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中国(明朝廷)の琉球に対する勅封の歴史: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

中国(明朝廷)の琉球に対する勅封の歴史

Author(s)

孫, 薇

Citation

史料編集室紀要(27): 47-58

Issue Date

2002-03-26

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/7691

Rights

沖縄県教育委員会

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史 料 編 集 室 紀 要 第27号 (2002)

中国 (

明朝廷)の琉球 に対す る勅封の歴史

孫 葎

一.勅封の概要 二.明代における琉球勅封 1.複数勅封期における勅封史 (1)山北.中山.山南-の勅封の経緯 (2)尚巴志-の勅封とその意味 2.特定勅封期における勅封史 三.明代の琉球勅封の特徴 中国 と琉球 との交流 の歴 史は500年 にわたってい る。 これ は冊封朝貢 の歴史 とも言われ てい る。 この中で、 中国の明 ・晴両朝廷が琉球 に行 った勅封 の実施期 間は、400年以上 に もわたってい る。琉球勅封 とい う歴史の実態 を明 らかにす るためには、勅封史 に関す る研 究 とい う縦 の視点 と勅封 日程 に関す る究明、分析 とい う横 の視点が要求 され るのであるが、 この論文 の中では、勅封史のほ うに焦点 をあて ることにす る。 一 .勅封 の概 要 明 ・清両朝廷が琉球 に行 った勅封 は、1396年か ら始 ま り1866年 まで続 き、細か く言 うと、 470年 の長 きにわた ってい る。前後 に して、45人の勅封 のための正使 、副使一 勅封使 が、 (1) 皇帝か ら琉球 に派遣 され、その回数 は25回にも上 ってい る。毎回、360人か ら600人までの 間の人数 であれば、勅封使 たちの船 (沖縄 では御冠船 とも言 う) に搭乗 し、琉球 に行 った 人達 は上限14,400人 であ り、下限8,640人である。分析 の便宜のために、 この論文の中で は、時代 を明代に限定す る。 通常、勅封 は、報喪、請封、任命、実施 、復命 、謝恩な どの段階か らなってい るのであ る。琉球 の場合 に即 して言 えば、報喪 とは、琉球か ら国王の死亡 を中国に報告す ることで ある。請封 とは、死亡 した国王の正 当な跡継 ぎ一世子 を国王 として任命 して くだ さるよ う、 皇帝 に請願す ることである。琉球か らこの よ うな報喪 と請封 を受 けて皇帝が 自分の使者 と

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-47-史 料 編 集 室 紀 要 第 27号 (2002) して琉球 に勅封使 を派遣す る。任命 された勅封使 は、琉球 に渡 り、勅封 の儀式 を行い、皇 帝か らの使命 を終 えて帰国 し、皇帝 に復命す るのである。それ と同時に、琉球側が勅封 を して くだ さった皇帝の御恩 に感謝す るために使者 を中国に送 るが、 このことは謝恩 と呼ば れ てい る。 言 うまで もな く、 この よ うな行事 を担 当 し、完遂 させたのは、中国 と琉球 のそれぞれ の 使命 を帯びた使者 の人 々である。例 えば中国側 には勅封使 たちがいて、琉球側 には報喪使、 請封使 、謝恩使た ちがい るのである。 二 . 明代 にお ける琉球勅封 明朝廷の琉球への勅封 は、大き く言 うと、1372年 の通交 をは じめ とし、明末 を終わ りと す るのであるが、実施期 間 として、約240年 の間で行 われ た。 この間、合計、29名 の勅封 の正使 と副使 が琉球 に渡 った。明代の琉球勅封 を歴史的 に考 える場合、時期 を二つに分 け る必要がある。 これ は、琉球 の歴 史状況 と関係 してい るものである。つま り、中山、山北、 山南 とい う三三を同時に勅封す る複数勅封 の時期 と中山王 にのみ勅封す る特定勅封の時期 に分 け られ るのである。複数勅封 の時期 は、長いスパ ンで言 うと、1372年の通交をは じめ とし、1424年 を終 わ りとす るのである。特定勅封期 は、1425年か ら明代の末期 (1633年) までの間の時期 を指す のである。 1.複数勅封期 にお ける勅封史 (1) 山北.中山.山南-の勅封 の経緯 琉 球 で は、 は じめて 中国 か ら勅 封 を受 けた のが 、 山北 の撃 安 知 で あ る。洪 武 29年 (1396)の ことである。 この年 に、 「山北王の嶋が死亡 し、その子 の琴安知 が立つ。朝廷 (2) か ら封 じられ 、使者 を遣わ し入貢 した」。現在 の ところ、いかなる形 で封 じられたのかは 知 ることができないが、肇安知への勅封 は、中国が山北王の世子 にお こなった唯一の もの (3) となってい る。現在 か ら考 え、あえて言 えば、十 四世紀 において中国が琉球 に行った唯一 の勅封 となってい る。 中山王世子への勅封 は武寧 が最初 であった。 山北の撃安知 よ り八年遅れ ての永楽2年 (1404)の ことで ある。その年 の2月 に中山王世子である武寧 が父である察度 の死 を中国 に報告 した。 これ を受 け、礼部 を通 じ、官吏が遣 わ された。先王である察度-の諭祭 が行 (4) われ た後、武牢 は中山王 に封 じられ た。 1404年か ら1866年 まで続いた462年 に亘 る中山王 の世子-の勅封史の序幕が開かれ た。

