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(1)

論 説

19世紀半ばオスマン帝国政府の

正教徒統治政策

正教会総主教座法 ( )

の成立過程に関する考察から

吉 田 達 矢

19世紀半ばのオスマン帝国政府 (以下, 帝国政府) は, ヨーロッパ 諸国が非ムスリムとの関係を強め, 帝国内に経済的・政治的に進出 するなかで, 司法や行政など多くの分野における非ムスリムの処遇 に苦慮していた。 1850年代半ばには, クリミア戦争 (1853〜56年) においてオスマン帝国を支援した代償として, イギリスやフランス などが非ムスリムへの改革を進展させるように迫っていた。 このよ うな状況において, 帝国政府は1856年2月18日に改革勅令 (

)(1)を公布する。 改革勅令では, ムスリムと非ムスリムの平 等原則が明確に示され, さらには高位聖職者の特権や権限が再確認 されると同時に, 各ミッレト( ) (以下, 共同体)(2)首長の選出方 法の改革, 聖職者の定額俸給化(3), 共同体運営への俗信徒の参加 など, 非ムスリム共同体の運営体制に関係する改革事案が提示され た。 そして, その延長線上に, 各非ムスリム共同体(正教徒 ( )(4), アルメニア教会信徒, ユダヤ教徒) それぞれの運営体制全般を規定し た所謂ミッレト憲法が1860年代前半に成立した(5)。 ミッレト憲法 はこれまで, 帝国政府による非ムスリムの統治体制, 所謂ミッレト (6)の存在や実体を考察するうえで重要な規定として位置づけら れてきた。 このようにミッレト憲法は第一に, 帝国政府による非ム スリム統治体制の所産として生み出されたものである。

一方, ミレット憲法は, 各非ムスリム共同体の当時の状況を反映

(2)

したものでもあった。 各非ムスリム共同体は19世紀にはそれぞれ新 しい状況に直面していた。 たとえば最大規模であった正教徒共同体 の場合, ギリシア人やロシア人などによる帝国外部からの干渉, 教 会が徴収する税をめぐる聖職者と俗信徒の対立, イスタンブル在住 の俗信徒の台頭, ブルガリア教会独立運動などの問題が存在してい た。 さらには, ほかの非ムスリム共同体と同様にイスタンブルへの 集権化(7)も進行していた。 そして, 新たな状況への対応として, 高位聖職者が占有していたそれまでの共同体運営の改革, とくに共 同体運営への俗信徒の参加が暫定的に実施されていった(8)。 この ような共同体の運営体制に関する改革は, ほかの非ムスリム共同体 でも19世紀前半に行われ(9), その内容は, 1860年代前半に成立す る各ミッレト憲法に盛り込まれた。 このうち, 正教徒共同体に関す る運営体制の規定として成立したものが, 通称 「正教会総主教座法 ( ) (以下, 総主教座法) であった。 総主教座法 は, 19世紀半ば以降の正教徒共同体の運営体制を規定しただけでな く, 当時の共同体内の権力構造を明文化している(10)。 本稿では, この総主教座法の成立過程を検証していく。

Ⅰ. 総主教座法成立と帝国政府の関与

以上のように, ミッレト憲法は 「帝国政府の非ムスリム政策の一 環としての規定」 という側面と, 「各共同体の運営体制や権力構造 を明文化した憲法 (内規)」 という側面をもっていた。 ミッレト憲 法を考察する際には, 双方の観点から, また互いに関連させて考察 する必要があるが, 少なくとも総主教座法に関する従来の研究では, 後者の観点からの考察に力点がおかれ(11), 前者, すなわち, その 成立において帝国政府が果たした役割はあまり重視されてこなかっ た。 その結果, ヨーロッパ各国からの圧力により19世紀の非ムスリ ム政策は実施された, あるいは, 正教徒共同体より提出された総主 教座法草案を帝国政府はほぼ追認したかのように, 帝国政府の役割 は 「受け身」 もしくは 「消極的な」 ものと位置づけられてきたよう に思われる。 しかし, 当時の帝国政府は帝国の存続のために多方面

(3)

にわたる改革を実施しており, その一環として, 1840年代後半より 共同体運営への一部の俗信徒の参加を支持していた(12)。 総主教座 法の成立に果たした帝国政府の役割は再検討される必要がある。 正 教徒共同体の運営体制の法制化 (総主教座法の成立) はほかの非ムス リム共同体よりも優先されたことから(13), 総主教座法成立への帝 国政府の政策に関する考察は, 19世紀半ばにおける帝国政府の非ム スリム政策を明らかにするうえでも重要と思われる。

実際, 総主教座法への帝国政府の対応を概観すると, 改革勅令の 公布後, 改革に抵抗する聖職者の排除を命令するなど, 帝国政府が 総主教座法草案の作成過程に介入したことは既に明らかになってい (14)。 また, イスタンブル総主教座(以下, 総主教座) 内で組織され, 1858〜60年にかけて草案を作成した臨時特別会議 (

) の構成員やその任務に関する規定 ( , 全16条)(15)(以 下, 1857年規定) の第15条では, 総主教座法を構成する各規定 (後述) の草稿は帝国政府に上奏された後, タンズィマート高等評議会で精 査され, 総主教座法を帝国法として成立させることが決定された。

