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縄文タトゥー復興プロジェクト『縄文族 JOMON TRIBE』 に関する予備的考察

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1.はじめに

『縄文族 JOMON TRIBE』とは、タトゥー・アーティストの大島托と「身体改造ジャーナリス ト」として知られるケロッピー前田による、縄文時代のタトゥー(以下、縄文タトゥー)の復 興を趣旨に据えたアート・プロジェクトである。本稿の目的は、『縄文族 JOMON TRIBE』を国 内外のイレズミ・タトゥー史のなかに位置づけて、その特徴について検討し、今後の課題を整 理することである

本稿で取り上げるタトゥーは、身体加工のひとつに分類されるが、身体加工の語が含む実践 は幅広い。『文化人類学事典』の「身体加工」の項目には、世界各地でおこなわれてきた「身体 に永続的に残る加工を意図的に施す行為」とされ、「イレズミ(皮膚を傷つけ染料を入れる)、

瘢痕(皮膚を傷つけたり焼いてしるしをつける)、穿孔(耳、鼻、口唇などに穴をあける)、変 形(頭蓋、首、歯など、纏足やコルセットも含む)、割礼(性器の切開や縫合、一部切除)、切 断(指、鼻、耳など)、除去(抜歯、去勢など)、埋め込み(口唇、性器など)」などの例があげ られている。また、この実践の特徴として、「通過儀礼のなかで施されること」が多く「一時的 に身体を装飾する衣服、装飾品、ボディ・ペインティング、化粧などとは異なり、身体加工は 不可逆的に身体を変えることから、被加工者の重要な身体的特徴となる」ことに言及されてい る[桑原 2009:76]。

当然のことだが、加工の対象となる身体は社会関係の内に存在しており、その身体が位置す る社会のあり方を反映するものでもある。儀式に関するアパデュライの記述によれば、「命名や 剃髪、乱切、割礼、剥奪などにまつわる儀式は、ローカリティを身体へと刻印する複雑な社会 的技法」であり、「それらの儀式は、社会的にも空間的にも境界を定められた共同体にあって、

身体を位置づけるとともに、ローカリティを身体化する手法」なのである[アパデュライ 2004:

319]。吉見は同書の解説でもう一歩踏み込んで、ローカリティは「儀礼から建築までの特定の 形式を備えた集合的な実践を通じて生産され、同時に物質的な効果も生みだしていく感情の構 造」であり、通過儀礼のみならず、「住居の建築や集落の配置、道や道路、田畑の造成からさま ざまな地図化の実践まで、人類学者たちによって探求されてきた諸々の空間的実践が、ローカ リティが生産されるマテリアルなプロセスをなしている」と補足している[吉見 2004:380]。

1 本稿では、その地域に伝統的な方法でおこなわれている「皮膚に傷を入れて色素などを注入し、文様や文字 を定着させる身体加工法」[田川 2009:173]をイレズミと呼び、地域の文脈を離れて実践されるものをタ トゥーと呼ぶ。伝統的な技法を用いていても、それがグローバルに実践される文脈に置かれるものの場合は タトゥーと呼ぶ。なお、イレズミについては、文中で入墨や刺青などの語も用いられるが、それらの語は引 用文献の表記にもとづくものであり、その意味合いも引用文献の文脈にしたがっている。

縄文タトゥー復興プロジェクト『縄文族 JOMON TRIBE 』 に関する予備的考察

神 本 秀 爾

【キーワード】身体加工、伝統の創造、縄文、タトゥー、ローカリティ

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これらの言及は、どちらかというと伝統的な共同体を想定して書かれたものだが、この指摘は 伝統的な共同体以外の社会関係にもある程度敷衍することが可能である。それでは、伝統的な 共同体が想像されにくい現代日本でおこなわれている縄文タトゥーには、どのようなローカリ ティを生産する側面がそなわっているのだろうか。

本稿では、縄文タトゥーを多面的に理解するための道筋を示すことを目指す。そのために、

次節となる第2節では主に日本列島におけるイレズミの歴史を整理し、第3節では、縄文の語 の現代的ニュアンス、同時代の他地域のトライバル・タトゥーとの関係についての簡単な見取 り図、プロジェクトの概略について述べる。第4節では、それまでの議論を整理し今後の課題 を述べる。

2.「日本」におけるイレズミの概略

本節では、主に山本芳美著『イレズミの世界』によりながら、日本列島およびその影響下に あった台湾におけるイレズミの簡単な歴史を整理する

イレズミの慣習は南北アメリカ、シベリア、東アジア、ポリネシア、ミクロネシアなどの環 太平洋地帯、東南アジアの大陸部と島嶼部、西アジアなど世界中に分布している[山本 2005:

