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ドイツの事物科の現状と課題

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

ドイツの事物科の現状と課題

著者 小野 擴男

雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要

29

ページ 115‑128

発行年 1993‑03‑01

その他のタイトル Sachunterricht : The State of the Art and Some Tasks

URL http://hdl.handle.net/10105/6828

(2)

ドイツの事物科の現状と課題‡

小野優男

 (教育学教室)

一はじめに一

 周知のように「事物科」(Sachunterricht)は西ドイツにおいて、改革教育学以来の伝統であっ た「郷土科」(Heimatkunde)を改革するものとして登場した。60年代末から70年代初頭にかけ ての教育と科学の結びつきを強化する基礎学校の改革の一環をなすものでもあった。しかし過度 の科学主義や「伝統の軽視」といった批判によってすでに70年代の中ごろから「郷土科」の原 理やテーマヘの回帰現象もみられるところとなり、教科名も「郷土/事物科」(Heimat−und Sachmterricht)とする州も出現した。

 70年代初頭にさまざまな事物科カリキュラム構想が意欲的に提起された。それらの一つを代表 する事物科を構想したロイトリンゲン教育大学(南ドイツ/バーデン・ビュルツテンベルク州)

のヒラー教授等は事物科をめぐる今日の状況と課題を「積極的なゆさぶりとしての授業一あるい は多視点的授業の今日性一」と題して、自らが提起した立場をも総括しながら論述している。以 下そうした論述に従いながら・ドイツの事物科の現状と課題を探りたい( ㌧

1.事物科における三つの偏向

 70年代後半から事物科をめぐる論議はカリキュラム論から授業実践をめぐって、二者択一的な テーマで展開された。例えば「子どもに印すのか科学へと方向づけるのか」「オープンエンドか 学習目標に沿ったものなのか」「基礎的な内容か資質形成か」「授業か社会的経験か」「学校は子

どもを保護するのか批判的行為能力を育てるのか」というように。そうした表面的な対比、対立 がしばしば事物科の実践を混乱させているのだが、とくに近年の傾向として三つの偏向が事物科 においてみられる。

<子どもに即す=日常性への埋没〉

 「子どもに印す」という立場は、子どもを取りまく今日の状況にはもはや対応していない、固 定概念化された子ども像を追い求めているにすぎない。そこでは生活現実から生み出された子ど

もの知識欲や要求、疑問、社会的な問題関心といったことが過小評価され無視される。あるいは 逆に、子ども乍ちの日常世界や予備知識がそのまま是認され、批判的に解明されたり距離をもっ て捉えられない。つまり自明と思われることの中に新たなものを見いだしたり、新たな視角から

*  Sachunterricht:The State of the Art and Some Tasks

** Hiroo Ono(Department of Pedagogy,Nara University of Education)

一115一

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捉え直すこともなければ、日常現実に触発された子どもの問いに答えることもなく、結局は教育 課程の基準に沿って授業が形通りに進められるだけで奉る。

 「子どもに印す」ということについての誤った解釈は、その子どもの現状にとどまらせ本質的 に新たな視点をつけ加えることなく、自明のことをもっともらしくこね回しているにすぎない。

自己活動の原理がきわめて皮相にしか理解されていない。

<教科主義〉

 教師教育のあり方とかかわって、専門性とは教科専門であると受け取られ、事物科の内容が主 としてその教科専門の観点から捉えられる傾向がある。養成学部に事物科の講座はなく、そのた めの特別の教育はなされず、むしろ教育学者と教科専門の学者との間に意見の対立がある。

 教科主義は子どもの生活世界とは無関係に測定や数量化が科学であるとして、日常世界との非 連続を強調する。あらゆる学校階梯での学問(科学)への方向づけは基礎学校からの専門化を強 める。基礎学校は中等教育の準備段階という考え方がそうした傾向をさらに助長する。

 また一方・諸教科を統合した授業が宣伝され要請もされているが・そこではただ教科のいくつ かの視点を算術的に合算しているにすぎない。

 教科主義においては結局のところ生活世界が忘れ去られ、日常経験や社会的諸条件と関連づけ て事象を捉えるということに失敗している。

〈改革教育学への回帰〉

 モンテッソーリー、ぺ一夕ーゼン、デューイ、フレネなどの部分的影響が基礎学校の教育にみ られる。しかしその思想が都合よく解釈されたり、実践の一部のつけ足しとして行われている場 合が少なくない。

 学校の作業所やプロジェクト法、校外学習や自由研究、読書や工作や遊びコーナーのある教室 などが導入される。しかしカリキュラムを新たに検討し直すという根本的な問題は、すぐできる 小手先の技術的な問題とすりかえられ、授業の主要部分は旧態依然としている。本質的な部分に は変更が加えられない。読書コーナーはあちこちで単なる飾りとなり、規格化されたグループ机 がおかれ、自由活動が前もって準備された教具によって指導される。

