『俱舍論』における無明
木 村 紫
(仏教学専攻博士後期課程2年)
0.はじめに
無明 avidyā は十二因縁(無明 ・ 行 ・ 識 ・ 名色 ・ 六処 ・ 触 ・ 受 ・ 愛 ・ 取 ・ 有 ・ 生 ・ 老死)の 最初の支である。Abhidharmakośabhāsya(『阿毘達磨俱舍論』以下 AKBh)「根品」は「痴と は無明であり、無知であり、不了知である」と無明を大煩悩地法である「痴」を表わす言葉 として用い(1)、「随眠品」は根本的な煩悩である随眠の一つに挙げる(2)。そして「世間品」では無 明を「明(vidyā)ではないもの」と述べた後、無明について否定辞‘a-’の用法から明の非 存在でもなく、単なる明でないものでもない、明と反対のダルマ(dharma 法)という解釈 を展開するが、自性による定義は示していない(3)。
AKBh は一切のダルマが実有であると説く説一切有部(以下「有部」)の複雑煩瑣な教義 をまとめた論書であり、その後の仏教論書、特に唯識、仏教論理学派の論書に非常に大きな 影響を与えた。しかし、例えば有部が過去 ・ 未来 ・ 現在の三世にダルマが実有であるとする のに対し、AKBh の作者であるヴァスバンドゥは過去や未来のダルマは存在せず、現在のダ ルマのみが存在するとし、有部の教義に対してしばしば経量部の立場から批判的に論じてい るとされる。また AKBh はその後唯識の立場で『唯識二十論』や『唯識三十頌』を著した ヴァスバンドゥの初期の論書であるが、近年では『瑜伽師地論』等唯識論書とのパラレルも 指摘されており(4)、AKBh を書いた時点でヴァスバンドゥは既に唯識の立場であったという学 説も出されている。
本稿ではまず無明に関する心作用としての記述と「世間品」における語義解釈と悪慧とす る説を中心に概観する。次いで AKBh に反論すべくサンガバドラがその頌を用いて著した
『阿毘達磨順正理論(5)』、経量部との関係も論じられるハリヴァルマンが著した AKBh に先行す る『成実論(6)』の記述にも触れて、有部において無明が煩悩とされるだけでなく、不善と無記 の二つに分けられ、更には煩悩が伴わないものとしても論じられたことと、明と反対のダル マという解釈について考察する。
1.無明と痴
有部アビダルマでは心は必ず心作用である心所を伴うとされる(7)。この心所の一つである大 煩悩地法の「痴」は前述したように無明であると述べられ、この痴を伴う心は他にも多くの 心所を同時に伴うことが規定されている。
有部は伝統的にあらゆる心に十大地法(受 ・ 想 ・ 思 ・ 触 ・ 欲 ・ 慧 ・ 念 ・ 作意 ・ 勝解 ・ 三摩 地)が必ず伴うとするが(8)、他の心所の分類については変遷があり、AKBh は十善地法(信 ・ 不放逸 ・ 軽安 ・ 捨 ・ 慚 ・ 愧 ・ 無貪 ・ 無瞋 ・ 不害 ・ 勤)、六大煩悩地法(痴 ・ 逸 ・ 怠 ・ 不信 ・ 惛 ・ 掉)、二大不善地法(無慚 ・ 無愧)、十小煩悩地法(忿 ・ 恨 ・ 覆 ・ 悩 ・ 嫉 ・ 慳 ・ 誑 ・ 諂 ・ 憍 ・ 害)と八不定地法(悪作 ・ 睡眠 ・ 尋 ・ 伺 ・ 貪 ・ 瞋 ・ 慢 ・ 疑)を心所としている。
そして、欲界の心は必ず心の粗大な動きである尋と微細な動きである伺の不定地法(9)を伴い、
欲界の善心は十大地法と十善地法と尋 ・ 伺を伴う(10)。
また不善を不共無明が相応する不善心と無明以外の他の煩悩が相応する不善心との二種類 としている(11)。
この不共無明が相応する不善心には十大地法と六大煩悩地法と二大不善地法と尋 ・ 伺の二 十の心所があり、貪 ・ 瞋 ・ 慢 ・ 疑の煩悩や十小煩悩地にあたる忿等が相応する不善心にはこ の二十の心所にそれぞれの心所を加えた二十一の心所がある(12)。このように無明は単独でも煩 悩として作用するとされる(13)が、他の煩悩は生じる際に必ず無明を伴う(14)。
しかし、大煩悩地法としては「痴」が規定されているだけで、無明そのものの規定はない。
「痴とは無明である」という記述から大煩悩地法の「痴」に無明を読みとるのである。そし て、「痴」で表される無明の存在が不善を示すかのようであるが、実際には後述のように無記 である無明も存在し、随眠ともされない二大不善地法の有無が不善か否かをわけており、こ の無明と痴の記述はレトリックのようでもある。
また、五見(有身見 ・ 辺執見 ・ 邪見 ・ 見取 ・ 戒禁取)は前述の煩悩とは区別される。見が 十大地法の一つである慧の特殊なものとされるからである。慧と見は対象を区別する心作用 であるが、そのあり方と程度に違いがある。慧はダルマを識別すること、見は判断すること と規定される。十大地法である慧は全ての心に相応するが、見は慧でありながら五識には相 応せず、意識のみに相応する(15)。更に意識に相応する心所について見と見ではない慧を区別す る。五識と染汚或いは不染汚の心所を伴う意識については判断することがないために、慧で はあっても見とはせず、意識と相応する有漏の善である世間的な正見と五見のみを見として いる(16)。このように特殊な慧である見は心所の項目に規定されず、十大地法の慧として示され る。そのため、五見のうちの邪見と見取と戒禁取を伴う心には不共無明が相応する不善心と
同様に二十の心所があることになる。
そして有身見と辺執見を有覆無記心と規定する。無記とは善でも不善でもないものである。
無記のダルマも有為法である以上果を生じるが、不善と有漏善が異熟因となって異熟果をも たらすのに対し、無記は力が弱いため異熟果を生じない(17)。この無記を有覆無記と無覆無記と にわけ、有覆無記とは有身見と辺執見であると述べている。これら二つの見は不善ではない ため、その心は十大地法と六大煩悩地法と尋 ・ 伺の十八の心所のみを伴う。すなわち有身見 と辺執見は大煩悩地法である「痴」は伴うが、二大不善地法は伴わないのである。一方、有 覆無記心以外の無記心である無覆無記心には十大地法と尋 ・ 伺の十二の心所のみがある(18)。 この有身見とは、色 ・ 受 ・ 想 ・ 行 ・ 識の五取蘊に対して「我である」「我所(私のもの)で ある」とみなす判断であり、更に「常住である」とみなす常見と、「断滅である」とみなす断 見が辺執見である。
