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説明的文章とはいかなるものか 一その性格を論じて指導法に及ぶ一

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説明的文章とはいかなるものか 一その性格を論じて指導法に及ぶ一

田 口 守

茨城大学教育学部国語教育講座 〒310−8512茨城県水戸市文京2−1−1

はじめに

 国語教育は文学的文章よりも説明文ないし説明的文章に比重を移しつつある。その 是非はさておき,文学的文章に対比される説明的文章は薬の能書きから料理の作り方,

さては評論,随筆までも包含する広い概念で,国語教育界において必ずしも十分な検 討がなされていないかに見える。本稿は説明的文章の観念的追求を止め,実際の教科 書の文章と雑多な内容の文章を詰め込む新聞の文章の分析を通してその性格・特徴を 明らかにし,それにふさわしい指導法を考えようとするものである。

Key words:説明文,説明的文章,通読,素読

一,説明文とは何か

 はじめに国語学と国語教育の二つの辞典の説明を聞こう。まずr国語学大辞典』の

「説明」の項を見る。

 説 明 ある対象に接している人(または接した人)に,外見や客観的観察(経 験的事実)だけではとらえることができにくい,構造・機能・作用・効果・価値・

成立・由来・歴史・原因・結果・未来に対する予想などを知らせること。また,科 学論文や製品の説明書のように言葉だけによって対象を説明する場合には,対象に ついての記述descriptionと説明explanationとが含まれることになる。記述とは対 象の構造・形状・位置などや,対象がもたらした,あるいは対象に関して生じた結 果などについての客観的表現であり,説明とは,それらがなぜ成立するか,原因は 何かを既知の知識にもとづいて納得できるように表現したり,未来についての予想 を表明したりすることである。(中略)なお国語教育においては,文学作品以外の 実用的文章,解説記事・評論・論説文などを説明文とよんでいる。〔樺島忠夫〕*1

 つまり説明文とは,ある対象について熟知している者がよく知らない者に対して,聞 き手の既知の知識をたよりに納得出来るように説明した文章である。事象の客観的な 記述と理由等の説明という二つの要素を備えているものが多い,というのも頷ける。な お国語教育では文学作品と対比されるより広義の文章の概念であるとも述べているが,

国語教育においては広義の説明文を「説明的文章」と呼ぶ習慣がある。

 次にr国語教育研究大辞典』の「説明的文章」の説明を聞こう。

説明的文章は,読者の立場から見た場合は,説明されている対象(または情報)

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についての新しい知識を得て,思考の深化に資するものである。ところが,説明的 文章の中には,料理のミックス・ソースの作り方を説いたものや,囲碁や将棋の駒 の進め方を説いたもの,新たに開発された薬の効能を説いたもの,熱帯魚の飼育の 仕方の上の注意事項を説いたものなど,(1)実際的な行為を行うための説明をし た文章がある。(2)従って,実際の行為をする必要のある人にとってのみ意味の あるものであり,その実際的行為の必要のない人にとっては読んでも殆んど意味の ないものである。(3)こういう文章には読者の,読みにおける自由領域という余 地は,一切あり得ない。言わば,十人十色ではなく,《十人一コ口の読み取りが求 められる。なぜなら,叙述されている通りに正しく読み取らなければ,料理のミッ クス・ソースが美味に出来上がらなかったり,熱帯魚が死んでしまったりするから である。このような性質を持つ文章を説明書きと呼ぶことにする。

 効能書きとか注意書きという言葉があるが,これらの言葉は,説明的文章の下位 分類の一つとして位置づけることができる*2。

 ここでは広義の説明文(説明的文章)の下位分類として「説明書き」なる概念を導 き出しているが,これは世間の通念としての説明文の概念に近いように思われる。国 語教育の説明的文章は狭義の説明文即ち「説明書き」を含みながら,「新しい知識を得」

たり「思考の深化に資するもの」に比重を移しているようである。

二,説明的文章と文学的文章

 説明的文章に対して文学的文章という用語も国語教育では用いられている。説明的 文章と文学的文章の二つの概念で文章全体を括ろうとする観がある。換言すれば,わ れわれは説明的文章の扱う世界と文学的文章の扱う世界の二つの世界に住んでいる。現 実世界(外在的世界)と精神世界(内在的世界)の二つの世界の住人である。説明的 文章は前者に対応し,文学的文章は後者に対応する。