 方法や相互作用の様式を、ただ、実用主義的に採用しても、まったく違った意味しかもたない。

それらをっまみ食い的に採用しても、あるいはまたワイマール時代をそのまま再現しようとして も今日的な課題に応えることはできないのである。

2 裏物科を発展さすための手がかり

 実践的には交錯しているこの三つの立場は、それを総合しようとしない限り、事物科の発展を 妨げる袋小路を意味する。総合化への一つの試みとして例えばテュートケンは、「子ども」「科学」

「生活」への三つの方向づけを三角形モデルにたとえ次のようにいう。「それらは学習目標の発見、

選択、基礎づけをおこなうための三つのコーナーストーンである。」(里〕

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 もっとも現実的には三つの均衡がとれずどれかに片寄りがちである。一方の強調は子どもに任 せっきりのプロジェクト法であり、場合によっては科学的思想は道具的にすら用いられない。ま た他方の極は一方伝達の世界であり、科学が生活とは無関係に自己目的化される。

 テュートケンはとりわけ科学的概念を重視する立場にたつが、彼においてはそれは人問的な生 活世界の要請に対応するものとして捉えられている。つまり学校の知識には次の三つの役割が期 待されているという。

1.知識は利用価値があること

2.知識はそれ自体本質的な価値があること 3.知識は子どもの個性化に役立てられること

 ここでは生活世界と知識・学間とが別であると捉えたり、専門知識が生活世界を忘れることを 修正しようとしている。日常世界を解明するのにあるいは社会制度を公認したり批判したりする のに、また学習や行為能力を形成するために科学はどう貢献するかがたしかに問題とされている。

 しかしさらに明らかにすべきことは、科学に方向づけられない方策、行為、経験は意味をもた ないかということである。たとえば、一次的体験、実際的学習、遊びや語りの形式、おとぎ話や 神話、美的な活動(叙述)様式の意味を間う必要があ乱

 そのようなことを考えたときに、事物科の構成視点としてヒラーらは次の三つのことが考えら れなくてはならないという。

1.日常世界の解明

2.科学的あるいはもっと広く文化的に意味を持つ対象把握の方法、さまざまな経験の仕方や問  題を解決する行為方略についての知識

3.生活世界を克服していく行為能力の形成

3.今日の事物科の理論的前提

(1)日常現実の二重性

 日常現実を把握するさい二つの把え方のあることが意識化されなくてはならないとヒラー等は 指摘する。一次的な現実(Wirk1ichkeit erster Ordnung)と二次的なそれとである。

 一次的な現実というのは物理的、いわば客観的な事物の把握を意味する。たとえば「空気には 弾性がある」「光によって影ができる」「スーパーには目玉商品が用意されている」等㌔

 それに対して二次的な現実というのはもっぱらこうした事物や現象の意味や価値についての記 述をいう。事物や事象は置かれている状況や関心の違いによってその意味が変わってくるのであ

る。現実はわれわれによって組み立てられる。極論すれば人ごとに違った形で組み立てられ意味 づけられる。そのためまた第二の現実は曖昧をさけられず、なにが現実がということについてた えず争そわれることにもなる。

 重要なことは現実をこうした二重性において捉えていることを明確に意識するということであ る。そのことによって、われわれが素朴に受け取っていることのみが現実であるという短絡的思 考から脱却していくことができる。

一117一

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(2〕原理としての視点

 日常現実の二重性への着目ということは教育の問題としてまったく目新しいことではない。現 実が生育史や興味・関心という視点(Perspektivit身t)から規定されるということは、多くの教 育論において積極的に位置づけられてきた・

 たとえば改革教育学の主導者であったぺ一夕ーゼンは次のように述べた。「教材からはたえず 新たな側面が引き出される。教材にはたえず尽きせぬ豊かな契機が含まれている。教材は常に違っ

たやり方で取り扱うことができ、たえず新たな発見や構成を可能とする。」あるいは「教材との 格闘において子どもたちに探究の自由を与えなくてはならない」と。

 そこで模範とされたのは「自然な学習」(nat{1iches Lernen)であった。グループでのコミュ ニケーションと自由な共同作業によって、子どもたちは新たな視点や意味を獲得し新たに論議を 展開することが期待されたのである。

 今日的にいってみれば、われわれにとっての現実はコミュニケーション的に規定され、他者の 経験に学びながら構成されるということ。現実についての像は単なる主観ではなく社会的な地平

と結びついたものであり、「現実は固定的な所与ではなく、人間の関係によって規定された事象 関連なのである。」現実世界というのは合意を求めての限りのない論議の過程として捉えられな

くてはならない。

 ヒラー等が日常現実において二つの行為能力を問題としたのもこの意味においてであった。一 つは、規範やきまりの有効性が素朴に前提とされる日常的行為能力である。それを「生活に固有 な行為能力」(spezifishe Hand1ungsf査higkeit)と呼ぶ。この行為形式は信頼できる自明な行為 を容易にし確かなものとする。もう一つは「一般的行為能力」(a11gemeine Handlu㎎sf互higkeit)