このように帝国政府の関与は明らかだが, 総主教座法を構成した各 規定の草案が1860〜62年のあいだに順次, 帝国政府によって承認さ れていった過程はこれまで殆ど考察されてこなかった。 すなわち, 正教徒側より提出された草案に対して帝国政府はどのように対応し たのか, という問題が残されている。 この問題を論じた研究は皆無 ではないが, たとえば, 佐原氏は, 各ミッレト憲法の草案が帝国政 府の修正を経て成立したと述べているものの, 具体的な修正箇所に ついては言及していない(16)。 またスタマトプロスは, 共同体の首 長であるイスタンブル総主教 (以下, 総主教) 選出に関する規定の 第1章第8条に帝国政府による修正があったことを述べるにとどまっ ている(17)。 実際には, 草案全120条のうち88条において帝国政府側 からの修正, あるいは修正案が挙げられているので(表参照), 総主 教座法各条文の成立に帝国政府の意向が大きくかかわっていたこと は明らかである。

以上をふまえて, 本稿では, 総主教座法の成立過程において, 帝

(4)

国政府側では草案のどの部分を注視し, どのような改変をしたのか, という問題を考察する。 具体的には, 総主教座法を構成した各規定 (下記①〜⑧) について, それぞれの草案とその修正も踏まえつつ, アフメト・ジェヴデト・エフェンディ (以下, ジェヴデト) など4人の官僚を構成員とする特別委員会 (

)(18)による報告書 ( ) や, それらを審議した閣僚会議 ( ) など諸機関(19)の見解が記されている大宰相 の上奏など, 各オスマン公文書(20)に記されている政府高官たちの 見解を比較, 検討し, その意図をさぐる(21)

総主教座法を構成していた各規定と, それぞれの修正箇所は次の ようであった (以下の番号①〜⑧は便宜上のもの。 また各規定にある年月 日は君主によって認可された日付)

①総主教選出に関する規定 (1章:総主教選出までの手順 (① 1), 2章:総主教位に適任で, 選出される者の資質 (① 2), 3章:総主教 選出のために組織される総会の成員について (① 3)) (1860年7月10 日)

②主教位に適任の聖職者に必要な資質とその選出方法に関する規 (1861年2月12日)

③シノド(22)の構成員とその構成に関する規定 (1861年2月25日)

④総主教とシノドの関係に関する規定 (1861年2月25日)

⑤常設聖俗混合会議 ( ) (以下, 聖俗混合会議) の構成に関する規定(1861年8月7日)

⑥聖俗混合会議の構成員の職務に関する規定 (1861年8月7日)

⑦総主教と総主教に属する全主教の俸給に関する規定 (1862年2 月28日)

⑧修道院の様々な手当に関する規定 (1862年2月28日)

以下では, 上記①・②を 「高位聖職者に関する規定」, 上記③・

④を 「シノドに関する規定」, 上記⑤・⑥を 「聖俗混合会議に関す る規定」, 上記⑦・⑧を 「聖職者の俸給と修道院の手当に関する規 定」 とにまとめ, 順番に検討していく。

(5)

Ⅱ. 高位聖職者に関する規定

本章では, 総主教と主教 ( ) に関する規定の草案に関する 特別委員会の意見書や, 閣僚会議の見解が記されている大宰相の上 奏などの内容を考察する。

表:総主教座法草案の修正箇所※1

草案での条文

修正されてい る条文

修正されてい ない条文

刊行テキスト

※ 2で の 条 文

構成

上記① 1 13 1, 2, 6〜9, 11, 13

3〜5, 10, 12 13

① 2 3 3 1, 2 3

① 3 3 2, 3 1 3

上記② 14 1, 2, 6〜8, 10, 13

3〜5, 9, 11, 12, 14

14

上記③ 12 1, 2, 4, 6, 8, 9, 11, 12

3, 5, 7, 10 12

上記④ 21 1, 2, 3〜5, 7, 8, 10〜12, 14, 18, 19〜

21

6, 9, 13, 15

〜17

21

上記⑤ 16 1, 2, 4〜13, 16※3

3, 14, 15 15

上記⑥ 17 1〜17※4 16

上記⑦ 13 1〜4, 6〜8, 10〜13

5, 9 13

上記⑧ 8 2, 3, 5〜8 1, 4 8

合計 120 88 32 118

※1:条文以外にも, 草案と刊行テキストとのあいだでは異なる箇所が あるが, それらについては割愛した。 各テキストの相違については, 吉田2012を参照。

※2: 2 902 937

※3:16条は全文削除されている。

※4:16条は全文削除されて, 刊行テキストでは17条が16条になってい る。

(6)

(1) 総主教選出に関する規定

総主教選出に関する規定 (全3章, 上記① 1〜3) が成立するまで の経緯は次のようである。 1860年7月1日に総主教キリロス7世が 辞任したため, 直ちに後任を選出することになった。 その際, 旧来 の選出方法では差し障りがあるとされ, 急遽, 総主教座法草案のう ち, 総主教の選出手順や就任者の資格に関する箇所(23)のみが審議 された (1860年7月上旬)。 この時には特別委員会は組織されておら (24), 該当箇所の審議は大臣たちのあいだ ( ) で行わ れた。 その審議に関する大宰相の上奏(25)では, 草案が改変された ことは記されているものの, いかなる理由で, どの箇所がどのよう に改変されたのかまでは記されていない。 このため, 本節では草案 と修正箇所を挙げ, 大臣たちの見解を検討する。

