終戦十ヶ年の日本経済政策の動向
著者 松原 藤由
雑誌名 關西大學經済論集
巻 創立70周年特集号
ページ 227‑250
発行年 1955‑11‑04
URL http://hdl.handle.net/10112/15699
第二次世界大戦における敗戦以降︑
の四つの段階を経ていることがわかる︒第一段階は終戦直後の被占領から昭和二十三年末に至る︑いわゆる日本
経済の混乱期︑すなわちインフレーションの悪性化の時期である︒第二段階は昭和二十四年から昭和二十五年六
月頃までの︑端的にいえば日本経済の安定化期︑すなわちドッジ・ラインの頭行期である︒第三段階は昭和二十
五年六月の朝鮮動乱勃発から対日講和成立までの︑いわば日本経済の好転期︵特需および轍出伸晟期︶である︒
四段階は講和成立︵昭和二十七年四月︶以後現在に至る︑いわゆる日本経済の自主権回復を契機とする自立経済の
確立期︑換言すれば日本経済の転換期である︒本小論は︑
日本経済政策の基本動向を概観し︑併せて﹁かく在るべき日本経済政策﹂の現段階的特質を明らかにせんとする
も の
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る ︒
終 戦
十 ケ
年 の
日 本
経 済
政 策
の 動
向 ︵
訟 原
︶
ま し
︐
が
き
今日までの約十ヶ年の日本経済の足跡を顧みると︑大ざつばであるが︑次
いわば上記の通説ないし便宜的な四つの時期における
松
終戦十ヶ年の日本経済政策の動向
原
藤
由
第
てから今日に到る約十ヶ年の日本経済政策の基本動向である︒
︵ハ︶軍需補助産業︵鉄鋼・輻金属・造紺 ところで戦後の日本経済政策の動向について考察する場合︑特に注意すべきことは国土︑国富︑資源の喪央に
伴う自然的制約条件のみならず社会的ないし政策的制約条件︑すなわち連合国︑わけてもアメリカの占領政策に
よる影響である︒端的にいえば戦後の日本経済政策の動向を把握するには︑アメリカの対日管理政策のが父遷と︑
これを基礎づけている世界梢勢の変化とを究明することが必要なのである︒以下は敗戦という絶大な犠牲を払つ
(‑︶混乱期の日本経済政策
戦後の日本経済政策は西欧︑それはドイツを除いて︑および東欧諸国のものとは著しく相違している︒これは
日本が被占領国として︑主としてアメリカの対日管理政策に準拠せざるをえなかったが故である︒周知の如く対
日管理政策はポツダム宣言の原則に基づき必要に応じて順次決定されたのであり︑
令︑首相あて内簡︑担当官による指示︑党書︑勧告の形式のもとに実施せられたのであるが︑この時期における
対日竹理政策の基本原則は︑その煎点を日本経済の非軍事化と民生安定ないしは平和経済の確立および民主化の
三 つ
に お
き ︑
いわば日本経済の改造︑換言すれば日本経済に対する補正的構造政策が実施されたのである︒
先ず第一の H 本経済の非軍事化としては︑︵イ︶軍需施設物資の凍結︑民需に利用しえないものの破壊︑︵口︶
将米に対しては第一義的軍漏じ業︵武器・弾薬・航空機等︶の復興禁止︑ それは日本政府に対する指
丁作機械・精油・人迩石油・人迩ゴム等︶の現状維持の方針から賠償と関連して苛酷な制限を加えたのである︒明ら
かに初期の占領政策ほ︱つに軍巾化の経済的基盤を撤去することであったが︑これに基づいて貿易面では︑輸出
228
国内的には﹁常態への復帰﹂ 物打の滅結に関する覚害と輸出向商品の見込生産禁止指令により指定輸出の形態をとり︑必要最底生活物資の輸 入にとどめられた︒当初の輸出はしばしばいわれるようにストック輸出であったが︑
( l )
中心に必疫な生産財並びに汗材を中国や朝鮮に撤去したものといつてさしつかえない︒第二の民生安定ないし平
え ば
昭 和
. 十
年 九
月 :
. 十
. 五
U の指令第三号第二項により︑賃銀および必需品の価格統制︑供給不足物資の公正な
る配給維持を命じた如きことである︒(︱‑︶海外よりの資源輸入問題︵上記︶等が採りあげられた︒第三の民主化
と し
て は
︑
主として軍需残存資材を
︵イ︶財閥の解体︑︵口︶戦時利得の没牧︑︵ハ︶独占禁止および過度経済力の集中排除︑
( ̲
‑ ︶
農 地
制度の改中︑︵ホ︶労仇組合の公認等が策定されたのである︒これらの民主化政策の具体的内容については拙著に
詳述したが故に︑ここでは省略するが︑しかし日本経済の非軍事化︑平和経済の確立︑経済の民主化という美名
の下に特徴づけられているアメリカの初期的占領政策の窮極の﹁ねらい﹂は︑アメリカ独占資本の従属下に日本
経済を再編成するということであり︑いわばそれは報復的意図を多分にもつ日本経済のアメリカ独占資本への補
花的構辿政策たる性格をご皿においてもつものであった︒何故ならばこのことは︑第一次大戦後のアメリカは︑
(B
ac
k
t o
N o r m a l c y )
を合言葉として︑経済の戦時体制を解き︑国際的には孤立主義
の 骰
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ちもどろうとして︑自国の大統領ウィルソンが提唱した国際連盟への加入さえ拒んだ︒ところが第二次
大戦後においては︑アメリカ資本主義は︑その経済を平時状態にもどすいとまがなく︑批界に対しては積極的に
(2)
﹁指屯権﹂の確立に乗りだしているし︑またわが国に対する初期的占領政策の基本指令は︑日本経済の復典と強
終 戦
十 ケ
年 の
日 本
謳 済
政 策
の 朧
向 ︵
桧 原
︶
和経済の確▽としては︑︵イ︶平和産業の再建︑ ︵口︶軍需産業の民需産業への転換︑︵ハ︶経済統制の存続︑例
経済交通の遮断︑ かかる諸原因に基づく過少生産は︑ 化に対して︑何らかの責任をもつべく意図されたものではなかったことによって明らかなことである︒
なをこの積極的な﹁指芍権﹂なるものは︑第二次世界大戦を経て戦前の二倍以上にふくれ上ったアメリカ独占
資本の生産力に基礎づけられているのであり︑それは単に日本経済の再編成のみでなく極めて多面的な活動を展
