奈良教育大学学術リポジトリNEAR
小学校社会科学習指導のための山村地域の実態研究
著者 西田 和夫, 菊地 一郎, 淡野 明彦
雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要
巻 17
ページ 139‑154
発行年 1981‑03‑23
その他のタイトル A Research on the Mountain Region for Leading Social Studies in Elementary School.
URL http://hdl.handle.net/10105/6494
小学校社会科学習指導のための山村地域の実態研究.
西田和夫・菊地一郎・淡野明彦.業
(地理学教室)
1.はじめに
現行の昭和52年版小学校学習指導要領では、これまで通り小学校中学年に地域学習が位置づけ られている。43年版と異なる点は、①3年生では市(町、村)、4年生では県(都、府、県)とい った学年による学習の範囲を行政区画によって区切ることを改め、両学年を通じて関連的に扱わ れることになった、②3年生では市(町、村)程度の地域における地形的特徴、土地利用、集落 の分布などをとりあげ、人々の生活と自然環境との関連を理解させることに加えて、改訂ではこ うした内容の上に自分たちの市(町、村)の自然条件と異なる地域を県(都、道、府)内から選 び、その地域における生活の様子を理解させたり、自分たちの市(町、村)の人々の生活と比較 させる内容が加えられ、3年生で自分たちの市(町、村)の様子や人々の生活ばかりでなく、県 内のいくつかの市(町、村)の様子や人々の生活を扱うことになり、県全体があ季程度とらえら れるような指導が行われることになった、③43年版では4年生では、「日本の国内ではそれぞれ の土地の条件に応じた人々の工夫によって特色ある生活が営まれていることを理解させ、これら の事例を参考により広い視野から自分たちの市(町、村)や県の特色を考えさせる」、すなわち
「身近な地域」の特色を全国的な広い視野から理解させようとするものであったが、改訂では4 年生のほぼ2学期までに「身近な地域」の学習を完結し、それをふまえて国土学習に入ることに なったため、r身近な地域」を広い視野から理解させようという立場よりもr身近な地域」とr他 地域」とはそれぞれ一応切り離して考えられるようになり、これにより「身近な地域」を方法概 念とする立場が一歩後退し、目的概念とする立場が浮上した1)2)3)。
以上のことは小学校中学年の地域学習において、児童の居住する市(町、村)についてのより 土着性の強い内容豊かな学習を必要とし、また比較の対象となる県(都、道、府)の地域につい てもその地域の実態にせまる肉薄した学習が要求される。このためには児童に地域社会について の強い問題意識をもたせる指導計画が必要であり、地域のかかえる問題をひき出すような授業の 展開がなされねばならない。指導者である教師自身には地域社会1こついての視点の明確化が要求
されるであろう。具体的には学習の目的に適確な教材づくりから着手されることになり、奈良県 内においてもいくつかの市町村で地域学習用の副読本の改訂が進められている。
本稿は、僻地研究の一環として昭和54・55年の夏期に奈良県吉野郡下北山村を訪れ現地での 資料収集と実態調査で得た成果をもとに、山村地域の教材開発にあたっての視点を具体例に基づ
・ A Resear曲。n the Mountain Re鎮。n forしading Social Studies in Elementary School.
Kazuo Nishida,Ichiro Kikudli and A㎞hiko Tamo(Department of Geography,
Nara University of Education,Nara)
一139一
いて示すことを試みたものである。人口、集落、産業、開発の各項について述べる。なお、本研 究は1980年度僻地教育研究費によるものであり、2−11概観および2■2〕人口の動向を西田和夫、
2−13瞳業を菊地一郎、1はじめに、2−14〕開発および3おわりにを淡野明彦がそれぞれ分担し た。ただし、本稿を進めまとめるにあたっては、分担した3名の間で十分議論し、共通の認識を 得たものである。
2 奈良県音盤郡下北山村の山村地域に関する教材聞発 ω 概 観
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第1図下北山村長期基本構想(1979)付図
下北山村は奈良県の南東隅、吉野山地、奥吉野の中の山村である。吉野山地は地形上、さらに 一140一
東から台高山脈・大峰山脈(大和アルプス)・伯母子山地に分れるが、このうち前2者を分ける ものが北山川で、台高山脈の主峰大台ケ原山から南に流れる北山jllの谷は、古来紀伊国牟婁郡に 属してその北部の山里であるところから、北山郷と称せられ、その北半上流地域が上組、南半下 流地域が下組と分れていたが、1889年(明治22)の町村制施行にあたり上組は上北山村、下組 が下北山村となったのである。
村の周囲をみると、東は台高山脈をへた一でて三重県熊野市域に接し、西は大峰山脈の峰々を境 として十潮11村に続く。北は上記のごとく上北山村に接し、南は和歌山県の飛地東牟婁郡北山村 に連なっている。熊野市木ノ本まで直線距離で19㎞の近い位置にあるので、古来熊野地方との往 来、また同地方の影響が強かったところである。
現在はバスにより、北は吉野町上市から国道169号線に沿い南下し、口吉野と奥吉野を分ける 伯母峰峠をこえて約3時間(奈良から直通で4時間半)、南は木ノ本から約1時間でこの村に達 することができるが、バスが通じなかった半世紀以前は文字どおりの辺境、隔絶山村であった。
村の面積は135.88鮎(13,588ωで奥吉野の村としては最小である。しかしそのうち、山林が 12,400κoに及び、林地率91.3%、これに対し耕地はわずか86んα、耕地率は0.6%にすぎない。
従って、主食は1年の約1/3しか自給できず、古くから林業によって生計をたててきた村である。
1979年(昭和54)1O月現在の世帯数762、人口1,862人、人口密度は13.7人で、奈良県で は密度最小の上北山をはじめ野迫川、十潮11、大塔の村々についで少なく、奥吉野山中の山村の 特色を示している、村の形は北方孔雀岳、南西笠捨山、南東備後川上流山地を頂点とする一辺約 17㎞のほぼ正三角形で、集落は前鬼を除いてこの三角形の村の底辺中央部付近に、北山11とその 支流西ノ川に沿うて点在し、池原・浦向・小口橋を頂点とする一辺約5㎞の三角形の部分に集ま っている。前鬼は大峰山脈中腹の高度約900㎜の地点にあるが、その他の集落は高度約400㎜の 池峰を除いて、200〜250㎜前後の川沿いに分布している。大瀬と小口の両集落はダム工事のた めに水没した.
