シスモンディ研究序説 : シスモンディの生涯と彼 の遺産(下)
その他のタイトル An Introduction to my Investigations into the Legacy of Simonde de Sismondi (3)
著者 小池 渺
雑誌名 關西大學經済論集
巻 43
号 5
ページ 651‑671
発行年 1993‑12‑28
URL http://hdl.handle.net/10112/13771
651
論 文
シスモンディ研究序説
—ーシスモンディの生涯と彼の遺産(下)ー一
小 池 椴
I .
はじめにI l . 1 8
世紀末19
世紀前半のヨーロッパに生きたシスモンディ 皿シスモンディ自身によっては公にされなかった彼の作品(以上,本誌第42巻第 6号) IV. シスモンディ自身が公にした主要な作品
(i)
歴史関係の作品( i i )
経済関係の作品(以上,本誌第43巻第 3号)( i i i )
文学関係の作品( i v )
宗教関係の作品(v)
法律関係の作品(以上,本号)( v i )
政治関係の作品( v i i )
時論的な小品( v i i i )
小括V.
シスモンディが受けとって後世に伝えた文書類V I .
結びこれまでにみてきたように, シ ス モ ン デ ィ は 浩 潮 な 歴 史 害 を
2
点も公にし た。その彼は,生前からすでに歴史家としてヨーロッパ中に名声を轟かせてい た。と同時に,シスモンディは経済学者でもあった。彼の死後しばらくする と,彼はむしろ『経済学新原理」の著者として世界中の人々に知られるように なりさえした。恐らくはそうしたことに鑑みてであろう。現在のジュネーヴ郊 外シェーヌ=ブジュリーの教会の向かって右手すぐ裏のところにみいだされる「
1 9 6 9
年に再建された」「J . C . L .
ドゥ・シスモンディ」の墓碑の下段の部分1
6 5 2
闊西大學『純清論集」第4 3
巻第5
号( 1 9 9 3
年1 2
月)には, 「 歴 史 家 に し て 経 済 学 者 」 と い う 文 字 が 刻 み 込 ま れ て い るI)。 だ が し か し , シ ス モ ン デ ィ は 一 生 「 歴 史 家 に し て 経 済 学 者 」 に 終 始 し た と い う わ け で は 決 し て な か っ た 。 彼 は , 同 時 に 文 学 者 で も あ り , 宗 教 学 者 で も あ り , ま た 法 律 学 者 で も あ り , 政 治 学 者 で も あ り , さ ら に は 時 論 家 で も あ っ た の で あ る 。
( i i i )
文 学 関 係 の 作 品文 学 者 と し て の シ ス モ ン デ ィ の 代 表 的 な 著 作 は ,
1 8 1 3
年 に 刊 行 さ れ た 『 南 欧 文 学 論 」 全4
巻2)であった。 こ の 作 品 は , 前 に も 触 れ た よ う に , も と は と い え ば ア カ デ ミ ー ・ ド ゥ ・ ジ ュ ネ ー ヴ で の 講 義 の た め に 作 成 さ れ た も の で あ っ た 。『 ト ス カ ー ナ 農 業 概 観 』 と 『 商 業 的 富 に つ い て 」 の 著 者 シ ス モ ン デ ィ は , 『中 世 イ タ リ ア の 諸 共 和 国 の 歴 史 』 の 最 初 の
8
巻 を 刊 行 し 終 え た1 8 0 9
年 に 同 ア カ デ ミーの哲学の教授に任命され,1 8 1 1
年 冬 か ら 翌1 2
年 に か け て の 学 期 に ヨ ー ロ ッ1)シスモンディの墓碑名については,つぎの文献にいっそう詳しく紹介されている。吉 田静ー「異端の経済学者一_ーシスモンディ」新評論,
1 9 7 4
年,13738
ページ。ちな みに,シェーヌープジュリー( C h e n e ‑ B o u g e r i e s )
の教会を背にして右側の静かな道 路を1 0 02 0 0
メートルほど直進すると,右手に,シスモンディが彼の晩年をそこで過 ごしたといわれる家屋をみることができる。いまでもなお民家として使われているら しいその家屋に近づいてみると,外壁には見苦しくない程度の大きさの標示板が掲げ られており,そこにはつぎのように書き記されている。すなわち,「CH.S.
ドゥ・シ スモンディ/高名なるジュネーヴ市民/歴史家にして経済学者/イタリアの諸共和国の 歴史をここで執筆した/ 1 7 7 31 8 4 2
年」.と。2) J . C . L . Simonde d e S i s m o n d i , De l a l i t t e r a t u r e du M i d i d e 『 E u r o p e ,P a r i s e t S t r a s b o u r g : T r e u t t e l e t W u r t z , 1 8 1 3 , 4 t o m e s .
ただし,この著作の場合には 全巻が同時に発行されたというわけではなかった。それの第1
巻にみられる「1 8 1 3
年5
月3
日」付の出版者の広告によれば, 「本書の印刷が全部は終わらないうちに読者 の一部分が戦場に向けてパリを発つことになりそうなので,我々としてはとりあえず 最初の2
巻だけでもこれを発売しておくべきであると考えた。あとの2
つの巻は……遅くとも今度の
6
月1
日には発兌の運びとなるであろう」( i b i d . ,t . I , p .
〔V
〕),とい うことであった。 ちなみにその広告は, 同書の初版初刷本にしかみることができな い。仮扉の裏面に印刷所名が刷り込まれた同年発行の初版異刷本においてさえも,そ れは認めることができないのである。2
シスモンディ研究序説(小池) 6 5 3 パ南部の文学にかんする講義を担当することになった。彼は,確かに少年の頃 から外国語の習得には意欲を燃やし,文学にも強い関心を示していた。『商業的 富について』を世に問うてからは,女流文学者スタール夫人の主催するコッペ のサロンに常連として参加してもいた。けれども文学にかんしてみずから講義 をするのは,彼にとっては初めての経験であった。そのために彼は,たとえば イタリアのマントヴァ大学の文学教授の席にあったスペイン人アンドゥレス ( A n d r e s ) , ドイツのゲッティンゲン大学文学教授ブーターヴェク (Bouterwek) やロマン主義者シュレーゲル (AugustWilhelm von S c h l e g e l ) , それにフラン
スのイタリア文学史家ジャンガネ ( P . ‑ L .Ginguene) らの諸業績に依拠
3)しなが ら膨大な量の原稿を作成して講義に臨むことにした。そしてその原稿に若干手 を加えて出版したものが,当面の著作『南欧文学論』であったのである。
それはさしあたり, 「南欧」に題材を求めた比較文学の概説書であるといっ てよいであろう。このように性格づけることについては,恐らくシスモンディ 自身も一応は諒としてくれるに違いない。というのも彼は,同書の「はしがき」
の中で,つぎのように述べているからである。すなわち,
「私は•…••ただ,洗練された人々のために,外国の文学にかんして知っておくべき事柄をとりまと め,それを提示しようとしただけなのである。私は,途方もなく広い分野にお いて,新たな発見をしようと企てたわけでは決してない」化と。その「はしが き」に続く本文においては,彼は, ラテン語からのロマンス諸語の派生(第 1 章),アラビア文学(第 2 章 ) , フ゜ロヴァンス地方の言語と詩(第 3 6 章),ワロン 語ないしはオイル語による文学(第 7 8 章),イタリア文学(第 9 22 章),スペイ ン文学(第 23 35 章 ) , およびボルトガル文学(第 36 40 章)の歴史をとり扱い,
それらの文学相互間の交流や影轡関係などを概説している。「南欧」の文学を 3) C f . i b i d . , t . I , p . 1 2 n . e t p . 1 3 n .