間したのである︒すなわち後進国の開発およびマーシャル・プランを始めとする対外援助︑防共態勢の強化等で
あるが︑しかしこれらのアメリカ政策の底流には︑世界経済秩序におけるアメリカの支配的地位の確立︑
( 3 )
力娯気の維持策という目的が決定的に強くひそんでいるのである︒ アメリ
さて日本経済に対する補正的構造政策は︑概ね昭和二十三年末までに実施された︒なをこの時期の日本経済は
同知の如く深刻なかたちでの過少生産の典型であった︒この過少生産は明らかに資本が正常なる価値増殖運動を
継統しえざる物竹的諸条件の不足を意味するものであり︑諸種の原因の加重し合った結果の具体的現れである︒
そ の
原 因
は ︑
m
長期の戦争経済における縮小再生産に基づく生産力の消耗︑②敗戦の衝撃︑すなわち空襲その
他︑戦災による生産力の損傷︑それに加うるに国土並びに勢力圏および在外投資財産の喪失︑③賠償問題︑財閥
解休および独占禁止︑東中排除︑並びに軍需工業化した諸産業部門の平常状態への再転換による混乱︑い経済的
矛府の杞積としてのインフレーション︵軍事インフ>︶の進行と貿易従属性の高いわが国経済における自由なる国際
等 で
あ る
︒
ド託済の危機克服と復典のために諸種の対策を実施した︒ もとより日本経済の全面的な崩壊を拍車する
描心的危機を蔵するものであったことはいうまでもない︒そこで歴代の政府は︑対日管理政策に準拠しながら日
その主なる政策事象を列挙してみれば︑ ︵イ︶価格統
230
制令︑︵口︶物資需給計画︑︵ハ︶国民食糧緊急措置決定︑︵二︶通貨切替えと財産税の徴牧︑︵*︶隠退蔵物資の
動 H ︑︵へ︶食糧確保管理対策の強化︑︵卜︶物価統制の頭化︑︵チ︶食糧非常宣言による危機突破︑︵リ︶戦時補
︵ワ︶補給金対策︑︵力︶傾斜生産方式の実施と金融機関融資準則の施行︑等である︒
特に傾斜生産方式は︑過少生産の危機から脱出すべく石炭と鉄鋼に対して︑多額の財政補給金︑復金融資︑政府
の公団公付金による袖給金および資材の優先配給を与えることにより︑換酋すれば国家資本の直接庇護下に実施
された超訳点主筏的生産の独占的形態であり︑資本主義経済における価値法則に即した生産形態ではなかった︒
しかししかかる増産対策の結果︑この当時の生産水準は︑表面的な数字では︑かなり順調な上昇をたどったので
ある︒けれ共︑その実態を注意深く観察すれば︒日本経済における生産上昇の基盤には不健全な要素が多分に含
まれていたことが認められる︒それは九億七千万ドルの巨額な対日援助︑塩大な補給金︑復金融資︑企業の資本
咬い込み︑補修なき国土荒廃の進展︑財政インフレの本格化等である︒なお産業界には︑操業度の極単な低下︑
産業の外国資本に対する従属性の進展︑生産の不均衡︑すなわち跛行的生産の進行等が見うけられたのである︒
これを要するに︑この時期における経済政策は︑アメリカの対日管理政策に準拠しつつ︑日本経済の再編成と
危機克服および復興のために実施されたのであるが︑その性質からみれば︑それは主として再編成という補正的
構造政策であり︑危機克服のための緊急政策であったといえよう︒しかるに昭和二十三年の中期からアメリカの
対日
f5
理政策は︑米ソ両陣営の対立による国際情勢の悪化により変更を余儀なくされ︑極東における反共防衛戦
終 戦
十 ケ
年 の
日 本
紐 済
政 策
の 戴
向 ︵
桧 原
︶
償の打切り︑︵ヌ︶復典金融公郎の設立︑ ︵ル︶物価改訂による大幅の価格補正︑ ︵ヲ︶生鮮食糧品の統制弧化︑
米ソの対立激化︑中国共産党の著しい進出︑ (
‑ ‑
︶ 安
定 期
の 日
本 経
済 政
策
独占祭止法についで︑ 侵略 ヴェトナムにおけるホー・チーミン軍の活蹄の増大等を契機と 略枯地としての日本の重要性︑従ってその経済的安定が好むと好まざるを問わず焦
J N の怠となったのである︒
して︑アメリカの対日管理政策は修正を余儀なくされ︑従来の非軍事化的再編成から共産主義に対するアジア防
壁化への基礎工作としての日本経済の復興へと︑その重点が一変した︒その具体的な現われは過度経済力集中排
除法の適用緩和と賠償撤去問題の変遷である︒
周知の如く過度経済力集中排除法︵昭和二十年十二月十七日施行︶は︑
財 閥
の 解
体 ︑
戦争の滑在勢力を除去する意図のもとに︑この法律の施行の日に存し︑または昭和二十年八月一日以後︑本法施
行 の
1 1 以前において存した現存諸企業を独占的規模たらしめないことを主眼として︑持株整理委員会︵昭和二十
一 年
四 月
十 九
E l
施行の同委員会令に基っく法人︶が指定したものを排除することを目的としたものである︒しかして当
初︑過度経済力集中企業として指定されたものは︑鉱工業部門︑二百五十七社︑配給︑サーヴィス部門︑六十八
社︑合計三百二十五社であった︒ところが昭和二十三年五月に来日した集中排除審査委員会︵五人委員会︶の勧告
もあって︑昭和二十四年一月には七十五社に減少せしめられた︒更に同年七月には全指定取消会社は二百九十七
社に逹し指定会社は︑わずかに残すところ二十八社となったのである︒
次に賠償撤よについてみれば、ポーレ最終案(昭和—-+一年十一月発表)では、第一次世界大戦後の対独賠償方
式の央敗に照し︑︵イ︶恒久平和の保障のため戦争をひき起す可能性のある工業をとりあげる︒︵口︶日本の侵略
232
和 は
︑
五百九十二万円であり︑
︵ 昭
和 二
十 三
年 三
月 発
表 ︶
産業界への影響は甚大なものがあると予想されたのである︒
で撤去を勧告されたのは︑ポーレ案の六割である︒同案は日本の戦前︵昭和五年ー岡九年︶
﹁有効に利用できる生産施設︵主要軍事箪設を除く︶を撤去しないよう勧告したも
では︑更にこれが緩和され六億六千二百万円となり︑実際に撤去を勧告された軍事施設は︑他の産業部門におけ
もとより日本の平和的産業の復興と非軍事化については︑その頃のアメリカ陸軍筋の見解を代表するとみられ
このところ日本を﹁今後東亜に生ずるかもしれない新たな全体主義戦争の脅威に対する妨害物の役 H
