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較 哲 学 の 根 本 問 題 ( そ の 1 i l )

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(1)

較哲学の根本問題︵その1il︶

と認識 華教学に至る資料とその考察

四︑

唯識の主観的観念論ないし観念論的認識論の構造

機能分析︵と量子物理学との多少の比較︶

インド仏教の四学派の各思想の中︑初期楡伽行派の世親唯識の所

的asgmsss ︵idealistisch Erkenntnislehre︶として︑思 位置する︒それは如上に已に見た如くである︒

しかも︑それは後世のシナ仏教と日本仏教の各主要理論の前提条

となる根本要素として組み入れられて︑それらの新展開を可能な

らしめている︒

したがって︑世親唯識説の構造機能を分析して︑基本用語の根本

をして内容を判明に区別を明晰にして︑思想の体系を理解し確

しなければならない︒

先ず初期楡伽唯識の諸研究の中︑宇井伯壽博士著﹃当唯識二十論       

究﹄︵昭和二十八年・一九五三年︑岩波書店︶の所論における

vijfianaと vijfiaptiとのll概念の異点に着目しよう︒

ると︑左の如くである︒

1 く一百酬コ③︵識︶とく雪①O亘︵了別︑記識︶とは︑実例として同

異︶ve ︵pary5ya︶とされることもあるが︑語形が異なる ように︑字義として異なる意味をもつ︒

       ニタヒ 2 <言習③は己の接頭辞のあるへ盲倒︵知る︶の語根にana 0

接尾辞が付いて名詞となった文字であって︑一般には之を単に

と訳し︑了別の義と解する︒しかも心と意と識とは同義語で

あることは阿含経以来の説である︒

 oo vijfiaptiはe一−へ盲鋤の使役法としてapaが加はつて vi−jfiapa︑

而も多くはく工90pとなり︑これに江の接尾辞が付くとき︑

 パの母音が落ちるから︑vi−jfiaptiという名詞となつたもので︑

知らしめることの意味であり︑知らしめる者からいへば現はれ

較哲学の根本問題︵Jのl1︶ ︵伊藤︶

(2)

法華文化研究︵t. ..L.八号︸

ることである︒結局︑心の現われ︑心の働きを指すのであり︑

了別とも訳される︒

− vijfiaPtiといはれる現はれることは︑意を通じて現はれる外

れやうはないから意識︵mano−vljnana︶が意による

はれ︵mano−vijfiapti︶とせられ得るのであるし︑進んでは︑

耳鼻舌身の五me ︵vijfiana︶を通して現はれるから︑眼識等  より成る︑又は︑眼識等のく言碧ごと言はれるのである︒

5 しかし︑≦コo℃±即ち現われは︑決して主観的の方面にのみ

用されているのではなくして︑色等の現はれrupstdi−vijfi==

 aptiも第十一頒の所に用いられており︑色声香味触法の六境

         すべ と称せられており︑一切はすべて識と呼ばれる ことを示し︑一切凡ては現はれに外ならないとなす︒故に︑一

   ただ

 切は唯現はれのみ︵vijfiapti−mfitra︶︑一切は唯識のみとなす︒

即ち︑唯識無境である︒

6 すなわち︑全く作用としての識で︑猶未だ意識を考へて來な

ものをく言鋤コ①とし︑それが働くのを≦言①U±と名づ

 ける︒7 ︿言鋤コ③は︑唯識三十頒には︑ω所謂八識の一一を指してい

と︑㎝阿頼耶識を根本識といふ時の識と︑③識の轄愛といふ

時と︑④l般的に用ひられる場合と︑⑤一度唯識といふ場合と︑

に用ひられて居る︒⑤は繹t﹀︿ L vijrtapti−matraと言替へられ

るから︑<ご51①℃ごと同lと見てよい︒②も一一の識を識と 呼ぷωと同一の用法︒④はvijfifinak︷t vijfiapti−matra g中に  く言鋤コ③はく言③O±となる一種もとの所を指していふと思はれ       ヘ  へ 住するといふのであるから︑これと②とを合せて考察すると︑

る︒それは③で確められる︒即ち將に作用すべき︑或は作用し

居るもと︑又は作用した︑などの場合をくご薗コ①と呼んで居

る︒唯識二十論の頒でも釈でも全く同じ︒成唯識論にく言習o

識体転じて1分に似る︑とある如く識体の名を漢字の上で呼 ことになり︑1.分説︑三分説にしても必然的に起り来る説で

 ある︒8 ≦コ習①︵識︶−V mano−vijfiana ︵意識︶とは必ずしも同lで

 はない︒

a︶ mano−vijfidnaは︑3ESFHsw ︵tat−puru$a︶にかけて解鐸する

複合詞で︑意に依つて起る作用を識と稻して居るから︑この識

は全く厩性であり作用であつて︑意といふ主禮を離れて居らず︑

意に所有せられて居るとなす︒しかし︑実には作用としての識

あるので︑意の識といふ考が起り︑意識といふ語が起つたの

ある︒意といふものがあつて︑識が起るから︑意識といふ語

じたのではない︒故に︑本來は︑識即意︑意即識の持業繹

 ︵karma−dh◎raya︶で解するのが當を得たものである︒

10 く言習③は主体に依ってのみ起るとかいはれるものではなく︑

(3)

