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佐藤直方講「拘幽操辨」再考

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Academic year: 2021

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(1)

佐 藤 直 方 講 「 拘 幽 操 辨 」 再 考

十 河 由 樹

はじめに

佐藤直方(慶安三‐享保四)〈一六五〇‐一七一九〉は、備後福山の人、字号はなく、五郎左衛門と称し、名の直方をもって号とする。寛文十一年〈一六七一〉、山崎闇斎(元和四‐天和二)〈一六一九‐一六八二〉に入門し、延宝八年〈一六八〇〉前後、同門の浅見絅斎(承応元‐正徳元)〈一六五二‐一七一二〉共々破門された。破門された理由は、直方が師の垂加神道を批判した為であるとか、敬義内外説について師と意見が一致せず、この論争の為に師の怒りを買った為であるとか、一定しない。しかし直方は、闇斎から破門されたにも関わらず、絅斎と共に崎門三傑に数えられ、同時代の 評判としても闇斎の高弟であったと目されていた。山崎闇斎学派(崎門)の特徴の一つとして、門生が師匠の講義を筆録した聞書を作り、師の点検を受けるという教育方法が挙げられる。こうした聞書類は、講師が口頭で話す事を筆録するという性格上、誤脱は免れず、一方では正確な本文を得難いという事情もある。聞書の本文は、講師に加筆訂正を入れてもらう場合や (注、師説を正確に後世へ伝えるために後日改めて清書される場合もあったようだが、現在でも大量に残存するこうした聞書類の伝播方法は、未だ実態があまり明らかになっていない。「拘幽操辨」も、そうした聞書の一つであり、『拘幽操』についての直方の講義を門人の丹下元周が筆録したとされるものである。ここで講義の対象とされている「拘幽操」とは、唐の韓退

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之(七六八‐八二四)が、崇侯虎の讒言により殷の紂王に謀反の疑いをかけられ、無実にも関わらず羑里に幽閉された文王の心情に仮託して詠じた長詩であり、『韓昌黎集』等に収められている。「拘幽操」における文王は、謂れのない罪で紂王に幽閉されるも、少しも紂王を怨む事無く、ひたすら自らの不徳を反省するのみである。闇斎は、「拘幽操」に詠われる文王をあるべき臣下の姿として称え、程朱の言説と自跋とを付し、闇斎編『拘幽操』として刊行した。同書には刊年が記されていない為、いつ刊行されたのかはわかっていない。「拘幽操辨」とは、その闇斎編『拘幽操』に従って講義したもので、諸写本によって伝えられる。従来、この「拘幽操辨」は佐藤直方の講説であるとされていたが、阿部隆一はそれに対して疑義を呈した(後述)。本稿では、直方の諸言説を適宜参照しつつ、阿部氏が「拘幽操辨」に対して抱いた疑問を中心に、「拘幽操辨」は果たして佐藤直方による講義といってよいか否かという事について、改めて考察を加えたい。

  先行研究

「拘幽操辨」は、その一本の奥書に「右佐藤氏直方雅丈講説  丹下元周録/貞享丙寅閏三月六日書写 (注」とある事から、佐藤直方講とされてきた。しかし、「拘幽操辨」を翻刻付注した『山崎闇斎学派』〈日本思想大系

俗の了見を以て妄に批議すべからず、万人に示す教えとして と場に於ける権道で、大賢以上のみがなし得る所であり、凡 「湯武論」にみられる、湯武の放伐は已むを得ざる非常の時 直方が主張した事との違いがあったからだとする。阿部氏は、 理由を、講義中に述べられる国体論・湯武放伐論のもつ元来 方の講説としては意外の感」を与えた事、そうした違和感の いない事、「拘幽操辨」が紹介された時、「その内容口吻は直 が直方の著編聞書類を集めた『韞蔵録』全五編に収録されて は後に触れるのでここでは省略する。その後、「拘幽操辨」 まず阿部氏は「拘幽操辨」の底本について述べるが、これ いる。以下、阿部氏の解題について検討を加えてみたい。 想大系本)の解題中で、阿部氏はそれに対して疑問を呈して 一・丸山真男校注、岩波書店、昭和五十五年三月、以下、思 31〉(西順蔵・阿部隆

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は、権道を立てず、あくまで万代不易の常道、「拘幽操」の文王を以て範とすべきで、この両点を混淆してはならぬという直方の主張と「拘幽操辨」の趣旨は、直方の放伐容認論と原則上は矛盾せず、直方と雖も経道を以て説くべき「拘幽操」を講じれば、その旨は絅斎等と帰趣を一にするだろうとし、その意味では「拘幽操辨」を直方講としても一応支障はない (注、と述べる。その後、

しかしその講じ様と口調や細部の所説は直方の他の講説とは全く異質で、絅斎のそれである。その点で此を直方の講述と断定するには疑惑を呈さざるを得ぬ。特に「湯武論」に於て直方が「夫ヲタワケタ諸生メラガ、有難イ、常道カラ見レバ湯武モハリツケ人ジヤ、鹿クラヒノ唐人メ、我邦正統万々世ノ御目出度風ヲシラセタイト云テ、何ヤラ書物ヲ作テ板行サセテ、諸人ノ眼目ヲ塞グ」(二二一頁――思想大系の頁、十河注)と激しくきめつけた対象は、実にこの「拘幽操辨」の末尾の「湯武孟子ハ謀逆人、イキバツケニカケテモ大事ナイト云コトゾ。……日本デハ伊弉諾……ノ天祚ヲウケテ、……王ノチガフト云コトハナイゾ」(二一四頁――同前)ではない か。「湯武モハリツケ人ジヤ」の言葉のあるのは伝存本ではこの聞書の外には見当らない。「湯武論」が直方の著たることが明確である以上、この「拘幽操辨」を直方の講述とすれば矛盾撞着を来すこと著しい。ただ問題は遥か後世のならともかく、直方生存中の貞享三年とそのやや前の闇斎・直方門人が此を直方の講説としている奥書のあることである。この奥書を信ずれば、その文面からはこの聞書は直方の講義を聴いた丹下元周の筆録と受けとられ、その如く従来解されて来た。しかし元周は実際聴講して筆録したのではなく、直方講説と聞いたこの聞書を単に書写し、「右佐藤氏直方雅丈講説  丹下元周録」と記したのではあるまいか。この「録」は単なる書写の意味に解されぬでもない。実際は絅斎の講説を直方のと誤り伝えられたのではあるまいか。この奥書には何等かの行き違いが伏隠しているように思われる (注

(*傍線部十河補)

と、疑義を発した。管見では、ここで初めてこの「拘幽操辨」が直方講か否かという疑問が提示された事になる。阿部氏以前における、直方講であると肯定する説は、「拘

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幽操辨」の影印を収録する『増訂

全集本)の「解説」が、その代表的なものであった。 (日本古典学会編、ぺりかん社、昭和五十四年十一月、以下、 佐藤直方全集』第三巻 次に崎門学者の最も意を注いだ大義名分の論は直方先生に於いては、門人であり且つ同門である丹下元周(名宗清京師人闇斎門)の録した『拘幽操辨』に最もよく現れてゐる。(中略)この書は極く最近発見されたものであるが、今まで直方先生に好意を持てゐなかつた人は周章狼狽、為す所を知らず、曰く「直方にも斯う云ふ思想もあつたのである」と、実に噴飯にたへない (注

この「解説」を書いたのは上総道学の学徒・池上幸二郎だ。上総道学(或は南総道学)とは、直方の門流である稲葉黙斎が中心となって上総の地に栄え、昭和まで続いた学派であった。彼らは数多くの崎門の写本・刊本――管見では直方や黙斎の聞書類や語録が多い――を伝えており、昭和になっても、崎門の著作を時には刊行、或は筆写して残そうとしている。恐らく、その学統に連なる池上氏も、直方の著作には殆ど目を通していただろう。その池上氏が右のように述べ、「拘幽 操辨」を直方の説として少しも疑っている様子が無い。また、池上氏の実父であり、同じく上総道学の学徒であった田中蛇湖は、「佐藤直方先生 (注」の中で、「拘幽操辨」について、