﹂︵ 対 u 政策に関するロイヤル陵軍長官の演説・昭和二十三年一月六日︶を負わせようとするアメリカの意図の具体的反映
( 4 )
とみることができよう︒
わが国政府は︑このジョンストン報告によって示唆された基本線に基づいて︑
日本経済の復興と安定化を急ぐこととなった︒しかし日本経済復興の前提としての安定化にとつて筋金となった
の は
︑ ア
メ リ
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府 が
︵ 昭
和 二
十 三
年 十
二 月
十 七
日 ︶
︑
定の指令︑すなわち経済九原則である︒その内容は周知の通り次の如きものであった︒
終 戦
十 ケ
年 の
日 本
紐 済
政 策
の 戴
向 ︵
訟 原
︶
たジョンストン報告においても益張されているが︑ る
と M 様半分以上に減少されたのである︒
の で
︑
水準回復を昭和二十八年とし︑
マッカァサー元師に対して発した九項目からなる日本経済安 いわゆる経済十原則を決定し︑ しかし米ソ両陣営の対立を契機とする賠償撤去の著しい緩 いわば日本経済の復興計画案たる性格をもつていた︒ の様牲となった各国の工業再建を援助するという某礎で
i必
禾 さ
れ ︑
ところがストライク報告
しかるにジョンストン報告︵昭和二十三年五月発表︶
そ の
額 は
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ー︐ 一 ︑ 支 出 を 厳 重 に 引 締 め 且 つ 必 要 と 認 め ら れ る 新 し い 収 入 を 含 め て ︑ 最 大 限 の 収 入 を 確 保 す る こ と に よ り 一 日 も 早 く
総合予算の員の均衡を計ること︒二︑税収計画を促進弧化し︑脱税者に対して迅速︑且つ広範囲に亘つて徹底的刑事
訴追をとる︒三︑融資は日本の経済回復に貢献する諸事業だけ与えるよう厳重に限定すること︒四︑賃銀安定を実現
するための効果的計画を作成すること︒五︑現行の価格統制計画を弧化し︑必要あればその範囲を拡大すること︒
六︑外国為替の探作を改善し︑且つ現行為替管理を弧化する︒これらの措置を適切に日本側機関に移譲しうる程度に
ま で 行 う こ と ︒ 七 ︑ 現 行 の 割 当 並 び に 配 給 措 置 を 特 に 輪 出 貿 易 を 最 大 限 に 振 興 す る こ と を 目 標 と し て 改 善 す る こ と ︒
八 ︑
全 て
の 軍
要 旧
産 原
材 料
と 工
業 製
品 を
増 大
す る
こ と
︒ 九
︑ 食
糧 供
出 の
能 率
を 向
上 さ
せ る
こ と
︒
この九原則は財政・金融・物価•生産・賃銀・貿易等経済生活全般に亘る経済政策の根幹をなすものである
が︑その目標は日本が諸外国と経済的に同一条件の下に自立すること︑換言すれば対日講和の経済的条件として
の旧内経済整備の耶備態勢を確立することであった︒ここに準備態勢とは︑当時︑悪性化の傾向を示したインフ
レーシ璽ンの牧束と経済合理性の回復を計ることであり︑それには政府支出の削減︑補給金の打切り︑事業資金
の引締め︑賃銀と物価の安定︑企業合理化による n ストの引下げ︑国民の耐乏生活による国内経費の節約︑増産︑
輸 1 1 1
の増進等が必要であった︒かくして経済九原則のプログラムは︑昭和二十四年二月に来日した総司令部財政
顧問ドッジによって具体化され︑
ジ・ラインは︑
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の 設
定 ︵
昭 和
二 十
四 年
四 月
︶ ︑
日本経済の自立と安定化政策︑すなわちドッジ・ラインの弧行となった︒ドッ
日本経済の早期自立の前提条件としての通貨安定第一主義の立湯から単一為替レート
( l
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ニ 六
これと関連した見返資金︵ガリオア﹁占慨地救済賓金﹂*よびエロア﹁占鋼濾城謳清復
興 資
金
Lを対H
援助比返資金特別会計に積立ること︶の新設︵同四月︶︑超均衡予算の編成︵同四月︶︑シャーゥプ税制勧
ローガン構想に始まる輸出振興策となって︑その性格を露出するに至った︒
23鳥
とはいうまでもない︒ 作 ︑ 減
退 ︑
第1 生産方式への転換が浪化するにつれて︑企業は激しい金詰りに襲われ︑また人員整理による失業︑.購買力の 生廂方式から生産を優秀な企業に集中させ︑資本主義における価値法則の徹底した生産形態に引戻す︑いわゆる さてドッジ・ラインの強行に伴い︑わが国経済政策の基本方針が︑
従つて過剰生産等の︑ いわゆるデフレ不況が一般化した︒もっとも二十四年六月頃から日銀政策委員会
では︑必然化するであろうデフレ不況の緩和策として︑
︵ハ︶社債および興銀債担保の貸出優遇等の金利政策を中心とする通貨の量的緩和対策および︵イ︶公開市場操
︵口︶斡旋融資の強化︑︵ハ︶融資規正の改正︑︵二︶見返資金の活用等の質的信用規制対策を図ったのであ
る︒これらの通貨信用の緩和措置こそ︑
ドッジ方式をディス・インフレ政策として特徴づけるものであったこ
ドッジ政策によって︑わが国のインフレが一応牧想し︑銀行の貸出は優良企業に集中し︑且つ物価は下落して
日本経済の安定化が進んできたことは否定しえないことであったが︑しかし反面︑金詰り︑購買力の減退︑人員
幣理︑オーヴァー・ロン︑過剰生産︑という現象を生起せしめた︒もとよりこの過剰生産は﹁貧困の中の過剰﹂
である︒換言すれば二十四年末から二十五年三月頃にかけての過剰生産は︑戦後における経済基盤の貧弱︑国内
購買
J J の減少︑輸出不振等︑消費規模の狭溢化によるものであり︑それは戦後の過少生産の解消をみることなき
相対的過剰生産であったのである︒
これを要するに︑この時期における経済政策は︑
終戦十ケ年の日本紐済政策の鋤向︵松原︶
︵口︶貸出金利の引下げ︑ いわゆる従来の増産のみを目的とした傾斜
︵イ︶高率適用制度の緩和︑