全く作用たるもの︑意を別にして単に識といふ作用のみと見る

 べきである︒主体として心とか意とか呼ばれるもの自体は実は

存在するものではなく観念上のものに過ぎない︒個々の机を経

して机といふ主体を考えるけれども︑机といふ主体が実在す

      ノ ゲン るものではなくして観念上のものに過ぎないのと同じである︒

ー1

viJfiaptl︶とは識︵<言鋼コ③︶が境として顕現︵11似現︶

 tvst︿b ︵vi$aya−prabhasa︶という識の態を示す︒

諸点の一部︑すなわちくご51①oごの概念の説明を補正する

ものとして︑山口益・野澤静讃両博士の共著﹃世親唯識の原典解明﹄

昭和二十八年︑法蔵館︶の註記の所説を摘出すると︑左の如くで

ある︒Z・ぱ︵宇井説の2・11に対する︶me ︵vijfiana︶とは夫々の対

象を了別し知らしむ︐︵b−︐Pの ︵visaya−vijfiapti︶即ち対象として

 ssastm︐︿brpの ︵vi$aya−prabhasa︶との意で︑眼等の六識に於

等の六境が顕現して見らるるから︑特に眼等の六識に了別

 ︵vijfiapti︶ S名を与えるのである︒

 ぱ︵宇井説の3に対する︶了as ︵vijfiapti記識︶なる語は︑阿毘 磨の識︵vlJnana︶のnvsw1:: Fvijfianarp visaya−prativijfiap−

 二●識は境を各別に了別する﹂といふ識︵vunana︶の自相が述

られる場合の了別である︒

較哲学の根本問題︵その一︑二︵伊藤︶

51 ︵宇井説の5に対する︶唯識三十頒の第二偶に﹁異熟と思量と

 as ︵の︶了as ︵vijfiaptir vi$ayasya︶となり﹂というを安慧が

してr色等の境が各別に顕現する義であるから眼等の六識は

了別である﹂といふ︒

次に宇井伯壽博士著﹃懸唯識三十頒繹論﹄︵昭和二十七年・一九

年︑岩波書店︶に示されるalaya−vijfiana g概念について要約 ると︑左の如くである︒

         おうてい 1 阿頼耶識は︑一往は実体的に考えられ身体中に存するとせら

常いふ心の奥底にあると考えられることになる︒

   くんじゅう       ロニ

2 薫習は︑心作用が滅して遺るもののあるのが考えられる所

名けられるのであり︑いわゆる遺すことであり︑遺されたも

    しニ て

を習気と名ける︒

   ジン ケ

      しゅうじ 3 習気は︑習気の出来たより後の刹那に習気を起したものと同  じものを生ずる働きを有するから種子とも呼ばれる︒

4 阿頼耶識は︑種子の凡てを貯へて居る所を阿頼耶の蔵の義を

もって称するから一切の種子を有するもの種子識ともいはれる︒

     たも 5 阿頼耶識は︑現に働きつつある六識の依止であるから受薫し       ぜんま を持つ意または意根として存する︒

6 意を安慧釈には染汚意として思量といひ︑護法説では第七末

識を思量といふ︒後者は阿頼耶識を我と考へることを思量と

(4)

華文化研究︵第..十八号︸

ある︒

7 心の種子から薫習するものと同じものが現はれるとは︑身と

別な心が現はれるのではなく身心が現はれる︑すなわち薫習す

る時に身心一体の心から同じ身心一体のもの︵執受・処︶が現

 はれ︑正・依別なく環境世界も現はれるとなすのである︒

8 すなわち色心互薫︵経量部説︶とはなさないから薫習は凡て

物︵<器ε︶が阿頼耶識である方面でいふことになる︒

9 阿頼耶識は︑二切法は識に蔵せられ識が一切法にても爾り

 ︵sarva−dharm叫 hi allnA vijfiAno te$u tat tath倒︶﹂とある如く︑

として諸法の種子を有し︑所摂蔵として諸法の中に蔵せ

られているとされる︒それは一切は皆意識内容に過ぎないとい

ふことに帰著する︒

10

阿頼耶識は︑薫習の結果たる種子を受け入れる条件を具する

間断の在り場所として︑説明解釈の為に設けられた要請たる

 一種の仮定にすぎないが︑護法説では理世俗の立場から実際に

るものとする︒

 阿頼耶識に関していはれる執受︵upfidfina︶は︑十二因縁のH

第九支︑五取蕊の取と同じで︑取ること︑阿陀那︵江習①執

持︶と同じであるが︑種子︑諸法︑心と倶なる身︑身心等を維

し統1する義として︑実在視されて阿頼耶識に帰著せしめら

る︒ 一切が阿頼耶識の表はれとして表はれるのも執受がある

らである︒

12

は︑表はれの基であり自ら表はれたるものであるか

ら最根本的のものではなくして︑護法説では依他起性とし︑そ

      そ 本に円成実性があるといはれる︒

13

は︑結局吾々の思惟に上ったものであるから生命其

ものではない︒諸根︑寿︑煙︑即ち命根を執持するも︑命根

 は仮立のもので種子にすぎない︒

14 阿頼耶識は︑凡てのもととして世界をかくあらしめるから了

別といひ了別は現存世界を現はすことを意味するに至る︒

15

本領は︑一切は悉く吾々の思惟に浮んだ限りでの存

あるということにある︒この思惟は六識のみでは解釈し得

られないので︑第六意識よりも根本・微細・無間断である心を

また尋ね求めて阿頼耶識を想定した︒

16

無覆無記の阿頼耶識を個人的と看倣す原理的のものを既にそ

内に存するとなし︑これを有覆無記の染汚意11末那識となし︑

身の起る根本となすに至った︒

17

は︑古説では一種の分裂とせられ新説では各別

体として二識とせられるのを還元し更に阿頼耶識を捨して唯識

本たる心法性︵citta−dharm①t鋤︶に証入する実践過程を

向上進修となして居る︒

(5)