  又井上巽軒博士の日本朱子学派の哲学を見ると、直方先生が皇統の萬世一系なるものを定理に非ずと論断した様に記してゐるが、此れは一を知って二を知らざるの論である。先生の大義名分論は、門人丹下元周の録した拘幽操辨に最もよく現れてゐる。(中略)是れは闇斎、絅斎、強斎と全く同一の説であつて、決して先生が皇統の萬世一系に疑ひを持して居られなかつたことが判るではないか。先輩を論ずるには一寸した一時の談話などで、軽々に論じてはいけない (注

と書いており、こちらもまた「拘幽操辨」が直方講である事を疑っている様子は無い。直方講だと言い切る池上・田中父子と、直方講ではないとする阿部氏――この相違点が本稿の問題の出発点となる。以下、「拘幽操辨」の内容を確認し、伝本等について検討した

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上で、「拘幽操辨」が直方講かどうかという事について考察していく。

  「拘幽操辨」の内容

「拘幽操辨」中では、刊本『拘幽操』に付された闇斎の跋文について少し触れる箇所があるため、ここでその跋の内容を確認しておきたい。

礼曰。天先乎地、君先乎臣。其義一也。坤之六二、敬以直内、大学之至善、臣止於敬。誠有旨哉。泰誓云。予弗順天、厥罪惟鈞。是泰伯文王之所深諱、伯夷叔斉之所敢諌、而孔子所以謂未尽善也。吾嘗読拘幽操、因程子之説、而知此好文字不可漫観。既而見朱子以程説為過、信疑相半。再考之、朱子更転語、説得文王心出。夫然後天下之為君臣者定矣。遂附程朱之説于操後云 (注

『礼記』「郊特牲」の引用から始まるこの跋文によると、闇斎は程子の説に従って、この「拘幽操」を無闇に見るべきでは無いと知る。そして朱子が、程子の「漫りに観るべからず」 とする評価を言い過ぎだとする説を見て「信疑相半」ばした。しかし、朱子が更に語を転じて、これこそ文王の心を説き得たもので、天下の君臣関係を定めたものなのだと悟った事を知り、遂に「拘幽操」の後に程朱の説を附して刊行した、と『拘幽操』刊行の訳を述べている (注。崎門では、この『拘幽操』刊行の後、様々な儒者がその刊本に啓発されて講義を行ったらしい。内田周平編『拘幽操合纂』『拘幽操合纂続編』(谷門精舎、昭和十年十月、昭和十三年三月)にはそれを示すかの如く、佐藤直方・浅見絅斎・三宅尚斎の崎門三傑は勿論、稲葉黙斎や櫻木誾斎の他、講者不明の説まで、様々な『拘幽操』講義が収められている

)(注

(注。佐藤直方講とされている「拘幽操辨」は、管見では崎門の中で最も早く行われた『拘幽操』講義である。では、「拘幽操辨」の内容について見てみよう。なお、本稿で引用する「拘幽操辨」は、全集本

)((

(注所収の影印を底本とし、翻刻は十河による。翻刻にあたって、傍線・句読点は私に付し、旧字は通行の字体に、合字はカタカナに改めて表記した。「拘幽操辨」以外の資料を翻刻・引用する場合もこれに倣う。さて、「拘幽操辨」ではまず、

(6)

拘幽操ノ一書ハ、畢竟君臣ノ大義ヲ天下ニ明ニシテ、湯武孟子ノ権道ヲ論シツメテ開タモノゾ。唐ノ書ニ、此ヤウ深切ニ君臣ノ大義ヲイヒヌイタ書ハナイゾ

)(注

(注

として、このように君臣の大義を説いたものは、唐でも日本でも、天地開闢以来『拘幽操』がその始りである、と述べている。その後、

① 湯武がした放伐について論じるには殊の外細かく、放伐は

悪い事だと無闇に言う事ではなく、聖人に無くてはならない経権一枚の権道で裁く事だ、といった言説。②

『朱子語類』七十九巻にある、程子が「拘幽操」を称美し

た事を朱子が批判した説に対する否定。③

主君は天下の父である為、主君を殺す事は自分の親を殺す

と同義であり、どんな悪人でも親を殺す者は百人に一人いるかいないかであり、そうすると主君を弑する正当性はないという記述。④

く、皆その子孫である事。まい 冉・天御中主の天祚以来今に至るまで王が変わった事は無いる事から、「恐らく寛文末延宝初以後に降るものではある 万代忠信の筋が明らかなのは日本であり、伊弉諾・伊弉録』に、闇斎にこの本を購入して読めと勧められたと記して 氏は、延宝六年〈一六七八〉入門の遊佐木斎が『木斎紀年 幽操』には刊年が記されていないが、その刊年について阿部 享三年の間の事と考えられる。先述したように、闇斎編『拘 『拘幽操』刊行以後あるいは直方が闇斎に入門した年から貞 写とある事から、それ以前の成立。仮に直方講だとすれば 「拘幽操辨」の成立年は、識語に貞享三年〈一六八六〉書 点で、どこか異色である。 この「拘幽操辨」の記述は版本に必ずしも即応しないという に一々注を振っていく形をとったものが殆どである。しかし と、闇斎刊『拘幽操』の詩句や程朱の言、闇斎の自跋の語句 合纂』『拘幽操合纂続編』に収録されている拘幽操論を見る 思想大系本所収の絅斎や三宅尚斎の拘幽操講義や、『拘幽操 題の割に、湯武放伐論に関連付けて述べている箇所が多い。 /貞享丙寅閏三月六日書写」とある。「拘幽操辨」という表   とまとめる。奥書には「右佐藤氏直方雅丈講説丹下元周録 ず、とにかく主君を見ること文王のようにしようではないか、 という記述が続き、最後に、『拘幽操』の根本は是非にあら

)(注

(注。」と述べる。その一方、近藤啓吾は『山崎闇斎の研

(7)

究』(神道史学会、昭和六十一年七月)中の闇斎の年譜、万治三年〈一六六〇〉の条で、

〇 『

垂加草』の配列より見て、『孟子要略』『朱子社倉法』『行宮便殿奏劄』『拘幽操』の表章または編纂は、この頃のことならんと思はる。(いづれも成立年次を記載せず

)(注

(注

と、さらに遡った時期を想定された。ちなみに万治元年闇斎編、万治三年刊『大和小学』明倫第二に、

〇 文王

なんの罪 つみかあらんに紂 ちうとらへて羑 里にをきし時、臣か罪誅にあたりぬ、天王は聖明なりとおほしめしき、萬代まてたふとく覚え侍る

)(注

(注。(*翻刻は十河による)

とあり、闇斎は「拘幽操」の内容に触れている。また、谷省吾は『垂加神道の成立と展開』(国書刊行会、平成十三年五月)中で、 『増補書籍目録』の「寛文十年季秋」の刊記を持つものに「拘幽操  同 (闇斎)」と見えることによつて、寛文十年九月以前の刊行といふことは、一応言へるであらう

)(注

(注

と、その下限を想定している。『拘幽操』の刊行年についての考証はここではしないが、ここではしばらく谷氏のいう如く寛文十年〈一六七〇〉以前と見ておく。また、直方が闇斎に入門したのは寛文十一

)(注

(注年〈一六七一〉である。以上の事から、「拘幽操辨」が直方講だとすると、直方の闇斎入門以後の寛文十一年から、「拘幽操辨」奥書にある年記の貞享三年の十五年間の内に成立したと考えられ、版本参照の可能性もあった時期ながら、こうした情況自体、この時期門下における『拘幽操』の浸透度をもうかがわせる様相なのではなかろうか。

  「拘幽操辨」の伝本

「拘幽操辨」が収録されている一般向けの刊本は次の通りである。

(8)

・ 『増 訂 佐

藤直方全集』第三巻(日本古典学会編、ぺりかん社、昭和五十四年十一月)「拘幽操辨」の影印を収録している。しかしこの部分の底本は不明。池上幸二郎が書いた「著書解説」によると、「拘幽操辨」は元々、森川知信編『儒書聞書』の内の一篇であり、大阪の森信三により発見され、内田周平編『拘幽操合纂続編』中に収録されてから世に広く知られるようになったとする

)(注

(注。『儒書聞書』については後述する。なお、旧本の刊本もぺりかん社であり、昭和十六年に出版されている。

・ 『拘幽操合纂続編』

(内田周平編、谷門精舎、昭和十三年三月)「拘幽操辨」の活字翻刻。全集本と同じく、凡例が無い為、底本は不明であり、原本の所在はわからない。所収内容は注

10参照。

  以下、内田本と呼ぶ。

・ 『山

崎闇斎学派』〈日本思想大系

丸山真男校注、岩波書店、昭和五十五年三月) 31〉(西順蔵・阿部隆一・ 版ではなく旧版の方と思われる 「拘幽操辨」の校注・翻刻。底本は全集本(恐らく増訂

)(注

(注)所収の「拘幽操辨」影印であり、校合本として内田本を参照している。

いずれも佐藤直方講、筆録者は丹下元周(生没年不詳、初め闇斎、後に直方の門人となった)、貞享三年閏三月六日書写の奥書をもっていて、書写者は明記されていない

)注注

(注。従来、「拘幽操辨」を収録しているのは右の三本が知られていたが、「拘幽操辨」を収録した写本を新たに発見したので、次に詳述する。

・ 『六 編韞蔵録  全』(千葉県文書館所蔵、No.

