本館展示の新構築とその心 : 40 年ぶりの改変をお えて
著者 須藤 健一
雑誌名 国立民族学博物館研究報告
巻 41
号 4
ページ 393‑450
発行年 2017‑03‑30
URL http://doi.org/10.15021/00008448
本館展示の新構築とその心
―40
年ぶりの改変をおえて
†―須 藤 健 一
*はじめに
みなさん。おはようございます。
朝早くから,これほど多くの方にお集まりいただきましてありがとうございます。
暖かくなり自然文化園の梅の花がみなさんを呼んだのでしょうね。
私は
2017(平成29)年3月で,8 年間勤めました国立民族学博物館(みんぱく)
から,ようやく解放されることになりました。8 年前にみんぱくに来たときに
MMPはじめに
1
みんぱく今昔
1.1 渋沢敬三とアチック・ミューゼアム 1.2 大阪万博とみんぱく
1.3 写真によるみんぱく前史 2
みんぱく創設時の展示構想と開館
2.1 研究博物館と地域展示 2.2 展示の基本構想と手法 2.3 写真の語る開館期の展示3
みんぱく
40年ぶりの新構築
3.1 フォーラム展示とグローカル展示 3.2 新しい展示構想の実践
3.3 写真に見る新構築展示 4
みんぱくの美術展示と国際貢献
4.1 美術館と博物館のあいだ 4.2 国際連携展示の推進おわりに
1
みんぱくのこれから
2 Info-Forum博物館の構築
†
本稿は,2017 年
2月
15日に本館のボランティア・グループ「みんぱくミュージアム・パー トナーズ(MMP)」のステップアップ講座において講演した内容を大幅に加筆修正した論考 である。
*
国立民族学博物館長
(Minpaku Museum Partners)という,みなさまのボランティアグループがみんぱくに 貢献してくださる団体に発展していることを初めて知りました。1993 年(平成
5年)
に神戸大学国際文化学部に移ったものですから。MMP は創設から
13年目ですよね。
MMP
は博物館の教育普及活動と展示活動の補助のみならず,市民の生涯活動を支 援し,市民に活動の場を提供することを目的に結成されました。実際のボランティア 活動は,1998(平成
10)年の特別展「大モンゴル展」からはじめられたと聞いています。
私が館長になってからも,特別展,ワークショップや来館者サービスなどにたいす る皆さまの活動が良く目にはいるので,皆さまには心より敬意を表してきておりま す。それで,皆さまから何か要請がありましたら,ほかの事はさしおいて,優先して お応えしてきたつもりでございます。MMP の皆さまとの公的なお付き合いは今日が 最後になると思います。ちょうど来月に本館展示の新構築も完了しますので,その構 想やコンセプトを含めてみんぱくの展示への私の思いを
1時間ばかりの時間で話した いと思います。
それではパワーポイントにしたがって話をすすめます。
今日お話ししますことは,盛りだくさんで
1章から
4章まであります。
1974(昭和
49)年6月にみんぱくができるまで,1935(昭和
10)年の渋沢敬三らの「財団法人日本民族博物館設立」計画から
42年,みんぱくの創設からも今年で
42年になります。第
1章では,みんぱく今昔物語,主として前史について話します。
みんぱくは,1974 年の創設から
3年半後の
1977(昭和52)年11月に開館します。
世界第一流の博物館を目指した展示をいかなるコンセプトでどのように実施して開館
にこぎつけたのかについての話が第
2章です。それから,2008 年から
40年ぶりの本
館の常設展示の改築,つまり新構築が始まりましたが,そのときのコンセプトが何で
あって,新しい展示のねらいは何なのかについてが第
3章です。皆さまには新構築を
おえた本館展示の各展示場における新しい展示内容や演示の方法がその構想にそって
いるのかどうかを検証していただきたいと思います。第
4章では,博物館と美術館に
おいては,同じ造形物でも展示が全く違う美の基準と意味づけがなされますが,その
ことについての私の考えを述べます。そして,博物館と美術館の造形物の展示の壁を
低くするにはどうすればよいのかということを含めてお話します。
1 みんぱく今昔
1.1 渋沢敬三とアチック・ミューゼアム
みんぱくができるにあたっては,渋沢敬三のお力なくしては,この博物館はできま せんでした。渋沢敬三の名前をご存知の方はいらっしゃいますか?多くの方が知って おりますね。皆さまの博学に安心しました。渋沢栄一という明治初期に日本の金融・
銀行のシステムをつくった方のお孫さんです。敬三も銀行マンです。お爺さんは第一 銀行をつくりましたが,祖父の銀行に勤務しないで,敬三は横浜正金銀行に入行しま す。1921(大正
10)年東京帝国大学経済学部を卒業してからのことです。そしてその翌年からロンドン支店勤務となります。
渋沢敬三は
1922(大正11)年から3年のあいだに,ロンドンに限らずパリやベル リンやストックホルムなどを訪れては,博物館や美術館を見てまわります。大英王立 地理学会からフェローに推薦されています。渋沢は,ヨーロッパの第一流の国々には
「民族学博物館」というものが国をまとめる文化の殿堂として存在しているのになぜ 日本にはないのかという疑問をもちます。1921(大正
10)年ごろになりますと,日本は台湾,朝鮮半島,南洋群島,樺太などの植民地統治をしています。そして,欧米 列強に伍して,経済的にも軍事的にも国力を強めてきました。しかし,渋沢は,海外 の事情や異民族というものに対する日本国民の無関心さと,世界各地の人びとがつ くった文化や文化遺産を知ろうという日本人の好奇心や関心の低さに愕然とします。
1925(大正
14)年に帰国すると渋沢敬三は仲間たちとアチック・ミューゼアム(ATTIC MUSEUM)の収集活動を本格化させます。アチックとは屋根裏部屋ですから
「屋根裏部屋の博物館」ということになります。当時,東京の三田に渋沢家の大邸宅 があり,渋沢は中学生時代からそこの車庫の
2階を自分や友人の集めたものの収納場 所にし,アチック・ミューゼアムと名づけていました。しかし,収集活動が本格化す るのはロンドンからの帰国後の昭和初期以降です。そのころのアチック同人には,早 川考太郎,高橋文太郎,岡正雄,小川徹,岩倉一郎,桜田勝徳,宮本馨太郎など
