アナクロニズムの歴史編纂─
タイトル(英) De Picasso a Manet: l historisation
anachronique d Edouard Manet lors de son exposition centenaire en 1932 (in Japanese)
著者 藤原, 貞朗
雑誌名 茨城大学人文社会科学部紀要. 人文コミュニケーシ
ョン学論集
号 5
ページ 77‑99
発行年 2019‑09
URL http://hdl.handle.net/10109/14322
『人文コミュニケーション学論集』5, pp. 77-99. © 2019茨城大学人文社会科学部(人文社会科学部紀要)
─
1932
年のマネ生誕百年記念展とアナクロニズムの歴史編纂─藤原 貞朗
要約
1932
年、マネの生誕百年記念展が国立美術館で開かれ、企画したポール・ジャモを中心 にマネの言論空間が形成された。ジャモは従来のマネ解釈を覆し、古典画家として絵画史に 位置づける。だが、このとき、彼の部下のルネ・ユイグは一見矛盾する「モダンアートの父」としてのマネ像を新たに提起した。基本的にはジャモの保守的解釈に沿って評価しつつ、同 時にモダンアートの先駆に位置づけたのである。なぜ、いかにして、この撞着的なマネ像が 生み出されたのか。本稿では同年に開催されたピカソ展に注目し、ピカソとの比較がマネ解 釈に齎した批評的運命を明らかにする。ユイグの解釈は保守的なフランス絵画史編纂を継 承しつつ、「保守的革命」による「新秩序」の定立を意図した
1930
年代の国立美術館学芸員 の方針を代表している。1932
年のマネ展はこの方針を決定づける重要な契機となっており、その目的を明らかにすることによって、その後に進行する共和国のミュゼオグラフィーのプ ロセスを支えた理念も理解できることだろう。
はじめに
1932
年、パリのオランジュリー美術館において、エドゥアール・マネ(
Edouard Manet, 1832-1883
)の 生誕百年を記念する展覧会が開催され、19
世紀に数々 のスキャンダルで物議を醸したこの画家が約半世紀ぶ りに美術界の大きな話題となった(図1
)。この年、マ ネに「捧げられた著作物は本棚一段を占領、(…)示 唆に富んだ大量の記事が発表1」され(著作物3
冊、記 事や研究論文は33
本)、時代後れの、というよりは時 代錯誤のマネの言論空間が形成された。この言論空間を支配したのは展覧会の企画者で国立 美術館学芸員にして、この年にアカデミー会員になっ たポール・ジャモ(
Paul Jamot, 1863-1939
)である。図1 1932年の「エドゥアール・マネ 1832-1883展」ポスター
(©RMN−Grand Palais / Stéphane Maréchalle)
拙論「両大戦間のエドゥアール・マネ 生誕百年記念展の転生とアナクロニズム」で明らか にしたように、ジャモは「革命的な」前衛芸術家とする従来のマネ解釈を覆し、真逆の「古 典」画家としてフランス絵画史に位置づけた2。この新しい保守的なマネ像が当時の美術界 と世間に受け入れられ、マネは生誕百年を迎えて、国立美術館にもアカデミーにも「満場一 致」で迎えられるフランス絵画の巨匠となる。
しかし、このとき、保守代表の美術批評家となっていたカミーユ・モクレール(
Camille Mauclair, 1872-1945
)は『フィガロ』紙にこう書いている。「19
世紀半ばマネは流星のごと く異様だった。そして、この恐るべき天才児を我々は今なお理解し終えてはいない3」。彼の 予言通り、マネの言論空間は保守的な解釈では終息せず、さらに異質な解釈を生み出してい る。いわゆる「モダンアートの父」としてのマネ像である。例えば画家のアンドレ・ロート(
André Lhote, 1885-1962
)はマネを「ピカソの予告者」と呼び、ルーヴル美術館学芸員の ルネ・ユイグ(René Huyghe, 1906-1997
)は「モダンアート誕生の転覆劇の先駆者」と評 した4。第二次大戦後の美術批評家クレメント・グリンバーグやマイケル・フリードのモダ ニズム批評ではしばしばマネがモダンアートの元祖の一人に指名されたが、こうした批評の それこそ元祖の批評が1932
年のマネの言論空間に登場しているのである。マネを「モダンアートの父」とする解釈は一見するとマネを「古典」画家とした保守的解 釈への反動にみえるがそうではない。この解釈を打ち出したユイグは、保守的マネ像を広め たジャモの部下にあたる。ユイグは基本的には公認された保守的解釈に沿ってマネを評価 し、それ以前にテオドール・デュレ(
Théodore Duret, 1838-1927
)が浸透させた「印象派 の父」としてのマネ評価を否定した。それにもかかわらず、20
世紀のパブロ・ピカソ(Pablo
Picasso, 1881-1973
)に代表される「モダンアート誕生の転覆劇の先駆者」としてマネを位置づけたのである。保守的な古典画家でありつつ革新的なモダンアートの「先駆者」という のは論理矛盾だが、いかにして、このような撞着的なマネ像が導き出されたのだろうか。
本稿では、
1932
年のマネの言論空間において、キュビスムやピカソとの比較によってマ ネを論じた美術史家や批評家の論点を分析し、「モダンアートの父」としてのマネ像が生成 したプロセスとその歴史的意味を明らかにしたい。結論を先取りしていえば、ユイグは、古典を軸にした保守的なフランス絵画史編纂を継承 しつつ、「保守的革命」による「新秩序」の定立を意図した
1930
年代の国立美術館学芸員の 方針を代表している。1932
年のマネ展はユイグにこの方針を決定づける重要な契機となっ ており、彼のマネ解釈の目的を明らかにすることによって、同時期に進化する絵画史編纂と 国立美術館のミュゼオフラフィーの基本的理念を理解することができるだろう。1932年の偶発的邂逅:マネ展とピカソ展
1932
年のマネの言論空間において、ピカソや キュビスムの名を挙げてマネとモダンアートの関 係を論じたのは、ルネ・ユイグとアンドレ・ロー トのほか、美術批評家で『芸術ノート(カイエ・ダール)』誌の主幹だったクリスチャン・ゼルヴォ ス(
Christian Zervos, 1889-1970
)、同じく批評家 で『フォルム』誌主幹のヴァルデマール=ジョル ジュ(Waldemar-Geroge, 1893-1970
)である。マネとピカソを比較する批評は、この年までは ほぼ皆無であった。「印象派の父」としてマネの 前衛性を支持したデュレも、その前衛史観を発展
させて印象派以後のキュビスムとマネを結びつけることはなかった。キュビスムが画壇に出 現した
1910
年頃の批評界においては、松井裕美が総覧的に示したように、キュビスムと「フ ランスの伝統」との関係に言及する作法が流行し、ゴシック美術、ニコラ・プッサン、ル・ナン兄弟、アングル、ドラクロワなど、フランス美術の「巨匠」とキュビスムの関連性が主 張されたが、マネの名を持ち出すものはいなかった5。
1932
年のマネの言論空間において、ピカソやキュビスムとの比較が突如として現れたのである。
なぜ
1932
年にマネがピカソと比較されたのか。理由は単純である。1932
年6
月にマネの生 誕百年記念展が開催されたとき、同じくパリで大規模な「ピカソ作品展」が開催されていた からである。「ピカソ作品展」(図2
)はパリのジョルジュ・プティ画廊において、マネ展開 幕の3
日後の6
月16
日から7
月30
日まで開催され、ピカソ自身による選択と展示による約30
年 間のキャリアを回顧する計225
点の作品が展示された。前年には、同画廊でアンリ・マティ スの回顧展が開かれており、近年、これらの展覧会に注目しピカソの1930
年代を再検討す る研究や展覧会も盛んである6。1932
年のピカソはキュビスムから20
年を経て、具象と抽象 を行き来する新たな段階の作品を発表していた。画家としてのキャリアも四半世紀を超え、マネが没した年齢と同じ
51
歳に達していた。マネと同じように「巨匠」の地位を獲得しつ つあった。マネ展で販売された展覧会カタログにもピカソ作品展の広告が掲載されており、マネ展 訪問者と同じ客層がピカソ展でも期待されていた7。国立美術館学芸員のロベール・レイ
(
Robert Rey, 1888-1964
)は、上司のジャモのマネ論を受け売りする展評を『フランス美術 館紀要』に執筆しているが、そのなかでカタログに掲載されたピカソ展の広告に触れ、「時 の流れの速い現代という時代を反映していて面白い」と一言添えている8。また、『フィガロ』紙に展評を寄せた画家ジャック=エミール・ブランシュ(
Jacques-Émile Blanche, 1861-
図2 1932年の「ピカソ作品展」広告
(『マネ展カタログ』より/ Manet 1832- 1883, catalogue dʼexposition, Paris, 1932.)