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永楽2年

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月 に、山南王承察度の従弟 である江応祖 も、承察度 の死 を報告 し、 (5) 冊封使 を派遣 して もらい、冊封 を受 けた。 したがって、 この時になると、明朝廷の勅封権 が琉球本 島全域 に及ぶ ことになった。 永楽5年

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月 に、思紹が察度王統の二代 目の中山王である武寧の死 を自分の父 親 の死 として中山王世子の名義 をもって報告 した。皇帝が礼部 に命 じ、使者一諭祭使 を遣 わ し、死亡 した中山王に対 し、祭 を行い、遺族 の人 々を慰 めるための贈 り物である縛 を下 賜 した。 (6) そ して、新 たに使者 を遣わ し、詔書な どをもた らし、恩紹 を勅封 させ た。 明朝廷が永楽 3年

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日、かつて琉球国中山王の世子 である完寧斯結 に宴 を下賜 した ことが あることか ら考 え、世子 としての完寧斯結の存在がわかったはずである。恩緒がいかに し て中山王世子 の名 を手に入れ、正 当な理 由で明朝廷 に認 めて もらったのかわか らない。 永楽

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3月 に荘応祖 の子である他魯毎が請封 を した。 これ に対 し、行人であ (7) る陳季芳 を遣 わ し、他魯毎 を山南王 として封 じた。 (2)尚巴志-の勅封 とその意味 この時期 において、 中国か ら琉球 に行 った勅封 は、中山王二代 、山南王二代 、山北王一 代 となってい る.複数勅封 は、洪照元年

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の尚巴志-の勅封 によ り終わ りが告げ ら れ、中琉 関係 が新 しい局面 を迎 えることになった。 尚巴志-の勅封 は、琉球勅封の歴史 において一つの境 目をな してお り、同時に、それ は 二つの意味 を持 ってい る.一つは、尚巴志 の琉球統一に よ り、複数勅封 の歴史 に幕 を降 ろ したことで、第二点は尚とい う苗字の下賜 と関連 し、尚氏-の勅封 を開始 させたことである。 この以後 の世子 は王統がい くら変化 して も自ら 「尚」 と称 じ、中国に請封 を行い、勅封 を受 けてきた。 中国側 も尚巴志-の勅封のために今 まで派遣 した行人 よ り高い地位 にい る 内官をは じめて派遣す るとい う従来 とは異なった対応 をお こない、重大 さを示 したのである。 2.特定勅封期 にお ける勅封史 永楽

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春 、中山王世子 の尚巴志が父 (思紹)の死 を報告 したため、使者 とし (8) て行人の周桑が死亡 した恩絹 に皇帝か らの諭祭 を行い、鱒 を下賜す るために遣わ された。 内宮の柴 山が世子 の尚巴志 の勅封使 として派遣 され、洪鷹元

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日に同年2 月初1目付 の勅書 を用 いて勅封 を行い、尚巴志は名実 ともに琉球 国中山王 となった。洪鷹 (9) 元年閏 7月

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日以後には、礼部宛の賓文 を持った賓達魯が謝恩使 として中国に派遣 された。 正統

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日に尚巴志が死亡 した。翌年正月、尚巴志 の第二子 の尚忠が長 49

