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(1)

商品の交換価値を考察する

著者 清水 キワ

雑誌名 奈良学芸大学紀要. 人文・社会科学

巻 12

ページ 86‑103

発行年 1964‑02‑29

その他のタイトル DER TAUSCHWERT DER WAREN

URL http://hdl.handle.net/10105/3469

(2)

商品の交換価値を考察する

iV l二   :.  =

(家 政 学 教 室)

1 緒     言

本稿は説明の都合上、 「商品の交換価値について」 、 「貨幣について」 、 「賃金について.と 項目をわけ、それぞれについて説明したが、これを一貫しているものは、経済学の根本概念であ

る商品の交換価値を明らかに把超したいということであるo従って商品の交換価値については第 3のところで述べつくし、第4は貨幣について、第5は賃金についてそれぞれ異なった本質を 説明したのではなく、それぞれ異なった説明をしても、それは異なった角度から第3で足らない ところは第4で、それで足らないところは第5でという観点から同じことを掘り下げたに過ぎな い。

2 方法 論 に つ い て

経済学にりいては、方法論の相異から、学問的体系が単一でないということが研究を困難にし ている大きな原因になっている。ある客観的事象を貰ぬいている法則は‑であるということが科 学を成立させているというならば、経済学は科学としての基礎が確立されていないというべきだ ろうかO例えば,一方に近代経済学があり、他方にマルクス主義経済学があって、その体系が全 く異なるところから、一万の体系に於て学ぶ者は他方の学問上の概念を理解しないで、全く自ら の基礎の上に研究をするという実情にある。

何故このようになっているのであろうかO一つにはこの二体系の根拠は単に経済学上の相異に とどまらず、深く哲学上の世界観の相異に連なっていること、二つには経済的事象は、人間集団 の物質的利害に関係するものであって、人間集団の権力関係を問題にする政治現象と不可分のも のであるから、同一の経済事象に対して利害を異にする二集団は、自らの利害のため異なった解 釈をするということが行なわれるからである。そこでどうにも早急に解決されそうもない哲学上 の意見の相異を将来の解決にまで棚上げし、また経済現象の中に関連し存在する政治的な現象を 鴇てて、あたかも自然の‑事象に対する如くに経済現象に対応し、これを測定し、系数化し、評 価し、自然現象の中にある法則を求める如くに経済現象の中の法則を求めようとし、一つ一つの 事象の中に実証されることを積み上げてある結果を出す、というような方法を根底とした経済学 が流行することになった。

私は次のように考えている。経済現象は個々の人間の主観的な願望意図によって左右され、解 釈されることのない、それ自体として何の粉飾なく研究の対象にきれる客観的現象であること、

従って、現象として個々人の経験から独立して作用するものであること、人間の活動を主な内容

とする経済現象は単純でなくいろいろな側面をもっているから、どの側面も捨象されるべきでな

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く、政治的な側面も、自然科学的な側面も、その他凡ての側面が研究されるべきであること、然 も全体として諸側面の関連を考え、これら諸側面が如何に経済現象として統一されているか、更 にそのような統一は歴史的に如何なる段階を歩んできたかという科学一般の方法が此処でも通用 すると思う。経済学から人間活動の一つである政治的側面を抜いたものは全面性がないし、又、

経済学から測定、系数などの数学的側面を抜いたものも一面的なものであると思う。個々の側面 のみが強調され、その側面が全体の中に如何に関連し統一きれているかが考察されなければ、全 面性のある真理をうることは出来ないと患う。例えば商品の需要と供給を問題にする場合、その 商品の需要曲線と供給曲線のみでは全体的な知識をうることは困難であるo商品を生産する賃 金、設備、生産組織、商品を需要する階層、賃金水準、更に生産中に於ける資本家、労働者の地 位関係、これらがどのような統一をしているか、他の商品との関連からその商品がどのような役 割をもっているか、更にこれらの側面が過去から現在までどのように変化したか等々。そのこと から商品について統一的な知識に到達するならば一応研究成果が得られると思うO この場合二つ

の結論が出る筈はないと思っている。

3 交換価値につい て

商品にはその商品の用途に従った利用価値があると同時に、 ‑こ何円というような価格をもっ ている。価格は商品の交換価値の貨幣的表現であるから、商品は交換価値をもっているというこ とである。商品の使用価値は経済学の対象というよりも自然科学的な、或いは技術科学的な学問 の対象となるが、交換価値は経済学の対象であり経済学上の概念である。商品が交換価値をもっ ていることに対して異論はないが、交換価値の実体は何であるかについて意見がわかれている。

一万には、価値は商品そのものの属性ではないから人間(経済人)による評価であって、価値 の実体は経済人の側の主観的心理的なものであるとするC. Menger , Bohm Bawerk等の限界効 用学派があるし、他方には、成程価値は経済人による評価であるが商品自体が交換価値の実体と なるべきものを備えているのだとする学派、即ち、 Adam Smith , D. Ricardo, J.S.Mill等の 古典経済学説及びマルクス経済学説がある。前者を主観的な価値学説とよぶならば後者を客観的

な価値学説といいうるであろう。更にまた次のような説がある。即ち価値の実体を経済人の主観 に求めたり、商品自体に求めたりすることは無意味であって例えば鉄の両刃のように、物を切断 するのに上下何れの刃が切るのかということと等しく両者の合一し均衡した所に価値がある。価 値は相対的なものであり絶対的なものではないo価値とは商品の需要と供給の合一点即ち価格で はないかというのである。此処では価値の実体についての論議は捨てられて、価格決定の要因で ある供給側及び需要側の論議から始められる。 A. Marshallの均衡論、 L. Walras , Cassel等の 一般均衡理論がこれである。

さて、 「限界効用学説」 Grenznutzentheorie についての概要とこれに対する私の考えを述 べる Carl Mengerは次のように云っている。

『価値は財に付着せるもの、財の属性でもなければ独立してそれ自身存立するものでもない。

価値は自己の支配下にある財が自己の生命及び福祉の維持に対して有する意義に関して経済人の

下す判断であり、従って経済人の意識の外には存在しない。その結果経済主体にとり価値を有す

る‑財を‑の価値と名付けたり、国民経済学者が恰も独立せる実在物の如くに価値を云為したり

して之を客体化するのは全く誤謬である。何故なら、客観的に存立するものはつねに物か、物の

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数量かにすぎず、物の価値は物とは本質的に異ったあるもの、即ち物の支配が自己の生命叉は福 祉の維持に対して有する意義に関し、経済人の構成する判断であるからである。けれどもその性 質上全く主観的な財価値を客観化することは、経済学の基礎を混乱すること極めて甚しいものが あった。』 (註1)

このMengerの言葉はこれ以上に効用学派の立場を鮮明にするものはない。個人が‑財に対し て何等かの重要性を認めるのは、その財によって何等かの欲望が充たされるからである。然し‑

財によって多種の大小様々な欲望が充たされるのが普通であるから、その場合、その財の主観的 価値は如何なる大いさの、如何なる欲望によって決定されるのであろうか。例えばここに5升の 小麦があるとして、ある人がこれをパンに2升、菓子、ウイスキー及び鶏の餌にそれぞれ1升を 当てているとしよう。この人が小麦1升を喪失したときにこの人は鶏の飼育を断念するであろ