第1章について。 総主教代理 ( ) の選出手順に関する 第1条の草案は全文修正されている。 草案では府主教 ( ) が総主教代理の選出に主導的な役割を果たすように記されていたの に対して, 修正では府主教12人で構成されるシノドと, 俗信徒も構 成員になっている聖俗混合会議は同等とされている。 つまり, 草案 は, 府主教を中心に総主教代理を選出する慣習を明文化しようとす るものであったが, 大臣たちは聖職者と俗信徒が協力して総主教代 理を選出するように修正した。 ただし実際には, シノドの定員数は 12人であり, 聖俗混合会議も聖職者 (主教) が構成員12人中4人を 占めるように定められたため, 両会議が合同すると24人中16人が聖 職者となる。 つまり, 聖職者の意向が総主教代理の選出に大きな影 響を与えることに変化はなかった。 ここから, 大臣らによる第1条 修正の意図は, 聖職者と俗信徒の合同体制の明文化にあったことが わかる。 さらに同条では, 総主教代理の任命に際しては, 帝国政府 への報告と大宰相令 ( ) が必要であることが追記されてい る。 草案第7条の内容は総主教最終候補者3人の選出方法であった が, 全文修正されて, 帝国政府に提出される, 候補者として選出さ れた府主教の名を記した帳簿 ( ) の記載手順に変更された。 第 8条は総主教選出の際に帝国政府が不適任とみなした者を候補から

(7)

外すことを明記しており, 第9条も総主教選出への帝国政府の関与 に関する内容である。 第8・9条はほかの修正と同様に赤字で記さ れており, 帝国政府の手がはいっていると思われる(26)。 新総主教 の就任手続きに関する第13条の草案と修正の違いについては, 別稿 にて検討した(27)。 それを要約すると, 新総主教が就任手続きの一 環として君主の御前に赴く儀礼は草案には記されていなかったが, 修正において新総主教に選出された者は君主の御前に赴くように追 加された。 つまり, 新総主教の君主への拝謁という儀礼は帝国政府 側の意向であり, 総主教が君主の臣下であることを再確認する目的 があったと思われる。

第2章について。 主に総主教の職務について記している第3条の みが全文修正されている。 その草案と修正を比較すると, たとえば,

「[総主教の職務として] 不服従な者たちを自発的に ( ) き, 矯正させること」 という部分は削除された一方で, 「[総主教は 帝国政府より授与される] 認可状に明記されている事柄を実施する こと」 や, 「少なくとも父親の代より ( ) オスマ ン帝国臣民であることは必須である」 などが追加されている。

第3章について。 第3条末尾の, 「[総主教の] 選出権はオスマン 帝国臣民だけに限られたものである (

)」 は大臣らによる修正によって追加された 箇所であった。

(2) 主教位に適任の聖職者に必要な資質と

その選出方法に関する規定

本節では, 表題の規定に関する特別委員会の報告書(28)と, それ を踏まえた閣僚会議の審議内容を記した大宰相の上奏(29) を検討し, 帝国政府側では草案のどの部分に着目していたのかをみてみたい。

また, 草案とその修正も随時参照する。

特別委員会はまず, 主教に任命される者の条件として第1条に記 されている 「オスマン帝国臣民 ( ) であること」

という文言について, 臣民籍問題 ( ) は重大な事柄

(8)

であると指摘したうえで, 総主教座において俗信徒が務める最も重 要な役職であったロゴフェト ( )(30)の意見 (「主教は父祖代々の ( ) オスマン帝国臣民であること」)(31)を有益とみなして, 上 記の条件を 「出生より ( ) オスマン帝国臣民であり, 国家や 共同体に対して汚点がないこと」 と修正した。 この修正から, ギリ シア人やロシア人聖職者の帝国領内での活動に対する警戒や, 同時 期にたびたび起きていた帝国臣民の国籍変更に伴う混乱(32)も考慮 しながら総主教座法各条文が審議されていたと推測される。 また,

「国家や共同体に対して汚点がない」 という資格を追加した背景に は, 同時期にブルガリア系正教徒からギリシア系聖職者に対する不 平が噴出していた事態(33)も考慮する必要があるだろう。 第8条の 草案では, 俗信徒が主教に対して世俗的な事柄 ( ) に属する訴えを起こした場合, 調査や裁判は聖俗混合会議で行われ, それに関する報告書はシノドに提出される, と記されていた。 これ に対し特別委員会は, 世俗的な事柄はシノドが取り扱うものではな いとして, 報告書は帝国政府に提出するように修正した。 このほか, 死去した主教の遺産分割についての第10条には, 遺産分割の際には 土地やワクフに関する諸規定 ( ) に違反 しない, という条件が補足として追記されている。

これらの特別委員会による修正に対し, 閣僚会議は, それを適切 として承認している。 ただし, 閣僚会議は第8条に関して, 府主教 や主教の罪 ( ) が殺人 ( ) の類である場合, 被告となる 聖職者は位階から排除された後, 刑法 ( ) に従って罰せられるように追記している。

(3) 小結

以上をまとめると, 総主教や主教に関する規定に対して帝国政府 側が注視した点は, 高位聖職者は出生よりオスマン帝国臣民である という条件, 総主教選出過程への帝国政府の関与とその明文化, 世 俗的な事柄に関与できないようにシノドの管轄範囲を限定すること, 帝国諸法の適用範囲の明記などであった。