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-史料 編集 室 紀 要 第 27号 (2002) 史の梁求保 を派遣 し、正統 6年 7月初 6日付 の奏 によ り、報喪、請封 している。 3月 に正 (10) 使 として給事中の余住、副使 として行人の劉遜が派遣 され、世子の尚忠を中山王に勅封 した。 正統 12年 (1447) 2月、世子の尚恩達が長史の梁球 を派遣 し、父親の尚忠の死亡を報告 し、請封 してい る。 3月 に給事 中の陳博 、行人の寓祥が派遣 され 、先王の尚忠 を諭祭 し、 (ll) 世子 の尚思達 を中山王 に勅封 した。 景泰 2年 (1452)、 尚恩達が死亡 し、子 がないた め、尚思達の叔父である尚金福 が使者 を遣 わ し、報喪 した。左給事 中の喬毅、行人の董守宏 が派遣 され、先王の尚思達 を諭祭 し、 (12) 尚思達の叔父であ る尚金福 を中山王に勅封 した。 四年 しか王位 にいなかった尚金福が死亡 し、尚金福 の子 と尚金福 の弟 との間に王位争い が始 ま り、首里城 にある府庫 (中山王府 の庫で、国庫 と理解すべ きであろ う) も火事 とな り、 中国か ら下賜 され た中山王 の印が灰 と化 した。 尚泰久が人々に推 され 、 「国事 をか り に司った」。景泰 5年 (1454)、 この事が中国に報告 され、新たに印が下賜 された。国事 を 権 に掌 る王弟 と自称 した 尚泰久が貢使 を派遣 した。皇帝が貢使 を通 じ、尚泰久-の勅書 と 綜幣 とい うお りものを下賜 した。その後、景泰 7年 (1456)、給事 中の李兼寿、行人の劉 (13) 倹 を遣 わ し、 尚泰久 を中山王に封 じさせた。 天順 6年 (1462)3月、給事 中の清栄、行人の察哲が勅封 の正使 。副使 として派遣 され、 天順 7年 (1463) 7月13日に琉球 に到着、尚泰久 を諭祭 し、世子の尚徳 を中山王 に封 じた。 使 った詔書、勅書 と下賜 目録 は天順 5年 (1461)3月25日付 けの ものである。 この前、尚 (14) 徳 か らは、報喪が あ り、 この後、天順 7年 (1463)年 8月初4目付 けの謝恩奏 を持 った謝 恩使 である王男の王察都 、長史の梁賓が派遣 された。 成化 7年 (1471)年 3月、世子の尚円が長史の察王景 を派遣 し、尚徳 の死亡を報告 し、 請封 をお こなった。給事 中の丘弘 と行人の韓文が勅封 の正使 ・副使 に命 じられた。丘弘が 福建 を 目指 し、南 下す る途 中の山東省 で死亡 したため、兵科給事 中の官栄 が新たに勅封の 正使 として任命 された。 同年7月4日に琉球 に到着 し、尚円を中山王 に勅封 したが、詔書、 勅諭 、 目録 は成化 7年 (1471) 7月初 8日付 けの ものであった。成化 9年 (1473)、王男 の武 賓 、長 史 の李 栄、使者 の明泰 らが成化8年 (1472)9月28目付 の謝恩表 をもって、謝 (15) 恩使 として 中国に渡 った。 成化 13年 (1477)、尚円に育 て られた弟 の尚宣威 が 尚円の死後 、国事 を撮 った。 六 カ月 で尚円の息子 である間奏 に王位 を譲 った と言い伝 え られてい る。 成化 14年 (1478)4月、世子 の尚真が長史の梁応 を派遣 し、成化 13年 (1477) 8月初 6 日に尚円が死亡 した と報告 し、同年 8月20目付 けの請封奏 をもち請封 を した。皇帝が これ を受 け、給事 中の董畳、右 司副の張祥 を勅封使 として派遣 し、成化 14年 (1478) 7月初 9

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史料 編 集 室 紀 要 第27号 (2002) 目付 けの詔書、勅諭 、下賜 目録 をもた らした。成化15年 (1479)8月初 2日、琉球 に到着、 尚真 を中山王 に勅封 した。 尚真 がその後 、謝恩使 として王男の馬悟世、正議大夫の程鵬、 (16) 長史 の察等 に同年 9月26日付 けの謝恩表 をもた らし、派遣 した。 嘉靖 5年 (1526)、尚真が死亡 し、 6年 、世子の尚清が報喪 を し、嘉靖 9年 (1530)、ふ たたび請封 を した。長史司に確認 を取 らせ 、嘉靖11年 (1532)年 5月、長史の察翰か らの 琉球 国中の 「結状 (保証書)」 の提 出を受 け、皇帝が給事 中の陳侃 、行人の高軽 を正 ・副 冊封使 として任命 した。琉球勅封 の下準備 を し、詔書 ・勅諭 な どは同年8月17日の 日付 と なってい ることか ら、 8月17日以後、北京 を離れた ことがわかる。嘉靖12年 (1533) 5月 か ら嘉靖 13年 (1534)4月まで福州 で造船 し、 5月初8日に出発 し、25日に琉球 に到着 し た。 6月16日に尚真 王を諭祭 し、 7月 2日に冊封儀式 を行 った。 9月20日に福建 に帰 る航 海 がスター トし、10月2日に福建 に到着 した。嘉靖14年 (1535) 5月24日、冊封使が復命 (17) (18) を終 えた。 12月、謝恩使 として王男の毛賓、長史の察翰が派遣 され、彼 らの乗 っていた謝 (19) 恩船 の執照 (船 の航海、使用の許 可書)が同年2月初8日付 け となってい る。 嘉靖34年 (1555) 6月、尚清が死亡 し、嘉靖37年 (1558)正月、世子の尚元が正義大夫、 長 史 らを派遣 し請封 した。提 出 した保証書の役割 を果た した 「(結)状」 は琉球 国中とい う琉球全体 を代表す るものであるため、礼部が これ以上 、確認す る必要がな く、前例 に従 い、勅封すべ き と判 断 し、皇帝に上奏 した。 2月16日、給事 中の呉時来、行人の李際春 が 行 かせ る との命令が皇帝か ら下 りた。 ち ょうど、その時、厳嵩の不正 について呉時采が疏 とい う上奏文 をあげていた。琉球-の航海 を恐れ、呉時束が故意 に事件 を起 こ している と (20) 厳 嵩に反撃 された。皇帝が激怒 し、呉時采 を広西に左遷 させ た。そのために給事 中の郭汝 霧 が取 って代わ り、勅封 の正使 になった。 4月8日、南下 し、 9月 中旬頃、福建 に至 り、 造船 を始 めたが、倭遠の さかんな時期 で海上不安定であったため、嘉靖40年 (1561) 5月 28日になって よ うや く梅花所か ら出発で きた。 閏5月初5日に琉球 に到着 し、 6月9日に 尚清-の諭祭 を、29日に勅封 を行 い、10月19日に琉球 を離れ、11月 2日に福州入 りを した。 (21) 時期 を同 じくして、中山王の尚元が王親 の原徳、長史の察朝器 らを謝恩使 として派遣 した。 万暦元 (1573)年 11月、世子の尚永が使者 を派遣 し、報喪、請封 を行 ったが、礼部が福 (22) 建 鎮巡官 に確認 を取 らせ 、福建布 政使 司が琉 球長 史 司 に 「(結)状」 を作 らせ た。 この 「(結)状」 を送 る際、長史、使者 、通事 らの梁燦 らの乗 った船 の通行許可書 の 日付は万 暦3年 (1575)12月21日であった。翌年7月、給事 中の斎崇業、行人の謝茶が勅封使 とし て派遣 された。万暦 6年 (1578) 5月初22日、福建の梅花所 を出発 し、 6月初 5日、那覇 港 に到着 し、 6月29日、尚元-の諭祭 を、 7月 19日、冊封 を行い、10月24日、那覇港 を出 て、】1月初 5日、福州 に入 った。 万暦 7年 (1579) 5月 19日、正使 の粛崇業 らが皇帝-の

