教行二巻と如来の智慧海
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行巻の流れの中で、巻末に出されている一乗海の釈は、行巻に説かれてきた大行、即ち諸仏の称名こそが、唯一の 仏道であることを説き示している点において、重要な意味を持っている。またそこに同時に、大行の大切な特性が自 ずと明らかにせられているように思うのである。従って行巻末のみにとどまらず、教行二巻の随所に、 一 乗 海 の 言 葉 が意図しているものと同じ内容の丈を見い出すことができる。そして改めてそれらをまとめる意味で、行巻末に一乗 海の釈がおかれているように思うのである。それでは、 一乗海の言葉が明らかにしている大行の大切な特性とは何か。 一乗海の言葉は大別して三つの義を持っているように思うのであるが、その一一一義がそれぞれ、大行の大切な特性を指 示 し て い る よ う に 思 う 。 と こ ろ で 、 一乗海の三義とは何かと言えば、第一は一乗ということ、第二は転ということ、そして第三は如来の智 慧海ということである。まず第一の一乗ということであるが、その代表的な文を挙げれば、 ご乗海と言うは、 乗 教 行 二 巻 と 如 来 の 智 慧 海 八 七教行二巻と如来の智慧海 八 八 は 大 乗 な り 。 大 乗 は 仏 乗 な り 。 一乗を得るは阿梅多羅三窺三菩提を得るなり。阿縛菩提は即ちこれ浬繋界なり。浬蝶 界は即ちこれ究寛法身なり。究寛法身を得るは則ち一一乗を究寛するなり。異の如来ましまさず、異の法身ましまさず。 如 来 は 即 ち 法 身 な り 。 一乗を究寛するは即ちこれ無辺不断なり。大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・コ一乗は一乗 に 入 ら し め ん と な り 。 一 乗 は 即 ち 第 一 義 乗 な り 。 た だ こ れ 誓 願 一 仏 乗 な り 。 ﹂ の御白釈の文を挙げることができる。 更には華厳経の﹁法壬はただ一法なり。 一 切 無 碍 人 、 一 道 よ り 生 死 を い で た ま え り 。 ﹂ の 文 を 挙 げ る こ と も で き る 。 こ れ ら に て 明 ら か な よ う に 、 一乗とは二乗・三乗あることなきただ一道ということである。そしてその一道とは、誓 願のほかにはないのだという聖人における求道の帰結が、先の御自釈の丈に示されているのである。しかも誓願一仏 乗ということは ﹁安養浄利の大利仏願難思の至徳なり﹂と聖人はいっておられる。即ち誓願が一仏乗であるという ことは、大行そのものが持っている利益であり、徳であるということである。 次いで第二の転ということであるが、これは、 一 乗 海 の n 海 μ の語はこ義を有しているが、その中の第一義が転と いうことであり、それがそのまま一乗海の第二義となっているのである。その支を挙げれば、 ﹁ 海 と 言 う は 、 久 遠 よ りこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆詩闇提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大 宝海水となる。これを海のごときに喰うるなり。良に知んぬ、経に説きて、 ﹃煩悩の氷とけて功徳の水となる﹄と言 えるがごとし﹂といわれているのが、それである。大行が転としての働きを持っていることは、この外にも、 ﹁ 畏 丹 の一粒は鉄を変じて金となす。真理の一言は悪業を転じて善業となす﹂、﹁ただ廻心しておほく念仏せしむれば、 ょ く 瓦礁を変じてこがねとなさしむ﹂ 更にはご斤の石汁よく千斤の銅を変じて金となす﹂等の文を、 度々引用するこ とによって、明らかにせられている。このように大行が転としての働きを持っていることは、聖人の直接の御指示を 見い出すことはできないけれど、先の一乗におけるが如く、大行そのものが持っている利益であり、徳であるという