 われわれは現実世界の住人である。ミックス・ソースの作り方は,外在的世界の事 実を指さしながら話を進める。実際にその指示通りに行えば,おいしいミックス・ソー

スが出来上がる。熱帯雨林の減少とそれがもたらす影響について書かれた説明的文章 がある。熱帯辞林の減少という事象については,客観的事実としての記述descriptionが 求められる。そしてそのことがもたらす深刻な影響について論理的な説明explanation がなされる。読者はその文章から自然界の微妙なバランスについての深い知識を得,外 在的世界に対する認識を新たにする。S.1ハヤカワはこうした説明的文章を「地図言語」

と呼んだ*3。地図は現地との正確な対応が求められる。現地(外在的世界)と対応しな い地図は,地図としての役目を果たさない。文学も現実と無関係には存在しない。し かしながら,そこに山や川が欲しければ現地にない山や川を書き込むことが許されて いる。現地にない山や川を書き込んだ地図は,もはや地図ではない。新しい世界の創

造である。

 文学(文学的文章)はなぜ虚構が許されるのか。人間は現実世界を離れて生きるこ とは出来ない。と同時に現実では叶えられない希望や理想や欲求を持った存在である。

そうした心を満たすべく,精神世界(内在的世界)にも生を置く。現実に満足できな い心を持ち,現実を超える世界の住人でもある人間は,現実,事実の世界との厳格な 対応が求められる説明的文章だけでは満足出来ない。文学の原型ともいうべき民話は,

現実には考えられないような主人公の行為によって,富貴を手に入れる。リアリズム

の文学では虚構を,事実の奥の真実に,あるいは事実の世界の本質に迫る方法として

意味づけている。しかし「真実」や「本質」と言っても,自然科学のそれとは次元を

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異にし,人間の希望や理想が深く浸透したものと言ってよいだろう。

 虚構の許されない説明的文章の世界と虚構の許される文学的文章の世界。国語教育 はこの両者を対象とする。先掲r国語学大辞典』に,「なお国語教育においては,文学 作品以外の実用的文章,解説記事・評論・論説文などを説明文とよんでいる」とあっ

たが,それはこのような意味での説明的文章と理解出来る。

三,国語教科書の説明的文章と「のだ」文

 国語教科書の説明的文章には「説明されている対象(または情報)についての新し い知識を得て,思考の深化に資するもの」の他に「説明書き」的な文章もあるが,説 明的文章の教材として学習されるのは主に前者である。国語の学習材としての説明的 文章は広義の説明文の意でなく,世間の通念とは違う狭義の説明文である。ここで言 う「説明書き」的な文章とは主に言語事項に対する解説文で,漢字や仮名の由来や特 質の説明,アクセントや文法の説明などの知識教材である。言語事項の解説文では筆 者の考えや文章の要旨,構成等について学習することはない。第一そこには筆者名な どない。それでは「説明されている対象(または情報)についての新しい知識を得て,

思考の深化に資するもの」文章と「説明書き」的な文章との本質的な違いはどこにあ るか。二者の間に文体上の差異を認めることが出来るか。私はこれを「のだ」文の有 無において捉えるべきだと考えている。

 「のだ」文とは文末を「のだ」(「のです」「のである」等)で終わる文をいう。「のだ ろう」「のでしょうか」の推量・疑問形等を加えてもよい。説明的文章の教材として教 科書に載せられている文章には「のだ」文が多く,筆者名のない言語事項の解説文に は「のだ」文がないというぼんやりした認識を持っているからである。

 光村の小学校国語教科書のいわゆる広義の説明的文章について,「のだ」文の有無を 調べてみる*4。F」内は文章の題名,数字の前は「のだ」文の出現形,数字はその出 現頻度を示す。はじめに狭義の説明的文章についての調査。

一年上 「どうぶつのあし」のです・2,「じどう車くらべ」・ナシ ー年下 「もののなまえ」のでしょう・1

    「どうぶつの赤ちゃん」のでしょう・2,のです・2

二年上 「たんぽぽのちえ」のです・4,のでしょう・1,「あつまれ,楽器」のです・1 二年下 「あいさつのことば」のです・1,「『ことば』をおぼえたチンパンジー」ので    す・3

三年上 「やどかりの引っこし」のです・2,のでしょう・1,「ありの行列」のでしょ    うか・1,のです・4,「シャボン玉の色がわり」のでしょうか・3,のです・3 三年下 「犬がかわいかったよ」のです・1,「虫のゆりかご」のだろう・1,のだ(ん    だ)・3,「あなたはだれ」のです・1