村政の中心は村役場のある寺垣内であるが、最近、村の重心は次第に池原に移りつつあるよう である。1966年(昭41)この地にダムや発電所が完成し、統合中学校もここに建てられて、人 口も全村の約1/3を占めることになった。
ダム工事によって、村は大きく変貌した。その最たるものは道路の整備であり、村の生活にも 大きな変化を与えた。国道169号線と新設の県道小口道路によって、車で村を一巡できるように なったし、村外への交通も容易になって村を急速に都市へ近づけるようになり、自家用車も急激 に増えている。ダムブームは数年にわたり、国の高度成長の波と重なり、消費生活と合せて生業 も多様になり、第3次産業の就業者も増加した。
発電所ができて、一時奈良県では普通地方交付税を受けない唯一の村となり、償却資産税によ る税収の増加は、村財政をうるおすことになった。近年、道路の舗装が進み、その他簡易水道・
保育所・公民館など、社会施設も次第に充実しつつある。
しかし、村にとっての大きな問題は過疎の問題である。青少年の村外流出で、中学校卒業者は ほとんど就職や進学のために村を去って行く。そのため若者の数が激減し、村の基幹産業である
一141一
山林労働者の老齢化が現実のものとなった。村の前途は必ずしも明るいとはいえないのであるρ5)
12〕人口の動向
人口の変遷 明治初年以後の本村の人口の変遷をみると第1表のとおりである。年を逐うて順調 に増加してきたわけではなく、大正半ば以後停滞気味となり、昭和30年代から最近にかけての変 動は殊のほか大きく、同40年代以降は年々減少している。6)
第1表戸数人口の変遷(単位人)1872年(明5)568戸2・281人・その後1907
戸 数 人 口
年代 または
世帯数 総数 男 女 1872(明5) 醐 2.281 1,179 1,102
1891(明24) 550 2,709
1899(明32) 566 3,027 1,523 1,504一
1907(明ω) 567 3,473 1,772 1.701
1912(大元) 618 3.827 2,O08 1,819
1916(大5) 732 3,985 2,073 1,912 1920(大9) 725 4,190 2,162 1,841 1925(大14) 764 3,825 1,984 1,841
1930(昭5) 820 4,0ψ 2.0% 1,948 1935(昭10) 7㎎ 3,805 2,O03 1,802 19ω(昭15) 721 3,274 1,656 1,618
1眺(昭21) 830 3,313 1,511 1,802 1948(昭23) 7駅 3,204 1,567 1,637 1950(昭25) 762 3,231 1,613 1,618 1955(昭30) 816 3,196 1,622 1,574
1958(昭33) 8〕6 3,686 1,860 I,馳6 1960(昭35) 1,028 4,027 2,221 1,806
1961(昭36) 1,048 4,397 2,都3 2,024 1962(昭37) 1,061 4,993 2,715 1,978
1963(昭38) 1,098 5,094 2,949 2,145 1965(昭40) 958 3,188 1,608 1,580
1968(昭43) 907 2,990 1,566 1,増4
1969(昭似) 838 2,493 1,173 1,320
1970(昭45) 810 2,360 1,139 1,221
1駅2(昭47) 781 2,189 1,035 1,154
1973(昭蜴) 765 2,148 1.025 1,1鴉
1975(昭50) 787 2,051 979 1,072
1978(昭53) 786 1,911 912 999 1卵9(昭54) 762 1,862 887 975 下北山村史・村勢要覧・奈良県統計年鑑 による。
しかし、この盛況も工事が完成すると共に世帯数人口とも急速に減少しはじめ、工事完了2年 後の1968年(昭43)1こは3,000人を割って2,990人となり、以後は加速度的に人口が減少して
1972年には2,189人となって明治初年以下の人口となり、1978年には2,000人を割り、1979年 現在ではついに1,862人となった。世帯数も人口の減少に伴い減少している。
しかも最近の急速な人口減少は、ダム工事のためカバーされていた村民の村外流出が、工事の 終るとともに表面化したもので、最近における山村の過疎の現象を物語っている。また、この現 象は本村のみならず、1965年〜1975年の10年間に減少率35.7%の本村以上に著しい減少をみ
年(明40)まで戸数の増加はほとんどないが、人 口は順調に増加し、1907年には3,473人となり、
1872年に比較すると1,192人の増加で52.3%の 増加率となる。そして明治初年から約半世紀を経 て、わが国で最初に国勢調査の行われた1920年
(大正9)には725戸4,190人となり、これはこの 間に戸数で157戸26.7%、人口で1,909人83.7%
の増加である。しかも1920年の4,190人は戦前に おける人口のピークを示す。その後少しずつ減少 の傾向をたどるが、昭和初年の不況で帰村するも のが増えたことも要因となり、1930年(昭5)に は戸数800をこえて戦前における戸数のピーク820 となり、人口も4,000人台となった。
戦争直後の1946年(昭21)に世帯数830とな ったのは、戦争中の疎開や戦後の引揚げなどの結 果であろう。そして戦後の総合開発に伴う北山川 水系のダム工事の進むにしたがい、村外から流入 する人が急に増加し、その最盛期1963年(昭38)