この研究に対して︑上田義文博士の解説がある︒それは学問の進

を期して恩師の宇井説を批判して自説を主張するものである︒唯

究の一時期を画した必見すべき所説である︒要約すると︑左の

如Vである︒

1 安慧釈の護法釈に対する比較研究が徹底されなければならな

い︒

2 識の転変は︑第十七頒に対する安慧釈では︑妄分別と同じも

を意味し︑それの所縁が所分別自性︵富ユ斥巴豆9−c︒<書薮‖

 va︶として︑非実有のもの︵分別性︶を意味するから︑識転

‖依他性︶と非実有の諸法︵11分別性︶とは能縁と所縁と

      ニニニ

関係にあって︑両方に跨る概念ではない︒

3 よって転変とは︑識そのもの︑能縁を指している概念である

 ︵から︑宇井博士が二八五頁に言うように︑識が変化すること︑

もなく識が変化した結果としての状態でもない︶︒

4 安慧釈では﹁因の刹那︵の識︶が滅すると同時に果の刹那

 ︵の識︶が因の刹那と異って生ずること﹂であるから︑識と識

との︵因果関係の成り立つ︶時間的な前後の相違である︒

5 すなわち︵異熟︶識は現在刹那の能縁︵‖識︶を意味し︑

 ︵異熟︶転変とは前後の刹那にわたって異っているもの︵11前

刹那の識との時間的因果関係において現在刹那の識11それは識

より他のものではありえない︶を意味している︒

較哲学の根本間.題︵その.ご︵伊藤ご 6 転変は︑安慧釈では能縁の側のものを意味し所縁はその中に

含まれていないので二刹那に跨った概念であるが︑護法説では

諸識︵八識︶とその心所とが変じて見分・相分となる︵11識体

 v言芦pが転じて二分に似る︶ことで現在の一刹那に起ること

あるから所縁が含まれているので二刹那にわたらない概念で

ある︒

7 護法説では︑識の自体から識︵‖見分︶と識によって識られ      へ

       ヘ  へ るもの︵11相分︑これは識に他ならない︶が変現すること︑そ

識の自体が阿頼耶識中の種子から生変すること︑この一一義を  もつ概念であるから︑一切のものは識を離れた独立の実在では

 k6い ︵=万法不離識︶という意味の唯識説をして観念論として

することを支えている基本概念である︒

8 安慧釈では︑識が識の所縁として変化︵11変現︶することで

も識から他の識が生︵11生変︶ずることでもなく︑阿頼耶識の

中で種子が新しい薫習によって増長して前刹那の種子と違って

くること︑種子の増長︵11種子の相違11因転変︶からその果で

 ある識の相lw ︵=果としての転変︶が起ることであり︑能縁の  側 ︵ 識︶における前後の二刹那にわたる相違︵11前後が異な  ること︶であるから︑能変・所変ということは言えない︵よっ て︑宇井博士は二八五頁に転変を﹁変化ということ﹂だと言い︑

変・所変ということだと解するのは護法説の線上にあり安慧

(6)

法準文化研究︹第..ー八:Lh ︶

釈に忠実とは言い難い︶︒

9 宇井博士は﹁唯識といふのは⁝⁝所観以外の何ものでもない

となすのみではない︒根本的なものが表はれて能観・所観となっ

るのであって︑この根本的なものの表はれ以外のものはな

といふことになろう﹂二.九九頁︶︑F心法性︵o葺①−αゴ①﹁∋①11

 ta︶ g動きが阿頼耶識となるのであり︑阿頼耶識になれば︑そ

こに現実の世界が展開するのである︒従って全体の綱格的趣意

は起信論と同じであり︑︵護法説の性相永別の思想の一般大乗

教と異なるに対して︶仏教一般の考え方である﹂︵三二八頁︶

と言う︒

10 すなわち宇井説は︑︵初期楡伽行派の︶唯識説について能縁

と所縁という問題の方向に向わないで︑根本の心︑識から一切

ものが表われてくるという︵中国の摂論宗以来の長い伝統を

もった起信論の性相融即の立場︶の考え方の方向に向けられて

 いる︒11 しかし安慧釈に﹁心法性の動きが阿頼耶識になる﹂というこ

とは説かれていないばかりではなく︑真如︵法性︶が動いて妄

なる︵口﹁真如から煩悩の世界が展開する﹂という起信論

相融即の︶考え方は仏教一般の考え方であるとは言えない︒

12

しかも初期唯識説は性相融即の立場にあるけれども︑起信論

ように真如︵法性︶から妄法︵11阿頼耶識以下の諸識︶が生

ずるというように考えるのではなく︑三性説︵これは染浄二分

依他性による三性説ではない︶によってそれを明らかにして

るから︑﹁心法性が動いて阿頼耶識になる﹂ということは文

的に根拠がないだけでなく︑唯識説の根本的な考え方から言っ も︑そういうことはあり得ない︒

以上の上田博士の宇井博十の説に対する批判は︑筆者の私見によ

ると︑必ずしも合理相応するものとは思われない︒

なわち批判のーvx OOについては︑左の如く考えられるからであ

る︒

宇井説には﹁韓愛は︑異なることとある如く︑愛化といふこ

と︒而も他の力で饗化を起すのではなく︑自らの中の力で︑自

らの中に饗化を起すのである︒轄愛する過程をも︑また轄愛し

果としての状態をも︑指す︒漢課には前者を能愛︑後者を

所愛︑所轄愛となして居る︒軍に轄愛といふ時には︑善悪の性

を愛ずるをも意味せしめて居るが︑然し第十七頒と其鐸の部と

は識の轄愛と用ひて居る﹂とある︒

この中︑﹁自らの中の力で︑自らの中に変化を起す﹂とある

は︑その﹁自らの中﹂がF能縁の識自らの中﹂を意味するか

ら︒能縁の識自らの中での変化を起すことを明示している︒

したがって﹁転変する過程﹂とは阿頼耶識の中で種子が新し

(7)