有身見と辺執見とこの二つに伴う無明が煩悩とされながら、苦である異熟果をもたらす不 善ではなく無記である理由を、「随眠品」では他者を害する原因がないからとしている。仏教 において無常と無我は最も重要で根本的な教えであるが、自らの後世を考え、自らに願わし い異熟果を願えばこそ、布施を行なったり、戒を守ったりする。また、辺執見における断見 も解脱の役に立つと言うのである。そして、これは自分と思っているものが無常な集まりで ある五取蘊に過ぎないことを理解できないことによるのであり、他者を苦しめている訳でも ないから不善ではないと述べる。更に動物や鳥にもある生来の有身見は無記であるが、「我が ある」とする外道の分別により生ずる有身見を不善とする先の軌範師たちの見解にも触れて いる(19)。
しかし、有身見と辺執見を無記とし、この二つ以外の煩悩と不共無明が相応する心を不善 とすることは、無明に不善と無記があることを示している。このことと「随眠品」での三不 善根と三無記根の記述は対応している。欲界における一切の貪と一切の瞋と有身見と辺執見 に伴うもの以外の一切の痴がそれぞれ不善根とされる。そして無記である渇愛と無明と慧を カシミール国の論師は無記根としている。この無明は有身見と辺執見に伴うものであり、慧 については有身見と辺執見ばかりではなく、無覆無記である異熟生に至るまでを指している(20)。 痴で表される不善の無明と無記の無明があることが示され、不善根と無記根として立てられ ているのである(21)。有部が不善と無記の無明があるとし、力が弱い無記を根として立てること には留意が必要である。
2.明と反対のダルマとしての無明
「世間品」では十二因縁を論じたあと、ヴァスバンドゥは無明(avidyā)を明(vidyā)で
はないものと述べ、否定辞‘a-’の用法から無明の意味を検討する(22)。無明を単なる「明では ないもの」とすると眼等も該当し理に合わない、また「明の非存在」とするといかなるもの も無明ではなく、実体として存在しないことになり妥当ではないとする。
そして、敵(amitra 非友人)、虚偽(anrta 非真実)を例として、無明について非存在でも なく、単なる別のものでもない、「明とは反対のダルマ」という解釈を示す(23)。十二因縁が「無 明に縁り諸行がある」と説かれるように縁として説示され、諸経典において「無明は結、縛、
随眠、暴流、軛である」と説かれている(24)以上、無明が単なる非存在であるはずがないと言う が、反対という意味そのものには触れない(25)。
更に、悪妻(kubhāryā)を無妻(abhāryā)、悪子(kuputra)を無子(aputra)と言うと いう例を挙げ、否定辞‘a-’を悪しき、非難されるという意味で解釈し、無明を悪慧(kuprajñā)
とする説を示す。
しかし無明を悪慧とする説は、悪慧とは染汚された慧であり、見を本質としているとして 否定される(26)。この染汚された慧には煩悩である五見が想定されており、諸註釈書は、見は見 結、見随眠と、無明は無明結、無明随眠と別に説かれており、見と無明とは異なるものでな ければならないとしている(27)。
次に無明を見ではない慧とする説を示す。これは貪等の煩悩を伴う場合を意味するが、見 が無明を伴うからと否定される。ややわかりにくい説明になるが、見ではない悪慧が無明で あるとしたら、五見は生じる際に無明を伴うため、五見である慧に加えて無明である悪慧が 伴い、一つの心に二つの慧が同時に存在することになるから不合理であるとするのである。
そして「貪により染汚された心は解脱しない。無明により染汚された慧は清浄にならない」
という経典が引かれる(28)。貪は心と異なるものであるが、悪慧を無明とすると、慧が悪慧とい う同じ慧であるものにより染汚されることになり妥当ではなく、慧と無明とは別の存在であ るというのである。
更に善なる慧が染汚された慧と混ざっているから清浄とならないとする説が出される。貪 が常に現行しているのではなくても、貪に覆われて解脱しない人の心も熏習(bhāvanā)を 除くことにより解脱するのと同様に、無明と慧の清浄についても考えるとするのである(29)。こ の善なる慧と染汚された慧が混ざることについて、諸註釈書は異なる刹那にと解釈し、同時 に二つの慧が存在することにはならないという考えを示している(30)が、この説は頭で考えてい るに過ぎない(31)として打ち切られる。
このように無明を悪慧とする説は否定される。しかし、『婆沙論』は不共無明について正見 を起こしても誤った見を起す時があることに言及しており(32)、無明に覆われる慧という考え方 自体は有部に存在していたことになるが、諸註釈書にこの点に関する言及はない。
ここでヴァスバンドゥは顕在化していない煩悩や無明の問題を示唆し、熏習にも触れてい るのである。また、貪に対する不善根と無明に対する無記根について前述したが、引用され た経典では貪に対する心の解脱、無明に対する慧の清浄が述べられ、心と慧も区別されてい る。そして無明により染汚された慧を伴う心は解脱するのかという点は問われていない。
この説に対して、サンガバドラは心相応の貪のみが心を染汚し、無染慧が有染慧を転じて 無染を成立させるのであり、熏習はないと批判している(33)。
このあと、無明をあらゆる煩悩とする説も、①無明と煩悩が別に説かれている、②無明は 見等の他の煩悩に伴っている、③無明があらゆる煩悩であるならば「貪により染汚された心 が解脱しない」と説かれずに、「無明により染汚された心は解脱しない」と説かれたはずであ るということを理由に否定される(34)。
そして、ヴァスバンドゥは改めて実体として存在する無明の自性を問題とし、「諦と[三]
宝と業と結果の不了知である」とする説を示す(35)。しかし、この「不了知」という言葉の意味 を問い、また否定辞‘a-’の議論に至ることを示した上で、「眼とは眼識の依りどころである 清らかな色である」というように自性によらずにダルマを説示する場合があることを述べ、
心所法の「痴」に触れることもなく、無明について自性による説示をしていない(36)。 3.『順正理論』における無明
一方、サンガバドラは不了知について無明を自性とすると説くべきであり、慧の能力を損 じ、顚倒した見の原因となり、心心所を蔽う別のダルマが無明であるとする(37)。
更に無明は無知を体とし、この無知に染無知と不染無知の二種類があると言う。染無知は 断ずれば仏にも二乗にも起こらないのに対し、不染無知は断じたとしても、仏には起こらな いが、二乗には起こることがあるとし、実の如く知ることができないのが不染無知であり、