30名をこす研究者の卵がいました(近藤編
2001: 148)。渋沢は,研究同人たちとともに,「よし,これから全国のだるまを集めよう」「次はわらじだ」と,日本のあらゆる生活 用具を集めはじめます。彼はそれに「民具」という新しい名称をつけて,1935(昭和
10)年までの10
数年間で約
2万点の民具を集めます。
日本だけでなく当時高砂族とよばれた台湾原住民族,朝鮮半島の蔚山や多島海,南 洋群島,そしてアイヌや樺太にも研究仲間を派遣して調査と民族資料の収集を行いま した。その調査者には,前述の同人のほかに,鹿野忠雄,馬淵東一,知里真志保など も加わり,台湾やアイヌの民具が集められました。ものを集めるのはただで集められ るものではありません。渋沢は地方に出かけて民具を収集する研究者仲間に資金を出 して人びとの生活やものの調査と収集にあたらせたのです。そして,集めた民具の整 理と研究を行いました。たとえば,1930(昭和
5)年ころからは,アシナカ(足半,かかと部分のない草鞋)の機能や形態などの比較研究をする共同研究も組織しまし た。渋沢は,仕事を終えてから仲間たちと民具の話や研究を夜遅くまでするのが楽し みでした。また,休日には自ら収集に出かけていますし,銀行から休暇をとって国内 だけでなく朝鮮半島や台湾へ収集の調査旅行に出かけています。
渋沢敬三が民具の収集とその研究に情熱を燃やしたのは,昭和初期に生活様式の変 化が著しく日頃の生活で使われている生活用具がなくなっていく現実を目にしたから です。渋沢は,「生活器具ノ如キハ,一日空シウスル事ハ,悔ヲ百年ニ胎ス憾ガアリ マス。
―中略
―将来斯種ノ機関ガ組織サレル迄ノ期間ヲモ,
―中略
―私共ノ企ガ 出発シマス。」(宮本馨太郎
1965: 278)と研究仲間に呼びかけています。将来ある機関ができるまでとは,民族学博物館の設立が念頭にあったのです。渋沢は,まず
1934(昭和9)年に東洋史の白鳥庫吉らと日本民族学会を設立します。翌年には,学
会附属の民族学研究所をつくり,研究仲間に周囲民族(台湾,朝鮮半島など)の調査 研究と民具収集を指示するとともに,研究員をおいて機関誌『民族学研究』を発刊し ます。理事としての渋沢は学会創設,研究所の運営およびその後の日本民族学会の研 究活動に積極的に財政支援をしています。この民族学会を母体として渋沢は,理事長 の白鳥らと翌年に「民族博物館設立」の構想と計画をかため,1936(昭和
11)年に文部省にその建議書を提出しました(宮本常一
1965: 50)。しかし,日中戦争が起きて国家財政がひっ迫しており国立の民族博物館設立の夢はかないませんでした。
渋沢敬三は「首都の東京に民族学博物館一つないようでははじまらん」と,自ら博 物館の建設にとりかかります。アチック仲間の協力で保谷(現西東京市)に
8千坪の 土地を購入し,野外博物館を設立します。建物は建設会社の倉庫を譲り受け,1937
(昭和
12)年に建物を建て,1939(昭和14)年に日本民族学会附属民族学研究所に附属する民族学博物館として開館します。渋沢はそれまでに収集した
2万点余の民具を
博物館に移転し土地と建物とともに日本民族学会に寄贈します。そして,この民族学
研究所には,古野清人,有賀喜左衛門,宮本馨太郎,馬淵東一ら
14名の研究員を配
置して博物館の管理運営にあたらせました(宮本馨太郎
1978: 4)。その後も博物館は,国内や植民地での調査と収集活動を続けます。この研究者の研究活動をふくめた運営 費は全額,渋沢のポケットマネーでまかなわれました(佐野
2009: 211)。また,渋沢は,伊豆地方の漁業の歴史や漁業経済学の研究基盤をきずくとともに,民族学,民俗 学,宗教学,農村経済学,農学,生物学などの研究者からなる調査団を組織し,薩南 諸島や瀬戸内で学際的な総合調査を行っています。
しかし,太平洋戦争がはじまり,1942(昭和
17)年民族学会は財団法人民族学協会となり,博物館もそこに移管されました。戦中は博物館の資料や研究所の疎開など を余儀なくされます。渋沢は,戦争末期に日銀総裁,戦後には大蔵大臣に就任します が,渋沢家は財政的に博物館を維持することが困難になりました。渋沢は日本民族学 協会(財団法人民族学協会の改組・改称)の会長をつとめ,民族学博物館を
1949(昭和
24)年に再開します。そして,建物の老朽化が進んだこともあり,日本民族学協会は文部省へ収蔵庫の建設を要望し,1962(昭和
37)年に文部省資料館が建設されました。渋沢は,「将来国立の民族学博物館ができたらすべてを移管すること」を条 件に
2万点余りの民具資料を文部省に寄贈しました。
渋沢敬三は,昭和の初めから民具収集だけでなく,民族学や民俗学などの若手研究 者の調査研究を支援し,学術雑誌の発行や書籍の刊行などの財政援助も行い,多くの 人材を育成しました。また,日本民族学会(現日本文化人類学会)もその創設期から,
現在に至るまで保谷の土地と博物館の寄贈を受けるなど渋沢の支援を受けて発展して きました。渋沢敬三は,1963(昭和
38)年に亡くなりますが,晩年に「人をつくり,本をつくった。ありがたいことだ」と語ったと息子の雅英は書いています(渋沢
1966:111–112)。つまり,13
名のアチック同人が博士の学位を取得し,大学等の研究職に
つくことができたのです。
1960(昭和
40)年代から日本の経済が飛躍的に発展し,日本企業が東アジア・東南アジアに進出しはじめます。日本の企業は,本国の経営方針や労働規則をそのまま 現地に適用したために大きな文化摩擦が起きました。故田中角栄首相がインドネシア 訪問中に卵を投げられるという事件も起きました。日本の経営論理をもって東南アジ アへ進出し,日本の労働慣行というものを現地の人に押しつけるという経済進出は多 くの問題を抱えることになりました。現地の人びとの労働慣行では,お金(給料)を もらえばしばらく休んで良い,つまり会社に行かなくても良いという労働観がかつて はありました。
そのような経験をすることで,日本の企業や日本の人びとが,海外に出て,現地の
