砂 漠 化 を め ぐ る 風 と 人 と 土 フ ィ ー ル ド ノ ー ト 2
マリ共和国ジェンネにおけるイスラームと市場
田中 樹 監修 伊東 未来 著
総合地球環境学研究所
「砂漠化をめぐる風と人と土」プロジェクト 2014 年
Research Institute for Humanity and Nature, Kyoto, Japan
Des
ertification and Livelihood in Semi-A rid A
fro-E
urasia
West African Mission
ISBN 978-4-90688-00-9
総合地球環境学研究所の研究プロジェクト『砂漠化をめぐる風と人と土』は、アフリカやアジ アの半乾燥地における砂漠化問題(資源・生態環境の劣化と貧困)への関心を起点として形成さ れた。プロジェクト名にある「風と人と土」には、対象地域に住まう人々の暮らしとそれを取り 巻く社会・文化・生態環境などの諸相を理解しようという意思を込めている。とはいえ、地域理 解を深めることは、問題解決への取り組みのみに向けられる志向性の狭いものではなく、ひたす らに「知ること」への関心と憧憬に根差すものでもある。
さて、何故、「風と人と土」なのか?研究所の和文名にも含まれる「環境」という言葉は概念 的であり、例えば、教育環境、社会環境、生態環境、職場環境、土壌環境など、通常、何らか の言葉を組み合わせることで初めて実態を伴う。これに近い言葉は、フランス語では「
millieu」、
日本語では「風土」ではあるまいか。「風土」は、長い年月にわたり織なされてきた人々の暮ら しとそれを取り巻く自然や森羅万象との関わりであり現われである。この二文字の間には、「人」
がある。このことは、研究所の英文名「
Research Institute for Humanity and Nature」からも読み取 ることができる。「
Humanity」と「
Nature」をつなぐ言葉としては、「
and」よりも「
with (togetherwith)
」や「
in」の方が、私たちの認識や感覚により近いのではあるけれども。ともあれ、「風と
人と土」は、人々の暮らしや文化を中心に置いて環境を考えるという意識の反映である。
第二号である本書は、西アフリカ内陸部のマリ共和国、ニジェール川支流のバニ川の氾濫原に 位置する小さな歴史都市ジェンネを舞台として紡がれた「風と人と土」である。今に生きる人々 の暮らしや文化の基層をなしているイスラームと市場を軸として、緻密な参与観察に基づいて描 かれるジェンネの都市民族誌とし価値あることは言うまでもない。さらに魅かれるのは、たとえ ば、ここに描かれるイスラームが、私たちが書籍や大学での講義、報道番組などで触れることの できる姿とは異なり、人々の日常の暮らしの風景と心模様から映し出されていることである。大 モスクが
1988年に世界文化遺産に登録されたことで、多少はその名が知られるようになったも のの、私たちの多くにとってジェンネあるいはアフリカは、今なお遠い世界である。ところが、
本書を読み進むと、ジェンネの街や周辺の風景、乾季の土壁のざらりとした感触、雨とともに立 ち上る土埃の甘い臭い、そこに暮らす人々の息づかいまで聞こえるようで、自身がそこに住んで いたかのような既視感にさえとらわれる。本書には、また、若手研究者としての筆者の成長の軌 跡が意図せず描かれている。「やさしいジェンネ、意地悪なジェンネ」は、いつしか「わたしのジェ ンネ」になってゆく。それは、筆者自身がジェンネの人々や暮らしを研究対象として客観視する 立ち位置ではなく、そこの「風と土のなかの人」となる過程でもある。
政治的混乱や武装勢力の侵入による治安状況の悪化に伴い、現在、マリを訪れることはかなわ ない。それでも、ジェンネの人々は、これまでもそうしてきたように、家族や友人を慈しみ、モ スクで祈り、市場でおしゃべりをし、仕事をし、自身の行く末を思い、日常の暮らしを続けるで あろう。筆者がジェンネを再訪し、市場のおばちゃんたちの話が聞ける日が早く来ることを祈り たい。本書を手に取った読者が、心の中で小さな風情ある歴史都市ジェンネを旅することを期待 しつつ、本書を届けたい。
(プロジェクトリーダー 田中 樹)
序 文
砂漠化をめぐる風と人と土 フィールドノート
2マリ共和国ジェンネにおけるイスラームと市場
目 次 序 文
第1章 フィールドワークことはじめ
001第
1節 ジェンネに向かう
004
第
2節 やさしいジェンネ、意地悪なジェンネ
006第
3節 本書の目的
第
2章 調査の概要
009第
1節 調査期間と調査方法
009
第
2節 調査地概要
第
3章 ジェンネのイスラーム
014第
1節 ジェンネのアルファ
1
教師としてのアルファ
2人生儀礼とアルファ
3助言者としてのアルファ
022第
2節 ジェンネっ子のモスク
1モスクの規模と位置づけ
2現在のモスク建設の経緯
3モスクの化粧直し
第
4章 ジェンネの市場
036第
1節 常設市
042
第
2節 定期市
1
開かれた市場
2市場ことば
3開かれた商売
4定期市のヒトとモノ
第
5章 むすび 「都市」から「古都」へ
061第
1節 観光地ジェンネ
062
第
2節 ジェンネの観光業
065謝辞
067
参考文献
著者紹介
伊東 未来(いとう みく)
【所属】日本学術振興会特別研究員(
PD)
【専門】文化人類学
【現在関心のあるテーマ】西アフリカの伝統的都市、西アフリカ女性の商業活動
M a l i マ リ
第1章 フィールドワークことはじめ
ジェンネは、サハラ以南アフリカでもっとも 古くから存在する都市のひとつである。ジェ ンネの町には、ソンガイ(
Songhai、
Songhay)、
フルベ(
Fulbé)、ソルコ(ボゾ)(
Sorko(
Bozo))、
バマナン(
Bamanan)、マルカ(
Marka)、ソニ ンケ(
Sonninké)、モシ(
Mossi)、ブワ(
Bwa) など、複数の民族が暮らしている。
ジェンネが位置する西アフリカ内陸部の一 帯、とりわけニジェール川内陸三角州とその周 辺では、それぞれの民族が特定の生業と結びつ きをもつ傾向にある。この地では複数の生業が 可能であり、生業を異にする複数の民族が自然 資源を共有しながら生活してきたのだ。そのた め、
2〜
4の諸民族で構成される村落がほとん どである(
Gallais 1967、
1984)。その宗教・経 済的な中心のひとつであるジェンネには、さら に多くの民族が共存している。
第
1節 ジェンネに向かう
近年、ジェンネは巨大な泥づくりのモスクを 有する世界遺産の町として、アフリカの人びと やアフリカを専門とする研究者以外にも、その 名を知られている。わたしが日本でジェンネの ようすを話すと、「その泥のモスクの写真なら、