よ り 詳 し く は つ ぎ の 文 献 を 参 照 。J e a n ‑ R .de
S a l i s , S i s m o n d i , 1 7 7 3 ‑ 1 8 4 2 , l a v i e e t l ' c e u v r e d ' u n c o s m o p o l i t e p h i l o s o p h e , P a r i s , 1 9 3 2 , p p . 1 8 0 ‑ 8 8 .
4) S i s m o n d i , i b i d . , t . I , p .
〔i
.〕3
6 5 4
闘西大學「継清論集」第4 3
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年1 2
月)主題とするこの著作の本文の中でアラビア文学がとりあげられているのは,そ れが同地の古代の文学と中世の文学との懸橋としての役割を演じたとの認識か らであった。必ずしもシスモンディに固有のものとはいえないそのような認 識5)をも盛り込んだ同書は, 彼自身によっておおよそつぎのように締めくくら れている。すなわち,「我々は多くの点において, イタリア語やプロヴァンス 語やスペイン語やボルトガル語から,つまりはただ
1
つの言語のさまざまな方 言から, 一個同一の精神のもろもろの変容態をみてとーることができた」。「南 欧」では「愛と騎士道と宗教」が渾然一体となっていたのであって,それが「ロマン主義的な精神風土を形成し」, 当該地方の「詩に独特の性格を付与して いたのである」。その詩は内容においてばかりでなく, さらに表現方法におい ても「ロマン主義」的であった。これは, 「音楽や絵画」からの影響のせいで ある。ただし,「ロマンス諸語の中でももっとも名高い」フランス語だけは完 全に趣を異にしている。• この言語は,ギリシャ人やラテン人の詩を手本にして おり,文学を法則に従わせる傾向を有している。「構想の完璧さ」と「思考の 緻密さ」と「全体と個々の部分とのバランスのよさ」を身上とするフランス文 学は,「古典主義」の理念を具体化したものであるといっても過言ではない。
色彩豊かで大胆な比喩を用いる上述の詩と,「感覚に訴えることがまるでない」
抽象的かつ論理的なフランス語の散文との間には,容易に相容れないものがあ るのである叫と。
5)
アラビア文学と「南欧」の文学との関係についてのシスモンディの見解は,アンドゥ レスから借りたものであったらしい。イタリアのシスモンディ研究者ペッレグリーニ は,つぎの文献において, 「彼のその著作〔『南欧文学論』〕の中のアラビア文学に言 及した部分にかんしては, シスモンディは, ただたんにスペイン人のイエズス会士〔アンドゥレス〕を参考にしただけではないのであって,彼からさんざん学びとった 挙句の果てに幾つかのくだりを全面的に模倣しさえしたのである」(〔 〕内は引用者
—以下同様) と述べたうえで, その「模倣」の具体例を提示してもいる。
C a r l o P e l l e g r i n i , I I S i s m o n d i e l a s t o r i a d e l l e l e t t e r a t u r e d e l 『 Europam e r i d i o n a l e , G e n e v e , 1 9 2 6 , p p . 5 5 ‑ 6 e p . 5 6 n . 1 .
6) S i s m o n d i , ibid.~t. I V , p p . 5 5 7 ‑ 6 1 .
シスモンディ研究序説(小池) 655 しかしながら,いま要約して紹介したシスモンディの「結論」からもうかが えるように,彼による「南欧」比較文学の概説は,スコットランド出身の政治 家にして哲学者マキントッシュ ( J a m e sM a c k i n t o s h )がいうところの「文学史 の哲学」によって基礎づけられていた
7)。『南欧文学論」の中のとりわけ「は しがき」にみられたつぎの一文を思いだすなら,この書の著者の真の意図は比 較文学を概説することよりもむしろ,スタール夫人によって確立されたばかり の「文学史の哲学」を社会科学の方向に純化徹底ないしは展開させることのほ うにあったのではなかろうかと考えられさえする。その一文とは,すなわち,
「私は全編をつうじてなによりも,諸民族の政治や宗教の歴史が彼らの文学に 及ぼした影響と,逆に彼らの文学が彼らの性格に及ぽした影響との双方を明ら かにし,正義や誠実の規範と美の規範との関係を,否むしろ徳性や人倫と感受 性や想像力との関連を浮き彫りにしたいと考えた」
8)'というものである。
したがって当の著作は, たんなる比較文学の概説書ではなくして, 同時に
「文学史の哲学」の研究書でもあったのだというべきなのかもしれない。いず れにせよそれは, 1811 12 年にアカデミー・ドゥ・ジュネーヴで「南欧」文学 にかんする講義を行った哲学教授の作であったのである。さらに大雑把にいお うとすれば, 「歴史家にして経ー済学者」ないしは社会科学者の筆になる文学関 係の書であったということもできるであろう。
1 8 1 3 年刊のその『南欧文学論』は,当時のヨーロッパの各地に広範な読者を みいだした。とくに出版地パリを中心とするフランスにおいては,同書は古典 主義者とロマン主義者の双方によって精読され,折しも彼らの間に巻き起こり つつあった論争の中でたびたびひきあいにだされることになったようである。
この書の解説にみずからのシスモンディ伝の一章を割り当てたサリスによれ ば,文芸批評史上における『南欧文学論」の著者の立場はシュレーゲルのそれ
7) C f .
〔JamesM a c k i n t o s h , ) De L ' A l ! e m a g n e , par Mad. de S t a e l , The E d i n b u r g h R
印i e w ,v o l . X X I I , n o . X L I I I , O c t o b e r 1 8 1 3 , p p . 2 1 7 ‑ 1 8 .
8) S i s m o n d i , i b i d . , t . I , p . i i .
5
6 5 6
関西大學『純演論集」第4 3
巻第5
号( 1 9 9 3
年1 2
月)とは違って 1 8 世紀の合理主義と 1 9 世紀のロマン主義とのちょうど境目のところ にあった。にもかかわらず当時のフランスの批評家たちは,一様にシスモンデ ィの名をシュレーゲルらのロマン主義者の名前と結びつけた。そのうえで,古 典主義の立場に立つ批評家たちは,新興のロマン主義のために派手な宣伝を繰 り広げたといってシスモンディを非難した。彼らの中には,たとえばシスモン ディに依拠してシュレーゲルを攻撃するなど,敵の陣営に混乱をもたらそうと する作戦をとるものもあった。これにたいしてロマン主義の陣営のほうでは,
確かにシスモンディは古典主義に執着しすぎるといった不満を漏らす向きもな くはなかったが, しかしロマン主義の立場に立つ大多数の批評家は,彼を自分 たちの運動の指導者の 1 人として迎え入れた,ということである
9)。 そのよう なこともあって, シスモンディの「南欧文学論』は, 早くも 1 8 1 9 年にそれの
「 第 2版」の,また 1 8 2 9年には「第 3版」の刊行をみることになった
10)。 ロマン主義がナショナリズムや自由主義と不可分のものとみなされていたイ タリアにおいては,っとに『商業的富について』やとりわけ『中世イタリアの 諸共和国の歴史」の著者として令名が高かったシスモンディの新著『南欧文学 論」は, リ ノルジメント運動を支える著述家たちから熱狂をもって迎えられ た。他方の反動主義者・教権主義者・古典主義者の側では, 1 8 1 9 年と翌 2 0 年に 同書のイタリア語抄訳版が刊行された
11)のを機縁に,シスモンディにたいする
9) S a l i s , o p . c i t . , c h a p i t r e I X , s u r t o u t p p . 1 8 3 ‑ 8 5 , 1 8 7 , e t 1 9 4 ‑ 9 7 .