薫習によって増長する︵‖因の刹那の識が滅する︶ことを意

し︑F転変した結果﹂とは前の刹那の種子と違ってくること

 ︵=因なる刹那の識と異なって生ぜる果なる刹那の識︶を意味

する︑と理解されよう︒

くの如くに理解されるから︑宇井説に云う﹁能変﹂とは所縁に

る能縁ではなくして因なる刹那の識の転変する過程を指称し︑

r変﹂とは能縁に対する所縁ではなくして果なる刹那の識の転変

した結果を指称すると解釈すれば︑安慧釈と矛盾はしないであろう︒

ところで︑しかし私見によると︑一七頒とその安慧釈とにおける

のua変 ︵vijfifina−parinama︶には︑第一・11・五・八・1五・

三・二八の諸頒との照合関係よりすると︑時間系としての転変と

間系としての転変とがありうることを知る︒

時間系としての転変は︑いわゆる前後の刹那にわたって異ってい

るもの︑すなわち三転変の中︑第一の異熟︵≦葛言という識の︶

ua

rw. ︵vijfiana−parinama︶ ︵=vijfiapti︶であり︑第二頒に一切の

種r!−−pa−geつ ︵sarva−bljaka︶es︵sti ︵vipaka︶阿頼耶と名けられる識

alayfikhya vijfiana︶である︒

田博士の8﹁所縁の識における前後の異なることであるから能

変・所変とは言えない﹂という転変の義に相当する︒       ヘ  ヘ  ヘ  へ

間系の転変とは︑前七識へと変化した結果としての異なれる状

あり︑三転変の中︑第二の思量転変と第三の了別境転変とであ

根本問題︵その一︑=︵伊藤︶       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ    る︒

なわち思量転変とは︑第五頒によると︑阿頼耶識に依りて起り

      ヘ  へ

頼耶識を所縁とするもの︑思量を自体︵11本質︶とするもので︑

V︐pt N pu b ︐9 −g v︿︶ me ︵tad−aSritya pravartate︐ tadAlambana目

mano nAma vijfiAnaip mananatmakam︶となることである︒安

慧釈には﹁阿頼耶識は意と名けられる識の習気の所依である﹂と云

い︑ F起るとは相続︵と︶して生ずるという意味である﹂と云う︒

この﹈4MIN ︵mananaという識の︶4ktw ︵=vijfiapti︶における意

と名ける識︵目芦o占習5ぐijfiana︶は︑阿頼耶識に依りて起れる

=相続して生ず︶るものであるから阿頼耶識を能変︵目生変の主

体︶とする所変︵11生変の客体︶であり︑阿頼耶識を所縁︵‖思量

客体︶として思量するから阿頼耶識に対する能縁︵‖思量の主体︶

ということになる︒

これは上田博士説の8﹁識から他の識が生 ︵−生変︶ずることで

もなく﹂︑r能︵生︶変・所︵生︶変ということは言えない﹂という

対して反省を求めるであろう︒

第三の了別境転変は︑第八頒によると︑六種の境を了得するとこ

ろの−5︶の ︵sad−vidhasya ya vi$ayasy6palabdhih s5︶となること

ある︒

この了asapt ︵vi$ay6palabdhiという識の︶転変︵‖<ご目飴o巴︶を

示す﹁六種の境を了得するところのもの﹂とは︑安慧釈に﹁六種と

(8)