には世帯数1,098と戦前戦後を通じ本村としては 最大のピークに達し、人口もまた5,000人台に達 して5,094人は人口でも本村のピークという状態 になった。
一 2一
た大塔村(44.9%減)、本村につぐ野迫川村(35.2%減)、川上村(27.8%減)、上北山村(27.1
%減)、十津川村(25.0%滅)、東吉野村(23.6%減)、黒滝村(21.3%減)、西吉野村(21.2
%減)、天川村(19.8%減)と吉野郡の吉野・大淀・下市3町を除くlO村はすべて過疎法ないし 県過疎地域対策要項に基づき過疎地域1こ指定せられているところである。7)
人口構成と移動 本村人口の年齢男女別構成を1975年(昭50)の国勢調査結果によってみると 第2図のようにな乱男女別には男女ほぼ相半ばしているが、50歳以上の各層はすべて女子数が 男子数をこえており、しかも女子のほうが長命であるのは一般と同様である。
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第2図 年齢男女別人口(1975,10.1)
ところが年齢構成に注意すると、奈良市とくらべて15歳から29歳の年齢各層の数が著しく少 ないことが明らかである。近年、村の中学校卒業者はほとんど進学や就職のために離村し、これ がそのまま住みついてしまうケースが多いからである。
第2表は国勢調査の結果によってみた大字別世帯数と人口および人口増減率である。ダム工事 の影響のなかった1950年(昭25)と、ダム工事の初期(坂本ダムは59年、池原ダムは62年に それぞれ着工)の1960年、そして最近の1975年の各国勢調杏を比較した。これによると、人口 はダム工事以前の1950年とダム工事初期の60年とでは全村として24.6%の増加である。そして 第2表 大字別世帯数・人口(単位人)・人口増減率(単位%)
下北山村史・役場資料による
大字 1950.lO.1(昭和25) 1960.lO.1(昭和雷) 1η5.lO.1(昭和訓〕 人口増榊仏滅)
世帯数人口1A〕男 女 世帯教人口lB1男 女 世帯徴人口1α男 女 B/AC/B
前 兜 31 15 6 9 20: 86 58 28 21 2 2 O 473.3△97.7
大 縮 221 95 45 副 1)勿1165 1ω 25 一. 一 一 一 73.7 一
上 池 原 1291503 2鵯 257 190166一 謁1 310 1221脇 152 1冗 31.4△51.1
下 池 原 lOO1獅 189 1㎎ 2)Z鵜;蜘 511 419 138 409 20B 201 1ω.3△56.O 池 峰 割1264 129 1お η1289 1国 126 761独 102 102 9.5△29.4
寺 垣 内 751312 162 150 821303 1他 157 901期 109 1石 △2.9△22.8
浦 向 771鎚 1η 166 記1釘9 184 1鵯 961219 98 121 10.5△42.2 佐 田 73=333 160 173 641㎜ 108 1強 691184 86 鵯 △η.9△23.3 上 桑 原 1201518 2醜 蜘 1331ω 鵬 215 一211302 140 162 △15.1△31.4
副パ 後1184 91 93 3)47=283 I92 91 } 一 ■73=173 罰 93 一
53.8
犯=一90 ㎝ 93 詔=1幽 64 604)(411127 79 姻 △34.7 △57.5
241 87 鵯 刎 一 一 一 化.O
合 計 76213.薦11β131β18 1.0281ω2722211脳 78712.O日〕 町81りη 24.6△49.1一
一 一 ⊥L I一 .一 一■一 1■」 一 』
1)熊谷組飯場〔坂本ダム〕・2)富源家(76人、男55・女21)・ブルドーザー銅場(118人、男106・女12〕〔池原ダム〕、
3)大塩組飯場(一37人、男127・女10)、4)奥村組(210人)
一143一
工事後15年を経た今日では当時に比し49.1%も減少して半数ちかくなった。
大字列(前鬼を除く)にみると1960年にはダム工事以前にくらべ、下池原140.3%を最大とし て、大瀬、大里、小口に増加が大で、これらは表に注記のごとく、すべてダム工事によるもので ある。この問に人口減少したのは小井・大小井の34.7%減が最大でレ以上の減少、ついで佐田、
上桑原、および村の中心部寺垣内でもわずかながら減少している。
ダム工事の当時にくらべると、現在は大瀬、小口の両集落が工事のため水没したのをはじめ、
各大字とも人口は著しい減少である。工事関係の飯場などは撤去されて労働者が多く離村したの と、若者たちの離村が重なって、全大字とも過疎の状況を呈することになった。
なお、一世帯当り家族数は1950年全村で4.2人、池峰の4.9人から最少でも小口の3.6人であ った。これが現在では全村で2.6人となり、県の平均412人よりはかなり低くなっている。本村で 最大規模の下池原でも3.O人と低く、これは最近の核家族化を物語るものであろう。