といわれ、ある事象をさまざまな視点から論議し意味づけ価値づける能力である。この行為形式 は意識的な決定と論議の根拠づけを可能とし、それゆえに民主教育の譲ることのできない基礎で もある。この二つの行為能力を子どもたちに形成していかなくてはならないとした(宮〕。

 だから視点を問題にするということは、決して無責任な相対主義を意味するのではない。日常 的になれ親しんできた行為形式を学ぶとともに、それに対して距離をおき批判的論議ができると いう意味で、視点こそが現実を浮き彫りにする。

4.多視点的授業(MP∪)の概念

(1〕理論的前提

 キール/ヒラー等が展開した多視点的授業(Mehrperspektiver Unterricht)は上述してきた 問題意識のもとに、事物科のカリキュラムと教材をつくりだした。そこでの主要な理論的前提は 以下のようなものであった。

① イデオロギー(「虚偽意識」)を取り除く

 事物科が日常をテーマにするという.ことは、日常における無自覚な自明性から子どもを解放し、

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謎めいたものに道を開き、関心や「不安」を呼び覚ますということである。事物科の課題は日常 現実においては直接的にっかむことのできない問題に直面さすところにある。つまり事物、関係、

およびそれらの生成発展過程が授業において描き出されなくてはならない。

 子どもたちに世界を提示することは、われわれがそうだと考えている世界あるいは子どもたち に示すに値するものを提示することなのである。事物科の授業はそれゆえ事物そのものではなく、

ある関心にもとづ.く事物についての叙述がテーマとなる。つまり絵、お話、モデル、理論的手が かりをもとに、子どもとともに現実を描き出すことを課題とする。

② 視  点

 われわれの知覚は常に選択的であり、さまざまな視点、たとえば関心、希望、情緒、偏見、意 義に従って選択している。現実は視点を通して提示されるのであって全体として現れるのではな

い。上述の一次的な現実と二次的なそれとは区別しなくてはならない。社会的な領域にあっては 特定の利害関心のなかで特別の視点が提示され、思考がっくり出される。視点という意識が批判 的な行為能力や自立の前提となる。

③実際的な討議能力

 日常現実において、その意味や価値要求の規範を素朴に受け入れるのではなく、その意味や有 効性について論議し検討することで行為の選択可能性を考える。その意味で教育は討議(Diskrus)

能力を獲得さすコミュニケーション的行為として考えられるべきであ孔

④ 構造化された行為

 構造化された行為とはある対象の分析と総合を意味している。そのことによってそれがどんな 規則によって機能しているかが理解できる。事物が分析や総合によって再構成されることでその 意味構造が明らかにされるのである。問題は世界を模写することではなく、それを理解するため に知的にいま一度生み出すことなのである。バルトはそのようにして再創造したものを

Simu1acrum (「像」)と呼んだ(4〕。この概念でMPUは日常の素朴な表示ではない、現実を描 きだす媒介物として教材を作成した。信じていたものをゆさぶることによって「自然」にはみえ なかった意味や機能を問題にできる教材。コラージュやモンタージュや風刺画さらにはテキスト と絵の組み合わせによって日常性への埋没から子どもたちを解放してやることをねらいとした。

⑤ 「遊び」としての授業

 事物科はそうした意味では「遊び」と捉えることができる。っまりそこで日常の行為領域が再 構成され、そのことによって現実が透視され批判的に意味づけられる「劇場」として。そこにお

いて叙述は現実を浮き彫りにする(erkembar)ものであって、現実そのものを模写するのでは

ない。

一王19一

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12)MPUの中核一四つの「遊び空間」として授業

 事物科はすでに指摘したように日常現実の一コマーコマを直接的に描き出すことが課題ではな い。しかしまた恣意的な視点からそれを捉えるものでもない。MPUは事象の意味構造を、補完

しあう四つ認識の視点から開示する。もちろん四つの把握方法や叙述形式が素朴に存在していの ではなく、規則構造として開発(構想)されたものである(5〕。それは事象をさまざまな視角から 叙述するための異なった「遊びの領域」を規定するものである。こうした理論構想がどの程度事 物科に役立つかは授業実践を想像(Phantasie)する力にかかってくる。

 実際よくみてみれば子どもたちは、子どもに「不似合い」と思われているものの見方をすでに している。MPUが事物科のテーマを意識的に大人の論議の水準に近づけて提示しようとするの も、そうした現実を踏まえてのことなのである。たしかに子どもがその事象をいつも完全に理解 しているのではない。しかし十分理解していないということは子どもにとって否定的なことでは なく、いっそう事物に執着することを要求し刺激する。

 事物科のこのような構想は伝統的な「子どもに印す」という考え方を否定しているといってよ い。しかしそれは現実をリアルにみた結果なのであり、伝統的な捉え方はイデオロギー的に歪め

られた子ども把握であり、ことば美しく現状肯定を促しているにすぎない。そのことは子どもた ちを過小評価するだけではなく空想的に捉えているともいえる。

 専門家としての教師は子どもを「子ども離れさす」(ランゲフェルト)ことをその職業的使命 とす孔MPUの構想はこうした要請を事物科の授業という観点から受けとめ孔子どもたちを

