そこに主な関心があって,保育者養成の科目とし て総合性への関心は薄い。 (11頁,かっこは原文のママ,下線は引用者による)
つまり,平たく言えば,縁あって就職した先が保育者養成を行っていて,その一翼を担うこ とになったが,主たる問題関心はかつて在籍した大学院での研究一そうした多くの教員の姿に ついて指摘したと言える。しかし,「どんな講義科目の担当者であろうと,保育者養成の担当 者として,自らその分野を極める自由を保持しつつ,保育者養成のカリキュラムの担当者とし ては,人間形成という点で他の担当科目に開かれた関心をもち,それらの相互関係を模索する 責任をもつべき」だが,「現実には」「学科目担当教師の相互コミュニケーションは確立してい ない」(11頁)と指摘する。著者はこうした「学科目」の状況を「相互に無関係な煙突型」(13 頁)と形容し,「学科目」の「相互関係性」とともに,実習(教育実習・保育実習)と養成校 内「学科目」の連携を求めている。今日の保育者養成の諸問題こそ,著者による本書執筆の動 機である。なお,下線を付した「総合的性格」「総合性」については,後述する。
著者によれば,「保育の専門性は,自らの実践に対し知的な計画性と意図性に基づき,かか わることであり,実践の結果を反省的に省察し,次の実践に生かすという点にある」(14頁)。「保 育を知的に理解しようとする」(13−14頁)その姿勢を育てることが養成課程に求められている が,ともすれば「体験重視」(13頁)で,実習と「学科目」の連携が果たされていないとする。
保育の職務に関連して,「保育という仕事が,これまで母親になれば誰でも自然にやれる仕 事であるとみなされてきた子育てと類似するというイメージは,保育の専門性を社会に認知さ せにくいものにしてきた。」(20頁)と指摘する。子育ては「日常生活の身近でありすぎて」「実 証主義になじまないという考え方」を乗り越えて,保育の「専門性の内実をつくり上げる責務 はわれわれ「保育学」者にある。」(24頁)と述べる。本書においては,保育の専門性を明らか にすることも課題とされる。
つまり,本書における大きな課題は,①保育者養成課程に関する思索,②保育者の職務に関 わる専門性の解明で,これら2つのテーマが関連づけられながら論じられていた。保育とはい かなる営みか,そして,それを担う人をどう育てるか。本稿では,2つのテーマについて②① の順でその内容をとらえていくことにする。その後若干の考察を試みたい。
なお,著者は「保育という言葉の定義について」(第1章,1.)論じる中で,「保育の意味 を保育所の保育士や幼稚園の教諭に限定することなく,家庭における保育まで拡大する必要が 生まれる」(29頁)とし,「そしてそこから近代的公共施設の保育の仕事を子育て支援センター の職員の仕事にまで拡大し,以下の叙述においてこれを「保育」(括弧つき)とよび,その背 景となる子育ての知恵までを保育(括弧ぬき)と呼ぶことにしたい。」(29頁,かっこは原文の ママ)としている。職務として行うのが「保育」,親が担う子育ても含める営みは保育(かっ
こなし)という分け方と言えようか。本稿で適宜引用する著者の言葉には,著者によって上記 の使い分けがされている点を指摘しておく。
一118一
保育者の専門性とは(1)一カップリング
まず,保育者の専門性についてとらえていく。著者によれば,「保育」は「長い長い子育て の歴史における習慣と知恵の集積の上に成立している」が,一方,「その歴史的な伝統の保育 とどのような質的相違があるのかも語られなければならない」(35頁)とされる。また,「保育 の「専門性」は,子育ての習俗の基盤である家庭保育と施設保育の双方にかかわって考えられ なければならない。」(60頁)とも述べる。
著者は,子育てにおける親子関係について次のように述べている。
そこで,幼児の生命維持活動を助成する大人(親や保護者)の役割が一対になった状況
(これを両者のカップリングと規定しよう)を幼児の「生活」と規定しよう。このカップ リングが幼児が生育するには必要である。このカップリングは時代を超えて不変であるは ずであると考えるとき,それを幼児の「生活」ということができる。
(61頁,下線は引用者による)