華文化研究︵第一.一十.八号︶

は六種類の色声香味触法を自体とする境である﹂・﹁了得するもの

とは取るもの︑知るものという意味である﹂と云う︒第八頒の原意

は︑﹁識が︵顕現して︶色声香味触法となれる︵‖を自体とする︶

を了得する﹂︑それが転変であるということにあろう︒すなわ

     ヘ ヘ       ヘ へ      へち了別境転変とは識が︵六境として顕現し顕現した︶六境を了得す

る︵六識として生起する︶ことを意味すると理解される︒

くして識が能変として能縁であり境が所変として所縁であり︑

そのように識がはたらくことが︵了別境という︶識の転変︵くご日11

na−parinAma︶であり︑識が転変している状態が記識︵く言o℃三

ある︑と知られよう︒

したがって︑上田博士説8にある﹁識が識の所縁として変化︵11

変現︶することでも識から他の識が生︵‖生変︶することでもな

く⁝⁝能縁の側 ︵=識︶における前後の二刹那にわたる相違である

ら︑能変・所変ということは言えない﹂ということは言えないで

あろう︒ 一切唯識を明す第十七頒に﹁この識の転変が︵妄︶分別である︒

およそそれによって︵妄︶分別されるものは︑存在しない︒よって︑

この一切は唯記識のものF− g 0 ︵vijfiana−parirpAmoyarp vikalpo

ya

d vikalpyate / tena tan nasti tenedapa sarva目 vijfiapti−

mfitrakam //17//︶とある︒

これによると︑識︵‖依他起性︶のue変 ︵vijfiAna−paripa−ma︶

とは妄くI;as ︵vikalpa︶であり︑妄分別とは﹃一.十論﹄によると︑

ansu ︵dharmarpAm svabha−va︶を所取・能取等︵σq品ξP

σq品︸己穴芦ことして分as ︵pari−VMk!p=遍計執︶すること︵11遍計

所執性︶である︒また諸法はその分別された自体としては無我であ

t

〈b ︵tena kalpitenAtmana te$a日 nairAtmyarp︶とある︒これ︵11

別された自体としては諸法は存在しない︶は︑この頒に﹁妄分別

されるものは存在しkdiい ︵=dharma−nairatmya:=円成実性︶﹂と

あるのと同義を示している︑と解せられよう︒

この中︑分別の自性の相である所取とは所縁にして所変であり︑

取とは能縁にして能変である︒すなわち転変による自性は分別に

よせて云うと︑能・所の二取となるが︑これを転変によせて云うと︑

能・所の二変となる︒よって﹁能変・所変ということは言えない﹂

ということは言えないであろう︒

この頒に﹁分別されるものは︑存在しない︒よって︑この一切は

の.Pの ︵vijfiapti−mAtraka︶である﹂とあるのは︑三無自性

を示す第二十三頒に﹁三種の自性が三種の無自性であることを意趣

=abhipr卿ya︶しtJ ︵samdhAya︶︑︵遍計所執・依他起・円成実

を自体とする︶一切諸法の無自性︵11相無性・生無性・勝義無性︶

あることが示された︵salva−dharm助n餌m deSit鋼 nihsvaひh倒vat鋤︶﹂︑

を示す第二十八頒にrおよそ識が所縁を全く了得しないなら

ば︑そのときには唯記識性に安住する︵ぺ江巴o旦︺㏄冨日eこ薗口㏄召

(9)

勘v6palabhate tada︐ sthitamぐ言習①<言③Oユー∋騨﹁o宕Φ︶﹂︑究 第三十頒に﹁それはすなわち⁝⁝大牟尼の法︵‖如来法︶

と名けられるもの︵asau dharmfikhy. o yam maha−muneb︶﹂と

あり︑﹃二十論﹂に﹁不可言説の自体としてある諸仏の境なるもの

anabhilapyenatmana yo buddhanam vi$aya︶﹂︑rそれ︵‖唯記

識︶の有性︵tad−astitvaそれの実在性︶﹂︑r唯記識の安立によって

我への悟入がある︵vijfiapti−matra−vyavasthapanaya sar=

va−dharmAn鋤日 nairatmya−praveSo bhavati︶﹂とあるのに照合し

て︑縁起のgrpm ︵anuloma−pratyavekωana︶ .逆観︵U蚕↓一一〇ヨ①6°︶

を補助線として分解し図式化すると︑左の如くになろう︒

anuloma−

pratyavek$a《1a

・識吻転変︵vIJnana−parlコama︶が妄分別︵くデ゜︒百巴ーであ l −目山﹁ーー

・妄分別reれts︵︶ ︵vikalpyate︶ものは存在しk6 L ︵ nAs ti ︶−﹇

・諸法は妄分別された自体としては

naii.﹇ltlny. a︶である二

k

al piLe

n Fitn﹈:ln Fl ︶

較哲学の根本問題︹その..︶︵伊藤︶

vijiapti−ln員tra−

vyavasth亘pana pratiloma−pratyavek§ano

識1

室[

」⊥「

三1

:百

c

一     

・一切は唯記識のものであyo ︵sarvaヨ vijfiapti−

ー−−.

唯三︒itsu ︵vijコapti−matratva︶

 一寸   :

凶﹂嵩同息体︵︹;ご三君之司閂∋陪︼剴

      i

 有性︵臣二Lva︶

﹁丁﹇三︵二己□当当訓工o︾6司

牟尼の法︵ヨ鎚ゴ刑ヨ︷三一−ユす鱒二当p︶ 如

三ご占田ご.cぐyaぐ江㏄こ弓三ココ︶によって く了得しないならば︑そのとき︵ぺ知⊆巴㏄日ごo︼5日

忌コ︹︹ヨゴ鋤v6palabhate ta︵it−i︶

匿鰹哩に安住する︵砿﹇三﹇曽己e言eご−三巴三ごつ︶

我への悟入がある︵㊦ヨ.e午巳﹈巴︑ヨ呂9ニピw二w摯ヨ吉−

praveSo bhaぐEiti︶

1切の諸法︵ 三種の自性︶は無自性︵ 三無性︶である

ーh−百記識性の意趣︵・・Zj

依他avsu ︵paratantra−svabhEva依他自性︶なるee ︵vijfiana︶

転変︵parlコama︶とは妄︿Ras ︵<ikalpa︶であるから遍計所執性

pa rikalpita−svabhava所分別自性︶であろう︒

された自体としては諸法があるのではない︵鼠の江すなわち

(10)