1 0 ) J.C. L . Simonde de S i s m o n d i , D e l a l i t t e r a t u r e du Midi d e ! ' E u r o p e , s e c o n d e
姐
i t i o n ,r e v u e e t c o r r i g e e , P a r i s , S t r a s b o u r g e t L o n d r e s : T r e u t t e l e t W u r t z , 1 8 1 9 , 4 t o m e s ; t r o i s i e m e e d i t i o n , r e v u e e t c o r r i g e e , P a r i s , S t r a s b o u r g e t L o n d r e s : T r e u t t e l e t W u r t z , 1 8 2 9 , 4 t o m e s .
ちなみにこの著作の「第3
版」をもとにした下記の諸版は,どちらもフランスの外において刊行されたものである。
I b i d . , B r u x e l l e s : I I . Dumont, e t L o n d r e s : Dulau e t C 凡 1 8 3 7 ,2 t o m e s ; A i x ‑ l a ‑ C h a p e l l e e t C o l o g n e : L . Kohnen, 1 8 3 7 , 2 t o m e s .
1 1 ) S i s m o n d i , Vera d e f i n i z i o n e d e ! r o m a n t
紺s m o ,t r a d o t t a da D . M. D a l l a , Milano :
C a v a l l e t t i , 1 8 1 9 , c i t a t a d a l P e l l e g r i n i , o p . c i t . , p p . 1 3 8 ‑ 3 9 ; J . G . L . Simonde
de S i s m o n d i
〔ぷc
〕,D e l l a l e t t e r a t u r a i t a l i a n a d a l s e c o l o XIV f i n o a l p t i n c i p i o
d e ! s e c o l o XIX,
〔t r a d o t t ada G i o v a n n i G h e r a r d i n i
』M i l a n o: G i o v a n n i S i l v e s t r i ,
1 8 2 0 , 2 v o l u m i .
これら2
点の抄訳版のうち,前者については筆者未見である。シスモンディ研究序説(小池) 6 5 7 非難のヴォルティジを一段と強めるようになった
12)。そうすることで彼らは,
実はイタリアにおけるリ ノルジメント運動そのものの激化・拡大を未然に防止 しようとしたのであろう。だがしかし,彼らの思惑に反してその運動は急激な 盛りあがりと広がりをみせ,シスモンディの当面の著作にたいする人々の関心 もいよいよ強まっていった。こうして 1 8 2 0 年刊の抄訳版が,中部イタリア革命 の前の年,つまりは 1 8 3 0 年にまったく新たな装いのもとに再版されることとな ったのであろう
13)。
シスモンディのことをロマン主義者とみる今なお根強い見方は,以上のよう に1 9 世紀の10 20 年代のイタリアとフランスにおける激しい論争の中ではじめ て形づくられたのであるが,そうしたシスモンディ観の形成とどれほどの関係 があったのかは別として,彼の『南欧文学論』は当時のスペインやボルトガル の文学上の運動にたいしてもまた,一定の影響を及ぼしたようなのである
14)0とくにスペインにおいては,著者の死の直前になってからであるとはいえ同書 の抄訳版が刊行されさえした
15)0一方,シスモンディがいうところの「北欧」に位置するイギリスとドイツに おいては,彼の『南欧文学論」は,イタリアやフランスにおいてみられたほど の影響力は発揮することができなかった。 この著作は, 「それら 2 つの国々の ロマン主義運動にはなんらの新しい要索をももたらさなかった」
16)ようなので 1 2 ) C f . P e l l e g r i n i , i b i d . , p p . 1 2 4 ‑ 4 6 .
1 3 ) G i o v a n n i C a r l o Leonardo Simonde de S i s m o n d i , S t o r i a d e / l a l e t t e r a t u r a i t a l i a n a d a l s e c o l o XIV J i . n o a l P r i n e
ゆi od e ! s e c o l o XIX, Genova : A. P e n d o l a , 1 8 3 0 , 6 v o l u m i .
なお, この版の発行地名を, サ リ ス は 迂 濶 に も' G e n e v e '
と 読 み 違 え て し ま っ た よ う で あ る 。C f .S a l i s , o p . c i t . , p . 1 9 8 n . 2 ; i d e m , S i s m o n d i , 1 7 7 3 ‑ 1 8 4 2 , l e t t r e s e t d o c u m e n t s i n e d i t s , s u i v i s d ' u n e l i s t e d e s s o u r c e s e t d ' u n e b i b l i o g r a p h i e , P a r i s , 1 9 3 2 , p . 6 7 .
1 4 ) C f . S a l i s , Sismond
ら1 7 7 3 ‑ 1 8 4 2 ,l a v i e e t l ' r e u v r e
…,p p . 2 0 1 ‑ 2 .
1 5 ) Sismonde de S i s m o n d i
〔泣〕,H i s t o r i ad e l a l i t e r a t u r a e s p a n o l a d e s d e m e d i a d o s d e ! s i g l o XII h a s t a n u e s t r o s d i a s , t r a d u c i d a y c o m p l e t a d a p o r J o s e Lorenzo F i g u e r o a , S e v i l l a : A l v a r e z y C o m p a f i i a , 1 8 4 1 ‑ 4 2 , 2 t o m o s .
1 6 ) S a l i s , Sismond
ら1 7 7 3 ‑ 1 8 4 2 ,l a v i e e t 『 x u v r e. . . , p . 2 0 0 .
7
6 5 8
闊西大學「親清論集」第4 3
巻第5
号( 1 9 9 3
年1 2
月)ある。しかしながら,なんらの反響をも呼ばなかったというわけではもちろん ない。それどころかイギリスでは,前述のマキントッシュが同書の発刊に索早 い反応を示したし 1 n , 彼に続いて 2 人の著述家が,権威ある雑誌に詳細な書評 を載せもした 1 8 ) 。さらに,該書がマキントッシュによってひきあいにだされた 年から数えてちょうど1 0 年目の 1 8 2 3 年には,英語による翻訳版が姿をみせもし た
19)。アメリカのほうでも別版本がだされたその翻訳版は,のちに 4 度も版を 重ねる結果となりさえした
20)。またドイツにおいても,原典初版の刊行と同時 にそれの書評を例のプークーヴェク自身が引き受けたらしいし 2 1 ) , 彼による書 1 7 ) C f .
〔M a c k i n t o s h ,
〕o p . c i t . , p . 2 1 8 .
1 8 ) C f . (Anonym,) Ginguene and S i s m o n d i ' s L i t e r a r y H i s t o r y of I t a l y , & c . , The Q u a r t e r l y R e v i e w , v o l . X I , n o . X X I , A p r i l 1 8 1 4 , p p .
〔1
ー〕3 2 ;
〔H a z l i t t , )S i s ‑ m o n d i ' s L i t e r a t u r e of t h e S o u t h , The E d i n b u r g h R e v i e w , v o l . XXV, n o . XLIX, June 1 8 1 5 , p p . 3 1 ‑ 6 3 .