35]。日本列島においては、『魏志倭人伝』のなかに文身の語で倭人の習慣としてイレズミへの 言及があることはよく知られている。縄文時代では歯牙変工や耳の穿孔が一般的だったことが 考古学資料から明らかになっているが、軟部組織は消失しているため確証は得られていない[山 本 2005:74-75]。しかし、たとえば高山のように、土偶に刻まれた文様をその証拠だと主張す る研究者もいる[高山 1969]。中国式の中央集権国家が建設されていく7世紀中期から、習俗 としてのイレズミはほとんど見られなくなっていき、戦国時代の一部地域や江戸時代の遊女や 侠客、火消しや飛脚などの一部の職にたずさわる人びとの間でおこなわれるようになることで、

庶民の生活空間に回帰してくることになった。一方で、1720年に身体刑として採用された黥刑 は、再犯者を発見するのに役立ち、周囲の人々に警戒させる役割も果たしていた[山本 2005:

97-98]。

イレズミは明治期以降、犯罪化されることで周縁化されていく。1868(明治元)年には横浜 で、車夫、土方、水夫、日雇等に対し衣類を着けず裸のままで仕事をすることを禁じる「日雇 人足等裸体禁止」の触れ書きが出されたが、「外国人ニハ裸体之者無之」とあるように、政府側 は外国人の視線を意識していた[今西 1998:147;山本 2005:120]。

1869(明治2)年にはイレズミ(彫り物)の規制をめぐる議案が提出されている。提出者の 垪和鍗蔵の主張の根拠は、すでに幕府が禁じていたこと、彫り物により黥刑を隠す者がいるこ と、彫り物をする者が存在することは外国人に対して恥となるということであった[山本 2005:

121-122]。欧米人からは、日本人の裸体の露出や男女の混浴、彫り物などの慣習も野蛮なもの と判断されていたのである[山本 2005:125-126]。このような背景のもと、1870(明治3)年 に身体刑を配する刑法典『新律綱領』が制定された結果、黥刑は正式に禁止され、1872(明治 5)年に、明治政府による彫り物に対する法的な規制が開始され、4月上旬、東京府下に裸体、

肌ぬぎ、男女の混浴、春画、性具、刺青に厳禁の令が下った[山本 2005:126-127]。

2 本節では明治、大正時代については元号も表記する。

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このような身体の管理が進んだのは、「藩ごとに完結していた世界を集権国家としてまとめあ げて文明国となることが、明治政府の最優先課題であったため」[山本 2005:131]である。こ のプロセスは、言うまでもなく、圧倒的な強者として現れた欧米人の視線を内面化するなかで 自己を再編成しなければならなかった、当時の日本の状況を如実に反映している。その一方で、

来日する欧米人のなかで彫り物を求めるものも多く、明治政府は外国人の需要に応えるために、

国民の彫り物を取り締まる一方、開港場付近に開かれた外国人居留地での彫師の営業を黙認し た。施術を受けた人物の中には英国王室関係者やロシアの皇太子も含まれていた[山本 2005:

136-138]。

政府による国民身体の管理は、周縁に位置していた沖縄や北海道、植民地化した台湾などに も波及していく。20世紀の初頭まで、奄美諸島から八重山諸島までを含む南西諸島には女性た ちのあいだにハジチ(漢字であてれば「針突」)と呼ばれるイレズミの習慣があった。女性たち は両の手に青く輝く針突をし、その美を競いあったのである[山本 2005:177]。針突にはさ まざまな意味が込められており、ヤマトや薩摩、アメリカ、オランダなどに連れていかれるの を防ぐためとか、女の印、初潮を迎えた印、婚姻の印とする地域もあり、厄が払える、病気に ならないとの理由で突く人や、他界の神に叱られ後生に行けない、後生で葦や竹の根を掘らさ れ苦労するとの他界観に基づいて針突をした人々もいた[山本 2005:179-182]。

明治時代に入ってからの針突規制は、日本が近代国家の枠組みをすでに備えつつあった時期 に開始されており、最初の規制の対象は、かつて琉球王朝の支配下にあり、その後薩摩藩に組 み込まれ、廃藩置県後には鹿児島県になっていた奄美諸島で、1876年(明治9)年のことだっ た。1879(明治12)年にいわゆる「琉球処分」により沖縄県として日本の一県に組み入れられ た沖縄、宮古、八重山の各諸島に対しては、1899(明治32)年に課されることになった[山 本 2005:186]。