四年上 「カブトガニを守る」のでしょうか・1,のです・3,「キョウリュウをさぐる」

   のでしょうか・1,のです・5,「雪国は今」のです・6

四年下 「方言と共通語」のです・1,「一本の鉛筆の向こうに」のです・1,「体を守る    仕組み」のです・2

五年上 「地図が見せる世界」のである・1,「大陸は動く」のだろうか・1,のだろう・

   6,「粉と生活」のだろうか・1,のである・1

五年下 「言葉は心をつなぐ」のだろうか・1,のだ・4,「宇宙の仲間を求めて」ので

   す・5,「覚えることとわすれること」のでしょうか・1,のです・4。

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六年上 「太陽のめぐみ」のだろうか・1,のだ・3,「オゾンがこわれる」のだろうか・

   1,のである・10,「長屋王木簡の発見」のである・7

六年下 「外来語と日本文化」のである・6,のであった・1,「『わたし』とはだれか」

   のだろう(疑問形)・3,のだろう・1,のである・7,のだった・1

 以上の調査結果は予想を越える事実を伝えている。rのだ」文を含まない説明的文章 は,1年上の「じどう車くらべ」のみと言うことになる。教科書の説明的文章とは「の

だ」文なのだ。

 次は「説明書き」(世間でいう説明文),言語事項に関する解説文についての調査で ある。ここでは五,六年の教科書に絞って掲げた。

五年前 「朗読をしよう」のだろう1,一ユ,「あやまりやすい漢字j

   ナシ,「仮名つかい」ナシ

五年下 「複合語」ナシ,「漢字の読み方と使い方」ナシ,「敬語」ナシ,「漢字の成り    立ち」ナシ

六年上 「言葉の使い方」ナシ,「漢字三字以上の熟語の成り立ち」ナシ,「送り仮名」

   ナシ

六年下 「よく見る言葉よく聞く言葉」ナシ,「仮名の由来」ナシ,「同じ訓をもつ漢字」

   ナシ.「敬語の使い方」ナシ,「漢字の形と意味」ナシ

 五年上に2箇所の例外が認められるが,言語事項の解説記事(「説明書き」)は原則と して非「のだ」文系と捉えて誤りないであろう。これは例えば高校の日本史や生物そ の他の教科書の文章と共通する(中学校の理科では冒頭部に読者である生徒への呼び かけ「のでしょうか」等の疑問・推量形が散見する)。一般に内容教科の教科書の文章 は非「のだ」文系である。

四,新聞の「のだ」文

 「のだ」文の特質に迫る前に,一般記事文の他に社説・読者の声・料理の作り方・解 説記事・随筆・小説とさまざまな傾向の文章を含有する新聞で同様な調査を行った*5。

はじめに第一面を対象に,旧記事ごとに漢数字で通し番号を振り,その各々に文番号 を付して文末形を列挙した。その帯広告は除外した。

第一面

一1決めた,2安くなる,3決めた,4見込みだ,5三十六万円,6なっていた,7な   る,8下げる,9する,IO上げられる,11見送られる,12なっている,13減らす,

  !4認めない,15した,16決めた,17する,18認める,19広げる,20する,21   狙い,22する,23認める,24上げる,25加える,26する,27予定だ,

二 1行われる,2いる,3した,4される,5そうだ,6した,7した,8した,9いな   い,10ない,Uした,12ない,13示した,14述べた,15いる,16なる,17必   至だ

三 1した,2いう,3いる,4いる,5した

四1した,2示した,3示した,4した,5表した,6示した,7した 五1通る,2速い,3続く,4いる,5せいだろう

六 1所収,2ある,3する,4始めた,5始めた

七1いる,2ものだ,3始まる,4チャオズだ,5近い,6囲まった,7一般的だ,8作

(5)

  る,9いる,10らしい,11した,12ある,13そうだ,14あるまい,15遠くない,

  16する,17多い,18競う,19いる,20いた,21使う,22近い,23仲間だ,24   悪くない

八1した,2争い,3広げた,4及ばなかった 九1ない,2語った,3ものだ

 以上のように,第一面には一〜九の文章が掲載されているが,「のだ」文は一例も見

出せない。

 同様の方法で第二面以下の「のだ」文の有無を調査した。ここには「のだ」文の有 無と含有数のみを掲げた。()内は「のだ」文を持つ文章の内容である。

第二面 1(社説),第三面 ナシ,第四面 ナシ,第五面 1(「声」欄),第六面 ナ

シ,f「 七面 1←般記 文),第八面 ナシ,第九面 ナシ,第十面 ナシ,志下:二直L

1(名入り記 ),第十二面 ナシ,第十三面 ナシ,第十四面ナシ,篁土五面_L(署 名入り記 ),第十六面 ナシ,第十七面 ナシ,第十八面 ナシ,第十九面 ナシ,第 二十面 ナシ,f「■Et二十一面 4(名入り記 2,小説2),第二十二面 ナシ,第二十 三面 ナシ,第二十四面 ナシ,第二十五面 ナシ,第二十六面 ナシ,第二十七面