1 9 ) J . C . L . Simonde d e S i s m o n d i , H i s t o r i c a l V i e w of t h e L i t e r a t u r e of t h e S o u t h of E u r o p e , t r a n s l a t e d , w i t h n o t e s , by Thomas R o s c o e , London: Henry C o l b u r n and C o . , 1 8 2 3 , 4 v o l s .
2 0 ) I b i d . , New‑York
〔泣〕:J . & J . H a r p e r , 1 8 2 7 , 2 v o l s . I b i d . , s e c o n d e d i t i o n , i n ‑ e l u d i n g a l l t h e n o t e s from t h e l a s t P a r i s e d i t i o n , t r a n s l a t e d , with n o t e s and a l i f e o f t h e a u t h o r , by Thomas R o s c o e , London: Henry G . B o h n , 1 8 4 6 , 2 v o l s . ; from t h e l a s t London e d i t i o n , New York: Harper & B r o t h e r s , 1 8 4 8 , 2 v o l s . ; r e p r i n t o f 1 8 4 8 e d . ,
〔P h i l a d e l p h i a :
〕R.W e s t , 1 9 7 3 , 2 v o l s . , mentioned i n B o o k s i n P r i n t , 1 9 8 7 ‑ 8 8 , New York and L o n d o n ,
〔1 9 8 7 ,
〕v o l . 3 , p . 4 9 7 4 . I b i d . , t h i r d e d i t i o n , L o n d o n : Henry G . B o h n , 1 8 5 0 , 2 v o l s . I b i d . , f o u r t h e d i t i o n , London: Henry G . B o h n , 1 8 5 3 , 2 v o l s . ; L o n d o n : George B e l l & S o n s , v o l . I :
1 8 8 0 , 1 8 8 9 , 1 8 9 5 , 1 9 0 8 , v o l . I I : 1 8 8 3 , 1 8 8 9 , 1 8 9 0 . I b i d . , f i f t h e d i t i o n , London : George B e l l and S o n s , v o l . I I : 1 8 9 8 , 1 9 0 3 .
なお,本注の末尾に掲げる文献によれ ば,この英訳版の第4
版には1 8 7 27 7
年発行の,また本注冒頭に掲げたニュー・ヨー ク版には1 8 1 8
年発行の,異刷本もあるということであるが,それら2
点のうち1 8 1 8
年 に発行されたといわれるものについては,にわかにその存在を信ずるわけにはゆかな い。C f . The N a t i o n a l U n i o n C a t a l o g , P r e ‑ 1 9 5 6 I m p r i n t s , v o l . 5 4 7 ,
〔London and C h i c a g o ,
〕1 9 7 8 , p . 1 1 6 .
2 1 ) C f . l e t t r e d e S i s m o n d i a Mm• d ' A l b a n y , P e s c i a , 2 0 j a n v i e r 1 8 1 4 , d a n s l e s L e t t r e s i n e d i t e s d e ] . C . L . d e S i s m o n d i , d e M d e B o n s t e t t e n , d e Madame d e S t a e l e t d e Madame d e S o u z a a Madame l a C o m t e s s e d ' A l b a n y , p u b l i e e s p a r
S a i n t ‑ R e n e T a i l l a n d i e r , P a r i s , 1 8 6 3 , p . 2 2 3 .
シスモンディ研究序説(小池) 6 5 9 評のせいかどうかはともかくとして遅くとも 1816 18 年までにはドイツ語によ
る翻訳版が現われもした
22)。こうして『南欧文学論』は, ドイツとイギリスの 人々にたいしても多かれ少なかれ影警力を発揮したのである。
ちなみにシスモンディの当初の計画では,この『南欧文学論』は, 「北欧文 学論」によって補完されるはずであった。再び同書の「はしがき」に立ち戻る なら, そこにはつぎのような一節がみいだされる。すなわち,「私がはじめに
抱いていた計画・…••はヨーロッパの全体に及ぶものであったのであって,私は その地方のうちの南部の諸民族について語ったにすぎない。…•••けれども私はなんとかして,ロマンス語による文学とチュートン人の文学とが相互の間に有 していた諸関係を指摘し,そうすることで両者の相互影響を垣間見させようと した。それらの関係は,私の仕事の後半の部分を成し遂げて北欧の文学につい ても論ずることができるようになるならば,そこにおいてはさらにいっそう明 らかにされるはずである。その際には私は,文明化されたヨーロッパを分かち ぁぅ二大人種のうちの一方が他方から何を学んだのかをはっきりとさせること に力を尽くすつもりである。そうして,文芸の復興の頃からの人間精神のもっ とも輝かしい諸機能の歴史を素描しようと思うものである」
23),と。また,同じ
『南欧文学論』の本文の最終ページには,「いつの日にか北欧の文学にかんする 同様の著作を仕上げることができるなら,そのときには私は,もっと飾り気の 2 2 ) S i s m o n d i , t . i b e r d i e L i t e r a t u r d e s s u d l i c h e n E u r o p a s , b e a r b e i t e t von L
.H a i n ,
1 r B d . , L e i p z i g : B r o c k h a u s , 1 8 1 4 , erwahnt i n G e s a m t v e r z e i c h n i s d e s d e u t s c h ‑ s p r a c h i g e n S c h r i f t t u m s (CV) 1 7 0 0 ‑ 1 9 1 0 , b e a r b e i t e t u n t e r d e r Leitung von Hilmar Schmuck und W i l l i G o r z n y , M i . i n c h e n , New Y o r k , London und P a r i s , 1 9 8 5 , B d . 1 3 5 , S . 1 6 6 .
ただし,1 8 1 4
年に刊行されたといわれるその版については筆 者末見である。筆者が参照しえた「南欧文学論」ドイツ語翻訳版は,つぎの2
巻本の みである。J . C .
L. Simonde Sismondi 〔函〕,D i eL i t e r a t u r d e s s u d l i c h e n E u r o p a ' s [ s
匂,herausgegeben und mit Anmerkungen b e g l e i t e t von Ludwig H a i n , L e i p z i g und Altenburg: F .
A. Br o c k h a u s , e r s t e r Band: 1 8 1 6 , z w e i t e n Bandes e r s t e r Abtheilung
〔函〕:1 8 1 7 , z w e i t e n Bandes z w e i t e Abtheilung: 1 8 1 8 ; z w e i t e r Band, L e i p z i g : F .
A. Br o c k h a u s , 1 8 1 9 .
2 3 ) S i s m o n d i , De l a l i t t e r a t u r e du
陣d
心,〔p r e m i e r ee d i t i o n ,
〕t. I , p p . i i ‑ i i i .
