プロメー一テウス対オルペウス(2)
一一 ?Iなものの再定義のために礪一一
i はじめに
iiプraメー・・…一・テウス対オルペウス
iiiファシズムと美(以上前号)
iv方法に関するメモ ー客観主義と解釈学の統合にむけて一(本号)
V 美 一一ユートピアか商晶か一
iv 方法に関するメモ ー客観主義と解釈学の統合にむけて一 この節のタイトル自体が,まず説明を必要とするkぐいのものである。
たとえば,「客観主義jの意味内容はしばらく措いておくにしても,それ と雷葉のうえから対立するように思えるのは,「主観主義」であって,あ る対立関係を揚棄して総合へおもむこうとするならば,「客観主義と主観
の e の
主義の……」のほうがすわりが良いのではないか,といった疑間が読者か らすぐにも呈されることが予想される。(ちなみにf統合にむけて」とい う言い方は,本稿の実態からすればいささかカッコ良すぎるので,読者は このキャッチ・フレーズは無視されてもよい。)たしかに,書葉のうえから はそうなのだけれども,あらゆる学問的論議は具体的なコンテキストのう ちにあり,そこから離れては意味をなさないものでもある。この節でのわ たしの展開は,新カント派から現在にいfcるまでのドイッにおける学悶論 論争の一班に定位するものであり,これを具体的コンテキストとしてもっ ている。そうした場合このr客観主義VS解釈学」一本稿全体のタイト
ルをもじれば,プロメーテウス1ζ対するに今度はヘルメー.,.スということに なる一一は,きわめて鮮明な像をむすぶことになるのである。
a)客観主義
ではここで客観主義とはいったいなんなのかを,まずはっきりさせねば
ならないだろうaそれは,自己の学問的言明が事象と一致しており,ある
いは事象との一致によって実証されると考え,この言明自体を成立せしめ るトランスツェンデンタ 一一ルな,つまり超越論的,先験的枠組への反雀を 自らとざすような態度をさしている。これは学問の歴史からすれば,ヵン トの批判哲学以前の段階への退行を意味しているとしか雷えないものであ る。この態度からでてくるのは,自己の言明は客体のあり方,自らの対象 領域そのもののふるまいであり,研究者の主観どころか,いかなる特定の 個人や集団によっても,またいかなる特定の歴史的時点によっても染色さ れることのない認識であって,普遍的な妥当性を要求しうるものであると の e e する信仰である。具体的には数学的自然科学とりわけ物理学をng−一一の学問
のモデルとみなし,他の認識を学問的厳密さの点では失格の,二次的なも のとしてしか認めないところに客観主義の客観主義たるゆえんがあるので ある。クーンのパラダイム論をめぐる論争をへて,研究に際しての研究者 の共同体の規約(convention)のプリオリテート,つまり客体領域の構成 に先立つ間主体性の重要性などが顕彰されている今日,科学論・科学史の 前線でこの素朴な客観主義がそのま窪維持されているとも思えないが,制 度的に営まれている学問の研究者のなかでは,こうした態度,事前理解
(Vorverstljndnis)としての客観主義がいまだに強固に存在しているとわ たしはみている。このことをわたしに意識化させたのは,60年代後半の例 の大学闘争の暗期であったように想う。わたしのいた学部では,69年の5 月ごろから一年近くにわたって授業がバリケード封鎖によってストップし た。この制度の側からみれば空白の蒔期こそ,いわば忽然と出現した現象 学的エポケーとして,大学での学問を成り立たせている普段は視えてこな い枠組そのものを浮上させたのであった。大学が制度として機能を停止し たことが,この機能を顕在化させるきっかけを,それも不思議な解放感と ともにわたしにあたえたのであった。それでは,その枠組ないし機能とは なにか,ということだが,まず第一に大学は社会過程の一一・ixとして,社会 的労働の一分肢として存立していること,より適切に雷うならば,大学は その時々の社会的労働の水準と傾向とによってつねに先立たれているこ
と,そして第二に,にもかかわらず学問の客観主義的自己了解が支配的で あるとすれば,そこから必然化される認識(理論)と価値(実践)の分断 によって,研究者はこの社会過程を,自らを成立せしめ,自らその一端を 担うこの社会過程を自覚せずに,没価値的に膚らをもっぱら真理の牧人と 思いこみ体制への奉仕を真理への奉仕として自己を欺舗していること,で
ある。もちろん積極的に体制奉仕的に動く研究港も多いし,外から決断主
22(215)
義的要素を密輸入して自らの理論の実践的有効性を主張する研究者も多い t わけであるが,かれらにしたところが,自らの理論的言明を客観的真理で あると雷いたてざるをえないわけだから,連中に別のカテゴリーを用意し てやる必要もないであろう。まさしく,客観主義が決断主義を分泌するの だからである。「自然は服従することによってのみ征服される」という近 代的学問の生成期をかざるベー.N.一.コンのプログラムの前段のみを自立化させ り り ることによって招来される病理1馬このようなものである。征服するとい う自然支配の動機,それは社会的労働として具体化されているわけである e ゆ が,この動機がすでに服従(真理への奉仕)に先行しており,服従をなり
たたせる地平なのである。だから,この動機とそれが具体化されている社 会への反省を学問がこばむとき,学問の自律はまったくの他律へと頽落し ているのである。こうした客観主義の問題性を,はじめて体系的にあきら かにしたのは,おそらくホルクハイマーの『伝統的理論と批判的理論』