書、ア 212鎌倉家文 637)

【書誌】[外題]「六編韞蔵録  全」

[装丁]

写本、大本一冊。縦約二十八・二㎝×横約二十・二㎝。

[題簽]

左肩に単枠の書題簽貼付。縦約十九・〇㎝×横約三・

四㎝。[匡郭]四辺双辺、有界十二行、黒魚尾。[構成・内容]丁付・柱題なし。全七十四丁。

(9)

見返し右肩に「韞蔵録。大学章句、序講義、拘 幽操辨、二篇/六編と縜輯す  外に六編あり」と墨書あり。扉の右肩に「直方先生/學裔上総

/梅澤芳男/圖書之記」、「穐月照寒水」、「吾黨公寶/不可毀損」、「珍重本」、「梅澤思齋藏」の蔵書印がある事から、梅澤芳男旧蔵と思われる。

思齋とは梅澤氏の号である。近代写本で、書写者は不明だが、梅澤氏か同氏周辺の人物が写し

たのではないか。「大学章句序講義」(薬袋藤一郎筆記)、「拘幽操辨」(佐藤直方講、丹下元周録)、「野田先生学談」、「浅見絅斎先生遺書/赤

城忠士筆記」、「三宅尚斎先生四十六士説畧」、「佐藤先生学友講論筆記」を収める。各著作それぞれに扉があり、「野田先生学談」と書かれた扉

の右肩に「以下六編に別なり」と墨書されており、この「六編」とは梅澤氏編『六編韞蔵録』

を指す。

梅澤氏は千葉県の人で、池上氏と同じく上総道学の学徒であり、池上氏とは交友があった。 『六編韞蔵録』とは、本来は昭和になってから梅澤氏により『韞蔵録』の補遺編として編集されたものと思われ、全十巻、巻一・大学序講義、巻二・大学辯書、巻三・道学標的講義、巻四・鞭策録講義、巻五・二程造道論、巻六・拘幽操辨、巻七・論語講義、巻八・太極図説考、巻九・太極図説答問、巻十・大学劄記を収めるが、この『六編韞蔵録  全』にはその内の巻一と巻六の、「大学序講義」(『六編韞蔵録  全』では「大学章句序講義」とある)と「拘幽操辨」しか入っていない。この写本に収められている「拘幽操辨」も、奥書に「右佐藤氏直方雅丈講説  丹下元周録/貞享丙寅閏三月六日書写/右直方先生拘幽操辨」とある。また、この写本所収の「拘幽操辨」には、昭和十二年〈一九三七〉十月の梅澤氏による奥書と、同氏によるとみられる『儒書聞書』の目録が付されており、全集本との関係も示唆する所があるので翻刻して次に載せる。【「拘幽操辨奥書」翻刻】以上一篇ハ大阪府天王寺師範学校教諭  /兼大阪府女子師範学校教諭森信三/氏(住大阪市住吉区田辺西之町七

(10)

丁目四〇)/所蔵ノ儒書聞書(写本一冊但シ合本ニテ /旧二冊ノモノ如シ)中ニ在リ。池上君幸二郎/同氏ヨリ借来、芳ヲシテ鈔録セシム。則チ/原本ノ如ク謄写シ終アル。時昭和十二年十月三十一日  夜/梅沢芳男

【「儒書聞書目録」翻刻】

    儒書聞書目録一.語類易綱領永田養庵丁巳五年二.易啓蒙佐藤直方/谷重遠同三.易本義三宅雲八郎壬戌五年四.筮儀永田養庵/森自仙丁巳年五.易啓蒙永田養庵同六.易本義不詳不詳七.易啓蒙愚按丁巳年八.相生相克親敵討森自仙同九.精粗之事佐藤直方同十  大和小学佐藤直方不詳十一  書経植田玄節  戊午之年/五月二十七日十二  洪範全書愚按不詳 十三  史記佐藤直方戊午之年十四  近思録  佐藤直方/植田玄節/浅田久平  乙卯之時/講習之時十五  玉山講義谷津八重遠不詳十六  附録佐藤直方乙卯之年十七  大学武田氏/直方/山崎周悦等   不詳十八  大学或問不詳不詳十九  論論  直方等/山岸等直方門人小見/浅見順良/武田氏  戊午之年二十  孟子不詳不詳二十一  中庸  植田玄節  巳(「己」の誤か)未/卯月十日二十二  輯畧直方辛酉/八月廿八日二十三  雜谷重遠/順良/梨木民部  同二十四  敬斉箴森川知信/直方門人ノ如シ  不詳二十五  近思録直方同二十六  雜板垣民部辛酉之年二十七  拘幽操辨直方 

小学一.序題辞立教  植田玄齊/森川貞一郎(直方門人ノ如

(11)

シ)/直方朱批二.明倫植田氏/直方三.敬身植田氏四  瞽古直方五  明倫直方辛酉之年/正月十二日六  嘉言直方七  善行植田氏         以上

右の目録にある「丁巳五年」は延宝五年〈一六七七〉(「丁巳」とあるものも同じく)、「壬戌五年」は天和二年〈一六八二〉、「戊午之年」は延宝六年〈一六七八〉、「乙卯之時」は延宝三年〈一六七五〉、「巳(「己」の誤か)未」は延宝七年〈一六七九〉、「辛酉」は天和元年〈一六八一〉を指す。これらの事から、『儒書聞書』は、延宝三年から闇斎没年の天和二年までの崎門の講義筆記を集めたものらしい事がわかる。「儒書聞書目録」には書名、講義者もしくは書写者、成立年(または筆録、書写された年)とおぼしき項目が記される。『儒書聞書』は、また後述するが、闇斎門人の森川知信が闇斎・直方門人の講義・聞書類を集め収録したものであり、原 本の所在は不明、全集の池上氏の「著書解説」でしか知られていない状態であった。しかし、今回の新写本の奥書や目録から、その概略が少し明らかになった。これらからわかる事として、昭和十二年当時、森氏は大阪府天王寺師範学校教諭兼大阪府女子師範学校教諭であり、池上氏と交流があった事、『六編韞蔵録  全』所収の「拘幽操辨」は『儒書聞書』所収の「拘幽操辨」を忠実に写したものである事、『儒書聞書』は闇斎・直方門人の講義の聞書等全二十七篇を収め、「拘幽操辨」はその最後である二十七番目に収録されていた事が挙げられる。目録で、『儒書聞書』の後にある『小学』だが、これがいまひとつ判然としない。「拘幽操辨奥書」には「儒書聞書(写本一冊但シ合本ニテ /旧二冊ノモノ如シ)」とあり、それが『儒書聞書』と『小学』が合冊となっていた事を示すのか、『儒書聞書』自体が元々二冊で、それを合冊して写本一冊とした事を示すのか、どちらを意味するのかは原本を見ない以上はわからない。現段階では、二十七篇の聞書類を収めた『儒書聞書』とは別に、七篇の聞書類らしきものを収めた『小学』が森氏の手元にあり、それらを梅澤氏が参照し、延宝三年~天和二年の崎門の講義筆記を集めた『儒書聞書』と、天和元年の講義筆記を収

(12)