北海道のアイヌ女性のイレズミは、手や口辺部に施され、婚姻や成人の節目としておこなわ れていた。北海道のなかでも地域差があり、胆振西武地方、日高西武地方、十勝地方から日高 東部地方、北見地方でそれぞれ異なる特徴を有していた。それらの地域では文様や施術される 個所が異なっていたが、いずれもイレズミは、女性ならではの美しさと捉えられていた。イレ ズミは民間治療や他界観とも関連しており、神経痛の治療や女性に特有な悪い血を流すためと してイレズミをしたほか、沖縄と同様にイレズミなしでは他界で苦労するとの信仰が存在した

[山本 2005:259]。

アイヌ女性へのイレズミ慣習には、江戸時代から干渉がおこなわれており、ロシアを脅威と みなす江戸幕府は、アイヌ民族に日本人との同化政策をとり、定住と勧農を推進したが、こう した政策は明治時代に開拓使が置かれてより徹底されていく。開拓使は、1871(明治4)年に アイヌ民族にイレズミをはじめとする日本人と合わない風俗習慣を禁じる布達を出している。

北海道のほか、植民地として開拓を推進した樺太に在住したアイヌ民族にもイレズミ慣習や風 俗習慣に関する干渉がなされたようである[山本 2005:259-260]。法令による規制や取締と 並行して、アイヌ民族にイレズミをしないよう義務教育を通して指導した結果、徐々にイレズ ミをおこなう女性は少なくなっていった。施術される箇所も通過儀礼上、重要視されていた上 唇部に集約されていく。アイヌ民族のイレズミ慣習停止に影響を与えたのは、政策と教育だけ ではなく、イレズミをアイヌ民族の象徴として扱う日本人による差別も影響した。差別の中で イレズミの除去を試みる女性も現れたとのことであり、イレズミをする女性は大正時代に入っ

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て減少し、やがて慣習は停止したのである[山本 2005:261]。

日清戦争後の下関条約で1895(明治28)年に台湾の割譲を受けた日本は、台湾を最初の植民 地として手に入れた。日本は植民地統治時代に原住民族を高砂族と称した。そのうち、タイヤ ル人やサイシャット人、そしてツォウの一部、パイワン、ルカイ、プユマがイレズミの慣習を 有していた[山本 2005:224]。

山本が詳述しているタイヤルの例をあげると、イレズミは青年に達した証明であり、あの世 の入り口に一本橋や虹の橋があって、祖先の霊が橋を監視しており、イレズミを済ませた者の みを通らせてくれるという他界観を有していたため、あの世へのパスポートにもなっていた。

男性の顎と女性の頬のイレズミは通過儀礼を無事終えて結婚の資格も得た印となり、また、集 落の種々の活動に参加することも可能になったのだという[山本 2005:232]。台湾の原住民 政策(理蕃政策)は1903(明治36)年以降に本格化し、1910(明治43)年からの五箇年計画理 蕃事業でタイヤルの主要グループをほぼ鎮圧した後、日本側によるタイヤル人の風俗習慣への 干渉が開始されていく[山本 2005:239]。タイヤル人に対するイレズミ規制が本格化するの は1913(大正2)年のことだが、理蕃警察関係者が示す見解には、イレズミ禁止政策はタイヤ ル人の文明化や近代化に必要であり、当事者にも必要とされていたというものもある[山 本 2005:243]。その後、「日本への帰順」の証しと位置づけられていたイレズミ慣習の停止は、

やがて日本人とより踏み込んだ関係となる「同化」と結びつけられていった[山本 2005:246]。

イレズミ規制からみれば、日本の政府にはイレズミを彫らない身体こそが「自然な身体」「近 代的な身体」であり、自国民と植民地にある人々の身体は管理すべきだとの前提があったと考 えられる[山本 2005:265]。均質化を進めるこのようなプロセスを通じて、イレズミ実践を 所与のものとしていたさまざまな共同体的社会関係は破壊されていき、イレズミは国民的身体 モデルのなかのノイズのようなものになっていったのである。その後のイレズミの取り扱いに 関して、第二次世界大戦での日本の敗戦は、大きな変化の契機となった。

沖縄では、アメリカに占領された1945年の時点で、針突への規制は解かれた。ただし、針突 は好ましくない習慣とされており、規制が解かれた後も復活することはなかった[山本 2005:

216]。針突は1980年代に、行政が先行した形で無形文化財としての評価がなされ、多数の報告 書が作成されたが、一般の人々やマスメディアは、琉球舞踊やエイサー、音楽、料理などのよ うな「伝統文化」とはとらえていない。2004年に那覇で開業する彫師が二人の沖縄在住の女性 に針突の文様を入れたことを、山本は聞き取っている[山本 2005:219]。