ナシ,第二十八面 ナシ,第二十九面 ナシ,第三十面 ナシ,第三十一面 ナシ,第 三十二面 ナシ

 「のだ」文は第二〜第三十二面の間に9例を見出すに過ぎない。そのうち第五面の1 例,第七面の1例,第十一面の1例,第十五面の1例,第二十一面の4例は筆者名(作 者名)を掲げる文章であることに注意したい。第2面の1例の社説も新聞社の意見表明 で,署名入りに準じて考えることが出来る。そうすると例外は第七面の1例である。こ れは記事内容は省略するが,事柄を叙する一般記事のように見えながら「こんな職種

も現れた」という事実を伝えるのでなく事柄の珍しさを強調する文になっていて,一 般記事文としては異質と言えよう。新聞に「のだ」文が少ないのは,無署名の一般記 事文を中心に紙面を構成しているからと考えられる。新聞の署名入り記事に「のだ」文 があり無署名記事に「のだ」文がないことと,「のだ」文を頻出させる教科書の説明的 文章が筆者名を掲げ,また「のだ」文を含まない言語事項の解説文が無署名であるこ

ととは軌を一にし,「のだ」文の性格を考える手掛かりを提供することになろう。

五,「のだ」文の性格

 新聞の一般記事文(記述文)や教科書の言語事項の解説文が排除してきた「のだ」文 とはいかなる性格のものか。品詞論的には「のだ」の「の」を,「のもの」「もの」「こ と」の意を表す準体助詞とするようだが,

 自治体から辞令を受けて働くこともあるのだ。(新聞第七面の例外)

のように,述語部に現れる「の」までも準体助詞とするのは無理とする論者も多く,議 論に決着がついていない。本稿は「のだ」あるいは「の」の本質を国語学的に究明し ようとするのではなく,説明文における「のだ」文の性格・機能・効果を考えようと するものであるから,その範囲内で国語学上の成果も参照させて頂くことにする。

 まず国語学高小矢野哲夫のrrのだ』をめぐる諸問題」(r島田勇雄古希記念・ことば の論文集』所収)に目を通してみよう。この論文は先行学説を丁寧に紹介していて,「の だ」文研究の現状を知るには便利である。

 まず統語論としては,「のだ」の直前までの文が解説になっている,とする。先の新

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聞の例で説明してみると,

 「自治体から辞令を受けて働くこともある」の(こと)だ。

 「」内が解説である。その解説項が「の」で統括され,その上で「だ」によって断 定される,という分析である。つまり,「の」によって統括された解説部分が文末の「だ」

「に違いない」「ね」「か」「らしい」などによってそれぞれ断定,念押し,疑問,推定 の意味を付け加えるのが「のだ」文である。

 連文論の観点からは,次の2例を検討している

①(A)彼は長年住みなれたアパートを去年の暮に引っ越した。(B)彼は家を建て  たのだ。

②(A)大風がこの村をなめていたのだ。(B)家がこなごなにつぶされていた。

 (C)畑の作物もことごとく吹き払われていた。

 ①の(A)と(B),②の(A)と(B)(C)が「意味的に関係を持っている」ことを 指摘し,「のだ」を含む文が「それに先行または後続する文を統括する関係」にある,

とする。統語論では「のだ」三内の説明に終わっているが,連文論ではその統括作用 が当該「のだ」文を越えて及んでいることを明らかにしている。状況によっては,文 の形をとらない話し手の眼前の環境を承けて,「〜のだ」となることも当然あろう。こ の連文論の方が「のだ」文の特質を言い当てていて,利用価値が高い。

 国語教育は言語の教育を標榜しながら,「のだ」文によって統括される意味的まとま り,野村真木子の言う「連文域」(小矢野論文に拠る)の追求を等閑視してきたきらい

がある。

 一・方,作家の側も「のだ」文には当然ながら注意を払ってきた。児童文学者奥田継 夫の意見を聞こう。奥田は「児童文学が文学になるとき」(叢書児童文学第4巻r子供 が生きる』所収)で,児童文学に頻出する「のだ」文に過剰な教育者意識を見ている。

そのたぬき先生が,子どものむしばかんじゃに,てがみをだしたのです。(寺村輝

夫『たぬきせんせい大じっけん』)。

これに触れ,奥田は次のように述べている。

作者は読者に先んじて,(手紙を)だしたことを知っている。その先生がだした ことは大変なできごとなんだぞと,知っている。それを伝えようとする。その意図 は分かる。しかし,こちらにわかるのはそのことよりむしろ,読者に先んじて作者 が知っているという作者のイヤミのほうだ。