う。もし彼がパンをつくることを断念すれば、彼は極めて不合理な人間である。従って1升の喪 失によって犠牲を被むるのは1升の存在によってはじめて充たされていた欲望の大いさであっ

て、この欲望即ち限界効用こそその財の主観的価値を決定するのである。しかしながらこれは直 接自己の欲望を充足する場合の主観的価値評価であるが、その財は他財との交換にも使用するこ とが出来る。この場合経済人は上記の例でたとえば麦1升を鶏の餌として評価はしないであろ う。この場合にはその財について得られる効用の中の最大のもの即ちパンの限界効用で評価する であろう。例えば良馬を馬肉で評価したり、良材を薪によって評価したりしないからである。一 見したところ前者では最小の効用が、後者では最大の効用が価値を決定するということは矛盾す るように見えるが、結局のところ効用の大いきに於て両者は一致するものである。 (註2)

さて限界効用学説はこのような主観的価値から交換価値を説明する。各人は売手叉は買手とし てそれぞれ主観的価値をもって市場に集まる。その結果自ら一つの交換価値である価格が決定さ れることになる Bohm Bawerkの例によってこれを示すと次の通りである。

属一致に対して買手が10人、売手が8人いるとして売手員手の双方に自由競争が行なわれてい るとすれば、馬に対する主観的な評価は次表の通りであるとする。

今かりにBlが100フローリンで売ろ うとすればその買手は10人いるから、 Bl は売値を高めるであろう。 Alが買値300 フローリンで申込んだとすれば売手は8 人となるからAlは買値を下げるであろ う 210フローリンでは売手は5人、買 手は6人となるから価格はこれより騰貴 する。 215フロ‑リンでは売手6人、買 手5人となって価格はこれより低下せざ るを得ない。かくして馬の価格は210フ

ロ‑リンと215フロ‑リンとの間で決定 される。 (註3)

以上が限界効用学説の大要であるが、跡ここれで明らかなように経済財についてそれ自身の価

値を否定して、経済財を評価する経済人の主観の中にその実体を求めようとするものである.し

(5)

かし現実の商品について観察するならば商品を完る場合、先づ値段をつけて市場に出し、その際 その商品の人間の欲望充足の程度を測定するのではなく、一個の経済的価値物として、他商品と の比較に於てその経済価値が測定され、商品を買う場合も亦欲望充足という自己の主観を離れ て、先づ交換を通じてこれを獲得し然る後自己の欲望充足にあてている.即ち先づ交換に於ける 市場価格というものを承認している。そうすれば、商品の交換価値というものは個々人の欲望と いうものを離れてそれ自身一個の価値として存在するということを否定出釆ないo成程交換価値 そのものは財の属性ではないから、財が交換価値を有する商品として存在することについて限界 効用学説は、財物とそれに対する人間の欲望、心理、判断とを直接結びつけて、比較測定困難な これらil>:理的な重要度を限界概念の導入によって説明しようとするO これは価値概念を、欲望、

心理、判断の種類こそ異なれ文化的価値判断と同一な入間の心理状態の一種とみることである。

このような、物に対する人間心理の反応は、物そのものの属性ではないが、その属性からよび おこされた人間の欲望、心理、判断であってその属性と不可分のものである。これは物の属性を 使用価値として、経済的価値と区別しながら、物の属性が自ら人間の欲望、判断をよびおこすと

き、物とは区別された人間側の経済的な欲望、心理を交換価値の実体とする。このような方法 は、イギリスの哲学者G. Berkleyの方法と同じとまではいわれなくてもよく似ている Berkley は我々の認識するすべての事物は我々の感輝の組合せ以外の何物でもないということを次のよう に云っている。 『人間の思惟の対象をしらべてみる人には誰にも、それらの対象は、感覚の上に 現実に印せられた観念であるか、でなければ心の感受や能作を注意することによって知覚された 観念であるか、または最後に‑  記憶や想像力をかりて形づくられた観念であるか、いづれか であることは明らかである。 』又『いま私がその上で物を書いている机が存在する、というのは、

私がその机を見たり感じたりすることである。そして私がこの部屋を出ていったとしても、もし 私がその部屋に居たとすればその机を知覚し得た、という意味で机が存在することが出来る。 』

(註4)

限界効用学派のC. Mengerはさきに引用したように、 『国民経済学者が恰も実在物の如くに 価値を言為したりして、之を客体化することは全く誤謬であるO何故なら客観的に存立するもの はつねに物か、物の数量かにすぎない。物の価値は物とは本質的に異なったもの‑‑ ‑iIと述 べていることから、物自身はその自然的性能と共に客観的に存在することを肯定するが、物が商 品として存在することだけは客観的なものではない。これは経済人の構成する全く主観的な判断 であると主張する。私はこのような理論に賛成することは出来ないO或る人が会社の社長である と仮定するならば、 C. Menger の説を適用すれば、一個の自然的な人間としての存立は客観 的であるが、会社の社長であるということは全く人の判断と心理によるものであるということに なる。私達は一般的に云って会社の社長は自然的な人間であると同時に会社という社会的な組 織体制が現実に存在し、その社会組織の中の一員でありそれを代表するものとしてその客観的な 存立を疑う者はない。私達が個々人に於てその社長を主観的に認めないことは自由であるが、主 観的な判断と心理と欲望の如何にかかわらず、その人は社長として働いていることに変りはな い。自然的な存立のみは肯定するが、社会的に存立する客観物だけは客観的な対象として認めず G. Berkley の方法にかえるということには問題があるO私達は現実に市場に於て商品を見るこ とが出来るが、商品は自然的性質を持つと同時に‑こ何円という価格をもって完員されている。

即ち自然的客観物であると同時に、自然的性質とは別個の社会的な(人間の作用の結果としての)

客観物として私達の主観をはなれて存立していることは疑う余地がない。だがC. Mengerの云

(6)

っているように交換価値は、物の自然的な性質とは全く別個のものであり叉本質的に異なったも のである。

°  °  °  °  °  °  ° . . .       . °  °  °  °  °  °  °  °

それは物が本釆的に持っている性質とは異なり、人間が作用した結果の、人間社会に特有な物 の性質として客観的な対象である。

さてこのような客観的な交換価値は、個々人が欲望し判断するだけでは成立しない  Bbhm Bawerkは、この人間の主観が客観化するために売買の市場を想定し、ここに於て売手と買手の 限界対偶 Grenzpaarungが行なわれ、現実の価格が決定されることを論じている。然し今日の 経済的実践が示すところによれば、売手は既に過去に於て成立した価格を目標に生産し、市場に 対して供給をするo買手も亦限界効用でなく、既存の価格を目安にしてその商品を需要し、この ような売手と買手の対偶によって価格の修正が行なわれるのであって、この対偶の基準として既 に前挺された過去の交換価値が存在することである。然しながら今日の市場の成立する以前の原 初的な市場に於てBohm Bawerkの述べたような限界対偶が行なわれたのであろうか。この場合 に於ても物に対する欲望の程度という主観的なものは交換の基準となり得ないことは明らかであ

る。従ってAdam Smithもまた交換の基準となるものは欲望の程度又は物に対する重要度を現実 に表現した『そのものを獲得するための労苦』 toil and trouble of acquiring it と云って次の

ようにのべている。

Labour, therefore, is the real measure of the exchangeable value of all commodities.