(9)

Ⅲ. シノドに関する規定

シノドの構成員とその構成に関する規定と, 総主教とシノドの関 係に関する規定は同時に, それぞれ特別委員会と閣僚会議において 審議された。 本章においても, 特別委員会の報告書(34)と, 閣僚会 議での審議結果が記されている大宰相の上奏(35)を検討する。

(1) シノドの構成員とその構成に関する規定

特別委員会は, 第1条の草案末尾に記されていた, 「総主教や主 教位の者は, 必要に応じて地方の名望家 ( ) と共同 して, 信徒全般の問題や [正教徒] 特有の案件 (

) の調整に注意すること」 という 箇所を削除した。 その理由を, 「全帝国臣民の統治に関係する問題

( ) は帝国政府の管轄に属する

ため」 としている。 また, 特別委員会は第2条に対しては, 「イス タンブルと管区を往来した府主教の名を記した台帳は, 総主教座か ら随時, 帝国政府に提出されて, その者の様子は [帝国政府に] 報 告される」 という文言を追加した。 さらに特別委員会は, シノドの 構成員で, 任期終了後もイスタンブルにとどまる府主教の処置に関 する第9条にも, その者の状況は帝国政府に報告される旨を付け加 えた。

次に総主教の辞任に関する第12条について, 特別委員会の報告書 は次のように記している。

「… 総主教の交代が必要とされて, [総主教の] 辞任を要求す るために, シノドと聖俗混合会議の構成員が状況を帝国政府に 上奏する [草案では] 記されていた。 この条文に追記とし て, この2つの意見書 ( ) [=草案] の下部にロゴフェトの 意見, [すなわち] 総主教辞任の件では, 府主教と, 聖俗混合 会議の構成員であるロゴフェト位にある者や共同体の名士 ( ) が合意することが必要である と記されて いるが, 共同体の名士[という用語] [文書破損により一語不明]

(10)

不明瞭であり非限定的( ) である。 一方, 総主教の選出に関しては, 俗信徒のなかからまずロゴフェト, 総主教座の [ロゴフェト以外の] 2人の事務官 ( ), 官等 を保持する者たち ( ) や, その他の取り 決められている者たちの何人かが合意する条件であった。 [そ れとの関連で] これ [=総主教の辞任] [かかわることができる俗 信徒の範囲について] 困難がもたらされることが想定されるため, この第12条を[草案] そのままにするのか, あるいは, [ロゴフェ トによって] 追記として記された前述の意見に従って改定する のかは大宰相閣下のお考えによります…」

ここで問題となっているのは, 総主教の辞任に対する俗信徒のか かわり方であった。 草案では, 俗信徒の参加を認めつつも, 聖職者 が主導的な役割を果たすように記されていた。 一方, ロゴフェトの 意見は自身の参加の明記に加えて, 聖俗混合会議の構成員以外の俗 信徒も参加できる余地を残すものであった。 ロゴフェトの意図は共 同体運営への俗信徒参加の一環として, それまで聖職者の管轄とさ れていた総主教人事への俗信徒の影響力の伸張であったと思われる。

これに対して特別委員会は, ロゴフェトの意見にある 「共同体の名 士」 という言葉の曖昧さを懸念し, 総主教選出の手続きも踏まえて, 総主教の辞任にかかわることができる俗信徒の範囲に関する判断は 上位機関である閣僚会議に委ねた。

これらの特別委員会の見解に関して, 閣僚会議は, 第1条草案に あった上述の文言の削除を指示し, 第2・9条の追記はそのままに している。 第12条については草案の保持 ( ) を示している(36) その理由は, 総主教の辞任は俗信徒があまり関与すべきでない事柄, すなわち聖職者がその処理の主体となる宗教的な事柄と考えていた ためであろう。

(2) 総主教とシノドの関係に関する規定

特別委員会の報告書では, 第11条の修正のみ言及されている。 そ の第11条草案においては, 告発されて, 解任された府主教の在所は

(11)

総主教とシノドが指定すると記されていた。 これに対して特別委員 会は, 府主教の罪が刑事罰 ( ) に属するものであ る場合は, その者の在所は帝国政府が干渉すべき事柄であるので, 帝国政府と総主教座のあいだで連絡がとられて指定される, という ように条文を修正している。

閣僚会議の見解は, 第11条に関する特別委員会の修正を承認して いる。 ほかの修正箇所については言及がないものの, 第1条にのみ,

「総主教座内で設立される印刷所によって刊行される宗教関連以外 の書籍や小冊子に関しては, 法 [=1858年に公布された出版条例] 従って, 公教育省に報告されて審議される」 という一文を追記して いる。

(3) 小結

以上のように, シノドに関する2つの規定においても, 帝国政府 は高位聖職者に関する規定と同様に, 帝国諸法の適用範囲の明記, 府主教の動向への帝国政府の監督強化を重視していた。 さらに, 総 主教の辞任に関与できる俗信徒の範囲に関する対応からは, 俗信徒 が主にかかわることができる事柄 (世俗的な事柄) と, シノドや聖 職者が管轄の主体となる事柄 (宗教的な事柄) とを明確に区分しよ うとしていたこともうかがえる。