,
6 6 0
隅西大學「継清論集」第4 3
巻第5
号( 1 9 9 3
年1 2
月)ない,我々とはさらにかけ離れたクイプの,それだけにまたいっそう長くつら い仕事をつうじてはじめて理解しうるようになる美女たち(北欧のミューズた ち)を紹介することになるであろう」
24),といった一文も認められる。だがし かし,その「美女たち」はシスモンディによってはついに「紹介」されること がなかった。いうまでもなく「北欧の文学にかんする」彼の「著作」が日の目 を見なかったからである。
それでは,『南欧文学論」を補完するはずのその「北欧文学論」のための「仕 事」はなぜ「成し遂げ」られなかったのであろうか。この疑問にたいして,サ リスはつぎのように答えてくれる。すなわち,シスモンディには「言語と文学 の知識が不十分であった(のであって〕, 彼は, 英語とドイツ語はできたけれ どもオランダ語とスカンジナビア諸語とロシア語とポーランド語についてはち んぷんかんぷんであった」
25)からである,と。しかしながら,少なくともシスモ ンディの言語能力には目を見張るものがあった。彼は,英語とドイツ語が「で きた」だけではなかった。サリス自身も認めているように,シスモンディは,
4 0 歳の時点においてすでに「ロマンス諸語のすべて」を習得しており,「プロヴ ァンス語とイクリア語とスペイン語とポルトガル語の作品を解説すること」も 可能であった
25)。とくにスペイン語とイタリア語については,それぞれの言語 を「ものにするためには 2 3 カ月も専念すれば十分である」
24)と断言してさ えいた。これらのことからは,サリスによって「ちんぷんかんぷんであった」
といわれた諸言語にしても,それらをシスモンディが本気で学ぽうとしていた ならば必ずや「ものにする」ことができたに違いないと推考される。そしてそ こからさらに,「北欧」の諸言語を駆使して作品を味読することができたなら ば同地の文学について論ずるのに十分な「知識」を得ることも可能になったは ずであるといった具合に考えを推し進めるのは,決して困難なことではない。
2 4 ) I b i d . , t . I V , p . 5 6 2 .
2 5 ) S a l i s , S i s m o n d i , 1 7 7 3 ‑ 1 8 4 2 , l a v i e e t t ' m u v r e …, p . 1 7 8 .
1 0
シスモンディ研究序説(小池)
6 6 1 にもかかわらず彼は,「北欧文学論」のための「仕事」を成し遂げることがな かった。とすればそれは,より根本的には,「北欧」全体の「文学」ではなし にとりわけイギリスの経済の,そしてまた祖国ジュネーヴや「第二の祖国」ィ タリア
26)や暫時的な祖国フランス
27)の社会の,歴史と現状を究めることのほう が彼にとっては先決問題であったからであろう。
こうして「北欧の文学にかんする著作」は計画倒れに終わったのであるが,
しかし,シスモンディが実際に公にした文学関係の著書は, 『南欧文学論』だ けではなかった。そのほかにもう 1 点 , 「北欧」の作家「ウォルター・スコッ
ト
( W a l t e rS c o t t )の歴史小説から着想を得て(フランスの〕メロヴィング王朝
時代の風俗•生態を描いた」といわれる小説「ジューリャ・セヴェラ』全 3巻 があった 2 8 ) 。 1 8 2 2 年に発表されたこの作品の執筆時期を特定するためには,ペ ッシャのヴァルキウーザの屋敷に埋もれていたシスモンディの文書類をはじめ て世に紹介したヴィッラーリ ( P a s c a lV i l l a r i )によるつぎのような逸話が参考に なる。すなわち,「ペッシャにおいては……彼(シスモンディ〕は,晩になる と家族に囲まれて,またそこに使用人の若干のものをも交じえながら,大きな 声でなにかを朗読するのが常であった。……小説『ジューリャ・セヴェラ』が 書かれたのも,まさにそこでの団らんのためであったのである」
29),と。当該小 説はシスモンディとその家族がともにペッシャの地に暮らしていた間に執筆さ
2 6 )
とりわけトスカーナを, シスモンディは「第二の祖国」 と呼んでいたらしい。C f . S a i s , i b i d . , p . 4 4 1 .
2 7 )
この点については,本稿(上)の注6を参照されたい。2 8 ) J . C . L . Simonde de S i s m o n d i , J u l i a S
箪r a ,o u fan q u a t r e c e n t q u a t r e ‑ v i n g t ‑ d o u z e , P a r i s , S t r a s b o u r g e t L o n d r e s : T r e u t t e l e t W u r t z , 1 8 2 2 , 3 t o m e s .
この 小説についての本文中に引用した至極短い解題は,サリスによるものである( S a l i s , i b i d . , p . 3 9 8 )
。『南欧文学論」の解説にはみずからのシスモンディ伝のまるまる1
章を費した彼であったが, 『ジューリャ・セヴェラ」にかんしてはほんの幾つかのペー ジにおいて事の序でに言及するのみにとどまっている。
2 9 ) P a s c a l V i l l a r i , Une c o n v e r s a t i o n de N a p o l e o n I•r e t de S i s m o n d i , R
印u e h i s t o r i q u e , 1 a n n e , tome L j a n v i e r ‑ m a r s 1 8 7 6 , p p . 2 3 8 ‑ 3 9 .
11
6 6 2
闊西大學『経清論集」第4 3
巻第5
号( 1 9 9 3
年1 2
月)れたのだといわんばかりのこのヴィッラーリの話に,シスモンディ自身の同書 の「はしがき」にみられるつぎの一文,すなわち, 「このたび読者に提供する 小説は……私が『フランス人の歴史』の最初の数巻を執筆するために行ってい た研究や作業から生みだされたものなのである」
30)という一文を重ねあわせて みよう。そうすると,この歴史小説が書かれたのはシスモンディがペッシャで の家族団らんの雰囲気の中で「フランス人の歴史』の最初の数巻の準備を進め ていた頃のことであったという推定が成り立つ。そこでさらに, 1821 年に刊行 が開始された前掲のシスモンディ自身のフランス史書とサリスの筆になる彼の 伝記とをのぞいてみるなら,問題の小説が,あるいは少なくともその一部分が 執筆されたのは 1819 年 6 月から 1820 年秋までの間のことであったに相違ないと 思われてくる。それらの文献によれば, 当時のシスモンディは, 『フランス人 の歴史』のための仕事を抱えながら新妻ジェスィーとともにペッシャに母親を 訪ねていたのである
31)。
しかるにそのペッシャが位置するトスカーナにおいては, 『ジューリャ・セ ヴラ』はそれの刊行と同時に当局の検閲を受け, 2つの個所から 3つの行が抹 消されるはめに陥った。その 4 年余り前にはローマのほうで『中世イタリアの 諸共和国の歴史」の何巻かが禁書扱いにされていた
32)けれども, トスカーナに おいてシスモンディの著作が検閲にひっかかったのはこれが初めてのことであ った。それほどまでに当面の歴史小説は危険視されたのである。その理由は,
「現在の政治情勢を余りにもまざまざと思い起こさせる」というものであった らしい
33)。また,同書についてはほぽ同じ頃にフランス語圏のほうでも若干違 った鍛点からの書評が現われていた。そこには, 「ウォルター・スコットを模
3 0 ) S i s m o n d i , i b i d . , t . I , p . I V .
3 1 ) J . C . L . Simonde d e S i s m o n d i , H i s t o i r e d e s F r a n < ; a i s , t . XXIX, P a r i s : T r e u t t e l e t W u r t z , 1 8 4 2 , p . 5 1 6 ; S a l i s , i b i d . , p p . 3 8 2 e t 4 3 1 .
3 2 )
この点については,本稿(中)の注1 2
の後半部分を参照されたい。3 3 ) C f . A . d e R u b e r t i s , La c e n s u r a d e l l e o p e r e d e l S i s m o n d i i n T o s c a n a , n e g l i
S t u d i s u G . C . L . S i s m o n d i , r a c c o l t i p
ダi tP r i m o c e n t e n a r i o d e l t a s u a m o r t e
( 1 9 4 2 ) , Roma e B e l l i n z o n a , ( 1 9 4 5 ,
〕p p .