The real price of everything, what everything really costs to the man who wants to acquire it, is the toil and trouble of acquiring it. What everything is really worth to

the man who has acquired it,and who wants to dispose of it or exchange it for some‑

thing else, is the toil and trouble which it can save to himself, and which it can impose

upon other people. (註5)

次に K. Marxの経済学に於ける価値説をのべる。 Marxは資本論のはじめに『資本制生産 方法が専ら行なわれる社会の富は尤大なる商品集積として現われ、個々の商品はその成素形態と して現われる。故に我々の研究は、商品の分析を以てはじまる。商品はまづ外界の‑対象であ る。 ‑ ・‑』という書き出しで始められる。これは、商品が私達にとって外界の‑対象であるこ と、商品が資本制生産方法が行なわれる社会の富の中の最も普通な、然も全社会の富の細胞形態 であるから、ここから分析をはじめていこうという極めて科学的な態度をみることが出来る。例 えば人体は細胞が発展し集積したものであるから、細胞から分析し発展の跡を辿ってゆくことに よって人体全体の統一的な知識に到達しようというのであるO

さて Marx は商品を分析することによって基本的な矛盾を見出した。商品の使用価値と交換 価値である。商品を使用価値として取り扱う限り交換価値は全く捨象されて姿をあらわさない。

Mar の云う使用価値は次の通りである。 『物の有用性は、この物を使用価値たらしのる。然し この有用性は、空中に浮んでいるものではない。それは商品体の諸性質に基くものであって、商 品体とはなれて存在しない。されば鉄、小麦、ダイヤモンドなどの如き商品体それ自身が‑の使 用価値、即ち財なのである。 ‑‑‑一日‑使用価値なるものは、使用叉は消費によってのみ実現さ れる。富の社会的形態の如何を問わず、使用価値は常に実材的内容を形成する。 』 (註6)

又一万交換価値としてみれば、使用価値の‑原子をも含まないのである。

『各商品は、これを使用価値としてみれば、互に質を異にするということが先に立つが、交換

価値としてみれば、ただ量を異にし得るにすぎず、従って使用価値の‑原子も含まないのであ

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る。そこで、商品体をその使用価値からはなれてみるとき、残るところはただ労働生産物たる‑

性質のみである。 ‑‑‑‑‑労働生産物を使用価値から抽象することは、同時にまた、労働生産物 を使用価値たらしめる有形的な諸成分及び諸形態からも抽象することになるOかくして労働生産 物は、もはや、テーブルでもなく、家でもなく、糸でもなく、その他何等の有用物でもない。労 働生産物のあらゆる有形的性質は消え去っているO ・・一一・労働生産物の有用性と共に、それ等の ものに表現されている諸労働の有用的性質も亦消滅し、これら諸労助の種々の具体的形態も亦消 滅する。諸労働は最早、互いに相異なるところなく、凡て等‑なる人間労働、即ち抽象的人間労 働に約元されている。 ‑=‑・‑即ち無差別なる人間労働の、換言すれば、その支出の形式に頓着す るところなく考えた人間労働力の支出の単なる凝結のみである。これらのものは、かくの如き共 通なる社会的実体の結晶としてみるとき、価値なのである。 』 (註7)

かかる使用価値と交換価値の統一体として商品があることになる。然し、何故物が、矛盾する 二つの価値を内包する商品として現われるのであるか。これについて Marxは、 『社会的分業 は、商品生産の存立条件であるが、然しその反対に商品生産は社会的分業の存立条件たるもので はない。古代印度の共同体に於ては、労働は社会的に分割されていたが、然しその生産物は商品 となるものではない。 ・・‑・互いに独立した個別的な私的労働の生産物のみが、商品として相対立 するのである。』 (註8)

私達が住んでいる社会では、私企業が互いに独立して個別に財物を生産し、生産物を市場に出 して売買することによって社会の必要なところに分配されている。いわば私的労働の生産物が社 会的なものになるた馴こ商品という形態をとるのであって、生産物の商品形態はこの社会的な必 要に応じてとられている形態ということが出来る。従って生産物が市場に出されて交換される場 合、その生産物の内包した具体的な我々の効用となる諸性質、及びこの生産物を生産するための 具体的な、例えば建築労働、紡績労働‑‑‑‑と云ったそれぞれ特性をもった労働は比較交換する ことが出来ないから、之等が比較、測定、交換可能な、無差別な、等質な、抽象的な人間労働に 約元され、これが交換価値として商品の中に統一されているのである。若し生産物が私的労働に よって生産されずに、全社会が一つの工場と仮定して、その工場内で、その工場の各所の必要に 応じて分配されるというのであれば、具体的な物の諸性質及びその物を生産する具体的な労働 を、無差別抽象的な人間労働に約元して交換価値として商品形態をとる必要はなくなるであろ

う。交換価値はこのようなものであるから、効用学派の云うように、ただ経済人の心理、判断の

中にあるのでなく、現に生産物が内包している具体的な有用労働の、無差別な抽象的な人間労働

への約元であるO しかも私的労働によって生産されるものが、他のあらゆる生産物とも公平に社

会的なものになるためのものなのである。私達はどのような生産物であっても、商品として市場

にあるときは‑こ伺円という値段でこれを完員し、交換するということを実践している。これは

繰りかえして云えば、 『その労働生産物が種類の相等しい人間労働の単なる物的外皮として通用

するが故に、これを価値として相互関係せしめるのではなく、寧ろ反対に、種類の相異った各生

産物をば交換上価値として相互等位におくことによって、彼等の相異った諸労働を無差別な人間

労働として相互等位に置くのである。 』 (註9) 労働の生産力が大なるに従って、 ‑物品の生

産に要する労働時間は益々小となり、その物品に結晶している労働量、従ってこの物品の価値は

益々小となるのである.反対に、労働の生産力が小となれば小となる程、 ‑物品の生産に要する

労働時間は益々大となり、かくしてこの物品の価値もまた大となるのである。即ち一商品の価値

の大小は、その商品の体現している労働量に正比例し、その生産力に逆比例して変化するのであ

(8)

る。』 (註一o)

では以上の通り、どんな商品でも交換されるときその交換比率が完全にその価値と一致するも のであろうか。商品の需要と供給がすべて相互に完全に一致した場合にはその通りだと答えられ

るが、これが一致しない場合には商品は価値をはなれて交換されることになる。商品生産の制度 のもとでは、社会には、個々の生産者に向って誰がどんな商品をどれだけ生産したらよいかを指 示する機関があるわけでない.生産者の一人一人は自分の責任で商品生産に従事し、商品が出来 上って市場に運ばれた後にはじめて自分の商品に需要があるかないか、販路があるかないかを知 ることが出来る。市場では販売者間に、或いは購買者間に競争が行なわれ、その結果商品の価格 は何等かの水準で決定されるO従って商品価格は市場に於ける各種の条件によって、ある時は価 値よりも高くなったり、ある時は価値よりも低くなったりする。然し価格が高くなったり低くな ったりする振動の[和むは、依然としてその商品の価値である。商品の価値法則はこのような不断 の騰貴と下落の変動の中で実現されるものである。これは商品生産の特徴とも云うべきものであ