この「親と子のカップリングという概念」は興味深い。しかし,「生物としての生命維持活 動に与えた文明社会の影響」により,「大入と乳幼児の時間意識の時代的へだたり」(61頁)は 大きく,「このカップリングの過程に参加する養育者と幼児の関係でいえば,生活のリズムの 相違の拡大」(63頁)が生じているという。このくだりで,評者は,多くの役割を引き受ける 忙しい大人たちが,乳幼児のゆっくりしたペースにイライラしている状況を思い浮かべた。
著者は「多くの若い世代の新たち」が「このカップリングから逃れたい」と思い,「それに 応えるのが,保育施設である。」(65頁)と指摘する。しかし,著者は「家庭保育を放棄し,施 設保育にもっぱら依存しようという傾向」(66頁)を引き受けるだけではいけないとする。「豊 かなカップリング」(67頁)とは,「子どもを主体としたゆったりとした「ノリ」と 消費文化 生活の「ノリ」(どんどんスピードアップされる生活のペース)の葛藤を克服し 前者の応答 的な関係の楽しさに気づき 幼児の笑顔に癒されることが可能になるような関係」(67頁,下 線は引用者による)である。
本書においてこの「豊かなカップリング」のイメージは,著者の理想の保育像に重なってい る。保育者には,そうした子育てのあり方を保護者に伝達していく援助技術とともに,保育者 自身にも乳幼児と一対一で育む豊かな関係(「豊かなカップリング」)を実現することのできる
「知性(反省知)」(69頁)が求められると理解した。
保育者の専門性とは(2)一ケア
著者は,「保育」の英訳がearly childhood education and careであるとして(209頁),特に careの概念について,上野千鶴子『ケアの社会学』を引合いに出しながら論じている。著者は 上野の言葉(「援助し,される関係」である「ケア」が「本来非対称であり,「相互に権利関係」
である」)を引用した上で(215頁),次のように述べる。
具体的にいえば,生み落されるままに放置されることは許されることではないし,抑圧 や強制となる「ケア」を拒否する権利が幼児にある。しかし,そのことを幼児の側は直接
「ケア」する側に要求する力はない。それゆえ,子どもの権利条約が示すように,「ケア」
する大人社会が「ケア」される幼児の立場,すなわち,大人との非対称性を想定するかに かかっている。 (231−232頁,下線は引用者による)
そもそも大人と乳幼児は対等な関係ではない。乳幼児は一人では生きていくことはできず,
「さまざまなレベルで養育者と乳幼児は生活のプロセスの中で,リズムの共有を通して相互に かかわり合」い,「共生関係を通して乳幼児は成長していく」(239頁)。さらに,先述したよう に,大人と乳幼児の「カップリング」において,その生活リズムのずれは時に大人においてス
トレスともなるのであって,乳幼児は無条件に手厚い関わりが受けられるとは限らない。
著者は次のように述べる。
(文の冒頭略引用者)「ケア」し「ケア」される関係の中で成立せざるを得ない非対称 により生ずる葛藤がとくに「ケア」する側の努力によってその都度克服されていく過 程こそ 子育て過程であるといえよう。 (246頁,下線は引用者による)
その「葛藤」を「克服」するための「努力」の方法について理解するのが専門家であるとい うことになる。ただし,幸いにもその「努力」は苦痛なものとは限らない。身体を伴う「リズ ム(「ノリ」)の共有を創出していくことで,スムーズな関係になる」(237頁,かっこは原文の ママ)とされる。乳幼児が大人との心地よい関係に基づく生活を送れること,このことが円滑 に実現するよう動員されるのが保育者の知性であると理解できる。
ただし,である。著者は,保育所や幼稚園での「保育」について次のように述べる。
施設「保育」における「ケア」は原則として集団で行われる。この集団は,まさに「ケ ア」する側の都合で作られた集団であり,この集団で「ケア」することに,幼児の発達上 の正当な根拠がないとすれば,この集団性は非対称において二重性をもつことになる。な 一!20一
ぜなら,保育者一人に対して多数の幼児という関係は,一対一のコミュニケーション関係 と対比した場合,対称性はないからである。この点は学校教育も同じである。すなわち,「ケ アjされる側にとっては,二重のハンディをつけられることになる。しかし,保育所保育 指針や幼稚園教育要領では一人ひとりの発達の保障をねらいにあげているので,上述の文 章はこの現実を踏まえて「ケア」されなければならない。しかし上述の指針も要領もその 認識は欠落している。 (252頁,下線は引用者による)