習気と呼ぶと述べる(38)。不十分な智は求めようとしない慧と異相の法と共に因となって後の同 類の慧を生じ、また因となる。これを無始以来数習して、十分に理解する智がない。この劣 智を不染無知と呼び、この劣智と俱生の心心所を総じて習気と呼ぶとする(39)。
この不染無知が二乗には起こり、習気と呼ぶことは、『婆沙論』の不染汚の邪智の記述と似 ている。これは存在しないものを有と見なす邪智であり、『發智論』と『八犍度論』が無を有 とみなす見は五見のどれにあたるのかを問題にし、これを見ではなく邪智であるとしたこと
(40)に基づく。『婆沙論』はこの邪智が染汚の慧である邪智とは異なることを説明して、邪智には 無明が相応する染汚と相応しない不染汚の二種類があるとする。そして、声聞 ・ 独覚は習気 を完全に断じるに至ってはいないため、不染汚の邪智は現行しており、煩悩と習気とを倶に 断じている如来にのみ起こらないとしている(41)。
この邪智が存在しないものを有と見なす反対の認識であるのに対し、サンガバドラの不染 無知はありのままに知ることができない劣智であり、両者は異なる。痴は無明であり無知で あると述べられており、無知(ajñāna)も否定辞‘a-’の解釈により悪しき、非難されるべ きものとして邪な知とも解釈できようが、この不染無知、無明は反対というよりも不十分な 智である。『婆沙論』は無明の意味を「達せず、解せず、了せざる」とし、明について「能く 達し、能く解し、能く了する」としており(42)、不十分な智という解釈はこの記述に沿ったもの であろう。
また『婆沙論』の不染汚の邪智は無明が相応しないものであるが、この劣智とは無明であ る。サンガバドラも不染とする以上、煩悩である無明は意図していないであろう。しかし、
この無明が煩悩でないとすると、慧は不染汚の無明により染汚されていることになり、悪慧 を無明とする説に対して染汚のダルマ、煩悩という前提のもとに論じたことは基盤を失うと 考えられる。
ここで無明は大煩悩地法の痴との関係は問題にされず、随眠の一つであることも言及され ずに染無知と不染無知とにわけられ、不染であるものが提示されている。また、無記の無明 の存在を有部アビダルマは認めているが、ここで問題とされている無明は、煩悩ではなく、
心を染汚するのでもなく、慧を染汚するダルマである。そしてこの無明は二乗には起こりう るが、仏には起こらないとするのである。
更にこの無明は不染であり、大煩悩地法の「痴」とは異なるダルマであり、心所と言える のかという問題もある。サンガバドラがこの劣智と俱生する心心所を総じて習気と呼ぶとす る理由はこの点に基づくのかもしれない。
一方でサンガバドラは前述した動物等にも起こるような生まれながらの有身見を不染無記 の邪智とする。この有身見を動物等は分別できないから判断である見ではないとし、有覆無 記である有身見と区別している(43)。我とはまさに存在しないものであるから、有身見も前述の 存在しないものを有と見なす不染汚の邪智に相当するが、仏教の基本的な教えに基づいた判 断か否かという点から煩悩とされるその特殊なものという可能性もあろう。
4.『成実論』における無明と有身見
ハリヴァルマンは仮名に随遂することを無明と呼ぶと述べる。我も我所も存在せず、諸法 の和合に過ぎないものを仮に人と呼ぶだけであるにもかかわらず、「我」という言葉に従い、
分別できないために我心を生ずることを無明としている(44)。そして、色などの五蘊が無常であ ることを如実に知る明と相違するのを無明と呼ぶと言う(45)。
AKBh と同様に否定辞‘a-’の用法により無明を解釈し、明以外のものでなく、非存在で
もない、無明の実体としての存在を論じている(46)が、しばしば喩例に有部において十大地法の 一つとされる「想」を用いる。無明があるから五蘊に対して人がいると考え、瓦石に対して 金の想を生じるから、明が単に存在しないのではなく、邪分別性を無明と呼ぶと言う。そし て、AKBh が「無明に縁り諸行がある」ことを無明の存在理由の一つとしたように、無明を 縁として諸行等が相続して生じることに言及する(47)。また、無明を邪な明とし、夜に枝のない 木を見て人の想を生じ、人を見て枝のない木の想を生じるようにと述べ、真実に知ることが できないことに基づき「不知」と呼び、阿羅漢には無明はないとして、無明を体性とする邪 心を煩悩と呼ぶとしている(48)。
「身見品」においても、「身見」を「五蘊に対する我心」として、実際には我は存在してい ないため五蘊を縁じると説き、身と呼ばれる五蘊に対して見が生じることを身見と呼ぶとし ている。そして我が存在していないのに我相を取るために見とすると言う(49)。また、外道の我 論は「常住である」「単一である」としているため誤りである、また色心に対して合わせて我 の想を生じると述べ、色等の四法に対して総じて瓶等の想を生じることを喩例としている(50)。 ヴァスバンドゥは、有身見を五取蘊を所縁とする認識と考えているが、存在しない我をあ るとする我顚倒を論じる際に、「有情である」「女性である」という想を問題とし、この想に より女性や自身に対する欲貪や我見が生じることを示唆している(51)。また、有身見を無常であ り、集まりである五取蘊に対する、「常住であり一個体(pinda)である」という想に基づく とする(52)。『成実論』が pinda という概念を用いていたかどうかはわからない。また否定辞‘a-’ の用法についても、真実に知ることができないことに対して「不知」と呼ぶとしており、
AKBh が明と反対のダルマと述べるほどの明確さはないが、無明を邪な明とするハリヴァル マンとヴァスバンドゥには通じるものがある。
しかし、AKBh では無明をあらゆる煩悩とすることは否定されたのに対し、ハリヴァルマ ンは一切の煩悩を無明と呼ぶとし、空を未だ見ない者に常に無明があると述べる(53)。そして「身 見品」においても第一義諦では「我がない」と言うことが、第二義諦では「我がある」と言 うことが正しいとして、空相をもって五蘊の想を滅することを第一義諦とすると論じている(54)。 この無明を阿羅漢は断じているとするのである。
5.無明と顚倒した想と邪智
ヴァスバンドゥは「賢聖品」において有部アビダルマの伝統的な考え方に沿って、世俗諦 について世俗の名称に基づいて「瓶がある」「水がある」と言うことは真実を述べているので あり、虚妄を述べているのではないとする(55)。また「智品」では有漏智を世俗智とし、瓶、布、