って、無政府性、無計画性と云われ、生産について人間意志に基いてきまる全社会の全体的計画 がないということである。 (その商品の社会全体の価値については以上の通りであるが、個々の 商品価格が、その商品の個々の価値と一致しないことについては更に今一つの根拠があるが、こ れは別の機会にゆづりたいと思う。 )然し次のことはこれとは意味が違うのである。

商品価値が労働によって決定されるならば、普通の人よりも長時間かけて労働し生産した商品 の価値はそれだけ高くなるだろうか、ということである。これについて Marxは次のように云 っている。 『我々が、ある商品の価値はその商品に費やされた労働の量によって決定されるとい うとき、我々は与えられた社会状態で、一定の社会的平均的な生産条件のもとで使用された労働 の、与えられた社会的平均的強度と、平均的な熟練とをもってその商品を生産するのに必要とさ れる労働量のことを意味する。 』 (註11) 一商品の価値が社会的平均的な10時間の労働である

とき、ある人が15時間の労働をかけてこの商品を生産したとしても、その商品の価値は10時間労 働に変りないから、 5時間の労働は無駄であったことになる。

4 貨幣 につ い て

物の価格は物の交換価値の貨幣的表現であるから、交換価値が明らかにされたならば、貨幣の 本質を明らかにすることによって価格を説明することが出来る。

貨幣と商品の関係についてJ.S. Millはその名著、経済学原理Principle of Political Economy, with some of their applications to social philosophyの中で次のように云っている。

『貨幣を採用したればとて、そのた釧こ、前数章に説くところの価値法則の作用は豪も妨げら

れるものではない。物品の時価、即ち市価が需要供給にてきまり、又その永久的平均的な価値が

その生産費にて決まるという道理は、物々交換の制度にあてはまると等しく貨幣制度にもあては

まる。物々交換にて相交換される物品は、今もしこれを売って貨幣にかえらるるに於ては、やは

り等量の貨幣にかえられ、従って依然相交換さるるものであって唯異るは、交換手段が一つにあ

らず二つであるということのみ。物品相互の関係は貨幣のため変ぜらるるものではない。このた

めに新たに生ずる関係はただ物品と貨幣自体との関係のみ、即ち物品と引きかえられる貨幣の高

如何、換言すれば貨幣自体の交換価値が如何にして決まるかという問題が新たに生ずるのみ。而

していやしくも貨幣をば他の物品とは別の法則に支配さるる別物であるとみる謬想のとりはらわ

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るるに於ては、右の問題は決して難しいものではない.貨幣もまた一つの物品なればその価値は 他の物品の如く、一時的には需要供給によって決まり、永久的平均的には生産費によって決ま る。』 (註12)

これは商品と貨幣の関係を歴史的ではないが平面的に極めて明瞭にしている。経済的な諸関係 は貨幣の介入によって一見理解困難であるが、貨幣が介入したからといって商品の諸関係は変る ものではないo貨幣もまた価値の尺度や交換の用具としての特殊な機能をもった一商品であって 商品の転形したものである。従って他商品と同じく価値法則に支配されるのである。このことは 至極簡単のようであるが、貨幣の果す他商品と異なる次の諸機能のため必ずしも私達に明瞭な考

え方を提供しないのである。

1.貨幣は商品価値の尺度であること。

私達は物の重さを測定するのに一定の分量の分銅を重きを測る測定用具として物品とは別に対 置し、一定の分銅の重さを9. V9. t.と表示することによって物品の重さを測定している。こ の場合分銅自身が測定される物品と同様に重さを持たなければならないし、又物品の重きは物品 それ自身では如何にしてもその重きを知ることは出来ないO必ず他のもの(分銅)を対置するこ

とによってのみその重さを知ることが出来る。この関係は全く商品と貨幣の関係と同じである。

然し一定の経済の安定した社会に於て、貨幣の使用による商品の交換が普遍的であり価値の変動 が急激でないとき、貨幣が価値の尺度としての機能を果すのに商品の前に貨幣をならべてみる必 要はない。私達は嚢中に一文もなくとも大童の商品の値段をつけることが可能である。

2.次に、貨幣は商品の流通手段としての機能を持っていることO

売手が物を売って貨幣を手に入れるのは、ただ貨幣を手に入れるためでなく物を買うための手 段である。その貨幣でもって次に物を買うから物は売手から買手へ流れるし、貨幣は物とは反対 に買手から売手の方に流れる。貨幣は誰かの懐中に止まっていることは出来ず絶えずこの流れを 続けている。ここでは瞬間的に過ぎ去ってゆく役目を果している。この場合頭の中で考えられた 貨幣、観念的な貨幣ではその用を果すことは出釆ず貨幣を現実に必要とすることは明らかであ る。然し、だからといって完全価値のある貨幣を現実に必要とするわけではない。それは瞬間的に 過ぎ去ってゆく役目を果すに過ぎないから、金貨に代って紙幣や不完全貨幣の銀貨、或いは銅貨 等それ自身全く価値を持たないか、それ自身が表示する価値よりも低価値の代用物でも間に合う のである。文貨幣が流通手段としての機能を果すためには、流通する凡ての商品の価格の総額丈 の貨幣が必要であるというわけではない。同じ貨幣が種々の商品の流通の手段となればそれだけ 少額の貨幣でも間に合う。 (貨幣の流通速度)更に商品流通の場合に売手買手の問が或る程度固 定し、その間に信用が出来てくると、商品流通の都度支払をせずに一定の期間掛売、掛買した り、手形を使用するO この場合には貨幣は流通手段というよりも、帳尻の決済のための第3の支 払手段という役目を持つことになる。叉更に貨幣を専門に取り扱う銀行の介入によって、現金で はなく、小切手が貨幣を代用し、 (預金通貨)今日大口取引は何れも このような方法によって売 買される。このことは文貨幣の必要流通量を益々少量にすることになる。

かくして私達の目前に見る通貨は紙幣であり、補助貨幣である銀貨銅貨であり、小切手であっ

て、本来の貨幣である金貨は銀行の奥深い金庫にあるという現状である。然し貨幣の以上のよう

な機能によって、現実の完全価値物である金貨の代用として紙幣を始め、これら補助貨幣を流通

せしめても、これら金の代用物は現実の金の価値の反映であって恰も月の光が太蘭の反射にすぎ

ないのと同じである。もし発行紙幣の額が流通の必要とする数量を超過することがなければ、又

(10)

この紙幣が随時金に免換出来るものであれば、この紙幣の購買力は安定しているが、そうでなく て、発行紙幣が流通の必要とする数量を超過して発行されたり、允換にあたって紙幣が表示する 価値と異る少い価値の貨幣が渡されるということになれば、通貨の価値は下落しその反作用で物 価が騰貴することになるO (紙幣は一定の安定した経済秩序を基礎にした国家権力によって金貨 の代用を保証したものであり、経済秩序の不安、国家権力の不安によってその保証が不安定にな れば無価値となり、叉国家間の取引には紙幣は通用せず、本来の貨幣を必要とする。 )