雑誌の世界遺産特集で見たことがある」、「テレ ビ番組でその町の市場がレポートされていた」
といったことばが返ってくる。彼らの多くは、
マリの首都名やアフリカ大陸におけるマリの位 置を知らない。なかには、アフリカには高層ビ ルもテレビも携帯電話も存在しないと考えてい る人もいる。ジェンネのモスクとモスクを背景 に賑わう定期市の映像は、そうした「アフリカ から遠い」人びとの記憶の一角にも入り込んで いる。
欧米諸国とりわけ英語圏では、ジェンネより も、同じくマリにある世界遺産の町トンブク
トゥ(
Tombouctou)のほうが知られているか
もしれない。英語では、トンブクトゥは実在す る地名としてよりも、「果てしなく遠いところ」
を意味する名詞として用いられるという
1。
"As far as Timbuktu"という表現は、「遠すぎて想像 もつかない」、
"From here to Timbuktu"は、「こ こから地の果てまで」といった意味を表す慣用 句である
2。ジェンネで知り合ったイギリス人 夫婦からこの表現を教わったとき、「彼らヨー ロッパの人びとから見れば、わたしは「極東」
から「地の果て」に移り住んだ者なのか」と、
可笑しさを覚えた。「地の果て」トンブクトゥ とジェンネは、直線距離にして約
360㎞。両者 はニジェール川を介して繋がっており、歴史的 に深いかかわりをもつ「双子都市」である。か つては「果てしなく遠いところ」であったジェ ンネやトンブクトゥには、現在、たくさんの欧 米人観光客が訪れる。
わたしが最初にジェンネに足を踏み入れたの は、
2007年
2月のことだった。日本でもジェ ンネでも、「なぜジェンネを研究しようと思っ たのか」とよく尋ねられる。正直に答えると、
たいていの人は苦笑する。最初にジェンネを研 究したいと思った契機は、「見た目が好みだっ たから」である。ひしめきあって建つ泥づく りの家々、町の中心にたたずむ優美なモスク、
家々のあいだを毛細血管のように複雑に這う路 地、町を周囲から断絶すると同時に外部に開い てもいる水辺、その周囲に広がる田畑、布地を たっぷり使用したシンプルながらも風格ある衣 服を身につけたクルアーン学校の教師たち。今 から
100年以上前、
1900年から
1903年にジェ ンネに暮らしたフランス人行政官シャルル・
モンテイユによって書かれた
Djenné: une cité soudanaise(『ジェンネ:スーダーンのある都市国家』、Monteil 1971(1932))に載っていたモノ
クロの写真(図
1-1)を見て、この町のたたず
まいに一目ぼれした。長期調査を終えて顧みれ
ば、最初に見た目だけで魅かれたジェンネの路
地、モスク、水辺、田畑、クルアーン学校の教
師などは、いずれもジェンネの民族誌を書くう えでとても重要な要素であった。
2007
年
3月、マリの首都バマコで関係諸機 関へのあいさつや調査許可証の取得をすませ、
ジェンネに向かった。朝
6時、バマコから北部 の町ガオまで、マリ国内をほぼ縦走するおんぼ ろバスに乗り込む。日本の長距離バスのよう に、到着予定時刻や途中停車地点が予告される わけではない。途中地点のジェンネでうっかり 降りそびれるのが不安だったので、まわりの乗 客にアピールしておくことにした。尋ねられて もいないのに、片言のバマナン語
3で「こんに ちは。あのー、わたしジェンネ行く。初めて行 く」と声をかけていく。おかしな外国人だと思 われたことだろう。マリの
3月は一年でもっと も暑い季節のただなかだ。バスはおそらくヨー ロッパで使われていた観光バスの中古である。
もともと車体に描かれていた「
sightseeing」と いう踊るような文字の下に、太く丸っこい字体 で「
Allah est Grand! Allah Merci!(アッラーは偉 大!アッラーありがとう!)」と書き足されて いる。車内の窓には、フランス語とドイツ語 で「この窓は開きません」と書いてある。窓が 開かず冷房もはいっていない満員の車内の気温 は、
45度を超えていた。
バスは
1時間ほどで、ビルが立ち並び車とバ イクと人だらけの首都を抜けた。まわりの景色 は、まばらに生える木々と少しの水辺、ときお り見える家屋が十から数百軒ほどの集落と田 畑、赤茶けたラテライトになる。途中、バスは 礼拝やトイレ休憩のため何度か停車した。それ を待ち構えていたさまざまな品の売り子がドア 付近に押しかけ、飲み物や食べ物を売り込む。
釣り銭や商品が、人の手から人の手にひょい ひょいと渡っていく。わたしも何か買いたかっ たが、あいにく額の大きな紙幣しかない。する とまわりの乗客が、妙な外国人をかわいそうに 思ったのか、買ったばかりの魚のから揚げやふ かしたキャッサバ、ジュースをおすそ分けして くれた。それをきっかけに、まわりの乗客から の質問攻めが始まった。フランス語を解さない 人は、ほかの人に通訳を頼んででも質問やア ドバイスをくれた。「どこの国から来たの?」、
「ジェンネに何しに行くの?」、「君はなぜ礼拝 しないの?クリスチャンなの?」、「ムスリムで ない君が宗教的な町に住むなんて無理だよ
4」、
「ジェンネでズボンを履いてる大人の女性はい ない。スカートにしなさい」、「ジェンネは水辺 だから蚊が多いよ」。
バスに乗り込んで
10時間ほど経った夕方、
親切な人びとが、汗だくで眠りこけていたわた しを揺り起こしてくれた。口々に、「お嬢ちゃ ん、着いたぞ」、「ジェンネ、ジェンネ」、「降り なさい」と言っている。降りた場所は、幹線道 路上の何軒か小屋があるだけの静かな分岐点で ある。ジェンネの町へは、ここ通称「ジェンネ・
カルフール(フランス語で「ジェンネ交差点」)」
からさらに乗り合いバスに乗り換えて、渡し舟 図 1-1 20 世紀初頭のジェンネの街並み
(Gardi
et al. eds. 1995: 158)
でバニ川を渡らなければならない。乗り合いバ スの運転手に尋ねると、バスは定員いっぱいに ならないと出発しないという。同じくジェンネ・
カルフールで降りた乗客
7人は、徒歩や迎えに 来たバイクで、いつのまにか去っていった。何 時間待つことになるのか見当がつかず困ってい たところ、運よく立派な四駆車がやって来た。
ヒッチハイクをしてみると、フランス人の一家 が乗っていた。彼らも観光のためジェンネに向 かうというので、同乗させてもらう。
ジェンネ・カルフールからジェンネに向かう 一本道を、
20㎞ほど走った。道にはぽつぽつと、
このあたりに畑をもっているジェンネの人であ ろうか、鍬を肩にひょいとひっかけ、自転車や 徒歩で道を行く男性が見える。ジェンネに売り に行くのか、薪を頭に乗せて歩く女性もみえる。