(1937)であろう。ホルクハイマーが伝統的理論の名の下に理解している 事柄は,本稿で客観主義として提起している問題圏とかさなるので,以下 o>
ホルクハイマーにそって伝統的理論の性格描写を行なっておこう。
ホルクハイマーは,デカルトとベーコンをつなぐ線で定礎された近代的 な学問概念(澱伝統的理論)一一現在それが党派的に主張されるとすれば,
科学主義(Szientivismus)という名称がふさわしい一を,おおむね二 点にわたって特徴づけている。すなわち,伝統的理論とは,まず第一に
「いくつかの命題から他のすべての命題が導き出されるような仕方でたが いに結合された,一つの事象領域についての諸命題の総体」であり,思考 作業の成果として擶結するもろもろのr結論とくらべて最高原理の数がす
くなければすくないほど,その理論は完成度が高い」とされる。第二に
「その理論の現実的な妥当性は,導き出された諸命題と事実的な出来事と の一一致」にある。つまり「もし経験と理論とのあいだに予盾がでてくると すれば,理論か経験かのどちらかを訂正しなければならないJわけであ る。こうして,理論はこの一致を尺度にたえず検証され,修正されていく のである。いわば理論とは,事実をいっそうよく認識するために積み上げ (2)
られていく知識にほかならないPこのようにホルクハイマーはごくおおま かに伝統的理論をおさえるのであるが一その規定は現代のK・ポパーの 反証可能性理論にも及ぶと思われる一,もちろん前者は「内的に予盾を ふくまない演繹的命題体系」を学の理想としたデカルトと対応するわけだ
し,後者は「事実のよりいっそうの支配にむけて自然に尋問する実験的方
法」を提唱したベーコンと対応する。こうした学問概念が近代化の過程,
とりわけ脱魔術化の過程で圧倒的な威力を発揮して今日にいたっているこ こ e とは言うまでもないことである。しかし,この伝統的理論が,いわば方法
e e e e e e e e e e e e 9 e e e e e
の優位によって,いまや思者の作業を,実証的検証手段と完結した命題体
の
系という不変の本質形式のうちに閉鎖するかぎり,それは理性的批判とし ての根源性と普遍性をもちえないと,ホルクハイマーは断定するのであ
る。すなわち,
f現代における人間の自己認識は,しかしながら永遠のロゴスとしてあらわれる 数学的自然科学ではなくして,理性的状態への関心によってあまねく支配された,
(3)
現存社会の批判的理論である。」
この伝統的理論から批判的理論への転轍点となるのは,ホルクハイマー の e の
による主体概念の捉え返しである・伝統的理論の地平では,一定の一一理 論的厳密性の要請と対象の局部化は一体である一一一対象領域の経験を学者 個人が能動的に組織化するといった了解が一般的であり,データー(客体)
対理論構成(主体)というきれいさっぱりと分離された主・客図式のなか で,学者個人の主体性・輿律性がおおいに発揮されるという具合である。
だから,この主・客図式は《事実》対《知識》という場面でもっぱら稼動 するものと雷ってもよいだろう。ところが,こうした場合,問題となる一 定の対象領域が社会的に発生してくるものであることと,その理論が社会 的にどのような目的に服し、実際どのように利用されるのかということと が,雷いかえれば理論のインプットとアウトプットが地平外に追いやられ ることになる。学者個人が所与として受け取るデーター,事実がすでに社 会によって産出され,ある程度成型化されたものであるとすれば,その主 体性はおおいに制限されたものでしかないし,知識が社会のなかではたす 役割に研究主体が口をとざすとすれば,その自律性はむしろ無責任という べきものである。ここで科学が軍事科学や産業科学として社会的分業の一 過程に編入されればされるほど,飛躍的に成長してきたことについては,
もはや多言を弄する必要はないであろう。《事実》対《知識》の場面で能 動性と見えていたものが,《社会》対《個人》の場面ではじつは受動性な
のである。
この点について,ホルクハイマーはカントを引き合いにだして,説得力 のある議論を展開している。カントの理論哲学の体系において,感性が雑 多なデーターを受け入れる,もっぱら受動的な器官(Organ)として位置 づけられていることから,個人が社会にたいしもっぱら自己を受動的なも
24(213)
のとして経験しているといった事態が読み取られる。さらに能動的性格を もつとされる悟性がそもそも,アプリオリな性格ゆえにその本性はなかば 霧のかなたにある。戯画的なたとえで恐縮だが,悟性というレディ・メー
ドのオートメーション機械になんだか人間がこきつかわれているといった イメージがそこにはあるのである。下手な比喩はやめて,ホルクハイマー の醤葉に耳を傾けよう。
「社会的な活動性は先験的なカとして,すなわち精神を形づくる諸要素としてあ らわれる。先験的なカの働きが暗さにとりかこまれている,言いかえればあらゆる 合理性にもかかわらず非合哩であるとするカントの主張は,やはり真理の核心を欠 いてはいないのである。市民的経済様式は,競争する個人のあらゆる鋭敏さにもか かわらず,いかなる計画によっても支配されていないし,意識的に普遍的な目標に むけられているのでもない。……カント哲学の最高の諸概念,とくに先験的主観性 たる自我,純粋ないし根源的統覚,意識自体につきまとう内的な難解さは,かれの 思考の深さと誠実さを証言するものである。これらカント的概念の二重性格,一方 では最高の統一と目標志向をあらわしながら,他方では何か暗い,意識にのぼらな い,見透すことのできないものをあらわしているこの二重性格は,まさしく近代に おける人間の活動性の矛盾にみちた形式につきあたっている。社会における人間の (4