法華文化研究︵第..一卜八号︶

諸法は無我である11汁巴互9づ︑四葺日p鋼汀c・鋤日コ巴品ごゴ毒目︶という

は︑二十三・11−;−四.1一十五の三頒によると︑自有︵ひe㏄司飴日

bh

Av a

 Sないこと︑無自性たること︵nihsvabh鋼vat鋤︶︑諸法の

rs wo ︵dharmanArp paramfirtha︶︑如是有︵﹇e巳旨占冨く①︶︑真如

o庄o薮︶であり︑唯記識性︵<﹇冒eご−ヨ巴日薮︶であるから︑円 ajexsu ︵parinispanna−svabhava円成自性︶であり︑三無︵自性︶

ある︑と知られる︒

それは二十三頒の安慧釈に﹁三種の無自性とは相無自性︵11相の

自性たること︶︑生無自性性︵11生の無自性たること︶︑勝義無自

性︵11勝義として無自性たること︶である︒一切諸法とは遍計所

執と依他起と円成実とを自体とするものtv−︵︸t︿︶ ︵trividhA nihsva−

bh

vatA lak$aコa−nihsvabh鋤vat鋤 utpatti−nibsvabh餌vat輌 param助1

trha−nihsvabhfivat鋤 ca / sarva−dharma−h parikalpita−paratantra−

pa

ri ni

pa

n

natmakah︶﹂ ︵p.41︐l.7−t.9︶とあるから︑円成実性の勝

自性性に結帰する︒

如とは︑世親の﹃大乗五蕊論﹂によると︑諸法の法性︵合07

manam dharmatti︶であるから︑心法性︵citta−︹lharmat鋼︶でも

ありうる︒

また二十五頒の安慧釈に﹁円成の自性そのものは勝義としての無

自性たるものVJ g rsc︶ ︵parinispanna eva svabhAvah paramfirtha−

nihsvabhfivata︶﹂ ︵TrimSikaこp.41︐ l.23︶︑二十八頒の安慧釈に

r所縁に執著しないときには如実の境を見るからalambanam⁝

an g︑h日i︸ti n巴bhiniくiSate yath倒bh口tartha−darSan鋤t⁝⁝︶その

時に初めて識の取の断と︑自己の心法性の中に住することとがある

t

asmin kAla vijfiAna−gr鋤hasya prahfina日 sべa−citta−dharmatay−

fiip ca prati$thito bhavati︶﹂︑Fかvして実に所縁と能縁とがそれ

等である無分別の出世間智が生じ︑所取と能取とに執著する

随眠は断ぜられて︑自己の心法性の中に心はまさに住する︵○く①日

hi samamanalambyAlambakam nirvikalpa信 lok6ttaram jfiAn=

am utpadyate︐ grAhya−grafhak◎bhiniveg鋤nuSayA prahlyante sva−

cit

ta−dhai︐mata yam ca cittam eぐa sthitambhavati︶﹂ ︵7︑rimS・ika°°

p.43︐ l.13−l.20︶とある︒

このfiAge ︵pratiloma−pratyavek$ana︶よりすれば︑心なる識に

おける勝義︵11真相︶は円成実性なる無自性たることであり︑無自

を性とする無分別の出世間智であり︑よって心法性である︑と知

られる︒

 ︐J.K;+e順gm ︵.ftnuloma−pratyaveksarpa︶より見れば︑心法性︵11

唯心h一心︶が能所の二縁・二取の執mp ︵abhiniveSa=avidya︶に

       ヘ  ヘ  へよって︵動いて︶識となり転識して三界十二有支が展開する︑と理

解される︒

      ヘ  へ

この理解によれは︑識の転変のもとに真如法性が已に想定されて

ることが知られる︒すなわち真如法性が動いて妄法になるという

(11)

考え方は︑縁起の逆観をもってすれば自明のことでもあろう︒

 したがって︑上田博士の宇井博士説に対する批判9〜12F心法性

動きが阿頼耶識になるのであり云々ということは唯識説の根本的

な考え方から言っても︑そういうことはありえない﹂ということは

成しないであろう︒

しよう︒すなわち﹁心法性が動いて阿頼耶識となる﹂といわ

る場合に︑心法性が如何にして如何ように動いて阿頼耶識となる

か︑というに︑二十八頒の安慧釈に明示される執著︵①ぴ︸邑ごく011

Sa︶がキ−・コンセプトであり︑執著とは要するに我執︵巴日㌣

bhi ni

ve

Sa)

あり無明︵avidya︶であろう︒

これについて︑筆者の﹃華厳菩薩道の基礎的研究﹄によると︑唯

となる三界即唯心を説く﹃十地経﹄と世親釈﹃十地経

論﹄︵Arya−daSabhu−mi−vyakh虻◎na︶にあっては︑心法性とは心の

本性︵prakrti︶にしてF心の明浄性︵︒﹇暮P鴛oひ︸局切e①蚕↑餌︶﹂‖

F本性としての1ml sgEr ︵prakrti prabhasvara︶﹂ =gHsu ︵sonyata︶

ある︑と知られる︒いわゆる心性本浄説である︒また勝義諦の意

を担う唯心︵citta−m勘tra︶も︑その勝義の世俗的な表現である

1 4 ︵eka−citta︶も︑所依の阿頼耶識と能依の前七識︵11転識

pr

av

rtti

−vijfiana︶を含意しながらも︑﹁我を離れたる心のみ

bda

g dari bral bahi sems tsam︶﹂としてのptss ︵moksa︶ g根

意味をもつ︑と知られる︒

較哲学の根本問題︵その.︑.︶︵伊藤︶

するに心は本性として明浄性であるが︑識︵ぐIJnana︶とは無

明︵碧己葛目es執 Atmabhinivega=作者への執著冨轟江ぴ三巨く︒11

Sa︶によって形成された業のBH︵st:L ︵avidya−prakrtasya karmarpo vipfika1行 samsk.ira︶に依止する最初のk ︵sarpskara−samniS−

rit

a

pr

at

hama−citta︶であり︑名色と共生する︵富日o占旨Pωo〒

aja︶︑と知られる︒

くして︑心︵法性︶が無明︵11我執︶により行に依止して名色

と共生するように動いて阿頼耶識となる︑と見ることができよう︒

に︑あらためて﹃唯︵記︶識二十論﹄により︑業の薫習

k

       い かち armano vasanA︶︑︵記識のではなく︶識のua変 ︵vijfiAna−pari−

nama︶とは何か︑両者の関係は如何︒これを追究しよう︒

なお︑ここでは便宜上︑<ごコ餌ロoを識 vijfiaptiを記識と記号訳 る︒

れらの業の薫習は識の相続の中に含まれるのであって異

なれる︶処に︵あるの︶ではない︵書﹁∋碧oぐ留o畠9魯目く﹇盲勘11

na−samtana−samnivi$ta nanyatra︶﹂とあり︑その七偏の後半に

よると︑﹁業の薫an ︵karmarpoヂasanA︶ gあるところ︑そこにそ

ex

 ︵phala︶ gあることが認められる︵冨ピ知9︶﹂となり︑また

rまさに薫習のあるところ︑そのところにそれ︵薫習︶の果でCl

が︶ある︑かくの如き識の転変︵のあること︶が認められる︵ピ巴11

raAiva ca vasana tatra−iva tasyah phalarp tadrSo vijfiana−parinam=

(12)