.無理に知性化するというのではなく、かれらが置かれている現在の状況や将来の可能性を考えれ ばそうならざるを得ないということなのである。そのうえ実践的な経験の示すところによれば、

子どもたちは喜んでまた驚くほど如しこく「子どもに即していない」と思われるものに対して関 わり取り組むのである。

 以下MPUの四つの遊び領域についてスーパーマーケットの事例をとりながら概観しておく。

<遊び領域I 事実構造としての日常現実(科学的構成)〉

 事実を有効なものとみなすかどうかは、それを伝えている方法や手段を受け入れるかどうかに かかっている。ヒラー等は事物のこうした把握を「科学的再構成」(Die scientisheRekonstruktion)

と呼ぶ。科学的叙述というのは、それを明らかにしている方法や道具と結びっいたものであるこ とを子どもたちは学ぶことになる。

 この視点からスーパーマーケットはたとえば「販売心理学」(Verkaufspsyho1gie)的にとら えられる。

一貫い物かごのなかにあるものの%は、店に入るまでは顧客の頭になかったものである。

一太陽の恵みを感じさす果物や野菜のコーナーは食欲をそそる。食欲を感じればより多くのもの

を買う。

一心拍にあう穏やかな音楽はわれわれの神経組織そのものに直接届く。

一スーパーで客の歩く距離は食料の置き方によって決まる。商品の置き方は規則的に変えられる。

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そのようにっくり出された混乱が客の新たな購買欲を刺激する。

 したがって科学的な視点での関心事は次の点にある。光線の加減、見た目のよさ、手にとれる 事・1順路・商品の配置といった観点から事実がどう提えられるかが・ここでの問題関心となる。

<遊び領域II一社会的制度的構成〉

 ここでは日常的行為が規則や秩序や法によってどのように規定されているかを明らかにする。

科学的再構成のようにいわば客観的な方法や道具が問題となるのではなく、国家や社会の文化的 伝統のなかで生み出された諸規範が問題となる。その諸規範をもとに目的に照らして事柄の適否 が決められる。

 この次元を最もよく捉えることができるのは、現に論議の的となっている事象を取り上げるこ とによってである。そこにどんな規則(法)があり、またその規則は適切なものか、誰がそれに 従い誰がそうしないのかが鮮明になる。

 スーパーマーケットの例で考えれば、万引きやそれを誘発しているスーパーの構造が問題とな るのではない。専門店や小売り店に対する威圧的競争や、そのこととも関わって年金生活者や車 をもたない者の不利益といったことが、ここでの関心事となる。食料品法の効力の可能性と限界、

価格決定や安売りの原理といったことが論じられる。

<遊び領域血一体験や経験と結びついた構成〉

 ここでは生活史的な視点から事象が捉えられる。それぞれの生育史や生活の違いによって、同 一の事象がまったく異なった印象や感じ方で語られる。そうした論議を通して、生活現実はどう 意味づけられ変容さすことができるのかということについての共通理解がつくり出され孔  そのさい子どもたちに自己の経験をたえず語らすということが問題なのではない。重要なこと

は語ることによって体験を呼び起こし感じ方の違いを明らかにすることである。

 スーパーマーケットについての対話は買い物の二面性を浮き彫りにする。明るい雰囲気のなか で商品の山を前にすると、選択の自由と優越感とに混ることができる。しかし同時に「飼い慣ら された猿あるいは有り余るお金をもってあらゆる物を食い尽くす」という像が拭いきれない。

〈遊び領域1V一日常的劇場としての現実(場面の構成)〉

 四番目の活動は、当該の事象を一連の場面としてあるいは場面の一部分として把握することで ある。場面をつくり出すことによって、子どもたちは劇場の観客のように、現実に対して距離を とることができる。そのとき対象は子どもたちにとってまさに遊び以外の何物でもなくなる。

 子どもたちは生きた生活現実を少し離れたところから見ることになる。子どもたちはそこで文 化的な遊び能力を養うとともに日常の劇場への関わり方を学ぶ。役割に新しい意味を見いだした

り、新たな用い方を生み出す機会を得ることになる。

 スーパーマーケットの場合たとえば流れに逆らって、買い物ワゴンを押して行こうとする場面 が考えられる。商品棚とレジのところで顧客の役割は決められており、決まった対応をしないと

一121一

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きにはどんな混乱が生ずるかを構成してみるとよい。

 事物科がテーマとすべき事象を四領域において構造的に描き出し、それを授業実践にまで具体 化することを多視点的授業(MPU)は課題としれそれぞれの領域で写真やスライド・文字と 絵の組み合わせ・コラージュなどによる巧みな教材がモデル的に提示され㍍

 略述したように四つの視点は同一テーマを対照的に捉えることを可能にする。もちろんあらゆ るテーマを四つの領域で再構成しなくてはならないというのではない。さまざまなテーマをいく つかの「遊び領域」で取扱い、その捉え方について子どもとともに考察する事物科において、日 常現実に対して啓発された批判的な態度を子どもたちは着実に学び取っていくのである。