台湾では、日本の敗戦後、政治を掌握した国民党政府は、イレズミを禁止せず、原住民族は イレズミを施術する自由を得た。その後、1980年代後半からの原住民権利運動と90年代からの 原住民文化への関心と評価の高まり、さらに施術を受けた人々と伝承者が年々減少しつつある ことへの危機感を背景とする、イレズミの再評価がなされつつあるとのことである[山本 2005:

257-259]。

3.トライブとしての縄文の「発見」

本節では、戦後の復興が進んだ後の1960年代以降の日本における縄文的なものへの関心を、

同時代の世界状況との関係で完結に整理し、その延長線上に『縄文族 JOMON TRIBE』を位置 づけていきたい。最初に、日本の文学や思想の分析から現代日本のスピリチュアリティを分析

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したゲーパルト[2013]の視点を用いて、キーワードである縄文の現代的意味合いの一端を理 解していきたい。

ゲーパルトは、日本の知識人-芸術家、文学者、批評家ら-が、1970年代から関わっている 言説のひとつとして、「スピリチュアル言説」というものをあげ、それが彼/女らの自己理解の 最も重要な側面の一部をなしていると述べている。ここでいう「スピリチュアル言説」とは、

1980年代に強まり、世紀転換期の前後を通じてある種の未来への見通しとしてしても展開され た「スピリチュアリティ」や「癒し」や「日本的・アジア的霊性」についての語りのことであ る。ゲーパルトは、この言説は、ノスタルジーとアイデンティティ追求と商業主義、新保守主 義とルサンチマンと「ポストモダン」で「オカルト」的な自己神話化の間の、微妙な戯れを含 むもので、メディア世界の演出やパフォーマンス的性格の一部をもなしていると整理している

[ゲーパルト 2013:35]。

この「スピリチュアル言説」は、日本で局所的に生じたものではない。ゲーパルトによると、

「スピリチュアル言説」は、1960年代末から70年代初めにかけてより大きな「カウンター・カ ルチャー物語」を形作った文化批判・文明批判の一部だという。この潮流はまずは政治論議と 社会的アンガージュマンによって特徴づけられたが、ほどなくある種の「スピリチュアル」な 心性が形成されていった。そうした心性は、まずはエコ・エソテリックないしエスノ・エソテ リックな方向性をもっており、芸術家、著作家、研究者がこの時期に、「土着的なもの」をめぐ るエスノ・フィクションの構築に貢献した。その際彼らは、自国の「土着」文化と他の社会の それを同じようにエスノ・エソテリックな概念によって構成したのである[ゲーパルト 2013:

258-259]。ゲーパルトは

WEIßMANN[1991]を引用しながら、ここで言うエスノ・エソテリ

シズムの語の意味について、ある種の意味探求の形式であり、この形式においては、「自然的社 会」ないし「古き文化」が調和的な組織をもつものとしてロマン主義化され、これらの社会の

「知」を現代において役立てようとするものだと整理する。ヨーロッパでは、自らの文化の「ス ピリチュアルな」根を再構成しようとするこのエスノ・セントリックな言説は、「民俗信仰」の 再興や「呪術」のルネサンスや魔女術のリバイバル、そして「ヨーロッパの古き神々への回帰」

などを内容としていたのだという[WEIßMANN 1991;ゲーパルト 2013:259]。

ゲーパルトは、日本の「スピリチュアル言説」の分析にもとづいて、1960年代以降の日本の 文学や芸術、さらに知的論議に見られる「土着的」なものと「アジア的霊性」に関わる引用や 言及は、ある種の国際的な時代精神の表出として取り扱う必要があると主張し、現代日本の秘 教的エキゾティズムは、これは非常に根本的なことであるが、真正の伝統の証言として理解さ れてはならず、日本の自己オリエンタリズムの歴史の今日的側面として見られるべきものであ ると注意を喚起する[ゲーパルト 2013:260]。現代日本における縄文もまた、そのような点 から検討される必要があるだろう。

それでは、本稿が対象とする縄文は、具体的にどのように位置づけられていたのだろうか。

以下にその大枠を示したい。1986年に

JICC

出版局から出版された『別冊宝島52(現代思想・

入門Ⅱ 日本編)』の巻末には、1970年代と80年代の精神風景マップを示した図があり、「縄文」

もひとつのキーワードとして配置されている。この図には「戦後思想と新しい知の枠組み」と

「『大衆』以降」、「新しい知の枠組みとポストモダン的言説」と「実存から近代批判へ」との4 極が想定され、その途中に様々な思想や実践が位置づけられているのだが、「縄文」は「実存か ら近代批判へ」という極に最も近いところに配置されている[JICC出版局 1986]。この図を見