人びととお付き合いするには,現地のことば,習慣,歴史,文化などを知ることが必 要になりました。現地の人びとの生き方や労働観などの知識なくしては日本の海外企 業は立ち行かないということがわかってきました。そのような状況のもと,ようやく 日本と異なる社会の人や文化のこと,言葉や習慣を習得するための研究機関や組織が 必要であることに気づきました。それが民族学博物館の創設につながってくるのです。
1964(昭和
39)年には,日本民族学協会から分離独立した日本民族学会を中心に,日本人類学会,日本考古学会,日本民俗学会などが「国立民族学研究博物館(仮称)
設置」について,文部大臣や政府関係方面に要望書を提出し,その実現に向けての運 動を展開します。翌年の
1965(昭和40)年には,日本学術会議からその設置について内閣総理大臣あてに勧告が出されました。その後も,民族学会の理事たちは,文部 省や関係諸機関へ根気強く説得を続けました。そしてついに,1971(昭和
46)年に「国立民族学研究博物館(仮称)に関する調査会議」が設置され,1973(昭和
48)年の創設準備室の開設へとつながったのです。
1930 年代からの白鳥や渋沢らの学会理事たちは,学会をベースに研究者たちと民 族学博物館設立に向けての我慢強い努力をしました。その結果,1960 年代に大きな 転換期を迎えます。その動きに拍車がかったのが大阪の日本万国博覧会の開催です。
この万博のテーマ館の総合プロデューサーは岡本太郎でした。
1.2 大阪万博とみんぱく
梅棹忠夫は大阪万博が始まる数年前から研究仲間たちと万博を考える会を組織し て,どういう万博をするのかを考えていました。政府から万博のテーマ作成を依頼さ れ,「人類の進歩と調和」を編みだしました。さらに,万博の開会式の首相のあいさ つ文も梅棹たちのグループが作成したと聞いています。梅棹は大阪万博に日本の将来 をかけて大きなエネルギーを投入しておりました。一方,万博のテーマ館のプロ デューサーとして岡本太郎も自分の夢を実現するべく活動しました。
岡本はパリで長いあいだ生活し,著名な民族学者マルセル・モースなどから民族学 の薫陶を受けました。岡本は,パリのトロカデロの「人類博物館」に通いながら,世 界の仮面や神像に人間が自然と闘いながらたくましく生き抜いてきた誇らかな証を見 出していたようです(大杉
2008: 153)。岡本は万博開催の3年前の
1967(昭和42)年にテーマ・プロデューサーを引き受け,「『ベラボーなもの』をつくる」と宣言しま
す。それが太陽の塔を中心に,地下(過去),地上(現在),空中(未来)の空間スペー
スで展開されます。この発想は,日本の縄文文化への岡本の強い関心,人間の心の原
点は縄文にありきという構想にむすびつくといえます。その縄文イメージというもの を太陽の塔の地下世界において世界の神像・仮面でもって表現したのです。つまり,人 間の深い悩みの深淵をあらわすのは祈りの世界を構成することであると考えたのです。
このなかでも,地下の展示空間,つまり「過去の根源の世界には,どうしても見せ もの,作りものではない,人間文化の切実であり,誇らかな証拠を置きたい」という 構想から,世界の諸民族の生活用具や仮面や彫像を収集・展示する考えが浮かびまし た(岡本・泉・梅棹編
1970: 2)。この考えを実現したのが,当時東京大学の泉靖一と京都大学の梅棹忠夫であった。二人は,1968(昭和
43)年に文化人類学・民族学の若手研究者
20名からなる「日本万国博覧会世界民族資料収集団」を結成し,世界各 地で民族資料の収集作業に入りました。1968(昭和
43)年からの半年間で,仮面500点,神像
300点,生活器具・生活用品
1200点など総計
2600点が集められました(梅 棹編
1973: 333)。これらの世界の民族資料のうち仮面と神像は,太陽の塔の地下世界の「祈り」の コーナーに金色の太陽を囲むように展示されました(写真
1)。岡本太郎は日本にパリやメキシコ同様の民族学博物館をつくることが長年の夢でした。そして,万博終了 後,岡本は,明治百年の記念事業検討委員会など,種々の会議に出席しては「民族学 博物館」の設立を提案していました。岡本が大阪万博を契機に世界の仮面・神像や生 活用具を収集する計画を考えた背景には,万博後に民族学博物館を設立するための種 をまくという戦略があったともいえます。
太陽の塔の地下世界に展示された民族資料は,万博終了後一時,万国博記念協会に 保管されていましたが,1977(昭和
52)年の国立民族学博物館の開館後は,その一部がみんぱくに移管され,現在はすべての資料がみんぱくに寄贈されています。
みんぱくは
1974(昭和49)年に法的に誕生し,1977(昭和52)年春の建物が竣功してから展示に取り掛かり,11 月
15日に開館しました。開館当時のみんぱくには,
事務棟も未完成,講堂もなければ,特別展示館も,第
5展示場,第
6展示場,第
7展 示場,第
8展示場もない,今よりも小さな展示スペースでスタートします(写真
2)。その時の常設展示場の面積は約
4,400平米で約
5,000点の民族資料を展示しました。
それ以降,増殖可能なメタボ建築の構造をいかし,つまり展示場の増築を繰り返し,
現在は第
6展示場が未完ですが,そのほかの展示場は
1996(平成8)年に完成しました。これにより,本館の常設展示場の面積は約
9,700平米に拡張しました。
写真
2 竣功直後のみんぱく(1977年)と開館
30周年のみんぱく(2007 年)。
写真
1 太陽の塔の地下世界の仮面と神像[平野編2008: 48]。1.3 写真によるみんぱく前史
ここで写真をとおしてみんぱくが創設されるまでの足跡を見ることにしましょう。
渋沢敬三と収集品の写真です(写真
3)。同じ種類の民具を全国各地から徹底的に集めています。地方にいる研究協力者にも収集を頼みました。ダルマ,器物,筌,絵 馬,ぞうり,すりおろし具。これらは渋沢敬三没後
50年記念の特別展「屋根裏部屋 の博物館 ATTIC MUSEUM」で展示されました。多くのアチック同人たちと集めた 民具は渋沢邸の車庫の二階の屋根裏部屋に収納されていたのですが,そこがいっぱい になります。それで国立の民族博物館の建設をめざすことになります。1939(昭和