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-51-史 料 編 集 室 紀 要 第27号 (2002) 復命 を終 えた。 万暦19年 (1591)、世子 の尚寧が正義大夫の鄭礼、使者 の馬良臣 らを派遣 し入貢 させた0 は じめて尚永の死亡に触れた。報喪 は した ものの、請封 しなかった。 それ は 「事多き秋」 (23) に当た り、請封す る暇が無 しとい う理 由であった。 万暦23年 (1595)、使者 の

蔵 を派遣 、請封 させ たが、請封表 を持 ってい ないため、そ れ を待 って皇帝の許可 を得 ることとなっていた。 この際、勅封 は福建での 「領封」案 とな っていた。 万暦27年 (1599)、世子の尚革 がふたたび長史の鄭道 を派遣 し、請封表 を具 え、 請封 させ た。それ は福建 での 「領封」でな く、定例に従い、琉球 にきてほ しい とい う強い 要請 であった。 「領封」 とい うものは、属 国側 の費用 を節約 させ るためであって、使者 た ちの苦労 を哀れ に思 ったためではない と礼部が尚寧 に詳細な説明を行い、理解 させ よ うと した. 「領封」か 「往封」か とい う形式 よ りも重要なのは王勇、法司官 の印のついた琉球 国全体の甘結 (状) を具 えることだ と要求 した。 長 史の鄭道 らが琉球 に戻 った後、勅封使 として文官でな く、恒例 と違 う武官 を派遣す る 案 となっていたか ら、王府 か ら重い罪 に問われた よ うである。 その後 、世子の 尚革がわ ざわ ざ長史の察室 を派遣 し、 「表 を奉 じ、方物 を進 め、感謝 し、 請封 させ た」。 そ して 「会典 に したがい、文 臣を遣 わ されんことを請 うた」。察杢 らの乗 っ (2L

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た琉球船 の通行許 可の 日付 は万暦28年 (1600) 8月19日であった。 「尚寧が琉球 中山王を 世襲す るのを許可 し、また、官の派遣 については旧例 に従 うよ う懇 ろに請 うたため、文官 (25) を差 わ し行 かせ る」 と皇 帝 が よ うや く許 可 を出 した。 そ の人選 と して は 、万暦29年 (1601)11月13目付の礼部 尚書の濁 ら署名 の題本 に 「琉球勅封は洪暗視 、王士禎に行かせ る」 との皇帝の命 があるよ うに、洪轄祖 と王士禎 であった。 しか し、万暦30年 (1602) 9 月 、正使 の洪瞭祖 が親 の死亡に よ り、 「琉琉球行 きの公務か ら離れ 、琉球勅封 は洪瞭祖 に Ll:卜l 代わ り、兵部 の給事 中の夏子陽が改めて遣わ」 された。 万暦31年 (1603) 3月、正使 をは じめ とす る一行 は、都 を離れ、福州入 りを した。ただ ちに造船 の監督 を始 めたが、万暦34(1606)年3月になって、よ うや く船が出来た。 5月 24日、梅花港 を出発 し、 6月初2日、琉球で船 を下 り、30日、諭祭 の儀式 を、 7月21日、 (27) 勅封 の儀式 を行 った。10月21日、琉球 を離れ、11月初1日、五虎 門港 に入 った。11月21日、 中山王の尚元が王勇大夫、使者 、通事な どの官吏 -馬鳳儀たちを謝恩使 として、中国に向 (28) かわせ た。 1620年9月19日、尚寧が死亡 した。世子の尚豊が王男の毛鳳儀、正義大夫 の察堅 らに福 建等虞提刑按使 司あての万暦49年 (1621)年8月21日の者文 を持 たせ 、報喪 、請封 を行 わ (29) せ た。天啓3年 (1623)正月、ふ たたび長史の林 国用 を派遣 した。 「今 、琉球国が請封 に