女、男等の世俗の事物を把握するからであると述べる(56)。
一方『婆沙論』は明の意味を示した後、「能く達し、能く解し、能く了する」有漏慧がどう して明と呼ばれないのかを問題とし、四諦に対して真実に通達することができないからであ るとする(57)。そして有漏慧がいかに明に値しないかについて非難にも似た言葉を延々と連ねる(58)。 無明があるから明としない(59)、有漏の善慧に対しても明に順じるが、謗道邪見を引くことは叛 臣のようであるからとも述べ(60)、明を慧により説いている。世俗において正しい智は明とはさ れていない。また前述したように正見が生じた後も誤った見が生じることに言及し、無明に 覆われていると述べている。無明については慧や明という点からの更なる考察も必要である。
ところで、ヴァスバンドゥは無明を明と反対のダルマと解釈するが、顚倒も反対を表わす 言葉である。経典において見顚倒 ・ 想顚倒 ・ 心顚倒が説かれているが、有部は想顚倒と心顚 倒は見顚倒に伴うに過ぎないものとし、顚倒を五見に基づく常 ・ 楽 ・ 我 ・ 浄についての四顚 倒に限定した上で、預流はこの四顚倒を断じているとする。そして存在しない我があると判 断する我見 ・ 我所見を有身見としている。
ヴァスバンドゥも、教えをよく聞いた預流が五取蘊に対して「我である」と判断すること はなく我見を断じているとして、この有部の枠組は維持している。しかし、有身見をあらゆ る有漏法に対する判断であるとし、無常であり、複数のものの集まりに過ぎないものを「常 住であり一個体である」とみなす顚倒した想に基づくとする(61)。そして自ら或いは女性に対す る欲貪も、有漏善である正見もこの想に基づく認識構造の上に成立しているものである(62)。 この顚倒した想は、顚倒 ・ 反対という点において明と反対のダルマである無明や無を有と みなす不染汚の邪智と通じるものがある(63)が、有漏善である正見もこの顚倒した想に基づく以 上、この想自体は煩悩と関わるものであるとは考えられない。また不染汚の邪智も無明が相 応しないとされるが、あくまで無明が相応する煩悩であることが否定されているのであり、
無明であることまで否定されたかどうかは明らかでない。そして「世間品」において無明は 相応する見や見以外の煩悩であることが否定されている。三者は無明が相応する煩悩ではな いという点でも共通している。これらの慧や智を阻害するものが如何に断じられるかという 点からの検討も必要である。
一方、『成実論』は無明を諸法の集まりに過ぎない五蘊に対する名称に随う邪分別性とし、
有身見も同様に論じ、一切の煩悩を無明とし、阿羅漢は断じているとしている。
これに対して有部は有身見を不善とせず、無記の無明の存在を認め、顚倒を四顚倒に限定 した上で、煩悩である邪智は声聞 ・ 独覚も断じているが、無を有と見なす不染汚の邪智は声 聞 ・ 独覚に起こるとしている。これは逆に存在しないものを有とみなす顚倒した認識を二乗 が起こすことを容認していたとも考えられる。ヴァスバンドゥも不染汚の無知については声 聞 ・ 独覚も未だ断じていないとしている(64)が、『發智論』『八犍度論』が無を有とみなす認識を
邪智とし、『婆沙論』がこの邪智を煩悩を伴う邪智と区別し、煩悩と習気を共に断じた如来の みが起こさない(65)としている意味も問わなければならない。
6.結 び
有部の無明には貪等の煩悩に伴い不善と繋がる痴と有身見 ・ 辺執見に伴い無記と繋がる無 明とがあり、それぞれ不善根、無記根として立てられる。更にサンガバドラは無明を染無知 と不染無知とにわけ、煩悩と関わらない無明を示し、二乗は起こすことがあるとする。
ヴァスバンドゥは無明について明とは反対のダルマという解釈を示すが、自性による説示 をしない。無明と相応する見や貪等の煩悩とは異なるダルマであり、あらゆる煩悩でもない とし、「貪により染汚された心は解脱しない。無明により染汚された慧は清浄にならない」と いう経典も引き、慧を染汚するものとする説の存在を示す。
またヴァスバンドゥは有身見も貪欲も「衆生である」「女性である」という想を前提とする ことを示唆し、それも無常であり、複数のものの集まりに過ぎないものを「常住である一つ の個物」とみなす顚倒した想に基づくとしている。世間的には正しい有漏智も同様の認識構 造をもつものであり、この想自体が煩悩と関わるとは考えられない。
有部において存在しないものを有と見なす認識は、無明が相応する煩悩を伴う邪智と異な る不染汚の邪智とされ、習気とも呼ばれている。声聞 ・ 独覚には起こる。
この顚倒した想と明の反対である無明、無を有と見なす不染汚の邪智は、顚倒 ・ 反対と関 わり、煩悩を伴うものではないが、慧や智を阻害するものである点において共通している。
しかしヴァスバンドゥ自身は不染汚の無明を認めていたのか、慧や心との関わりをどう捉 えていたのかは明らかではない。
この三者について、これらが如何に断じられるかという側面から、慧や智、習気或いは熏 習という点からも更に考察したい。
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i mdzod kyi bshad pa): D 4090, P 5591.AKLA Abhidharmakośatīkālaksanānusārinī(Pūrnavardhana)(Tib. Chos mngon pa
’
i mdzod kyi’
grel bshad mtshan nyid kyi rjes su’
brang ba shes bya ba): D 4093, P 5594.AKTA Abhidharmakośabhāsyatīkātattvārtha(Sthiramati)(Tib. Chos mngon pa
’
i mdzod kyi bshad pa’
i rgya cher’
grel pa don gyi de kho na nyid ces bya ba): D 4421, P 5875.AKVy Sphutārthā Abhidharmakośavyākhyā(Yaśomitra)Ed. Unrai Wogihara. Tokyo: Sankibo Buddhist Book Store, 1971.