14)年にできた保谷の民族学博物館は,野外博物館を兼ね,展示場,収蔵庫,民家のほかに日本民族学会附属民族学研究所がつくられ,13 名の研究員が博物館の管理運 営と周辺民族や国内の調査と民具取集にあたりました(写真
4)。渋沢敬三を囲むアチック同人の写真です(写真
5)。渋沢は1963(昭和38)年に亡くなりますが,多くの研究者を育てました。銀行員として多忙な仕事をこなし,戦中 には日本銀行総裁,戦後には大蔵大臣を務めました。そういう財界で活躍しながら
写真
3渋沢敬三とアチック・ミューゼアムの収集品(1935 年)[近藤編
2001: 1; 国立民族学博物館 2013]。
写真
4 保谷の日本民族学会付属民族学博物館(1939年)[近藤編
2001: 157]。写真
5 渋沢敬三(中央)とアチック同人(1937年)[中山編
1956: 20]。も,自分の学問的関心事である,日本文化を研究するにはエスノロジー(民族学)と フォークロア(民俗学)を車の両輪と位置づけて,生活文化・民衆文化の変遷をとり あつかい,同時に台湾や朝鮮半島などの周辺民族の文化を知ることが大事であると考 えていました(宮本馨太郎
1978: 5)。その研究を発展させるために,渋沢はアチック同人の調査研究,民具収集,日本民族学会などの運営,民族学博物館の設立と人材養 成のために膨大な私財を投入してきたのです。
1934(昭和
9)年に設立された日本民族学会は,1942(昭和17)年に民族研究所が創設されると財団法人民族学協会となります。戦後,渋沢がこの協会の会長を引き受 け,学会の復旧に努力しました。渋沢が亡くなった翌年
1939(昭和14)年に日本民族学会が民族学協会から独立して,学会活動を展開します。そして
2004(平成16)年に,名称を日本文化人類学会に改め,現在会員数
2,000名を数える学会に成長しま した。日本文化人類学会は,依然として渋沢敬三の遺産を原資とする公益信託澁澤民 族学振興基金からの助成をうけて,渋沢賞の授賞事業や若手研究者の調査支援など 種々の学会の研究活動の拡充に活用しています。
梅棹忠夫は成城の柳田國男邸に招かれ,調査研究について話をしたことがあります
(写真
6)。戦後モンゴルから帰国し,1949(昭和24)年に屋久島で調査をして生態学写真
6 柳田國男に招かれた梅棹忠夫(1951年)[伊藤
2011:表紙]。
の論文を書いた後のことです。その論文を読んだ柳田國男は,そこに新しい学問の可 能性を見出したようです。梅棹の論文は,屋久島の明治以降の生態的変化と社会組織 の変遷をあつかっています。梅棹論文は,従来の柳田民俗学の聞き書きを中心とする 調査の方法論を超えて,村落社会の歴史的変化が体系的に記述された点が評価された のです。この屋久島研究の話しを契機に,梅棹は「日本民俗学の創設者」柳田國男氏 と若いころから交流をもつことになります。
岡本太郎が情熱を傾注した,太陽の塔の地下世界の創造は,「若き日にパリで学ん だ民族学の世界がここに再現されるに至った」のである(山路
2014: 233)。岡本が大阪万博でつくりあげた芸術の「ベラボーなもの」の余韻は,その
4年後に国立民族学 博物館の創設というかたちで,岡本の民族学博物館建設にかけた長年の夢が実現した のです。
2
みんぱく創設時の展示構想と開館
国立民族学博物館は
1974年
6月に国立学校設置法の一部を改正する法律のもとに 創設されました。みんぱくは国立の大学共同利用機関としての役割を担うことになり ます。それから
3年
5カ月後の
1977年
11月に展示の一般公開,つまり開館が予定さ れました。みんぱくの名称は,設置準備室までは,「国立民族学研究博物館」にする ことですすめてきました。民族学(文化人類学)の研究活動を主体とし,研究所とし てその研究成果を展示や市民サービスに還元するという新しい博物館の設置理念に基 づいていたからです。しかし,みんぱくの設置場所が万博記念公園に決まった段階 で,国立の公園に「研究機関」を置くことは,公園の趣旨に合致しないということで
「研究」が削除されてしまいました。そのために,既存の文化庁管轄の博物館とみん ぱくの差異化が不明確になり,みんぱくが「研究所である」ことを説明する必要がよ り強くなりました。
みんぱくは,常設展示の基本構想を作成するために館内に展示委員会,館外の専門 家を中心とする展示企画委員会等を設置し議論を重ねました。その結果,展示の基本 構想が
1975年
12月に画定されました(国立民族学博物館編
1984: 231–233)。それによると,展示表現としては文化の多様性を尊重し,統一テーマを設けないことが明示 されています。そして,展示の基本理念として,
1)
展示と民族学・文化人類学の視野からの調査研究との一体化を図りながら,収
集された諸民族の標本資料,映像資料,音響資料等を総合的かつ体系的に構成し,
研究成果に基づいた最新の知識と情報を日本国民をはじめ世界の人びとに提供す ること,
2)
展示内容の水準は,学問的には高いものとするが展示表現は小学校高学年程度 からでも理解ができる,「やさしいもの」にすること,があげられています(国 立民族学博物館編
1975: 3)。そして,標本(民族)資料の展示の方針に関しては,次の
5点があげられています。
1)
研究部がおおむね地域部門に分かれていることから地域展示の構成をとる。
2)
地域展示の順序は,日本を起点として地球を東回り一周して日本に帰ることを 原則とする。
3)
地域別展示に加えてクロスカルチュラル展示を行い,言語と芸術(音楽,舞踊 を含む)については地域を越えて横に広く眺める。
4)
イントロダクション展示については,積極的な展示を行わず,異文化に接する心 構えを持たせる必要があるため,荘厳な象徴空間としてのムードづくりに徹する。
5)
地域の取りあげ方については,「新・旧,都・鄙」すべてを紹介するのが望ま しい,民族と国境の関係のうち,国よりも民族を重視すること,文化の差異を優 劣ではなく個々のバライエティとして並列的に表現する。
以上のような点に留意したうえで展示を行うことがうたわれています(国立民族学 博物館編
1975: 19–23)。みんぱくが創設間もないころに収蔵していた標本数は,1975 年