人口減少の大きな要素を占めるものはいわゆる人口の社会減少で、転出者数が転入者数を上廻 ることである。1967年(昭42)には転入195人、転出300人で105人減、68年には転入162 人、転出313人に達して151人減と転出のピークを示し、72年以降79年の間にも年々50人内 外の転出超過をみていて、人口移動はかなり激しい。第3表ωは56年と68年の転出者数を年齢 別に示したもので、15〜29歳の若者たちの流出がきわだって多い。これと関連して第3表12〕は 65年から79年に至る累年の中学校卒業生の進路をみたもので、この15年間を通じて進学、就職 を合せて年々90%以上の村外流出をみており、後半の最近はとくに進学率が上昇して上市以北 の都市に流出し、二重生活が不経済なので家族も共に転出する例が多い。第3表13〕は69年におけ る月別転出者数を示したもので3〜5月の3か月に転出者が集中し、これに伴い全家族をあげて 転出するものが多くなっているのは、前記の中学校卒業生進路の状況と関わりをもつものであろう。
第3表111 第3表12〕
年齢別転出者数 中学校卒業生進路 第3表111 第3表12〕 第3表131
N齢別転出者数 中学校卒業生進路 月別転出者数(織)
年代 1956 1968(昭43)
年齢別 (昭31) 男1女 計 年次
進学1村外1村内 .就職、残留
計 月別 転出1うち 全戸
歳 1965 34154111 99 1月 912
0〜4 ll 12115 27 66 24=43− 5 72
5〜9 17 5110 15 67 40=22二4 66 2月 8=1
lO〜14 23 13110 23 3月 331 6
68 22.451 1 68
15〜19 106 33:鴉 66 69 25=32. O 57 4月 31= 7
20〜24 45 14128 42 70 28=39. 0 研 5月 151 7
25〜29 η 23:17 40 71 5=13=29 47 6月 71 6
30〜34 14 一P6.12 28 72 ■ 川 59 7月 71 2
35〜39 6 1818 26 73 27二61 1 34 8月 5= 3
40〜ψ 11 715 12 74 39・l118 58 9月 81 I
45〜49 8 615 ll 75 仏1 71 0 51 10月 g二3
50〜54 8 315 8 76 29= 5・ 0 34 11月 lO1 l 55〜59 5 513 8 77 40=51 1 46 12月 611
60〜 7 413 7 78 401 71 0 47
口 288 159:154 313 79 39=2=0 41 計 148140
下北山村史による (単位人) 役場資料による ( 位人)役場資料に橘伶人、
下北山村史による 役場資料による
一M4一
(単位人)
以上のような次第で、戦前の一時的な出稼ぎに対して、戦後の1955年(昭30)前後から、国 の高度成長1こ伴って、全国的に離村の傾向が著しくなるが、本村でも一家をあげて離村するもの が増加しはじめた。中学卒業生の進学、村外就職もこれに拍車をかける形勢である。いわゆる過 疎の波が本村にも押寄せているのであり、若者たちが村にいなくなることは殊のほか重大である。
村にとって大きな問題となっているわけである。
13〕産 業
第4表産業分類別就業者数から、総数825人のうち、林業は186人(22.5%)で第1位を占め、
本村の主産業であることがうかがえる。第2位はサービス業の132人(16.O%)、第3位は建設 業および工業のそれぞれ126人(15.3%)である。第5表土地利用状況をみると、山林面積(12,400 んα)が村の総面積(13,588仇。)の91.3%を占めており、それに比して田と畑の面積(86㎞)は わずか0.6%にしかすぎない。本村の山村的性格をよく物語っているといえよう。
第4表 産業分類別就業者数(15才以上)
連輪通信
林業漁業 卸売金 融および 分須
産業分類 総数 農業 水 産 鉱業 建設業製造業および保 険その他のサ ビス業 公務 不能の 狩猟業養殖業 小売業不動産業公益事業 産 業
欝竃、蒜11{携α1二1鷲1鷲1語 1.O8 99 132 47 4
12.O 16.0 5.7 0.5
理 言局、昭和50年国勢調査報告
区分 山 林 面積 12,400ん。
割 合 9I.3%
第5表土地利用状況
40κα O.3%
46h口 0.3%
宅 地 29hσ 0.2勉
(昭和52年7月現在)
その他 計
1,073ho 13,588κα 7.9% l00.O%
資料 下北山村役場調査
<農業>は、西ノ川に沿って自家用の水田耕作と蕗菜栽培が兼業で行われている程度であ乱
<工業〉も電子工場や縫製工場が誘致されたが、労働力供給に隣路があり、主婦の副業に依存す る状態で、生産力の拡大や設備の拡張は望めそうにない。<商業〉にいたっては、日用雑貨と食 料品の一部が販売される零細な小売業が主体をなし、しかも近年では自家用車の普及によって熊 野市への時間距離が短縮し、同市に大型店舗が出現したこともあって、村民の購買力は流出傾向 を続けている。それらの中で林業に次ぐ第二の産業として期待されているのが<観光〉である。
本村は吉野熊野国立公園内に位置し、すぐれた自然景観の観光資源にめくまれている。これまで は時間距離の点で近畿の中心地から遠く、観光資源の性格が観光目的にそぐわない面があり、観 光産業は停滞を続けてきた。しかし近年、自然を求めて本村を訪れる観光客が年々増加しており、
週休二日制の普及とあいまって家族ぐるみの健全レジャー利用に対する関心が高まると期待され、
新たな観光開発計画が立案されている。下北山村総合スポーツ公園建設計画もその一つである。8)
四囲を深山でかこまれている本村は、古くから<林業〉が主産業として行われてきた。人工林 率・をみると、面積比で44%、蓄積量で42%に達している。人工林のほとんどはヒノキ・マツを 中心とする針葉樹である。森林組合を中心に本村で行われている育林施業は次の通りである。9)