めた『小学』が同じ頃のものらしいので、『儒書聞書』の目録の後に『小学』の目録を書き足した可能性がある、と推定するに留める。なお、『六編韞蔵録  全』所収の「拘幽操辨」は以下、儒書聞書所収本と称す。また、ここにみる『儒書聞書』所蔵者森信三とは、日本の哲学者・教育者で、『修身教授録』(致知出版社、平成元年三月)等を著した森信三(明治二十九‐平成四)〈一八九六‐一九九二〉と同一人物とみてよい。森氏を記念する資料館として、兵庫県尼崎市に「一般社団法人  実践人の家」がある。「実践人の家」は森氏晩年の旧宅名であり、同氏の旧蔵書もほぼそこに収められている。しかし、現地に赴き調査した結果、『儒書聞書』は無かった。森氏の三男である森迪彦さんにお話を伺ったところ、森氏は昭和十四年〈一九三九〉~同二十一年〈一九四六〉まで満州の建国大学に勤め、満州から引き揚げる際、蔵書の殆どを満州に置いて逃げて来た為、もしかしたら満州に置いてきたか、今まで勤めた神戸大学や海星女子学院大学に蔵書を寄付した中に紛れているかもしれない、との事だった。また、愛知県半田市の方にも蔵書を預けているとも伺ったので、もしかしたら半田市立博物館

)注(

(注にも森氏の蔵書が紛れているのかもしれない。これらの調査は今後 の課題である。全集本と内田本、そして今回新出の写本の「拘幽操辨」三種の本文を比較(思想大系本の本文の底本は全集本、校合本として内田本を参照しており、全集本と内田本の本文が斟酌されたものに注が付されたものである為、ここでは思想大系本は除外する)した時、どの本文も内容自体はさしたる異同は無かった。しかし、表記などをさらに細かく比較した結果、全集本と儒書聞書新写本は、極めて近接した本文である事がわかった。そしてここで考えられるのは、全集本に収録されている「拘幽操辨」影印の底本は、森氏所蔵『儒書聞書』所収の「拘幽操辨」そのものではないか、という事である。注

18で述べた

が、『佐藤直方全集』の編集には梅澤氏と池上氏が関わっている。そして、儒書聞書所収本の梅澤氏奥書には、池上氏が森氏より『儒書聞書』を借りてきたとあった。全集本の旧版が出版されたのは昭和十六年〈一九四一〉であり、森氏はその頃は満州にいたが、森迪彦さんのお話だと、昭和十四年〈一九三九〉~昭和十六年〈一九四一〉頃まで連絡船で満州と日本をよく行き来しており、夏休みと冬休みは日本へ帰国していたとの事なので、『佐藤直方全集』に「拘幽操辨」を

(13)

収録するにあたり、再び森氏から『儒書聞書』を借りる事は可能だっただろう。それに、全集本の「拘幽操辨」影印を見ると、本文冒頭「拘幽操辨」と標題のある右肩に「廿七」とある。これは、儒書聞書所収本にあった「儒書聞書目録」の「拘幽操辨」が収録されている順番と一致する。『儒書聞書』原本が所在不明の為、確定は出来ないが、全集本所収影印の底本は、儒書聞書所収本である可能性は極めて高い。また、内田本は儒書聞書所収本の本文をさらに校訂したもののような印象を受けた。全集本の「著書解説」を読む限り、「拘幽操辨」の写本は『儒書聞書』所収の「拘幽操辨」以外伝わっていないらしく、内田氏旧蔵本を数多く所蔵する無窮会図書館の目録(『織田文庫図書目録』、『平沼文庫蔵書目録』第一・第二輯、『神習文庫図書目録』、『眞軒先生旧蔵書目録』、『天淵文庫蔵書』、『鎌田文庫蔵書』)を確認したが、『儒書聞書』は見当たらなかった。さらに、阿部氏が思想大系本の「拘幽操辨」解題の中で、「拘幽操辨」の底本について述べる箇所に、「原本の現所在が明かならず、他に伝本がないので、「佐藤直方全集」所収の影印本を底本とし、内田校本を参照した。」とあり、『佐藤直方全集』所収の影印本以外伝本がない事から、内田本の底本も『儒書聞書』所収の 「拘幽操辨」であり、それを他本等で校訂し活字化したものである可能性が高い。内田本の底本が明示されていない以上推測でしかないが、恐らく「拘幽操辨」の本文系統は儒書聞書本系統一つとみてよいだろう。以上の情況から、本稿にて引用する「拘幽操辨」は、原本に最も近いと思われる全集本による事にする。

  考察

「拘幽操辨」が直方講かという事に関して疑問を表明しているのは、管見では思想大系本の阿部氏の「拘幽操辨」解題だけである。その阿部氏の意見は既に一で見た通りだ。考察するにあたり、阿部氏の意見を箇条書きに整理して次に示す。

① 「

拘幽操辨」の奥書によれば、「拘幽操辨」は直方の講義を元周が筆録した聞書であり、「貞享丙寅閏三月六日書写」は森川知信が書写した年記を示すものと受け取れる。②

「拘幽操辨」は貞享三年を遡ること遠くない頃の講義と思

われる。③

「拘幽操辨」は『韞蔵録』全五篇にも収録されておらず、

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知られていなかった。④ 国体論・湯武放伐論に関しては直方の主張は絅斎等と頗る

異なっており、「拘幽操辨」が紹介された時、その内容と話しぶりは直方の講説としては意外だった。⑤

「湯武論」で、湯武放伐はやむを得ない非常の時と場にお

ける権道であり、大賢以上のみがなせる所、凡俗の了見で妄りに批議すべきではなく、万人に示す教えとしては、権道ではなくあくまで万代不易の常道、「拘幽操辨」の文王を模範とすべきである。この両点を混淆してはならないというのが直方の主張であり、「拘幽操辨」の趣旨と直方の放伐容認論は原則上は矛盾しない。経道を以て説くべき「拘幽操辨」を講義すれば、直方といえどその旨は絅斎等と帰趣を一にするだろう。その意味では「拘幽操辨」を直方講としても一応支障はない。⑥

しかし、講じ様と口調や細部の所説は直方の他の講説とは

全く異質で、絅斎のそれであり、その点で「拘幽操辨」を直方の講述と断定するには疑惑がある。⑦

⑧ 矛盾する箇所がある。 直方の著作と明確な「湯武論」と、「拘幽操辨」の内容に

奥書が遥か後世のものならともかく、「拘幽操辨」の奥書 ⑨ 門人たる元周が「拘幽操辨」を直方の講説としている。 は直方生存中の貞享三年であり、そのやや前の闇斎・直方

奥書の文面からは「拘幽操辨」は元周の筆録と受け取られ るが、元周は実際に聴講して筆録したのではなく、直方講説と聞いた「拘幽操辨」を単に書写し、「右佐藤氏直方雅丈講説  丹下元周録」と記したのではないか。⑩

実際は絅斎の講説を直方のものと誤伝されたのではないか。

この奥書には何等かの行き違いが隠れているように思われる。

まず、①と②の奥書の年記について考察する。「拘幽操辨」奥書は森川知信が書写したものという点は阿部氏に同意したい。ただ、前掲「儒書聞書目録」を見ると、「拘幽操辨」の成立年らしき項目は空白であり、他の同項目にいくつか「不詳」とあるように「拘幽操辨」の同項目に「不詳」とは書かれていないものの、空白である時点で『儒書聞書』成立時には「拘幽操辨」の成立年が不明だったと考えられる。そうだとすれば、全集影印本の奥書に「貞享丙寅閏三月六日書写」とあるのは、森川知信が「拘幽操辨」を書写した時ではなく、これが叢書中最末尾に位置していたらしい所から推

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察して、『儒書聞書』自体の成立時を指すものではないか。しかし、この奥書が「拘幽操辨」成立時を指すにしろ『儒書聞書』成立時を指すにしろ、「拘幽操辨」が貞享三年以前の成立である事には変わりなく、②にもある通り、「拘幽操辨」が貞享三年以前の、そう遠くない頃に成立しただろうという点についても阿部氏に賛同する。さて、④以下の疑問は、「拘幽操辨」の内容と奥書の二点に集約できる。④⑥⑦は「拘幽操辨」の口調や細部の所説が直方の国体論や湯武放伐論、他の講説とは異質であり、実際は絅斎の講説ではないか、という内容的な疑問、⑧以下は元周筆録ではなく元周書写の可能性もあるのではないか、という成立に関する奥書への疑問である。