12月に文部省資料 館から移管したアチック・ミューゼアム(旧渋沢敬三コレクション)資料
2万
1千点
(そのほか写真資料約
7千点)と東京大学理学部人類学教室資料約
6千点が主なもの でした。そのために,開館に向けて創設直後の
1974年秋からスタッフはチームを組 んでパプアニューギアなどのオセアニアをはじめ,世界各地に収集のための調査研究 に出かけました。私も開館直前の
1977年
7月から
9月にかけてミクロネシアに出か けてヤップ島で大型カヌーや石貨・貝貨など,展示の「目玉」となる民族資料を収集 しました。それでも,開館時には,アチック・ミューゼアムと東大からの移管資料と 収集資料を合わせても,4 万
9千点にすぎませんでした。
2.1 研究博物館と地域展示
みんぱくは学校教育法に基づく研究博物館ですので,教員は研究職の地位にあり,
文化庁管轄の博物館法に基づく博物館などのように学芸員のポストをおいていませ
ん。その一方で,情報管理施設という民族資料や映像音響,文献図書資料などを整理,
保存,公開するための部署が設置されました。教員自らが調査して収集した資料につ いては,情報管理施設(情管)のスタッフが燻蒸,整理,記録,収蔵する作業を担っ てくれました。そして,展示に際して教員は,収集資料のなかから展示する資料を情 管スタッフの協力で選定し,展示業者と相談しながら演示作業を進めました。教員は 自分が調査対象にする地域の展示チームの一員として展示のテーマや構成などの構 想,展示資料の選択,実際の展示,演示の業者への指示,テーマや展示品の解説の記 述にあたりました。
開館時には
50名の教員(助手・助教授・教授)によって
12の地域展示と
2つのク ロスカルチュラル展示のチームが結成されました。複数のチームに所属する教員もい ました。各チームは,地域ごとに展示コーナーのテーマと構成を決めます。私はオセ アニアと日本の文化の展示を担当しました。オセアニアのテーマは,「海の民族」,
「くらし」,「儀礼の世界」でした。海の民族は展示場中央に配置した大型帆走カヌー・
チェチェメニ号とヤップおよびサモアのカヌーで代表し,くらしは衣食住の用具を展 示し,儀礼の世界では仮面を壁一面に彫像類を平置きにして,来館者が展示品に触れ ながら対話できるようにしました。この仮面と神像の集約展示は,造形物のもつ力強 さを感じられると好評でしたが,一方で子どもたちからは怖いという意見もかなりあ りました。
そして,日本の文化展示は,沖縄から東北地方にかけての
5棟の民家模型(10 分
1縮尺)を配置し,船と漁具,農具と運搬具,猟と山仕事,着物・はきもの・かぶりも の,そして工芸と祭りのコーナーに分けられました。日本展示においては,国指定重 要有形民俗文化財(オシラサマと背負い運搬具)含め,アチック・ミューゼアムの民 具類が各コーナーに約
1,000点展示されました。日本各地からの資料収集が行えな かった開館期には,旧渋沢敬三コレクションなくしては,日本文化の展示は実現不可 能でした。この日本文化の展示は,展示場の増設にともない,1979 年に日本の祭り のコーナーを軸に一新されました。
みんぱくの展示場は年次計画で建設が進められたので,開館時の
1977年
11月に一
般公開できた展示は,オセアニア,アメリカ,ヨーロッパ,アフリカ,西アジア,東
南アジア,東アジア(日本の文化)の
7地域展示,音楽と言語のクロスカルチュラル
展示,およびビデオテークでした。中央・北アジア,東アジア(アイヌの文化,中国
地域の文化,朝鮮半島の文化)は順次一般公開され,最後の南アジアの地域展示,ナ
ビひろば等が公開されて
9地域展示
14展示場のすべてが完成したのは,1996 年
3月
のことです。展示場総面積は
9,700平米,展示資料は
11,000点になりました(国立民
族学博物館
2006: 185)。ここで,開館時の展示構想と展示の特徴的について話します。
みんぱくは世界のあらゆる地域を網羅して展示している点では,世界の民族学博物 館には類例がありません。地理的,歴史・文化的なつながりなどに基づいて,世界を
9地域に大別しています。東アジアを日本,アイヌ,朝鮮半島と中国地域の
4つにわ けていますから,実際には
12の地域分けです。オセアニアからアメリカにわたり,
東周りに世界一周して日本に帰ってくるという,展示の基本構想どおりの展示構成に しています。日本を最後においたのは,世界の多種多様な文化を目にした後で日本の 文化をみて,文化的な性格の差異と共通性やその位置づけを相対的に考えてもらうね らいからです。一方,言語と音楽のクロスカルチュラル展示は,当時世界のどの博物 館でも試みておらずみんぱく独自の展示構想からうまれたユニークな表現手法でした。
19 世紀後半に,欧米では博物館建設がブームになりました。世界の珍しいものを 競って収集し展示するという「陳列館」としての期待のあらわれです。ロシアのサン クトペテルブルクにあるピョートル大帝記念人類学・民族学博物館は,「クンスト カーメラ」,ドイツ語で「珍しいものを集めた博物館」という別名をもっています。
この博物館は
300年前に建てられ現在でも「奇形な物体」を展示しています。欧米の 博物館の展示手法には,大きく二つのカテゴリーに分けられます。一つは,機能とか 用途に基づいて世界中の同種のものを同じケースに入れたり,壁にかけたり,床に置 いたりして展示する方法です。この展示方法は,現在ではオックスフォード大学の ピットリバース博物館で採用されています。ピットリバース博物館では,地域は関係 ありません。例えば,世界の土器を集めて一箇所に展示し,そのデザインや飾りの差 異を比較しています。それを機能展示といいます。
もう一つは,地域や民族の文化をそのコンテクスト(脈略)に即して展示する方法 です。世界の特定のものを比較するのではなくて,地域ごとの文化全体を,ものをと おして表現するという考え方です。みんぱくもこの展示手法,つまり各地域のものを それぞれの文化のコンテクストをわきまえて展示をしています。これをコンテクスト 展示といいます(竹沢
2009: 361–362)。世界の民族学博物館ではこれら二つの展示方法を