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る限りでは、同時代の精神風景において縄文に関心を持つことは、近代批判の根拠としての個々 の身体に注目することともつながっていたことをイメージさせる。

縄文について論じたひとりが梅原猛である。ゲーパルトは、梅原猛を国粋的と評したうえで、

彼の主張は「日本は自らをもはや西洋文化の周辺としてではなく、西洋にとっては自明のこと であるごとく、普遍性を要求することのできる存在とみなすべきである」というもので、「西洋 近代が残した堆積物から日本文化の自主独立の基盤を解き放ち、これを日本が本来有する『深 層』として見いだすこと」が必要だと考えていたと述べている[ゲーパルト 2013:57]。たと えば、『日本の深層縄文・蝦夷文化を探る』の一節で梅原は、佐久間象山による「和魂洋 才」の語を紹介したうえで、それに遡って「和魂漢才」「和魂韓才」の時代が過去の日本には あったかもしれないと想像を膨らませたうえで、日本が韓国あるいは中国の影響をもろに受け た弥生時代とそれ以前の断絶を強調し、「縄魂弥才」という言葉を提示している[梅原 2008

(1983):19-20]。この言葉は、日本の「深層」として「縄文の魂」[梅原 2008(1983):21]を 措定するものであり、日本を考える際の起点と縄文を位置づける見方の代表的なもののひとつ といえるだろう。

トライバル・タトゥーの復興

ここでいま一度、土着的なものへの関心の高まりは世界的な潮流だったということを想起し たい。世界に目を向けると、イレズミに関しては、マイノリティたちの(伝統)文化復興・再 興という文脈と関わっていた。

1970年代から80年代にかけて、非欧米のイレズミが欧米に紹介されることで、それまで水夫、

犯罪者、労働者階級の人びとに好んで彫られていて、「反社会的」で「アンダーグラウンド」な 性格が強かったタトゥーは大きく変化した。アメリカではハーディらによって紹介された日本 の刺青がその絵画性と伝統文化としての価値を評価され、それまでのタトゥー愛好家たちとは 異なる中産階級層の人びとの興味を惹きつけた。さらに、彫師のズルエタがボルネオのイレズ ミをより欧米人好みに発展させ「トライバル」として確立させた。「トライバル(tribal)」とは 英語で「部族の」という意味であり、その名称からもわかるように、民族的な起源をもつタ トゥーを総称している。それはパンク・カルチャーをはじめとする幅広いサブカルチャー層の 人びとに好んで彫られるようになり、ヨーロッパでは「ハンキー・パンキー」という名で知ら れているアムステルダムの彫師シフマッヒャーがタトゥー博物館設立のために世界各地のイレ ズミを研究し、ヨーロッパでの「トライバル」ブーム、そして、イレズミの文化的・歴史的な 側面への関心が高まる土台をつくった[桑原 2008:30]。

ちょうどこの時期は、植民地が次々と独立を果たしていく時期とも重なっており、そこでの イレズミの復興も進んだ。1980年代になり、太平洋の島々が植民地支配下から独立を果たし、

それにともなう民族アイデンティティの再構築と文化復興運動が次々と起こり、タヒチでは20 世紀の初めにマルケサス諸島で調査をした民族学者のデッサンと写真をもとに再現され、伝統 的な道具を使ったタタウ(タトゥーの語源)の技法が復興され、ダンスや工芸と同じように、

タヒチの「伝統文化」としての価値を再認識され、おもに工芸職人、ダンサー、ミュージシャ ンなどの身体に彫られていった[桑原 2008:29]。その後、アマチュア彫師のなかから、ヨー ロッパやアメリカのタトゥー・マシーン、超音波洗浄機、高圧蒸気滅菌機、タトゥー用インク などを使用するようになり、自宅や路上で彫るのではなく、タトゥー・ショップを構えるよう

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になっていったという[桑原 2008:30]。

ここに来て、世界的なタトゥー・シーンとトライバルな要素は混じり合うようになっていっ たのである。マオリのイレズミ、モコの1980年代の復興について論じた秦は、ギャングやマオ リ活動家、ヨーロッパ系やマオリなどを含むグローバル・タトゥー出身の彫師が復興に関与し ていたことを詳細に論じている[秦 2011;2012]。第2節で述べた、台湾でイレズミの再評価 が進んだ背景には、このような同時代的な状況も関わっていたといえるだろう。

『縄文族 JOMON TRIBE』

縄文は抑圧されてきたマイノリティに関するイメージではなく、自身がそうであることを意 識しないマジョリティにとっての、しばしばロマンを誘うような過去のイメージである。