共働こそ,人間の理性が現実に存在する仕方である。」
かねてからなかなかの名文と思っているので長々と引用した。この文章 の背後に鳴っているのは, 「全体計画にしたがった全体意志による歴史」
(エンゲルス)を望み見るラディカリズムの肯定的トーンである。40年代 以降になるとしだいにそのトーンは弱まっていくのであるが,さて,上の 引用文で問題となっているカント哲学の先験的性格は,マルクスならば,
さしずめ端的に,データーもそれを認識する器宮もともに「世界史の労 作」であるとでも言いきっておしまいにするところだが,中ルクハイマー は,社会的地平における,ルカーチ的に言えば「総体性の観点」におけるこ のカント的自律の他律への転化,主体の客体への転化を洞察し,凝視しつ づけるところに批判的理論の成立をみるのである。すなわち,かれは「い (5)
まや社会そのものを対象とするような人間の態度がある」と語って,次の ごとき註を付している。
rこの態度を今後は《批判的》と呼ぶ。この言葉をここでは純粋理性の観念論的 批判の意味というよりは,経済学の弁証法的批判の意味で理解する。この言葉は社 (6)
会の弁証法的理論の本質的特性をあらわすものである。」
ヘーゲルがすでに観念論的衣装の下でではあるが,このかくされた真の 主体である社会を自らの哲学的思考が運動するエレメントとなしていた。
もちろん,絶対精神が解体され,それが社会であると明言されるには,へ
一ゲル左派とりわけマルクスをまたねばならなかった。しかし,マルクス が達成した経済学批判の水準をまたまた科学主義的に理解してしまうとす れば,カントからヘーゲルへと展開した思考の遺藍を,つまり反省の高度 化を無に帰してしまうことになるのだ。マルクスの経済学批判の眼目は,
ゆ ゆ e
経済学による批判として,あらゆる現象とりわけ観念論的に説かれていた 人間の高度な観念作用をもその社会的な物的基盤に準拠せしめることであ
ゆ の り り ゆ
り,同時に経済学にたいする批判として,それを通じて一個別科学として の経済学を成立せしめる事態そのものの改変をめざすことにあるeここで 取りだされる法則性は,その不変性によって事態を予測し,対象を支配す
るためにあるのではなくて,自覚化の運動を通じて,端的に廃棄すべきも のであるのだ。実定的な威力に対峠し,そこにひそむ「理性の狡智」とい う客体性の勝利を見抜き,乗り越えていく運動こそ,批判なのである。だ から,ホルクハイマーもまた,社会全体を対象とするような総合的な一一専 門科学(?)としての社会学のごときものを構想するわけではない。あく まで主体の客体への転化を否定的なバネとして,現存社会の規定された否 定(die bestimmte NegatiOn)そのものを生き抜こうとするのである。
一般にフランクフルト学派の入々が完結的な体系をきらってエッセイ形式 を尊重するのは,体系というものが往々にして,あらかじめ持えた理論構 成に事実的データーを配列するだけの主観的構成物に堕してしまうか,あ るいはあの演繹的命題体系という拘禁衣を着せられたまま,現実的生命力 を持ちえないはめに陥るからである。事柄への没頭と事柄への自由な距離
というアドルノ的要請を二つながら満たすものは,エッセイ形式を措いて ほかにないのかもしれない。己れを対象へと物化しつくしつつも,なおか つそこに孕まれてくる否定の光(ユートピア)を分光するのが,つまり主
・客の弁証法を発動させるのが,エッセイの本領である。 『歴史と階級意 ゆ ゆ 識』のなかでルカーチの主張する総体性の観点も蓑た,認識の範囲という の む よりは,固定された主・客を歴史的に流動化する認識の方法と理解すべき
(7
である。 「マルクス主義がブルジョア科学と決定的に区別される点は,歴 史の説明において経済的な動因の支配をみとめる点ではなく,総体性の観 (8)
点をもつことにおいてであるjとする,ルカーチが1921年書きしるした確 認は,30年代にあっては,ルカーチご本人ではなくて,ホルクハイマーた
ちの批判的理論によりよく妥当するものである。30年代において批判的理 論を旗印にしたフランクフルト社会研究所が打ち出したこうした根本動機
(本稿の文脈ではもっぱら客観主義批判という断面でのみ切り取られてい
26(211)
るにすぎないが),スn一ガン化すればラディカルな啓蒙の立場を,現在 第二世代にあたるバー一バマスが継承し,あらたに体系的な展開を試みてい る。以下ハーバマスの出している客観主義克服の暫定的な解決案,それも かねがね気になっている客観主義と解釈学の統合のモデルであるかれの精 神分析解釈の射程と有効性を中心に検討を行ないたいと思う。そのために
は,まず解釈学についての簡単な予備的考察が必要であろう。
b)解釈学
ドイツにおいては,だいたい薪カント派の時期に自然科学と精神科学と いう二分法が定着した。この二分法の成立にあたっては,その対象領域の ちがい以上に,むしろそれぞれがまったくことなる論理にしたがうもので あるという了解が一般的であった。たとえば,かたや《法則定立》に対し かたや《個性記述》といった具合である。新カント派の哲学者たちは,こ の精神科学に固有な論理を明確化しようと努力したのであった。『象徴形 式の哲学』を書いたエルンスト・カッシラーなどは,このグループのなか でも特異な才能と言うことができるだろう。しかしながら,精神科学の論 理の確立者としてディルタイを,それもとくにかれの解釈学の方法をあげ
ることに大方の異論はないものと考える。