 換言すれば「のだ」文は,これから述べようとすることを,作者が読者に先んじて 大変な出来事なんだと知っていて,それを伝えようとする文体,ということになろう。

「読者に先んじて作者が知っている」とは,作者には既知だが読者にはその情報が未知 であることを意味する。こうした「のだ」文の持つ特性は,統語論でなく連文論のな かで解明されるものであろう。

 作家井上やすしの意見も聞いてみよう。rTのだ』文なのだ」(『私家版日本語文法』)

で井上は,かつての作家は「のだ」文を「処女のごとくつつましやか」に使用したと してその名手の名を掲げながら,最近の若者雑誌の「のだ」文の横行を批判している。

この頭ごなしの押しつけ,強調,「これは疑問の余地がありませんよ。事態は明ら

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かなのですよ」という説明。これが「のだ」文の正体であると思われる.

 この「のだ」文に対する印象は,奥田継夫と不思議なほど一致している。「これは疑 問の余地がありませんよ」とは「作者が読者に先んじて大変な出来事なのだと知って い」ることに他ならず,「イヤミ」は「頭ごなしの押しつけ」に通じる。

 さて,「イヤミ」や「頭ごなしの押しつけ」はどこから来るか。これを準体助詞「の」

と断定の「だ」の間に求めるのは無理で,「のだ」文を取り巻く連文域の間の問題とし て分析しなければなるまい。レトリックの次元での究明が必要である。「イヤミ・押し つけ」感をもたらす「のだ」文の特質は,通常の記述文に戻してみると見えてくる。r事 実や出来事を出来るだけ正確に伝えようとする文章」「書き手の主観ができるだけ排除

される」のが記述文(松村明r国語表現法』)である。

 先掲①②の「のだ」文を記述文に言い直してみる。

①「のだ」文 (A)彼は長年住みなれたアパートを去年の暮に引っ越した。(B)彼    は家を建てたのだ。

 記述文 彼は家を建て,長年住みなれたアパートを去年の暮に引っ越した。

 「事実や出来事を出来るだけ正確に伝えようとする文章」「書き手の主観ができるだ け排除される」記述文では(A)(B)2文を1文にまとめた形になる。本来1文で言う べきところを(A)(B)2文に分割して表現し,(B)では読者には未知の情報を強調

して解説している。解説部(B)をより効果的に提示する役割を「のだ」文が負ってい る。「書き手の主観」を強調してこの間の筆者の意識を解説すると,

  彼が長年住みなれたアパートは,読者にとっても既知のこと。彼がそこを引っ越す   なんて考えられないことだろう。それが引っ越したのだ(新情報)。その理由を私   は知っている。読者は知らないだろうから教えると,(B)彼は家を建てたのだ。

こんな書き手の意識の流れが想像出来る。「のだ」文は,解説・説明部(B)を印象深 く言うためのレトリックである。筆者が既に知っていることを,いささか出し惜しみ して,手柄顔に伝え,大事なことだから覚えておくように念を押す。そこにイヤミが 生じてもおかしくない。奥田の言葉を借りれば,作者が読者に先んじてそれが大変な

ことなんだと知っている,それを教えてやるのだという言い方になる。

②「のだ」文(A)大風がこの村をなめていたのだ。(B)家がこなごなにつぶされ    ていた。(C)畑の作物もことごとく吹き払われていた。

 記述文 大風がこの村をなめていて,家がこなごなにつぶされ,畑の作物もことご    とく吹き払われていた。

 「のだ」文では(B)と(C)という眼前の事象から(A)の「大風がこの村をなめて いたのだ。」という筆者の判断が,ある感慨をもって想起され強調されている。「のだ」

文によって「書き手の主観」が色濃く流れ込む仕掛けになっている。

 小学校「国語」教科書の「のだ」文についても③④として同様の検討を加えて見る。

特にレトリックの観点からの筆者の意識の再現に中心を置いた。まず「のだ」文を提 示し,それに筆者の主観的な意識を〔〕で補った心理補足文(本稿での造語)を掲げ,

記述文に戻すことをした。

③「のだ」文 (A)これ(挿し絵)はらくだのあしです。(B)あしのうらが,ひろ

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  がっています。(C)らくだはさばくをあるきます。(D)それで,あしが,す   なにしずまないようになっているのです。(一年上「らくだのあし」)