﹂ と が で き る よ う に 思 う 。 さて一乗海の言葉が有している第三義は如来の智慧海ということである。これは海の語が有している第二義であり、 それがそのまま一乗海の第三義となっているのである。その丈を挙げれば、 ﹁ 如 来 の 智 慧 海 は 深 広 に し て 涯 底 な し 。 二 乗 の 測 る と こ ろ に あ ら ず 、 た だ 仏 の み 独 り 明 ら か に 了 り た ま え り ﹂ 、 また﹁願海は二乗雑善の中下の屍骸を宿さず。 いかにいわんや虚仮邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸を宿さんや﹂と言われているのが、それである。即ち如来の智慧海 という言葉をもって表わそうとしていることは、深広にして涯底なく、従ってそれは仏のみ明了したもうものである 乞 い う こ と で あ る 。 一乗ということと、転ということは、大行が大行として実践せられるとき、自ずと現われてくる大行そのものが持 っている利であり徳であった。それに対して、この如来の智慧海といわれることは、大行とどのように係わっている のであろうか。そのことを教行二巻を通して明らかにしてみたいのである。その係わりを究明するに際して、私は三 点に注意を払ってみたい。 その第一は教巻である。教巻に引用せられている大無量寿経の文によれば、 まず最初に阿難によって釈尊の光顔貌 々たる相が、そして次いで五徳現瑞が讃嘆せられている。更に引き続いて、釈尊が去来現の仏と仏々相念したもうて いることが指摘せられていく。大経のこの個処が、聖人によって引用せられているところに、大行と如来の智慧海と の係わり方を究明する第一の手がかりがあるように思うのである。 さて大経における光顔貌々たることと、 五徳現瑞の相と、更には仏々相念といわれることとが、どのように連がっ 教 行 二 巻 と 如 来 の 智 慧 海 八 九
教 行 二 巻 と 如 来 の 智 慧 海 九
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ているのであろうか。それは、仏々相念といわれることが根源であって、その仏々相念に住したもうことの必然の結 果が、光顔貌々たること、及び五徳現瑞の相となって現われているのである。その仏々相念に住したもう釈尊に、阿 難が聞いを投げかけることによって、釈尊がその世界の中から、真実教を光闘していかれる。それが大無量寿経であ る。即ち仏々相念の世界の中から生まれ出てきたものが大無量寿経であるわけである。 ところで聖人は他力釈の中で ﹁論に日く、本願力と言うは大菩薩、法身の中にして、常に三昧にましまして、種 々の身、種々の神通、種々の説法を現じたもうことを示す。みな本願力より起こるを以てなり﹂の文を引用していら れる。この丈が先の大経と自ずと対応してくるように思う。即ち﹁常に三昧にましまして﹂といわれることが、大経 を光闘するに先立って釈尊が住したもうた仏々相念の世界であり、その中にあって種々の説法を現じたもうといわれ ることが、大経の説法そのものにあたる。このようにして他力釈のこの丈と大経とを対応させるとき、大経における 仏々相念と、大経の説法そのものとの係わり方が二点において明らかになると思う。 その第一は、三昧にましますことが先であって、その必然の展開が説法を現じたもうということとなって現われて いるということである。一ニ昧にましますことをぬきにして、説法はないのである。 第 二 は 、 ﹁常に三昧にましまして、説法を現じたもう﹂といわれているところである。三昧より立ち上り、三昧と は無関係の世界で説法を現じたもうのではなくて、常に三昧の中で説法を現じたもうのであるといわれていることで あ る 。 仏々相念と大経の説法そのものとのこの二つの係わり方が、如来の智慧海と大行との係わり方の上に、大きく係わ っ て い く よ う に 思 う の で あ る 。さて次いで如来の智慧海と大行との係わり方を究明していく第二の手がかりは、行巻巻頭の御自釈の文である。即 ち 、 ﹁謹んで往相の廻向を按ずるに、大行あり大信あり。大行とは則ち無碍光如来の名を称するなり﹂と述べられ、 続いて﹁しかるにこの行は大悲の願より出でたり﹂とお述べになっているとこである。ところで、この行、即ち大行 を生み出す母胎としての大悲の願とは、申すまでもなく、第十七願、諸仏称名の願である。第十七願は諸仏とが仏々 相念せられる共通の場であり、それを通じて仏々相念ということが成り立つのである。即ち諸仏が名を称せられると き、時間空聞を超えて仏々相念したもう世界がそこにある。