ディルタイにとっても,その精神的な祖先はやはりジャンバッティスタ
・ヴィー一コであろう。ヴィーコは『新しい科学』 (Z725)のなかで,虜然 ばかりを相手にしているデカルト派の連中に不平をならして,「自然は神 がつくったのだから,神だけが認識できる。この世界こそ入間がつくった のだから,人聞に認識できるはずだ」と例の有名なテーゼを語るのであ る。デカルト的な,数学的・自然科学的世界像に対抗することによって,
それまでは自明性のうちにあった歴史的世界が発見,つまり対自化される わけである。この対戦で,デカルト的合理精神を啓蒙とみれば,ヴィーコ はさしあたって反啓蒙的な保守派を体現している。つまり,それまでは古 典文献一一聖書,法律,古典古代の文学的,哲学的諸作品など一によっ て,それらの発言の総体( ・; Autoritat)によって媒介されることで,共 同世界のなかでの実践の場が確保されていた。ところが,デカル5主義は それらのアウトリテートとそのさまざまな解釈がつくりあげてきた共同の 意味の世界,さらにその意味が沈澱してできた日常言語の領域に対して,
蓋然的価値しか認めようとせず,その世界を明証性の領域から排除しよう (9)
とするのである。こうしたデカルト主義における世界像の脱意味化が,伝
統破壊的に作用する性格をもつことは誉うまでもない。宗教的出自をもつ ニュ∴トン的世界像が,この宗教的世界像を破壊する。いわばこうした親 殺しは,合理化過程のいたるところに見つけることができるものである。
デカルト主義が伝来の迷蒙とともに,同時に実践の領域全体を押し流して しまいかねない点に危機意識をいだくヴィーコは,伝統に定位した実践を めずすフィロasギーを擁護するのである。
こうしたヴィーコの志向にディルタイもまたつらなることは,次の発言 からもあきらかであろう。
「わたし自身が一欄の歴史的葎在であり,歴史を研究するものと,歴更をつくる ae)
ものはma・一一Aである。」
ということは,通時的には,いつもすでにわれわれの前には過去からつ くられてきた歴史が存在しており,己れもまた歴史的につくられてきた存 在なのだということである。また共時的にも,精神科学的認識過程といえ
ども,いつもすでに前科学的な生活および世界了解から出発せざるをえず,
そこにその根をもっているということである。歴史的世界に定位するかぎ り,延長実体対思考実体などという,こぎれいな主・客分離は存立しえな いのである。そこでは,われわれの生活および世界は,自然科学が構成す
るような因果連関(BedingungSzusammenhang)ではなくして,有意義 性の連関(Bedeutungszusammenhang)としてわれわれに意識されるも
のである。人間はわからないことがあると不安になったり,強引に既知の 図式に押しこんだりするし,芸術や芸能の世界でナンセンスがおおいに意 の の の 味のあることになるのは,まさしくわれわれがなんらかの形で理解された
世界にいつもすでに生活していることの証左ではないだろうか。解釈学の 地平においては,個人の生活史も共同の歴史的世界もなんらかの意味構造 をもったものとしてあらわれる。もちろん,その性格上,それらは一定の 歴史的コンテキストの枠内でのみ理解されうるものであり,その理論化を めざす精神科学のもろもろのテーゼや立論もまた歴史的に相対的なもので ある。いやそれどころか,原理的に訂正を必要とし,乗り越えられるべき ものとしてあると雷うべきだろう。では,そもそもそうした前科学的な生 活および世界了解の理論化(埋精神科学)は,いかなる圏的をもっている のであろうか。ディルタイはおおむね次のように考えていたと思われる。
つまり,方法的に保証された精神科学的研究を通じ,現に与えられている 人間の解釈地平の客観的意味構造を認識し,これによって,諸個人の偶然 的な立場による被拘束性や主観的先入見を克服することであると。この目
28(2◎9)
的自体にとりたてて異論はない。しかし,その具体的な遂行(▽erfah響e纂)
となると,多くの問題点を指摘せざるをえないのである。
わたしはかねがね,ヘーゲル哲学から絶対性をマイナスして,相対化す ると,ディルタイの歴史理論になるという印象がしてならなかった。絶対 性をマイナスすることで,歴史のヒエラルヒー的構成がまず失われ,次に
自然が排除される。
(11)
「精神が創造したもののみを,精神は理解する。」
これはヘーゲルではなくて,ディルタイの言葉である。だから,ここで の精神はもっぱら人間の精神である。ヘーゲルの同一一哲学的前提(自然は 精神の他在である)が否定されると同時に,力動的な主・客の弁誕法も失
ゆ の る ゆ われる。精神の働きとかかわらない自然はもっぱら自然科学におまかせと なる。おまかせというのはその真理性を手つかずのまま前提するというこ とである。この学問における分業の容認が,精神科学の静観姓(Astheti・
sierung der Geschichte)を呼びよせることになる。たとえば,対象的自 然に働きかける労働過程などといった領域は,解釈学の地平の背景に沈み こむことになろう。このため,精神科学の方法としての解釈学は,もっぱ ら《理解》へと収敏する。
e の ■ o e り e(12)
r自然をわれわれは説明し.心的生活をわれわれは理解する。」
この二分法は,理解の学である解釈学の内部にも逆作用して,そのあり 方自体に独特の偏向をもたらすことになる。デ f ルタイによれば,理解と
は,一定の体験(精神)が外化されている表現(精神の客観態)を介して 理解の主体がふたたびもとの体験(精神)へと遡行する作業であるとされ
