ノレ
イ ・ フ ィ リ ッ プ と ﹁ 七 月 王 制 ﹂
ル イ ・フ ィ リ ップ と 「七 月 王 制 」
一︑序論
二︑新国王ルイ・フィリップ
三︑﹁七月王制﹂の統治構造
四︑政治的諸党派の動向
五︑﹁七月王制﹂の政治的様相
六︑結語
高 村 忠 成
一︑序論
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ブルボン家(じ弓︒霞9ロω)支配の復古王制(園oω富母9︒餓︒員H︒︒崩ー一︒︒ωO)を倒し︑オルレアン家のルイ・フィリップ(け9一甲
℃巨首℃ρミ鵠ーH︒︒αo)を即位させた自由主義ブルジョアジーを中心とする反政府派の手によるいわゆる﹁七月革命﹂
(図傷くO一自け一〇ロユ①﹄ロ一一一Φけ℃一Q◎GoO)は︑フランスの政治体制を近代民主制へ一歩近づけたものとして注目されると共に︑同
時にそれが︑反動的な気風が漂っていた当時のヨーロッパ諸国にも強い影響を与えたことはよく知られている︒
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すなわち︑﹁七月革命﹂は︑反動的なメッテルニッヒ(蜜Φ什什O﹁ロ一〇げ鴇一刈刈ωー一◎◎凱㊤)体制を弛緩させ︑ヨーロッパに自由︑
独立の熱情を爆発させる導火線になったといえよう︒
その結果︑ベルギー︑ドイツ︑イタリァ︑ポーランド︑スイス︑スペイン︑ポルトガルなどに自由主義的な革命が
勃発し︑それらの国は︑封建的反動的な支配から脱出を試みる機会をえた︒
ベルギーを除いた多くの国々では革命は失敗に終ってしまったが︑それでも以後何回となく革命運動は繰り返さ
れ︑やがて︑世界的に近代的な自由︑独立の国家が誕生していくことになったのである︒
一般的に﹁一八三〇年から一九一四年までの八十数年間は︑産業革命がヨーロッパに広まった時代であった︒(中
略)その時代に︑デモクラシーが強力な支配的な政治理念になり︑ナショナリズムがヨーロッパのあらゆる社会に伝
(1)染病のように急激に侵透していった﹂と評価されている︒
じつに︑﹁七月革命﹂はこうした世界的に影響を与える淵源のうちの一つとなったのである︒この﹁七月革命﹂の
結果︑成立したのが﹁七月王制﹂(ζ︒量﹁︒三︒審一三一一2・一︒︒ωoー一︒︒劇︒︒)である︒その王制は︑強力な︑そして︑独特の趣
きをもって出発した︒
ブルボン家のシャルル十世(O冨﹃一⑦ω区"ミ昭t一︒︒ω②)にかわって即位したオルレアン家の新国王ルイ・フィリップ
は︑できる限り自由主義を懐く市民の一人ように振舞おうとした︒彼は︑外出する時は︑いつも古ぼけ︑色のあせた
コウモリ傘を手にもって︑歩いてでかけた︒その傘は市民的を標榜する﹁七月王制﹂の象徴(葺︒望ヨ9一鼠夢︒︒︒樽g①)
であった︒
ある人は︑そのようなフンリップを馬鹿にし︑ある人は︑親しみを寄せた︒彼は︑当時のブルジョアジーがそうで
あったように︑家庭を愛し︑事業を大事にした︒五人の子供にめぐまれ︑経済的にも不自由はなかった︒﹁七月王制﹂
は︑まさに国王の生活習慣からみても﹁ブルジョア王国﹂(冨δ巻ニヨ︒σo霞αq①9の)であった︒
ル イ ・フ ィ リ ップ と 「七 月 王 制 」 53
しかも︑﹁七月王制﹂において.ルイ・フィリップを支え︑政府の要職に就いたものは︑少数の大ブルジョアジー