〔3 8 5
ー3〕8 6 .
シスモンディ研究序説(小池)
6 6 3 倣したこの歴史小説の場合には史実が小説家の才能にたいして優位を占めてい
る」といった内容のことが述べられていたようである
34)0だがしかし,いま引用した 2 つの『ジューリャ・セヴラ」評はそのどちらも が,ほかでもなく批評の対象それ自体に依拠したものなのではなかろうかと思 われる。なぜなら,該書の「はしがき」にはつぎのような断り書きがみられる からである。すなわち,「スコットランドのすばらしい小説の作者の例に倣っ て(本書の)各章の冒頭に付した引用文は……いずれも現代の著述家たちから 借りたものばかりである。それらを掲げたのは,私が想像力を働かせて描きだ した場面がいかに今世紀の現実と似通っているかということを示すためなので ある。ところで,この小説の主人公フェリクスとジューリャとセヴェリュスは
純粋に架空の人物であり••…•ヴォリュズィアニュスの戦いとトゥデリクの遠征もまた作り話である。……それ以外の公的な出来事はおおむね史実に基づくも のである。私が年代記を踏みはずしたのは聖ゼノクにかんしてだけであるよう に思う」 3 5 ) , と 。
そうだとすれば, トスカーナでの一件とフランス語圏での例の書評記事の出 現はそれ自体『ジューリャ・セヴェラ」の直接的な影響のもとに生じたことで あったのであり,その影響力の強さと大きさを如実に物語る出来事であったの である,ということになるであろう。実際この歴史小説は,上掲の「南欧文学 論」ほどではないにしても,ョーロッパの各地に反響を呼んだ。それは,刊行 と同時にドイツ語と英語に翻訳された
36)。英語翻訳版のほうは早くもその 2 年 後の 1 8 2 4 年に再版となった
37)。そうして 1 8 4 0 年と 1 8 4 2 年には,それぞれ,イタ 3 4 ) C f . S a l i s , i b i d . , p . 4 3 9 .
3 5 ) S i s m o n d i , J u l i a S
紺ra. . . , t . I , p p . VI‑V I I I .
3 6 ) Simonde de S i s m o n d i , J u l i a S e v e r a , o d e r d a s Jahr V i e r h u n d e r t und z w e i und n e u n z i g ,
〔i l b e r s e t z t J von K . L . Methusalem M u l l e r , L e i p z i g : C . H . F . H a r t ‑ mann, 1 8 2 2 , 2 T h e i l e
亙c
〕.英語翻訳版については次注を参照されたい。3 7 ) J . C . L . Simonde de S i s m o n d i , J u l i a S e v e r a , o r t h e Year Four Hundred and N i n e t y ‑ t w o , London: G . and W. B . W h i t t a k e r , and Munday and S l a t t e r , 1 8 2 2 , 2 v o l s . ; 1 8 2 4 , 2 v o l s .
1 3
6 6 4
闊西大學「純清論集』第4 3
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月)リア語による翻訳版 3 8 ) とフランス語による原書の事実上の改訂版 3 9 ) が現われた のである。
( i v ) 宗教関係の作品
これまでにみてきた文学や経済やとりわけ歴史にかんするシスモンディの労 作においては,彼の宗教学者としての側面がしばしば自己を顕示していたよう である。たとえぱ『中世イクリアの諸共和国の歴史』全1 6 巻には,カトリック教 の倫理についての彼の批判的分析があちこちに散見された
40)。だからこそその 著作は部分的にもせよまさにローマにおいて禁書扱いにされたのであろうし,
また,同書を読んだイタリアの著名な文学者マンゾーニ ( A l e s s a n d r oF r a n c e s c o Tommasso A n t o n i o M a n z o n i ) は,カトリック教の倫理を断固として擁護する作 品を手がけるようになったのでもあろう
41)。しかしながらシスモンディのほう
3 8 ) G . C . L . Simondo d e ' S i s m o n d i , G i u l i a S e v e r a , o s s i a 『 a n n oCDLXXXXII n e l l e C a l l i e , C a p o l a g o : E l v e t i c a , 1 8 4 0 , 1 v o l u m e .
3 9 ) J . ‑ C . ‑ L . Simonde de S i s m o n d i , J u l i a S
紺r a . . . , B r u x e l l e s : N . ‑J . G r e g o i r , V . Wouters e t C•, 1 8 4 2 , 1 t o m e .
4 0 ) J . C . L . Simonde ( d e ) S i s m o n d i , H i s t o i r e d e s r e p u b l i q u e s i t a l i e n n e s du moyen a g e , Z u r i c h : H e n r i G e s s n e r , p u i s P a r i s : H . N i c o l l e , e t p u i s P a r i s : T r e u t t e l e t W u r t z , 1 8 0 7 ‑ 1 8 , s u r t o u t t . X V I , c h a p . CXXVII.
4 1 ) C f . A l e s s a n d r o M a n z o n i , S u l l a m o r a l e c a t t o l i c a , o s s e r v a z i o n i , M i l a n o , 1 8 1 9 , p a r t e p r i m a , p . I ; Roma, 1 8 2 6 , p . 3 ; P r a t o , 1 8 3 4 , p . 3 ; i d e m , O s s e r v a z i o n i s u l l a m o r a l e c a t t o l i c a , p a r t e I e I I ( P o s t u m a ) e p e n s i e r i r e l i g i o s i , s t u d i i n t r o d u t t i v i , commenti e a p p e n d i c e d i A n t o n i o C o j a z z i , t e r z a e d i z i o n e r i v e d u t a , T o r i n o ,
〔
1 9 4 5 , )p . 7 8 ; i d e m , O s s e r v a z i o n i s u l l a m o r a l e c a t t o l i c a , a c u r a d i Romano Ame‑
r i o , M i l a n o e N a p o l i , 1 9 6 5 , v o l . I , p . I X ; i b i d . , a c u r a d i Umberto C o l o m b o ,
〔
M i l a n o ,1 9 6 5 , ) p .
〔2 0 5 .
〕なお, この著作のフランス語による翻訳版と英語による それとには,つぎに掲げるような実に象徴的なタイトルが付せられている。〔I d e m ,
〕O b s e r v a t i o n s d e M. M a n z o n i a M. S i s m o n d i , s u r l a m o r a l e c a t h o l i q u e ,
〔A n n e c i ,
〕1 8 3 5 ; A l e x a n d e r M a n z o n i , A V i n d i c a t i o n of C a t h o l i c M o r a l i t y , o r a R e f u t a t i o n of t h e C h a r g e s B r o u g h t A g a i n s t I t b y S i s m o n d i , i n H i s ' 、 H i s t o r yof t h e I t a l i a n R e p u b l i c s During t
加M i d d l eA g e s , " L o n d o n , 1 8 3 6 .