心理補足文 (A)これはラクダの足です。(B)足の裏が,広がっています。〔なぜ   広がっているか読者は分からないと思うから,私は知っているので説明すると〕

  (C)ラクダは砂漠を歩きます。(D)それで,足が,砂に沈まないようになつ   ているのです。〔分かりましたね。〕(読みやすくするため表記を変えた)。

記述文 これはラクダの足です。ラクダは砂漠を歩くので,足が砂に沈まないよう   に,足の裏が広がっています。

④「のだ」文 (A)ライオンの赤ちゃんは,じぶんではあるくことができません。

   (B)よそへいくときは,おかあさんに口にくわえてはこんでもらうのです。

 心理補足文 (A)ライオンの赤ちゃんは,自分では歩くことが出来ません。〔よそ    へ行くときはどうするか,読者は知らないだろうから教えてあげると〕,(B)

   よそへ行くときは,お母さんに口にくわえて運んでもらうのです。〔わかりま

   したね〕。

 記述文 ライオンの赤ちゃんは,自分で歩くことが出来ないので,よそへ行くとき    は,お母さんに口にくわえて運んでもらいます。

 「のだ」文→心理補足文→記述文と転換してみると,「のだ」文の性格が浮き出して くる。「書き手の主観」,書き手の顔が表に現れ出るのが「のだ」文である。r事実や出 来事を出来るだけ正確に伝えようとする文章」をつづる中で,ここぞという場面で筆 者が読者の前に顔を見せる。知識豊富な筆者が新しい情報なり解釈なりを読者に「大 変なことなんだ」と提示する,そんな得意の場面で「のだ」文が現れる。このとき,本 来の記述文の順序を入れ替えて「のだj文のセンテンスが強調される。rのだj文は感 性的感化力を持つ。だから,新聞の一般記事文のように,筆者の主張なり個性的解釈 を排斥する文では歓迎されない。「のだ」文は「筆者」という個性的存在をまって初め て可能な文章である。筆者名を直接掲げない他の内容教科の教科書は,非「のだ」文 系である(理科教科書などでは冒頭部分に「のだろうか」といった読者の関心を惹く ための疑問・推量形の「のだ」文はある)。かつては「のだ」文を「処女のごとくつつ ましやか」に使用した(井上やすし)というが,やはり「のだ」文が多くなると「イ ヤミ」「押しつけ」の感を免れ得ない。先掲の六年上・「オゾンはこわれる」のである ユーQ,「長屋王木簡の発見」のである7,は多い。筆者の情熱は理解できても,空回りす

ると,イヤミになる。知って欲しい,教えようとする情熱は教師臭にもつながる。

六,説明的文章の指導

 「説明的文章は,読者の立場から見た場合は,説明されている対象(または情報)に ついての新しい知識を得て,思考の深化に資するものである」とは,先掲・渋谷孝の 言である。その新しい情報は,読者の既知の知識を手掛かりに,読者の納得を求めな がら論理的形式を踏んで提供される。「読者の納得を求めながら」とは,既にレトリッ クの世界である。rのだ」文という筆者のレトリカルな手法にも導かれながら,新しい 情報は知と情において摂取され「思考の深化に資する」。記述文が知的理解にとどまる のに対して「のだ」文は知の感動的摂取を可能にする。

 説明的文章をどう読むべきか,どう読ませるべきか。rのだ」文の背後には,読者に

心を傾けて語る筆者の熱意がある。語るのでなく,語り掛ける文章と言ってもよい。一

文一文が読者の反応・納得を求めながら,読者との対話のうちに論を展開していく。だ

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から当然のことながら,文章構造も筆者(生産者)と読者(消費者)とを包み込んだ システムの中で考えなければならなくなる。読者(消費者)は単なる消費者ではなく,

近年の農産物の流通機構で言えば,生産者と消費者が直接手を結ぶ産地直送のそれで ある。消費者が絶えず生産者に反応を送り返すシステムがそこには構築されている。

 「のだ」文はレトリックだと言ったが,それを支えるのは納得を求める論理,説得す る論理である。昔こんな授業を参観したことがある。r一枚の地図から」(同一「国語」

堀淳一)を生徒が指名読みでどんどん読んでいた。

 二万五千分の一地形図の「佐沼」と「米谷」を眺めてみよう。

 ここは北上川の下流一帯に開けた,一面の水田地帯だ。水田の記号がどこまでも 規則正しく並んで,耕地整理がすっかりすんだ,見渡すかぎり整然としたたんぼが

目に浮力㌧ぶ。

 生徒はここをすらすらと読む。文章には資料として地形図が添えられている。筆者 はそれを「眺めてみよう」と指示しているのに,生徒は誰も眺めない。上手な音読の 速度は,眺める余裕すら与えない。そしてすぐに次のような文に移っていく。

 もっと細かく図を見よう。円い水路は畑中の東の方では二重になっているが,こ の二重の水路が描くカーブは,川の流れを思わせる。そうだ。ここは川のあとなの ではないか?