13〕MPUにおける一般的行為能力という概念

 MPU構想は授業というものをよくいえば厳密に、見方を変えれば狭く一面的に規定した。学 校が社会現実に対して距離をもっているということをきわめて積極的に受けとめる。学校が外部 圧力から開放された空間であるからこそ、社会事象にっいてのさまさまな立場を理解し合う場と なり得るのである。

 MPUの構想は日常行為の中に隠されている意味や行為の構造を明らかにする事をねらいとし た。従ってまた子どもの討議能力の開発ということが中心課題となる。

MPUの用語法において上述したように討議能力のことを一般的な行為能力とよんだ。特殊な 行為能力(その有用性が素朴に前提されている意味関連における共同行為)との緊張関係におい てそれを展開することが検討された。素朴に肯定された意味関連の有効性を前提とし、その適切 性が論議されない授業あるいはカリキュラムは解放的なものではありえないのである。

 「15年経てもこの社会批判的な主張は色あせていてい。しかし今日学校が抱えている課題の広 がりを、なお十分には捉え得ていないことは認めなくてはならない」とヒラーはいう。

 MPUの公刊時点においてすでに一般的行為能力の補完あるいは批判的一実践的行為能力

(kritishe−praktische Handユungsf註higkeit)の次元への拡張が必要であるといわれた。

 「特殊な行為能力は方向づけと機能的な参加を可能とし、批判的な省察としての一般的な行為 能力は問題を見いだしたり新たな視野や解釈の可能性を論ずることを可能とする。さらに批判的一 実践的行為能力は新たな可能性を行動で検証し行為領域を積極的に知覚しその可能性を拡大する。」

つまり思考・認識のレベルにおける批判能力にとどまらず実践レベルでの行為能力の形成がさら に問題となるというのである。

 MPUが行為論に方向づけられた授業と関連づけられるのか、とりわけプロジェクト法の形式 において実現されるのか、つまるところ学校という場において批判的一実践的行為能力は形成し うるのかということはなお検討すべき課題となっている。その点についてのMPUの立場はきわ めて限定的であり禁欲的であった。

 学校という世界を越えて公共生活に入り込むまじめなプロジェクト(子どもの遊び場計画、横 断歩道や自転車道の整備、環境保護の行動や老人や障害者の介護など)は学校ではまだ稀であり

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しばしば費用がかさみ危険もはらんでいる。学校がどの程度そうした課題に開かれまたその問題 を適切に扱い得るのかは、なおこれから検討しなければならない課題である。

 たしかにMPUの概念は日常の解明とその批判的な解釈に焦点づけられる。従って日常現実を 意味づけや関係づけによってみえるようにするテキストの構成に力を注いだ。そのように考える

とMPUは伝統的には 1ectiones (講義)といわれてきた教授形式に属している。

 それゆえにまた授業ということを考えるならば他の教授形式も考慮されなくてはならないであ ろう。例えば「基礎知識の教授(あるいはコースと呼ばれるもの)」が必要である。同様に先に 述べた「プロジェクト法」さらには身体的、知的、精神的能力が呼び覚まされ、創造力が喚起さ れる「遊びと練習」一それらは何かの目的から解放されているものであるが一の領域が講義形式 以外に検討される必要がある。学校が総体としてこうした教授形式から構成されるということ、

その構成のあり方についてはなお研究が深められなくてはならない(7)。

5.MPuの評価

(1〕成立の経緯

 MPUシリーズはロイトリンゲン教育大学の研究グループがフォルクスワーゲン社のCIELプロ グラム(Curricu1um−institutiona王isierte E1ementarerziehun91971−1975)研究助成を受けカリ キュラム開発したものをタレット社から出版(1974−1976)したものである。

 それらは二冊の理論書、七テーマ(学校/郵便/スーパーマーケット/誕生日/車検制度/炭 酸水工場/テレビ)についての教材および教師用解説書・および総説書一冊であった。これらの 教材は「半製品」として魅力的なものであり、開かれたカリキュラム構成のための礎石ともなり、

理論的にも実践的にもカリキュラム開発をいっそう発展さす手がかりとなるものであると研究グ ループでは確信していた。

 にもかかわらず最終的には近づき難い作品となったのは、いくつかの原因がある。その幾つか をあげると以下のようになる。研究グループが二重の関心をもっていたこと。一つはMPUの優 れた理論的基礎づけである。当時事物科をめぐって多くの試み(たとえば合科的な郷土科に対し て科学の方法・概念・構造を手がかりとした事物科の諸構想)が提起されていた。従ってこの構 想が他の構想とどう異なっているのかを明確化することに多くの努力が費やされた。

 同時にまた当時学校教育学において受け入れられ論議されていた社会科学理論との関係も論じ なくてはならなかった。そこには知識社会学と並んでフランス構造主義(レヴィストロウ、バル