であった︒一入一四年憲章に修正がなされ︑より自由主義的といわれる一八三〇年憲章が発布されたとはいえ︑国民
の参政権には︑著しく経済的な制約が設けられていた︒
﹁七月王制﹂の後半期に実権をにぎっていたフランソワ・ギゾー(甲雪の9ωO巳Ngu嵩︒︒刈‑田謡)が︑選挙権の拡大を
要求する労働者に︑﹁選挙権が欲しいならば︑働いて︑金持ちになりたまえ!国畳6臣ω︒・︒寧く︒霧冨二︒9<巴一9<︒霧
(2)αo≦o昌紆oN色oo8ξω﹂と言ったことは︑有名である︒
イギリスで起った産業革命の嵐は︑一入三〇年頃からフランスにもおよび︑フランスでは︑鉄工︑繊維部門を中心
に︑近代的な機械工業が発達し︑フランスの産業は︑国家の手によって厚く保護︑育成された︒フランスの産業は︑
(3)実に︑﹁七月王制﹂期に飛躍的な発展を遂げることになった︒
しかし︑産業の発達とともに︑様々な社会問題が噴出してきた︒都市には大量の労働者が集中し︑機械の発達の陰
で︑それら労働者は︑低賃金でしかも過酷な労働条件にあえいでいた︒富裕になっていく大ブルジョアジーと︑貧困
に苦しむそれら労働者との間の︑社会的︑経済的差別は︑日増しに大きくなっていった︒
表面的にははなやかな﹁七月王制﹂の政治の舞台も︑その裏では︑色々な革新的社会理論や︑政治運動が登壇の機
会を狙ってうごめいていた︒
このような時代背景をもつ﹁七月王制﹂は︑一八三〇年八月から一八四八年二月まで︑約}八年間続いた︒その期
間は︑一般的に︑二八三〇年から四〇年までと︑四〇年から四八年までとに分けられる︒前期においては︑ルイ・
フィリップが︑主に︑ブルボン家の支持者からなる正統王党派(濠ひQ三邑ωけ︒ω)や︑﹁七月革命﹂の時指導権を握ったの
にもかンわらず︑途中から自由主義ブルジョアジーを中心とする代議員に︑革命の成果をさらわれる結果になって
﹃七月王制﹄に強い不満を懐いている土ハ和派の攻撃から︑王制を守るために戦った間であり︑後期は︑表面的には︑
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安定していたが︑実際はギゾーが政権を握り︑フィリップが︑思うまンに政府をあやつり︑政治の腐敗が進んだ間で
(4)ある﹂︒
ルイ・フィリップとギゾーによる﹁七月王制﹂の後半を︑ルネ・キャピタン教授(殉①鼠O碧冨暮)は︑﹁オルレアン
(5)型議院内閣制(℃餌﹁一Φ5PO昌け舜o﹁一6ゆb9Φ○﹁一似鋤]P一ωけ①)と名付けた︒それは︑形式的には︑議院内閣制をとりながら︑実質的に
は︑国王が自らの意思で内閣を形成し︑その背後で政治の実権を握るという形態を指している︒
ともあれ︑フランス最後の王朝になった﹁七月王制﹂は︑不安定な政治的︑社会的状況の中で︑フランスが迎えつ
つあった産業革命と︑それに伴う経済的︑社会的構造の変化に︑どのように対応しようとしたのであろうか︒
本稿の目的は︑こうした意図からルイ・フィリップと彼の﹁七月王制﹂の統治構造をあかし︑その政治的様相を観
察しながら︑﹁七月王制﹂の政治的性格を解明することにある︒
註(1)O母ぎコい='国翅oω堕諺2一a8一⇔邑ω9巨田ω8﹁団o眺竃8①ヨ国霞8ρ一㊤b︒劇曽唱・9・
(2)田中治男著﹃フランス自由主義の生成と展開﹄(東大出版会)一一四頁から引用︒
(3)この期の経済的︑社会的動向に関しては︑国・﹄.口oびωげ餌≦目曽↓ず〇四σqoo{閑①<o一暮δ﹃国貫80嵩︒︒Ol昌︒︒畠.水田洋.