一145一
A植付けと育林 ω曲木は播種による自家養苗が行われている。かっては林地で育苗されてい たこともあったが、農家の副業として取り入れられるようになってから、養曲が盛んとなり、最 盛期1こは80万本の山出苗が生産された。近年になって減産傾向となり、不足分を三重県や吉野郡 の他村から購入している。苗木の需給調整は森林組合が行っている。12〕1955年(昭30)ごろか
ら棚積みによる地持えが行われるようになり、現在はすべてその方法によっている。13聴付けは、
初めヘクタールあたり2,000〜2,500本程度の粗植法であったが、地持えが行われるよう1こなって から植付け本数が増加し、現在はヘクタールあたり4,000〜6,000本程度の植付けがなされている。
苗木は実生3年生が主体であるが、2年生苗木およびサシ木苗も用いられる。14殖付け後5〜7 年位の間に毎年1回、機械刈りによる下刈りが行われるのが普通である。15)かって枝打ちはほと んどやられなかったが、1965年(昭40)に良質材生産を目的とするようになり、急に盛んにな って施業面積を拡大した。現在行われている枝打ちは、5〜6年生から20年生位までの間に3〜
4回繰返し実施するのが標準とされている。16胴植法のころは、除伐は行われず、間伐も一種の 択伐法であった。近年、植付け本数が増加するようになって隙間伐が行われだした。伐採木のう ち形質のよいものは磨丸太として商品化されている。
8奏対生産 ω主伐の伏期はだいたい40〜70年位であるが、伏期が短縮される傾向がある。
なお、素材の大部分は立木のままで売却されている。12〕修羅・トロ・木馬から野猿架線を経て、
現在はすべてが集伐架線によって効率よく出伐されている。このような集伐架線や伐採時のチェ ンソーの普及は、短期間で、しかも少人数で作業の完了を可能にした。
第3図素材生産の推移をみると、
20
18
16
14
12
10
2
㎡ 22,500回i 31.OOO1I■! 21000
つぎのますそ
・ ・他 もひ ・
みの雑・き木
つ が
12,900ml
年昭49 50 51 52
(資料:下北山村森林組合調査)
第3図素材生産推移
全体的に減少を示しているが、とく にその他・雑木林が急減している。
現在はヒノキ・スギの素材生産が中 心になっている。これはわが国のほ とんど慢性化した長期の経済不況の なかで、外材の輸入、建築資材・工 法の変革、流通機構の変化、それら にもとづく木材需給の変動、価格の 不安定など林業経営をとりまくきび しい環境の影響とみられる。村内産 の素材は、約65%が三重・和歌山両 県方面へ、30%が吉野郡・大阪方面 へ、5%がその他の地域へそれぞれ 出荷されている。
今回の下北山村実地調査にあたっ て、村民の間に山林所有者の林業経 営に対する考え方、経営態度にある 一M6一
第6表 所有形態別山林面積・蓄積 (昭和52年現在)
区分 面積※ 比率 蓄 積
所有形態 人工林 天然林 計 人工林率
国 有 林 1,807㎞ 14.6% 950㎡ 261,200㎡ 262,150㎡ 1O%
公 村 有 林 824 6.6 31,720 44,570 76,290 23
有 区 有 林 39 0.3 3,620 卿 3,900 85
材 計 863 6.9 35,340 似,850 馳,190 鴉
個 人 6,313 50.9 417,312 406,932 動4.244 52
私
有 会社社寺有林 3,361 η.1 189,醐 1囎.043 387,585 蝸
林 そ の 他 56 0.5 2,記0 80 2,400 82
計 9,730 78.5 609,174 605,055 1,214,229 50
合 計 12,400 lO.O 645,464 911,105 1,556,569 42
資料:下北山村役場調査 注:※施業計画1こよる実面積
第7表 階層別所有人数・山林面積 (昭和49年)
所有階層 区分 人 数 比 率 面 積 比 率
0.1〜 1ん。 174 48.6% 65㎞ O.6%
1.1〜 5 94 26.2 216 2.1
5.1〜10 25 7.0 173 1.6
11 〜20 13 3.6 184 1.8
21 〜30 9 2.5 215 2.O
31 〜50 12 3.4 472 4.5
51 〜100 12 3.4 920 8.8
1Ol㎞以上 19 5.3 8,261 78.6
計 358 100.0 1α506 100.0
資料:下北山村森林組合調査
第8表 村内・村外別所有人数・山林面積 (昭和49年)
村内所有 村外所有
計
人 数
245 113 358
比 率 69%
31 100
所有面積
2,761んα 7.745 10,506
比 率 26%
74 100 資料:下北山村森林組合調査
種の不信感が存在するのを知った。第6表所有形態別山林面積をみると、国有林が14.6%、公有 林が6.9%であるのに対して、私有林は78.5%、とくに個人有林が50.9%を占めている。第7表 階層別所有人数・山林面積によれば、0.1ん。以上の林地を所有する者の人数は358人で、その所 有全面積は1万506㎞である。そのうちlOl㎞以上を所有するものは19人(全体の5,3%)で、そ の所有面積は8,261㎞(78.6%)に及んでいる。また、第8表から村内所有者は245人(69%)
であるのに、所有面積は2,761㎞(26%)、一方、村外所有者は113人(31%)で7,745㎞(74