一定の社会で一定の時に於ける金貨の準備率は、すべての通貨が銀行の手許に集中されて取扱 われている進歩した経済の国に於ては、これを或る程度正確に計算することが可能であって、こ の準備率を無視して紙幣が発行されない限り所謂インフレ‑ションの心配はないが、この準備率

は政府及び中央銀行にはよくわかっていても、国民にはわからないものであるから、政府が赤字 補填のため、或いは戦費その他多額の費用支払のために公債発行等の手段により、中央銀行をし て準備率を無視して紙幣を発行せしめるならばインフレーションとなる.これは既に我国に於て も充分経験ずみのことである。此処でインフレーションについて今少し考えてみたいと思う。イ ンフレ‑ションは高い税金より以上に悪質な国民よりの収奪である。当初政府は、究換率を無視 した無価値の紙幣を価値代用物として市場に投入することによって、価値ある国民の生産物を入 手する。紙幣は国民の間に流通する間に価値を減じて、国民は従釆の通貨によって購入していた 物品を入手するには更に多額の通貨を必要とする。即ち生産費が高騰する。コスト高になる。こ のことは売却する製品の値上げを必要とし、凡ての企業について売却製品と購入製品が同時に値 上げになるならば当面問題はないが、そうではなくてある企業(政府の関係した)については一 時的に従来よりも有利に、或る企業には不利に、凸凹に作用する。これは通貨面よりする従釆の 経済秩序を破壊することであり、且つ政府により一万の企業群から収奪して他方の企業群を有利 に拡大生産へ導くのである。このことは既存の経済秩序の上に急激に行われるのであるから、特 定の産業部門の活況、拡大生産は労賃、原材料費の高騰を伴い、やがて全産業が貨幣価値の下落

による物価騰貴に悩まされる。銀行は通貨価値の下落のため長期資金の貸出をしぶり、産業は固 定資産の修理、取替、合理化を停止して流動資産の回転のための短期資金借入れに忙殺され、国 民経済全般の発展を鈍らせる結果となる。しかし最も犠牲を蒙むるのは勤労者階級で、物価騰貴 が絶えず貸金の上昇を上廻り、生活条件は急激に悪化をまぬがれない。このようなインフレーシ

ョンは我国に於て戦時中戦費の調達のために引きおこされたものであった。しかしインフレーシ ョンは戦費の調達だけでなく、国家の政策として各企業の国際競争力を強化するため急激に設備 投資を増加するときにも同じ現象を生ずる。けだし固定設備への投資は、その資金によって生産

された固定設備の流動化は将来長期に亘り、一万資金そのものは始めから全額流動化しているか ら、投資の初期に於ては流動商品と通貨のバランスは通過の過剰となる。もし設備投資が成功す るならばインフレ‑ションは徐々に克服されてゆくが、不成功に終り遊休設備の増大を伴うなら ば、このような企業を救済するためには更にインフレ‑ション政策を必要とするであろうO この ようなインフレーションは涯しなくくりかえされる悪循環となって経済の破局を免れない。イン フレーションこそは商品と貨幣の関係、貨幣と代用通貨との関係、を明瞭に示すものであって、

人々の主観的意図如何にかかわらず厳然と貫かれる客観的な経済の価値法則である。

以上貨幣は特殊な使命をもった商品であることを述べたが、次にこのことはどのような経過を

辿ったものであるか、叉どのような意味を持っているかを考えてみたいと思う。既に述べたよう

に商品の価値は比較概念であって、 「一袋の穀物」の交換価値は「一袋の穀物」のみでは如何に

(11)

してもこれを表現することは出釆ない. 「一袋の穀物」は「一足の靴」と対置し、之と等しく交 換されるとき「一袋の穀物」の交換価値は「一足の靴」と等しいという関係が表現される。この 簡単な等式の中に交換価値の全意義が表現されているo 「一袋の穀物」は「一足の靴」に等しい というとき、 「一足の靴」はその使用価値の形態で「一袋の穀物」の交換価値を表現したもので あって、いわば「一袋の穀物」の交換価値の表現形態である. 「一袋の穀物」という商品の中に は使用価値と交換価値が矛盾して内包され統一されているが,この二つの価値が

「一袋の穀物」 「一足の靴」   という等式に於ては、 「一袋の敷物」も「一足の靴」

も何れも私達には使用価値として映ずるのであるが、 「一足の靴」は「一袋の穀物」の交換価値 の表現形態をとって、 「一袋の穀物」の内部に統一されていたものが外部に分離したことになるO

くりかえして云えば、どんな商品でもその交換価値を表現するには他の商品の実体が必要であっ て、商品それ自身では自己の交換価値を表現することは出来ない。これは至極平凡なことであ る。更に交換が発展すると、 「一袋の敷物」の価値の表現形態は次のように拡大されてくる。

「一袋の穀物」 =

「一足の靴」

「一反の織物」

「一頭の羊」

「一隻のボ‑ト」

もしこの交換関係の系列を輯倒するならば次のようになるO

「一足の靴」

「一反の織物」

「‑頚の羊」

「一隻のボ‑卜」

= 「一袋の敷物」

この場合の「一袋の敷物」は前述とは逆に、その使用価値の形態でもって「一足の靴」 、 「一反 の織物」 、 「一恵の羊」 、 「一隻のボート」等の商品の交換価値を表現したものであって、これ 等多種類の商品の価値の尺度となっているo この価値の尺度たる物品が人類の長い歴史の中で金 に特定きれ今日の金貨となったものである。金は長年月の問その価値の変化がないこと、磨滅が 少いこと、分割容易であること、持ち運びが容易であること、誰でもその美しきを愛しうること 等の諸性質によったものである。金である貨幣が出現したことは人類の同意叉は契約によったも のではなく自然発生的なものであるが、この貨幣の出現によって商品交換は物々交換として直接 交換されることは極めて少くなり、商品の生産者は通常製造した商品を売って貨幣に換え,その 得た貨幣で再び彼が必要とする他の商品を買いいれる。物と物の交換は、貨幣の媒介によって、

商品‑貨幣、貨幣‑商品の如く一方の側に貨幣が、他方の側に商品が対置される関係とな り、商品の生産者は貨幣を得んがためのみに生産し、もし商品が貨幣に転化しないならば,即ち 生産したものが売れないならば、この商品生産者の労働は無駄になったことになる。既に交換価 値のところで述べたように、交換価値は具体的な有用な労働が抽象的な、社会的に平均化され た必要労働に約元されたものであって、この抽象的な平均労働への約元によって生産者の自己の 労働生産物は社会的に比較可能なものとなる。貨幣はこの価値を円、ポンド、ドル、などの単位 によって表現した価値の体現物であるから、商品生産者が自己の商品を売って貨幣に換ええたこ とは、私的な労働生産物が社会的な労働生産物に転化し得たことであり、売却出来ず賃酎こ転化 し得ないことは私的労働生産物が社会的生産物に転化しえなかったことである。

ここで社会的労働の生産物に転化するとは、生産者は個別に私的に孤立して労働し生産して

(12)