ケロッピー前田は縄文族について、「縄文の文様を抽出し現代的なタトゥーデザインとして身 体に刻む。それが人類の原始的な精神に通じ、21世紀を生き抜くためのアイデンティティとな り得ることをこのプロジェクトは目指している。これは日本における『モダン・プリミティブ ズ(現代の原始人)』の実践なのだ」[ケロッピー前田 2016:186]と説明している

大島托は、インドのゴアでタトゥーと 出会い、1996年からからプロとして活動 をしているタトゥー・アーティストであ る。黒一色のブラックワークといわれる タトゥーのスペシャリストで、ポリネシ アを始め、ボルネオ、台湾、東南アジア など世界各地を旅して、現地に伝わる 様々なタトゥーの文様や技法を学んでき ただけでなく、ヨーロッパの先端的な彫 師たちとも交流している。ポリネシアや マルケサスなどの模様を日本に最初に持 ち込んだという。また、針突やアイヌの イレズミをタトゥーとして依頼者に対して彫ることもあるという。ケロッピー前田は2002年 頃から雑誌『バースト』で、タトゥーよりも過激な身体改造に特化した記事を執筆するように なった頃から「身体改造ジャーナリスト」と名乗り始めており、近年は

TBS

系列の『クレイ ジージャーニー』への出演でも注目を集めている。

この両者が手を組み、「日本のドメスティックなトライバルを作る」ことを目的として2016 年に始まったのが、『縄文族 JOMON TRIBE』である。大島托は、タトゥーをする喜びが地域や 時代を超えて人類共通のものならば、縄文時代にあったといわれるタトゥーも現代の日本で蘇

写真 1 .施術風景(大島托氏提供)

3 なお、本稿の以下の部分での大島托と縄文族に関するエピソードは、ケロッピー前田による『クレイジーカ ルチャー紀行』『クレイジートリップ 今を生き抜くための“最果て”世界の旅』による内容と筆者と大島托 氏の個人的なやり取りで得られた情報とを合わせて記載しているため、詳細な出典については省略する。

4 このように、既存のトライバルのエッセンスを抽出する形でつくりあげられるタトゥーをネオ・トライバル と称する。なお、2019年3月号の『STUDIO VOICE』(株式会社INFASパブリケーションズ)中の「タタウ が記憶するもの琉球ハジチの復興と継承」に大島托の活動が紹介されている。また、このようなマイノ リティのタトゥーは、国内のマイノリティの歴史とも深く関わるものであるため、それらのマイノリティで はない人間が扱う場合には、繊細にならざるを得ない局面もあるのだという。

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らせることが可能だと考えている。縄文人は月、蛇、羊水(精液)、子宮といったモチーフを再 生のシンボルとして、あらゆる文様を生み出してきたという縄文のシンボリズムという考え方 を提唱している、『月と蛇と縄文人』などの著作を持つ大島直行もこのプロジェクトを支持して いるという。縄文の文様の核心は「蛇」だと考える大島托は、世界各地のトライバルのモチー フを用いながら現代的にアレンジをしてモデルの身体に刻み込んでいる。ケロッピー前田はこ のプロジェクトを、日本の縄文ブームの「火付け役」岡本太郎の名を冠した

TARO

賞(岡本太 郎現代芸術賞)へ応募することから始めており、このためのリサーチがアート・プロジェクト としての明確なコンセプトを構築する上でたいへん役立ったと述べている

『縄文族 JOMON TRIBE』は2016年に東京、阿佐ヶ谷の

TAV GALLERY

で9月16日から27日 にかけて写真の展示や実演、ゲストトークなどを含む複合的なイベントとして公開された。モ デルたちはみずから身体の提供を申し出た人々で、自営で生計を立てている人が主だという。

大島托は、「10メートル離れたところから見ても模様がわかる」ことを重視していることから、

タトゥーは身体のなるべく広い範囲に彫っていく。完成までは30~50時間程かかるのだという。

イベントでは、縄文タトゥーの実演を含むパフォーマンスもおこない、ケロッピー前田は「縄 文人がまだ文様と出会う前の自然に翻弄された姿を音で表現」するためにアボリジニのディジュ リドゥを吹いたという

このように、『縄文族 JOMON TRIBE』には時代も地域も異なる、さまざまなトライバルな要 素が混じり合っている。それでは、そのようなブリコラージュ的実践として「日本のドメス ティックなトライバルを作る」とは、どのようなことを意味するのだろうか。

筆者の関心との関係で言うならば、縄文という見立てを通じて、ローカリティを出現させる ということがあげられる。このローカリティは、弥生時代以前に1万年続いた縄文時代の延長 線上に現代世界があることを認識し、そのような空間のなかに身体を配置させることで浮かび 上がってくる個性のようなものである。現代の日本で写真、あるいは物理的な身体を通じて現