%)の山林面積を所有しているのである。村役場の調査によると、昨年度(昭和55年度)の課税 対象となった全所有面積は5,083㎞であるが、そのうち第1位のA社は全体の35%を占め、第2 位のB社はlO%、第3位のC社は8%で、これら村外の3社で実に53%、過半の山林面積を所
一一47一
有していることになる。A社は大手の製紙会社で、直営によって雑木林を施業している。B社の 社長はもともと村内の出身であるが、現在は東京に本店をおいている。C社の本店は北海道にあ
る。B社とC社は本村の森林組合の組合員である。このように本村の山林の多くが、村外の極め て少数の資本家に所有されているという事実は注目すべきである。
ところで、新小学校学習指導要領「社会」の第3学年の目標として、「ω(省略)人々の生活 の様子は歴史的に変化してきたことを理解させ、地域社会の成員としての自覚を育てる。」とあり、
同じく第4学年の目標には、「ω地域社会では、人々の生活の安全や向上を図るための協力的活 動や計画的活動が行われていること及び過去においても先人によるこのような働きがみられたこ
とを理解させ、地域社会の発展を願う態度を育てる。」とある;0)小学校3・4年の社会科の地域 学習を通して、生徒一人一人が地域社会の成員であることを自覚させ、地域社会の発展を願う態 度を育てることが目標として掲げられているのである。さらに、新中学校学習指導要領r社会」
の「地理的分野」、目標(5)にr地理的事象に直接触れてそれを正しく考察することに必要な 能力と、地理的事象を適切な資料に基づいて多面的に考察し公正に判断しようとする態度を育て
る。」と述べてある。l1)r身近な地域」の学習では、地理的事象を本村の林業として読みかえる ことも可能であろう。rきびしい労働と危険な労働は若者に敬遠され労務者の老令化が進んでい る」という。12)また、r山村の若い働き手は林業をいとい、他産業に流出する。この傾向は年々 顕著になり林業の根本的体質改善を図らねば山村は生活機能を失いかねない。」13)という危機感 が存在する。rなぜ若者は林業を敬遠するのか」は、「過疎化」とともに生きた教材となるだろ
㌔しかし、その前に生産手段である山地の多くを所有する村外経営者の姿勢が問われなければ ならない。現在、市街化区域における農業をやらない農地所有者に社会の批判が集中している。
確かに山林経営をとりまく経済環境はきびしい。若年労働力が林業に定着するように経営の近代 化を図り、労働条件を改善することも極めて困難である。しかしだからといって、山林経営者が 経営に消極的になり、その社会的使命を忘れて財産林的考え方をもつことは許されないであろう。
そのような場合には、 r地域社会を維持・発展させるために、林業の実態を理解し、その振興に 協力し努力しよう」という教育は成り立たないであろう。一方、村役場は、林道開発、林業構造 改善事業を行うかたわら、退職共済、掛金補助、生活環境整備資金貸付、利子補給制度、退職一 時金の支給など労働条件の整備に取り組んできた。14)また、林業経営者で組織する森林組合(組 合員151名)も、課題としてω企業的林業経営への脱皮、12〕地域ぐるみの協業経営化、13にれに 伴う労働力の安定化を三つの柱に掲げ、林業協業化への推進強化、集約林業の普及、全組合員の 山林を良質材の生産工場に、全山林境界標柱の設置などを具体的目標に定めて、r安定した職場 を確保し明るいゆたかな村づくり」に努力している。15)
下北山村教育委員会・下北山村教育振興会が本村の小学校3・4年生を対象に社会科地域学習 の資料としてrわたしたちの下北山村」を編集・刊行している。16)編集委員は村内の現場の先生 方で、その内容は立派なものである。林業関係では、二、村の人びとのくらし、2.村の人びとが っくりだすものの中のω山でつくるもの(17〜19頁)と(2〕森林組合のしごと(20〜21頁)、
四、村のうつりかわりの中の4.山のしごとのうっりかわり(46頁)がある。しかし、実際の授業 一148一
展開では、3年生で林業(社会的事象)が自分たちの村(地域社会)の中でもっている意味を考 えさせ、4年生で村役場や森林組合の林業振興に対する協力的活動や計画的活動を取りあげて、
林業経営の実態を具体的に観察させるとともに、その社会的意味を理解させ、地域社会の発展を 願う態度を育てるようなもう一歩突込んだ指導が望まれる。17)なお、同書の編集委員である小藤 征四郎は山村地域の現実を考察する上で、下北山村について鋭い分析を行っている。18)
14〕聞 発
地域開発の目的は資源開発、経済の規模拡大、地域住民の福祉向上で、究極的にはその地域を 発展させ地域住民の福祉を向上させることにあり、その具体的な開発目標はそれぞれの経済社会 の置かれている発展段階や歴史的な背景をふまえた諸条件のもとに規定されるべきであるが、そ こに定置させて地域開発以後の具体的な展開がなされねばならないといわれる。19)