バニ川は、車も乗り込める大型の渡し船で渡る。
岸辺の草の緑とキラキラ光る川面のコントラス トが美しい。渡し場には、土産物売りの女性や こども
15人くらいが待ち構えていた。そのな かには、そのあとのジェンネ生活で仲良くなる 女性もいた。彼女はわたしたちの初対面のとき のことを覚えていて、土産物売りにしつこく追
われて辟易していたわたしのようすをいまだに からかってくる。
バニ川からジェンネまで
5㎞ほど走ると、
ジェンネの「島」に入る(図
1-2)。それまで の田畑と荒地と水辺がほとんどの景色が一変 し、人びとの生活のさまが勢いよく飛び込んで きた。路地をかけまわるこども、街灯のしたで クルアーンの詠唱を練習する少年、道端でサツ マイモを揚げて売るおねえさん、仲間とおしゃ べりしながら腹がよじれるほどに大笑いしてい る青年たち、投網の手入れをするおじいさん、
川べりで大量の食器を洗う女の子たち、町のな かを小走りに移動する羊や山羊の群れ、買い物 かごを手に話しこむおばさんたち。
これがわたしのジェンネでの最初の日だっ た。この日から、ジェンネで話されることばを 少しずつ少しずつ覚えいった。思い出したくも ないような苦い失敗や他人への迷惑を繰り返し ながら、ジェンネでの「正しい振る舞い」を少 しずつ身につけていった。
図 1-2 ジェンネの街の航空写真(DNPC-Djenné 2004: 2)
第
2節 やさしいジェンネ、意地悪なジェンネ
ジェンネにフィールドワークに入った当初の 目的は、ジェンネの社会組織、とりわけ近年に 急増したアソシエーション(
association、ジェ ンネでは公用語のフランス語風に「アソシアシ オン」と発音される)が民族関係や生業におよ ぼす変化について調査することだった。
調査開始当初のアソシアシオンにたいする調 査は、思いのほか順調に進んだ。代表者や主要 メンバーを訪ねれば、「ビスィミラィ(どうぞ いらっしゃい)!」と言って受け入れてくれる。
彼ら/彼女らの組織について質問をすれば、た いていの人がすらすらと答えてくれる。「あな たの本にわたしの話が載るの?がんばってね」
と励まされる。ジェンネ語の習得には苦労した が、相手とわたしが互いに少し話すことができ る公用語のフランス語と、ジェンネでも多くの 人が話すことができるバマナン語を織り交ぜる ことで、かろうじてコミュニケーションがとれ た。外国人が自分たちがもっか取り組んでいる ことについてあれこれ尋ねてくることを、面白
がって協力してくれているように思えた。滞在 を始めて
2か月ほどで、
4つの言語(フランス 語、ジェンネ語、バマナン語、ソルコ語)を解 するとてもしごと熱心な調査助手が見つかった ことも幸運だった。そのときに助手のママドゥ と試行錯誤で集めた情報は、いま思えばごく表 面的で最低限のものにすぎない。それでも当時 は、ジェンネの人びとへの「顔見世」としては、
また長期調査の滑り出しとしては、それほど悪 くないと感じていた。
ジェンネに来てすぐは、文化省の役人ヤ ム ー サ・ フ ァ ネ
5の 家 に お 世 話 に な っ て い た。彼は、わたしのマリでの調査許可書を発 行してくれた文化省文化財保護局のジェンネ 支局(
Direction Nationale du Patrimoine Culturel, Mission Culturelle de Djenné6)の局長だ。彼も その家族もジェンネ出身ではなく、
2年前に首 都からジェンネに赴任していた。彼らは、よそ から赴任してきたほかの役人同様、町の外にあ るトーロベル(toolo b
εr、「広い小丘」の意)という地区に住んでいた。この地区は町の入口か ら徒歩で
5分ほどしか離れておらず、行政上は マ リ
バマコ ジェンネ
トンブクトゥ セネガル
ギニア シエラレオネ
ギニア ビサウ
リベ リア コート ガーナ ジボアール
ブルキナファソ ン ガ
ビ ア
ナ ベ ン トーゴ モーリタニア
西サハ ラ
ニジェール
チャド
ナイジェリア
カメルーン
アルジェリア リビア
0 1000km
図 1-3 西アフリカにおけるジェンネの位置
ジェンネ市の一部であるが、ジェンネの町なか とは明らかに様相が異なる。この地区の住民 は、町の会合や祭りに直接的な参加はできない。
家々が密集する町なかとは異なり、広いスペー スにゆったりと家が建っている。わたしは最初 の
3か月間、このトーロベルにあるファネの家 に居候し、毎日ジェンネの町のなかに「通う」
生活をしていた。ジェンネに来て
3か月が経ち、
知り合いもできて気候にも慣れてきたころ、そ ろそろ町なかに引越したいと考えるようになっ た。インタビューを通じて知り合った年配の男 性バダラ・ダンベレに相談したところ、彼が所 有する家に空部屋があるという。バダラが長を 務める街区に住む助手のママドゥも、「バダラ とその家族はとても評判が良い。全く問題ない」
と太鼓判を押す。すぐに引越すことを決めた。
引越し当日の昼、バダラに「今から荷物を運 びこみます」と伝えると、「暗くなるまで待ち
なさい」と止められた。なぜかと問うと、小声 でこう諭された。「ジェンネでは皆そうするん だ。明るいうちに荷物を運ぶと、お前が何をもっ ているかが、町じゅうの人に見える。そうする と、悪い考えをもつ人もでる。荷物がよく見え ない夜になってからにしなさい」。スーツケー ス、バックパック、小さな文机、スポンジ・マッ トレスがそれぞれ
1つずつというこじんまりし た荷物は、邪視や「悪い考え」を招くほど華美 ではないと思った。しかし新しい大家の進言を 無視するのは失礼だ。言われるがまま夜
8時の 暗闇を待って、ひっそり荷物を運びこんだ。最 初の居候先であるファネは、最後までこの引越 しに反対していた。「こんな夜中に荷物を運ば せることからも分かるだろう?ジェンネはとて も閉じている。よそ者である君がジェンネの町 なかに引越せば、絶対に苦労する。いつまでも うちにいていいのに」。
図 1-4 ジェンネの街並み ( 入り組んだ路地と家々 )
7ファネが言ったことは、確かに当たっていた。
町のなかに引越してしばらくすると、さまざま な不快なことに遭遇した。道を行けば、こども たちが「チュバブ・ペケレン(tubabu pekelèn、
痩せぎす外人)!」、「イジェ・ベル(ijye-bεr、
おとなこども)!」と言って、石や日干しレン ガの破片を投げつけてくる。命中して怪我をす ることも何度かあり、そのときには全力で追い かけたが、こどもたちは勝手知ったる迷路のよ うな路地に、一瞬にして消えてしまう。路地を 歩けば、見知らぬおじさんやおばさんから「何 街区の誰のところに住んでるの?」、「そこで何 してるの?」、 「どこに行くの?」と尋ねられる。