1942
)も、「〔マネの〕名誉回復の鐘が鳴ると無知だと非難される恐怖が善良な人々を襲った」ために展覧会は盛況となったと報告した後、ピカソ作品展を踏まえ、この「恐怖」が「現在、
ピカソに対する不安な態度にも決定的となっている」と付け加えている9。マネを「満場一 致の承認」で迎えた公衆の次なる目標はピカソの承認だというわけだ。このように同時期に 開催されたマネ展とピカソ展は、美術愛好者にとって
1932
年の夏の大きな話題であり、何 かにつけて比較される運命にあった。アンドレ・ロートの「発見」
二つの展覧会が同時開催となったのは単なる偶然だが、美術関係者は両者を比較せずには おれなかった。アンドレ・ロートがその典型である。『新フランス評論』誌の展覧会評を担 当していた彼は
8
月号にマネ展とピカソ展を同時に扱い、こう報告している。一見異なる外見をもつ出来事に突如として印象的な関係を発見することは大いなる喜び だ。マネとピカソの展覧会によって終わりを告げるパリのバカンスは、非常に異なる気 質を持つ二人の作品を鑑賞させてくれたが、(…)両者が異なりつつも、ともに特異な 傾向を共有することを示してくれた10。
ロートが「発見」した二人の「特異な傾向」とは「絵画の剽窃」と「三次元空間の否定」で ある。彼はまず「スキャンダルと革命とともにその名を語られる二人の画家はともに剽窃家」
だったことを「発見」し、両者が「例外的に全く新しい」方法で「絵画に基づいて描く行為」
を率先したことを特筆した。これは
1932
年のマネの言論空間においてマネの絵画の「引用」行為がクライテリアを形成していたため、ピカソの作品にも同じ眼差しが向けられた結果と いえよう11。
一方、「三次元空間の拒否」について、ロートは「マネがトランプのカードのように絵画 を単純化したと激しく非難された」ことを引き合いに出し、「この意味においてマネは、常 軌を逸したタロットカードの画家たるピカソの予告者である」と述べた。こちらは逆にピカ ソ展を見ることによって、マネの作品に遡及的に「発見」された視点である。ロートはマネ からピカソへ、そして、ピカソからマネへと眼差しを交差させることによって、新たな「発 見」をして「喜び」、「この二人の画家は一つの時代、すなわち我々の現代を予感していたの だ」と展覧会評を締めくくっている12。
ロートは
1910
年代より美術批評を手がけ、キュビスムと「フランスの伝統」の関係を模 索してもいた。1921
年にはアングル(Jean-Dominique Ingres, 1780-1867
)を「最初のキュ ビスト」だと書き、アングルからセザンヌを経てキュビスムに至る歴史を構想している13。しかし、その歴史にマネの名はなかった。
1932
年の偶発的な二つの展覧会によって、二人 を関連づける解釈が生まれたのである。「モダンアートの父」としてマネを語る作法は少な くともこの時までは先例はなく、二つの展覧会の偶然の邂逅によるアナクロニズムによって 惹起されたのだと言わねばならない。ルネ・ユイグによるフォーマリズム的なマネ批評
ロートの批評をみれば、マネとピカソの時代錯誤の比較に抵抗も躊躇も感じていないこ とが分かる。彼は
1885
年生まれで、1883
年のマネ没後に生まれ、1881
年のピカソ生誕より 後に生まれた世代である。この世代はマネの絵画も「没後の闘争」14も直接知ることはなく、ピカソがリードした
1910
−20
年代のモダンアートを自世代の芸術として享受した。生前の マネを知るデュレの世代のようにマネと印象派の擁護に固執することもなければ、1860
年 代の生まれで1890
年代の新伝統主義の洗礼を受けたジャモの世代のように、フォヴィスム やキュビスム等のモダンアートの展開に警戒することもない。ロートにとっては、ピカソも またマネと同等にすでに「巨匠」であった。ロートと同じくマネとピカソを同時に語りえた美術史家はルネ・ユイグ(
1906
年生)と ジェルマン・バザン(Germain Bazin, 1901-1990
)である。ユイグはソルボンヌ大学で美学 を、ルーヴル学院で美術史を学び、1927
年に21
歳にして師ルイ・オトクールの後継として ルーヴル美術館の学芸補佐となった。1931
年には『芸術愛好』誌の編集長を兼任し、1932
年のマネ展やロンドン・フランス美術展の特集号を編み、1933
年1
月からは20
世紀の「同時 代美術史」編纂を推進してゆく。彼ら若い世代の美術史家によるマネ論の(上司ジャモとは異なる)新機軸は、
1932
年5
月 の『芸術愛好』誌にユイグが書いた「画家マネ」に顕著に表れている。彼はモダンアートの 特質を「純粋に造形的な関心」に基づく「絵画的システム」の構築に求め、キュビスムによ る「モダンアートの転覆劇の先駆者」としてマネを位置づけるのである。ユイグのマネ論詳しくみよう。冒頭から彼は、ヴェルフリンの様式分析と後世のフォーマ リズム絵画批評を想起させる言葉遣いで、マネの作品に見るべきは主題内容や芸術家の「内 面(の現実)」ではなく、絵画として表出されたものそれ自体にあると宣言する。
批評家はマネの絵画を超えて何らかの存在を探究する必要はない。彼の絵画は何らかの 事象の引喩でも言葉でもなく行動形式である。(…)マネの偉大さは彼が表現するもので はなく、表現方法じたいにあるのだ。かつて「描く
dépeindre
」という言葉は「表現するexprimer
」という意味だったが、マネにとって「描くpeindre
」とは「表れるs
ʼexprimer
」 という意味であり、他動詞から自動詞へと変化したのである15。後にコレージュ・ド・フランスの美学教授にして アカデミー会員となるユイグの雄弁術がすでにこ こに表れている。そして、この文章はこう続く。
マネの絵画は「真実を表現する」のではなく、「自 動詞」として「真実を生起させる」のであり、「何 らかのイメージ」ではなく「真のイメージ」その もの、「フォルム」として「自立」した絵画なの である、と。この点でマネはキュビスムの「先駆」
なのだった。
ユイグによれば、マネの絵画を成立させている のは独自の「主要原理」に基づく「絵画的システ
ム」である。その原理とは「フォルムの自立とタブローの平面的配置、そして、構図の垂直 的均衡」であり、それは「絵画の内的論理の制限でなく、要請であった」。ユイグはこの原 理を《草上の昼餐》(
1863
)から《バルコン》(1869
、図3
)、《鉄道》(1874
)を経て、晩年 の《フォリーベルジェールの酒場》(1883