まず、④⑥⑦の内容の疑問について考える。まず、阿部氏が矛盾を感じた「湯武論」(享保三年〈一七一八〉成。韞蔵録巻十六所収だが、ここでは思想大系所収の本文による)の記述と、それに関連する「拘幽操辨」の記述を次に示す。なお、傍線は阿部氏が大系の解題において「湯武論」と「拘幽操辨」間で矛盾撞着を来すとして引用した箇所を示す。 愚儒共曰、(湯武の放伐は)我等共ノ手本ニハナラヌ。対曰、ヲノレラガザマデアノマネセフト思フハ猿猴ガ月ヲ取ントスルガ如シ。推参至極ノ俗儒ドモメト大ニシカル。世ノ神儒合一ト意得タル儒先達モ、爰ガハキトスマヌ故ニ、孔子孟子ノ精ヲ出シテ云ヒラカレタ義理ヲ莚ヲ掛テヲヽヒ、世ニシラセヌ様ニスル。夫ヲタワケタ諸生メラガ、有難イ、常道カラ見レバ湯武モハリツケ人ジヤ、鹿クラヒノ唐人メ、我邦正統万々世ノ御目出度風ヲシラセタイト云テ、何ヤラ書物ヲ作テ板行サセテ、諸人ノ眼目ヲ塞グ。嗚呼可悲哉

)注注

(注

(「湯武論」*括弧内は十河補)

洪範皇極内篇ニ、父子有親、君臣有義、夫婦有別、――(長幼有序、朋友有

)注注

(注)、五品遜而大和合、皇極之世。堯舜父子之襄也。湯武ハ君臣ノ缺也。伏羲神農ハ日之中乎。堯舜三代時之中乎。此説尤好。ナンデモアレ、泰誓ニモアルトヲリ、惟天地万物父母、――(惟人万物之霊。亶聡明作元后

)注注

(注

)元父母。ソノトヲリ、君ハ天下ノ父也。ソレヲコロスハ我父ヲ殺スト同シコトソ。民ハ君ノ子、君ハ民ノ父母。故ニ斉家治国

(16)

平天下ノ章ニモ、我ヲヤニツカフルノ道ヲ以テ、スグニ君ニツカヘヨトアルゾ。タトヘハ今ナンボウ悪人デモアロフト、マヽ親ヲコロスモノハ、百人ノ中デ一人ゾ。ソレモアルカナイカゾ。只ムセフナ凡人ハ、トカフト云コトハナイゾ。キツカリト湯武ニ保元ニ為義ヲスルヤウナコトヲセイト云テモ、セヌハヅゾ。サレハコソ孟子ノ桃応ニ答ヘラレタガアノ道ゾ。スレバ君ハ民ノ父母ヨ。ソレヲコロスハナンボウ大中至正ジヤト云トマヽヨ。我親ヲ殺ト云ヤウナ存ノ外ナコトハナイゾ。スレバ君ヲ殺 シイ(「弑」の誤りか)シヤウガナイゾ。奥ノ跋ニ引ケル郊特牲ノ吾ガ大事ノコトヲヨク云トツタモノゾ。君ニツカヘサマニ、紂王ナトニツカヘルハ、舜ノ瞽瞍ニツカヘルヤウデナクテカナハヌコトゾ。吾(「語」の誤りか)類ノ十三ニ、君臣ノ際、権不可略重、纔重則無君。チカフトコレゾ。サテソウベツ、唐ノ風ガ君臣ノ方ガ日本ノヤウニキツカリトセヌゾ。サテ湯武ノシカタガ、モハヤ此一事デ、アトニスキトハセヌコトゾ。ヨフヲモツテミヨ。孔子ノアノ如クテイヒ、程朱ノ説ガアノ如クナレバ、ヨシワレラテイニモセヨ、ソフ云合点ハアルコトゾ。ソノ上ニ人欲デドフノカフノト云ハ、論ハナイゾ。サルホド ニ湯武ノヤウナ大聖人テナキニモセヨ、スコシ志ノアルモノハ、テツキリトセヌハヅソ。明ノ方遜志斎ガ事スルニ、湯王ノハマタサキニドフト云コトガナイニヨツテ、過トモイワレウガ、武王ガアノ口実ノ言ヲミナンダカ。ソレモマタ征伐ガムセフニ徒デナイ、ヨイト思フハヅモアレトモ、孔子ノテツキリトカウジヤト、未尽善ノ論ヲ孟子ガミナンダカ。ミヌモヲチド、ミタモワルシ。サルホドニ東坡ガ何ノカノト云ゾ。是ミヨ、千載ノ一会ト云事ガ決然トシレルゾ。コフ云ネ(「根」か)ヲワスレテ、今ノ者ガ、モシサキニ此ヤウナコトガデキタラナントサバカフナドヽ云。山モミヘヌ坂ゾ。此通屈

)注注

(注段々ノコトヲ合点シテ、湯武孟子ハ謀逆人、イキバツケニカケテモ大事ナイト云コトゾ。サテ、太伯文王伯夷叙斉ヲ万代忠信ノ根トスルモ是ゾ。此スヂノ明カナハ日本ソ。日本デハ伊弉諾・伊弉冉・天御中主ノ天祚ヲウケテ、ソレカラウツタツテ今ニイタルマデ、ドフアラフト、王ノチカフト云コトハナイゾ。皆御子孫ゾ

)注注

(注

(「拘幽操辨」*括弧内は十河補)

さて、先にも述べたが、阿部氏は、「湯武論」で直方が

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「夫ヲタワケタ諸生メラガ(中略)諸人ノ眼目ヲ塞グ。」ときめつけた対象は、「拘幽操辨」の「湯武孟子ハ謀逆人、イキバツケニカケテモ大事ナイト云コトゾ。(中略)皆御子孫ゾ。」ではないかとし、ここから「拘幽操辨」を直方の講説とする事に矛盾を感じている。「湯武論」は直方の著と明確であり、そこでは、湯武放伐を否定し我が国の皇統が正統でずっと続いて来たと誇る人を「タワケタ諸生」として批判している。また、「湯武論」で直方が、

(中略)放伐ハ権也、権ハ大賢以上道ト一ツニナツタ人ノスルコトトアレバ、湯武ノ聖人タルハ少モ紛ルヽコトナシ

)注注

(注

と述べている事から、直方は、湯武放伐は聖人が行った権道だとしている事がわかる。しかし一方、右に引用した「拘幽操辨」傍線部分を見ると、一見、湯武放伐を否定し、日本の皇統が変わらず続いてきた事を誇るかの事を述べており、阿部氏の指摘通り、「湯武論」と「拘幽操辨」のどちらも直方の講説とするには一見相反してみえる。しかしそれは本当に矛盾しているのだろうか。 まずは、阿部氏が引用した箇所の「湯武論」について考察する。「湯武論」は、享保三年九月に上京していた直方の談を岩崎直好が筆録した文、それを読んだ三宅尚斎の識、湯武放伐論に関する直方の書と尚斎の書、直方に呈した尚斎の書付に直方が識語を書いたものが収められている。阿部氏が引用した箇所は、湯武放伐論に関する直方の書からのものであり、「対曰、」以下が直方の言である。直方はまず、湯武の放伐は自分達の手本にはならない、という儒者を痛烈に批判する。そして、神儒合一と心得ている先人の儒者も、「爰ガハキトスマヌ故ニ」、孔子や孟子が言い開いた義理を筵を掛けて覆い、世の人に知らせないようにする、とある。「爰ガハキトスマヌ故ニ」の「爰」とは、この前まで述べられてきた、湯武が聖人である事は、大賢以上かつ道と一つになった人しかできない権道である放伐を行った事で明確だ、という事を指す。孔子や孟子が言い開いた義理というのは恐らく、論語にある「子、韶を謂わく、美を尽くせり、又た善を尽くせり。武を謂わく、美を尽くせり、未だ善を尽くさず

)注注

(注。」や、「湯武論」中でこの文章の前にある「孟子ノ註」(梁恵王下、斉人伐燕章の集註「一日の間も天命未だ絶えざれば、即ち是れ君臣。当日命絶れば、即ち独夫為り。

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然に命の絶えるや否やは何を以て之を知らん。人情のみ。諸侯期せずして会する者八百。武王安んぞ得て之を止めんや