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史 料 編 集 室 紀 要 第27号 (2002) 来ているが、全国の印結 もな く請封表 もない。前例 に照 らし、題本 を出 して要請できない のである。請封表 と (琉球)全国の印結 を補 うよ うに」 と礼部か ら天啓 3年 (1623)3月 (3O) 初6日の指示があった。天啓5年 (1625)、尚豊が、礼部 、福建等虞承宣布政使 司、欽差 巡撫 あてに 3年 2月19日付 の番文 を出 し、正議大夫 の察 に請封表 をもた らし、派遣 したが、 (3】) 中国側 か ら返事がなかった。天啓6年 (1625)、正議大夫 の察延 が皇帝-の上奏文、礼部 (32) と福建等虞承宣布政使 司あての番文 を持 ってきた。礼部が12月14日の琉球 あての沓文の中 (33) で、 「省 レベル の上奏 がない とい う不備 がある」 と指摘 し、福建等虞承宣布政使 司が天啓 七 (1627)年 4月24日の賓文の中で 「甘結 (状) を-一式 四部用意す る」 と具体的に指示 を (34) 出 した。す ると、琉球側 か ら請封 に関す る公文書 としては天啓 7年 9月25日付 の皇帝-の (35) (36) (37) 奏文、同 じ日付の請封表、天啓 7年 であるが、月 日不明の甘結、天啓 7年 の礼部 と福建等 虞承宣布政使 司あての啓文が五つ提 出 された。その後、琉球国王 あてに、礼部か らは勅封 (38) 使 の決定に関す る崇禎 2年 (1629) 6月20日付 けの苓文、福建等庭承宣布政使 司か らは崇 (39) 禎 2年 6月 6日付 けの番 文 が出 され た。 このよ うなや り取 りで琉球 の報喪か ら中国側 の 勅封使が決定 され るにいたるまで、 9年間の歳月 を必要 とした。 給事 中の杜三策、行人の楊輪が勅封使 として選 ばれ、航海 の出発 日を崇禎6年 (1633) 5月16日の吉 日との 占いを経 て、決 まったが、実際は 6月 3日に広石 を出発 し、五虎 門を 経 て、 9日に那覇港 に到着 した。 7月初 1日、先王の尚寧 を諭祭 し、22日、世子の尚豊 を (40) 勅封 し、仲冬月8日、琉球 を離れ、福建 に向かった。その際、王男である呉鶴齢、正議大 (4】) 夫である察堅が謝恩使 として派遣 され た。 このよ うに、特定勅封期 の勅封 は、尚巴志 か ら尚豊 までで、合計13回であ り、200年以 上 にわた り、前後、25名 の冊封使 が琉球 に派遣 された ことになるのである。 ≡ . 明代 の琉球勅封 の特徴 このよ うな明代 の琉球勅封 は、特徴 として二つある。 まず、中琉両方 の努力 によ り、琉球-の勅封 に関す る制度が確立 され、完壁 になった こ とが挙 げ られ る。例 えば、琉球側 の 申請 に よ り、冠服 (の図のみ な らず実物 ) の頒賞 、 L・1:1 「鎮国の宝」 としての詔勅 の下賜 はその代表である。 第二 として成立初期 か ら制度化 にいたる後期 までは、それぞれ、その段階に相応 しい特 徴 が見 られ ることである。 これ は具体的に以下の二つの ところに現れている。 ー5