)に至るマネの作品に見出している。とくに彼が 傑作とするのは《バルコン》だった。「水平的基盤と垂直軸となる人物」で構成されたこの 作品において、「純粋に造形的な関心」に基づく「水平・垂直のライトモチーフ」が「均衡 の法則」を打ち立て、「自立したフォルム」の「シルエットと平面性の勝利」がそこに「絵 画的な力」を付与しているのであった。このようにユイグはマネの絵画をあたかも抽象絵画のように分析した。キュビスムを分析 するようにマネを語り、「近代性」を強調したのである。一見したところ、この批評スタン スは、
1932
年の言論空間を支配したポール・ジャモによる「古典」画家としてのマネ解釈 と対立しているようにみえる。しかし、ユイグ(の世代)にとって、「古典」や「伝統」の 概念は必ずしも「近代性」と対立するものでなく、ジャモのマネ解釈とも矛盾はしなかった。それは、ユイグのキュビスム論をみればよく分かるだろう。マネ論から
1
年後の1933
年11
月 に『芸術愛好』誌に発表したキュビスム論において、彼は再び雄弁な言葉遣いでキュビスム を「伝統」と「秩序」を求める運動と定義している。フォヴィスムの画家には過去への郷愁から秩序の必要をすでに感じていたものがいた。
秩序とは通常、伝統のことである。(…)しかし、伝統が退廃を重ねて信用を失ってい たならば、より純粋で乱暴な新秩序を創出せねばならない。アナーキーな状態がまだ終 息していなければ、革命的秩序を創出せねばならない。キュビスムはこう考えたのだっ た16。
図3 マネ《バルコン》(1869)
(©RMN-Grand Palais (musée dʼOrsay) / Hervé Lewandowski)
ユイグにとってキュビスムは「絵画の偉大な伝統」を尊重し、「古典へと向かう」「反動的」
運動であり、「改革者にして構築者たろうと欲した」芸術であった。その目的のためにキュ ビスムは「(革命的)秩序」を求め、「構築的な」造形によって「知的な現実」を表出させた という。この論理で言えば、「純粋に造形的な」「原理」に基づいて「真実を生起させる」マ ネの絵画もまたキュビスムと同じように伝統的で古典的な秩序を尊重しているということに なる。
たしかにジャモとユイグの間には伝統や古典概念をめぐる齟齬はあった。しかし、二人は マネを古典や伝統と結びつけることによって、その後の印象派とマネの関係を断絶させる歴 史観を共有していた。つまり、歴史観の齟齬はなかった。ジャモは古典的絵画の「堅牢さと 構成」と対立する印象派の「軽妙さと感覚性」を評価しなかったが8、ユイグも造形的「秩序」
の観点から印象派を否定的に捉えた。マネ論において彼は印象派を「輪郭線を排除してフォ ルムを溶解」させるとともに「垂直・水平のコンポジションを捨て」ることで「自由でダイ ナミックな空間を手に入れた」と説明し、マネの「絵画的システム」の対極に位置づけてい る。この文脈では「自由でダイナミックな空間」とは古典的「秩序」に反するネガティヴな 意味でしかない。印象派の影響のない
1869
年の《バルコン》をマネの最高傑作としたのは ジャモ同様、印象派を評価しなかったためでもあった。さらに彼のキュビスム評価もまた、印象派への否定的解釈と対をなしていた。ユイグによれば、キュビスムは「レアリスム、印 象派、フォヴィスムの安易さと度が過ぎた自由に対する異議申し立てとして生まれた」芸術 であったからである。このように、ユイグのマネ解釈は、ジャモの世代の絵画史観をフォー マリズムの手法によって更新し、キュビスムに接続可能なものとした。印象派抜きでマネを キュビスムと結び付けてモダンアートの先駆とした点に、保守的にして革新的なユイグのマ ネ論の新機軸があった。
「秩序」や「伝統」という言葉を連ねるユイグのキュビスム論は、「フランスの伝統」の遡 上にキュビスムを定位した
1910
年代のキュビスム批評をルーツにしていることは間違いない。加えて、「革命的秩序」や「改革者にして構築者」といった撞着的表現には、本稿の最終節 で紹介する
1930
年代の「新秩序」グループの理念が反映されてもいる。しかし、本節では1932
年から33
年にかけてのマネとキュビスム、とくにピカソの作品との往還的解釈の重要 性を強調しておきたい。マネからピカソへ、そして、ピカソからマネへというアナクロニッ クな絵画比較によって、ユイグは、両者が古典的秩序に通じる造形原理を持つとの認識を得 たのではないか。キュビスムを分析するようにマネを分析し、また、マネを語るようにキュ ビスムを語ることによって、ジャモの提示した古典的マネ像に近代性を付与するとともに、近代的なキュビスムに古典性を与えるという両義的で循環論法的な解釈が可能となったので はなかろうか。
マネ論を書いた半年後、ユイグは『芸術愛好』誌上で
2
年間かけて20
世紀のモダンアート の美術史編纂の指揮をとる。フォーマルな絵画的システムを分析したマネ論は、のちに展開される彼のモダニズム絵画史編纂の前哨戦となったと考えられる。
「マネは創造者なのか?」:クリスチャン・ゼルヴォスのマネ批判
しかし、マネをキュビスムに至るモダンアートの「先駆者」とするユイグの主張はいささ か勇み足である。アルフレッド・バー・ジュニアによる
1936
年の有名なモダンアート史の チャートを思い出すまでもなく、20
世紀のモダンアートの起源はセザンヌやゴーギャンあ たりに据えられるのが普通で、ユイグが1933
年から編纂を開始した「同時代美術史」でも、その始まりはセザンヌに設定されている。マネは取り上げられていない18。それにも関わら ず、ユイグがマネをキュビスムの「先駆者」と呼んだのはなぜか。彼の念頭には、「満場一 致」のマネ礼賛の言論空間のなかで、マネを評価せず異彩を放った二人の美術批評家の存在 があった。『芸術ノート』誌編集長のクリスチャン・ゼルヴォスと、『フォルム』誌編集長の ヴァルデマール=ジョルジュである。
本節ではまずクリスチャン・ゼルヴォスのマネ批判に焦点を当てよう。ゼルヴォスはマネ 展が始まる
1932
年6