Ⅳ. 聖俗混合会議に関する規定

本章では, 主教4人と俗信徒代表8人から構成される聖俗混合会 議に関する2つの規定についての帝国政府各機関の見解を検討する。

(1) 聖俗混合会議の構成に関する規定

第4・8条の草案に記されている, 「聖俗混合会議の構成員とな る俗信徒は, イスタンブルやその周辺の住民である」 という文言に 関して, 特別委員会の見解は報告書(37)において次のように記され ていた。

「現在, 各州・県・郡の評議会 ( ) はすべて都市や町の住

(12)

民で構成されているので, 前述の [総主教座で組織される聖俗 混合] 会議の構成員もイスタンブルとその周辺の住民であるこ とは有効な方法であるとしても, 前述の意見書 [=草案] は, 臨時特別会議において賛成多数 ( ) で可決されたが, 満場一致 ( ) で決定したのではなかった。 特に正教に 属するキリスト教徒たちのなかで大きな分派 ( ) であるブ ルガリア系正教徒の代表者たち ( ) は, この [件に関する] 臨時特別会議における議論の際に [この条文 に反対して, 会議から] 離脱した。 前述の [総主教座で組織される 聖俗混合] 会議は全正教徒の統轄に関する案件についての協議 や調整が任務であるので, これ [=聖俗混合会議] において, ア ナトリアとエーゲ海諸島からそれぞれ1人ずつ, ルメリ [=バ ルカン] の住人から2人 [の代表者] の選出などのように条文の 変更が必要であるが, この問題の重要性に鑑み, [草案の] この 条文を否認, あるいは, 承認するのかは大臣たちの審議によっ て決定される事柄であるので, この2つの条文 [=第4, 8条]

の見解に関して修正, あるいは臨時特別会議において賛成多数 で決められたことに留意して, この状態を保持するのかは, 大 宰相閣下のお考え次第です…」

以上を整理すると, 草案は, 総主教座で組織される聖俗混合会議は イスタンブルとその近隣の住民代表によって構成されるという内容 であった。 しかし, 特別委員会は, その聖俗混合会議は全正教徒の 問題を協議する機関として, その構成員は帝国各地の代表者も加わ るべきであるという見解を示し, 重要問題としてこの条文を修正す るかどうかの選択を大宰相などに委ねた。 このような特別委員会の 見解の背景には, 特別委員会の構成員であるジェヴデトが総主教座 からのブルガリア系正教徒の離反を帝国の重要問題のひとつとみな していたこと(38)や, 各 「民族 ( )」 の平等の遵守などを嘆願す るブルガリア系正教徒からの陳情 ( )(39)が同時期にあったこ とも考慮しなければならない。

次に, 第13条は汚職 ( )への対応に関するものであっ

(13)

た。 草案の内容を要約すると, 汚職をした聖俗混合会議の構成員へ の訴訟が起きた場合, その者は聖俗混合会議で裁かれ, 聖俗混合会 議より排除されて, 取得した金の倍額を共同体の公庫に支払わなけ ればならない, と記されていた。 それに対して, 特別委員会は 「汚 職をした者の裁判や処罰は帝国政府 [の管轄] に属する事柄なので, 汚職をした者が主教の場合は, 報告書は帝国政府に提出されて, 主 教に関する法規の第8条にしたがって [必要な] 手続きがとられる。

[汚職をした者が] 俗信徒の場合は, 刑法( )

に従って裁判が行われ, 判決されて, 状況は帝国政府に報告される」

というように修正している。 つまり, 草案では, 汚職については聖 職者・俗信徒の区別なく共同体内で処置を行うとされていたのに対 し, 特別委員会の修正により, 主教の場合は主教に関する規定の第 8条に, 俗信徒の場合は1858年に制定された刑法によってほかの帝 国臣民と同様の処置がとられるようにされた。

草案の第16条には, 「前述の会議[=総主教座で組織される聖俗混合 会議] の通達に従って, 各州で組織される共同体の聖俗混合会議は, 案件をその地の主教を介して総主教に上奏し, 総主教はまた必要な 書類を [各州の] 聖俗混合会議の長に送付し, 案件の処理を委託す る」(40), と書かれていた。 このように草案では各州における聖俗混 合会議の設置が想定されていたが, 特別委員会はこの条文を削除し た。 その理由を要約すると, イスタンブルの聖俗混合会議と比べて, 地方の現状を鑑みた場合, 地方での聖俗混合会議は悪用 (

) される可能性があるため, と報告書において記している。 ほか の理由としては, 帝国の新たな地方行政システム (各州・県・郡で設 立されていたムスリムと非ムスリム混合の地方評議会) のなかに正教徒 を組み込む意図もあったと考えられる。

これらの草案に対する修正案は, 閣僚会議ではなく, 特別協議会 ( ) が審議した。 その特別協議会の見解(41) は, 特別委員会の修正を適切としている。 しかし実際には, 第4・

8条の草案に記されていた 「総主教座で組織される聖俗混合会議の 構成員となる俗信徒はイスタンブルやその周辺の住民である」 を特

(14)