華文化研究︵SK・・卜八号︶

ba⁝isyate︶ ︵因なる薫習のあるところに薫習の果があるとは識の

変のことである︶﹂︑r彼の諸の業によって識のかくの如vに転変

することが認められる︵<言③コ③ω<部ヂa tat−karmabhis tathat parin=

amah... i$yate︶﹂︑Fme ︵vijfiana︶ Q生起 ︵sarpbhava︶と転変

pa ri ama︶とが認められる︵冨く暮o︶﹂とある︒

これにより左の如v知られよう︒

g

vlJnana︑parlnama︶とは︑①諸業による

 ︵karmabhih︶ものであり︑②︵因なる︶業の薫an ︵karmano

 vasana︶ gあるところに︑それのut ︵phala︶があることであ

り︑その果であり︑⑧︵業の薫習が︶識の相続に含まれるもの

 ︵vijfiana−sarptana−sa日nivi$ta︶である︒

要するに︑識のuarw ︵くijfiana−paritpama︶とは︑識の相続に  含まれる︵‖の中にある︶ ︵因なる︶業の薫習の︵それの︶果  ︵karma−vasana−−phala︶ ︵=果となること︶である︒

私見によると︑それ︵11因なる業の薫習の︑それの果となるこ

とである︑識の転変︶は︑記識︵くニコ③℃↓一表はれてよく知られ

るもの︶である︒そして業の薫習の果とは︑自業の果報の増上

 −R ︵sva−karma−vipakadhipatya︶によること︑前述の如し︒

   みっちしゅ

密意趣としての唯︵記︶識とは何か︒

 唯識説は︵第一義的な真実了義たる︶︵密︶︷ejew ︵abhipraya=

sapadha−bha$ya︶である︑という︒それは何か︒

なわち︑その密意趣とは︑第九偶にrおよそある自己︵11記識

とって︶の種子︵としての生起︶から︑ある︵自己にとっての色

        ン ヒ ノ

等として︶似現︵目顕現︶を有する︵一似現するものであるとこ

ろの︶記識︵‖了別︶が生起するとき︑その︵種子と似現との︶二

±l1 ︵te︶︑それ︵目記識︶の︵内と外との︶二種の処である〜

ya

ta

b sva−bijad vijfiLaptir yad abh◎sA pravartate / dvi−vidhs=

yatanatvena te tasyaL〜︶﹂とあり︑釈文に﹁色︵境︶の似現を有

する︵11色境として似現する︶記識が︑︵識の?︶転変の差別とな

る自己︵11記識︶のsu子 ︵=記識が︑⁝⁝自己を種子として︑そ

れ︶より生起するとき︑その種子と︑また︵自己の境として︶似現

あるときの︑その似現との︑その二つは︑その記識にとって︵の能

たる︶眼︵・耳・鼻・舌・身︶と︵所取たる︶色︵・声・香・味・

触︶という処であるとして ︵rapa−pratibhasa vijfiaptir yatah sva−

bijat parina−ma−viSe$a−praptad utpadyate tac ca bijam yat

pr

atibhasa ca sfi te tasy5 vijfiapteS caksu−rap︑ayatanatvena〜︶﹂

とある︒

なわち﹁︵en︵wh︷ vipaka 習気畠墨畠なる︶自己の種子より

等の︶識が生起し︵且つ︶似現が生起するとき︑その︵種子

と似現との︶二つは︑それ︵‖記識︶の内・外の処である﹂として︑

等のew ︵=外境︶を唯記識であると説く教説である︑と云う︒

この中︑sva−blja g bijaとはadhika−prabhutva=hetutva1

(13)