月の『芸術ノート』誌に「マネは偉大な創造者か」と題する挑発的記事 を発表し、マネを「崇拝する読者」に向かって、「正直言って、この巨匠の価値には疑問を 抱く」と書いた19。そして、マネ展の「驚くべき成功の方が作品のクオリティ以上に」注目 に値し、「マネを偉大な創造者として支持することほど難しく、驚くべきことを他に想像で きない」と皮肉な言葉を続けたのである。ゼルヴォス曰く、マネは「真の創造力を持たず」、「偉大な作品を実現できなかった」画家 であった。そして彼はマネ存命中の非難の常套句を反復し、ないない尽くしの否定的言辞を 連ねる。マネは過去の作品を引用するだけで「主題内容を創出しなかった」。「古典芸術の外 見」を真似た彼の絵は「力のない」「よく出来た機械」にすぎず、「借用したものに新たな命 を与えるための必要なエネルギーを欠いている」。「理性が想像力と感性より勝った」「抒情 なき詩」にすぎないマネの絵には「本質的なものが欠落している」、といった具合に。
ゼルヴォスの批判は執拗で、同誌次号(
8
・10
月号)でマネ特集を組む。前号でのマネ批 判に読者が「憤慨」していることを認め、「公衆の熱狂」に抗う「危険」を承知していると 言いながら、前言を撤回することなく、マネには「未来のための偉大な芸術家に位置づける いかなる理由もない」と繰り返し、挙句に「もしマネが長命でサロン審査員の席を獲得して いたなら、カバネルやクチュールが彼に対して行ったのと同じように若い仲間に対して不当 な振舞いをしただろう」とまで述べるのである20。公衆を敵にして、この画家のアクチュア リティを完全否定したのだった。ゼルヴォスの批判にはおそらく、マネをモダンアートの「先駆者」としたユイグへの批判 が込められている。マネ批判よりもむしろユイグの『芸術愛好』誌に対する挑戦が目的だっ
たとすら言ってもよいかもしれない。『芸術ノート』誌は、マネ展に先立つ
1932
年1
月のロ ンドンでのフランス美術展に際し、作品展示に関わったユイグの作品セレクションに疑義を 呈し、1860
年代のマネの古典的絵画を重視する一方で70
年代以降の印象派的な作品を低く 見積もっていると批判していた21。『芸術愛好』誌が特色とした古典と伝統重視の近代美術 史の語りに対し、国際的な前衛芸術を擁護するスタンスの『芸術ノート』誌は、その保守性 を批判するのが常だったのである。
1926
年に『芸術ノート』誌を創刊したゼルヴォスはパブロ・ピカソの「信奉者」として 知られ、ピカソ展が開催された1932
年からはこの画家のカタログ・レゾネの編纂も開始し た。彼にとって「真の創造者」はピカソであった。『芸術ノート』誌はマネ展特集に先んじて、3-5
月号でピカソ展特集を組んでいる。そこでゼルヴォスはこう書く。ピカソの作品は現代 を切り拓いて深い刻印を残したが、彼自身は止まることなくさらなる「新しい発展原理」と「豊かな斬新さ」を提示し続けている。その営為はもはや人間を超え、創造者として「神々 への反逆」を示す。「真の創造者」という言葉は「ピカソにこそ当てはまるのである」22、と。
「創造」という手垢のついた言葉にこだわるゼルヴォスのマネ批判とピカソ礼賛は、時代 後れの凡庸な批評にみえるかもしれない。しかし、この言葉が
1930
年代に有した意味を見 直す必要もあろう―1935
年にモリス・レイナル(Maurice Raynal, 1884-1954
)が「キュ ビスムの創造者」展を組織、また1931
年には岡本太郎が参加したことでも知られる「抽象=創造」グループが結成されたことを想起しよう23。第一節で触れたように、
1910
年頃のキュ ビスム批評ではキュビスムと「伝統」を関連づける作法が流行した。ユイグはこの論理を援 用しつつ、キュビスムとマネを結びつける批評を展開した。こうした伝統論の横行に対し、ゼルヴォスは創造論で対抗したのである。言うまでもなく、字義的にいえば、創造とは無か ら世界を生成する行為であり、過去の創造物を典拠とする古典や伝統という概念とは対立的 関係にあるからだ。ピカソ特集号においてゼルヴォスは、「古典への執着」が「フランス人 の過ち」だと語ったピカソの証言を紹介し、古典とは旧弊のアカデミズムにすぎず、芸術は 常に大胆に創造されねばならないと説いている。この点において、「ピカソの天性はフラン ス人の天性とは相いれない」のであり、「ピカソの芸術はフランスで発展したが、ピカソは フランスの精神とは正反対」であると論考は続く。
このゼルヴォスのピカソ論を読めば、マネは創造者でないと述べた彼の意図がよく分かる だろう。彼にとってマネは古典と伝統に基づくフランス的な画家に他ならず、ピカソの「先 駆者」には決してなりえないのである。ゼルヴォスの批判の矛先は、やはり、マネをキュビ スムの「先駆者」としたユイグの『芸術愛好』誌に向けられていたとみるべきである。
一方、『芸術愛好』誌はといえば、「創造」概念を巡ってゼルヴォスと論争するつもりは なかっただろう。じっさい、マネは創造者でないという彼の言葉を肯定も否定もしなかっ た。創造という考え方じたいが、「フランスの精神とは相いれない」と考えていたからであ る。ユイグとともに同誌で筆を振るったジェルマン・バザンは
1931
年12
月にこう書いている。「創造的独創性という概念ほどフランス美術と無縁なものはない」。「無からの創造者と いう概念の起源はゲルマン精神に求めることができる」もので、「フランス美術」と「フラ ンス精神」は「人間的価値を有した文化遺産の存在を信じ、それを維持し成長させることを 使命とする」。ゆえに「創造」ではなく、「古くから獲得された全ての価値を自らに組み入れ て(…)常に高度の文化水準の維持に努める」のだ、と24。
このようにゼルヴォスのマネ批判は、伝統と創造の美術史的価値観をめぐる『芸術愛好』
誌と『芸術ノート』誌のスタンスの相違に起因すると理解することができよう。前者は伝統 を重視するフランス絵画史観に、後者は創造を優先する国際的な前衛史観にコミットしてい た。さらには、ゼルヴォスの批判には、マネ生誕百年展を盛大に祝い、未だマネを中心とす る
19
世紀後半までの絵画しかルーヴル美術館に展示しないフランスの学芸員の保守的なミュ ゼオグラフィーに対する皮肉も込められていたかもしれない(後述するように、1932
年まで、ピカソ等とくに外国人芸術家のモダンアートは国立美術館に受け入れられてはいなかった)。
「創造」と「古典」をめぐる争い:ジェルマン・バザンによるピカソ展批判
『芸術ノート』誌で繰り返されたマネ批判に対し、ユイグは正面切って論争はしない。し かし、論争の代りに、ゼルヴォスに対してしっぺ返しの一撃を食らわせる。『美術愛好』誌 はマネ展とは対照的にピカソ展の特集は組まず、マネ特集号の翌月の展評欄にバザンによる 短い「総括:ピカソ展」と題した展評を掲載し、そこでピカソの近作を徹底的に批判したの である25。ゼルヴォスのマネ攻撃に対し、ピカソを攻撃して復讐を図ったのだといえよう。