アメリカの極東における反共防衛戦略基地としての日本の重
要性から︑日本経済復興への積極的関与の現われとして実施されたのである︒すなわちドッジ・ラインの強行が
それであった︒この政策的効果をアメリカの立湯からみれば︑それはアメリカの世界に対する積極的な﹁指導権﹂
の 確
し
M
の一環として︑日本に対する﹁外部的・内部的主導性﹂.︑特に日本経済に対する主導力が強化されたこと
である︒その端的な現われはドッジの声明にも示唆されているが︑復興金融公庫︵昭和二十一年十月公んの﹁復興金
融 公
爪 法
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実 誠
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二 十
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停 止
後における産業資金の供給源としての見返資金︵対日賃樟︶の活用による主導力の弧化である︒この見返資金は外
旧の民間汽本よりも日本産業に対し﹁全一的﹂且つ強力な支配力をもつものであり︑ これは援助国の意図に甚づ
( 5 )
<液裳軍小化の屯要な禎抒で︑この時期における︑私企業に対する投資は︑これを端的に示しているのである︒'
もとより外沢導入は戦後の日本産業界の実状としては止むをえないことであろうが︑しかし外資導入は単に資本
の 1 1 4
際的移動を指すだけでなく︑戦後のわが国では︑アメリカによる日本支配の経済的基礎であり︑国民を戦
t J t
政策にかりたてるムチとして機能していることがわかる︒その関連する範囲は社会全般にわたり︑単に経済の領
域のみでなく政治・軍事の領域とも深く結びついていることを見逃すわけにはゆかない一面をもつているのであ
( 6 )
しかしわが国政府は︑ドッジ・ラインを﹁資本主義の基本的原理﹂であるとして︑その基本線にそうて経済の る ︒
安定と復眺のための政策を採つてきたことはいうまでもない︒この政策の結果は上述した如く︑ 日本経済の t 場
からみれば︑インフレーシンの
i締進を阻止し︑物価を下洛せしみるという H 本経済安定への効果をあげたが︑
236
全体的には︑底の浅い日本経済の国内市場を益々狭硲化せしめ︑
のである︒それと共にこの政策は︑諸種の矛盾のある問題を後に残したのである︒例えば国家投資と資本 t 義経
済との関係︑自由経済への復帰と経済計画との問題である︒
︵三︶好転期の日本経済政策
アメリカの対日脊理政策の変更は︑米ソ両陣営の対立以来︑比重を加えた日本の戦略的価値に︑主として基因
していることは否定しえないであろう︒その戦略的価値とは︑オウエン・ラチモア教授によれば︑
スとドイツとネ︒ハールの三国が︑それぞれ具備している全ての価価を一身に兼備している︒先づ第一に︑
イギリスと同じように据附けの不沈航空斑艦として使うことができる︒第二に︑
のどれよりも発達した工業をもつているので︑ドイツのように附近の国々の工業の発達を利用し︑また統制する
ことによって︑それらを反ロシア的方面に指導するための中心にすることができる︒第三に︑
ギリスに対し兇暴なグルカ人傭兵を供給しているネ︒ハール王国と同じように﹁生れつき訓練された﹂ H
本人は﹁
伝統的に反ロシア的﹂であるから︑時とともに独自の政治をもたず自国の﹁工場﹂を支持するアメリカに略い忠
0 7 )
誠を尽すところの新しい種類の植民地軍隊を供給する国となるだろうと期待されている︒もとよりラチモア教授
は︑このような戦略価値判断は少し甘い過大評価であることを示唆しているのであるが︑
おける反共防衛線は︑ アリューシアン群島︑
︵昭和二十五年一月のアチソン国務長官の声明︶
終戦十ケ年の日本経済政策の動向︵訟原︶
基本線との乗離ないし隔離の問題である︒
日 本
︑
琉 球
諸 島
︑
とにかくアメリカが︑ フィリッピンをつらねる線であるとしている︒ 一口にいえば︑国民経済の体制的変動と経済政策の いわば整理恐慌の渦中に日本経済を投げこんだ
日本はイギリ
" 本
は
ドイツと同じように周囲の旧々
日本はインドとイ
アメリカはこと極東に
当時わが国の工業力と人的資源の利用︑特に
接不可離の関係にあったことはいうまでもない︒ 備
隊 の
創 設
︑
後者に多大の魅力をもつていたことは事実であろう︒そしてこの魅力をぬきさしならぬものにしたのは朝鮮動乱
朝鮮動乱の勃発を契機として︑アメリカの対日管瑠政策は益々﹁日米連繋﹂を強引に頭化する方向へと急展開
してきた︒この対日連繋は政治的には︑日米共同防衛態勢の整備︑すなわち日本の基地化であり︑それは警察予
︵ 昭
和 二
十 五
年 八
月 ︶
︑
日 講
和 七
原 則
の 提
示 に
姶 ま
る 鵬
和 促
逼 の
1 1 1
き︶︑類のない日米行政協定の調印︵昭和二十七年二月︶に到る一連の対日政
策によって実現してきた︒しかして経済的には対日連繋は︑日米経済協力態勢の確立︑すなわち日本経済の従属
化であり︑それは特需発注および東南アジア開発への協力生産︑ MSA 援助︑共同防衛支出金の負担︑兵器・航
空機生産の再開許可︵昭和二十七年三月︶︑国際通貨基金および国際復興開発銀行への加盟︵昭和二十七年八月︶に
到る一連の対日政策によって進展してきた︒もとより日米共同防衛態勢の整備と日米経済協力態勢の確立とは密
この当時︑後者の日米経済協力問題は︑わが国にとつては特に重要な経済政策的課題であった︒そこで諸種の
﹁協力案﹂が彼我の間で︑例えば︑アメリカの特別補佐官モロー氏
( E s s )
による案を始めとし︑
G2
︵ 総
司 令
部幕僚策二局︶による兵器関係の線︑高碕達之助氏による線︑鮎川義介氏による線︑経団連による線︑日米会議所
合同会議の線︑等多数の案が作文されたのである︒当時︑経済安定本部では︑日米経済協力に関する方針を明確
に す
る に
当 つ
て は
︑