それは和やかな挨拶というよりも、ひっそりと した尋問だった。風景の写真を撮っていると、
「ジェンネの風景はジェンネ人のものだ!撮る のを止めろ!撮るなら金を払え!」と叱られる こともしばしばだった。徐々にジェンネ語が分 かってくると、わたしが若い女性たちの前を通 り過ぎたあとに囁かれるあれこれも、理解でき るようになる。「あの女は、○○の彼氏を取っ たのよ」「何も買わないくせに、△△がやって る店に毎日通ってるらしいわよ」、「××にバイ クを贈ったんだって」。まったく心当たりのな いことばかりだった。
ジェンネの人びとにとってわたしは、まぎれ もなく「よそ者」の外見をしてはいるが、ジェ ンネでよく見かける外国人(=肌の白い欧米人)
とはどこか違う。長期滞在の目的も、ほかの外 国人のように、観光や開発支援やホテル開業と いったはっきりしたものではない。つまりわた しは、説明のつきにくい怪しいよそ者であった のだろう。また、それまでは「町の外に少し長 めに滞在している外国人」として程よくあしら うことができたわたしが、意外にも町なかに腰 を据え始めたことで、ジェンネの人びとは警戒 しているのだろう。ジェンネの人たちの態度の 急変をこのように説明づけることで、どうに か心の平静を保った。ちょうどそのころ、わた しとほぼ同時期にアメリカからジェンネに配属 されていたピース・コープ(
Peace Corps/ Corpsde la Paix
、アメリカ合衆国政府の後援によるボ
ランティア組織)の女性(中国系アメリカ人の 大学生)が、「ミク、わたしはジェンネの人た ちの意地悪さにもう耐えられない」と言い残し てジェンネを去った。ボランティアとして配属 されていたオフィスの上司にすら何も告げず帰 国したため、あとで「チュバブ(外人)が消え た」と町じゅうの噂になった。
そのあと、ジェンネの人びともわたしも互い に慣れ、わたしへの警戒や排除は薄まっていっ た。しかし、あの数か月間の経験はいま思い出 しても腹立たしく辛い。このとき、辛いと同時 に、ジェンネの町全体が醸し出す二面性に強烈 に惹きつけられもした。よそ者にたいする一過 的な開放性と強固な閉鎖性、皆が顔見知りであ る細い路地の包まれるような安心感と息苦し さ、多民族のたくさんの人がひしめき合って暮 らすうちとけた親密さと、その裏にある揉め事 の回避術。これらのなかに、伝統的都市の気高 さと卑近さをまざまざと見せつけられた気がし た。そこから徐々に、調査関心の重心がジェン ネの人びとの生活とこの都市の特徴へと移行し ていった。
第
3節 本書の目的
本書の目的は、ジェンネの都市としての特性 を、ふたつの点を軸に明らかにすることにある。
ふたつの軸とは、ジェンネにおけるイスラーム と、ジェンネにおける市場である。
ジェンネでは複数の民族集団が生活してき た。町の人びとによる口頭伝承や中世のアラビ ア語の歴史書、考古学の発掘調査などにより、
現在のように複数の集団が集まって暮らす町の
様相は、少なくとも
800年前には始まっていた
と推測されている(
McIntosh 1995: 292)。植民
地支配以降や国家の独立以降に建設された都市
でもなく、すでに寒村や廃墟となり果てた都市
でもなく、ふるくから現在までその営みを継続
してきた都市として、ジェンネはアフリカのな
かでも稀有な存在であろう。
人口規模が
1000万を超す都市が世界のあち こちに存在し、アフリカでも植民都市に端をも つ近代的都市が人口圧の急騰で拡張を続けるな かで、 「都市」に対する一般的な概念は変化した。
ジェンネの面積は
1㎢にも満たず、現在の人口 は
1万
4000人ていどである。人びとの多くは 第一次産業に従事し、電気や水道、舗装道路な どの都市的インフラは行き渡っていない。自動 車が通れる幅の道は町に
1本しかなく、その道 でさえ舗装されているわけではない。この町の 唯一の「幹線道路」を自動車が通過することは 稀で、常にたくさんの牛や羊が悠然と闊歩して いる。建物はすべて泥づくりである。こうした ジェンネの景観や人びとの暮らしは、ふつう「都 市」ということばから想起されるものとは、大 きく異なっている 。
実際、ジェンネより規模の大きな都市に居住 するマリの人びとの多くは、ジェンネを「歴史 ある町」と表現すると同時に、「ブルス」とも 揶揄する。大都市での出稼ぎから戻ってきた ジェンネの人びとが、ジェンネを自嘲気味に「ブ ルス」と形容しているのも耳にした。ブルスと はフランス語で「藪」を意味する
brousseから 来たことばで、マリでは都会に対する「田舎」、
「村」の意味で、軽い蔑称として用いられる。ジェ ンネを「都市」と呼ぶ、ジェンネ以外のマリ人は、
主に観光業に携わる者や文化財保護にかかわる 役人などである。彼らがジェンネを「都市」と 表現するとき、かならず「伝統的な」、「いにし えの」、「オーセンティックな」といった形容が つけ加えられる。彼らにとって、ジェンネは単 なる「都市」、つまり「近代的で同時代の」都 市ではないのかもしれない。
その一方で、ジェンネの人びとは、彼らの町 が「都会的(
urbaine、フランス語)」ではなく ても「都市(koira、ジェンネ語)」であり、む かしから現在までその威容を示しつづけている ことに、強い自負をもっている。ジェンネ語で ジェンネは、ペル(peru、森、藪)やバンデ・
ヘレ(bande hεrεy、後背地)に対するコイラ(都
市)と形容される。また、ジェンネに関する先 行研究においても、ジェンネはしばしば「都市 国家」であると明示されてきた。
20世紀初頭 にジェンネに滞在して民族誌を記したモンテイ ユは、ジェンネを
cité(都市)、
métropole(中 心都市)と表現した(
Monteil 1971(1932))。また、
都市人類学者サウゾールのアフリカの都市類型 にもとづけば、ジェンネは「交易イスラーム都 市」のひとつに分類されている
8。
わたし自身も、ジェンネに暮らしていくなか で、「ジェンネは都市である」という認識を強 くもった。その理由は、数百年前の興隆からす でにジェンネが異なる人びとの交差点であった という歴史であり、マリ内外からイスラームの ネットワークや観光資源を介して人びとを惹き つけているという現在の姿でもあり、何より ジェンネの街並みと人びとが醸し出す一種の
「都市の風情」である。
わたしは、ジェンネの人びとが維持・更新し てきたジェンネに固有の都市性の重要な要素 が、先に挙げたイスラームと市場であると考え ている。ジェンネはイスラームを通じて、周辺 や近隣諸国、さらには交易を通じてつながって いた北アフリカなどの外部にたいして威厳を示 してきた。それと同時にイスラームは、ジェン ネの町に暮らす諸民族間の紐帯となってきた。