 「もっと細かく図を見よう」と読んでも,誰も「もっと細かく」見ようとする者はい ない。だから「そうだ。ここは川のあとなのではないか?」という,筆者の発見の心 の鼓動を聞くことはない。実際,地図からこうした推量の根拠となった「二重の水路 が描くカーブ」を見つけだすには,一寸時間がかかる。しかしどんどん読んでいく(ど

ちらにしても,そう書いてあるのだから,そうであるに違いない。「もっと細かく」見 るなど時間の無駄である。テストのときなど傍線部の前後を見れば分かるのだから。)

これでは通読は成立しない。古い言葉で言えば素読である。読み手が筆者との対話を 介して通読を成立させるには,立ち止まり,後戻りも可能な黙読による独り読みが必 要である。この間に読む力が育まれ,説明的文章に対する関心も高まる。(指名読みが 通読でなく素読であるという自覚があれば,それはそれで意味ある学習である)。説明 的文章の音読・朗読は重要であるが,それは通読成立後の学習の中間段階や完成段階 でなされるべきではないか。(物語・小説の類は,イメージが動き出せば音読の速度で

通読が成立するものが多い)。

 説明的文章の価値は,そこに展開される情報の新しさに負うところが多い。難波博 孝の紹介する*6テクスト言語学のボウグランドBeaugrandeの論を借りて,この間の問 題を考えてみる。それによると,情報には3つのレベルがある,という。一つは内容予 測の可能性が非常に高く,読者から見て自明のこと〔11〕,次はテクストの連続性維持 にはさして困難は与えす,しかも新しい情報を伝えているもの(1、〕,三番目はテクス

トのもつ情報なり表現が読者の理解を超えるようなもの〔13〕である(〔1〕インフォメー ションの略)。さて〔11〕では,筆者と読者の共通理解,両者ともに既知のことがらが 取り上げられる。まず両者の共通理解を出発点として説明的文章は書き出されること が多い。r春になると,たんぽぽの黄色いきれいな花が咲きます」(小二「たんぽぽの

ちえ」)という冒頭の一文には,情報としての何の新しさもない。〔11〕である。誰でも

知っていること,誰からも異論の出ない既知のことがらから話を始めるという意味で,

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〔11〕でありながらレトリック上の意味を持っている。

二,三日たつと,その花はしぼんで,だんだん黒っぽい色にかわっていきます。そ うして,たんぽぽの花のじくは,ぐったりと地面にたおれてしまいます。

 ここには未知の情報が提供されている。〔1、〕である。なお読み続けると,倒れた「花 のじく」は,種が成熟するのを待って再び起きあがり,ぐんぐん伸びて綿毛を飛ばす。

なんとも驚くべき情報が伝えられる。「だんだん黒っぽい色にかわっていきます」「花 のじくは,ぐったりと地面にたおれてしまいます」なども,新情報として受け止めら れるが,理解にそれほどの困難はない。即ち〔1、〕である。説明的文章は〔1、〕のレベ ルで文を組み立て,話を進めていく。しかし筆者には〔1、〕であっても,児童には〔13〕

になる場合も多い。ここでもし教師が,どんなところが面白かったですか,どんなこ とが新しく分かりましたかと問うと,予想に反して「だんだん黒っぽい色にかわって いきます」を挙げる児童が多いことを知らされる。それは筆者にとって〔1、〕だったも のが,児童は「黒っぽい色」の「ぽい」という接尾語が理解出来ないために「黒」の 一種と誤解した,そのための驚きと考えられる。確かに黄色いたんぽぽの花が黒に変 じたらショックであろう。逆にまた,ある期間倒れていた花のじくが種の成熟をまっ て再度起きあがり,じくを伸ばして綿毛を飛ばす。この場面にさして驚きを示さない 児童がいる。それも決して少ない数ではない*7。これも分析していくと,「花のじく」を

「花のがく(薯)」と誤解していることに気付く。挿し絵には倒れた「花のじく」が添 えられているが,外側に開いた薯もはっきり見える。それにしても「花のじく」とは 何だろうか。一般の植物図鑑の類に「花のじく(軸)」という用語は見出せない。「花 軸」という専門用語も聞かない。一般には「花茎」である。ここが「花のくき(茎)」