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国民の生活水準を絶対に引下げぬものであること︒②現在の経済環境を攪乱するような方
︵ 昭
和 二
十 五
年 六
月 ︶
の 勃
発 で
あ る
︒
一万名以上にのぼる公職追放の解除︑対日講和の促進︑
︵ ダ
> ス
国 務
省 顧
問 の
対
23&
それによって雇傭が充分に維持されたからである︒ しかし反 法で行われるのを避ける必要があること︒③補償を明確にする考慮が払われねばならないこと︒すなわち契約の 継続性に対する補償︑契約期間中に債却のできるような採算性の容認︑フル稼動のための設備または雇傭の膨張 を事後の企業整理に備えて補償する点が考慮されねばならないこと︒④イギリス︑その他アメリカ以外の諸国を
^8 )
排除するよううな方法で採られることを厳に戒めなくてはならないこと︑等を注意するように示唆した︒しかし
日米経済協力を推進する基本は︑何といつても電力を如何にするかに懸つていた︒何故ならば電力は既に昭和二
十六年頃には戦前の最高水準をはるかに上廻つていたが︑しかし当時の生産の不均衡的発展と渇水期における水
力不足︵*主火従主義のため︶および天変地変のため並びに戦後のわが国工業構造が電力を基礎とする構浩に転化
したこと︑更に家庭における消費が増大したこと等の事情のために深刻な不足に当面していたからである︒かく
て電源開発が焦眉の急を要する重大な政策的課題として登湯したのは周知の通りである︒
さて朝鮮動乱の勃発は特需発注と各国の軍拡競争に基因する輸出伸展︑従って輸出インフレと物価騰貴の形を
とつて日本経済に好況をもたらした︒ それは輪出伸展と貿易ならざる特需︵駐留軍の軍事的支出︶によって輸出と
同じように物資サーピスに対する購買力が生じ︑
面︑わが国政府は︑本格的インフレ化の抑制を要請したマーカット声明の線に沿い︑昭和二十六年の秋以来︑生
産の増強と共に再び信用引締政策を強化した︒すなわち見返資金︑項金部資金の支出抑制︑日銀の高率適用の強
化︑電カ・造船・鉄鋼・石炭以外の新規設備融資の規制︑等財政および金融面におけるインフレ抑制策を実施し
た︒かくて本格的インフレ化は︑かろうじて防ぎうると共に︑鉱工業生産は異常に上昇したのである︒すなわち
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謳 済
政 策
の ●
向 ︵
謳 原
︶
にもかかわらず依然として高水準を維持し︑ たものでもなかった︒ 動乱勃発前の昭和二十五年六月と︑その翌年の六月ないし十二月の鉱工業生産の上昇率は︑鉱工業全体では五割 内外︑製造工業では五割二分ないし七分の上昇である︒もとよりこの上昇は︑軍需プームに剌戟された項化学工 業の生産上昇であり︑それは正常なる国内および国際需要に基づいたものでも︑また徹底的な産業合理化によっ
ところで戦後六年足らずして日本の鉱工業が急速なる復興を示したことは一応記憶に留めてよいけれ共︑その
過程には次の如き諸問題を後に残しているのである︒それは︑
m設備能力の拡充が主として既存遊休設備の補修
によるものであり︑しかも拡充の対象が大衆の消費とは無関係な特需であったため︑生産された消費財および生
産財が拡張再生産の循環過程に投入されないで︑このことが既存設備の喰いつぶし︑並びにコスト高を招来した︒
②コスト高および国際物価の高騰に引づられた︑わが国の物価高は︑軍需プームの停滞︑従つて国際物価の低落
このことが将来の輸出不振の一原因となった︑③特濡による稼ぎ
が大きかっただけに設備の近代化資金も豊富になり︑その限りでは合理化の進んだ面もあるが︑その資金の中︑
少からぬ部分が近代化の要求を無視して目先の増産のために濫費される傾向をまぬがれなかった︒④特濡は H 本
経済の内部に滲透して生産のみならず消費をも支えたが︑その濫用は消費経済の不健全化を招来した︑向独占祭
止法の改正を余儀なくせしめる企業相互の協力組織︑換言すれば経済力集中が進展した︑ことなどである︒
これを要するに︑この時期における日本経済は特需と軍拡の︑いわゆる軍需プームに刺戟されて︑戦後始めて
の好況に当面したのであるが︑その反面︑日本経済︑わけてもその工業を軍事型化したのである︒何故ならば特
2鼻〇
地化ないし基地提供は︑ 需は本質的に軍事的性格をもつからである︒試みに昭和二十六年の工業構成をみれば︑規模においては小さいけ れでも︑それは太平洋戦争の開始期︵昭和十六年︶に著しく近似しているのである︒そして MSA のもつ軍事的要
請および日本の自衛力の増疏︑再軍備へのきざしは益々︑この傾向を拍車するかも知れないのである︒もとより
このような結果は︑アメリカの日米共同防衛︑日米経済協力という基地化︑従属化政策に基因すると共に︑それ
はやむをえないことではあったが︑余りにも自主性のない︑わが国の対米一辺倒的な政策の実施によることも明
白 で
あ る
︒
︵四︶転換換の日本経済政策
講和成立︵昭和二十七年四月︶を契機として日本経済は防衛経済か基地経済か︑自立経済か従属経済か︑の十字
路に当面した︒もとより理想的には防衛経済であり︑自立経済であるぺきであろう︒しかし独立当初の現実は︑
この理想に反して基地経済であり︑従属経済であることを余儀なくされている︒
試みに駐留米軍当局が使用している日本の基地および施設の件数をみると︑昭和二十八年一月末現在では︑七
百三十三件に上つている︒これを二十七年一月末と比較してみると︑土地は三億一千万坪︵昭和二十七年︶から三
億三百七千万坪︵昭和二十八年︶になった程度であり︑建物は三百十九万坪が二百八十五万坪へと少々減っただけ
である︒端的にいえば占領当時と何ら変らぬ接牧が行われているのである︒これでは日本をアジアにおける砦と
考えるアメリカは︑駐留軍一個師団で約四万町歩の演習湯が必要であると考えていることになる︒しかもこの基
日米行政協定の重要な内容となっているのである︒すなわち昭和二十七年二月二十八
絲 戦
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の 繭