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2007 『俱舍論の原典研究 随眠品』大蔵出版.
桂 紹隆
2012 「仏教論理学の構造とその意義」 桂紹隆 ・ 斎藤明 ・ 下田正弘 ・ 末木文美土編『シリーズ 大乗仏教 第9巻 認識論と論理学』3-48.春秋社.
加藤 順章
1989 『経量部の研究』春秋社.
木村 紫
2013 『俱舍論』における想顚倒」『印度学仏教学研究』62-1:380-384.
楠本 信道
2007 『倶舎論』における世親の縁起観』平楽寺書店.
櫻部 建
1979 『倶舎論の研究 界 ・ 根品』法蔵館.
1981 「俱舎論に説かれる「慧」と「見」―ジャイニ博士の所論に関連して―」『佛教学セミ ナー』34:1-8.
櫻部 建 ・ 小谷 信千代
1999 『俱舍論の原典解明 賢聖品』法蔵館.
櫻部 建 ・ 小谷 信千代 ・ 本庄 良文
2004 『俱舍論の原典研究 智品 ・ 定品』大蔵出版.
袴谷 憲昭
1986 「Pūrvācāya 考」『印度学仏教学研究』34-2:866-859.
舟橋 尚哉
1965 「煩悩障所知障と人法二無我」『佛教学セミナー』1:52-56.
本庄 良文
1992 「シャマタデーヴァの伝える阿含資料 世品(6)[51]-[75]」『佛教研究』21:77-98.
三友 健容
1976 「説一切有部における無明論の展開」『法華文化研究』2:117-128.
2007 『アビダルマディーパの研究』平楽寺書店.
宮下 晴輝
1983 「俱舍論註釈書 Tattvārtha の試訳 ―第七章第一偈より第六偈まで―」『佛教学セミ ナー』38:87-110.
1992 「無明と諸行―『俱舍論』における心と形―」『日本仏教学会年報』57:1-28.
山口 益 ・ 舟橋 一哉
1955 『俱舍論の原典解明 世間品』法蔵館.
注
(1) AKBh 56, 6.
(2) AKBh 277, 10-12(V-1bcd).
(3) この「世間品」の無明の記述については、三友[1976]が有部アビダルマの側面を踏まえて、
宮下[1992]が有部論書の記述に加え『瑜伽師地論』の記述にも触れて、更に楠本[2007]
がヴァスバンドゥの後の著作である『縁起経釈』及び諸註釈書の記述も含めて詳細に論じて いる。また Jaini[1977]は無明の記述で論じられる悪慧を阿羅漢果を得ることにより断じら れる有漏善の正見をも含む分別知とする解釈を示し、これに対しては慧と見との関係から櫻 部[1981]が難じている。
(4) Kritzer[2005]参照。
(5) サンガバドラについては加藤[1989:5-17]等参照。
(6) ハリヴァルマンについては加藤[1989:37-125]等参照。
(7) AKBh 54, 4(II-23).
(8) この十大地法の記述についてヴァスバンドゥは「伝説する(kila)」という言葉を用いており、
十大地法全てがあらゆる心に伴うとは考えていない。ヴァスバンドゥの kila については加藤
[1989:17-32]参照。
(9) AKBh 60, 21(II-33).
(10) AKBh 57, 11-15(II-28abc)
(11) AKBh 57, 10-11.
(12) AKBh 57, 6-7;58, 9-14(II-29cd).
(13) AKBh は不共無明の働きを明確に論じているとは言えない。三友[1976:118-120]は無明は 本来四諦に対する無知を指すものであり、後に随眠と相応する無明が論じられたと述べる。
また池田[2004]は「不共」という言葉に着目して無明を論じる。不共無明については『婆 沙』196下1-197下5;『阿毘曇』147中1-148上1参照。尚、『婆沙』197上2-5には不共の意味を無 明が自力で起るからとし、貪等に相応する無明は他力により起るとする説を述べる。
(14) AKBh 58, 3-6(II-29ab);58, 9-11.
(15) AKBh 58, 3(II-29ab);58, 6-8.
(16) AKBh 29, 18-30, 1(I-41cd);391, 12-15.
(17) AKBh 89, 16-20.
(18) AKBh 58, 15-20.