ジェルマン・バザンはソルボンヌ大学美術史講座で中世美術を学んだ美術史家だが、
5
歳 年少のユイグと「不思議と意気投合」し、『芸術愛好』誌の編集補佐となっていた。ブリュッ セル自由大学に務めた後、1936
年にルーヴル学芸補佐のポストを得てユイグの同僚となる。1932
年のマネ展に際しては『芸術愛好』誌に「マネと伝統」と題する長文論考を執筆し、オー ルドマスターの名画の数々を引用するマネの制作態度の全容を紹介し、「伝統」とのつなが りを重視したポール・ジャモの保守的なマネ解釈を援護した。ピカソ展の展覧会評を分析する前に、このマネ論に一言付しておきたい26。「マネと伝統」
は奇妙な論文で、全
9
ページ中8
ページが過去の傑作を引用したマネの作品分析に充てられ ているが、最終ページで急展開をみせる。「マネはなぜ自ら主題と構図を創意しなかったの か」と問いかけ、「主題と構図に無関心だったからだ」と即答するのである。そして、マネ にとって「絵画の問題」は、構図にも、内面の「道徳表現」にもなく、「純粋に色彩の問題」のみにあったと結論して論文は終わる。これを言わんがために
8
ページもの引用分析に努め たのだとすれば奇妙な論文と言う他ない。しかし、この最後の下りは後続するユイグのマネ 論への布石として読むべきだろう。「主題と構図への無関心」からユイグが分析する「フォルムの自立」へとつなげる寸法であり、両者のマネ論は一続きのセットで読まれることを想 定しているのである。『芸術愛好』誌上のユイグとバザンはまさに一心同体の同志であった。
1932
年のピカソ展評を分析しよう。この展覧会は回顧展で、「青の時代」からキュビスム、古典主義を経て、
1932
年の最新作まで、ピカソの全画業を一望するものであった。バザン は冒頭からピカソに対する自身のクライテリアを強い口調で明確に提示している。ピカソがいま総決算を開示している。だが、請け合おう。ピカソというよりピカソ教(ピ カシズム)の信者たるゼルヴォスとレイナルを除き、批評の管財人たちはピカソの破産 宣告をすることになるだろう。(…)ピカソはもはや過去の人だ。近作については、ただ、
(…)〔過去の〕傑作群のかたわらで悲しい驚きを与えるのみである。
バザンはピカソを全否定するのではない。過 去には「傑作群」を創造したが、もはや「過 去の人」で、近作は見るに堪えないとする
13。この点は重要だ。この批評の目的は、ピ カソを批判するよりも、近作も含めてピカソ を永遠の「創造者」としたゼルヴォスの批判 にあったと考えられるからである。ゼルヴォ スを「ピカソ教の信者」と形容するのは、ゼ ルヴォスがマネ論者を「崇拝者」と呼んだこ とへの当てつけだろう。
じっさい、この展評では、ピカソの過去の
「傑作」を絶賛する論評が前半部を占め、後
半の近作への罵倒と好対照をなしている。バザンが傑作としたのは次の時代の作品である。
画廊を訪れた我々は、ピカソが
20
世紀最大の画家だったことを確認した。偉大なのは 二つの時代、青の時代と1924
−25
年のキュビスムの傑作の時代だ。また、(…)失敗作 でも、ピカソが一時的に迷走し、模倣と妥協して作ったモニュメンタルな裸婦の大作も 評価したい。バザンは
1924
−25
年のキュビスムの時代を「ピカソの最も優れた時代」とし、その作品を「傑作」として絶賛した(図
4
)。次々節で引用するように、バザンは、この時代のピカソが いわゆる分析的キュビスムの「禁欲的な長い夜から脱し」、「外的世界と対象のポエジーを再 び見出して」、「フォルムの美を見事に発見」したと解釈している。バザンの語り口は思いの ほか熱い。先のユイグによるキュビスム論にも暗示されるように、1900
年代生まれのバザ図4 ピカソ《ビスケット》(1926)
(『芸術愛好』誌、1932年7-8月号より/ L’Amour de l’art, juillet-août 1932, p.246.)
ンやユイグにとって、キュビスム時代のピカソは、ジャモにとってのモリス・ドニのように、
自身の近代美術史評価の指針となっていたのである。
ピカソの「キュビスムの傑作」に「フォルムの美」の構築を認める批評スタンスは、マネ に「フォルムの自立」に基づく造形原理を読み取ったユイグと同じである。また、バザンに よるピカソの画業への評価が、ジャモやユイグのマネ解釈に似ていることも重要だろう。共 和国の学芸員たちは
1860
年代のマネの「古典的な」作品を傑作と認定し、1874
年以降の印 象派風のマネを否定した。同じように、バザンはピカソの過去を称賛し、1925
年以降の近 作を烈しく否定するのである。〔傑作を創造した〕偉大な芸術家が、忌々しいことだが、なぜ現在のような塗り絵の段 階に陥ってしまったのか。この零落ぶりは我々の時代の最も重大な問題だが、私にはど うでもよい。(…)私は穏やかな気分で、現代批評界のカルカスの予言者たるカミーユ・
モクレール氏の言葉を思い出していた。〈彼はひと運動して一世代の人々を楽しませた 後、死滅することだろう〉、と。
最後にモクレールを引用し、近作の「破産宣告」が美術通の識者に共通のピカソ理解である ことを暗示している。バザンはピカソの「零落ぶり」を「重大な問題」としつつも「私には どうでもよい」とさりげなく書いているが、ここに、『芸術愛好』誌の学芸員たちと『芸術 ノート』誌の批評家との決定的な距離が示されているだろう。古典や伝統や秩序をキーワー ドに近代フランスの絵画史を構想しようとする前者にとって、つねに秩序をご破算にして「創 造」を続けるピカソの近作は(とりあえず)「どうでもよい」もの、つまり、歴史編纂の外 部にあった。
ピカソ展が開催される
1932
年まで、フランスの公立美術館が所有するピカソ の作品は、ピカソ自身が
1921
年に(近 代美術支持で知られる)グルノーブル美 術館に寄贈したネオ・クラシシスム様式 の《読書する女》のみで、パリの公立美 術館でピカソを見ることはできなかった28。パリのミュゼオグラフィにおいて、
ピカソは未だ非公認の状態にあったとい えよう。
1932
年12
月には、リュクサン ブール同時代美術館の外国美術セクショ ンだったジュ・ド・ポーム別館が独立 して「同時代外国派美術館」としてリ図5 1932年のジュ・ド・ポーム同時代 外国美術館第15室
(『フランス美術館紀要』、1933年1月号より/ Bulletin des musées de France, janvier 1933, p.12.)