つまり,大人(ここでは特に保育者)と乳幼児は,一対一の場合であっても非対称の関係に あるのに,乳幼児が集団となれば一人ひとりの乳幼児が取り結ぶべき大人との関係は極めて 限定されることが必然となる。その前提は日常において見えにくいが,認めるべき事実として 著者によって示された。このあたりは,保育実践に精通した著者ならではの含蓄のある論述と なっている。さらに著者の言葉を引用したい。
もし,上野がいうように,この非対称を認識することが「保育者」と幼児の「ケア」関 係に必要とするならばその認識がなければならない。つまり「保育者」はこの非対称と 二重の意味で認識してかかわらねばならない。ということは,「保育者」の幼児たちへの かかわりは この二重の非対称性を克服する過程において存在する。1つは,幼児一こ口
とりの主体としての立場をどう構想できるかということと,そしてもう1つは,幼児集団 の集団としての快適性を保障しなければならないということである。言い換えれば幼児 たちにとって集団に投入されること,そして生活を行うことが彼等自身にとって快適であ るだけでなく,幼児一人ひとりの発達が保障されることである。この二重の非対称性を克 服するという2つの条件を満たすためには,共に集団で生活することの発達上のメリット を保障しなければならないということである。しかし,現在,このことは,施設保育にお いて十分に保障されていない。 (252−253頁,下線は引用者による)
こうした集団と個の「葛藤問題」や「非対称の二重性」は「「保育者」の専門性」において「避 けて通ることのできない課題」で,「保育研究(保育学)はこの集団臨床(集団の中の個を両 者の相互性においてとらえる研究)に取り組み,それが「保育者」養成カリキュラムの中核に 位置つかねばならない。」(253−254頁,かっこは原文のママ)とされた。
保育者養成カリキュラムにおいて「中核に位置」つくべき「集団臨床」について,著者は次 のように述べている。
施設「保育」の専門性としては,幼児集団を傭轍し,それを対象とすることは欠かせな い。このことは,この「集団」の一人ひとりへの把握を無視してよいということはまった く意味していない。いかに「集団」の中の個を把握するか。言い換えれば 両者の関係の
中で把握するかということである。筆者はこれを「集団臨床」とよんでいる。
この「集団臨床」研究をどう進めるかが,保育施設における保育臨床研究の課題でなけ ればならない。そしてそれが「保育者」養成のもっとも中核的内容になるべきなのである。
(265頁,下線は引用者による)
著者が理想とする大人と乳幼児との「カップリング」は,集団保育においてどのように実現 され,あるいはまた,どのように実現されず問題化するか。こうした諸課題を把握する知性こ そ,保育者に求められる専門性であると評者は理解した。学生たちが実習で集団と個の葛藤状 況に向き合い,時として解決できなかった課題を引きずることがある。また,現場保育者も同 様の行き詰まり感をとらえることもあるだろう。こうした課題の背景を探る糸口を,本書にお いて著者は明快に示してくれた。
保育者養成カリキュラムの「中核」となるべき「集団臨床」については,後述するものとし,
次項からは保育者養成課程の課題についてとらえていく。
保育者養成の課題(1)教員養成課程の歴史
保育者養成課程について論じる前提として,第3章では教員養成の歴史的考察がなされた。
明治期から教員養成は師範学校において行われたが,戦後,「教員養成改革として師範教育が 廃止され,「教員養成は総合大学および単科大学に教育学科を置いて行う」」(85頁)ことになっ た。しかし,戦後の教員養成をめぐる議論には「新制大学の新たな学問的理念を高く謳い上げ る発想があったものの」「教職の「専門性」とは異質なアカデミックな立場」が強調され,「教 職の「専門性」への無理解」(85頁)も見られた。著者によれば,教育刷新委員会での議論では,