(19) AKBh 290, 9-20. 有身見が無記であることについては『婆沙』259下8-260中4;『阿毘曇』202 上19- 下2.尚、譬喩者は一切の煩悩を不善とする。また『婆沙』260上27- 中4は大徳が有身見 を不善とする説を掲げ、『阿毘曇』202中28- 下2はこれを佛陀提婆の説とする。
先の軌範師については袴谷[1986]等参照。
生来の有身見については Schmithausen[1987:148]参照。
(20) AKBh 291, 1-292, 7.AKBh はカシミールの論師は渇愛 ・ 無明 ・ 慧を三無記根を、外国論師は 渇愛 ・ 見 ・ 慢 ・ 癡の四無記根を説くとする。『婆沙』795上18- 下23は迦濕彌羅國の毘婆沙師が 説く無記の愛 ・ 慧 ・ 無明の三無記根と西方の諸師の説く無記の愛 ・ 見 ・ 慢 ・ 無明の四無記根 を述べる。無覆無記の慧も依因となることが勝ることを理由に無記根として立てるのに対し、
西方諸師は勢力が弱いから立てないとする。『婆沙』795下14-18:問何故此國諸師立無覆無記 慧爲無記根。答此説爲依因義是根義。無覆無記慧爲依因勝故立爲根。問何故西方諸師不立爲 根。答彼説力堅強義是根義。無覆無記慧勢力羸劣故不立根。尚『品類』693上23-26と『甘露』
968下5-6には四無記根説が見られるが、無記無明とする。
また『順正』618下6-20はこの無記根について経典に記述がないとする上座の非難に触れ、こ れも隠没経典にあったとする。
(21) AKBh 286, 17-287, 4は随眠の遍行を述べる。不共無明は限定なく遍行するとされるが、貪等 は遍行とされていない。
(22) Pānini VI.3. 73-77が否定辞を規定しているが、意味に関する記述は見られない。
(23) 楠本[2007:210-215]は文法家の解釈についても言及した上で否定辞
‘
a-’
を分析し、『縁起 経釈』における七つの否定辞‘
a-’
を示している。①明の単なる非存在、②明以外のもの、③明と似て別なるダルマ、④非難される明、⑤小さい明(不完全な明)、⑥明を欠いているも の、⑦明と対立する別のダルマというものであり、ヴァスバンドゥはこの⑦を『縁起経釈』
で妥当とし、この解釈は『俱舍論』における解釈と同じであるとする。
(24) 本庄[1992:81]参照。
(25) AKBh 140, 24-141, 8.
(26) AKBh 141, 8-11.
(27) AKVy 301, 17-18;AKTA P 65a6-8, D 381a3-4;AKLA P 357b4-6, D 304b7-305a1. 尚サンガ バドラは、見が推尋であり、猛叡決断であるから、愚痴とはいえないという点からも無明と 見が異なるとする。『順正』500下23-24:諸染汚慧名爲惡慧。於中有見故非無明。見是推尋。
猛叡決斷。不可説彼名爲愚癡。(引用にあたり適宜句点を加除した)
(28) AKBh 141, 11-19. この経典については本庄[1992:82]及び楠本[2007:225-226]参照。『順 正』500下28-29も引用し、更に無明を別のダルマと知る理由として以下も引用する。『順正』
501中3-5:如何定知此有別法。以如貪欲説永離故。謂契經言。離貪欲故心便解脱。離無明故 慧得解脱。
(29) AKBh 141, 19-23. 楠本[2007:218, fn.662, 4]は経部師が無明を染汚の慧の異称とする説明の 存在に言及し、ヴァスバンドゥが無明を明と対立する別のダルマと有部のように解釈してい る以上ヴァスバンドゥとは別の経部師ではないかとする。赤沼[1993:228, fn.46]参照。
(30) AKVy 301, 27-34;AKTA P 65b7-66a2, D 381b2-4;AKLA P 358a5-7, D 305a7-b2.
(31) この意味を AKVy 301, 34-302, 1;AKLA P 358a7-8, D 305b2はアーガマに顧慮していないと し、このあと無明を別のものと述べる論者を AKLA P 358a8,D 305b2-3は毘婆沙師とする。
(32) 『婆沙』197中12-19:問此中所説不共無明何位現起。答若諸異生由勝解力發起正見。或起邪 見。心勞惓時數數間起。迷四聖諦不共無明。謂縁四諦不欲不忍不了行相。問一切心中皆有般 若何縁今説不共無明於諦不了。答慧爲無明所覆蔽故不明不淨。於四聖諦亦不能了。復次此中 但説不共無明於諦不了。不説般若故不應責。
『阿毘曇』147下22-26:問曰。於何時現在前行耶。答曰。若人起正見。若人起見。心疲勞已。
或時起如是等不共無明不共無明不説苦。乃至廣説。問曰。如一切心中盡有慧。何以説不忍可 苦耶。答曰。爲無明所蔽故彼慧不明不了。
(33) 『順正』501上5-24:經主於此假作救言。如何不許諸染汚慧間雜善慧令不清淨説爲能染。如貪 染心令不解脱。豈必現起與心相應方説能染。然由貪力損縛於心令不解脱。後轉滅彼貪熏習時 心便解脱。如是無明染汚於慧令不清淨。非慧相應。但由無明損濁於慧。如是分別何理相違。
今詳彼言。非善分別。離相應品不能染故。若相應貪心相應故能染於心不相應貪以未斷故亦能 染者則非阿羅漢應無不染心。若謂彼貪有染不染曾所未見。又成非愛失貪纒正現前應有不染故。
又若相間雜名能染者則諸無漏慧亦應被染。又無染慧雜有染慧應令有染轉成無染。能治力強非 所治故。又諸善慧正現行時染定非有。諸染汚慧正現行時善定非有。説誰能染復染於誰。若現 有非有能互相染則應畢竟無得解脱義。若滅熏習便解脱者熏習本無更何所滅。設有熏習亦非能 染非無明體前已説故。
(34) AKBh141, 24-142, 3.尚、AKVy 302, 2;AKTA P 66a3,D 381b4-5;AKLA P 358a8-b1,D 305b3は無明をあらゆる煩悩とする説をシュリーラータの説とする。
(35) 楠本[2007:233-234]は、この定義と同様のことが AKBh 55, 6-7において信 śraddhā が四 諦 ・ 三宝 ・ 業とその果に対する確信とする他の人々の説として論じられていたことを指摘し た上で、信は大善地法であり、不信は大煩悩地法であるという対立関係にあるが、無明と対 立する明は「慧」とみなされるから大地法であり、信と不信のような対立関係ではないとす る。
(36) 楠本[2007:214-215, 232]は『縁起経釈』も対立するダルマの存在が行為の作用により確定 されると論じているとする。また宮下[1992:9-10]は自性ではなく「明の反対」という作 用により無明が規定されており、これが AKBh における無明に関わる結論といえるであろう とする。
この後 AKBh は無明をマヤターとする大徳ダルマトラータの説を論じるが、本稿では立ち入 らない。