ニューアルオープンし、学芸員のアンドレ・デザロワが蒐集家や画廊から借りて集めたピカ ソの作品が初めて国立美術館で展示される29。しかし、展示された作品は青の時代の《生命》
と古典主義時代のアルルカンであった(図
5
)。また、ジュ・ド・ポームは翌年に、フラン スの国立美術館として初めてピカソの作品を国費購入するが、購入されたのは1901
年の《コ キオの肖像》である30。「近作」はおろか、キュビスム時代の作品ですらなかった31。「人間性の欠乏」:ヴァルデマール=ジョルジュのマネ批判
1932
年の言論空間でマネの「近代性」に批判の矛先を向けた論客がもう一人いる。1930
年代に反近代主義の立場からモダンアートを徹底批判したヴァルデマール=ジョルジュ(以 後、本稿ではジョルジュとのみ記す)である32。彼は1924
年から1927
年まで『芸術愛好』誌の編集長を務め、
1929
年からは『フォルム』誌を創刊し、同時代美術と美術政策に対し 意見表明を行っていた。マネをめぐっては『マネと精神的なものの欠乏』と題する小冊子を1933
年に刊行している33。マネの絵画に「精神的なもの」と「人間性」を欠いたモダンアー トの悪しき「前兆」をみる内容であった。この小冊子は、マネ展開催中の
1932
年8
月に奇妙にも『芸術愛好』誌に掲載された「危機 の起源」に基づいている16。近代の進歩主義が芸術に及ぼした「危機」を論じる長文論考で、マネの絵画は「
20
世紀芸術で大団円を迎える人間性の放棄という悲劇」の「予兆」にして、「反人間主義の前兆」と位置づけられている。ユイグ同様、マネをモダンアートの「先駆」
と定位するわけだが、それはネガティヴな意味においてであった。
内容を要約しよう。マネの作品における「人間性の欠乏」は作品の内容と様式の両面から 説明される。まず内容的には、「人間性を第一原理としたルネサンス」と違い、マネは「視 覚に映じた自然」しか信じない。その結果、人間は自然の一部に格下げされ、道徳や意志を もつ存在でなくなった。ジャモやユイグの言う「フォルムと色彩の純粋なポエジー」は否定 しないが、その代償に「人間は色調に変化をつけるだけの空しい口実」に矮小化され、「彩 色されたマネキン人形か投影図、着物をきた亡霊」になり果てたというのである。一方、様 式的には「コンポジションの拒絶」が問題とされる。これはユイグもバザンも認める命題だ が、彼らはこれを「フォルムの自立」という造形の「主軸原理」構築の出発点として肯定し た。しかし、ジョルジュはコンポジションを人間が「協働」して創出する「絵画的ドラマ」
と理解し、人物を「正面視で並置」するだけのマネは人間関係を喪失した「ミイラの顔」に
「死んだ眼」の人間しか描かない「冒涜」者でしかなかった。
この批判は語彙のみをみれば、存命中のマネがアカデミー主義者から浴びせられた罵詈雑 言とさして変わらない。しかし、
1930
年代のコンテクストでは、近代の個人主義と物質主 義を批判する大戦後の新たな人間主義の系譜にある批判と理解せねばならない。「精神の危機」(ヴァレリー)や「西洋の没落」(シュペングラー)を想起するまでもなく、「戦後」の
「危機の時代」にあって、彼の芸術論は保守論者の正論の一つであり、『フォルム』誌
4
月号 のマネ特集では文芸家のエドモン・ジャルーが「マネの悲劇性」と題し、同種のマネ批判を 執筆している。曰く、「マネまで絵画は人間が構築する芸術だったが彼以後はそうでなくなっ た。(…)人間は自ら人間とみなすことを止め、単純な物体の状態に自らを貶めている」。「こ こ70
年の絵画史」は人間性を喪失する「悲劇の歴史」でしかない35。ジョルジュは
1934
年にヴェネツィアで開催された国際連盟主催による知識人協力国際ア カデミーの会議においても、この持論を滔々と披露した36。この会議は国際連盟の庇護の下 に国境を超えた知識人の意見交換を目的として定期開催されており、この年の主題は「芸術 と現実」であった。同席者にはアンドレ・ロートやル・コルビュジエら芸術家、ハーバード・リードやアンリ・フォシヨンら美術史家、そして、当時
71
歳のポール・ジャモもいた。こ の「大家」を前に41
歳のジョルジュは再び、マネの描く人間は「魂を宿して行動をする身体」を失い、「シミュラクル、マネキン人形、あるいは蝋人形」と化していると繰り返し、「魂」
すなわち信仰心も道徳心も失い「物質的豊かさ」のみを追求した近代物質主義の悪しき象徴 だと主張したのだった。当然、ジャモは反論する。マネは「詩人の魂」を見事に描き切った
《マラルメの肖像》の作者であるし、また、「宗教画の傑作も
2
点」描いた事実を「忘れては ならない」、と。ジャモの反論は識者然としたもので、美術史的事実を「反証」として挙げ るだけである。残念ながら、ジョルジュの反近代主義をジャモがどう考えていたのかは不明 である37。興味深いことに、この反証に対してジョルジュは、マネの「人間性の欠乏」の問題は《マ ラルメの肖像》等の肖像画ではなく、複数の人物関係の描写を欠いた「ルーヴル美術館所蔵 の《バルコン》」等の大絵画にあると再反論している。カイユボット・コレクションにあっ た《バルコン》は
1929
年になってようやくリュクサンブール現代美術館から、「19
世紀フラ ンス絵画室」を新設したルーヴル美術館へと移管されたばかりであった。また、先述のよう に、ルネ・ユイグが造形的観点から最高傑作とした作品であった。わざわざこの作品に言及 したジョルジュには、マネをフランス絵画史の巨匠としてルーヴル美術館に迎え入れ、生誕 百年展を盛大に祝ってみせた国立美術館学芸員に対する不満もあったことだろう。「人間性の欠乏」と「フォルムの自立」の補完的関係
反例を挙げつつもその反近代主義には口をつぐんだジャモと同じように、ユイグもまた ジョルジュのマネ批判に反論することはなかった。そもそも、マネ以後のモダンアートを徹 底批判した「危機の起源」は『芸術愛好』誌に掲載されていた。なぜ、この論文は『芸術愛 好』誌に掲載されたのだろうか。
この問いに答えるには、まず、ジョルジュによるマネとピカソの解釈が、ユイグのマネ論
とバザンのピカソ論、すなわち『芸術愛好』誌の前号と前々号の掲載論文の結論と真逆―
分析方法も歴史認識も全く対照的―であることを確認しておく必要がある。おそらく、ユ イグとバザンは意図的にジョルジュのプログラムを正反対に読み替えたのだと想像される。
ジョルジュはマネの「コンポジションの欠如」を「人間性の欠乏」と解釈したが、バザンは これを「絵画の問題」だと論点をずらし、さらにユイグが造形の「主軸原理」によるシステ ム構築へと読み替えた。ジョルジュが主題内容の分析で導いた倫理的問題を、ユイグとバザ ンはフォルムの問題にすり替え、様式分析によってポジティヴな解釈へと飛躍させるのであ る。
一方、ピカソの解釈はどうか。「危機の起源」においてジョルジュは、ピカソの作品を「人 間性の欠乏」の完全な証拠として挙げた。
作品が表意文字と化したパブロ・ピカソによる〔人間性の〕瓦解は、我々の問題提起を 確証するものだ。〔マネ以後〕四半世紀続いた長旅の後、ピカソは奈落に到達する。
25
歳の彼は人物をあたかも角柱の如く処理し、カリグラムと投影図、アラベスクとグラ フィックな装飾、そして形なきものを生み落とした。(…)ピカソは人間と戦い、イコ ノクラスムの熱狂を満足させた。あたかも、所有欲を癒すことのできない殺人者の如く、彼は人殺しをするのだ38。
ジョルジュはここでも主題内容をリテラルに読み取り、人間性の「瓦解」ないし「殺人」と いう意味を引き出した。これに対し、『芸術愛好』誌の二人は正反対にピカソの作品に「人 間の究極の勝利」と読み取って見せる。それが先のバザンによるピカソ展評である。前述の 通り、バザンは
1924
−25