別協議会が修正した形跡はない。 つまり, 第4・8条に関する特別 委員会の見解は採用されず, 草案どおりに正文化された。

(2) 聖俗混合会議の構成員の職務に関する規定

前節で挙げた報告書において, 表題の規定の草案に関する特別委 員会の見解も記されている。 聖俗混合会議の管轄範囲についての第 3条については, 「[草案では] 聖職者が扱う案件以外の共同体の事 柄や問題は聖俗混合会議で調整するとしており, 聖職者が扱う案件 が区別されて, 帝国政府の諸権限に属する案件を除外していること に異論はない。 しかしながら, 臨時 [特別] 会議の任務を含んだ [1857年] 規定 [の第12条] では, [聖俗混合会議が扱う案件は] 聖職者 が扱う案件や, 陛下の諸権限に抵触しないことが記されていること から, この条文を [1857年] 規定に従って修正した」, という見解に 基づいて, 「ワクフや土地, 行政に関わる案件の場合は政府の関係 機関で審議される」 という文言を草案に加えている。 第8条では,

「学校の公庫に属する事務手数料 ( ) の一覧は, 前述 の会議 [=聖俗混合会議] で整理されて, 帝国政府に提出される」 と いう文言が追加された。 第11条の草案に記されている 「遺産関係あ るいは宗教的な事柄ではない, キリスト教徒のあいだで起きる係争 や訴えは聖俗混合会議で調整される」 という箇所について, 特別委 員会は, 「それは1857年規定に適合しておらず, 改革勅令において も, 2人のキリスト教徒のあいだでの相続権のような特定案件の訴 訟は, 原告の請願により総主教座に委託されて, 聖俗混合会議にお いて調査や調整することが有効であると記されている」 として, そ のように改訂している。 第16条の草案に記されている, 移動許可証 ( ) と通達 ( ) は聖俗混合会議の管理下にある という内容について, 特別委員会は, 非ムスリムの通達は以前は総 主教座より発行されていたとしても, ムスリムが証書を得る手続き と同様に非ムスリムの通達もそれぞれの地の聖職者( ), 村長 ( ), 同職組合の長 ( ) より発行されること などを指摘している。 さらに, そのような通達の発行手続きに総主

(15)

教が反対し, 通達は総主教座より発行されるべきである, と記した 総主教座からの上申 ( ) がタンズィマート高等評議会で審議さ れて, この条項は削除が適切とされたとも, 報告書では記されてい る。

この規定に関する特別協議会の見解は, 上記の特別委員会の修正 を適切としつつも, 用語の改変 (第4条) や, 遺書 ( ) 関する第12条についてはキリスト教徒の遺産に関する詔勅 ( ) に依って修正することなどを指摘している。

さらに, それぞれの文書には記されていないが, 聖俗混合会議の 構成員となる俗信徒の資格に関する条文 (聖俗混合会議の構成に関す る規定の第8条) において, 「出生より ( )」 という単語が付け 加えられている。 また, 慈善施設や共同体の学校 ( ) などを管理する者は 「オスマン帝国臣民であること」 という条件が 聖俗混合会議の構成員の職務に関する規定の第5条に追記されてい る。 この背景には, 1840年代より発生していた正教徒の学校におけ るギリシア人教師の問題(42)や, 同時代のバルカンにおけるロシア やセルビアから派遣された学校教師の問題(43)があったと思われる。

(3) 小結

聖俗混合会議に関する2つの規定について, 帝国政府側が注視し た点としては, 総主教座で組織される聖職混合会議の共同体運営に おける役割に加えて, 既述の諸規定と同様に, 聖俗混合会議・聖職 者・帝国政府それぞれが管轄する範囲の区分, 聖職者への監督強化, 共同体運営を担う者はオスマン帝国臣民であることであった。 ただ し, 上記の聖俗混合会議の位置づけに関しては, 特別委員会とその 修正案を審議した特別協議会では見解が異なっていた。 特別委員会 は, 総主教座で組織される聖俗混合会議を全正教徒の統轄にかかわ る案件の協議機関とみなして, イスタンブル在住以外の正教徒の存 在も考慮した, 正教徒各勢力のバランスを重視する共同体の運営を 構想していたと推察される。 一方, 特別協議会は, 聖俗混合会議の 構成に関する規定の草案の作成過程において, ブルガリア系正教徒

(16)

の反対があったことは認識していたにもかかわらず, 草案に修正を 加えなかった。 その理由は, 総主教座が存在し, 多大な影響力と財 力を有する新ファナリオットと呼ばれる新興層や銀行家が拠点とし ている, イスタンブルへの権限の集中という共同体の運営体制を支 持していたためと考えられる。

Ⅴ. 聖職者の俸給と修道院の手当に関する規定

(1) 総主教と総主教に属する全主教の俸給に関する規定 報告書(44)に記されている, 表題の規定の草案についての特別委 員会の見解としては, 総主教と主教のために徴収される約640万ク ルシュと, 総主教座の歳出として計上されている116万クルシュ(45) は過多であること, 各主教の俸給額が異なっている点などを指摘し ている。 さらに, 総主教の俸給額は臨時特別会議において満場一致 で決定されたかのように草案では記されているが, 草案作成の際に 臨時特別会議の構成員の多くの者たちが反対して署名を拒絶したこ とから, この決定は賛成多数であり満場一致ではないので, そのよ うな俸給額の配分は改変が必要であるとも報告書には記されている。

次に第6・7・9条も修正されており, それらはいずれも聖職者の 収入をおさえ, 俗信徒に配慮したものであった。 第13条は, ロゴフェ ト位の定額俸給化とともに, ロシア派として知られていたニコラオ