adhipatya=indriyaと解せられもする︒すなわち﹁自己の種子

sva−bija︶﹂とは︑﹁記識自らのもつ種子﹂であり︑﹁記識自らにとっ        ヘ  へ 子﹂であり︑﹁記識自らである種子﹂であるとの意味でもあろ

oo r種子﹂とは︑宇井博士説には︑ものとしては習気と同じで︑

自らの果を生ずると見たときが種子︑薫習によって起り残された勢

力と見たときが習気である︑と云う︒﹁記識のはたらきを引き起す

習気︵vasana︶としての増上力 ︵Adhipatya︶であり︑可能力

Sakti︶でQ︿︶根 ︵indriya︶たる内処﹂であろう︒

       ゑロ ち

よって︑︵密︶意趣︵‖密意︶とは﹁記識は自らの種子︵11能取

る見分となる内処豊ξ餌け∋完習巴碧o︶として生起し色等︵11

所取たる相分となる3E rv bahyayatana︶として似現するものであ

る﹂︵すなわち記識く言碧±とは︑識の転変の差別となれるもの

vijfidna−parinama−viSesa−praptaである︶とする唯記識の教説

vijfiaptimatra−deSana︶である︑と知られる︒

密︷Eew ︵abhipraya︶ g合目的tySElf ︵prayojana︶は如何︒

第十偏の中間に﹁また別に︑教説があって法無我への悟入がある

anyath鋼 punah / deSana dharma−nairatmya−praveSah︶﹂とあ

り︑その中︑﹁別に﹂とは唯記識のrdms ︵anyathΦti vijfiapti−

matra−deSanfi︶である︑という︒

文によると︑﹁この記識のみが色等の法を似現する劃⑳として

するが︑色等の相を有する如何なる法も決して存在しないと了

      比較哲学の根本問題︵その一.ご︵伊藤︶

して ︵eijfiapti−matram idapa rapadi−dharma−pratibhasam

utpadyate na tu ropadi−lak$arpo dharmah kopy astiti viditva︶︑      ロ 

我へのver︿ ︵dharma−nairatmya−praveSa︶をあらしめる﹂と

なる︒

なわち密意趣とは唯記識の教msi ︵vijfiapti−matra−deSana︶で

あり︑その合目的々作用︵11実用︶とは法無我へのEUr︿ ︵dharma−

nai

ratmyapraveSa︶である︑と知られる︒

密意趣である唯記識の教説と︑それの合目的々作用である法

我への悟入との︑必然的な関係の構造機能を分析しよう︒

      けゴ

くある︒

如何なる場合にも法が存在しないから︑かくの如くに

無我に悟入することがある﹂というのではない︵づo江巴已

 sarくatha dharmo n◎stity evam dharma−nairatmya−praveSo  bhavati︶O そうではなくして ︵api tu︶︑︵法無我に悟入することは︶

 ︵第十句終句︶分別︵11計執︶された自体としで︵は法が存在

しないからして法は無我であるとして法無我への悟入があるの︶

でgt︿︶ ︵kalpittitmanti︶O

諸の愚人によって諸法の自性が所取・能取等として分別︵11

執︶されるとき︑その︵自性として︶分別された自体とし

は︵法は存在しないから︶それら︵諸法︶は無我である︵ぺ○

      =.一

(14)

法華文化研究二43︑..ト八号︸

b鋤lair dharma恒助召 svabh鋤vo grAhya−grfihak鋼dib parikalpil

tas tena kalpitenatmana tesarp nairatmyam︶O −︶かし諸仏

境なるものは不可言説の自体として︵あるのだから無我であ

るの︶でte 6い ︵na tv anabhilapyentitman助 yo buddhfinfi=

M visaya iti︶O

くの如くに唯記識もまた他の記識によって分別︵11遍計執︶

された自体として︵は存在しないからーー無我であるから唯記識

も︶無我への悟入があるからして︑唯記識の安立︵があり︑

そのこと︶によって諸法の無我への悟入があるのであって︑そ

在性‖実在性11Φ江合o﹁日p︶を損減︵11否定︶するからして       あることu諸仏の境なる不可三口説の自体たる唯記識︶の有性︵11存

我への悟入があるの︶tv t! k6い ︵evam vijfiapti−ma−

tr

as

y pi vijfiapty−antara−parikalpiten倒tman餌 naiiAtmya−

pr

av

eS四t vijfiapti−m鋼tra−vyavasth翻panay鋤 sarva−dharm鋼p=

日 nair鋼tmya−praveSo bhavati na tu tad−astitv助paぐildAt /︶o となれば︑そうでない︵すなわち唯記識が他の記識によっ 別11遍計執されて自体として存在するとされる︶ならば︑

も他の記識が対境︵としてあること︶になるからして︑

たることは成立しないであろう︑けだし諸の記識が対境

を有することになるから︵一后蚕巳品巨くご51①旦○﹁①互く言o冥寸

antaram arthah sy鋼d iti vijfiapti−m助tratva日 na sidhyet⑪=

rt

ha−vatltv鋼d vijfiaptln餌日︶O

これに類通する文面が︑﹃唯識三十頒﹄の第二十七偏に﹁この

1切︶は唯記識であるとするも︑実に︵所縁を︶了得するなら︑

ものかを現前に立てしめるので︑それのみ︵11唯記識︶に安住し

ktい ︵vijfiapti mfitram evゆdam ity api hy upalam bhatah /

st

h曾payann agratah ki召−cit tan−m助tre n⑪vati$thate //27//︶ /l︑

第二十八偶に﹁およそ識︵△智︶が所縁を全く了得しないならば︑

ときには唯識性︵ 唯記識たること︶に安住する︒所取のない

ときに︑それを能取することもないからである︵ピa巴p∋げ①口oヨ

vijfi助nam naiv6palabhate tada− / sthitarp vijfi鋤na ︵・・ vijfiapti︶−

       ほニmatratve grAhyabhave tad−agrahat //28//︶﹂とあり︑﹃中辺分

as論 ︵Madhyantai︐ibhaga−bha$ya︶﹂ ︵/︸相品の第六偶に﹁唯記識

了得によって︑対境を了得しないことが生じ︑対境を了得しない

ことによって︑唯記識を︵対境として︶了得しないことが生ずる

vijfiapti−mfitr6palabdhirp niSrity齢rthゆnupalabdhir jAyate / arth叫nupalabdhi日 ni弥rit.ya vijfiapti−m鋤trasy鋤py anupalabdhir

ja ya

te

/)

とあり︑また同論の壁頭に﹁虚妄分別 ︵−唯記識べ言11

pati

−matra?︶はあり︑そこに︵依他起性▽巴.p9艮﹁午防く書冨va

おける所取σq笥ξ①・能取西品言冨の︶一一つのもの︵なる分別 i

g l

pa

rik

alpita−s.︶は︵自体としてはatmana︶有るにあらず︑さ

れど︵所取・能取の分別性の︶空性は︵ptKexsu pariniωpanna−s.と

参照

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