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訟 原
︶
農林水産業︑製迩業︑などの物的所得は︑ 衛経済はナンセンスだからである︒ 日︑東京で︑当時の岡崎外相とラスク米代表との間に調印をみた﹁日米行政協定﹂によって﹁アメリカ合衆国の
日本国内およびその附近における配備﹂ ︵日米安全保醸条約第三条︶のための具体的な細目が取り決めら
れ︑日本側では︑これに基づき﹁土地等の使用に関する特別措置法﹂ ﹁刑事特別措置法﹂等︑約二十余の国内特
別法を制定しているのである︒また日本における駐留軍の経費は日米安定保障条約に基づき日米両国で︑これを
その分担方法の大綱は行政協定第二十五条により明らかにされてい
る︒これによれば不動産の提供に伴う借料等については特定経費として専ら日本側の負担となるが︑その他の経
費については日本が一定額を負担し︑
事 実
は ︑
化されていると考えざるをえないのである︒従って端的にいえば基地経済は発展しているのである︒
しからば独立にとつて必要な自立経済はどうであろうか︒この問題は根本的に重要である︒何故ならば経済的
自 ぃ M なき政治的独立は︑それは半植民地化ないし後進的保護国の姿態であり︑また経済自立の甚盤にし たざる防
Mそこで先づ昭和二十七年︑八年にかけての日本経済の実績から︑この当時の経済の特色というような点を簡単
( 1 0 )
に考察してみよう︒昭和二十七年︵一月ー十二月︶の国民所得は五兆二千百三十九億円で前年の四兆五千百五十八
億円に比し一五・丘彦の増加である︒これを生産︑分配︑支出の三つの面から︑その特色を前年と比較すると︑ 分担することになっているが︵防衛支出金︶︑ 軍
隊 の
︑
それ以外はアメリカが負担するという方法が採用されている︒上述の如き
日本が未だ基地経済から脱皮するどころか︑逆に共同防衛という名の基地化政策が日本では︑むしろ強
一三•五形の増加、金融、不動産、サーピス所得は、二三・九劣の著
242
増である。しかし法人所得は逆に、ニニ・一劣の減退であるが、勤労所得は、ニニ•四痴、個人業主所得は、
八•五劣と、それぞれ増化している。物価は約四疹程度の騰貴であるから国民一人当り実貨所得は計算してみる
と戦前(昭和九年ー十一年)の九八•六劣と仕ぼ戦前水準を回復している。なを政府支出はニニ・五劣の増加であ
り︑個人泊費支出も前年の五八. 0 劣から六一・六疹に上昇しているが︑国内民間総投資は︑二三・九劣から一
九•一疹に減退している。従ってこの年は投資よりも消費傾向が顕著で、ある。もとより投資が貧弱であったので
はない︒端的にいえば投汗もむしろ旺盛であった︒従ってこの年の経済の特色を次の如く規定しえよう︒
全般として個人所得の繁栄の年であり︑消費経済より消費経済へと循環をみせた年である︒しからば泊杵は何
によってもたらされたか︑
大が何によってもたらされたかを考察すれば︑この年の消費の増大は︑輸出の増大に見合ったものではなく︑輸
入に基づくものであり︑購買力の支えに帰因することが明らかである︒しからばその輸入︑すなわち貿劫入超は
何に支えられたのであるか︑
る︒実に特需牧入は輸入力の五割近くを保障している︒なをその他︑
請受註に属する新特需がある︒これらの特需が既に述べた如く︑
を も
支 え
︑
て も
︑
それは朝鮮動乱後の投資の増大←生産の上昇←泊費の増大であるから︑この泊代の増
いうまでもなくそれは大体︑特需︵昭和二十七年の特需牧入は八億二千四甘万ドル︶であ
ドル依存・従属の経済であり︑ 日米経済協力といわれる関係の︑ いわば下
日本経済の内部に滲透して生産のみならず泊費
しかも入超に喘ぐ国際牧支のパランスをかろうじて維持しているのでさる︒もとよりこの様な経済は
およそ自立経済とは縁遠いものである︒このような特色は二十八年の経済におい
仕ぼ同様にみうけられるのである︒
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︶
従って独立後の日本経済の規模は表面的には拡大化しているけれ共︑その裏面には特術インフレによる特殊な
物価の上昇︑主としてそれに原因する輸出不振︑
牧支のアンパランスが進行するのは必掟である︒果せるかな二十八年末には﹁外貨枯渇﹂の危険信号が大声で
叫ばれた︒実に日本経済は経済自立という面からみた長期的な理想よりは相当程度︑軌道をはずしていたのであ
る︒これを要するに基地経済は発展し︑自立経済からは脱線しているのが独立直後の日本経済の現状であった︒
そこで政府は再軍備を目ざし︑且つ当面の目標たる物価引下︑輸出促進︑外貨充実のためにデフレーション政
策を実施した︒もとよりデフレ政策︑それ自体は︑日本経済の現状から︑また自立経済の前提として︑それは誤
れる政策ではなった︒しかし政府が実施したデフレ政策はオーソドックスのものではなく︑著しく変態的なもの
であった︒その理由は以下の如くである︒先づ
m再軍備と物価引下とは容易に両立するものではなく︑またその
ために︑他の部門を出来る限り切詰めようとするのは変態的である︒②財政一兆円の枠がデフレ的であるとはい
えないし︑地方財政数百億︑しかも多くが不健全財政であるから︑必らずしもデフレでない︒③財政の縮小均衡
を枢軸とする本格的デフレというよりは︑むしろ金融引締一辺倒的デフレ政策である︒④デフレの地ならしも︑
失業対策も不充分な︑ いわゆる綜合的具体性の欠如せるデフレ政策である︒
かくの如き性格のデフレ政策ではあったが︑財政金融に支えられた思惑による過剰投資を押え︑国際牧支の破
局を若干防いだことは否定しえない︒しかし変態的デフレ政策であっただけに︑無用の摩擦と犠牲を招き︑多く
( n )
の企業を整理倒産せしめたのである︒例えば昭和二十九年四月の大阪府下各種企業の整理倒産状況をみれば︑企 しかも特需減少傾向と逆行する入超の増大があり︑
かくて国際
2鼻