1950(昭25)年のr国土総合開発法」の制定は、わが国1こおける本格的な地域開発のスター トであった。この法律に基づいてr全国総合開発計画」、r地方総合開発計画」、r都府県総合開発 計画」、「特定地域総合開発計画」の四つの計画の策定が始められ、最初に「特定地域総合開発計 画」が重点的に取り上げられ、1953(昭28)年から1957(昭32)年までに全国で21カ所が 特定地域として指定決定をうけた。その開発の内容は食糧増産のための第一次産業の振興、水資 源・地下資源等の資源開発、治山・治水などの国土保全、災害防止および工場立地の条件整備等 であっれこの計画は小型丁・V・Aとよばれるごとく、特定水系の河川流域を多く指定しダム の築造を中心的事業とした。特定地域の一つとして奈良・三重・和歌山三県にまたがる吉野熊野 地域が指定され、4,910㎞に及ぶ広大な未開発地において電源(水力)・林産資源・農産資源の 各開発を内容とするものであった。1956(昭31)年に閣議決定をうけ、事業は同年から総事業 費1,420億円で10カ年計画として着工された。この事業の主眼はわが国有数の多雨地帯である吉 野熊野地域の豊富な水資源による電源開発で、熊野川上流の北山川・十津111両水系において計7
カ所のダムを築造し最大出力合計66万KWの発電を行おうとするもので、その事業の多くは奈良 県内におけるものであった。なかでも最大の事業は池原ダムおよび発電所の築造であった。池原 発電所は当時としては本邦最大規模の揚水式発電所で最高出力は35万KWと、大出力の水力発電 所として知られる佐久間(35万KW、天竜川)、奥只見(36万KW)と比肩するものであった。
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^口rム寛□□
一
記m 担 仙 副 目
記m 担
第4図 熊野川水系の奈良県内における年間発電量の年次別推移 (筆者原図)
一149一
1966(昭41)年に工事は 竣工し電源開発事業は完成 をみたが、この結果両水系 からの奈良県内における年 間発電量は§83百万KWH
に達し、小規模な水力発電し か行われていなかった1954
(昭29)年の125百万KWH の約7倍となり(第4図)、
発電電力は京阪神・中京へ
と送電され吉野熊野地域は重要な電源地帯となった。
池原ダム・発電所築造事業は下北山村池原地区を中心として進められ、北山11のU字状の流路 がショートカットされ、支流の東ノ川に沿う大瀬集落の全水没(26戸)、本流沿いの4戸の水没な ど、山深い下北山村にとっては最大規模の開発であった。築造の目的は水力電源の開発であるた め、電力需要が低くかつ電力を利用した産業の立地も計画されていなかった下北山村にとっては 外部からの資源収奪であり、生み出された大出力の電力が村を直接にうるおす効果は皆無に等し く、築造に伴う波及効果が村に種々の影審を及ぼすものであった。短期的にみれば人家・道路の 水没とそれに伴う人家の移転・補償、道路の付替、建設資材の運搬のための道路の整備、建設労 務者の流入による村内における消費の拡大、建設関連への村民の一時的な雇用の増大が地域的イ
ンパクトとしてとらえられるが、これらの面については堀井甚一郎(1973)20)による考察がすで になされている。このような短期的な地域的インパクトの把握の重要さもさることながら、本章 の冒頭に述べたような地域開発以湊の具体的な展開が地域の発展および地域住民の福祉の向上に 向けてなされねばならないという観点から、長期的な地域的インパクトがとらえられねばならな
い。
長期的な地域的インパクトとしては、ダム・発電所からの償却資産税収入による財政面での効 果と、ダム・発電所関連の雇用への効果とがあげられる。地方自治体は税収の増加を工場等の大 型施設の誘致によって実現する例が多いが、ダム・発電所の立地も同様の効果をもたらす。第5 図は下北山村の昭和38年度以降各年度ごとの歳入総額とそれに占める自主財源およびダム・発電 所からの償却資産税の税および比率を示したものである。償却資産税収入は昭和40年度から歳人 に含まれてくるが、昭和38・
m 308 39年度における自主財源の 9.9
慮 ,入 冒盤 主頓 ダ観 金 去分 類 債 分3
嚇婁墓ζ二二奮害寡釜らの伽醜態
42N〜3 4目 49
第5図 下北山村の年度別歳入の推移(筆者原図)
52 53
比率の高さはダム・発電所 築造による補償金・土地売 却等によるものである。自 主財源の比率は昭和40年度 以降も償却資産税収入によ り高まり、昭和45年度には その歳入総額に占める比率 は54.9%にも達した。村税 収入の増加は国からの地方 交付税の減額となるが、自 主財源の増加は地方自治体 の財政基盤の向上につなが り、当該自治体の立案に基 づく積極的な事業の展開に つながり、「ゆたかな村」
皿150一
第9表 下北山村における公共施設の整備状況(昭和54年度までの実施分)
種 別 現 況
生活基盤 道 路 村 道 路線数(集落内)12、延長12,577π・、舗装率91%
〃 (集落外)19、 〃84,169㎜、 〃 10%
林 道 路線数12、延長14,495n、舗装率11%(おおむね整備)
農 道 路線数25、延長9,410π・、舗装率87%
簡易水道 全戸給水(昭和52年8月完了)
下水処理 施設なし
生活環境 清 掃 じんかい処理 最大処理能力1日5t
し尿処理 最大処理能力1日3K2
社会福祉 保健・衛生 診療所2カ所、歯科診療所1カ所、患者輸送車(1台)、救急車(1台)
住民福祉 国の制度の完全実施
教育・文化 幼児教育 保育所3カ所、幼稚園未設置
学校教育 小学校3校(鉄筋コンクリート1校、木造2校)
中学校1校(鉄筋コンクリート)
教員住宅1棟(鉄筋コンクリート、15人収容)
社会教育 公民館8集落8カ所
(資料)下北山村総務課