またジェンネは、河川交通の利便性やイスラー ムの交易・遊学のネットワークで集まって来る ヒトとモノの還流を利用し、一帯における商業 の中心地として機能してきた。その一端は、現 在もジェンネの市場に見てとれるだろう。この ふたつの点について、フィールドワークで見聞 きしたものを各節で示し、都市ジェンネの様相 を描写していきたい。
註
1 BBC News 2012
年
4月
2日 の 記 事
"Who, What, Why: Why do we know Timbuktu?"(http://www.bbc.co.uk/news/magazine-17583772、2012
年
4月
5日アクセス)より。「果てしなく遠い場
所」という意味でトンブクトゥの語が用いられ たのは、現存する文書に残っている限りでは、
1863
年のことである。その後イギリスの詩人
D.H.ローレンスや推理小説家アガサ・クリス ティ、作家のロジャー・ハーグリーヴスなどが 著作の中で用いて、一般的に広まったと言われ ている。2012 年
3月に、トンブクトゥを含む マリ北部でトゥアレグによる独立運動が激化し た。これを報じるニュースを見て、トンブクトゥ が「果てしなく遠い場所を表す伝説上の地」で はなく、実在する町の名前であると知り驚いた 英語圏の人びとも数多くいたという。
2 『オックスフォード英語辞典』より。
3 マリの8
割以上の人びとが話すことができると
言われる言語。公用語のフランス語とは別に、
マリの多くの地域でリンガ・フランカとして用 いられている。
4
ムスリムの女性形はムスリマであるが、マリの 人びとの多くはムスリマとムスリムを区別せず に用いる。そのため本書では、女性であっても ムスリムと表記する。
5 本書に記述するインフォーマントの名前には、
イニシャル表記のものと本名表記のものがあ る。イニシャル表記以外の名前は、すべて本名 である。わたしがたまたま見聞きした会話・光 景に登場する人物、もしくは本人が匿名での記 述を望んだ場合には、本名でなくイニシャル表 記をしている。また、本稿で示した人物の年齢 や世代、役職の肩書は調査当時のものである。
6 ミ ッ シ ョ ン・ キ ュ ル チ ュ レ ル(Mission Culturelle)は、マリ文化省の文化財保護局の組
織のひとつとして
2001年に設立された。主な 活動は、有形・無形の文化財や遺跡の保護と、
これらに関する周辺住民への啓発活動である。
2014
年現在
7か所(ジェンネ、バンジャガラ、
トンブクトゥ、エス・スーク、カイ、ガオ、カ ンガバ)に設置されている。
7
本書で用いている写真は、出典を示したもの以 外はすべて筆者撮影。
8 これらの先行研究では、ジェンネを周辺地域と
の関係や交易とイスラーム展開のネットワーク
の中に位置づけている。そして、そこにおける ジェンネの機能に着目して、ジェンネを交易や イスラームの中心都市であると結論づけている
(日野 2001: 6-10、嶋田 2010: 170-172)。
第 2 章 調査の概要
第
1節 調査期間と調査方法
本書の記述は、マリ共和国のジェンネでおこ なった計
24か月のフィールドワークで得た情 報にもとづいている。長期調査は二度に分けて おこなった。一度目は
2007年
2月末から
2008年
2月はじめの
12か月、二度目は
2009年
3月 から
2010年
2月の
12か月である。
調査方法は、参与観察とインタビューおよび 口頭でのアンケート調査である。調査に用いた 主な言語はジェンネ語
1(第
4章に詳述)とフ ランス語である。インタビューや参与観察が長 時間にわたる場合、あるいはジェンネ語以外の 現地語(フルベ語、ソルコ語、バマナン語な ど)が会話の中心となる場合は、適宜調査助手 にジェンネ語もしくはフランス語に訳してもら いながら会話を進めるか、許可を得て録音をお こない、その後調査助手とともにフランス語に 訳す作業をおこなった。
第
2節 調査地概要
ジェンネの町は、西アフリカのマリ中部に位 置している(図
1-3)。首都バマコからは直線
距離でおよそ
570㎞、州都モプチからは
130㎞ 離れている。
ジェンネの町は、行政区分ではモプチ州ジェ ンネ・セルクルのジェンネ・コミューンの一部 である。マリの行政区分は、以下のようになっ ている。まず、マリは
8つの州(
Région)に分 かれている
2。各州はさらにセルクル(
Cercle、 県)に分かれており、セルクルはさらにコミュー
ン(
Commune、郡)に分けられる(図
2-1)。
ジェンネの町が位置するモプチ州には
8つの セルクルがあり、うちひとつがジェンネ・セ ルクル(
Cercle de Djenné)である。面積
4,563㎢のジェンネ・セルクルは、
12のコミューン に分かれている
3。その
12のうちのひとつが、
ジェンネの町があるジェンネ都市コミューン
(
Commune urbaine de Djenné)である。ジェン ネ都市コミューンの面積は
308㎢で、ジェンネ の町(
ville de Djenné)と周辺の
10の村落
4か らなっている。本書で特に限定がなく「ジェン ネ」もしくは「ジェンネの町」と表記した場合 には、
10の村落を含まないジェンネの町(
Région de Mopti, Cercle de Djenné, commune urbaine de Djenné, ville de Djenné)のみを指す。
ジェンネの町はとても狭い。端から端まで ゆっくり歩いても、
30分ほどである。この小
図 2-1 マリの行政区分
ジェンネ
ジェンネコロ バンカス ユーワルー
ドゥワンザ ンバ
ィジ ガア ラ テネンコー モ
プチ
モプチ トンブクトゥ
セグー リク コロ カイ
バマコ シカソ
ガオ キダル
0 500km
さな町に
11の街区があり(図
2-2)、複数の民 族からなる約
14,000人が暮らしている。狭い 土地に多くの人が居住しているため、平屋の家 だけでなく
2階、
3階建ての家がひしめき合い、
そのあいだを細い路地が通っている。もっとも 狭い路地は、体を横向きにして通らねばなら ないほどである。人口は増加傾向にあり、
1976年に
10,275人、
1987年に
12,152人、
1998年に
12,703人、
2005年推計で
14,000人となっている。
人口増加はほぼ自然増加によるが、ここ
10年 ほどで、近隣の村落から移り住む人びとも増加 している。ジェンネの町には土地が限られてい るため、彼らは町の外に新しい地区を形成して いる(
DNUH 2005: 20)。