も、その生産物を交換することによって全社会の生産物の一部を分業によって労働し生産したと 同じことになることである。即ち個々の生産者は交換を通じて分業し協同しているという関係に ある。所で商品交換過程、特に商品を貨幣に転化する過程は、このような人と人との関係を直接 的に表現せずに、物と物との関係即ち物を売ってお金に換えるという外観をもってあらわれる。

商品の生産者は売って利潤を得んがために生産し、売れなければ他の商品(生産財)を買って自 己の生産活動を続け得ないことを心配するのみであって、社会的生産の一分担任務をもっている

ことは主要な動機とはならない。

5 賃金に つ い て

貨幣についで賃金をとりあげるのは、貨幣が商品の転形した特殊な商品であり、賃金は労働力 という特殊な商品の価値の貨幣的な表現をしたものであるからである。しかし賃金をこのように 明確にしたのはK. Marxであってそれ以外の学者は必ずしもこのように規定しなかった。

賃金基金説をとるJ. S. Millは賃金について次のように云っているo 『賃金は主として労衝 の需要と供給とによって決まる。即ち人々の屡々云うように、人口(労働人口)と資本(流動資本 のう ち労働を直接購入するのに費やさるる部分)との割合によって定まる。‑‑‑労賃(勿論一般の 率を指す)は、労働者を傭うに用いらるる基金の増加するか、又は備われんための競争者の減少す るかでない限り、決して騰貴するものではないC叉労賃は、労働者に支払うための基金の減少する か又は支払を受くべき労働者の増加するかでない限り、決して下落するものではない。』 (註13)

この場合、 J. S. Millは、需要者側として賃金に当てられる資本即ち基金を、供給者側を労 働人口として、労働者の提供する労働そのものについて掘り下げて研究しない。貸金として一定 の貨幣価値のある価値物として取扱われ支払われるものは交換価値を持っているのか持たないの か。つまり、商品であるか、ないか。

既に述べたように、商品は価値物である。商品価格は、市場に於ける各種の条件によってある 時は価値より高く、ある時は価値より低くなったりするが、価格が高くなったり低くなったりす る振動の中心は依然として商品の価値である。この価値を中心とした高低の振動の主たる原因は その商品に対する需要と供給である。つまり一定の時、一定の社会では、一定の価値があるが、

需要と供給の無計画性は商品価格をして価値より離れしめるということであったJ.S.Mill も 亦この点を次のようにみとめている。

『需要と供給とは、無限増加の出来ない凡ゆる物品の価値を支配する。但しかかる物品と云え ども、産業にて生産され、生産費の定むる最低価値を有する物品は、別である。けれども、無限 増加の出釆る凡ゆる物品に於ては、需要と供給とは唯、その供給を加減するに必要なる期間の間 だけ、価値の動揺を支配するに過ぎない。かくの如く需・給の二者は、価値の動揺を支配しつつ

自らもまた、一層すぐれたる勢力の命令に従うものである。しかしてこの勢力は価値を生産費へ 接近せしむるものであり、もし擾乱する新勢力の絶えずおこりて価値を再び動揺せしむることな ければ、価値を生産費の点に定着しおくものである。需要と供給とは常に均衡に向って突進する

ものである。しかし、恒常の均衡状態とは外でもない、物品がその生産費に従って交換きるると きをこそ、云うのである。』 (註14)

この中で、需要供給は無限増加の出来ないあらゆる物品の価値を支配するとあるから、労賃は

このようなものであろうか.但しかかる物品と云えども、生産費の定むる最低価値を有する物品

(13)

は別であると。労賃には、その生産費の定むる最低価値はないであろうか。労賃には明らかに生 産費がある。生産費とは云わないが生活費がこれにあたるO この点を指摘したのはRicardo で あるが、彼は次のように云っている。

『Labour, like all other things which are purchased and sold, and which may be increased or diminished in quantity, has its natural and its market price. The natural price of labour is that price which is necessary to enable the labourers, one with another, to subsist and to perpetuate their race, without either increase or diminution.』

(註15)

このRicardoの説に対し、これを批判してJ.S.Millは次のように云っている。

『リカード氏の殆んど凡ての結論と同様、仮説上即ち氏の出発する仮定を認容するとき、真で ある。しかしながらこれを実際にあてはめるに当っては、氏のいわゆる最低限度(最低生活費) は、殊に、これが物的のものでなく精神的の最低限度なる場合、それ自体変動しがちなものであ

ると考える必要がある。 ‑‑‑‑‑食糧の騰貴、その他労働者に不利なる変化は次の二様に作用す るであろう。即ち、 (1)慎重な人口制限の結果が徐々にあらわれて労賃が高まり、そうして禍害は 救治されるoあるいは又、 (乞)労働者の従来の増殖上の習慣が、その従来の裕福上の習慣よりも強 い場合、その生活標準は永久に低くなるであろう。以上二様の作用のうち、後者の方が最も頻繁 におこる云々一一・ ‑‑‑』 (註16)

即ちRicardoの科学的な結論は物的なものでなく精神的なものであるという。その理由は、労 働者がたとえ裕福であっても、増殖上の自制をかくから、人口の増加によってすぐに貧乏とな り、この貧乏は不幸にして従来の生活標準を廃絶してしまい、次代の人々は裕福を知らず貧乏を 樺準として却って人口を増加してゆくというのである。従って生活費は、労働者の精神上の標準 であるというのである。

ついでに今少L J.S.Millの労賃についての考えをみるならば、前述のように、労賃は労働人 口と、労働を購入する資本部分(労賃基金)とによってきまるというのであるが、この中労賃基 金は、好況、不況、物価の高低があっても、好況のときの増加は不況のときの減少と相殺され、

物価高の場合は物価低の場合と相殺され、その間に労賃基金の増減はあっても恒久的全体的には かわらない。基金の増加は、資本家の貯蓄によって事業を恒久的に拡張する場合だけであるが、

労働人口は、労働者の無知のため、好況であれば人口増加し不況になっても急速に減少すること ばのぞめず、労働人口の過剰となって絶えず労賃は低下する。これを救済する方法は、 Maithus の提唱したように人口増加を制限する以外にない、というのである。

Malthusは、人口は幾何級数的に増加するに対し、食糧は算術級数的に増加するから、労歯音 の貧困を救済するのは労働者の自制、道徳心の高揚によって人口を制限する以外に根本的な解決 方法はない。といったが、 J.S. Mill も亦この説をそのままうけついでいる。

さて上記のようなJ. S. Millの労賃基金説の中の、労働者を傭う資本部分は、労働人口に也 べて変化がないものであろうか。又この基金設定にあたって、労働者の生活費を考慮しないもの であろうか、という疑問が生ずる。 K. Marxは資本論の中で次のように云っている。

『Malthusはその局限された見地に立って、過剰人口なるものは労働の相対的な人口過剰によ

るものでなく、むしろ絶対的人口過剰によるとしたのであるが、その Maithusでさえも近代産

業の‑必然をみとめたのである。彼いわく や結婚についての思慮ある習慣も、それが商工業に主

として依存する一国の労働者階級間に甚しく行われるときは有害になってくる。 ‑‑・特殊の需要

(14)