)注注

(注。」)等、湯武放伐に関する彼らの言説を指すと思われる。以上の事から、右に引用した「湯武論」は、放伐という大賢以上しか成し得ない権道を為した湯武は確かに聖人だ、という事がわからない神儒合一の先人の儒者達が、孔子や孟子が言い開いた、湯武放伐を肯定するような説を世の中に知られないようにしてきた。湯武放伐は大賢以上が為した権道であり湯武は聖人であると知らない「タワケタ諸生メラ」が、常道から見れば湯武も「ハリツケ人」だ、君臣関係を守り皇統の万世一系が続いて来た我が国の「御目出度風」を知らせたいと言って、湯武放伐を否定する本を作って板行させ、諸人の眼目を塞いで湯武放伐は聖人が為した権道だという事、湯武が自分の主君を放伐するに至ったやむにやまれぬ心情や過程をわからなくさせる、という事を述べていると解釈される。ここでは要するに、湯武放伐を否定する人の、その否定方法を批判しているのだろう。次に、「拘幽操辨」について考察する。先に引用した「拘幽操辨」の傍線部直前にある、「此通 屈 々ノコトヲ合点シテ、」の「此通」とは何を指すのか。 もう一度ここまでの内容を確認する。 二でも述べたが、「拘幽操辨」ではまず、『拘幽操』は君臣の大義を天下に明らかにし、湯武孟子の権道を論じつめて示したものである、と述べる。また、

扨這段ハ湯武ノ大聖人ノシラレタコトヲ、サアトイヽテ論シ出スカラハ、殊ノ外コマカナコトデ、ムセフニツイワルイナトヽ云コトデハナイゾ。(中略)湯武ノ放伐ノ段ニナツテハ聖人ノ上ニナウテカナハヌ経権一枚ノ権道デサバクコトゾ。

とある事から、「拘幽操辨」では、湯武放伐は権道としている事、湯武を聖人として扱っている事がわかる。しかし、この後、

・ 主君は天下の父であり、それを殺すのは自分の父を殺す

事と同じである。・

湯武に、保元の乱で、義朝が実父である為義を斬った事

と同じ事をしろと言ってもしない筈だ。だからこそ孟子が桃応に、「もし瞽瞍が人を殺したら、子である舜はど

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うするのか」と問われ、「舜は天下を捨て、竊かに父を負うて逃れ、身を終るまで欣然として楽しんで天下を忘れる」と答えられたのが臣が主君に仕える道だ。そうであれば主君は民の父母であり、主君を殺す事はどんなにそれが正しい事だと言われてもやってはいけない。・

紂王などに仕えるには、舜が瞽瞍に仕えるようでなくて

は出来ない事だ。

と、湯武放伐を批判するような意見を述べ、湯武の仕方がもはやこの一事で後にはっきりとしない、湯武程の大聖人でないにしろ、少し志のある者は、何故湯武は家臣の身でありながら主君を放伐したのに聖人と称えられるのかわからないのだ、と湯武の仕方に対して疑問を投げかけるのである。さて、ここで、先に引用した「明ノ方遜志斎ガ事スルニ、(中略)山モ見ヘヌ坂ゾ。」以下について考えていきたい。ここの記述については、例えば「明ノ方遜志斎ガ事スルニ、」の注では、思想大系本や内田本でも、頭注で「事スルニ  意味不明。以下の句底本誤脱らしく、意味をなさない。」(思想大系本

)注注

(注)「事スルニ、解シガタシ、」(内田本

)注(

(注)と記され、後述するが、「湯王ノハマタサキニドフト云コトガナイニヨツ テ、(中略)ミヌモヲチド、ミタモワルシ。」や「サルホドニ(中略)決然トシレルゾ」とある記述も、何らかの誤脱があるのか、意味がとりにくい箇所が多い。先述した通り、「拘幽操辨」は『拘幽操』講義の筆録である。筆録という、講師が口頭で話す事を記録するという性格上、何らかの字句が誤脱している可能性が高いが、「拘幽操辨」は原本所在が不明である為、原本を見て考える事ができず、確定は出来ない。よって、恣意的解釈の誹りは免れないが、この箇所の解釈について一つ仮説を立ててみたい。まず、「明ノ方遜志斎ガ事スルニ」は、先述した通り思想大系本にも内田本にもあるように解し難く、意味が取れない。「事」という字には「仕える」等といった意味があるが、「明の方孝儒が仕えるに、」では後の文と意味が繋がらない。「明ノ方遜志斎ガ事スルニ」が何を指すのかはわからないが、方孝儒は、靖難の変の際、大敗して敵の燕王に捕らえられ、命を助ける代わりに即位の詔を書くように言われるも、自らの主君である建文帝への恩を忘れず、その頼みを断り処刑された忠義の臣である。家臣だった燕王が、自分の肉親であり主君だった建文帝を討って帝位に就いた靖難の変と、主君への忠義を貫いて処刑された方孝儒というのは、「拘幽操」と湯

(20)

武放伐とどこか似た雰囲気が感じられ、「拘幽操」と湯武放伐について考える時、如何にも引き合いに出されそうである。しかしここでは、靖難の変について言及したり、方孝儒について掘り下げている訳でもない。ここではひとまず、「明の方孝儒は主君への忠義を以て仕えるのに、」という意味でとっておく。次の「湯王ノハマタサキニ(中略)ミタモワルシ。」の箇所もまた、意味がとりにくい。全集本の影印を見た限りだと、「湯武ノハマタサキニドフシテモト云コトガナイニヨツテ、過トモイワレウガ、」とあり、傍線を引いた箇所に見せケチがある程度だ。「湯王ノハマタサキニドフト云コトガナイニヨツテ、過トモイワレウガ、」は、「湯王の放伐は、湯王以前に家臣が主君を弑すという事がない為に過ちとも言われようが、」と解釈できるが、「武王ガアノ口実ノ言」が何を指すのか判然としない。しかし、この文の前後は湯武放伐の話であるし、恐らく武王が紂王を征伐するにあたっての言葉、「泰誓」を指すのだろうが、「泰誓」のどこを指すのか具体的な事はわからない。後に「ソレモマタ征伐ガムセフニ徒デナイ、ヨイト思フハヅモアレトモ、」と、「それもまだ征伐は無駄ではない、良い事だと思う道理はあれども、」と続くので、「拘 幽操辨」中で引用した「惟れ天地は万物の父母にして、惟れ人は万物の霊なり。亶に聡明なるは元后と作り、元后は民の父母と作る

)注注

(注」を指すのだろうか。「明ノ方遜志斎ガ事スルニ(中略)ミタモワルシ。」を解釈するに、「明の方孝儒は主君への忠義を以て仕えるのに、家臣である湯王が主君の桀王を追放した事は、湯王以前に同じ例がない為に過ちとも言われようが、武王の「泰誓」にある「天地は万物の父母であり、人は万物の霊長である。本当に聡明な者は主君となり、主君は民の父母となる。」という言葉を見なかったのか。武王のその言葉を見てもまだ、征伐は無駄ではない、良い事だと思う道理はあれども、孔子がはっきりと「武未だ善を尽くさず」と述べているのを、孟子は見なかったのか。見ていない為に湯武の放伐を肯定しているなら見ぬも落ち度であり、見た上で湯武の放伐を肯定しているなら見たのも悪い。」となる。些かこじつけた解釈であるが、要するにここでは、湯武放伐を肯定する孟子に対する批判を述べているのだろう。この後に続く、「サルホドニ東坡ガ何ノカノト云ゾ。是ミヨ、千載ノ一会ト云事ガ決然トシレルゾ。」について、浅見絅斎編『拘幽操附録』(元禄五年〈一六九二〉刊)に引かれている蘇東坡の説を見ると

)注注

(注、蘇東坡は湯武放伐については否

(21)

定的であり、殷の人々は紂王の暴虐な政治により殷の先七王の徳を思う余裕がなく、武王が紂王を征伐し、天下がほぼ定まるに及んで、殷の先七王の徳を思う事父母の如く、「雖武王周公之聖相継撫之、而莫能禦