「アカデミズムの側からの教育諸科学への蔑視と偏見が内在しており,今後の教員養成課程に おけるアカデミズム対教育科学の対立を内在」(86頁)していたとされ,「これがいわゆるアカ デミシャンとエジュケイショニストの対立であり,今後この対立が教員養成カリキュラムの 総合を困難にしていくものとして残っていくのである。」(86頁)と指摘した。
戦後の教員養成課程が構築される過程で,カリキュラムは「教職専門科目と教科専門科目,
その両者を結ぶ教科教育科目,さらに教育実習の4つの柱で構成」(96頁)されるようになった。
しかし,「教科専門科目の教官はアカデミックな学問領域の出身者であり」,「アカデミックな 研究者としての自負があればあるほど,教員養成大学に就職していることにコンプレックスと 不満を持つことが多かった。」(96頁)というエピソードは興味深い。「教員養成大学における アカデミックな学問系と教職系学問の二項対立」(100頁)も含め,教員養成課程の歴史に見い だされる上記の様相は,著者が序章で言及した今日における保育者養成校の課題につながると 理解できる。
第4章において,さらに戦後教員養成課程の課題が検討されたが,本稿において詳細は取り 一122一
上げない。ただ,「教科教育学」に関する著者による「疑義」(135頁)について言及しておき たい。著者によれば,「「教科」という概念はすぐれて,教授学的な概念」(135頁)であって,「教 科」は時代によって消滅もする。著者の「教科」を相対化する発想は,「保育の分野で領域教 育学への批判的検討につらなる」(136頁)と予告された。
第5章では,3つの国立大学(福島大学教育学部,弘前大学教育学部,鳴門教育大学)にお ける教員養成課程の事例が検討された。
保育者養成の課題(2)保育士養成課程の検討
さて,本書の主要なテーマである保育者養成について見ていくことにする。著者は,厚生労 働省管轄であるところの保育士養成課程について,その構造を分析して次のように述べている。
こうした学科目構成を見る限り,学科目各々の独自性が学問上の研究方法と対応せず組 織されている。そのため内容上の重複を整理していく学習上の視点が設定されることが困 難になる。このことが学習者にとって煩雑な印象を与えるのである。保育士養成カリキュ ラムとして,上述の福祉と教育(保育)に関する諸学科目を学習する必要性があるとして も,保育と福祉諸科目との関係性は制度的枠組み上で語られているに過ぎず,福祉という 営みの中に保育を位置づける理論が存在しているとはいえない。制度的に厚生労働省の所 管として保育所が位置づけられているがゆえに福祉と保育の関係が語られているに過ぎな い。 (206−207頁,かっこは原文のママ,下線は引用者による)
著者によれば,「こうした福祉関連科目と教育関連科目の学科目の並列網羅的科目構成は,
学生たちに記憶すべき学習内容の増大化を招く結果」となり,「詰め込みを強要することにし かならない」(207頁,下線は引用者による)とされる。著者は,「これらの科目内容は,学問 的な方法上のアプローチや考え方で,科目内容が編成されているというより,福祉分野や「保 育」分野でどのような点を網羅すべきかという点から学科目編成されているので,学習内容と
してきわめて多岐に及び,煩雑なイメージはぬぐいされない」(208頁)と述べた。
そして,保育者養成カリキュラムに求められるものは何か。著者は次のように述べる。
「保育者」養成において,「保育」を学ぶ者が「保育」とは何かについて一貫したイメー ジと思考を確立するためには,保育者養成カリキュラムの総合性を確立することが必要で ある。そしてそれが,「保育者」の専門性に寄与すると考えるべきであり,そうした思考 に基づいて保育者が「保育」の実践者として自らを自覚できる力量を形成するカリキュラ ムとしなければならない。それは,保育者が自ら実践を主体的に取り組み,反省的に保育 を改善していく力を育てるカリキュラムであるべきである。具体的にいえば,福祉と「保 一123一
育」の関係を「保育」実践者の立場で総合的に編成するカリキュラムである。言い換えれ ば,福祉と「保育」との内容を当事者的視点からとらえ 自ら実践者としてどう目的達成 に向けて行為すべきかを構想するカリキュラムであるべきである。
(208−209頁,下線と二重下線は引用者による)