5 大島托の言葉を借りるなら、「虚実ないまぜ」でおこなうこのプロジェクトについてヨーロッパのタトゥー 愛好家は簡単に理解できるが、日本ではスムーズにいかないときもあるという。

6 このプロジェクトへの注目は高く、ケロッピー前田と大島托は、2017年にはフランクフルトの美術大学オッ フェンバッハ・アム・マイン大学(HfG)で展示と講義をおこなっている。

写真 2 .縄文タトゥーを題材にした写真作品(ケロッ ピー前田氏提供)

写真 3 .展示会の様子(大島托氏提供)

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前するモデルたちの身体を、おそらくかつてこの列島に存在したと考えられるイレズミをまとっ た身体と歴史の経糸でつなぎ、同時に、地域も時代も異なるイレズミあるいはタトゥーをまとっ た身体とを横糸でつなぐことで、見る角度によって変化する立体的なローカリティが縄文族の 身体に付与されていくのである。

4.おわりに

本稿の目的は、『縄文族 JOMON TRIBE』を国内外のイレズミ・タトゥー史のなかに位置づけ て、その特徴について検討し、今後の課題を整理することであった。そのために、本稿ではこ こまで、日本列島におけるイレズミの歴史(第2節)、縄文という語の現代的意味、同時代の他 地域のトライバル・タトゥーとの関係についての簡単な見取り図、およびプロジェクトの概略

(第3節)について述べてきた。

第1節で引用したアパデュライにならって、イレズミやタトゥー実践を儀式ととらえるなら、

それらは「社会的にも空間的にも境界を定められた共同体にあって、身体を位置づけるととも に、ローカリティを身体化する手法」という点で共通している。本稿では歴史を追いながら、

縄文タトゥーをイレズミ実践の延長線上に位置づけて論じてきたが、その間に人々が包摂され る共同体のあり方は大きく変化している。加えて、現在のタトゥーは、同時代のさまざまな身 体加工と相互に影響を与え合う関係にもある。ここでは、今後の検討課題を導き出すために、

まず、第1節で引用した身体加工に関わる事典項目の続きの一部を引用することから始めたい。

20世紀後半から、社会の身体構築としての加工に対して、個人の嗜好の表現としての身体 の変工もさかんになっている。60年代のヒッピー・ムーブメントとともに世界各国の身体 加工が見直され、70年代にはゲイ&レズビアン運動などとも結びつきながら、タトゥーや ピアスを身体に施す行為が一つのカルチュラル・シーンを形成する。そのようなシーンを リードした80年代のアメリカ西海岸では、

F・ムサファーらが世界各地の民族の身体加工や

儀式を次々と再現していった。90年代に入ると、過去や異文化において行われていた加工 を復興するだけではなく、タトゥー、ピアス、スカリフィケーション (瘢痕)、インプラン (埋め込み)

などが現代の西欧医学や衛生の知識を取り入れ、身体改造と呼ばれるように

なり、欧米や日本ではカルチュラル・ムーブメントにまで成長している[桑原 2009:77]。

縄文タトゥーの実践は、1980年代以降のこのような身体加工文化の文脈からも理解されなけ ればならない。そのために本節では、第3節で引用した、「『モダン・プリミティブズ(現代の 原始人)』の実践なのだ」[ケロッピー前田 2016:186]というフレーズに着目して今後の課題 を述べておきたい。このモダン・プリミティブという言葉は

F・ムサファーが1989年の RE/

SEARCH

誌のインタビュー内で用いた言葉で、同インタビューの翻訳記事では、「部族社会に

属することなく、原初の衝動に応えて肉体に何か手を加える人」と訳されている。つまり、「部 族社会に属さない」現代の日本人にとっての縄文タトゥーの持つニュアンスを理解するために 7 『夜想29ディシプリン』192頁(森本正史・山形浩生訳)。原文は、RE/SEARCH誌12号MODERN PRIMITIVES

の13頁の“non-tribal person who responds to primal urges and does something with the body”である。

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は、その他のモダン・プリミティブ的実践との相互関係についても検討が必要となってくるの である。

復興が目指されている文化のなかでの、(ネオ・)トライバルのタトゥーの持つ意味合いにつ いても検討が必要である。本稿で手短に触れたタヒチのタタウやマオリのモコは、植民地支配 やマイノリティの文化をめぐる闘争とも密接なもので、グローバルな文脈ではマイノリティの 権利をめぐる政治とも関わりを持っている。