年のピカソの静物画を傑作とし、「対象のフォルムの美」を発見し たと主張する。そしてこう言葉を続ける。ピカソは対象から特異性を全て剥ぎ取り、原初的で総称的なフォルムを提示した。世界 をフォルムの本質にのみ見出したプラトンの理想の最も見事な造形的実現だ。この理想 がレオナルド・ダ・ヴィンチの美学的思想を方向づけたが、ピカソのみが抽象の強度に 到達したのである。(…)ヴァルデマール=ジョルジュならピカソの作品に人間性の放 棄を見るだろう。しかし、私には正反対に、ピカソの作品は芸術における人間の究極の 勝利である。外的世界から物質を引き離し、知性の働きによって差異化してみせたの だ39。
バザンはジョルジュの名と「人間性の放棄」というテーゼを挙げ、それとは「正反対に」自 らは「人間の究極の勝利」と解釈するとの逆説を披露している。意図的にジョルジュのテー ゼを読み替え、そこから真逆の解釈を導出したことは明らかである40。
このように『芸術愛好』誌のマネ論とピカソ論は、ジョルジュの「人間性の欠乏」論から 出発し、内容面から導き出されたネガティヴな評価をフォーマルな様式分析によって克服し ようとしたものと考えらえる。正反対の結論だが、ジョルジュの否定を前提とした相互補完 的な批評であるといえるのではなかろうか。それがゆえにジョルジュの論文は『芸術愛好』
誌に掲載されたのではないか。
じっさい、ユイグはジョルジュと彼の『フォルム』誌から大きな影響を受けており、両者 の距離は想像以上に近かったと考えられる。二人の接点がはっきりと確認できるのは、ユイ グのマネ論の半年前にあたる
1931
年12
月の『フォルム』誌においてのことである。翌月に 控えたロンドンでのフランス美術展の特集号で、国内外の美術関係者に実施した「フランス 美術に関するアンケート」の返答を掲載している42。そこにユイグは名を連ね、ジョルジュ の要望に応えたのだった。このアンケートは初めての本格的なフランス美術展の開催を迎えるにあたり、「調和的な 価値」を有する「フランス美術の統一性の原理」とは何か、その西欧への「貢献」はいかな るものであったか、と問いかける愛国的傾向の強いものであった。ジョルジュ自身は「世界 の中のフランス:フランス美術の擁護と例証」と題する基調論文を寄稿し、こう呼びかけた。
「フランス美術はあらゆる時代において」、「人間的価値」を保守する「ナショナルな人間主義」
を信条としてきた。「西洋の秩序の基盤が次から次へと崩壊している今」、「フランスだけが 崩壊した組織に再び生命を吹き込むことができ」、「西欧美術の本質」にして「枠組をなす芸 術の役割を演じうる」。「フランス美術は最後の砦、あるいは個としての人間の最後の贖罪な のだ」43。そして、今こそフランス美術の「復権」のときだと鼓舞したのであった。学芸員 としてロンドン展の展示を担当したユイグは、この呼びかけに次のように答えている。
19
世紀の実証主義はかつての文学的批評に代わり、文章や美術作品のフォルムとコン ポジションの物質的特徴を分析した。ヴェルフリンやリーグルの弟子が実践した現代的 方法は造形的特徴の研究を基礎としている。同様に近代芸術家の創造的努力も専ら造形 面に向けられている。主題内容とレアリスムの失墜が近代の兆候だ。(…)フランス美 術がこの慣習に苦悶しているのは当然だ。フランス美術の独創性は物質的なものでなく 精神的なものにあるからだ。フランス美術の重要性はタブローの外見でなく現実のイ メージを浸す感情にある(…)。リテラルな分析ではなく、感覚的に理解せねばならな い43。「フォルムとコンポジションの物質的特徴」を分析する「現代的方法」により「フランス美 術が」「苦悶している」とジョルジュに寄り添う診断を行い、「フランス美術の独創性は物質 的なものでなく精神的なものにある」と述べる。編集者の呼びかけに答え、彼が喜ぶフラン ス美術論を披露したということだろう。同号にはバザンも寄稿し、同様に編集長に忖度した
言葉を残していることを付け加えておこう。すでに引用した「無からの創造者というコンセ プトの起源はゲルマン精神に求めることができ(…)、この創造的独創性という概念ほどフ ランス美術と無縁なものはない」という文章だ44。ユイグとバザンはジョルジュの理念にす り寄り、愛国的なフランス美術観を共有していたのである。
ジョルジュの反近代的な思想は、このアンケートの
10
か月前の1931
年2
月には『フォルム』誌で表明されており、美術関係者にはよく知られていた。「近代の楽観主義の危機と神話の 苦悩」と題する論文において、彼は、「モダンアートは
100
パーセントうまく行くはずはない」と宣言している45。一部引用しよう。「(テオドール・)ルソーからコロー、コローからマネ、
マネからスーラへ」と「前進したかにみえる」
19
世紀絵画史を素描した後、彼はこう書く。ここに祖述したモダンアートの歴史は死にゆく伝説だ。死にゆく手助けをしてあげよう。
(…)
19
世紀と20
世紀の近代芸術が齎した自由は恐るべき欺瞞であった。(…)フラン ス芸術と西欧芸術を救出すべく、近代の理念と楽観主義に恩寵の一撃を与えようではな いか。進歩と自由の神話という何世代も夢みた民主主義の凡庸な思想に今日の若者は関 心がない。当時
38
歳のジョルジュが「今日の若者」と書くとき、そこには『芸術愛好』誌の編集を開 始した25
歳のユイグと30
歳のバザンのことが念頭にあったと想像される。1931
年にはジョ ルジュを編者として二人を執筆陣に加えたフランス美術史叢書の刊行計画もあり、1932
年1
月の『芸術愛好』誌には三巻からなる『フランス絵画』の広告が掲載されている46。彼ら三 人が非常に近い関係にあったことは間違いない。アンケートに対するユイグの返答に戻ろう。この返答で驚くべきは、言うまでもなく、ユ イグが「フォルムとコンポジションの物質的特徴を分析する」「現代的方法」を「ヴェルフ リンやリーグルの弟子が実践」する(ゲルマン的な)方法論として否定的に理解している点 である。ここから暗示されるように、
1931
年までのユイグはフォーマルな分析には手を染 めてはいなかった。1931
年1
月の『芸術愛好』誌に彼は編集長としての「方針」を明らかに したが、一つの特定の「主義を擁護する方針を捨て」、表現行為の「大いなる快楽」を提示 する全ての芸術を紹介する、との穏やかで差し障りのない言葉が並ぶのみである47。自身も 同時代美術批評を行うことはなく、もっぱら専門とする近代フランス絵画についての短い美 術史論考を発表するだけだった48。その態度は、それ以前に彼が関わった『フランス美術館 紀要』での報告とほぼ変わらない49。近代フランス絵画を支持する姿勢は明確だが、批評的 戦略や思想性は全く感じられない。では、いつ、いかなる理由から、ユイグはジョルジュの批評に接近し、
1932
年のマネ論 に顕著となるフォルマリスム的批評を展開するようになったのだろうか。ユイグの転換点、あるいは順応主義:モダニズムの歴史的サイクルの再構築
ユイグの批評に変化がみられるのは、同じ
1931
年12
月に『芸術愛好』誌に発表した「我 が時代の診断:シャプラン=ミディとクリスチャン・ベラール」においてである50。ユイ グにとっての初めての同時代美術批評で、「レアリスムとメチエへの回帰」としてシャプラ ン=ミディ(Roger Chapelain-Midy, 1904-1992
)を、「内的世界へ向かうネオ・ユマニスム への回帰」としてクリスチャン・ベラール(Christian Bérard, 1902-1949
)を取り上げてい る。とはいえ、「純粋抽象からも自然主義的レアリスムからも距離をとり、外的世界を内省 化している」と分析した二人の画家への月並みな論評にはさして注目すべき点はない。とく に、ベラールについてはジョルジュが1929
年12
月の『フォルム』誌創刊号で取り上げており、独自性にも欠けている51。