るが,この場合おおきな問題が生じる。つまり,終着駅はいつももとのオ リジナルな体験ときまっており,このことから,まず理解主体の主体性が 極少化され,つぎに表現のもつ独自の位相が見失われる。 「追体験」とい
う概念がよくしめしているように,そこでは解釈の主体は己れを空しくし
て,つまり無私の精神で対象に自己を参入させねばならない(そんなこと
ができるかどうかの話は別にして)。これと関連して,表現がその表現主
体の志向性に還光されない面をもつことが考慮されなくなる。入一ゲル風
に言えば,外化された客観態が,実定性として独自の力をもって主体に立
ちはだかるといった事態が無視されることになる。ある透明な世界(生の
哲学風の生の大河か?)が前提され,不透明なものは解釈学の地平にのぼ
ってこないのである。ごく素朴な日常的場面なら,こうしたディルタイの
図式もあてはまるように思う。たとえば,Aがrカラシを取ってもらいた
い」と意思し、それをrカラシを取ってくれ」という音声言語で表現し,
Bがその音声言語から,つまり能記を所記として,Aの意思を理解し,実 際にカラシを取ってやるといった場面を想定することができる。 (もちろ ん,ここでは実践的契機が入りこんでいるから,解釈学の例として持ち出 すのは,それこそカラシがききすぎているかもしれない。)ところが,あ る映画を観て,何人かの評価や感想がことなっている場合,制作者の意図 にかなった評価や感想が単純に尊重されるだろうか。制作者の精神,ある いは制作者をつつみこむ時代の精神を再構成することが,そうした鑑賞行 為の目的なのだろうか。そうは思えないのである。そうではなくて,解釈 する主体の主体性が,解釈のプロセスのうちに構造的契機として組み込ま (13)
れねばならないのである。だから,ディルタイの「かくされた実譲主義」
く14)
に対しては,ガダマーの「対話モデル」の優越性を認めるべきであろう。
たとえば,古典が生きのびるのは,それが豊富な対語を誘発するからであ る。それは,むしろ表現が蓑現主体へと還元しきれない一一解釈主体から すれば一一ある種の可塑性をもっているからこそ可能なのである。より適 切に言うならば,多くの人々の対話のパートナーたりうる普遍性を,古典 がもっているということだが,もちろん読者としてこの対話に参加する人 々がいなければ,普遍性を担う場である対話自体が成立しないことは醤う までもないことである。さらに表現は,とくに人倫的世界にあっては,実 定性として,生に敵対する不透明な威力として存立している場合がある
(こういう場面では,表現という言葉そのものが,もはやふさわしいもの と感ぜられなくなるが)。解釈主体が主体的にそれを打破していくとSLIk,
ディルタイの心理学的感情移入理論をもってするのであろうか。あるモラ ルの体系が,もっぱら支配者階級の利害にかかわるとき,そのモラルの体 系の内在的理解を突破して・ぐれを利害から成立してきたものとして・歴 史・社会的に説明しなければならないことだってあるのである。まさし
の の e の の e e の の す e e e e ゆ e e の
く,そのときは,心的生活をわれわれは説明するのである。一方,自然科 学もまた,一定の物質的基礎(生産力水準)にたった間主体的な自然了解
の変化のなかで投企された,・・・…一一つの自然理解とも考えられるのである。畏 怖すべき霊たちの住処として,神の被造物として,合法則的にうごく自動
の り の の ゆ ゆ
機械として,魂の安らぐ場として,金もうけの手段として,懲然をわれわ
e り e の り ゆ ゆ e り
れは理解するのである。こえした問題複合が,ヂィルタイの自然科学と並 存する精神科学という二分法によってはおおわれてしまうのである。
解釈学に当初要請された歴吏性の重視にもかかわらず,ディルタイの方
30(207)
法は,結島歴史のダイナミックな次元を取り落して,静観主義に陥ってし まう(後世ドィッ・ブルジNア文芸学のカノンとなるもむべなるかな)。解 釈学の目的は,ディルタイの師にあたるシュライアーマッハーがもともと 措定した「対象の再構成」に究極するのではなく,それを媒介にした,わ たしの生活史とわれわれの共同世界の意味の再構成でなければならなかっ たはずである。
〈15)
¢)ハー−dtバマスの提案をめぐって
ハーバマスの基本戦略は,客観主義(・科学主義,実証主義)と解釈学 の批判的統合にある。バー一バマスは,客観主義批判に関しては,フランク フルト学派第一一世代(アドルノ,ホルクハイマー)の動機を継承しつつも,
同疇にかれらの哲学のもつ形而上学的性格一一この表現がはたして適切な ものかどうかは,しばらく留保したい気持ちであるが一に関しては,解 釈学を導入することで,それを分節化し,解消しようとしているように思 える。ハーバマスのテーゼ「ラディカルな認識批判は社会理論としてのみ
(i6)
可能である」は,近くはアドルノのr社会撹判は認識批判であり,認識批
(i7)
判は社会批判である」というテーゼと共鳴するし,遠くは自らの批判的理 論をマルクスの経済学批判の精神をもって象徴させた30年代のホルクハイ マーと共鳴するものである。科学の客観主義的自己了解が陥るザ理性の道 具化」 (ホルクハイマー)に抗して,啓蒙の初発の志であった「成入性