縄文タトゥーは、上に述べた旧植民地の文化復興の文脈と比較すると、限りなくエスノ・フィ クションとしての要素が強く、アイデンティティに関わる政治性は前面に出てこない。縄文は、

国内におけるマジョリティと過去とを接続するものであり、当事者とされる人々の数は非常に 多いのにも関わらず、当事者性を覚える人は少ないということが特徴なのである。とは言え、

近年、何度目かの縄文ブームが訪れていると言われるように、縄文への関心は非常に高まって いる。たとえば、2015年にフリーペーパーの『縄文

ZINE』

(創刊号6000部、第4号からは30000 部)が発行され、2018年7月に東京国立博物館ではじまった特別展『縄文1万年の美の鼓 動』には、約2ヶ月の展示期間中35万人が訪れている[日系トレンディネット 2018年11月16 日]。同じ7月には映画『縄文にハマる人々』も全国で公開されている。

このように、現在まで続く縄文ブームにおいても「メディア世界の演出」や「パフォーマン ス的性格」が果たしている役割は大きい。この縄文ブームの渦中において、それぞれの展示や 書籍・雑誌、作品と『縄文族 JOMON TRIBE』は、意図せずとも相互に影響を与え合う関係性 にある。日本における縄文ブーム、あるいは縄文への関心と縄文族のズレや重なり合いについ ても見ていく必要があるだろう。

以上、いくつかの課題を整理してきたが、このような暫定的な整理からも、ローカリティや ローカル・アイデンティティに関わる数多くの問いが現れてくる。かつてのイレズミは、世界 観や日常実践と関わっていたが、縄文族のタトゥーは、どのようにモデルたちの生に介入して いるのだろうか。そして、その介入の先に経験や感覚を共有する、縄文族としての共同性は生 起するのだろうか。仮に共同性が生起したとして、果たしてその共同性はエスニックな要素を 含むのだろうか。含まれるのだとすれば、それは日本に数多く存在するエスニシティやナショ ナリティとどのような関係にあり、どのようなローカリティやローカル・アイデンティティを 作り上げていくのだろうか。

今後、身体加工文化をめぐる詳細な情報収集による状況の把握と、実践者および関係者に対 する聞き取りを組み合わせて検討していくことで、これらの問いには答えていきたい。

引用文献

アパデュライ、アルジュン

 2004『さまよえる近代グローバル化の文化研究』門田健一訳、平凡社。

今西 一

 1998『近代日本の差別と性文化文明開化と民衆世界』雄山閣出版。

梅原 猛

 2008(1983)『日本の深層縄文・蝦夷文化を探る』集英社。

桑原牧子

  2008「タヒチのタタウ文化復興運動とグローバル化をめぐって」『季刊民族学』125:

(11)

22-39.

 2009「身体加工」『文化人類学事典』日本文化人類学会編、pp.76-77、丸善出版。

ゲーパルト、リゼット

 2013『現代日本のスピリチュアリティ文学・思想にみる新霊性文化』深澤英隆・飛鳥井 雅友訳、岩波書店。

ケロッピー前田

 2016『クレイジートリップ 今を生き抜くための“最果て”世界の旅』三才ブックス。

 2019『クレイジーカルチャー紀行』角川書店。

高山 純

 1969『縄文人の入墨古代の習俗を探る』講談社。

田川とも子

 2009「文身とタトゥー」『コスプレする社会サブカルチャーの身体文化』成実弘至編、

pp.172-195、せりか書房。

WEIßMANN, Karlheinz

 1991 Druiden, Goden, Weise Frauen: züruck zu Europas alten Göttern. Herder.

秦 玲子

 2011「マオリのタトゥー、モコの復興と断絶彫師の語りを中心に『日本ニュージー ランド学会誌』18: 53-66.

 2012「コンタクト・ゾーンにおける実践:ニュージーランド・マオリのタトゥー「モコ」と 世界の

tattoo」『コンタクト・ゾーン= Contact Zone』5:108-123.

山本芳美

 2005『イレズミの世界』河出書房新社。

吉見俊哉

 2004「グローバル化の多元的な解析のためにアパデュライの非決定論的アプローチ」『さ まよえる近代グローバル化の文化研究』pp.369-382、平凡社。

雑誌

『別冊宝島』52(現代思想・入門Ⅱ 日本編)、1986、JICC出版局。

『夜想29ディシプリン』、1992、ペヨトル工房。

RE/SEARCH #12 MODERN PRIMITIVES, 1989, RE/SEARCH PUBLICATIONS.

インターネット

日系トレンディネット「縄文時代にはまる人が続々 ブームの仕掛け人に聞いた」2018年11 月16日(https://style.nikkei.com/article/DGXMZO37156720R31C18A0000000/)

参照

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