(37) 『順正』501上27- 中3:應定何法名不了知。方可説爲無明自性。唯薄伽梵於一切法正知正説。
若性若相餘唯總了。何苦推徴。然我於斯見如是相。謂有別法能損慧能是倒見因。障觀徳失。
於所知法不欲行轉。蔽心心所。是謂無明。
宮下[1992:12]と楠本[2007:235]はサンガバドラの無明について痴に関する記述を引用 する。『順正』391下2-4:癡謂愚癡。於所知境障如理解無辯了相説名愚癡。卽是無明無智無顯。
(38) 『順正』501下22-502上3:是故無明定有別法。無知爲體。非但明無。然此無知略有二種。謂染 不染。此二何別。有作是説。若能障智是染無知。不染無知唯智非有。今詳二種無知相別。謂 由此故立愚智殊。如是名是染無知相。若由此故或有境中智不及愚是第二相。又若斷已佛與二 乘皆無差別是第一相。若有斷已佛與二乘有行不行是第二相。又若於事自共相愚是名第一染無 知相。若於諸法味勢熟徳數量處時同異等相不能如實覺是不染無知。此不染無知即説名習氣。
(39) 『順正』502上17-27:諸異生等心心所法皆不如實覺味勢熟等相。然不見生餘心所故。又一一念 彼心心所差別而生。應念念中各有別別無知法起。若謂有異相令無知差別卽此足能差別心品何 須別計不染無知。是故卽於味勢熟等不勤求解惠與異相法倶爲因引生後同類慧。此慧於解又不 勤求復爲因引生不勤求解慧。如是展轉無始時來因果相仍習以成性故。卽於彼味等境中數習於 解無堪能智。此所引劣智名不染。卽此倶生心心所法總名習氣。理定應然。
『順正理論』は数習が引く、一切智の相続には現行しない、心心所を自在に転じさせないもの を習気と呼び、不染無知とは智を差別するものとする古師の見解に言及する。この古師は心
心所を総じて習気とすることを妥当としない。『順正』502上3-16:有古師説。習氣相言有不 染汚心所差別。染不染法數習所引非一切智相續現行令心心所不自在轉是名習氣。非唯智無。
無法無容能爲因故。亦不應説有如是類心及心所總名習氣。不染無知前已説故。謂此無知爲自 性住。心等爲體。爲有差別。若自性住心等爲體佛亦應有不染無知。若有差別能差別者可是無 知非所差別。現見善等品類差別心心所中必有別法爲能差別。非即一切。如善品中必有信等。
不善品中有無慚等。染汚品中有放逸等。如是等類心心所中必有別法爲能差別。故知此中亦有 別法。能爲差別者是不染無知。
(40) 『發智』919中2-3:若無有見。於五見。何見攝。何見所斷。答此非見是邪智。
『八犍』772下19-20:若無而言有見。此非見此耶邪智。
(41) 『婆沙』42中26- 下6:謂染汚慧。答邪智有二種。一染汚。二不染汚。染汚者無明相應。不染汚 者無明不相應。如於杌起人想等。染汚者聲聞獨覺倶能斷盡亦不現行。不染汚者聲聞獨覺雖能 斷盡而猶現行。唯有如來畢竟不起。煩惱習氣倶永斷故。由此獨稱正等覺者。染汚邪智。由勝 義故名爲邪智。不染汚者。由世俗故得邪智名。非由勝義。煩惱邪法不相應故。後智蘊中所説 邪智是勝義者。今説世俗故不相違。
『阿毘曇』は無明が相応する邪智を染汚慧とし、邪智を無知と言い換えて二種類あるとする が、阿羅漢辟支佛は二事を共には[断じ]尽していないとのみ述べ、「習気」という言葉はな い。『阿毘曇』31上20-25:問曰。若然者。違智揵度如説。云何邪智。謂染汚慧。答曰。不與 彼相違。所以者何。無知有二種。所謂實義假名。實義者。與無明使相應。是諸阿羅漢已斷盡。
假名者如見杌謂是人等者。阿羅漢辟支佛亦有唯有如來等正覺二事倶盡
(42) 『婆沙』129中28- 下4:問何故名無明。無明是何義。答不達不解不了是無明義。問若爾除無明 諸餘法。亦不達不解不了。何故不名無明。答若不達不解不了以愚癡爲自相者是無明。餘法不 爾故非無明。問何故名明。明是何義。答能達能解能了是明義。
『阿毘曇』102上22-27:問曰無明是何義。答曰不知不解不識是無明義。問曰除明餘一切法。亦 不知不解不識。彼盡是無明耶。答曰若不知不解不識。是愚癡相者。説是無明。餘一切法。雖 不知不解不識無愚癡相故説不是無明。問曰明是何義。答曰知解識義是明義。
(43) 尚この生来の有身見を見所断でも修所断でもなく修道所断とするが、修道所断の意味につい ては考える必要がある。『順正』618上17-24:然經主言倶生身見是無記性。如禽獸等身見現 行。若分別生是不善性。此不應理不能分別而言見攝。見道所斷理不成故。此不應言是修所斷。
與無我解正相違故。應知但是修道所斷。不染無記邪智所攝。若不許然有太過失。謂禽獸等前 際等中不能分別。亦應得有疑等現行如有身見。
(44) 『成実』312下5-8:論者言。隨逐假名名爲無明。如説凡夫隨我音聲。是中實無我無我所。但諸 法和合假名爲人。凡夫不能分別故生我心。我心生卽是無明。
「身見品」においても名相により想分別するから我心を生ずるとする。『成実』316上23-25:
問曰。若五陰無我。衆生何故於中生我心耶。答曰。若聞人天男女名相。想分別故則生我心。
亦以非因似因故生我心。
(45) 『成実』312下11-14:又經中解明名義。謂有所知故名爲明。知何等法。謂色陰無常如實知無 常。受想行識陰無常。如實知無常。與明相違名爲無明。然則不明如實故名無明。
(46) 『成実』312下14-17:問曰。若不明如實名無明者。木石等法應名無明。以不明如實故。答曰。
不然。木石無心不能分別過去世等。無明能分別。故不同木石。;312下25-28:問曰。若非明名 無明者。今但除明一切諸法盡是無明。是故不以一法名爲無明。答曰。是無明自相中説。不説 餘法。如言不善卽説不善體。不説無記。無明亦爾。又雖禀人形。無人行故説名非人。;313上 2-3:問曰。若説無色無對無漏無爲。皆是餘説。無明何故不如是耶。答曰。或有此理。不善等 中則不如是。
(47) 『成実』312下18-24:問曰。無明名無法。如人目不見色。無不見法。是故但明無故名爲無明。
無別法也。答曰。不然。若無無明於五陰中妄計有人。及瓦石中生金想者。名爲何等。故知邪 分別性名無明。非明無故名無明也。又從無明因縁。有諸行等相續生。若無法者云何能生。
「身見品」にも瓦石に対する金玉の想という喩例がある。『成実』316中1-2:又以愚癡故生我 心。猶如盲人得瓦石等生金玉想。
(48) 『成実』313上3-13:問曰。有人言。但以明無故名無明。如室無光明則名爲闇。答曰。世間有 二種語。或明無故説名無明。或邪明故説名無明。明無故説無明者。如世間言盲不見色聾不聞 聲。邪明故説無明者。如夜見杌樹生人想見人生杌樹想。又若人不能實知是事。故名不知。又 邪心名煩惱。是諸行因縁阿羅漢斷故。無有無明因縁諸行。若非明名無明者。今阿羅漢無佛法 中明。應名無明。若有無明非阿羅漢。當知別有無明體性。邪心是也。
杭と人の喩えは、有身見について五取蘊を所縁とすると考える有部アビダルマの立場からも、
存在しない我を所縁とすると考える譬喩者或いは分別論師の立場からも使われている。『婆 沙』36上16-25;『阿毘曇』26上18-25.