(MUndigkeit)への関心」,あらゆる強制連関から解き放たれた理性の自 律を維持,拡大しようとする志向は,フランクフルト学派を一貫するもの である。さらに今日的条件の下で,この志向を具体化するには, 「第二の 自然」と化しr運命の因果性」 (ヘーゲル)にからみとられた社会を,学 問的な反省の対象とすることなしにはなしえないとする認識も,この学派 に共通するものである。なぜなら,そもそもの啓蒙の理念とそれが社会的 に現実化された今日の状況との落差が,深い幻滅感を否定的なバネとし て,かれらの思考を発動させているからである。40年代のアドルノとホル クハイマーは,ここから啓蒙を人類史を貫通する傾向とみる一一《神謡が すでに啓蒙であった》一一一つの歴史哲学の構想(r啓蒙の弁証法』)にい
たるが,そこに描きだされたのは,進歩がつねに退歩であり,文明化がつ ねに野蛮へと頽落する一一《啓蒙は神話的論理へ逆転する》一一一救いなき 構図,要言すれば啓蒙の慮己破壊であった。もちろん,この救いのなさ
は,同時にかれらの否定の光学のラディカリテートを証雷しており,40年
にナチの手からのがれる途上で服毒自殺したとされる僚友ベンヤミンの
「歴史の天使」を身をもって具現したことになる。そこにあって希望は,
強風にふかれつつ廃櫨と死者を凝視しつづける歴史の天使のまなざしのう ちに保たれるほかはない。つまり,失われたものを想起し,いつのHか回 復の時まで保存し,「かつて野蛮があった」と語る,野蛮を過去化し,救 いを現在化する,そのような精神のあり様に、ユートピアとして幻視され るもの,つまり歴史の消尽点にあるのは,自然からプロメーテウス的に立 ち上がってきた人類が,ふたたびそこへと帰郷する,高次の和解である。
とくにアドルノのメタフォーリッシュな文体から,一瞬沸き上がってくる
《自然との宥和》の声に対し,ハーバマスは解釈学を統合しつつ,より学 問的な解決案として《コミュニケーシNン》理論の構成を対置し,第一一世 代からの転換を試みるのである。疑似的な相互主体性が成り立つ自然と人 聞との関係領域の問題化は,アドル!的に美学として,あるいはE・プロ
ッホ的に自然存在論としてしか展開されえないが故に,ハーバマスはこれ を切り捨てる。外的自然をもっぱら道具的行動(instrumentales Han・
deln)の対象に限定することによって,そこに従来の主・客図式の維持を 認める一方,ハーバマスは自らの努力を,人間と人聞との間主体的な言語 ゲームとしてあらわれる意思疎通的行動(kommunikatives Handeln)
の理論化へ傾注するのである。ここで,かれの労働(Arbeit)と相互行為
(lnteraktion)の二分法が関係してくる。
ハーバマスによれば,「労働」は,外的自然の強制力から自らを解放して いく《技術的》(technisch)な関心*に導かれた人類の自己産出(Selbst・
erzeugung)過程であり,「相互行為」は,内的自然の強制力から自ら を解放していく《実践的》(praktisch)な関心に導かれた人類の自己形成
(Selbstbildung)過程である。前者は人と物とのあいだに成立し,後者は 人と人とのあいだに成立するものであるが,それらは関係領域がことなる ばかりでなく,「相互行為を労働に還元したり,相互行為から労働を導き くi9)
だしたりすることは,不可能である」と言われているように,まったくこ となる論理に従っているとされる。すなわち,「労働」は生産知(Produk・
tionswissen)を利用して自然を支配する,つまり対象を技術的に処理し うる対象とみなす一一方,「相互行為」は反省知(Refiexionswissen)によ って,人聞相互の関係から生みだされて第二の自然力と化した文化的伝 潔,社会制度,政治権力といった内的自然の発生史を反省し,透明化する ことを通じて,支配から自由なコミュニケーションにのみもとつく社会関
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係の組織化をめざすのである。真理概念もことなった性格をもたされ,
「労働」における真理が,人が物に働きかける生産的行為のうちになされ
e む Q る主・客の総合(Synthese)として,本質的に独白的なものであるのに対 し,「相互行為」における真理は,主体と主体とのあいだに成立する合意
り ゆ ゆ (Konse】ユsus)あるいは了解(Versttindigung)にささえられる対話的な ものとしてあらわれる。
*関心(lnteresse)という概念は,バー一バマスの理論構成のうちでももっとも重 要なものの一一つである。労働と相互行為という二つの関心は,「超越論的主体の行 為」(Leistungen des transzetadentalen Subjekts)として人類の自然史に基
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礎をもっているとされる。つまり,自然史の過程で,人間が人間になったというこ
の の ゆ
と,また人間であるということは,これらこつの関心によってであり,人間のあら ゆる営みはζれらによって導かれているのである。
こうしたハーバマスによるニニつの行動の峻別には,科学の客観主義的自 己了解にひそむ問題性一このなかにはマルクス主義の社会工学への頽落
(科挙主義的に理解されたマルクス)もふくまれる一一一一一 IC批判的に対決す ると同疇に,解釈学にひそむ実証主義的(ディルタイ),権威主義的(ガ ダマー)傾向にも対決する姿勢があらわれている。つまり,ハーバマスは 両者の過大な普遍性要求に対し,両刀的に歯止めをかけようとするのであ
る。前者については,自然科学およびそれをモデルとする他の諸科学を,