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業幣備件数は七百五十一件であり︑離職者は六千三百三十七人であった︒この整備件数のうち︑製造工業は四百
五卜七件︑小光業は百八十八件となっている︒しかも整理倒産が業種的に全面化し︑問屋からメーカーに波及し
て︑その規模が大きくなる傾向さえ示したのである︒なを注目すべきことは︑デフレの波が中小企業を洗い︑そ
うでなくとも独占資本への隷属性の故に︑大工業の進出と競争の故に︑中小企業自体の共倒れ競争の故に︑宿命
ところでこの様な段階にあるデフレ政策の在り方について附言すれば︑金融引締の独走によるデフレ政策は︑多
くの企業の整理倒産を一応の地均しとして自律的に進行する第二段階︵連鎖反応的に展開する過職︶に突入するが︑
金融独走デフレは︑ いたづらに経済の破壊と混乱による縮小均衡を招くだけで至上の政策ではない︒必要なのは
輸出の振躾︑雇傭の増大︑貯蓄の増強等を含んだ綜合対策と︑真に経済力を培養する積極的な政策なのである︒
もとより金融引締の基調は軽々しく変えるべきものではないが︑政策に綜合性と具体性︑柔軟性と積極性を盛る
ことが肝要である︒かくして現実の日本経済はデフレ手直し︑綜合対策︑長期経済計画を要請しつつ終戦十年を
迎えたのである︒
終戦十ヶ年の日本経済政策の動向を顧み︑併せて今後の日本経済について考えてみると︑ 悲観的な材料が多く
て不安を感ずる︒それは特需産業の危機︑紡績工業や石炭業の苦難︑デフレに喘ぐ中小企業などの当面する問題の
みでなく︑問題とする不安の根拠は次の点である︒すなわち現状のままでは日本経済の発展テンポは縮小するで
あろう︒しかるに賠償の支払︑防衛分担金︑対日援助費の返済︑連合国財産補償費︑外国債の元本償還並びに利 的に窮乏する中小企業の因窮を益々激化したことである︒
さ て
1 1 本経済自立のためには長期経済朴画を策定し︑五つの課題を国民の自党と勤労と耐之により達成するこ
との必要を指摘したが︑特に長期経済汁両は何も社会主義諸国の独占物でなく︑汗本主義国においても国民経済 であるということである︒ 合
開 発
︑
日本経済自立への広 子支払︑それに再軍備支出と旧軍人等恩給費など︑国民の負担は増大する一途にもかかわらず︑国内の生活は競 輪︑競馬︑不夜城の如きキャバレーと絃歌さわめく料亨︑高級自動車とゴルフ道具︑アメリカ風の服飾品と砂糖 製菓子の山等︑実に浪費経済は甚地経済や従属経済と平行して発展していることである︒しからば基地経済︑従 属経済︑浪費経済の索地を誰れが作ったのであろうか︒外ならぬそれは対日援助と特需収入およびそれらを打効 に利用する機会を見送った経済政策の貧因と経済自立へのわれわれの心構えの喪失である︒
独 ふ
M
を契機として最も必要であったのは︑日本人は経済自立へ︑あくまでも自分の力で立訳ろうとする心構え
と︑それを実現しうる長期経済朴両を政府が率先樹立し︑
m国内経済の整備︑②産業合罪化の徹底︑③沢源の綜
④貿易規校の拡人︑ ⑤服傭の増大と生活水準の上昇等を国民の自党と努力により断行することであっ
た︒この場合︑国民の自立とは︑戦前戦後の苦しいわれわれの体験を明日の経済自立に生かすことへの心構えで
あり︑努力とは勤労︵労働生南性の
I n J
上︶と耐乏︵消費経済の健全化︶である︒この三つこそ︑
い怠味での打本の蓄積であり︑それは満足への近道である筈である︒われわれはイギリスや西ドイツの歩み方を
顧りみ︑遅ればせてはいるが︑もつて他山の石とすべきである︒なをわれわれが銘出すべきことは︑ ソ連経済の
今"は︑組織の相述を一応別とすれば︑それは長期経済計画の永き連続と︑ソ連人民の
n党と勤労と耐乏の賜物
2鳥6
﹁経済壮画﹂政策のそれぞれの怠
( 1 2 )
の体制的変動に対応する今 H の﹁在るべき経済政策﹂なのである︒このことを宅として狸論的に要約しよう︒周
知の如く第二次世界大戦後のわが国経済においても︑
m個人主義から社会保障制への発展︑②営利主義の修正︑
③資本支配の後退と労仇セ義の採頭︑ぃ国家の経済活動︵国家資本の役割の噌大・官公営企業の発達・国家信用の膨脹︶
の拡允強化が進展し︑国家の経済に対する影孵力を増大して資本主義の変貌ないし社会化を促進しつつ︑かつて
の自由競争を基盤とする生産 F 段の私有制および利潤制とにより流通経済的ないし価格経済的機構を通して形成
されている音本屯義的国民経済の︑ いわゆる自由経済体制を統制経済体制へと転換せしめているのである︒すな
わち国家の経済統制と社会化が一体となり︑換言すれば生産手段の社会化と共に所得および泊牲の社会化傾向が
国家の直接或は間接の指導規制ないし統制の形態をとりつつ顕著に進展しているのである︒このような統制経済
体制のもとにおける社会化を特に社会主義化と考えるならば︑今日のわれわれの経済体制は︑明らかにハンセン
それは私的資本主義経済と社会主義経済の混種である二重経済
( D u a l
E
8
n o
m y
) の
体
かくの如き国民経済の体制的変動につれて︑それと相互作用的に対応する経済政策は︑
m発展政策←術環政策
←構造政策へ︑②生産政策←分配政策←綜合政策へ③経済政策が社会政策的︑経営政策的色彩を談厚にしつつ﹁
経済計画﹂政策へと質的転換を遂げねばならない段階に到達しているのである︒もとよりこれらの三つの質的転
換は本質的には同一現象であるから︑今日の経済政策は構造政策︑綜合政策︑
味する内容を包含し︑統一したところの﹁綜合経済計画﹂政策として要請され︑それは日本経済の現状から必然
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の 動
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訟 原
︶
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) が
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︑
(5
) .