上記で,カリキュラムにおいて「総合性」が求められるとされていた。「総合性」に関連す るキーワードは,「実践者の立場」「当事者的視点」である。つまり,「総合性」とは,「実践者 の立場」でその「行為」を「構想」することが必然となる視座といえようか。著者によれば,「生 活世界を全体像としてとらえることが必要」(213頁,下線は引用者による)としており,その 言葉にも注目したい。著者は次のようにも述べている。
「保育者」の専門性は,生活世界におけるよりよき生活を志向するという社会福祉理念 に基づいて,子育て(保育)の主体としての親の視点,子育て支援センターの職員が親と 子のよりよき関係性を支援するという視点と,施設保育における「保育者」の視点との一 致点において「保育」が展開されること,ここに「保育者」養成カリキュラムの総合的視 点を設置する必要がある。言い換えれば各学科目についてのメタ思考であり それらの学 科目を関係づける思考を展開することであり,具体的には,学科目内容を情報知としての み記憶するのではなく,考え方を身につけることである。
(213−214頁,かっこは原文のママ,下線は引用者による)
ここでは,単なる知識の「詰め込み」ではなく,「学科目を関係づけて」保育の「生活世界 を全体像してとらえること」のできるような授業科目群が求められていると読める。さらに著 者は「「保育」実習において実践する主体としての実践力を養成するためには,学科目編成は 総合された形で実習へ連結しなければならない。」(213頁)とする。実習授業科目群が互いに 関連しあい,かつ保育実践が保育者の生活世界に即してより具体的にイメージできる授業とな ることで,実習とも「連結」する,こうした養成カリキュラムが著者において構想されている。
保育者養成の課題(3)保育内容演習5領域
著者の論じる「カリキュラムの総合性」に関連して,いわゆる5領域についての論述をとら えたい。その前に,5領域について解説しておく。保育所保育指針と幼稚園教育要領において,
ともに保育内容を5つの領域(「健康」「人間関係」「環境」「言葉」「表現」)に区分してそれぞ れに示している。また,保育士養成課程でも幼稚園教諭養成課程でも,5領域に関する授業科
目(保育士は「保育内容演習」,幼稚園教諭は「保育内容の指導法」)を必修としている。この 5領域に関連して,著者は次のように述べている。
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保育内容における5領域の区分は,大人の学問領域や文化領域の区分の成立しない生活 世界に対し,保育する側の立てたきわめて便宜的区分でしかない。この区分に明確な内容
と方法の分離という意識を持ち込むことは大人の分化区分を未分化な生活世界に強制する 結果になり,教科内容を教授を通して幼児に教え込むということになりかねない。
(219頁,下線は引用者による)
5領域が学校の教科と同様に扱われ,保育所や幼稚園においてその「教授」が行われること が危惧されるわけであり,著者はさらに次のように述べる。
(文の冒頭略,引用者)「領域」というカテゴリーは,さまざまに分化された学問的とら え方が生活世界の中でどう重なり合っているか,あるいは同調とか共振という身体的経験 が「人間関係」にも「健康」にも,「言葉」や「表現」にも基盤となる体験であることを 示しているのである。しかしそう解釈しても,この「領域」という分け方は「保育者」に
とっても学生にとってもわかりにくく,実践的にも有効性が疑われる概念である。
(226頁,下線は引用者による)
「領域」別の学科目により,「生活世界」が分断されて空虚な学修となってしまうとの見解を とらえ得る。「領域」が「実践的にも有効性が疑われる」とはいえ,課題を克服する手立てを 著者は次のように述べる。2か所を続けて引用する。
5領域を生活文化のトータルな全体像に位置づけ,教科的な考え方を脱却するためのも う一つ大切な視点は,そうした領域的分野は各領域が排除し合う関係でなく 重なり合う 関係であるということとともに,各領域は視点の相違によって分けられるに過ぎないとい うこと,そして,その視点上の相違は,教授活動のねらいとして教授すべきではないとい うことなのである。 (222頁,下線は引用者による)