1 4
シスモンディ研究序説(小池) 6 6 5 は,それらにたいして真向から反論するために一書を設けるというようなこと はしなかった。宗教学者としての彼は,ただ, 1819 世紀におけるプロテスタ ント教会とカトリック教会の宗教的信念の変遷の過程を検討してそれらの教会 の間の境界線はあまり重要な意味をもたなくなりつつあると推断する連続論文
「宗教的信念の進歩を顧みて」
42)など, 2 3 の小品をものしたにすぎなかっ た。ちなみに,いまひきあいにだした連続論文は,やがてひとまとめにされて パンフレットの形式において再版された
42)ばかりでなく,同様にパンフレット の形式において英語に翻訳されもした
43)。
したがって,彼の宗教観についての体系的な理解に達するのは必ずしも容易 なことではない。そのためにはまた,たとえばつぎのようなエピソードにも耳 を傾けなければならないであろう。すなわち,シスモンディとその夫人ジェス ィーとは人も羨むほどに仲睦まじい夫婦であったのであるが,それでも 2 人の 間には,夫人の祖国イギリスはどの点においても素晴らしい国として手放しで 賛美しうるのかどうかということのほかにもう 1 つだけ折りあいのつかない問 題があった。それは宗教にかんする問題であったのであって,夫人がイギリス 国教会の「 3 9 カ条」を全面的に受け入れていたのにたいし,シスモンディのほ うはそれの矛盾に目を瞑る気にはなれなかった。彼にしてみれば,形式の中に 逃げ道をみいだしながらキリスト教への信仰には良識がしかるべき役割を演じ ているといった主張の持ち主を永遠に非難し続けようとする公認の教義は,信 ずるに足りないものであった。そもそもシスモンディの信仰心は,彼自身の魂 のほとばしりであったのである。彼は,みずからの内において神を崇めるのみ にはとどまらずに外へでて兄弟たちの群れに投じてもそうしたいと強く感じて 4 2 ) J . ‑ C h . ‑ L . Simonde de S i s m o n d i , Revue d e s p r o g r e s d e s o p i n i o n s r e l i g i e u s e s ,
Re
叩e
卵c y c l o p e d
匂u e ,c a h i e r s d e j a n v i e r , f e v r i e r e t mars 1 8 2 6 , e t t i r a g e a
p a r t ,
〔P a r i s: R i g n o u x , s . d . ,
〕5 l p .
4 3 ) J . C . L . de S i s m o n d i , R
ゅ 如oft h e P r o g r e s s [ o f R e l i g i o u s O p i n i o n s , During t h e N i n e t e e n t h C e n t u r y , t r a n s l a t e d by T . B . R . , London: T r e u t t e l and W u r t z , 1 8 2 6 , 7 9 p .
1 5
6 6 6
闊西大學「経清論集」第4 3
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年1 2
月)いた。だからこそ彼は,日曜日になるときまって教会へでかけていったのであ る。と同時に,説教師が理性を踏みにじったりありえないことを口にしたりし たときにはかえって疎外感を覚えもしたのである
44),と。ここからは,カトリ
ックの教義にたいしてはもとよりプロテスクントのそれにたいしても無批判的 な態度をとることのできない正真正銘の「迷える子羊」としてのシスモンディ の姿が浮かびあがってくるであろう。
( v ) 法律関係の作品
宗教学者としてのシスモンディと同様に法律学者としての彼もまた,数点の 小品を造しただけであった。それらの小品の中でもっともよく読まれたもの は , 1815 年のフランスの「帝国憲法追加法令」にかんする連続論文であったよ うである。サリスによれば,同年の 3 月 2 0 日に帝位に復したナポレオンは,新 しい憲法の起草をシスモンディのコッペ時代の先輩の 1 人バンジャマン・コン スタン ( B e n j a m i nC o n s t a n t )に依頼した。それより数年前にコッペ・グループ にたいするナポレオンの監視が強化された際にはゲッティンゲンに逃れて隠退 することにしたコンスタンであったが,そうした過去のことはすっかり水に流 してしまったのか,彼は二つ返事でナボレオンの依頼を受諾し,さっそく憲法 草案の作成にとりかかった。コンスクンがまとめた草案は若干の修正を経たの ちにナポレオンによって承認された。それが,ナボレオンの復位に伴って再び 官報として発行されるようになった新聞「世界報知 ( l eM o n i t e u r u n i v e r s e l ) 」の 4月2 3日号に「帝国憲法追加法令」というタイトルのもとに公にされたのであ る。年初来バリに滞在していたシスモンディは,早くも 4 月 4 日の時点におい てコンスタン本人の口から憲法起草の話を聞いていたという事情もあって,
「追加法令」の公布には素早い反応を示すことができた。彼は,同じ官報の 4 月2 9日号, 5月の 2日号, 6日号, 8日号にその憲法典を吟味,というよりも 4 4 ) A v a n t ‑ p r o p o s a J . C . L . d e S i s m o n d i , F r a g m e n t s d e s o n j o u r n a l e t c o r r e s p o n ‑
d a n c e ,
〔p u b l i e sp a r A . M o n t g o l f i e r ,
〕Geneve e t P a r i s : J o e l C h e r h u l i e z , 1 8 5 7 , p p . V I I ‑V I I I .
1 6
シスモンディ研究序説(小池) 6 6 7 むしろ実質的には「擁護」する内容の論文を発表したのである。それだけにこ の連続論文は,多くの人の目にとまると同時にうさん臭い目で読まれることも 少なくなかった。そのせいかどうかはともかくとして,シスモンディは,官報 に掲載されたばかりのみずからの論文に手を加え,さらに書き下ろしの原稿を も追加して,同じ 1 8 1 5 年の 5 月末頃に「フランスの憲法典の吟味」と題するパ ンフレットを発行した,ということである
45)。
全体で 1 2 4 ページに及ぶそのパンフレットを実際にのぞいてみるなら, 最初 の 74 ページは「序文」と 3 つの章から成っており,そこには法律学者としての シスモンディの力量が遺憾なく発揮されている。彼は,まずはじめに「序文」
において, 憲法典の吟味の原則らしきものをつぎのように提示する。すなわ ち,「憲法典の吟味にあたっては, まず市民の権利, もしくは個人の自由の保 障を,ついで人民の権利,もしくは国民の意思の力の保障を,そして最後に国 家統治権相互の間の均衡,もしくは政府の力強さや慎重さと人民の安寧との保 障を,つぎつぎと探りだしてゆかねばならない」
46),と 。 こう述べたうえで彼 は,例の「帝国憲法追加法令」の吟味を開始する。「第 1 章」,「第 2 章」,「第 3 章」においてはそれぞれ「人身の安全の保障」,「国民の代表」,「統治権相互間の 均衡や調和」にかかわる条文を引用し,それらに,同じフランスの以前の,ぁ るいはまた同じヨーロッパのほかの国々の,憲法の条文をつきあわせたりもし ながら検討を加えてゆく。そうして彼は, 「当面のフランスの憲法は……この
うえなくしっかりとした保障を惜しみなく諸個人の自由に与え•…••どの国民が享有するものよりもいっそう威厳のある国民の代表を創設し……統治権相互間 のバランスを十分にとってあらゆる対立を緩和するとともにあらゆる抗争を速 やかに終結させるようにもした」
47)と結論するのである。
パンフレット「フランスの憲法典の吟味」のこれまでの個所においてもとき 4 5 ) S a l i s , S i s m o n d i , 1 7 7 3 ‑ 1 8 4 2 , l a v i e e t f
四u v r e …, p p . 1 6 8 ‑ 7 1 e t 2 5 7 ‑ 9 2 .
4 6 ) J . C . L . Simonde de S i s m o n d i , Examen d e l a C o n s t i t u t i o n fran~oise
〔函〕,P a r i s : T r e u t t e l e t W u r t z , 1 8 1 5 , p . 8 .
4 7 ) I b i d . , p . 7 3 .