制 で
あ る
︒
的に長期経済朴両として自党され︑且つ実施されなければならないのである︒これを要するに今日の経済体制に・
即応するところの経済政策は綜合経済計画政策であり︑長期経済計頁政策である︒これが日本経済の現段階にお
ける﹁在るべき経済政策﹂なのである︒
わが国の経済体制は遅れてはいるが既に二重経済の体制であり︑しかもこの体制の経済がアメリカの︑ いわゆ
る積極的な﹁指導権﹂のもとに︑対日援助︵約二十一鐵ドル︶︑特需︵約三十二鑑ドル余︶および外資によるドル循
環を媒介契機として基地化従属化の体制にあるのが︑偽らざる日本経済の姿態である︒この基地化・従属化体制
を近き将来において断ち切るには頭力な安定政権が正当なる防衛と経済自立のための線合経済計画ないし長期経
済叶画政策を樹立して︑これを断固実行する以外に道はない︒
もつとも戦後︑長期の綜合経済計画政策はーつの構想として︑しばし作文されている︒例えば経済復興五ケ年
︵ 昭
和 ヱ
' 三
年 と
同 二
十 四
年 ︶
︑ 自
立 経
済 計
画 ︵
昭 和
二 十
六 年
︶ ︑
綜 合
開 発
六 ヶ
年 計
画 ︵
昭 和
二 十
七 年
︶ ︑
開発朴画︵昭和二十九年︶︑綜合経済六ケ年計画︵昭和三十年︶等である︒そして今日︑政府はこの綜合経済六ケ年
朴両の大綱に甚づき初年度たる昭和三十年の経済計画政策の重点的措置として次の十三項目︑すなわち
m資本蓄
積の増頭•項要産業資金の確保、②輸出増大、③国内自給度の向上、④企業の合理化•生産性の向上、 g 物価の
抑制︑⑥屈傭機会の増大︑
e住宅建築の拡大︑⑪社会保障の充実︑⑨消費内容の健全化・貯蓄の増弧︑
( 1 0 )
国土
朴 両
︑
結
論
全国綜合
248
終戦●ケ年の日本紐済政策の戴向︵訟原︶
の保全および開発︑(11)科学技術の振興と新技術産業の助長育成︑
( 1 2 )
防 衛
の 増
頭 ︑
( 1 3 )
地方財政の健全化︑等
を総化的に掲げている︒しかしこの綜合経済六ケ年計画も︑計画と予算の背離から︑あやふやな政策であること
c "
︶
を﹁エコノミスト﹂は現に指摘している︒もとより現在の経済組織のもとにおいては︑長期経済計画の立案が容
易なものではないことを︑われわれは知つている︒けれ共︑計画の多くが矢つぎ早に︑ドロナワ式に作成され処
理され︑結局は見送られていることもまた事実として否定しえないのである︒
想うに今日︑アメリカの政策は︑初期的占領政策にみられた﹁命令政策﹂から﹁協力政策﹂へと転換している
が︑それにつれて﹁アジアの防衛はアジアの手で﹂と︑日本の地位と能力をよく知りつつも︑世界政治の緊張緩
和とは逆行する再軍備を要請しているかの如くである︒しかし経済自立の伴わない再軍備は︑あくまでも基地化
であり︑必らずしも日本の防衛に役立つとは限らないし︑またわれわれは果して絶大の犠牲を払つて日本を侵攻
する国が何処にあるのか︑国民経済が破局に頻すれば国防どころか国内から自己崩壊が生ずるであろうことも考
えてみなくてはならない︒してみれば焦眉の急を要するのは軍備ではなくて経済自立である︒日本人がほんとう
に i E
しく生きるためには︑われわれの努力で生きるための経済自立を配慮しなくてはならないのである︒もとよ
り国際経済的孤立を主張しているのではない︒以●要するに終戦十ケ年の日本経済政策の基本動向を概観し︑併
せて﹁かく在るぺき経済政策﹂を知ることによって︑最も痛感されることは︑経済自立へのわれわれの心構えの
喪失と自立経済政策の貧困および対米依存に走り過ぎる政治の無能ということである︒それ故にこそ政治と経済
の更始一新と国民の自覚とが切に望まれるのである。(昭一― 10• 八・ニ八日)
註
( 1
)
白石孝﹁日本貿易政策の分析﹂エコノミスト︑第一二三年策二三号︑論文︒
( 2
)
堀江忠男﹁米国の戦後繁栄と世界政策﹂早大人文科学研究︑露十七号︑論文︒
( 3
)
拙著﹁経 済政 策概 論﹂ 昭和
︱・ エ' 年︑ 二五 四頁
︒
( 4
)
東洋紐済新報社絨﹁日本経済年報﹂第八十集︑三一ー三二頁︒
( 5 )
宇佐美誠次郎﹁従属体制下における産蝙構造と狐占﹂紐済評論︑論文︒
( 6 )
政治経済研究所編﹁日本に*ける外国資本﹂昭和三十年︑五三頁︒
( 7
)
オウエン・ラチモア﹁アジアの情勢﹂一九四九年︑ポストソ︒
( 8
)
大阪商
H
会議所調査部費料による︒9
小島精一・鈴不佗一﹁日本重
H
業論﹂昭和二十八年︑三頁︒( 1 0 )
昭和二十七年度紐済白書による︒
(11)大阪商工会識所調査部賓料による︒
( 1 2
・抽稿﹁国民紐済の体制的変動と経済歎策の質的転換﹂闘大謳済論集︑論文︒)
( 1 3 )
都留重人訳﹁ハンセン財政政策と景気循環﹂昭和二十年︑四四五頁︒
( 1 4 )
エコノ︑スト︑第三三年︑策三五号︑参照︒
250