19世紀末からとってきていますが,みんぱくは展示物の文化の脈絡や背景を重 視して,その人びとの生活の全体を展示するという方法を優先しています。
2.2 展示の基本構想と手法
これから,開館時の展示の構想について述べることにします。
まずは,民族文化の等価値性についてです。世界の諸民族の文化を,どこの文化が 進んでいて,どこの文化が遅れている,あるいは優れた文化と劣った文化という価値 判断によって位置づける考え方は避けなければなりません。みんぱくは,個々の文化 はそれぞれの民族や人びとによってつくり出された固有の価値をもつものであるとい う考えに基づいて展示しています。文化の違いは,人類が生み出した多様で豊かな文 化に他ならないという見方です。これを文化相対主義(cultural relativism)といいます。
19 世紀末のヨーロッパの博物館の展示手法は,ヨーロッパが世界でもっとも進ん でいることを,ものを通して展示していました。ヨーロッパのキリスト教文化圏に住 む人びとの生活や文化と,採集狩猟の生活を営む人びとの文化はこれほど違うという ことを示し,いかにヨーロッパの社会と文化が発展した段階にあるかを人びとに見せ ることに目的がありました。社会進化論に依拠した展示手法です。これは,大英帝国 はこんなに立派な国家であることを顕示し,国民意識を高揚させ,国家の創設や国民 統合をすすめるために民族学博物館がつくられたことを物語っています。この博物館 の展示手法は
19世紀後半の動きです。みんぱく設立はその
100年後ですから,ひと つの文化(もの)はどんな民族や人びとがつくったものであっても,どちらが上とか 下とかと序列化することなく,それぞれが独自の意味と価値をもち,それぞれの人び とのつくった創造力に基づくものである,という見方ができるようなにかたちで展示 をしています。
次が展示品の理解を深めるためのビデオテークの装置についてです。みんぱくの展 示物の解説は非常に不親切です。解説コーナーの数が少なく,また説明文の文字も少 ないです。それを補うものとしてビデオテークを考えたのです。展示してあるものが 現地社会においてどのようにつくられ,使われているのか,あの仮面をつけた儀礼は どんなものであるか,この楽器の音色はどのように響くかなどを知るには,ビデオ テークを見てくださいということです。ビデオテークの映像は,多くの情報を提供し てくれます。その情報は展示物そのものではありませんが,地域の景観や生活風景や 人びとの活動の実際などをそのまま映し出していますので,それを参考にしながら,
展示物がもっている美しさ,力や迫力を感じ,それがはたす機能など知ってもらいた いと思います。ビデオテークは,自分で見たい民族誌映像を「個室」で自分の好みに 合わせて映像を選び,鑑賞する画期的な装置です。開館にあわせてみんぱくがパナソ ニックと共同開発した最新鋭の装置です。1970 年代後半に,国内外の博物館にはビ デオテークような先端技術を駆使した映像装置は設置されていませんでした。
三つめが,オープン展示です。みんぱくでは,ものに触りながら,ものと対話して,
そのものが出てきた,それをつくった人びとの社会や文化に思いをはせることを開館 時からすすめてきました。ものに触ることは
1990年代前半まではおおらかでした。
梅棹忠夫初代館長は,文化財ではなく現地の人びとが日ごろからつくり,使っている 生活用具を収集してくるようにと私たちにアドバイスをしていました。そして,この ような生活用具類を「ガラクタ」とよんでいました。梅棹は,このガラクタをオープ ン(露出)展示し,来館者がものに触ることによってものの性質を広く深く理解して くれるところにみんぱく展示の原点があると考えていました。実際に触ることで破損 したり,盗用されたりすることはほとんどありませんでした。
1970 年代の段階で,展示物をガラスケースに入れない,ものに自由にさわれると いう展示はユニークでした。そして,日本の映像技術とエレクトロニクスが結びつい たビデオテークも革新的で世界初の装置でした。それは,国内外どの博物館にもあり ませんでした。梅棹は世界一流の博物館を目指すといっていましたが,当時のみんぱ くの展示手法は,それまでの世界の博物館の展示の常識を覆すことになりました。ま た,世界のあらゆる地域を網羅して民族資料を展示する民族学博物館は,今でも世界 の多くの民族学博物館の中でみんぱくをおいて他にはないと思います。これらが,み んぱくのきわだった特徴です。
そういうコンセプトのもとで「ガラクタ」を集めて展示を行った開館期のみんぱく は,世界から注目される博物館であったといえます。梅棹忠夫は開館時に,みんぱく の経済投資に見合うには
1日平均
800人の入館者で十分とみていました(梅棹
1990:236)。しかしうれしいことに,毎日2,000
人~
3,000人のお客さんが入館し,開館か
ら
1年目に
60万人,2 年目も
50万人の入館者がありました。予想の
3倍の入館者を むかえたことからも,みんぱくにたいしていかに日本国民から強い関心がよせらてい たかがうかがえます。
ところが私が
1993年にみんぱくを去り,2009 年
4月に館長として戻ってきて大変 驚きました。2008 年度の入館者数は
15万人にまで減少していました。みんぱくの教 員たちがいろいろな新企画をくみ,面白い展示を展開しているのにどうしたことか。
開館以降展示を大幅に改変してないため,同じものが展示されていて,展示がくすん でしまっている。人びとのみんぱくへの関心が失せ,見向きもされていないのだとい う意見もありました。みんぱくは,2004 年の大学法人化を前に展示に関する外部評 価を行い,『展示企画審議会報告書』(2002 年)を作成しています。そのなかには,
今後の展示はどうあるべきかという意見をまとめた個所があります。「現代的課題に
対応した展示を」,「展示をつくる専門家の必要性」,「研究者と展示」,「研究の社会還
元と研究者の役割」,「研究者にインターフェースを期待する」などなど,いくつもの 課題の解決を指摘されています。
このような外部評価を受けて,展示の新構築に取りかかる基本方針を確定するため に,2006 年から展示の基本構想の検討にはいりました。その議論によって,『国立民 族学博物館における展示基本構想