町の周辺には、アフリカ第三の大河ニジェー ル川の最大の支流のひとつであるバニ川のさら に支流が流れている。雨季とそれに続く増水期 には、ジェンネは周囲のすべてを水辺に囲まれ た「陸の島」となる。町はトーロ(toolo)と呼 ばれる小丘の上に築かれているため浸水しない が、増水期は外部とつながる陸路はひとつの橋 のみとなり、カヌーでの交通が不可欠である。
ジェンネ周辺の増水は、ニジェール川の上流の 雨によってもたらされる。ニジェール川上流、
熱帯雨林地帯のギニア山地に降る大量の雨は、
高低差の少ない中流でじわじわとあふれだす。
その氾濫原は、マリの中部で湿潤な内陸三角州 となる。ニジェール川内陸三角州とよばれるこ の氾濫原は、氾濫のピーク時には日本の九州ほ どの面積まで広がる。ジェンネはこの氾濫原の 南端に位置している(図
2-3)。氾濫原は牧畜、
農業、漁業に適しているため、兼業を含めると、
ジェンネの住民のほとんどが第一次産業に従 事している(
Maas et Mommersteeg eds. 1992: 30- 31)。
ジェンネはニジェール川内陸三角州の商業的 中心地のひとつとしても機能している。そのた め商業もさかんである。これには、ジェンネの 交易都市としての歴史が関わっている。ジェン ネは
15~
16世紀ごろをピークに、サハラ砂漠 の北と南をむすぶトランス・サハラ交易の中継 地として栄えた。サハラ砂漠をラクダのキャラ バンによって運ばれてきた交易の品々は、ガオ やトンブクトゥなどの北部の町で舟に積み込ま れ、ニジェール川とその支流およそ
500㎞を航 行し、ジェンネに運ばれた。北からの岩塩や絹 織物が、南からの金や綿花が、ジェンネを経て、
ときにはジェンネで加工され、このルートを行 き来したのである。交易を通じてサハラ以北の 商人と接触があったことから、ジェンネは西ア
図 2-2 ジェンネの街と街区(Maas et Mommersteeg eds. 1992: 39 Fig. 1.8 をもとに作成)
0 300m
カナファ カナファ
ジョボロ ジョボロ ヨブカイナ
ヨブカイナ サムセイサムセイ
セイマニ セイマニ
アルガスバ アルガスバ バマナ コイテンデコイテンデ バマナ
ファルマンターラファルマンターラ
コノフィア コノフィア
サンコレ サンコレ ダムザルソリア
ダムザルソリア
モスクモスク 常設市常設市
定期市
フリカ一帯の重要なイスラーム学術都市のひと つとしても発展した。こうした商人たちの多く はイスラームの知識も豊富であり、商品だけで なくその知識も、この地にもたらしたのだ。い までもジェンネの住民は、他所からやってきた 数家族をのぞいて、ほぼ全員がムスリムである。
町が成立したとされる
13世紀以降、ジェン ネでは複数の民族が暮らしてきた。ジェンネの 民族構成は表
2-1に示した。
口頭伝承によると、現在のジェンネの地に最 初に居住していたのは、漁民ソルコ(ボゾ)の 人びとである(
Monteil 1971(1932): 29-30、伊東
2011: 14-16
)。その後、ジェンネがサハラ交易
の中継地と交易品の生産地として発展するにし たがい、複数の集団がジェンネに居住するよう
になった。米作民・商人のマルカとソンガイ、
牧畜民のフルベ、畑作民のバンバラ、ブアそし てドゴンなどである。現在のジェンネも、これ ら複数の集団から構成されている多民族都市で ある。西アフリカ内陸部の一帯では、それぞれ の生業を特定の民族が専業的に担う傾向が強 い。特定の民族と特定の生業の結びつきが固定 化していることで、異民族間・異生業間の協働 が不可欠となるのである。ジェンネの多民族性 も、こうした職能集団と多分に重複した民族概 念によって維持されている
5。
註
1 以降本書における「ジェンネ語」は、ソンガイ
図 2-3 ニジェール川内陸三角州
民族名 主な生業 割合(%) 備考
ソンガイ(Songay (Koroboro)) 農業、商業 40.84 「ジェンネ人(
Djenne-boro)」
マルカ(Marka) 商業、農業(米作) 「ジェンネ人(
Djenne-boro)」
独自の言語をもたない
フルベ(Fulbe) 牧畜 21.22 元農奴リマイベも含む
ソルコ(Sorko (Bozo)) 漁業 15.62 バマナン(Bamanan) 農業(畑作) 5.41
マリンケ(Malinke) 農業 4.40
ブア(Bwa) 農業 3.20
その他 ― 9.31 Somono、Dogon、Touareg など
表 2-1 ジェンネの民族構成
(Harts-Broekhuis et al . 1980: 39 をもとに作成)
マリ
0 300km
ガオ
ニジェール川内陸三角州 ニジェール川
バマコ
セグー サン
ジェンネ モプチ
バニ川
トンブクトゥ
語のジェンネ方言を指す。ソンガイが集中して いるのはジェンネから直線距離で約
250 ㎞離れたニャフンケ(Niafounke)以北のマリ北部か らニジェールにかけての地域である。ジェンネ・
チーニ(
Djenné-chiini、ジェンネ語)と呼ばれ
るジェンネのソンガイ語は、トンブクトゥのソ ンガイ語コイラ・チーニ(
Koyra chiini、「都市 語」の意)とも、ガオのソンガイ語コロボロ・
チーニ(
Koroboro-chiini、「都市民語」の意)と も、母音の数が異なる。トンブクトゥとガオの ソンガイ語の母音が
5つであるのに対し、ジェ ンネ語のそれは
7つである。またジェンネ語に は、ガオやトンブクトゥには少ない近隣諸民族 のバンバラやソルコ、フルベなどの他民族の 言語の語彙が多く混ざっている(Heath 1998a、
1998b)。ジェンネの人びとによると、ジェンネ
語の話者と北部のソンガイ語話者が互いに問題 なく会話できるようになるには、大人の場合、
数日間から二週間ほどかかるという。
2
カイ(Kaye)、クリコロ(Koulikoro)、シカソ
(Sikasso)、セグー(Ségou)、モプチ(Mopti)、
トンブクトゥ(Tombouctou)、ガオ(Gao)、キ ダル(Kidal)の
8州。
3
ダンドゥグ・ファカラ(Dandougou Fakala)、デ ラリ(Derary)、ジェンネ(Djenné)、ファカラ
(Fakala)、フェマイ(Femaye)、ケワ(Kéwa)、
マ デ ィ ナ(Madiama)、 ネ マ・ バ デ ン ニ ャ カ フ ォ(Néma Badenyakafo)、 ニ ャ ン サ ナ リ
(Niansanarié)、ウロ・アリ(Ouro Ali)、ポンド リ(Pondori)、 ト ゲ・ ム ラ リ(Togué Mourari)
の
12コミューン。
4
バ レ・ セ イ ニ ャ(Ballé Seyna)、 ジ ャ ボ ロ