1 7
6 6 8
闊西大學「経清論集』第4 3
巻第5
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年1 2
月)どき顔をのぞかせていた政治学者ないしは時論家としてのシスモンディが,っ ぎの 38 ページにわたる 3 つの章においては一段と前面に現われでてくる。彼 は,いわば法律学者としてのシスモンディを掩護するために, 「 第 4 章 」 で は
「追加法令」を制定することになったナポレオンの復位の正当性を,また「第
5章」においては国民議会ではなしに皇帝ナボレオンによる「追加法令」の制 定という手続きがとられざるをえなかった理由を,さらに「第 6 章」ではフラ
ンスの自由な人民にとってのナボレオンの「才能と根性」の必要性を, 同国 の,あるいは広くヨーロッパの政治・軍事情勢との関連において明らかにしよ うとする。そして最後の 12 ページを占める「第 7 章」においては,いわば法律 学者としてのシスモンディと政治学者ないしは時論家としての彼とが合して 1 つになって,主権を有するフランス国民は皇帝をはじめとするみずからの代表 のいずれにも無制限の権限を委ねるものではないということを確認しながら,
フランスの憲法典の吟味をしめくくるのである。
このように概観すると,当該パンフレットはそれのもとになった上掲の連続 論文と同様に「追加法令」を「擁護」
48)したものにほかならないとか, あるい は「『追加法令』の公布は決定的にシスモンディをナポレオンの味方に引き入 れさせることになった」
49)というサリスの見解には, ほとんど非の打ちどころ がないかのようにみえる。だがしかし,同じパンフレットの細部にまで目を配 ってみるなら,必ずしもそうはいえないかもしれないと思われてくる。なぜな らそこには,権力の座に返り咲いたナボレオンを牽制しているのではなかろう かと思わせるよう泡文章
50)や , 「この憲法〔「追加法令」〕の……幾つかの部分
は·…••まだまだ不完全であり不十分である」51) といった趣旨の文章が散見されるからである。たとえば, 先に引用した結論のすぐあとのところにはつぎの
4 8 ) S a l i s , i b i d . , p . 2 8 2 . 4 9 ) I b i d . , p . 2 7 8 .
5 0 ) C f . S i s m o n d i , i b i d . , p p . 4 9 ‑ 5 0 , 9 7 ‑ 1 0 1 , 1 0 3 ‑ 5 , 1 1 3 ‑ 1 4 , e t c .
5 1 ) I b i d . , p . 1 1 9 .
シスモンディ研究序説(小池)
6 6 9 ような一文もみいだされる。すなわち, 「フランス人の願望や必要は何である のか,時代の精神はいかなるものであるのか,他のすべての栄光を味わってみ たあとでなおも自分に残されている新たな栄光とはどのようなものであるの か,そして最後に,対外的には(フランス)国民の名誉を重んじさせ,対内的 にはすぺての市民の権利をまもる毅然とした, しかも節度のある行軍とはどの ようなものであるのか,これらのことを理解するためには十分な年齢に達した
(または,十分に偉大な)人物(ナポレオン)によって執行されるという最高 の特典をその憲法は享受することになるであろう」
52),と 。 これらの文章をも あわせ読むならば,当面のバンフレットは,「追加法令」を全面的に「擁護」
したものであるとか,それを制定し,みずから執行することになるナポレオン への絶対的な支持を表明したものであるというよりもむしろ,彼に牽制をかけ ながら同時に期待もかけざるをえないという複雑な心境をもって「追加法令」
を文字どおり「吟味」したものであるといったほうがよいのではなかろうかと 思われてくるのである。
ところでシスモンディはなぜ,いま述べたような複雑な心境に陥ったのであ ろうか。けだしそれは,ナポレオンのエルバ島脱出の報道を機縁にウィーン会 議がにわかに進展をみせ始めたのを知って,近い将来ヨーロッバに復古主義・
正統主義を原理とする反動的な体制が樹立され,フランスや同国に隣接するジ ュネーヴ,イクリアなどの諸地域の自由が,とりわけスイスとフランスの場合 には独立までもが,脅威にさらされることになるかもしれないと考えた
53)から であろう。当時のシスモンディにしてみれば,そのような憂うぺき事態はなん としても回避しなければならなかった。そのためには,捲土重来して「帝国憲 法追加法令」という 「新しい憲法」
54)を制定したばかりのナポレオンの「才能 と根性」に期待をかけるほかなかった
55)。ナボレオンはちょうどその 1 年前 5 2 ) l b
辺.,p p . 7 3 ‑ 4 .
5 3 ) C f . i b i d . , p p . 3 ‑ 4 , 1 0 6 ‑ 8 , 1 1 1 , 1 2 1 ‑ 2 4 , e t c . 5 4 ) I b i d . , p . 7 e t P a s s i m .
55) C f . i b i d . , p p . 1 0 3 ‑ 1 0 , e t c .
1 9
6 7 0
闊酉大學「経清論集』第4 3
巻第5
号( 1 9 9 3
年1 2
月)に,対仏同盟を結ぶ諸列強の戦力に屈して帝位を退き,エルバ烏への配流の身 となったのであるが,当面のウィーン会議において決定的な発言力を有してい るのはまさにあのときに彼を窮地に陥れた諸列強なのであった。しかるに,そ れらの列強によって辛酸をなめさせられたことのあるナボレオンはまた,対外 的にはたとえばジュネーヴをフランスの一部分とみなし続けたりしながら「領 土拡張主義」的な「解放」戦争を展開すると同時に,対内的にもたとえばスタ ール夫人を中心とするコッペ・グループのメンバーらに追放その他の迫害を加 えるなどして独裁的な政治を断行した経歴の持ち主でもあった。かつてのコッ ペ・グループの一員として, しかもまたかつてのフランスの一市民として,シ スモンディはいかにナポレオンが老狼で野心的な政治家であるかということを よく知っていた。だから彼は,ナボレオンの「才能と根性」に期待をかけるに しても彼がかつての轍を踏まないように牽制しながらそうするのでなければな らないと思ったのであろう。
そしてそのような気持を抱いて「フランスの憲法典の吟味」を行ったため に,シスモンディは,以前の憲法とは違って分別盛りのナボレオンがみずから 制定した「追加法令」には「諸個人の自由」にたいする「しっかりとした保 障」と「威厳のある国民の代表を創設」する旨の確約と三権の相互の間の「バ ランス」にたいする配慮とが盛り込まれているのだということを,ことさらに 強調する結果となったのであろう。いずれにせよ,彼は単純な気持で「追加法 令」を「擁談」 したのでもなければ素朴な気持で復位後のナボレオンに「味 方」したのでもないように思われるのである。
(未完)
追記 本稿の(上)と(中)を発表してからこれまでの間に,何人かの先生方
から励ましのお言葉を頂戴した。とりわけ本学名巻教授の杉原四郎先生か
らは, つぎのような大変ありがたいご指摘まで賜った。すなわち, 本稿
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シスモンディ研究序説(小池) 671
(中)の 6 2 ページにおいて J . C . L . Simonde d e S i m o n d i , E t u d e s s u r l ' e c o n o m i e p o l i t i q u e , P a r i s ; B r u x e l l e s , 1 8 3 7 ‑ 3 8 , t . I , p r e m i e r e s s a i
の邦訳としてとり扱われている高畠素之•安倍浩訳『経済恐慌論』,『経演學