2007』が2007年
4月に完成します。この新構想に 基づいて基本計画をたてて文部科学省へ特別経費を要求し,2008 年度からアフリカ と西アジアの展示の新構築をかわきりに,すべての展示の改変に着手しました。毎年
2地域の展示の全面的リニューアルを行い,今年度(2016 年度)末に,9 年がかりの 新構築事業が完了します。9 地域展示,14 展示場と
2クロスカルチュラル展示場,探 求ひろば,イントロダクションコーナーなどなどすべての展示が完成しました。
2.3 写真の語る開館期の展示
それでは写真資料によって,開館時の展示コンセプトがどのように展示に生かされ たかについて見ることにしましょう。
先ほども触れましたが,開館時の日本の文化の展示は,アチック・ミューゼアムの 資料に多くの部分を依存していました。日本のあらゆる民具を各テーマコーナーに展 示し,その数は約
1,000点だったと思います。例えばしゃもじならしゃもじ,お弁当,
お椀,わらじ,こけしなどを大量に展示して,日本の地域性を示しました(写真
7)。また,日本のお正月しめ飾り,祭りの祭具,御幣,絵馬や人形など日本の多くの地域 から集めたものをお祭りコーナーに展示しました。
また,みんぱくには国指定の重要有形民俗文化財であるオシラサマと背負いかごの
2つのセットがあります。オシラサマは岩手県の遠野地方の蚕の神や家の神として信 仰されていました。みんぱくではその複製が展示されています。いずれも旧渋沢敬三 コレクション資料です。写真は背負いかごのセットです(写真
8)。これは,開館当時ではありませんが,
3年前の特別展「屋根裏部屋の博物館』に展示されたものです。
旧渋沢コレクションには,稲や野菜や魚や雑貨などを背中で運搬する民具である背負 いかごが日本中から集められています。このかごの一式が文化財の指定を受けている のです。多くの同種の民具を展示するのは,日本文化の多様性をしめすことをねらっ ているからです。
オセアニア展示のシンボルは,大型帆走カヌーのチェチェメニ号です(写真
9)。このカヌーは
1975年の沖縄国際海洋博覧会のときに,ミクロネシアのサタワル島か
ら
3,000キロの海原を航海してきました。リニューアル後の現在も不動の存在感を見
せています。開館時には,そのカヌーの側にサモアの漁撈用カヌーとヤップ島のカ ヌーも展示されていました。写真の右のほうに,チュクピンというヤップから収集し たカヌーが映っています。狭い空間に多くのカヌー展示することで,海を自由に行き 来してきたオセアニアの「海の民族」が編み出した航海文化を紹介しています。
これが今はニュージーランドのマオリの展示コーナーになっていますが,開館時に は,写真のように壁面にオセアニアの仮面が
200点,天井から床まで飾られていまし た。それから神像類は,今のアボリジニの岩壁画のレプリカ模型があるあたりに立ち ならんでいました(写真
10)。オセアニア地域のあらゆる彫像が集まっていました。オセアニアの人たちが暮らしのなかから創りあげた造形の美,あるいは自分たちが神 とのコミュニケーションするときの媒介物としての仮面や神像のかたち,色彩豊かに 彩られ神々しい姿など,その顔や形の地域バリエーションを表現するための展示で す。多くの造形物を集中的に展示することで,入館者たちにオセアニアの人びとが表
写真
7 開館時のアチック・ミューゼアム資料の展示(1977年)。
写真
8 特別展「屋根裏部屋の博物館」の背負いかご展示(2013年)。
写真
9オセアニア展示場のチェチェメニ号とサモアのカヌーとチュクピン[国立民族学博物
館編
1986: 8–9]。写真
10 オセアニアの神像と仮面[梅棹・祖父江編1979: 10]。写真
11 アフリカ地域のひょうたん展示[梅棹・祖父江編1979: 31]。現するカミや異界のイメージを感じ取ってもらい たかったのです。今は,展示替えで,少しの仮面 と神像しか展示をされていません。
アフリカ展示では,ひょうたんを半分に切った ものにきれいな図柄を描いたものが
200点も展示 してありました(写真
11)。これは何を意味するのか。ひょうたんは容器としてだけでなく,室内 装飾品として,嫁入り道具としてあるいは家財と して重要なものです。飾りひょうたんを生みだす アフリカ・カメルーンのフルベ族の女性たちは,
代々伝承されてきたさまざまなデザインを焼きご てで描き,彩色します。大小のヒョウタンに多様 な文様をほどこして色をつけて室内の装飾品に仕 上げる,アフリカの人びとの美をうみだす潜在力 を知ることができます。開館時のアフリカ展示 は,たかがひょうたんですが,それを多彩にデザ インした飾りひょうたんが展示場の誘い水として 華やかな雰囲気を出していたのを思い出します。
西アジア展示は,農具,牧畜用具,絨毯や衣服,
都市の生活,イスラム教の世界などをテーマに展 示されました(国立民族学博物館
1981: 92–103)。なかでも,イスラム教の聖地メッカのカアバ神殿の外壁にかけられる絹製の垂れ幕
(キスワ)の展示は世界でも稀な展示です。キスワは毎年とりかえられるからです。
キスワは現在も展示されていますが,これは日本万国博覧会の際にサウジアラビア館 に展示され,サウジアラビア政府から寄贈されたものです。アラブ社会の人びとの衣 と装身具の展示では,女性の衣服やヴェールや首飾りなどをとおして西アジアの地域 的な多様性を表現しています(写真
12)。音楽展示のバリのガメランの展示です。すべての楽器をセットで展示し,人がここ
に入り楽器の前に座ればガメランの演奏ができました(写真
13)。実際に演奏したこともあります。バリの生の文化を体験できる展示手法でした。開館期の展示コンセプ
トは,総合展示,つまりいろいろな展示物を組み合わせて文化を把握する構造展示が
重視されました。このように楽器をセットとして,その全体を展示することを私は好
写真
12西アジアの衣装展示[梅
棹・祖父江編
1979: 48]。んでいました。それは,もののもつ力というか迫力を入館者に感じとってもらえるか らです。