)注注

(注。」と述べている。この事から考えるに、殷の人々が先七王の徳を思う余裕が無い程、紂王が暴虐な政治をしていたという事であり、だからこそ放伐するのに「千載ノ一会」である事がはっきりとわかる、と解釈できないか。「東坡ガ何ノカノト云ゾ」が、果たして『拘幽操附録』に引用されていた蘇東坡の説かは断定できないが、少なくとも、湯武放伐が千載一会の機会だと述べているあたりは、先程まで述べていた「明ノ方遜志斎ガ事スルニ(中略)ミタモワルシ。」とは打って変わり、湯武放伐を肯定するような意見である。また、湯武の放伐は滅多に巡り合えない機会である、と直方が考えていただろう事は、「湯武論」にある、

湯武ニチリ程デモ天下ニ望ノアツタデナイト云コトハヨク誰モ合点シタコトゾ。スレバ何トシテアノ様ナコトヲセラレタゾト云ヘバ、桀紂ガ暴虐至ラザル所ナク、民ヲ煎リアグル様ナ其時節ヘ生レラレタ故、ソコデ天カラ云 ツケテ放伐セラレタゾ。時節ガ此ツボヘ打コンデ来タ故、湯武ニ限ラズ、ドノ聖人デモ此場ヘ出ラレタナレバ、アノ様ニセネバナラヌゾ

)注注

(注

という記述によってうかがえる。また、「易卜籤筆記付出処論」(韞蔵録巻五、成立年不詳、天和三年〈一六八三〉以後成か

)注注

(注)に、主君を弑さなかった文王も、主君を放伐した湯武も天理とした直方は、「或人」が天へ、主君を弑さない筈というのも主君が悪ければ殺すというのも天理といえば、どちらも片付かない訳がない事であり、天理には似合わない成され方である、という訴えに対し、直方は、「天答云」として、

ソレハコチノ勝手次第ニスルコトジヤ。下デハ湯武ニカマイナク只此方ヨリ云付ルコトヲ守テオレ。微塵モ肉身ノ働キハナシ。天下ノ人ヲ難儀サセルイタヅラ者ハ此方ニハ立テヲカヌ理ナリ。(中略)湯武ガ難儀ニ思フハ不便ナレトモ、ソレハ湯武ガ聖賢ノ徳ヲソナヘタフセウ(「武将」の意か)ナレバ辞退ハナラヌコトナリ。能ク合点シテ見ヨ。此方ニモ無徳ノ人ニハ放伐ヲ云付ケハセヌ、徳人ガナケレバイツ迄モ革命サセズニ置クナリ。ナ

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ガラヘテモ数千年ノ後デモ見ヨ、聖賢ノ徳ナク紂ニサノミカハラヌ人ガ出テ其君ヲ放伐シテ天下ヲ革ル時節モアラフカ、ナレトモソレハ此方カラ云付タデハナイ。悪人トモノツカミ合ナリ

)注注

(注

(*括弧内は十河補)

と述べ、湯武が治めたように庶民が安堵する事は無いだろう、と続けている。これらの事から、直方が湯武放伐を時節に合った良い機会である、と認識していた事がうかがえる。「拘幽操辨」の、「サルホドニ東坡ガ何ノカノト云ゾ。是ミヨ、千載ノ一会ト云事ガ決然トシレルゾ。」は、「それで蘇東坡が何のかのと言うぞ。これでみよ、湯武放伐は滅多にない機会という事がはっきりとわかるぞ」と解釈でき、湯武放伐が滅多にない機会という事は、湯武放伐は滅多に起こらない事、要するに主君を殺す事は常道ではなく、湯武放伐は非常時に於いて聖人が行った権道だ、という事を示すのだろう。さて、次に続く「コフ云ネ(「根」か)ヲワスレテ、今ノ者ガ、モシサキニ此ヤウナコトガデキタラナントサバカフナドヽ云」の「ネ(「根」か)」、つまり「こうした根本的な事」とは、何を指すのか。 この記述の前まで主に述べられてきたのは、主君殺しの否定と、主君を殺した湯武のやり方への疑問と批判、湯武放伐は滅多にない機会だ、という事だ。ここから考えるに、「こうした根本的な事」とは、家臣が主君を殺してはならず、君臣の秩序は保つべきであり、湯武放伐は非常時に於いて聖人が行った権道だ、という事を指すのではないか。よって、「コフ云ネ(「根」か)ヲワスレテ(中略)山モミヘヌ坂ゾ。」は、主君を殺してはならず、君臣の秩序は保つべきであり、湯武放伐は非常時に聖人が行った権道だ、という根本的な事を忘れた人が、この先湯武放伐と同様の事が起きたらどう裁くか、等と言うのはそもそも議論の入り口にも立っていない、と批判していると解釈でき、「コフ云ネ(「根」か)ヲワスレテ」以下は湯武放伐や孟子を無闇に否定する人への批判を述べていると思われる。よって、「此通屈 々ノコトヲ合点シテ、湯武孟子ハ謀逆人、イキバツケニカケテモ大事ナイト云コトゾ。」という記述は、君臣の秩序は保つべきだが湯武放伐は聖賢のみが行える権道だ、という根本的な事を忘れた人が、主君は天下の父だから殺してはならない、等といった理屈を理解して、湯武孟子は謀逆人、生きたまま磔にしても構わない、と言うのだ、

(23)

と述べていると解釈できる。「此通屈 々ノコトヲ合点シテ、(中略)大事ナイト云コトゾ。」は直方自身の主張ではなく、湯武放伐や孟子に否定的な人の意見を直方が言ってみせているのだろう。「此通屈 々ノコトヲ合点シテ、(中略)大事ナイト云コトゾ。」が直方自身の主張でないのなら、そもそも先に引用した「湯武論」にある傍線部の主張とは矛盾しない。先程まで見てきた「明ノ方遜志斎ガ事スルニ(中略)ミタモワルシ。」は、家臣の身でありながら主君を放伐した湯武と、湯武放伐を肯定する孟子への批判意見を直方が言ってみせているだけなのだろう。湯武放伐は聖人が行った権道だが、普通ならば家臣が主君を弑すのはあってはならない事だ、主君は民の父母であり殺してはならない等といった理屈で考えると、湯武放伐は大罪であり、聖人と称される湯武が何故主君を放伐したのかわからなくなり、方孝儒や、孔子の「武王は未だ善を尽くさず」という論等を見て、湯武孟子は謀逆人であり、生きたまま磔にしても構わない、という結論に至る過程を「サテ湯武ノシカタガ、(中略)大事ナイト云コトゾ。」で示しているのではなかろうか。直方が湯武放伐も「拘幽操」にみられるような主君への忠義を尽くす姿勢のどちらも肯定し、その上で、普段守るべき は主君への忠義を尽くす常道である、としていた事は「易卜籤筆記付出処論」、「中国論集」(韞蔵録巻十四、小野信成編、同人の宝永三年〈一七〇六〉十月上浣の識語あり)の次の記述からうかがえる。

湯武ノ桀紂ヲ伐モ天理ノ命ナレトモ其証拠ニハ諸侯不期而会スル者八百ヲ引クトナリ。(中略)扨主君ハイカ程悪デモ臣下ノ身トシテ伐コトハナイト云モ天理ナリ。文王ノ天王聖明、君不君不以不臣ガ天理当然ナリ。然レバ湯武ノ放伐モ天理ナレバ、天理ニ差支ヘアル様ナレトモ、ソコガ天理デ少シモツカヘヌナリ。湯武ガ少シデモ我肉身ヲマジヘテスレバ天理之大罪人ナリ。湯武ノ方ニ肉身ノ私少シモナケレバ、ドチラヘシテモ天理ナリ

)注注

(注

(「易卜籤筆記付出処論」)

サテ有徳ノ人アリテ天下ノ帰服シテ君ト仰ケハ、周ノ子孫ハ夫迠ニテ有徳ノ人ガ天子也。若シ其有徳ノ人ガ周之子孫ノ中テ賢者ヲ取立テ主君ト仰キテ、我其臣ニナリテ天下ヲ治ル時勢アラハ、ソレコソ君臣ノ常義ニテ湯武ノ

(24)