(49) 『成実』315下24-26:五陰中我心名爲身見。實無我故説縁五陰。五陰名身。於中生見名爲身 見。於無我中而取我相。故名爲見。
(50) 『成実』316上2-4:諸外道輩説。我是常。以今世起業後受報故。若如是説。五陰應卽是常。又 説我者以我爲一。然則五卽應是一。是名爲過。;316上6-11:又此人雖不離陰説我。以取陰相 故不行於空。不行於空故生煩惱。從煩惱生業。從業生苦。如是生死相續不斷。又是人以計我 故。尚不能得麁分別身頭目手足。況能分別諸陰。以受我一我常故。;316中17-22:又於五陰中 生我心。是人不能分別受等諸陰。於色心中合生我想。如於色等四法總生瓶想。以色等差別有 二十分。見色是我。所以者何。色是我了法。受等所依。此諸受等繋在於色。故謂色爲我。
(51) AKBh 281, 8-14.
(52) AKBh 281, 19-21. 尚、AKBh 14, 10-11は、色と心を合わせて一個体として把握する有情の痴 に関して述べており、『俱舍』5中4-6は「總執爲我」と訳す。木村[2013]。
また Schmithausen[1987:516-518, n.1421]は pinda という概念を用いている『瑜伽師地論』
Paramārthagāthās が痴(moha)と有身見とに明確な区別をしていないことを述べる。
(53) 『成実』313上18-22:故知一切煩惱皆名無明。又不見空者常有無明。但垢無明是諸行因縁。又 邪明故説無明。未見空者常是邪明。故知無明分爲一切煩惱。
(54) 『成実』316下15-317上16. Katsura[1979]参照。但しハリヴァルマンは存在を三段階に説い ている。
(55) AKBh 333, 5-6.
二諦説については AKBh 333, 21-334, 12;『婆沙』399中10-400下12;『阿毘曇』298上12-299上 14;『順正』665上19-668上19. Katsura[1979]及び桂[2012:18-20]参照。
(56) AKBh 392, 1-2.
(57) 『婆沙』129下4-7:問若爾有漏慧亦能達能解能了何故不名明。答若達解了能於四諦眞實通達説 名爲明。諸有漏慧雖達解了而於四諦不能眞實通達故不名明。
『阿毘曇』102上27- 中2:問曰世俗智亦知解識。何以不説是明耶。答曰或有説者。若知解識。
能於眞諦決定者是明。世俗智雖知解識。不於眞諦得決定故。如遠分智雖復猛利。不能於眞諦 盡得決定。
(58) 『婆沙』129下7-130上17;『阿毘曇』102中2-25.
(59) 『婆沙』130上3-4:復次若達解了無無明者説名爲明。諸有漏慧雖達解了有無明故不名爲明。
『阿毘曇』102中20-22:復有説者。不雜無明故是明義。世俗智雜無明故非明。
(60) 『婆沙』130上12-13:有漏善慧雖順於明而能引生謗道邪見如叛臣故不名爲明。
『阿毘曇』102中22-23:復有説者。世俗智分。能生謗道法。是中應説叛臣喩。
(61) 木村[2013]。
(62) 宮下[1992:10-12]は AKBh の無明についての議論が先行する『瑜伽師地論』と類似して いることを指摘し、全文を引用する。悪慧ではなく邪智として論じており、凡夫の相続中に ある善や無記の智がすべて邪智であるとされることは不合理であるとしており、結論として は無明を心所とする。
(63) 稲見[1986:42-43]は、ダルマキールティが PV プラマーナシッディ章において苦に対する 顚倒知をこの世界の本来のあり方を認識せずに全く反対に誤解することとし、無明 avidyā、
誤解、正しい知と相対立するもの(pratipaksa, vipaksa)である無知 ajñāna、我執(=
ātmasneha =有身見 satkāyadrsti =衆生見 sattvadrsti)と同義で用い、諸煩悩の根源である
ものを指示していると導いている。
(64) AKBh 1, 10-12. 仏が習気を断じていることについては AKBh 414, 11-15;416, 1-2に記述があ る。
(65) 『婆沙論』には世尊が夢を見ない理由として一切の顚倒の習気を断尽したことを挙げる記述も 見られる。『婆沙論』194上9-13:問何等補特伽羅有夢。答異生聖者皆得有夢。聖者中從預流 果乃至阿羅漢獨覺亦皆有夢。唯除世尊。所以者何。夢似顛倒佛於一切顚倒習氣皆已斷盡故無 有夢。如於覺時心心所法無顚倒轉睡時亦爾。
『阿毘曇』145上29- 中4:問曰。何等人有夢耶。答曰。凡夫聖人倶夢。聖人從須陀洹至辟支佛 盡夢。唯有諸佛不夢。所以者何。唯有諸佛。無有疑故。亦離一切無巧便習氣故。