であったら,これほどの誤解はなかったかも知れない。しかしながら教室では,こう したことが問題になることはほとんどない。通読でなく素読の段階から内容の分析や 構成の問題に入るからである。国語教育が言語の教育に徹するためには,「黒っぽい」

や「花のじく」の抱える問題を教師側が指導内容として意識し,教えるのでなく学習 課題として解決させるべきである。指導でなく支援とはそういうことであろう。

 情報は〔1、〕レベルばかりではない。筆者はわざと〔1,〕の文を提示して緊張感を強 いることもある。その緊張感を持続し読み進むうちに,その意味に気付く。〔1,〕が〔1

、〕に降格する時である。そしてその情報は印象鮮明に読者の胸に残る。これがレトリ ックである。教師は〔13〕がどこで,どのような思考回路を経て〔1、〕に降格するか,知 っておく必要がある。そうでなければ支援は出来ない。また筆者が〔1、〕として提示し た文でも,児童にとって〔13〕となることがある。それは「黒っぽい」や「花のじく」

で述べたところである。

 筆者は予想される読者と対話をしながら,課題を論理的に追求し,一貫した説明を もって話を終結する。通読とは,意味的一貫性を保ちながら最後まで読み通すことで ある。あるいは通読の学習のなかで,一貫性をたどる論理の糸が切れてしまうことも 当然起こる。重要なのはその自覚である。無自覚なペラペラ読みは,読むことと意味 をたどることとの乖離を助長する。かといって解釈学的細部の読みを求めるのではな い。論理的一貫性を確保するために避けられない箇所があるとすれば,その解決のた めに話し合いの場を提供し,計画的な支援をしなければならない,ということである。

論理の糸が切れたと自覚したとき,立ち止まって考え,あるときは後戻りをして糸を つなぐ努力をする。これが自然な読みである。

 「のだ」文系説明文(説明的文章)は筆者との問答によって読みが進行する。読者は

己をむなしうするのでなく,筆者の言語刺激に豊かに反応することが求められている。

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こうした読み手主体が確立した読みでは,一つの説明的文章を通読すれば,読み手の 心は「現地」へと向かい,同様の文章を読みたいと思い,また筆者との新しい対話が 始まる。総合単元に道を開く読み方でもある。

 説明的文章はその論の展開形式がしばしば作文の構成に利用される。まず課題を立 て,具体的事例を集め,そこから結論を導き出す,といった形式のものである。しか し多くの説明的文章は論の展開が複雑で,そのままでは児童生徒の利用には不向きな ものが多い。そこで出来るだけ単純化し,書き換えたりして作文のモデルにする。し かしそれは,時にはイヤミとなり,頭ごなしの押しつけともなるような「のだ」文で ある。つまり筆者の側に教師性が強く潜んでいる文体である。よく知っている者が,知

らないものへ,理解を求めて語り掛ける文章である。児童の作文の場合,書き手と読 み手の間に,そのような知的落差はない。むしろ対等の関係にある場合が多い。であ れば,同じ地図言語でも記録的文章,報告的文章,説明書き的段階の文章にまず習熟 させる必要があろう。発達段階の過程で「のだ」文が作文に現れる頃が,「のだ」文系 説明文の作文への応用の時期であろうか。

結び

 「のだ」文系説明文(説明的文章)は感動的に新情報を伝達するためのレトリックを 駆使する。その感動を文学的文章と区別するために知的感動と呼んでもよい。知的感 動性を高める授業をどう設計するか。説明的文章重視の今日の国語教育界にあっては,

より重要な課題となろう。それにはまず,国語教科書の説明的文章が「のだ」文系だ という認識を持つことが大切である,と考える。そうすれば説明的文章の指導にも新 しい地平が開けるはずである。

1,国語学会議・東京堂出版・昭和55年忌。

2,国語教育研究所編・明治図書・昭和63年刊。

3,r思考と行動の言語』第二版,大久保忠利訳。岩波現代叢書,昭和40年刊。

4,光村「国語」(平成4年度用教科書)。

5,平成6年2月7日「朝日新聞」朝刊(いささか資料が古いのは昔の調査をそのまま

使用しているためである)。

6,難波博孝「テクストとしての説明的文章の教材分析」(全国大学国語教育学会編r国

語科教育』第三十六集)。

7,石崎千恵子・内地留学の報告書(平成4年度前期)による。

付記 本稿は拙稿「教科書説明文の文体について一rのだ』文の窓から覗いてみれば一]

  (r茨城大学大学院教育研究科国語教育専修研究集録集』平成8年7月)を承け,そ

  れを発展させたものである。

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