「労働」の一環として,つまり技衛的な関心に先立たれた行為としてとら え,その領域と権隈を限定する。このことを通じて,そこにひそむ自己欺 隔を啓蒙しつつ,その積極面を自らの理論へと統合していこうとバー一バマ
スは考えているように思われる。
r……技傭的に処理しうるという視点の下で客体北されたあの現実,およびそれ にふさわしく操作の対象とされた経験は,一つの極端な事例ととらえることができ る.……言語は相互行為との連関をはずされ,独白的に完結しており.行動はコミ
=ニケーションから分離し,目的合理的な手段の利用という孤独な行為へ切り縮め られ,最後に道具的行動の成果を反復しうる経験となすためlc .個性をもった生活
経験が除去される一ここでは意志疎通的行動の諸条件がまったく廃棄されてい
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る。」
この一一つの極端な事例(Grenzfall)である科学営為が,最近の数世紀
一一 「や最近の数十年と言うべ巻か一に巨大化し, 「相互行為」の領域
を蚕食しているのが現状である。* この巨大化が科学の内在的論理による
という以上に,支配(権力ないし資本)の利害関心に媒介されて生起した
ことは言うまでもないことである。だから,支配の解消へむかう反省知を
拡大することが,目下のところ生産知の拡大に優先する重要性をもたざる
をえないのである。ハーバマスは,この反省知の構成に際し,ドイッ観念 論とマルクスそして精神科学(解釈学)の伝統からおおくのものを汲み取 ってきている。これらの伝統とのハーバマスの対質は,それぞれが各論的 テv・・・・…マとなりうるほどの問題領域をかかえており,本稿では立ち入ること がで嚢ない。懸案となっていたかれのフロイト解釈へ筆をすすめよう。
*具体例として「原発」にそって考えてみると,たとえば「公開ヒヤリング」は,
この蚕食の絵解きでもある。資本ならびに政府による開発プraジェクトが,「公開 ヒヤリング」という形で,政治的公共性の場所に引きずり出されるということは,
以前の段階からくらべれば,たしかに一つの進歩ではある。しかし,その内実は,
一方的説明会の域を出ないものであり,原発推進側はむしろさまざまな方策によっ て,政治的公共性の発動を極力回避しようとする(質闇者ならびに質問内容をあら かじめチェックし,選択する。議論に発展しないように議事進行する。質疑がどう いう過程をたどろうが,一・・一日で終わる等々)。原発推薩というEl的にそったかれら の戦略的行動は,政治的公共性のあらゆる回路をそのための手段とみなす傾向をも っている(地方自治体におりてくる多額の金による世論誘導とかマス=ミを通じた 大々的キャンA°一一ン)。さらに高度な科学技徳の集約であるr原発」は,そのこと 自体が一つの支配一一梢互行為の抑圧一一でありうる。多くの住民は,説明の際に
用いられるさまざまなテクsカル・タームを十分に理解することが困難である。推 進側は,それら専門用語が簡単にはH常言語による!ミュニケ・・…−eションに翻訳され ない性質をもつが故に,それを政治的に利用する。わからない奴が悪いのであep , わかる奴にまかせておけばよろしいというわけだ。ここでは,専門牲そのものが,
ジャルゴンによって支配の道具の役を買って出ているのである。
ハーバマスがフロイトを取り上げるのは,精神分析が《自己反省》を体 系的に取り入れた唯一の学問だからである。すなわち,「精神分析がわれ われにとって重要なのは,それが方法的に霞己反省を要求する学問の唯一一・・h
〈22)
の具体例である」からである。従来精神分析は,人間の心的領域に科学的 なメスを入れたものである一一精神の領域への実証主義の介入一一という 理解が一一般的であり,このことからすれば,ハーバマスの解釈はきわめて
ユニ 一一クな位置を占めることになる(もっとも反精神医学運動との親和性 は存在するかもしれないが)。一一一・me的理解に従えば,フロイトは心的領域 を因果論的に説明する図式を導入したとされるし,フmイト自身の学問的 自己了解もそうした傾向が強いeそして,結局のところ精神分析は,実証 主義のステータスを達成できなかったとする理解もまた一般的に流布され ているものである。バー一バマスの企図は,こうした(フロイト本人を含め
の の
た)精神分析の科学主義的自己誤解を突破して,これに新しい照明をあて ようとするものである。
分析の実態を考えてみると,科学主義的了解とは別の局面がひらかれて
ヲ4(203)
くるように思えるe分析は終始患者との対話を通じて,つまり分析医と患者 との言語ゲームとして遂行される。これは分析医と患者という二人の役者 の登場するドラマとして考えてもいいだろう。患者は対象(Gegenstand)
ではなく,相手(Gegenspieler)として登場する。そして,このドラマの 成功は患者の治癒として立証される。しかしながら,ここで治癒とはいっ たい何だろうか。常識的には,精神の異常な状態から正常な状態へ復帰す ること,世間という社会的に妥当している間主体性の場離共通感覚(sen−
sus communis generis homini)へ復帰することと言えるだろう。こう した見解は,何がいったい正常と言えるのか(正常概念の相対性)といっ たメタ・レベルの問題を留保すれば,一応妥当なものと認められるであろ う。これを患者の側に即して考えると,患者膚身が自ら抑圧したために自 らを苦しめるにいたった《無意識の動機》を,分析医との言語ゲームのな かで発見し,意識化して,自らの生活史のうちに再構成することに成功す