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3-史料 編 集 室 紀 要 第27号 (2002) i、初期 にお ける明朝廷の多封 L・1い 中国が琉球 に勅封 を授 ける場合、琉球 はまだ三王割拠 の時代であった。複数勅封 は当時 の琉球 の現状 を尊重 し、各王の勢力範 囲を承認 し、その勢力 を有効 に利用 した。現状維持 とい う方針 の もとで、忠誠 さえ示 し、請封 とい う手続 きをすれば、かた よることな く封 を 授 けた。いわゆる多封 の時代であった。 中国か ら見れば、各王の間にいかなる力関係があるかは問題 ではな く、大事なのは、琉 球 に平行 して存在す る彼 ら-それぞれ の王が、下にむ けて王 と称す る支配者 として民を安 定 させ 、上 にむ けて臣下 として中国に朝貢な どの礼 を尽 くしてい るか ど うか、そ して、名 義上 においてはこの各王は、それぞれ明朝廷の支配下に入 ってい る とい うことである。多 封は請封 した数多 くの王 に対 し、 「一視 同仁」 (同 じ仁 をもって同 じよ うにみ る意味)の態 度 を表明 したので ある。た しかに 「封 を授 けた」 ことに関 しては、明朝廷 は琉球の三王に 対 し、かた よ りはなかったが、 しか し、琉球が内戦状況 にある情報 を得 た際、中山王 に指 導権 を握 らせ よ うとし、三王 にははっき りした相違 のある態度 を取っていた。 これ は 「安 民」 とい う目的が優先 され たか らである。 琉球勅封 の初期 においては、請封者 の持 ってい る土地はい くらあるか、抱 えてい る民は どの ぐらい存在す るかな どは問わなかった。王統更迭の際 も、世子請封 の際 も、請封者 は 正式 な後継者 なのか否 かきちん とした確認 を行 った とは思 えない。何故 このよ うな緩やか な政策が生 まれたかを考 える と、琉球側 か ら言 うと、まず うま く隠蔽できた と思われたか もしれないが、中国か ら見 る と、跡継 ぎの血筋がつながっているか否か とい う考 えよ り、 地元の民に推 され てい るか否か とい見方 のほ うが、 もっ と大事である。 中琉 関係 の樹立に 力 を入れて間 もない明朝廷 に とっては、重要なのは、如何 に して四夷の一つである琉球 を 安定 させ るか とい うことである。天下の秩序、朝廷の存在 を脅かす よ うな ことがお こらな い以上、誰 が琉球 の 「王」 になるかは朝廷の関心の集 まる ところではなかった。 この問題 よ りも琉球 の安定が保証できるか否 かが大事であった。 したがって 自ら封 じた山北王、山 南王が中山王に滅 ぼ された場合 は、 自分の権威 を損 じた とい う結果 よ りも、琉球で統一が 実現 され、安 定が得 られた ことの意義 を重視 し、朝廷が喜ぶ反応 を示 したのである。 これ は三王に相違 のある態度 を とるの と同様 に、あ くまで も 「安民」 とい う朝廷の 目的か ら来 てい る。 ii、特定勅封期 に見 られ る制度化 この時期 に入 る と、まず、勅封行事 に関 しての制度化 が 目立つ。通常、基本的な文書 と して皇帝か らの詔書、勅書、下賜 目録 、琉球側か らの報喪、請封表、謝恩表 な どある。現

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史 料 編 集 室 紀 要 第 27号 (2002) 在 見 られ る一番古い詔書 、勅書、下賜 目録 、謝恩表 は、 この時期 の中山王であ る尚巴志 の もので あ り、請封 に必要な書類 で ある請封奏 は、尚忠 の ものである。 明代 にお け る中琉 の間 を正式 に行 き来す る勅封 関連 の船 について言 えば、冊封使 が琉球 渡来 の際、搭 乗す る封舟 (冊封船 、御冠船 とも言 う) がある。 また、 この封舟 を迎 える按 封船 、謝 恩使 の搭乗す る謝恩船 もある。 これ らの船 が行 き来す る際、執照 とい う 「通航許 可」 が必要で あったが、 この執照 も、特定勅封時期 半ば頃の陳侃 が冊封使 と して行 った時 期 よ り以後 の ものが残 され てい る。 もちろん、史料 が保存 されてきた状況 な ども無視 で き ないが、 しか し、現存 の多 くが この時期 に集 中 してい ることは、 この時期 に入 り制度化 が 進 んだ と見て 間違 いない。 また、特定勅封期 の後半か ら、請封手続 きの変更 もあ り、請封表 を出せ ば請封 として受 理 して きたが、 この時期 にな ると、請封表 のほかに 「甘結」 が要求 され るよ うになった。 つ ま り、請封 手続 きをす る場合 、あ らた めて三 司官 をは じめ とす る琉球人か ら、確認 を取 る とい った 「結状」 を提 出 しなけれ ばな らな くなったのである。 初期 には基本文書 が残 り、 中期 にな る と、付随的な文書、手続上 の変更に伴 った補足的 (44) な文書 も見 られ るよ うになった。 これ は琉球冊封 に関 してそれ ぞれ の段階 にふ さわ しい制 度化 、完備化 と言 え よ う。 注 : (1)時中が武牢 と江応祖の二人の冊封使であったか ら、二回、琉球に渡ったが、一人 として数え ている。肇安知-の冊封のために琉球に渡った詳細な史料が出ないため、数えていない0 (2)直接の記録は 『中山世譜』に限るが 『歴代宝案』に 「洪武から永楽年間に至 り、聖朝が祖父 を王爵に襲封 させた」 とあり