権道ニモマサリ、善美ヲ尽ス道ニシテ此乃拘幽操ノ意、泰伯文王ノ事万世不易ノ常道也。武王モ此ヲ知リ給ハヌ筈ハナケレトモ、アノ時ハ権道テ天理ニ合フナラン。爰ニ至テハ大賢以上ノ変格ナレハ吾人ノ知ルコトニ非ス。(中略)権モ天地ノ道ニシテ大賢以上ノスルコトナレハ、文王テモ権ヲ行ル時アル筈也。中庸或問ニ、堯舜之禅譲湯武之放伐無適而非平常矣ト云ヘリ。メツタニ湯武孟子謀逆人ジヤハリツケジヤト云ハアラヒ論也。サテ如此一々ニ吟味ヲカタハシカラツメテ旧ニ依テ湯武ノ放伐ハ変也、常ニ非スト意得レハ至親至切之所マテ疑ヒナシ。(中略)吾党テハ拘幽操シヤト云テメツタニ聖賢ヲ詆毀ス。放伐至徳優劣ノ評判ハ孔子ノ定メ置レ、革命従天天吏権道聖言尤明ナリ。熟読シテ其アヤヲヨク知リ、ワキマヘベキコト也

)注注

(注

(「中国論集」〔全集第一巻より翻刻〕)

とある。まず、「易卜籤筆記付出処論」を見ると、どんなに主君が悪人でも家臣が主君を討ってはならないというのも天理であり、湯武が少しの私心もなく放伐を行ったのも天理だとしつつも、「拘幽操」にみえる文王のように、どこまでも 主君に忠義を尽くす事が天理当然だとしている。次に、「中国論集」を見ると、徳のある人を天下の人々が主君だと仰げば、周の子孫ではなくその有徳の人が天子となるが、もしその有徳者が、主君である周の子孫の中から賢者を取り立てて主君とし、自分はその家臣となって天下を治めるという事があれば、それこそ君臣の常義であり、湯武放伐に勝る拘幽操の意である、と述べている。以上の事から、直方は決して「拘幽操」に対し否定的ではなく、文王も湯武も聖人であると認めており、どこまでも主君への忠義を尽くす文王の心情を詠う「拘幽操」と、自らの主君を放伐した湯武放伐という矛盾した事柄を、どちらも聖賢が行った事だと肯定するも、天理当然であるのは文王の「拘幽操」にみられる「天王聖明」だとしており、湯武放伐より重んじている事がわかる。また、「忠孝不両全辨」(韞蔵録巻五、成立年未詳)に、

又問、君ヲバ天カラ其臣ニ命ジテ殺サスルコト、湯武天吏ノ如シ。コレハ天カラ父ヲ殺サセヌ道理ト異ナレバ、君父同ジコトトハ云ハレヌ。如何。曰、君父同ジコトト云ヘトモ、君ト父トノ別アレバ、ソレ程ノ違ヒハアル筈

(25)

ナリ。君ト云モノハ天下中ニイクタリモアリ。事ヘテヲルウチハ君一人ニシテ外ニハナケレトモ、イトマヲトレバ他人ナリ。一タビ君トシテハ、浪人シテモ其君一人ガ君ジヤト云コトニ非ズ。孔子モアレコレニ仕ヘタマヒシコトアリ。王蠋ガ不二君ト云ハ、君ノ仇ニ事ヘヌ方ヲ主トシテ云タモノナリ。(中略)ヒタト主君ヲトリカユルハ非ナリ。サレトモ事ヘテ義理ニ合ヌコトアツテ不已主君ヲ取カユルコトハ、君子モスルコトナレバコソ、孟子ニ浪人シテ又事ルノ贄ヲ持参スルコトアリ。旧君ノ服モアリ。コレカラ見レバ、父ト君トハ異アリ。父ノ如キハ天地ノ間タヾ一人ナリ。取カユルコトハナシ。孟子ノ一本ト云ハルヽハコヽヲ云フタモノナリ。故ニ天カラモ子ニ父ヲ殺サスルコトハナイ筈明ナリ。君ハ相手ガ多キユヘニ誅一夫紂君ト云獨夫ト云論アリ。父ニハサウシタ論ハナシ

)注注

(注

という記述がある。「忠孝不両全辨」は、最初に程朱の言説を各一条ずつ挙げ、それに対する直方の説と、或人の問に直方が答える、という形式の文章である。よって、「曰、」以下が直方の言説となる。この説をみると直方は、主君と実の 父は違うものである、と捉えていた事がわかる。さて、「拘幽操辨」に戻る。次に、「拘幽操辨」の「日本デハ(中略)皆御子孫ゾ。」以下について考察したい。「皆御子孫ゾ。」以下は、ナンボウ武烈ノヤウナ悪王デモ、トツテステヌゾ。サレバコソ朝敵ト云テ一度モエシトゲヌソ。日本デモ太平記ノ時分ニハ、アノ通リナレトモ、アノ如クニヤハリ天子ハアツタゾ。アチノハ堯亡テ舜ツギ、舜取天下、ソレカラ皆チギレタゾ。コレデミヨ。余ノコトハナントアロフト、本ガマヅアチニ日本ハマサツタト云コトガ、キツシリトシレルゾ

)注(

(注

と続き、まるで皇統の万世一系を認めるかのような事を述べている。しかし、これは別段、直方の他の講説と異質という訳ではない。「中国論集」をみると、

日本テモ後醍醐天皇ノ吉野ノ皇居ハ正統也。尊氏カトリタテタル北朝ハ正統ニ非ス。コレテ見レハ日本正統テ

(26)

ツヽイタト云レヌコト也。此道理ヲ知サル人ハ奪取タル天下ニテモ同姓ノ中ナレハ正統ノ継トス。日本天子ノ姓ハカハラザレトモ今迠ノ天子ヲヲシノケ取ニシキ人ノ取タルハ即チ簒奪弑逆ニシテ漢ノ天下ヲ魏カ取タルト同コト也。日本ノ王位此類甚多シ。正統ハ絶テモ姓ノカハラサルヲ以テ万々世正統カワラズ、万国ニスクレタルト云ハ俗論也。サテ日本デハ、神武以来聖賢ノ徳アツテ湯武天使ノ任ニアタル人ハナシ。日本デ天子ノ御筋目ヲ立テヲクハ、国風ノ律儀ナル也。徳カラシタコトテモ神代ノ光ト云コトデモナシ。其風俗ノナリニ従フタト云モノ也。君ヲ尊フノ義ヲ知テノコトデハナシ。其国ノ風ニハイロ

ノコトアルモノ也

)注注

(注

とある。右の引用をみると、日本の皇統は正統が絶えず続いてきた訳ではなく、姓が変わらず王が続いて来たといっても弑逆簒奪の類は甚だ多かった、と述べ、正統は絶えても姓が変わらなかった事を以て万々世正統が変らず、日本は万国に優れているというのは俗論だと切り捨てている。しかし、日本は国の風俗が律儀だった故に神武天皇以来、湯武のように聖賢の徳を以て放伐を行う者はおらず、日本で皇統が続いて 来たのは、徳からした事でも主君を尊ぶ義理を知ってした事でもなく、ただ国の風俗に従ったからだ、と述べている。ここから考えるに、直方は、皇位継承にあたり、徳や義を知らず、弑逆簒奪が多々あったにも関わらず易姓革命が起らなかった日本の風土と、徳や義を知りながらも、易姓革命が起こる中国の風土は根本的に違う、と捉えている事がうかがえる。姓が変わる事無く今に至るまで日本で皇統が続いてきたという事は、たとえ徳からした事でも主君を貴ぶ義理を知ってした事でも無くても、主君を弑した家臣が現れなかったという事だ。右の「中国論集」引用部分からは、日本の皇統は絶えず正統が続いて来た事は否定しているものの、日本の皇統が姓の変わる事無く続いて来たのは、日本の風俗が律儀だったからだとして、皇統が続いて来た事自体を否定している訳では無い事がわかる。皇位が継承されてきた事自体と継承の仕方という問題はまた別の事であり、直方は連綿と続く皇統を戴く事自体は否定していなかったのではないか。湯武放伐のように、臣下が主君を放伐するという権道は大賢以上でなければ行われず、古来より五倫の法が行われてこなかった日本

)注注

(注においてそうした道理から外れる行為がなされなかったという事は、直方といえども認めざるを得なかっただろう。

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