ることだと言えるだろう。患者自身の主体的な霞己反省が成功するかどう か,いわば患者自身が疎外とそこからの回復をテーマとする自伝的物語を あらたに書きうるかどうかが決め手となるわけで,身体的な病いの治癒と は次元をことにするのである。言いかえれば日常的言語ゲームから逸脱し,
症候として顕在化してくる動機ゆえに,自らに属しつつも,自らの意識の コントロール外にあるという意味で自らのものでない動機ゆえに苦しんで いる患者一一一自己同一性(Se1bstidentitZt)の挫析一一は,分析医を訪れ,
分析医は患者の話す情報および症候(テキスト)の理解から,仮説的に設 定された一般的解釈の論理にしたがって,因果論的にその原因を言いあて る (雌原場面の再構成)。この忠告が患者自身による回想によって妥当な ものとして受け入れられ,さまざまな症候を引き起こしていた動機を意識 化すること一自己同一・性の回復一一に成功すれば,患蓄はふたたび日常 的な言語ゲームへ復帰できるのである。因果論的な説明図式は,患者の自 己物化の動機(原場面)の推測に際して,治療過程に介入してくるにすぎ ない。フraイト自身も構想したような,精神分析学が他の経験科学的諸理 論から得られた工学技術によって,取って替わられるなどという事態は,
けっしてありえないのである。そうした技術は,自然過程としての人間の 有機体(客体としての人間)にのみかかわるのであり,「これに反し,啓 蒙によって誘発された反省の経験は,主体が,臨らを客体としてし象って いた立場から,まさに霞らを解き放つ行為であり,この特有な成果は,主 (23
体自身に帰せられねばならない」からである。こういう観点にたてば,分
析医は,自己客体化を反省によって奪還していく患者の自己形成過程のな かで,いわばソクラテス的対話における助産婦として,補佐的な役割を演ず
ゆ ぴ り ゆ
るにすぎないことになろう。分析医のかかわる因果過程(KausalprozeB)
ゆ の の e
は,患者の生活史の形成過程(BildungsprozeB)に包括され,揚棄されて はじめて,実践的な意味をもつものとなるのである。以下,ハーバマスの 論述にそって,こうした問題連関からいくつかを敷術していこう。
ハーバマスは,まずディルタイの文献学的解釈学にフmイトの深層解釈 学を対置し,その類似性と差異性を浮き上がらせる。精神分析も文献学的 解釈学と同じように過表の再構成を試みるわけだから,伝記と生活史に対 しての,つまり回想や文献的伝承あるいはその他の個人の志向の痕跡に対 しての関心を共有している点では一一致している一一フロイトは折にふれて この両学科の類似性を表明している。しかしながら,精神分析は,フraイ トが無意識(あるいは下意識)と呼んだ領域にかかわるものであるから,
文献学的解釈学がもっぱら顕在的な内容に照準しているのに対し,その背 (24)
後に遡って問わざるをえないのである。つまり,文献学的な表現にこだわ れば,「作者の臼己欺購i」を指し示しているテキストにかかわらざるをえ ないのである。
「そうしたテキストのなかには,顕在的な内容(……)以外に,作者自身が近づ けず,それから疎外されているにもかかわらず,作者に属していて方向をあたえて (25)
いる部分としての潜在的な内容が記録されている。」
こうした潜在的な内容の理解に,ノ・一バマスはフraイトの『夢解釈』一 ここでは精神病理的事象と日常生活的事象が岡じ論理に服するものと考え られるのだが一を援絹して接近している。
ゆ の 「夢解釈の技徳は,歪曲されていると思われるテキストの意味だけでなく,テキ
リ リ の の e の e を り ゆ り リ
ストの歪曲そのものの意味をも,つまり潜在的な夢の思考の顕在的な夢への転化を も言いあてて,フmイトが〈夢の作業〉と呼んだものを再構成しなければならない のである。この限りにおいて,夢解釈の技衛は,解釈学の技法を超え出ているので
(26)
ある。」
この夢解釈の技術を展開した,フロイトの『夢解釈』から取り出される 洞察を,ハーバマスは徹底してコミュユケーション理論の地平で再構成す る。社会的な規範と自らの欲豊との葛藤が尖鋭化すると,人間はこの欲墾 を無意識の領域へと追放することによって,この葛藤を回避することがあ
る。これが《抑圧》であって,自らの一定の欲蟄を公共的なコミュニケー シaンから排除することだと言いかえてもいいであろう。公共の言語使用 のうちに現前している意識的な動機づけは,抑圧のメカニズムによって,
タ6(2G1)
無意識の,いわば言語を失った動機にかわるのである。夢という現象では 行動の運動性が麻痺しているために検閲がゆるめられる睡眠中に,そうし
G ゆ ゆ e む
た動機が欝語とむすびつくのである。しかし,これは私事化された(pri・
vatisiert)言語であって,とりとめのないシュールな映画のごとく,統辞 論を欠いているために,つまり日常言語の文法規則を逸脱しているため に,公共的なコミュニケーションにはのりえないのである。だから夢のテ キストは,自己のうちで代行されている社会的検閲と,コミュsケーショ
ンから排除された無意識の動機とのあいだに結ばれる妥協として捉えるこ とができる。無意識の動機は,睡眠中という例外的な条件の下で,公的に 交儒可能な前意識の素材のうちに押し入ってくるから,夢のテキストとい
う妥協言語は,公的言語と私事化された言語との特有な結びつきによって 特徴づけられるものである。*
り の ゆ *こうしたi夢の理解から得られた洞察を,いささカSXL暴にテーゼ化すれば,ラング
の り e の な り り リ サ の ゆ の a e り の の