「洪武」 とは二九年の肇安知-の冊封であろうか。 (3)山北王 と中国との関係は一三八三年 (洪武16)の山北王帖尼芝が明太祖からの 「兵を罷めて 嶋 を安定させなさい」命を奉 じたことと、その後のす ぐの入貢を最初 とする。山北王帽尼芝が、 洪武一七年、二-年、二八年に三回進貢 し、天寿聖節を一回、祝賀 した。洪武二十六年になる と、山北王の帽尼芝がすでに死亡し、撃安知が跡継ぎとなっている。帽尼芝 と撃安知の間に居 た 「嶋」に関する記録は朝貢の際、山北王 として登場 したにもかかわらず、『明史』の琉球伝 に出ない。帖尼芝、嶋 と肇安知とい う交代をあたかも帖尼芝から直接に琴安知に王位が移った ようになっている。三者がいかなる関係なのかまだ明らかになっていない。 (4)『明太宗実録』永楽二年二月壬辰 (5)『明太宗実録』永楽二年四月壬午 (6)『明太宗実録』永楽五年四月乙末 世子思解が突如登場 してきた.その前、永楽三年十-月二 四 日に中山王世子の完寧斯結に宴を下賜 したとある。 55

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-史料 編集 室 紀 要 第27号 (2002) (7)『明太宗実録』永楽13年3月丁 巳、 「太宗実録」永楽13年5月己酉 (8)何故 、世子 の 巴志 に 「尚」 に尚 とい う苗字 を下賜 したか、不 明である。 国王 に封ず る勅書 に は 「尚巴志」 となっている。 この尚 とい う苗字の下賜に関す る記録は中国側 の史料 に出ない。 輔仁学詰総 目第三巻第二期 張鴻邦 「明外族賜姓考

「明外族賜姓続考」があ り、 ここか らも この事実 を確認 できない。 (9)『明太祖 実録』巻二六八 2430頁、『歴代宝案』 1-01-04 (10)『歴代宝案』 1-16-02 (ll)『明英祖実録』巻八八 1778頁、『歴代宝案』 1-12-17 (12)『明英祖実録』巻一一五-、2271頁 (13)『明史』・『中山沿革志』巻上 経緯 冊封使録 関係資料 (原文編)那覇市史資料編 第-巻3 那 覇市史編纂室、以下同。印の焼失 について 「王印の謎」『沖縄 タイムス』2001年 7月15日を参照。 (14)『中山沿革志』巻上 匠輯 ・『歴代宝案』 1-01-01 (15)天順 六年だ と荘椋、徐藻光が記録 し、間違いであるが、詳細の時期は不明である。 (16)『歴代宝案』 1-01-08 ・ 1-01-19。 1-17-19 (17)『歴代宝案』 1117-19 (18)陳侃 『使琉球録』 (19)『明世宗実録』嘉靖十 四年十二月 (20)『歴代宝案』 1-29-23 (21)『殊域周苓録

「明」厳従簡 中華書局 一九九三年 北京 (22)郭汝幕 の復命題本 『使琉球録』郭汝寮 ・『使琉球録』斎崇業 台湾文献叢刊287 使琉球録 三種諸家 台湾銀行経済研究室編印 (23)『明神宗実録』万暦元年十一月 乙巳条 ・『歴代宝案』1-31115 (24)『中山世譜』察温本 87頁 沖縄県教育庁文化課 昭和六十一年 那覇 (25)『歴代宝案』 1-32-09 (26)『歴代宝案』 1-04-04 (27)『明神宗実録』万暦三十年九月戊子粂 (28)『使 琉球録』巻上 使事紀 斎崇業 台湾文献叢刊287 使琉球録三種諸家 台湾銀行経済研 究室編印 (29)『歴代宝案』 1-32114 (30)『歴代宝案』 1118-09 (31)『歴代宝案』 1-04-06 ・『薫宗実録』天啓三年三月丁 巳条 (32)『歴代宝案』 1-13-03 (33)『歴代宝案』 1-18-21 (34)『歴代宝案』 1-04-07 (35)『歴代宝案』 1-07-22

(12)