この論文で注目すべきは、具体的な絵画評の前に語られるユイグの同時代の現状認識であ る。論文の前半においてユイグは「我が時代の診断」を下し、「一つの時代が形成してきた 真実が全てぐらつき」、「静かな危機」が蔓延している状況を切々と書いたのである。そして、
ジョルジュの名を挙げながら、「モダニズム」の「老衰」について語り、その例証として
20
世紀のセザンヌ主義の挫折と「ピカソの否定」を挙げたのだった。半年程前から我々の文明は老衰の段階に入った。「戦後」が終わり、瓦礫の上に新たな 現象が統合されようとしている(…)。「戦後」という時代、「モダニズム」の精神が過 去のものとなったのだ。(…)若者と公衆は倦怠し、従来通り継続することも別のこと を始めることもできない。莫大な浪費の後の如く、我々の時代は残り物を守ることしか できない。文学でも美術でもこの
5
年間、景気のいい話は一つもない。緊縮財政だ。(…)人々はひそひそとピカソの否定について語り始めた。ヴァルデマール=ジョルジュはセ ザンヌに関して「神の黄昏」を語っている。
ジョルジュと同様に「モダニズム」の終焉を宣言する文章であるが、しかし、ここには二人 の決定的な相違も確認できる。ジョルジュが
19
世紀半ば以降の四分の三世紀の近代全体を 否認したのに対し、ユイグの目は微視的に1930
年周辺に注がれ、「戦後」の1920
年代の「モ ダニズムの精神」が「過去」となったことを強調している。この文章の後、ユイグは「フォ ヴィスムもキュビスムもシュルレアリスムも(…)もはや歴史的現象となった」のであり、ジョルジュや「モクレール氏のように」それらが「死に体」だと非難したところで事態は変 わらないという。「モダンアートの死」を宣告してはいるが、モダンアート自体を否認して いるわけではないのである。彼にとって、「戦後」は「素晴らしく情熱的な
10
年」であり、「大 胆さと刷新の知的な10
年だった」。そして、その時期が終焉し、「瓦礫」と「残り物」だけが残されたと観察するのである。
1932
年7
月には、「この論文に寄せられた批判」にユイグ は返答し、「私はモダンアートを否認しない。その試みも成功も否定しない。(…)単に私は モダンアートが過去となったと観察しただけだ」と繰り返している52。先のバザンによるピカソ展評を思い出すなら、この「診断」の真意を理解できるだろう。
バザンはピカソのキュビスムの実験と
1925
−26
年の作品を高く評価した。非難したのはそ れ以後の近作だった。「この5
年間、景気のいい話はひとつもない」という言葉の具体例とい えよう。そして注目すべきことに、「戦後」が終わったとするユイグは、続けてその時代認識を フォーマルな絵画分析によって説明している。つまり、この論文は彼が初めてフォーマルな 分析を披露した点でも重要なものとなっている。分析じたいは今となっては平凡という他な いが、ユイグの批評の展開の理解するために略述しよう。彼はまず近代絵画の構成要素を外 的世界の「現実」とそれを認識する「芸術家」の内面、そして、それを表現する「絵画的物質」
(=「カンヴァス」)の三つに分ける。そして、この三つのせめぎ合いから、まず、セザンヌ が「現実」に基づいて絵画的物質を「芸術の本質にして存在理由」とする道を打ち出したと する。次いで、ゴーギャンが「現実」を追放し、絵画的物質の「王国」を築き、さらにキュ ビスムがこれを徹底して「造形的抽象」へと至ったと理解する。だが、次なるシュルレアリ スムがさらに「その先」へと前進し、「造形的要素」を無秩序へと解き放った。これで「絵 画的物質」を探究した「この歴史的サイクルが終了」する、そんなストーリーをユイグは思 い描いたのだった。
ユイグはフォルムの自立を推進したモダニズムのサイクルがシュルレアリスムによって瓦 解し、「瓦礫」のみが残ったと考えている。終焉を宣言するだけで否定はしない。彼はこの 論考をこう締め括っている。「戦後世代は過剰な情熱と野心から生れたが、我々の世代は倦 怠から生れた存在の重さを知っている」。徒らに前世代のモダニズムを批判するのではなく、
その終わりから絵画を構成する三要素の残り物である「芸術家」の内面と具体的な「現実」
を見つめ直して、再構築するしかないと訴えたのだった。
ユイグにとって、モダニズムは終わり、「もはや歴史的現象」であった。つまり、マネも ピカソも「過去の人」だった。逆に、「人間性の欠乏」を魂なき近代の悪としたジョルジュ には、マネもピカソもまだ同時代の問題であり続けた。ここに二人の違いがあった。ユイグ はこの論文の冒頭で「美術史は人類の歴史と同じように、持続的かつ定期的に変形し進化す るわけではない」とも述べている。歴史は進化し続けるのではなく、知のサイクルで分割さ れると考えていた。モダニズムのサイクルは閉じ、
1930
年代は「老衰」と「瓦礫」から再 出発する新たな段階に入ったと認識したのであった。『芸術愛好』は「戦後」の「秩序要請」の理念を代表する保守的雑誌と評されることが多い。大局的にはこの理解でよいが、微視的 には「戦後」の「秩序要請」の挫折の後に、次なる「新たな秩序」を模索した雑誌と言うべ きである。
以上のように、ユイグは
1931
年12
月に発表した二つの論文によって、ジョルジュの思想 の継承と克服の道を同時に示した。ジョルジュに従って「モダンアートの死」を受け入れつ つ、モダニズム自体は歴史として肯定し、「瓦礫」から同時代の芸術をポジティヴに再構築 する道を提案した。あたかも自らが「人間性の欠乏」の瓦礫から、新たな指針を見つけ出そ うとするかのように。この転機にあって、半年後に開催されるマネ展とピカソ展は、モダニ ズムの歴史認識を明確化するとともに、フォーマルな批評実践を試みる絶好の機会となった と考えられる。1932
年のマネ展とピカソ展のアナクロニックな邂逅は、まさに、モダニズ ムのサイクルの始まりと終わりを啓示する「恩寵の一撃」をユイグに齎したのだと言えよう。おわりに
1931
年12
月のユイグの論考「我が時代の診断」には、もうひとり彼に指針を与えた人物 の名が記されている。「人格主義」を代表するカトリック系著述家ダニエル=ロップス(ア ンリ・プティオ)(Daniel-Lops, 1901
−1965
)である。カトリーヌ・フレクスは『美術愛好』誌を政治的に読み解いた論文「右でも左でもない雑 誌」において、ユイグの思想におけるダニエル=ロップスの影響の重要性を指摘している53。 とくに彼女が注目したのは、ダニエル=ロップスも参加した非順応主義者による思想団体「新 秩序」との関係である。このグループは
1931
年5
月のマニフェストにおいて、「伝統主義だ が保守主義でなく、レアリストだが順応主義でなく、革命家だが反逆者でなく、建設者だが 破壊者でない」という印象的なフレーズによって、「右でも左でもない」非順応主義のスタ ンスを標榜していた。本稿を閉じるにあたり、ここで新秩序グループに言及するのは、フレクスに倣ってユイグ の政治的信条に深入りするためではない。彼女の主張とは異なり、私はユイグの新秩序へ の傾倒は政治的信条というよりも
1930
年代に彼に求められた美術史編纂の理論武装のため の̶それこそ非「非順応主義的な」、つまり順応主義的な―要請だったと考えているが、いずれにせよ、ユイグが新秩序グループの語彙に大きなインスピレーションを受けたことは 間違いない。既に引用した
1933
年のキュビスム論にみえる「より純粋で乱暴な新秩序」や「革 命的秩序」といった撞着的表現はその一例である。そして何よりも、ここに挙げた新秩序の マニフェストは、ルネ・ユイグによって解釈された「1932
年のマネ」のフランス絵画史に おける両義的で曖昧な位置を最も的確に表現しえているのではなかろうか。今日、新秩序とダニエル=ロップスの理念は