ト、デリダ)があったし、システム理論とコミュニケーション論との論争(ルーマン/ハバ マ ス)さらには初等教育における伝統的理論との論議があった。そうしたことがまた論争に関心あ る者にしか理解できない用語法(Jarg㎝)をうみだした。理論追求と用語の排他性はとりわけ 実践家の理解を困難なものとしれ

12)教材開発への関心

 グループのもう一つの関心は、教師と子どもを引きつける新しい教材を開発するということで

一123一

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あった。それは決して子どもっぽいものである必要はない。むしろそれらは理論的な構想を適切 に表現するものでなくてはならなかった。教材の作り方や叙述の関心を記録化するとともに事物 関連が際立つ視点を提示しなくてはならない。そのうえより多くの授業にも役立つように、それ を複合的に作成しようとした。

 もちろんそれらは原理的には自由に代替可能な提示つまりモデル以外の何物でもなかった。そ れゆえ美的には高度な要求を満足させなくてはならない。だからこそきわめて優れた図やデザイ

ンを備えたコラージュ、写真モンタージュ、選択を迫る漫画、ダイヤグラム、記号、写真及びテ キストの組み合わせを構想した。それらすべては知的刺激のあるものであるが、そのほとんどが コメントを必要とし、最初から一瞥のもとに誰もがわかるというものではない。現実の素朴な模 写はどこにもない。

 研究グループはこうした教材の教師に及ぼす影響を誤って評価した。こうした教材は理解され ず、むしろ誤解をうけ拒否された。事物科の授業で意図したようなことは生じなかった。教師た ちはい㌔「開発された教材を一瞥しただけではなにも理解できない。いったい子どもにどう教 えればよいのか。事象に対する好奇心や異質なものへの理解やイロニーを解する楽しさを喚起す るのではなく、不確実性や無関心を呼び起こすだけではないか。」たしかに教材は教師がスムー ズに教えることができることをねらったものでは決してない。

 さらに当時はそうした教材の提示法は話もまだ経験したことがないものであった。提示の仕方 が十分には知られていなかった。さらに教材はどちらかといえば高価であり、それぞれの部分的 一なカリキュラムが個別に購入されなくてはならなかった。七冊の教師用図書のそれぞれに構想の 基本線が叙述されなくてはならず、繰り返しや重複が避けられなかった。そのことがまた教材を 使いにくくした面もある。

 教材開発にかけた期待があまりにも多岐にわたっていたことは事実である。しかし現実変革の ための選択的な方略を提示したこのような教材と比較しうるものは、15年を経てもなおドイツに おいては生み出されていない、とヒラー等は自負する。

13)与えた影響

 学問的な論議においてもMPUのシリーズは以下のように大いに注目を集めた。

「教材の複合性と多面性が画期的でありその作り方が知的好奇心を呼び起こす。」㈹

「理論的に基礎づけられた西ドイツ唯一の総合カリキュラムの提案である。複合的で豊かな教材 をもつカリキュラムは伝統にとらわれず、しかも理念に墓1付けられたそうした教材によって特色

づけられる。」(o〕

「構想においても実践においてもいままでこのようなカリキュラムはなかった。一リ 伽

「ここには学校なくしては、子どもに開示できない経験の可能性や水準が提示されている。目標 であり内容でもある事象の捉え方を教えるこのグループの教材はできわめて興味深い。」( D  こうした評価はあったものの、MPUはすでにふれた様々な理由から基礎学校の実践にほんの

わずかしか入り込まなかった。影響を与えた地域は教育大学のある南ドイツ例えばロイドリンケ

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ン、エスリンゲン、フライブルク、アウグスブルクといった地域であった。授業実験、実践に関 心をもった学位研究さらにまた共同研究を行った実践家からは多くの研究報告書が出された。そ れらは断片的に教師用参考図書で紹介されている( 呈)。しかしそうした報告書を体系だって評価し たものは出版されなかった。

 こうした教材の広がりを阻止した要因として看過できないものは行政当局の教材認可の仕方で ある。当時MPUのような教材はバイエルンやベルリンを除いてほとんどの州ではなるほど認可 を受ける必要はなかった。けれどもそれはいわゆる投げ込み教材の扱いとなり、その購入は個々 の学校およびその責任者の同意を必要とした。MPUの教材は必ずしも廉価ではなく、通常の必 要教材に加えてこれらを購入することは必ずしも容易ではなかった。その意味では今日に至るま で学校にはカリキュラム改革のための十分な予算が支給されていないといってよい。

 上述の理由につけ加え1975年に研究グループが解散され・このシリーズの出版も1983年の5月 に中止されることになった(13)。

6.MPUの今日性とは

 ドイツの社会状況は70年代以降大きな変革に見舞われたことをとりわけ以下のような事実によっ てヒラーは指摘するω。

「ミュンヘンやベルリンのような大都市では住民の過半数以上がシングルライフである。」

「古き正しき男性像、よき女性像は瞬くうちに現実的な中味を失い色あせたものとなっている。

女性の同権への期待と現実の不平等、あるいは男性の協力・共同というスローガンと古い構図へ の固執、両者はその矛盾を先鋭化し、葛藤がっづくことが予想される。二つの性がどう向き合う かがきたるべき時代を規定する。」