が生じた場合、追加労働者を市場に供給することは、人口の性質上16年〜18年を経過した後でな ければ不可能である。しかるに貯蓄による収入の資本化はそれよりもはるかに急速に行なわれう る。一国の労働基金は、とかく人口に比してより急速に増大する傾きがあるものであるOク』

(註17)

MarxはMaithusの言葉をかりて、人口の増加よりも、これを雇帰する資本部分の増加の方 が大きいことを云っている。しかし現在の資本制生産方法を前提とするときは、 J.S. Millの意 見も真実の面をもっていると患う。企業が国内的にも国際的にも相互の競争によるコストを安 くするための大量生産と合理化は、機械設備等の固定資産部分を増大しそれに比して人件費即ち 賃金部分は増大せず、従来と同じか或いは少数の労働者で、然も従来よりも多く生産し、従って 単位当りコストを安くするということを唯一の目標にしていることは衆知のことである。このこ とは機械設備部分の資本を増大し、労賃にあてる資本部分を相対的に減少さしていることは必然 のことである。全体としての資本は急速に増大しても、労賃基金部分はそれに比例して増大しな いし、人口の増加に比して急速に増大しつつあるとは云えない。但しこれは繰返して云えば、資 本の利潤追求が主要な経済動因である資本制生産方法を基礎としているのであって、臭った条件 を持つ生産方法を基礎としても永久に変化のない法則であるとすることは科学的でないであろ

う。

第二に、労賃にあてる資本部分の設定に当って、資本家は労働者の生活費を考えないのだろう かという点であり、叉労働者は生活費を下廻る賃金で満足するかどうかということである。原始 資本主義時代に、個々の資本は、その蓄積に狂奔するあまり労働者の賃金を極度に圧縮するか、

労働時間の惨酷な延長をして労働者の健全な生活を無視しこれを白痴化せしめたことは世界先進 各国の実状であった。このように労働者の生活を無視したやり方は、やがて資本自身にとっても 利益にならないことがわかったので、総資本の立場から労働者の健全な生活を保障するために労 働条件の最低基準を決めた工場法(労働基準法)をはじめ、各種社会保障制度の設定拡充がなさ れた。これは総資本の立場で個々の資本に強制するという形をとっている。もしこうしなかった

ならば一国の労働資源が虚弓引ヒしてしまうからである.また高度に発展する資本主義は、機械と 共に大量の労働者を働らかすから、労働者が自らの規律によって自主的に労働する方が資本自身 の利益のた釧こ必要であったO ここに資本の側から労動組合を許容する基礎があったし、労働者 の方も集団の力で資本と交渉する方が有利であるから、この両方の利益一致が労働組合の発展を 促進している。このような実状をみるとき、資本は労働者が健全な労働力を発揮する生活水準を 顧慮することなしには全資本が発展し得ないことと、又一方労働者側も、労働組合の発展によっ て最低生活費を下廻る労賃を支払う無軌道な資本家に対して之をはねかえす社会的な力をもつに 至った。このような歴史的な実状から考えて Ricardo の説の真理なることを改めて知りうるの である。労働の自然価格は、労働者階級が自らを再生産するに必要なものの価格であり、需要と 供給はこの自然価格を中心としてそのときどきの市場価格を形成するための要因である。だがこ こで Ricardoは労働の自然価格といって労働の商品性について更に明確にすることをしなかっ た。この点の発展は一にK.Marxの功績である。 Marxは資本論の中で、

『正統派経済学は、日常生活から批判を加えずに「労働の価格」という範時を借り来って然る

後この価格は如何にして決定されるかと問うたのであるが、やがて需給関係の変動なるものは他

の凡ゆる商品の価格に於ける如く、労働の価格についてもその変動以外には何等説明するところ

がないことを認むるに至った。需要と供給が相一致したとき、他の事情に変化がないとすれば価

(15)

格の変動は存在しなくなる。と同時に需給は何物をも説明し得ないものになってしまう。需要と 供給が相一致したとき、労働の価格は需給関係から独立して決定されるところの自然価格とな る。しかもこの自然価格こそ兵に研究の対象たるべきものであることが見出されたのである。 』

とのべ、更に、 『経済学はかくして労働の偶然的な価格を通して価値に到達しようと期待してい た。而して次にこの価値は、他の商品に於ける如く生産費によって決定されるものとしたのであ る。だが労働者の生産費とは何ぞや。経済学は無意識の中にこの問題をもって本来の問塩に代置

してしまった。けだし労働それ自身の生産費をもってしては徒らに同じところを循環するだけ で、新たな方向に転ずることはないからである。 (例えば12時間労働日の価値は何によって決定 されるか。それは12時間なる労働日の中に含まれている12労働時間によって決定されるというば かばかしい重語)そこで経済学が労働の価値と名づけているものは、実は、労働力の価値である

ということになる。労働力なるものは労働者の人格のうちに存在するものであって、その機能た る労働と異なれること恰も機械がそれ自身の作用と異なる如くである0 』 (註18)

Marxは労働と労働力とを明確に区別する。私達が機械の交換価値を云々する場合、その機械 の生産費、即ち機械の生産に投下された社会的に平均化された必要労働を価値としてそれを貨幣 表現したものを考える。勿論。機械の生産には固定設備、材料、労働その他種々の生産要素が考 えられるが、価値としてみる場合は、固定設備、材料などのように過去の労働を蓄積したもの であるか、新たに労働が附加されるものであるかの区分があるのみで、出来上った製品としての 機械はこれらが合一されて何れも機械を生産するために投下された労働量となるのである。機械 購入者は、この機械を入手した後機械の用途に応じてこれを自由に使用しその機能を発揮せしめ

る。いわばこれは機械の使用価値であるo この関係は労働力についても云うことが出来る。

『商品市場に於て、直接貨幣所有者に対立するものは実際のところ労働でなく労働者である。

しかして後者が販売するところのものは彼自身の労働力である。彼の労働が現実に於て開始され たとき,それは最早彼の所有物でなくなり、彼によって販売されうるものではなくなる.』 (註19)

労働力即ち労働能力の価値は、その他の商品と同じく、その生産に必要な労働の分量によって 決定される。人間の労働力は人間の生きた個体の中にのみ存在する。人間が成長しその生命を絶 持するにはある分量の生活資料を消費せねばならない。叉人間も機械と同じく消耗するから、他 の人間によってとって代られる必要がある。従って労働者の種をうけついでゆくべき幾人かの子 供を育て上げるのに、またある分量の生活資料が必要である。更にある程度の労働の熟練と知識 をうるためには教育と啓蒙の管用がかかるO (質の異なる労働力の生産費はまたそれぞれ異なる ことは勿論である。 )

かくして労働力の価値は、労働力を生産し、啓蒙し、維持し、永続させるに要する生活資料の の価値によって決定される。かかる労働力を購入した資本家は労働力を使用価値に従ってその作 用を発揮せしめる。これが労働である。労賃は労働力の価値であって労働力の作用たる労働に対 して支払われるものではないo労働の価値なるものは存在しない。それは無意味な言葉に過ぎ ない。然し労働力の作用たる労働が商品価値の実体を形成するのである。

このように過去の労働の分量を含んだ価値としての労働力と、その労働力の機能である使用価 値としての生きた労働とは明瞭に区別さるべきであり、又区別のあるものであるが、他の商品と 異なり、この労働力の価値は過去の労働の分量を含んだ価値であり一万その労働力の機能である 労働は価値を創造してゆくので、前者が過去に形成されたものであるに対し、後者は生きて創造

してゆくという点をもっている。ここに労働力という商品の特殊性が存在する。この点がまた概

(16)

念の混乱をまねいたものと思われる。

しかしながら現実には貸金として支払われるものは労働力の価値ではなく、労働力の機能たる 労働それ白身の価値であることを証明するかのように見える諸現象が示される。このような現象

を要約すると2つの部類にわけることが出釆る。

その(1)は、労働日(時間)の大いさが変化すれば賃金の上にも変化が生ずることである。もし この論拠が正しいとすれば、同じ一台の機械を一週間賃借りするには一日丈賃借りするよりも多 いということで、機械の購入価格は機械の価値でなく、機械の作用に対するものだと結論するの

.t同じ結果となるであろう.