したがって,「教科」を幼児期に降ろすという「領域」観から脱却するためには,「教科」
の背景に考えられている学問的アプローチで,「領域」を解釈するのではない。上述で明 らかにしたように,学問的な見方が生活世界のどのような経験と発想が共通しているかと いう発生論的な探り方が求められるのである。 (225−226頁,下線は引用者による)
以上,5領域に関する著者の論述を見てきた。ここでも,鍵になるのは「生活世界」という 発想であった。乳幼児と大人の「生活世界」の全体像を基盤に,各領域を独立してとらえず,
各領域の重なり合いを積極的にとらえていく思考が求められる。それが,著者の考える「総合 性」の一端ではないか。序章において言及された「総合的性格」「総合性」は,乳幼児の「生 一125一
活世界」の「全体像」をとらえる「当事者」の視点であり,それが保育者養成カリキュラムに 著者が求める主要な視点の一つであると読み取った。次項では,さらに本書において主要な概 念である「反省的思考」をとらえたい。
保育者養成の課題(4)反省的思考
著者は,保育者養成において学生の知性を育てることを重視している。「保育現場には,経 験知への絶対的信仰ともいうべき信念がある」(231頁)が,こうした傾向に抗していかなけれ ばならない。著者は「半ば自覚なしに,幼児にかかわる」あり方を「当事者的直観」(216頁)
とよび,「自分を反省し,自己のかかわりを省察する力を喪失」(217頁)する態度につながる と指摘する。著者は次のように述べている。
「保育者」養成カリキュラムの場合,技能的側面の学科目が少なくない。これらの教科 目は,経験学習的な学びが必要とされる。それゆえ,保育実習において主要な側面として 経験学習が強調されるので,保育実習のもう一つの側面である研究的学びの側面の位置づ
けを明確にしておかないと,近代社会の専門性としての知的能力を備えた「保育者」を養 成することはできない。 (230頁,下線は引用者による)
上記のように,資格免許の要件である実習において,著者は「研究的学び」を期待する。「研 究的学び」に関連して,次のように述べられる。
(文の冒頭略,引用者)保育実習は経験・技能学習の側面とともに,この経験・技能学 習の場に対する経験を重視しつつも,そこから,自己の保育経験をよりょく改善していく 反省的思考を導く具体的手だてを実践する必要がある。その出発点は幼児という存在と「保 育者」の関係理解である。 (231頁,下線は引用者による)
このような「研究的」かつ「反省的思考」は,「専門家養成の学」(277頁)として以下のよ うに説明される。
しかし,
して行使していくか
その学の中核は,保育者が自らの実践をどう組み立て 身体技法(戦術知)と その際 働きかけの対象としての幼児(集団)をどう理解するか また 幼児たちはどう生き 環境とのかかわりを成立させているか そこでの保育者との かかわりはどうか,
育者」自らのあり方を含めて
(中略引用者)こうした点について対象化し 記述し 解釈し 「保 総合的な戦略知を確立するのが保育学の課題なのである。
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(277頁,下線は引用者による)
著者は,「「保育者」養成カリキュラムを保育実習を含めて,総合的にとらえる視点が求めら れる」とし,「それを筆者は臨床保育学とよんでおきたい」(279頁)と述べる。そして,次の ように述べている。
臨床保育学は,保育実践の場における保育者の実践を省察し,次の実践へのより有効な 手だてを追求するとともに,その問題解決のためには,「保育者」養成カリキュラムを形 成する学科目の相互関係性や総合的視点を求めつづける思考をもつ必要がある。それは,
既成の学科目が幼児の経験的生活世界とどうかかわっているかを問い直しつづけることで あり,これまで論じたように,学際的な研究であり,各学問のアプローチを超えたメタ思 考であり,活学的思考なのである。 (279頁,下線は引用者による)
「実践を省察」する姿勢を学生に育てるために,保育者養成カリキュラムを「総合的視点」