として地域の社会資本の充実に寄与する。昭和47年度までの自主財源の比率の高さが、下北山村 においてどのような事業の積極的展開をみたかについては歳出面でのふるいわけが不可能なため 細部にわたる検討はできないが、第9表によって公共施設の整備状況をみると道路整備、簡易水 道、清掃、保健衛生、教育面において進捗がみられ、こうした面への投資がなされたものと推測 される。しかし、昭和48年度からは財政需要の増加により自主財源の比率は次第に低下し、自主 財源の主である償却資産税も償却資産に対する評価の減額が昭和52年度からみられ、地方交付税 補助金等の依存財源への比重を高め、ダム・発電所の立地による財政面でのメリットは急速に弱 まっている。つぎにダム・発電所関連への雇用をみると、電源開発株式会社への村民の雇用は皆 無で下請の企業への日雇い労務が年間10人程度みられるだけで恒常的な雇用者はいない。ダム築 造による新しい景観の出現により貯水池を活用した観光開発が考えられ、産業基盤の弱い下北山 村にとって活力源として期待されたが、貯水池の水位の変動が激しいことから開発は不可能とな り、また旧河川敷の観光公園化も立案されたが本格的なものとして出現していない。観光開発の ためには観光資源の存在だけでなく、観光客を誘致する交通手段の整備が重要であるが、熊野・
新宮とを結ぶ道路はタム築造のための資材輸送のため整備されたものの、奈良 大阪へと通じる 国道169号線の整備はいまだ進んでいない。先述したように最近観光開発のためのプランが策定
され具体化されようとしている状態にあ乱
ダム・発電所の竣工から約15年が経過したが築造の中心となった池原地区の現況を実態調査1こ よって概観してみる。池原地区上池原129世帯のうち無作為に41戸を抽出し調査したところ、
竣工以後において世帯員数193名(タム 発電所築造のために村内に居住した者を除く)のうち 61名が村外へ流出し、老人夫婦またはいずれか一方だけの世帯が16月ある。職業をみると山林 労務・土木関係からの収入による世帯が13世帯で最も多いが、自営はわずかに2世帯のみで他は
日雇い人夫である。公務員が8世帯で、タム 発電所関係は3世帯あるが2世帯は電源開発(株)
の転勤によるもので村内に永住する可能性はなく他の1世帯は日雇い作業員である。商店経営は 一151一
9世帯で日用品販売店である。職をもたない世帯が6世帯みられる。このようにダム・発電所の 築造はその築造の中心となった地域住民には雇用源とはなりえず、雇用源を求めての村外流出を 余儀なくされている。結局は村の最低限の機能を維持するための公務関係の雇用と日用品販売の 商店経営に一応は確かな収入源を得られる状態に近ずきつつある。
下北山村における特定地域総合開発は、財政面では固定資産税の増収をもたらしこれが社会資 本の充実となって効を奏したが、最近における財政需要の増大とダム・発電所施設の償却資産の 評価額の減少とにより、ダム築造の財政上へのメリットは次第に低下している。雇用面において も村外への労働力の流出を阻止する効果をもたなかった。確かに短期的には補償金と流入人口の 増大による地元での消費の拡大をもたらしたものの、村の将来の発展へと寄与の度合いは微弱な
もので何のための地域開発であったのかという疑問が残る。長期的な地域的インパクトをとらえ ることによって、地域開発の意味を考察する視点が必要であろう。地域社会を発展させる地域開 発とは何なのかという提示を、具体的事実に基づき児童にとらえさせることが、地域社会の実態
にせまり地域を身近なものとして意識させる上に必要であろう。
3 む す ぴ
小学校中学年の地域学習の指導にあたり、教師は地域社会をいかなる視点から把握し、何を教 材化するべきか、とくに山村地域の場合について追究したのが本稿である。
下北山村は池原ダムの築造に伴い、1963(昭38)年には村外からの人口流入によって人口は 戦前・戦後を通してピークに達し、5,094人を数えた。しかし、工事竣工後は急減し1968(昭43)
年には2,990人となった。それ以後はむしろ都市部における産業の発展(経済の高度成長)によっ て、若者が流出しいわゆる過疎の雪崩現象を生じ、1978(昭53)年にはついに2,000人台を割 り、1979(昭54)年現在1,862人となった。もっとも近年の人口減少は幾分停滞傾向にある。
本村は総面積の91.3%を山林面積が占める山村である。田畑の面積はわずかにO.6%にすぎな い。したがって、古くから林業が本村における主産業をなし、近年、観光産業の発展が期待され るものの他にみるべき産業の発達はみられない。林業は従来の粗植法から脱皮し、次第に植付け 本数が増加して良質材の生産に向かいつつある。また、機械化による経営の近代化がかなり進ん だ。しかし、わが国経済の長期にわたる不況下で、外材の輸入、木材需給、価格の不安定化など 経営環境はきわめて厳しく、素材生産は低落傾向にある。また、本村では山林面積の大部分が村 外の少数経営者によって所有されているという現実がある。村内にはそれら経営者の姿勢が消極 的であるという批判があり、他方では労働条件の厳しさから若年労働者が林業に就労することを 嫌い、他産業に流出しそれが過疎化の一要因となっている。それらの現状認識の上に立って、山 村という地域社会を維持・発展させるために、村役場は労働条件の改善に取り組み、森林組合も 林業経営の近代化に努力していることも事実である。林業の実態を具体的に認識させ、協力して 地域社会の維持・発展のために村役場や森林組合の努力を教材化されることが望まれるであろう。
国家による大型プロジェクトとしての特定地域総合開発は、下北山村にわが国有数の大規模な ダムを立地させたが、開発の本来の目的である電源(水力)開発の効果は本村には皆無で、波及
一152一