ス・アリスタルヒス ( , , 1799

1866) (以下, ニコラオス) に, 1830年代よりほぼ保持していたロゴ フェト位の辞職を促すものであった。 特別委員会は, この条文につ いて, ロゴフェトの職務が聖俗混合会議とシノドの仲介であること や, ロゴフェトが昔から存続する職位であることに留意して, 条文 を変更するかどうかの決定を大臣たちに託している。

このほか, 報告書には記されていない修正箇所として, 第8条の 草案では主教の在所で発行される書類の手数料を10クルシュとして いるが, それを5〜10クルシュと直している。

(17)

(2) 修道院に関する様々な手当に関する規定

前節の報告書に記されている, この法規に関する特別委員会の見 解としては以下のようであった。 まず荒廃している修道院の名を利 用して, その修道院の収入を得ている修道院長 ( ) という肩 書の廃止を記している第5条については, 草案の書き方は無職で浮 浪する聖職者や修道院長が出現する余地を残し, 様々な不都合を引 き起こすことになるので, この条文は改正し, 無職の聖職者が野放 しにならないように注意する旨を総主教座に指示するべきである, と指摘している。 次に, 第7条のアトス ( ) 修道院の総主教 座からの自立が認められている件に関しても, 重要な事柄なので, 閣僚会議においても審議されるように報告書で記している。

(3) 特別協議会の見解

両規定の草案に対する修正案と特別委員会の見解は, 閣僚会議で はなく, 特別協議会で審議された。 その内容を記す大宰相の上奏(46) では, これまで府主教には定額俸給が与えられていなかったことが 臣民の苦難の要因となっていたので, 草案に記されている聖職者の 定額俸給化は適切であると記されている。 また, 草案の修正は必要 ではなく, 特別委員会が指摘した各条文は, 後の編纂を大宰相令に よって総主教座に委託すると書かれている。

(4) 小結

高位聖職者の俸給と修道院の手当に関する2つの規定に対して, 各聖職者の俸給額や各収入の上限, 俗信徒の負担の軽減を特別委員 会は重視していた。 一方, 特別協議会は, 特別委員会による修正は 必要ではなく, 各条文の編纂は総主教座に任せている。 そして, 刊 行テキストでは, 上記の修正は殆ど活かされていない。 つまり, 特 別協議会は, 聖職者の定額俸給化を重視しており各俸給額は帝国政 府の管轄ではないこと, 修道院の管理も帝国政府の管轄ではないと 認識していたといえる。

(18)

Ⅵ. 総主教座法成立と帝国政府

本稿では, 総主教座法の成立過程において, 帝国政府側では草案 のどの部分に着目し, どのような改変をしたのか, という問題を考 察した。 その結果として, 正教徒共同体と帝国政府それぞれの総主 教座法への見解は次のようにまとめることができる。

草案を作成した正教徒側の意向としては, 改革勅令で示された事 案に留意しつつも, 総主教座法とはあくまで共同体の運営体制に関 する規定 (内規) であり, そこにはオスマン帝国臣民という自らの 立場や, 帝国政府の役割はあまり考慮されていなかった。 これに対 して帝国政府側は, 改革勅令で明記した事案に加えて帝国内の諸問 題も考慮し, 草案の様々な箇所に修正を加えた, あるいは修正案を 示した。 そして, 非ムスリムを統治するための枠組みである共同体 の管轄範囲を確定するための帝国法として, 総主教座法を成立させ た。 すなわち, 正教徒と帝国政府それぞれの総主教座法に対する認 識は異なっていたのであり, 両者の見解が 「融合」 して成立したも のが総主教座法であった。 さらには, 帝国政府は様々な問題を抱え る正教徒共同体への統治を強化するための 「手段」 として総主教座 法を位置づけて, その条文の成立に 「積極的に」 関与したといえる だろう。 そして, 総主教座法の草案に対して, 帝国政府側が重要視 し, 特に点検したのは以下の諸点であった。

①共同体運営を担う聖職者や俗信徒は 「(出生より) オスマン帝国臣 民である」 という条件の徹底。

②総主教のみならず, 府主教や主教も含めた高位聖職者の動向への 監督強化。

③共同体内における各機関の管轄範囲の明確化とともに, 帝国政府 の権限が及ぶ範囲も明文化。

①については, 総主教選出に携わる者, 主教位に就く聖職者, 聖 俗混合会議の構成員, 慈善施設や学校運営に携わる者の資格などに 関する5箇所の修正を確認した。 このような臣民籍法制化は, 共同 体運営への外部からの干渉や共同体分裂への対策という要素が強い

(19)

と思われる。 これはおそらく②とも連動していた。 そして, 明示は されていないものの, とくにロシアに対する帝国政府の警戒がうか がえる。 ロシア派の中心人物とされていたニコラオスにロゴフェト 位の辞任を促す条文の草案を, 大臣たちがそのまま承認した要因の ひとつもこれに起因すると思われる。 実際, 総主教座法にはそのよ うな政策意図があったことは先行研究でも指摘されており(47), 同 時期に行われた新総主教の人選の際にもロシアへの警戒心が示され ていた(48)

③に関しては, シノドや聖職者の管轄は宗教的な事柄に限定し, そのほかの共同体内の事柄や問題は聖俗混合会議の管轄とするとと もに, それら以外の事案は帝国政府の権限 (帝国法) に属すること を成文化して, 正教徒にも帝国法が適用されることを徹底させよう としていた意図があったといえる。 また, 1857年規定が随時参照さ れ, 刑法, 土地法, ワクフや出版などに関する規定の適用が多くの 条文で明記されているが, これは1857年規定や, 土地法など同時代 に制定された多くの法規の作成に携わった(49)ジェヴデトの意向が 総主教座法各条文の成立にも強く反映されたことを示しているだろ う。