安川悦子訳﹃市民革命と産業革命﹄(岩波書店)と︑智雪ぴ﹃oヨヨρド四ひq鑓巳①σo霞σqΦ︒芭Φp︒賃b2<9.ρ︒︒︒︒01一︒︒︒︒O)・木
崎喜代治訳﹃権力の座についた大ブルジョアジー﹄(岩波書店)を参照︒
(4)︾・§巨①モ﹄琵︒↓﹄曳"ω萱︒(§甲§癖)樽9Qb奮昌冨竃︒最︒冨ユ︒冒=①二・︒ω︒⊥︒︒蔭︒︒・O︒鐸くΦ﹃串
日〇三仙︒いo巳ω‑℃げま署︒"℃.蕊Gなお︑こうした分け方は︑トいOげo<鋤霞o﹁にも見られる︒
(5)閃①目傷O曽官β口ρ閃似σq一ヨo℃⇔二〇旨o艮巴Ho"匹90旨ω日9N5αq①匹o閃・O碧菰αo︼≦巴ぴo﹁σq℃一〇ωω・O・G︒ω・野村敬造著﹃フラン
ス憲法・行政法概論﹄(有信堂)一〇二頁参照︒
二︑新国王ルイ・フィリップ
ル イ ・フ ィ リ ッ プ と 「七 月 王 制 」 55
﹁七月革命﹂の後︑︼八三〇年八月九日︑オルレアン公ルイ・フィリップは︑フランスの国王になった︒いな︑正式
には︑フランス人の国王(開9留ω男茜慧巴ω)である︒
彼は︑﹁七月革命﹂の火ぶたを切ったパリの労働者からは︑﹁バリケードから誕生した国王(菊O凶匹Oωじ口帥門﹁一〇餌匹①ω)﹂と
よばれた︒そこには彼が︑一般民衆を代表し︑民衆を守ってくれるであろうという期待が込められていた︒
フィリップは︑国王になっても︑彼が長い亡命生活の間にそうであったように︑質素にふるまった︒彼は︑外出す
る時は︑古ぼけたコウモリ傘をもって︑お付きもつれずに一人で徒歩ででかけた︒街角で市民と立ち話をしたり︑労
(1)働者と握手をしたりした︒そしてある時は︑﹁彼らと酒屋で︑酒を飲みかわしたりした﹂︒
宮殿を護衛している国民兵(一①ωσq母号口魯︒口髭×)たちが︑彼に休暇を要求した時︑彼は︑自分の五人の子供たちを
かわりに見張りにたンせて︑兵土たちを自分の居間に連れていき︑歓待した︒また︑民衆が︑宮殿の前で歓呼する
と︑彼はバルコニーに出ていって︑一緒に︑﹁ラ・マルセイエーズ(一餌5P⇔﹁ωO一一一山一ωΦ)﹂を歌ったりした︒じつに︑彼
は︑市民王(一①菊O一∩μ什O︽Oコ)たろうとしたのである︒
当時のフランスは︑一八二六年にはじまった経済的な不況にみまわれていた︒﹁パリは︑貧乏︑暴力︑恐怖で満ち︑
(2)階級的な対立が芽生えつンあった﹂︒パリの人口は︑一入○一年に︑五四万入千人であったが︑一八三一年には︑七八
万五千人に増えていた︒﹁住宅︑雇用︑慈善︑衛生施設︑そして︑法の運用などが︑この人口増加においつけなかっ
(3)た﹂︒
経済的不況は︑一八二八年に農業生産物が凋落したことによって︑最悪の状態に陥った︒そのまン不況は︑一入三