その(2)は、同一の機能をつくす相異なった労働者の得る賃金の上に個人的な区別が存すること である。このような区別は奴隷制度の中にも見出されるものであって、奴隷制度に比して翼なる のは、個人的区別の得失は奴隷制度の場合は奴隷所有者に帰するに反し、賃金労働の場合は労働 者自身に帰するという一点だけである。現実には価値をはなれて売買されるがそれは価値以上に 売る場合もあるし価値以下に売る場合もある。この点は他の商品と異なるところはない。ところ

でこのように労働力の価値と、その機能である価値を創造する労働とはその大いさに於て一致し ない。大低の場合資本家の所有し機能せしめる労働は労働力の価値を超過する。もしそうでなけ れば企業家の企業利潤は存在しなくなるであろう。この点については後の機会に述べたいと思 う。ここでは賃金は労働力の価値の貨幣表現であるし、労働力の機能する価値創造的労働は、そ の労働が生産する商品の価値の実体を形成し、賃金が労働の生産物の価値を形成するのではない

ということを云いたいのである。この点の混同がよく行なわれる。

‑物価と賃金はイタチゴッコする‑即ち賃金を上げると物価が高くなる、物価が高くなれ ば賃上げが行なわれる。そして更に物価が高くなるという説である。この問題は商品価値を決定 するのはその商品の生産のために授下された費用労働であるか(費用労働説) 、その労働力の価 値である賃金であるか(支配労働説) 、ということに帰着する。この点について Adam Smith は明確な概念の確立をしなかったが、 RicardoはSmithがこれを混同したことは誤りなりとし て次の如く

rF或る貨物の価値は、換言せばその貨物と交換されるある他の貨物の分量は、その生産に必要 なる労働の相対的分量によって定まり、その労動に対して支払われる報酬の大小によって定まら ない。 』 (註20)と云って、投下労働が商品価値を決定することを明確にし、この問題は根本的 に解決されているのである。もし後者即ち賃金が商品価値を決定するということになれば奇妙な 前述のような循環論に陪いってしまう。労働力という一商品の価格が、物価という他商品の価格

を決定するということ、云いかえれば、一つの商品価値が他の商品価値を決定する、つまり価値 は価値によって決定されることになり同義反覆に過ぎない Marxは賃金、価格及び利潤、の中 で次のように云っている。

『私はこの陳腐な一顧の価値もない愚論に対して反証をあげるために事実上の観察に訴えよ う。こういうことがある。 ‑即ち労働の比較的高価なイギリスの工場労働者、坑夫、造船工な どには彼等の生産物が安いので他の凡ての国民を売り負かしているが、一万労働の比較的安価な 例えばイギリスの農業労働者の如きは、その生産物が高いので他の殆んど凡ての国民に売り負か

されている。同一国内の品物と品物、又種々の国の諸商品を比較してみると多少の例外は別とし

て、平均して高価な労働は安価な商品を生産し、安価な労働は高価な商品を生産していることが

わかる。勿論これは前の場合の労働の高価なことと、後の場合の労働の安価なことが、諸商品に

(17)

於ける正反対の結果のそれぞれの原因だという証明にはなるまいが、とにかく商品の価格は労静 の価格に支配きれないことの証明にはなろうOだが我々にとってこのような経験的な方法を用い‑

ることは全く余計なことである。』 (註20

6 む   す   び

商品の価格は商品の価値の貨幣表現であるから、商品の価格という場合、商品の価値と貨幣の・

価値が対置きれ、商品価格は貨幣の価値が一定である限り商品自身の価値変動で変動し、商品低 値が不変であるとすれば貨幣の価値変動で変動する。今貨幣価値を不変であるとするならば、商 品価値を変動するものとして需要と供給がある。しかし需要と供給は商品価値の大いさを移動せ しめる要因であるが価値の実体を説明するものではない。価値の実体は、比較測定困難な人間の・

心理的重要度に求めるべきでな‑く、物に対する人間の心理的な重要度が現実に表現されたところ の即ち、物を獲得するために投下きれた労働に求のるべきである。しかし価値の実体を形成する 人間労働は、私達が日常眺める建築労働、織物労働日‑ ‑‑・などの具体的な労働でなく、これら が約元された抽象的無差別、等‑な、然も社会的に必要な人間労働である。何故このようなこと が行なわれるか。それは商品が私企業即ち私的労働によって生産され、交換によってはじめて社 会的に必要であることが実証されるが、交換に当って何れの具体的労働も平等な無差別な人間労 働一般に約元きれてこそ、比較測定評価が可能だからである。

このj:うな価値は実体的な物を以て表現しなければ表現する方法がない。即ちA商品の価値は 12労働時間とは表現されずに、 A商品の価値はB商品に等しいというようにB商品という実体が 必要である。物の重さが表現される場合、他の実体物を対置して比較測定されていることと同じ である。

この価値の表現形態として金という特定の物が選ばれて貨幣となったのである。貨幣はその果 す機能の故に、本来の貨幣に代って紙幣、補助貨幣が流通させられているが、代用通貨であるか

ら代用きれるための一定の限度として本来の貨幣の準備率がある。これを無視して代用通貨を堵 発すれば工nflationになる。このことはまた貨幣が交換価値の体現物として選ばれた商品である ことを物語っている。このような価値を創造するものは人間労働であるが、価値を創造する人間 の労働と、既に過去の労働を含んだ価値の体現物である労働力とは区別きるべきであって、機観 の価値がその作用と区別されることと同一である。ここで人間労働が機械の作用と同一視される 根拠は商品生産の社会経済組織にあるのであって、人間労働も一商品化して経済的交換価値を有 することが今日の社会の特色である。

きて労働力の価値が賃金となり、、労働力の機能である労働が商品の価値をつくるものであれ ば、物価という一般的な商品の価値と賃金という一商品の価値は直接の因果関係にあるものでは ない。このことは Marxの例によるまでもなく、高度の生産性を有する機械生産の行なわれる 企業の賃金は比較的高く、その製品は安価であり、そうでない企業の製品が高価であること、又̲

各企業は労働の生産性を向上しコストを安くすることに熱中していることからもうかがい知るこ とが出来る。以上が本稿でのべた要旨である。

引  用  文  献

註1 カール・メンガ‑著 安井琢磨訳  国民経済学原理序論

参照

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