により構成していくこと,この態度が保育者養成カリキュラムを構成する大人の側に求められ ると読み取った。先述した「カリキュラムの中核」に「集団臨床」が位置つくとされたことも あわせることで,著者の保育者養成カリキュラムの構想が浮かび上がった。
考 察
本書について評者の独断でテーマをしぼり,適宜文章を引用しながら内容をとらえてきた。
読み落としたくない文章や見逃したくない表現を,確かめながら選んで引用したが,評者の力 量不足によって最適な文章を落としているかも知れない。保育の職務,保育者の役割,保育者 養成のあり方と,深く繊細な論述の数々に学ぶことは多かった。最後に,若干の考察を述べた
い。
保育者養成課程において,乳幼児の「生活世界」を中核にイメージしつつ,どの学科目にお いてもその議論が乳幼児の「生活世界」の一部を切り取っている点を自覚すること,そうした 姿勢が教員と学生にともに求められていると理解できた。
さて,著者が指摘するように,保育者養成校の教員はその研究分野において多様な背景を持っ ている。そのすべての教員がまさに「反省的思考」をもって,乳幼児の「生活世界」をつかむ 姿勢を得ることが求められた。では,すべての教員にそうした動機づけを促すにはどうしたら よいか。この課題は残されている。
著者は,保育士養成課程について「煩雑」であると指摘していた。保育士養成課程に対して の分析は,その展開事例に対してではなく,法規上のカリキュラム分析となっていた。一方,
著者は第5章で教員養成課程の事例(3大学)について取り上げていたが,こちらは各大学独 一127一
自のカリキュラム構想の分析であった。本書において,養成校独自に展開されるカリキュラム 事例の評価研究も望みたいところではあった。(これに関連して,著者は本書の課題として指 摘していた。218頁)
著者は保育士養成課程の構造について「研究方法論と学科目編成が対応していない」(208頁)
と指摘した。そうした課題については理解できた。保育者養成校は,研究者である教員が多数 集う場であるから,そのカリキュラムのあるべき姿について研究することが求められる。しか し,保育者養成校は行政機関によって認可され,その養成課程についての法令を遵守すること が求められている立場でもある。例え養成課程の制度に課題をとらえたとしても,法令を守ら ないことは許されない。このあたりは,悩ましいところである。
保育士養成課程では,演習科目を50人以下の授業規模で行うことが義務付けられている。評 者は,この点を評価している。この縛りによって人件費の負担が大きくなるため,養成校経営 陣や座学中心の他学部教員からは評判が悪い。しかし,保育者養成を真剣に行おうとすれば当 然の授業形態である。こうした授業形態を維持することで,学生一人ひとりに向かい合い,そ の「反省的思考」を育てる環境となる。著者は本書において学科目群の理念の分析に紙幅を割 き,授業の人的規模について言及していなかったが,乳幼児の集団規模に関する議論と同様 保育者養成課程についての構想でも,こうした人的規模を網羅する必要がある。
「子ども・子育て支援新制度」(平成27年4月〜)により,下汐連携型認定こども園の増設が 推奨され,そこで「保育」を担う保育教諭が児童福祉法に位置づけられた。保育教諭には,保 育士資格と幼稚園教諭免許の併有が求められており,保育教諭養成課程の将来構想にも関心が 高まっている昨今である。保育所保育士養成課程と幼稚園教諭養成課程を一体化させることに 期待する向きもあるが,施設保育士の養成をどうするかなど,課題は山積している。本書では,
就学前施設での保育が中心で,施設保育士について特に論じてはいなかった。しかし,著者に よる乳幼児と大人の「カップリング」という概念は,時として児童養護施設などの中高生にも 重要ではないかと気づいた。大人との一対一の関係性を十分に保障すること,そうした発想は 就学前の乳幼児だけに限らないからだ。
著者は,「「保育者」も複数の幼児たちを相手に,一対一の関係を常にとっているといった演 技的振る舞いをすることを余儀なくされている」「事実」(287頁)や「保育者の現場研修の体験」
(291頁)について,今後書き改めたいと述べている。それらの論稿を待ち,あらためて学びた い。 (本書の総べージ:301ページ)
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