(Diabolo)、ゴニクボエ(Gomnikouboye)、カマ ラガ(Kamaraga)、ケラ(Kéra)、ニャラ(Niala)、
ソ ア ラ(Soala)、 シ ン(Syn)、 ウ ェ リ ン ガ ラ
(Wélingara)、イェンテラ(Yentéla)の
10村落。
5
西アフリカ内陸部における生業と民族概念の 関係については、Gallais 1962、Dieterlen 1973、
Tamari 1991
などに詳しい。
第 3 章 ジェンネのイスラーム
ジェンネの人びとの日々の生活には、イス ラームが根づいている。
ジェンネには
50以上のクルアーン学校があ り、
5歳から
14歳のおよそ
79%が通っている
(
CAP 2005および
DNUH 2005から算出)。ブル キナファソやニジェール、コートジボワールと いった近隣諸国から、ジェンネのクルアーン学 校に「留学」や「遊学」をしてくるこどもも少 なくない。町を歩けばあちこちからクルアーン 詠唱の練習の声が聞こえ、クルアーンの書き写 しを教師から添削してもらっているこどもたち を見かける。トマトを買おうと常設市に行け ば、店主は黙々と礼拝中であることも日常茶飯 事だ。そういうときは、その店主より少し早く 礼拝を終えた隣の店の人が、礼拝のため敷いて いたおんぶ布についた砂をパンパンとはたきな がら、「この人は礼拝中だから、わたしが聞い ておく。何が欲しいの?」と、待っていた客を 代わりにさばくのである。現在ではジェンネの
市場や売店でも、中国産の安価な腕時計が
1,000 Fcfa1以下で手に入る。日本と同じように、中 学生でも時間機能がついた携帯電話をもってい たりもする。しかし現在でも、時間に言及する 際には「時計の時間」ではなく、礼拝が大きな 目安となっている。「首都行きのバスの出発は アルファジャ(
al-faaja、夜明け前の礼拝)より も早いから、乗り遅れないよう気をつけなさい」
「〔事前に約束していたインタビューの時間に訪 ねても不在だった男性の妻が〕次の礼拝をした あとにまたおいで。夫もそのときには帰ってる から」といった具合だ。
イスラームに関連した職業に就いている人の 割合も、マリ国内のほかの地域と比べて非常に 高い
2。古いデータではあるが、
1970年代にお こなわれた職業調査では、ジェンネの就業人口 の
13.29%が「マラブタージュ(
maraboutage)」
を主な生業にしているという結果が報告されて いる (
Maas et Mommersteeg eds. 1992)。マラブ
図 3-1 早朝クルアーン学校にむかうこどもたち
タージュとは、アラビア語圏で広く「イスラー ム聖者」を表すマラブー(
marabout)にフラン ス語の接尾語の
-ageをつけてつくられた語で ある。ジェンネではマラブーは「フランス語」
と認識されており、ジェンネ語ではアルファと 呼ばれるため、以下アルファと呼ぶこととする。
アルファの主なしごとは、クルアーン学校の教 師とイスラームの知識を用いた薬や護符づくり である。ジェンネのようにそのほか複数の生業 が可能な都市で、
10人に
1人以上がイスラー ムに関連する職業に就いているのである。クル アーン学校が多いジェンネには、朝と夕にクル アーン学校の教師を務め、それ以外の時間に農 業や漁業、商業といったほかのしごとをおこな う人も少なくない。また、ジェンネが西アフリ カにおけるイスラームの中心として西アフリカ 全域で有名なことを活用して、農閑期に外国を 含む外部へ護符づくりの出稼ぎに行く者もい る。ジェンネに生活してこうした人びとを頻繁 に見ていると、
10人に
1人がアルファに従事 しているというのは、決して誇張された数字で はないと感じられる。
すべての人間が唯一神アッラーの被創造物で あるという理念上、イスラームはすべての人に 開かれている。ジェンネでも、特定の民族や職 能集団と密接に結びついている生業や土地の所 有などとは異なり、イスラームはすべての人を 包摂するものである。
本章では、ジェンネにおけるさまざまなイス ラームの在り方のなかでも、民族的差異を包摂 したり、さまざまな差異をむすぶ機能を果たし ているイスラームに焦点をあてる。ジェンネで は、イスラームの観点から特権的な民族は存在 しない。あらゆる民族の者がモスクの管理人や 時報係、クルアーン学校の教師などを務めてい る。生業と民族の境界がほぼ一致しそれが保持 される傾向にあるジェンネで、イスラームはそ うした境界が不問とされる領域である。以下に 民族的な差異を越える・つなぐ紐帯としての役 割をもつアルファ(イスラームに関するしごと に就く者)と、ジェンネのイスラームのシンボ
ルでもある大モスクについて詳述する。これら を通じて、イスラームがジェンネの諸民族の差 異を包括し、都市ジェンネの象徴となっている ことを示したい。
第
1節 ジェンネのアルファ
アルファとは、アラビア語でイスラーム法学 者を意味する
al-faqī
h(アル・ファキーフ)が 訛化したものであるという。しかし現在のアル ファの活動は、必ずしもイスラーム法と関係が あるわけではない。ジェンネ語では、イスラー ムに関連する職に就いている者全般を指す。町 に
1人のイスラーム導師(イマーム)や数人の モスクの時報係(ムアッズィン)も、兼業を含 めれば数百人いるクルアーン学校の教師も、す べてアルファと呼ばれる。ジェンネではこうし たいわゆるイスラームの正統的役職者や教育者 だけでなく、イスラームと土着の伝統との混淆 の度合いがより強いとされる護符づくり、薬づ くり、卜占といった営みをおこなう人びともア ルファと称される。彼らは宗教的に特殊な力を もつために畏怖尊敬されると同時に、民族や性 別、世代を超えた紐帯をむすぶ身近な存在とし て、ジェンネの人びとの生活に不可欠な役割を 果たしている。ジェンネでは、農業・漁業・牧 畜・商業などの生業はそれぞれを専業とする民
図 3-2 こども向けのクルアーン学校のようす
(このクルアーン学校のアルファは女性)
族集団や職能集団が担っている。しかし、本人 が努力して認められさえすれば、アルファには どのような出自であってもなることができるの である。
以下に、クルアーン学校の教師としてのアル ファについて詳述する。
1
教師としてのアルファ
ジェンネのアルファたちの説明によると、ア ルファの活動は大きくふたつの「種類」に区分 できるという。まず、アルファの活動はバイヤ ナ(bayana)とシリ(siri)のふたつに分けられる。
バイヤナとは、ジェンネ語で「隠されることの ない知識」であり、そのもっとも重要なものが クルアーンに書かれていることである。バイ ヤナがさらに進展したものが、キタオ(kitaw)