「都市部では二人に一人、平均すると三人に一人は離婚している。少なくとも基礎学校の%の子 どもはいわゆる崩壊家庭の子弟である。」

「企業の活動形態の変化(国際的な資本の流動)、コンピュータ導入による労働の質の転換とい う事態は生涯一つの仕事に従事できるという考え方を断念させただけではない。個々人の一層の 可動性を促すとともに、人間、事物、空間およびその文化的伝統への偏狭な固執をたえず否定す

る。」

「科学技術によって生み出された豊かさはその分配についての争いを引き起こした。工業化が世 界に広がるとともに、それが引き起こす危険性が誰の目にも明確になってくる。われわれはまさ

に生活の基礎を破壊しようとしている。マスメディアはほとんど毎日のように環境問題や食品問 題について重い課題を報じている。利益追求と無関心とが連鎖的な自然崩壊を招いている。核問 題と遺伝子操作は終末的な様相さえ与えている。」

「東西の争いではなく南北の争いが激化する。世界経済の秩序は各国の経済秩序にそのまま連動 し、そのマイナスの作用は文化とともに自然環境も破壊することになる。」

学校と授業が生活への準傭を問題にするとき、子どもたちに現在を正しく理解させ、未来への

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(13)

対応を上述のような意味において保障しているかどうか。そのことが事物科の課題として検討さ れなくてはならない。

 そのように考えると、調和と安定性を希求する郷土科的な事物科で十分対応できるといえるだ ろうか。また現実を飛び越えて見せかけの中立を装って科学の基礎概念や方法を伝達しようとす る事物科に対しても疑問は深まる。短絡的な改革教育学への帰還が展望を切り開くかどうかにつ いては多大の疑問が付せられる。確かにMPUを想起しても現在の状況下において解決が与えら れるというものではない。しかし15年前に提起されたその構想は間違いなくひとっの貴重な手が かりを与えてくれる。

 以上がヒラーらのMPUについての総括であり事物科についての現状認識であるが、そうした 認識についての検討はなお稿をあらためて考察したい。

 注

(1)Hi1Ier,G.G./Popp,W.:Unterricht aユs produktive Irritati㎝一〇der:Zur Aktua1it批  des Mehrperspektivistisches Unterrichts(MPU),In:Schreier,H.u.a.=Zum Bi1dungswert  des Sachunterrich七,Kie11990Ss.48−77

 多視点的授業については拙稿「ドイツにおける事物科の教授学的検討」日本教育方法学会編  『教育方法20:学校文化の創造と教育技術の課題』明治図書 1991年P87−99参照のこと。

 なお、Sachunterrichtには、「事物科」「事実科」「事象科」「事実教授」などの訳語があてら  れている。基礎学校(Grundschule)のカリキュラムにおいて、Sachunterrichtの取り扱い   は州によってやや異なるが、例えばバーデン・ヴユルテンベルク州(1984)では以下のよう  な時間配当となっている。

授業科目 1 2 3 4

2 2 2 2

6 6 7 7

郷土・事実教授 3 3 3 3

4 5 5 5

図工/織物

1 2 3 3

1 1 1 1

3 3 3 3

20 22 24 24

補習および促進の処置 2 2 3 3

   (教科書研究センター編『西ドイツにおける事実教授の教科書分析」ぎょうせい 1987.より)

(2)Titken,H.1Wissenshaftsorientier㎜g und Lebensorientierung−eine Sheina1tanative?

 In:P註dagogishe Rundsha1ユ35(1981)Ss.123−146.

(3) Hi11er,G.G.1Die E1abora−tion von Hand1ungs−und Lernf曲igkeit durch einekritische  unterrichthche Rekonstruktion von Themen des6ffent1ichen Diskurses.In:Stucke zu

(14)

(4)

(5)

einem mehrperspektivischen Unterricht.Aufs色ze zur Konzeption1.Stuttgart1974,

Ss.67_81.

  Barthes,R.=Die s七ruktur1ische Tatigkeit,In Kursbuch5.Frankfurt1966Ss.190−

196

  遊びのモデル化は主としてキールがおこなっ・デ㍍Gie1,K.l Vorbemerukung zur einer Theorie des E1ementarunterichts.In:s地。ke z皿einem meh叩erspektivischen Unterricht.

Aufs批ze zur Konzeption2.Stu批gart1975Ss.8−181遊びのもつ機能に注目しながら、

四つの遊び領域を以下のように構想した。

艮巨 離

コミュニ ケーション

(役割遊び) (構成遊び)

場面的構成 科学的構成

(コミュニケーション遊び) (社会的遊ぴ)

経験的構成 社会的・制度的構成

構 成

統 合

(6)

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

  Popp,W、(Hg.)=Kommunikative Didaktik.Weinheim/Base11976.