史料 編 集 室 紀 要 第27号 (2002) (36)『歴代宝案』1-13-05 (37)『歴代宝案』1-13-04 (38)『歴 代宝案』 1-13-23 この文書 に 「耳結 」があ り、 「甘結 を結ぶ」 とい う 「結 状」の意 味で 「甘結」 の写 し間違 いではないか と思 われ る0 1118-23 も同様 であ る。 「甘結 を結ぶ」 とい う 「結状」 については 「保結」 を参照。 (39)『歴代宝案』 1-02-13 (40)『歴代宝案』1-08-03 (41)『歴代宝案』1-13-10 (42)『歴代宝案』1-19-22 (43)三 山時代 とい う言 い方 もあ るが、正確 とは思 えない。早期 の史料 または 中国側 の正史である 『明実録』、『明史』 に登場す るのは,ほ とん ど、 中山王、 山南 王、 山北王で ある。 南 山 と北 山 とい う山を中心 とす る地域 の王の意味ではな く、 中山 とい う山よ り南の地域 の王 、 中山 とい う 山よ り北の地域 の王 とい う意 味である. まを、 この割拠 時代 においては琉球 には 四つ の支配系 統 が存在す る時期 が あった と思 われ る. まず、複数勅封期 (1396-1425年 ) に属す る1388年 か ら1397年 までの九年 間において進貢者 は中山王 (察度)、 山北王 (帖尼芝 、眠、撃安知)、 山 南王 (承察度) のほか に、 山南王王叔 と称す る江英紫氏 もいたO在英紫氏の最初 の進貢 は一三 八八年 で あ り (王弟 の函寧寿 と二人 の名 義 であったが)、 ち ょ うど 日本 、安南 な どの王以外 の 進貢者 の貢がたび たび却下 され る時期 で あった。却 下すべ き貢物 を受 け入れ る理 由はいか なる もので あろ うか。 第二点、1387年 か ら1397年 までの十年 間の朝貢 回数 を見 る と、察度 は十 六回、 山北王の柏尼芝、嶋、肇安知 の三人 は七 回、承察度 は四回で あったのに対 し、王叔 控英紫氏は 六回で あった。 そ して、 この 中で、洪武 二八 (1395)年 、 「琉球 国 山南 王叔 在英 紫 氏がその臣 である耶師姑等 を遣 わ し、 中山王察度が亜蘭鞄 を遣 わ し貢物 を進 めた」 とあ り、旺英紫氏 に関 す る記録 が 中山王 よ り先 に 『明実録 』 に出てい る。 また、洪武 二九 (1396)年

控英紫 氏 が 「馬 を五二匹、硫 黄 を七千斤 、蘇木 を千三百斤進貢 した」 とあ り、 もっ とも量の多い貢物 を進 めた。 これ は政治 的 に も経 済的 に もかな りの力 を持つ こ とを物語 ってい る。 第三点、皇帝か ら 山南王承察度 に洪武十 六 (1383)年 、洪武十八 (1385)年、二回、離紐 鍍金銀 印 を下賜 した こ とで ある。承察度 が どの よ うな説 明を したかわか らないが、王叔 のために も らった可能性 は高 い。 二つ 目の既紐鍍金銀印 を も らった三年後 の洪武 二十一 (1388)年 に、王叔 江英紫氏はは じ めて進貢者 として登場 したのである。洪武十八 (1385)年 か ら洪武 三十 (1397)年 までの十二 年 間、洪武帝か ら四つ の駈紐 鍍金銀印が琉球 に下賜 された。生前授封 と同様 な役割 を持つ印で あるか ら、王 として四人 を任命 した ことになる。 (44) 秦 57

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-史料 編 集 室 紀 要 第27号 (2002) P1407 永楽 5 思 絹 下 ま - - 報喪 冊封使 (勅 封使) と 『歴代宝案』 に見 られ る勅封 関係 文書の変化 西暦 年号 中山王 冊封正使 副使 勅封 関係 文書 の変化 備 考 船数 1425 洪鷹 1 尚巴志 柴 山 (内宮) 報喪 .勅 .目録 (祭文) 1443 正統 8 尚 忠 給事 中会住 行 入劉遜 詔書 .請封奏 .(香) 1447 正統12 尚思達 給事 中陳博 行人寓祥 勅諭 1452 景泰 3 尚金福 左給事 中 行人喬毅 董守宏 1456 】景泰 7 尚泰久 給事 中李乗葬 行人劉倹 詔書 .勅諭 1463 天順 7 尚 徳 給事 中 行人 詔書 .勅諭 .目録 、 播栄 察哲 謝恩 一隻 1472 成化 8 尚 円 給事 中 行 人 詔書 .勅諭 .目録 、 尚宣威 官栄 韓文 謝恩奏 .(香) 一隻 1479 成化15 尚 真 給事 中 右 司副 詔書 .勅諭 目録 、請封奏 .謝 董量 張祥 恩番

.

葺、 (封使 との通信) 一隻 1534 嘉靖13 尚 清 給事 中 行人 詔書 .勅諭 目録 .(封船執照 l 陳侃 高澄 ・謝恩船執照) (祭文 目録) 一隻 1562 嘉靖41 尚 元 給事 中 行人 接封船執照 .送封船執照 .封 郭汝幕 李際春 使消息探聴 の執照二通 一隻 1579 万暦 7 尚 永 給事 中 行人 詔書 .勅諭 目録 .(請封結状) 斎崇業 謝茶 (執照 .接封船執照) -隻 1606 万暦32 I尚 寧 夏子 陽給事 中 王士禎行人 詔書 .勅諭 目録 .((諭祭文) 尚牢 の贈金賓)、領 封之説 一 隻 1633 崇禎 6 尚 豊 給事 中 行人 請封苔 .甘結 .請封表 .(奏本) ※ これ は1998年10月 に法政大学人文科学研 究科 (日本史専攻) に提 出 した博 士論文 の一部分 であ る。在学 中、村 上直 、 中野栄一 両指導教 官 をは じめ とす る多 くの方 々のお世話 になっていたo 厚 く御礼 を申 し上 げます。

参照

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