と呼ばれる。キタオはもともとアラビア語で「ク ルアーンの複写」や「クルアーンの解釈」を意 味する。ジェンネではそれが転じて、クルアー ンの読み書きだけでなく、ハディース(預言者 ムハンマドの言行録)などを用いてクルアーン
をより深く理解する能力が求められるアルファ のしごとをキタオと呼ぶ。一方シリとはジェン ネ語で「秘密」を意味し、「その家族だけに伝 わるバイヤナではない知識」や「黒い知識(bai
bibi)」を用いるアルファのしごとである。主に、アルファが人びとに薬を処方したり、魔法 陣(tasliya、ジェンネ語)で卜占をおこなうし ごとを指す。
ジェンネのアルファたちの多くは、バイヤナ もシリもおこなう。クルアーン学校の教師とし てこどもたちにクルアーンの読み書きを教える 一方、必要であればシリを用いて、ときには「黒 い知識」を用いてアルファしごとをおこなって いるのである。イマームが良きムスリムとして 尊敬される一方で、「なんでもできる力をもつ」
と怖がられていたように、シリを用いるアル ファしごとをおこなっていることは、あからさ まには表明されない。このふたつのうち、まず は、バイヤナのほう、つまりクルアーン学校の 教師のほうから詳述する。
ジェンネ語でクルアーン学校はティラ・フ 図 3-3 モスクの時報係を務めるアルファ
(モディ・シディベ) 図 3-4 こども向けクルアーン学校の教師を務め
るアルファ(アルファ・ヤロ)
(tira hu、「宗教の家」の意)と呼ばれている。
ジェンネにはクルアーン学校が
58校あり(
2007年現在、うち約
12校はキタオ・ティラフと呼 ばれる高等クルアーン学校も兼ねてる)、ジェ ンネのこどもたちの大多数が通っている。ジェ ンネのこどもたちがクルアーン学校に入るのは
7歳からである。修了時期は生徒個々人の習熟 度によって異なるが、中学部(クルアーン学校 ではない学校)にあがる前の
12〜
15歳くらい まで通うのが一般的である。アルファは早朝か らそれぞれの自宅やモスク前の広場などで、
20人ていどからときに
100人以上にもなる生徒を 集めて、クルアーンの暗誦と筆記の授業をおこ なう。授業は
7時頃から始まる。
8時すぎにいっ たん授業は終わり、学校へ通っている生徒は家 に帰って朝食を食べ、学校へ向かう。午後に家 の手伝いやしごとがない生徒は、放課後にもク ルアーン学校へ行き、
18時頃まで授業を受け る。
自分のこどもをどのクルアーン学校に通わせ るかは、個人の自由とされている。居住してい る街区で開かれているクルアーン学校でなくて
もよいし、生徒自身と異なる民族のアルファが 教師をつとめていてもよい。多くの場合、両親 のいずれかがこども時代に通ったクルアーン学 校を選ぶ。そのためアルファは、複数の言語を 話すこどもたちを受け入れることになる。ジェ ンネではソンガイ語のジェンネ方言がリンガ・
フランカであるため、多くのアルファはソンガ イ語を介してアラビア語のクルアーンの読み書 きを教えている。しかし、家ではソンガイ以外 の言語を話している幼いこどもや、ほかの町や 村から「留学」してきたこどもたちのなかには、
ソンガイ語を解することができない者もいる。
そのため、ジェンネのクルアーン学校の教師で つくる組合の長によると、アルファはそれぞれ の生徒の民族に合わせて複数の言語を用いて教 育をおこなっているという。
2007
年の
5月、知り合いが教師を務めるク ルアーン学校の授業を見学した。そこで教師を 務めているのは、ブバ・テラ(
39才)とその 兄である。ほかのジェンネのクルアーン学校と 同じく、教室となるのは彼らの家のシーファと 呼ばれる玄関間である。その日は入学して日の 浅い年少のこどもたちだけを集めた日とのこと であった。
7、
8歳くらいのこどもが
22人、薄 暗い玄関間の砂の上にぎゅうぎゅうに座ってい た。ジェンネの家屋の床は固く踏み固められた 土間かコンクリートであるが、シーファだけは、
クルアーン学校の教室に使われることが多いた
め、生徒が長時間座っても痛くないよう、白い
砂が敷き詰められている。この日のテラの生徒
22人の中には、
45㎞ほど離れた村と隣国ブル
キナファソから来て、テラの家に住み込みなが
らクルアーンを学んでいるという少年
2人(
10歳と
11歳)も含まれていた。彼らはジェンネ
では少数のブワという民族であるが、生徒の出
自はさまざまであるため、指導するときにブワ
の言語は用いない。生徒のもち物をチェックす
るため、もち物の呼称を声に出していく。「ワ
ラ!」。ワラ(walaa)とはインクで文字を書く
木の板のことで、アラビア語起源のソンガイ語
である。それを聞いて、こどもたちは元気に自
図 3-5 高等クルアーン学校のようす
分のワラを頭の上に掲げる。ソンガイ語を解さ ないために皆の動きから遅れたフルベのこども に向かって、テラはフルベ語で「ドゥダン!」
と言い直す。フルベ語話者以外のこどもたちも、
楽しそうに口々に「ドゥダン、ドゥダン」と復 唱する。クルアーンの読み書きを学ぶ機会は、
すべての人に開かれているべきとされている。
そのため、このようにクルアーン学校では、ジェ ンネ語は必ずしも主流の言語ではない。アル ファは必要に応じて生徒の民族言語を用いて、
クルアーンの読み書きを教えるのである。
ジェンネのクルアーン学校は、木曜以外は毎 日開かれる。休みの前日にあたる水曜日の午後 に、それぞれの生徒は、親から渡された「授業 料」を教師に渡す。金額に決まりはなく、ひと り当たり
50 Fcfaから
250 Fcfaが最も多いとい う。現金を用意できないときには、米や干し魚 などをもってくる生徒もいる。
7歳から
23歳 の生徒
28人を教えるアルファ、マハマドゥ・
チョカリ(
40代、フルベ)によると、生徒が もってくる授業料だけで生活できるアルファ は、ジェンネに
5人ほどしかいないという。ほ とんどのアルファが、クルアーン学校の教師と しての収入とシリを用いたアルファしごとで得 た収入と、農業や漁業、牧畜を組み合わせて生 活している。チョカリの生徒
28人が水曜日に それぞれに
100 Fcfaをもってきた場合、一週間
で
2,800 Fcfaの現金収入になる。ほかの生業に
比べて季節的な変動がほとんどなく安定的に現 金収入を得られるとはいえ、ジェンネの熟練労 働者が早朝から
12時まで
6時間ほど働いて得 る収入が
1,500〜
2,000 Fcfa、中ていどの品質の 米
1 kgが市場で
500〜
750 Fcfaであること考え ると、その収入だけで生活するには十分でない。
チョカリは、クルアーン学校の教師のしごとは
「確かにお金がなくて大変なときも多いが、お 金の問題ではない。ムスリムとしての意志の問 題」であるという。
2