東南アジア展示では,タイの農村の生活風景を表現するところがありました。タイ 農村部の人びとは,動物性たんぱく源として豚や牛よりも川魚を日常的に食します。
水田の水路を行き来する舟,小魚を捕らえるための筌があって,収穫した農作物を背 負う竹かごと稲の籾を選別する大かごが展示されています(写真
14)。たくさんの背負いかごを並べて,農村部でもこれだけ多様な背負いかごの形があるということを丁 寧に展示しています。すべて竹のかごです。そのかごの編み方の美しさや,そのかた ちのユニークな点など,こういう構造的な展示が開館期の展示では推奨されました
(写真
15)。1978 年
6月,開館の約半年後には,当時の皇太子殿下と美智子妃殿下そして天皇 陛下も見学に訪れててくださいました。みんぱくの開館とその地域展示は,多くの人 びとから注目を浴びていたのです。日本で初の民族学博物館ですし,また世界のほか の博物館にも負けないぐらいの,多様な民族資料を世界各地から収集して展示した博 物館でしたので,強い関心を集めたということができます。
写真
13 バリのガメラン楽器のセット展示[梅棹・祖父江編1979: 50–51]。写真
15 東南アジアの多様な背負いかご[梅棹・祖父江編1979: 68]。写真
14 東南アジア地域の農村風景の展示[梅棹・祖父江編1979: 69]。みんぱくがの設立されたことについて,梅棹忠夫は,「渋沢先生以来,学会の諸先 輩がつぎつぎとバトン・タッチをしながらはしりつづけてこられたのであり,わたし はいまその中間走者としてはしっているわけであります」と述べています(梅棹
1990: 117)。また,「みんぱくは渋沢敬三先生の遺言によって実現しました」と渋沢敬三のご子息の雅英に語っています。このようなみんぱく創設にいたる動機について,
梅棹は「天の時,地の利,人の和」に恵まれたとも言っています。天の時は,渋沢の 博物館設立計画から,学界の支援を受け,日本の社会経済的な状況の好転をさしてい ると思われます。地の利は大阪での万博の開催とその跡地を利用できたことです。そ して,人の和は,みんぱく設立を推進した人びとが一致団結して事にあたり,創設・
開館後は日本の各大学や研究機関から教員が集まり世界の第一流の博物館をめざして 共同して展示や研究を行ったことを意味しています。
3
みんぱく
40年ぶりの新構築
みんぱくは開館
2年後の
1979年には第
4展示場が竣功し,東アジア地域の日本の 文化展示を拡充し,アイヌの文化と中央・北アジアの展示を一般公開しました。さら に
1983年には第
8展示場の増築で東アジアの朝鮮半島と中国地域の文化を,1996 年 には第
7展示場の建築がおわり南アジアの展示をそれぞれ一般公開することができま した。これによって,開館時にはそろっていなかった地域展示の
9地域,14 展示場 の展示構成がほぼ完成しました。しかしながら,21 世紀にはいってからのみんぱく の来館者は落ち込み,開館時の
3割になった年もありました。このような状況と
2004年からの法人化を前に,みんぱくは『第
2期展示基本構想』(2001 年
3月)を作 成し,そこでは常設展示の全面的改変,時代に対応する展示やフォーラム型の展示の 実現を提案しています(国立民族学博物館編
2006: 188–189)。また,「国立民族学博物館の展示に対する外部評価」を行い,2002 年
3月に『展示企画審議会報告書』を 刊行しています。
みんぱくはこの審議会において,法人化後の「博物館活動を魅力あるものにするに はどうすればよいか」について多面的に議論し,助言の提示を要請しています。その 報告書には,今後の展示のあり方についての多くの意見がよせられています。いくつ かとりあげると,「現代的課題に適応した展示を」,「展示をつくる専門家の必要性」,
「研究者と展示」,「研究の社会還元と研究者の役割」,「研究者にインターフェースを
期待する」,「地球市民による展示企画参加」,「民博と学校教育」など,多くのことが
みんぱく側に要求されています。みんぱくは,開館後
30年の社会・文化環境の変化 やこの審議会報告を参考にして,2006 年から展示の新構想の検討にはいり,その議 論の結果を翌年
4月に『国立民族学博物館における展示基本構想
2007』にまとめています。この基本構想は,2008 年度から始まる展示の新構築の骨組みをなすもので あります。つまり,それは,開館以来
30年~
40年ぶりに展示の全面的新構築を実行 するガイドラインとなりました。
新しい基本構想においては,どのような視点から,何を入館者に伝えようとしてい るのでしょうか。2008 年度,最初に新構築に取り組んだアフリカ地域の構成は,人 びとの「歴史を掘り起こす」営みからアフリカに住む人びとの生活を「憩う・働く・
装う・祈る」の
4コーナーと「アフリカの今」からなっています。アフリカの展示 は,現代に生きる人びとの姿に焦点を当てて展示しているのが特徴です。一方,56 もの異なる民族が共住する東アジアの中国地域の文化は,生業,民族楽器,チワン族 の高床住居,装い,工芸,台湾原住民族,宗教と文字,華僑・華人,継承される伝統 中国と多くのコーナーで構成されていますが,海外のディアスポラの活動を展示した 点が注目されます。そして,もっとも新しく
2016年度に完成した中央・北アジアは,
自然と共生,社会主義時代,中央アジア,モンゴル,シベリア・極北に分けています。
カザフやモンゴルの天幕や家屋の展示をベースに衣服,飾り,そりなどを展示してい ます。とりわけ,すべての地域の人びとに共通する社会主義体制の経験を展示した点 が秀逸です。その他の地域も現代を視野に入れた展示を展開しています。
開館時の展示構想については,第
2章で
5点の目的についてお話しました。ここで は,『国立民族学博物館における展示基本構想
2007』に掲げられている展示の基本理念とねらいについての骨子を
6点にまとめて紹介します。それは,フォーラム,グ ローカル,ユニバーサル,露出,文化復興,日本とのかかわりの展示です。しかし,
各地域の展示チーム,展示をした教員たちが,どこまでこの
6つのコンセプトを把握 したうえで,展示を構想し,演示を行ったかについては,皆さんの目で確かめてみて ください。
3.1 フォーラム展示とグローカル展示