以上のような政府高官の共通する政策方針があった一方で, 特別 委員会の官僚たちと大臣らとの間には見解の相違も存在していた。

たとえば, 特別委員会の官僚たちは, 各規定草案の採決方法 (満場 一致か賛成多数か) を重視しており, 総主教座法は共同体の総意とし て成立することを望んでいた。 一方, 大臣たちは, 総主教の辞任に かかわることができる俗信徒の範囲に関しては, 特別委員会やロゴ フェトの見解を却下し, 草案をそのまま採用している。 つまり, 改 革勅令に記された事案や聖職者の管理強化などに反しないかぎりは, 草案がどのような手順で決まったにせよ, 共同体内で採択されたと いう事実に配慮していたといえる。 このような政府高官それぞれの 意向の相違が何に起因するのかを特定するのは困難であるが, 一因 として, 彼らと高位聖職者や俗信徒有力者との関係が背景にあった と推測される。 この背景の解明は今後の課題としたい。

(20)

以上, 総主教座法成立の経緯を検討してきたが, その過程は, 本 来, より大きな問題群のなかで考察されるべき課題である。 まず, 国際関係とのかかわりである。 総主教座法各条文の審議へのヨーロッ パ諸国の関与を示す文言は本稿で検討した各文書においてはみられ ず, 上記のような帝国政府側の意向にどの程度ヨーロッパ諸国がか かわったのかは今後の課題としたい。 ただし, 正教徒共同体の改革 の方向性が定まった1857年以降, ヨーロッパ諸国 (イギリス, フラン ス, オーストリア) の大使たちは共同体の運営組織や権力構造への介 入をしなくなった, というフェアリの指摘(50)を考慮すると, 彼ら は帝国政府諸機関での審議にあからさまな干渉はしなかったかもし れない。 同時期の国際情勢を踏まえると, ヨーロッパ諸国はダマス クスやレバノンでの紛争の処理を優先したとも考えられる。

また, 他の共同体との関係のなかで検討していくことも不可欠で ある。 本稿の考察結果を踏まえて, 各ミッレト憲法の関係について 付言しておこう。 まず1863年におけるアルメニア・ミッレト憲法の 帝国政府側での審議においても上記のジェヴデトがかかわってお (51), 総主教座法の成立が少なくともアルメニア・ミッレト憲法 の審議にも影響を与えたと思われる。 各条文に関しては, 「(出生よ り) オスマン帝国臣民である」 という文言は, 各共同体の首長の就 任条件のひとつとして, 1857年に帝国政府に提出されたアルメニア・

ミッレト憲法第一草案において既に同様のものがみられ(52), 各ミッ レト憲法の刊行テキストにおいても類似の表現がみられる(53)。 し かし, 共同体運営を担う者の条件としては徹底されていないようで ある。 帝国政府の役割に関しても, 総主教座法に比べて, ほかのミッ レト憲法では言及が少ない。 これらのことから, 帝国政府は各ミッ レト憲法およびそれらの草案を相互に参照しつつ, 各共同体の状況 を考慮してそれぞれのミッレト憲法を成立させていったといえる。

それはつまり, 非ムスリム共同体のなかで, 正教徒共同体が分裂に 繋がりうる問題を最も多く抱えており対処が必要である, と帝国政

(21)

府は認識して, アルメニア・ミッレト憲法第一草案の承認よりも総 主教座法の成立を優先させたと推察される。 実際, 1860年4月にブ ルガリア教会の独立が宣言されたことに対して, 帝国政府は正教徒 共同体の分裂には反対する姿勢を示した(54)。 いずれにせよ, 各ミッ レト憲法は互いに関連していたのであり, それぞれが無関係に個別 に成立したわけではないといえる。 今後は, 各ミッレト憲法への帝 国政府の政策を明らかにしたうえで, 時系列的な観点からも各ミッ レト憲法の成立過程を考察する必要があるだろう。

史料略号

首相府オスマン文書館 ( ) 所蔵

(1) 改革勅令の全文は, 539 (25 1272 1856年3月3 日), 1 2 1, [ ], 1289 (1872 73), 7 14などに所 収されている。 以下では, ヒジュラ暦の月名を第一月より, , , , ,

, , , , , , , と略記する。

(2) (ミッレト) は文脈によって様々な意味で使用されることに加 えて, オスマン帝国の非ムスリムに関する宗教・宗派ごとの統轄の枠組 みをどう訳すかは今後も検討していく必要がある課題であるが, 本稿で は先行研究にしたがって共同体とした。

(3) 改革勅令に聖職者の定額俸給化が盛り込まれたのは, 顕在化してい た上納金を巡る教区民と聖職者の対立を, 国家統合を脅かす危険をはら むものとして, 帝国政府が認識していたことが指摘されている (佐原徹 哉 近代バルカン都市社会史:多元主義空間における宗教とエスニシティ 刀水書房, 2003 (以下, 佐原2003), 149)。

(4) 本稿における正教徒とは, オスマン帝国臣民のなかで正教を信仰し, イスタンブル総主教を頂点とした正教会組織の管轄下にあった者たちの

参照

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