Hi11er,G.G.:Ebenen der Un七errichtsvorbereitung.Inl Ad1−Amini u.a.①[g.),Didaktische Mode11e und Unterrichtsp1anu㎎.M血。hen1980,

  Bo1scho,D.: Partituren zum Sachunterricht.Beschreibung des Tei1curricu1um Schuユe舳r einen mehrperspektivischen Unterricht.In:Lehrmi批eユak加eu−5,ユ976Ss−

29−34

  Beck,G,/C1aussen,C.:Einfiihrung in Prob1eme des Sachunterricht.Kronberg/Ts.

1976

  Bayerishe Schu1e:Rezension(Dr.Wi.).5(1977)S.418.

  Lichtenstein−Rother,I.:Orientierung in der Lebenswirk1ichkeit.Sachunterricht und Lehrerausbi1dung im Zusammenhang der Grmdschu1reforml In=Lauterbach,R,u.a.

(Hg、):Sachunterricht zwischen A11tag und Wissenshaft.Weinheim/Base11983Ss.

77−89

  H1ner−Ke七terer,I/H111er,G G Das Konzept des mehrperspekt1v1schen Sachunter−

richts−dargeste11t am Thema Arbeitswe1t−Beispie1: Sprude1fabrik .In=Bo1scho,D./

Haarmam,D.(Hg):Hande1n und Erkemen im Sozia}bereich,Sozia1es Lemen−Sach−

unterricht(=Beitr註ge zur Reform der Grundschu1e.Bd.37)一Frankfurt1978,S.82−

103.Kr乞mer,H./Kirsch,R、:Der mehrperspektivische Unterricht−In:Katzenberger,

L.F.(Hg.):Der Sachunterricht der Grundschu1e in Theorie und Praxis.NeueE11twick1ungen

一127一

(15)

  und Tendenzen.Ein Handbuch ftr Studierende und Lehrer.Tei1III,Ansbach1975,S.

  595_644.

(13) なおMPUを研究するための文献として以下のものがあげられる。

  1.理論および総説書

   Gieユ,K.u.a.:S汕。ke zu einem mehrperspektivischen Unterricht.Aufs就ze zur Kon−

   zeption1.Stuttgart1974、/Aufs互tze zur Konzeption2.Stuttgartユ975.

   Cie1−Arbeitsgruppe ReutHngen:Stucke zu einem mehrperspektiven Unterricht−

   Einfuhmg亡bersicht,Nutzngsvorsch1館e,Imp1emen七ationsprogramm.Stuttgart1976.

  2.授業実践書

   Sanner,A.:Information−Mein皿ng−Spammg.In:Ref1ektierte Schu1praxis.Vi11ingen     1969ff.G38S.1−1O.

   Peter,R.=Wie B釦1e springen.・In:Ref1ektierte Schu1praxis.Vi11ingen1969ff.N8,

    S,1−17.

   Damenberg,U.:Bericht七ber eine Unterrichtseinheit  Information und Argument     (1970).In:Ref1ektierte Schu1praxis.Versuche,Materiaユien,Diskussi㎝ zur     Un七errichtsvorbereitmg(Hg.:Ebinger,R./Gie1,K./Popp,W./Schaa1,H.).

    Loseb1attwerk zur Unterrichtsvorbereitung.Vi11ingen1969ff.G8.S.1−5.

   Urban,D.:Wirk1ichkeit und Tend貝nz.Essen1972.

  3.解説書

   Hi11er−Ketterer,I.=Wissen昌。haftsorientierterundmehrperspektivischerSachunterricht.

    In:Die Grundschu1e.4(1972),S.321−328.Kurzfasssung in:Einsied1er,W.(Hg.):

    Konzep七ionen des Grunaschu1mterrichts.Bad Hei1brunn1979.S.124−130

   Nest1e,W.=Das PrinzipderMehrperspektivit銚,In:W6hIer,K.H.(Hg.):Didaktische     Prinzipienl Begr廿ndmg㎜d praktische Bedeutung.M遣nchen1979,S.85−110

   Duncker,L./Hohberger,G.=Mehrperspektivitat und Hand1ungsf身higkeit im Unter−

    richt.Konzeption und Beispie1e zu einer antagsorientierten Didaktik.In:Ziechmann,

    J.(Hg、):Sachun七erricht in der Diskussion.Konzepte und Projekte modemen     Sachunterrichts,Braunschwei91980,S.59−95.

  4.なお、K1ett社から出版されている教科書rわれわれの新しい世界、事物について」は    MPUの共同研究者であったクレマーが編集に携わっている。とくにその2−4巻はMPU    のミニチュア版であるといってよい。Kramer,H.u.a.:Unsere neue We1t.Zur Sache,

   Stuttgart 1977 ff1

  5.現在でもロイトリンゲンのProf.Dr.Hinerのところでこのシリーズの現物を入手でき    る。MPU−Rest,c/o Dr.Hi11er Astemweg8.7410Reuthngen3,BRD.

(14)Beck,U.=Risikogese1ユscbaft.A皿f dem Weg in eine andere Moderne.Frankfurtユ986.

参照

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