その仏々相念の世界が深広無涯底ともいわれ、唯仏独明 了ともいわれる如来の智慧海であるわけである。 大悲の願ともいわれ、仏々相念ともいわれ、また如来の智慧海ともいわれることは、言葉こそ異なれ、 一 つ の 世 界 である。その大悲の願よりこの行は出でたり、と聖人は御指南くださっているのである。聖人のこの御指南によって、 如来の智慧海が大行を生み出す土壌であり、母胎としての役割を果していることを知ることができる。 と こ ろ で 聖 人 が 、 ﹁この行は大悲の願より出でたり﹂とお述べになるとき、大悲の願よりの﹁より﹂の字は H 於 u の字をお使いになっている。ところがそのあとで引用せられる十住昆婆沙論の中で、 ﹁般舟三昧および大悲を諸仏の 家と名づく、この二法よりもろもろの如来を生ず﹂といわれるときの﹁より﹂の字は、 H 従 u が使われているのであ る。更に後に引用せられる台教の祖師山陰の丈においても、 ﹁良に仏名は真応の身よりして建立せるが故に、慈悲海 よりして建立せるが故に、誓願海よりして建立せるが故に、智慧海よりして建立せるが故に一再々﹂といわれるときの ﹁ よ り ﹂ ー の 字 も 、 す べ て H 従 u の字が使われている。今ここに挙げた丈は、 いずれも﹁この行は大悲の願より出でた 教 行 二 巻 と 如 来 の 智 慧 海 九
教 行 二 巻 と 如 来 の 智 慧 海 九 り﹂という御自釈の文と密接に係わっているのであるが、そのいずれにおいても、 H 従 u の字が使われている。この ことからすれば、聖人が﹁この行は大悲の願より出でたり﹂とお述べになるとき、 ﹁ よ り ﹂ の 字 は ” 於 μ の 字 よ り も 、 H 従 u の字をお使いになるほうが、きわめて自然なことであるように思うのである。ところが聖人は H 従 μ の 字 を お 使 い に な ら . す に 、 n 於 μ の字をお使いになっている。私はそこに、聖人における大悲の願と大行との係わり方が、尚 一層、明らかにせられているように思うのである。 即ち先に、他力釈の﹁常に三味にましまして、種々の説法を現じたもう﹂の文を引いて、説法は三昧の中にましま して現じたもうものであることを指摘した。三味の中においてなされるものが説法である。そのことをもって推せば、 ﹁この行は大悲の願より出でたり﹂といわれるとき、生まれ出た大行は、その土壌としての大悲の願から離れたとこ ろにあるのではな
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に、常に大悲の願から離れない。大悲の願をその土壌として常に持っている。即ち大悲の願をそ の背景とすると営、大行が大行となりうるのであるといわねばならない。従って聖人が H 於 u の字をお使いになって いるところに、その大悲の願よりの﹁より﹂ということは於格の意味であることが明らかにせられている。そしてそ のことによって、大悲の願と大行との関係が、尚一層、明らかにせられているように思うのである。 四 次 い で 如 来 の 智 慧 海 と 大 行 と の 係 わ り 方 を 究 明 す る 第 一 一 一 の 手 が か り は 、 十 住 毘 婆 沙 論 よ り の 引 丈 で あ る 。 入 初 地 口 問 の﹁ある人の言わく、般舟三昧および大悲を諸仏の家と名づく、この二法よりもろもろの如来を生ず﹂の丈が注意せ られねばならない。続いて地相品の丈が引かれ、その般舟三昧とは諸仏を念ずることであり、更に﹁諸仏を念ずとい うは、燃灯等の過去の諸仏、阿弥陀等の現在の弥勃等の将来の諸仏を念ずるなり。常にかくのごときの諸仏世尊を念ずれば、現に前に在すがごとし﹂であることが明らかにせられている。更に易行口問より、 ﹁もし人、仏に作らんと願 じ て 、 心に阿弥陀を念じたてまつれば、時に応じてために身を現じたもう﹂の丈も引かれている。 入初地口聞において般舟三昧といわれたことが、地相品においては諸仏を念ずること、即ち三世の諸仏を念ずること であるといわれ、更に易行品においては、阿弥陀を念ずることであるともいわれているのである。ところで諸仏を念 ずるとは、具体的にどうすることであろうか。それは諸仏によって称せられている名を聞くことである。また三世の 諸仏が名を称せらるれとき、その根底に必ず存在する仏々相念の世界、即ち唯仏独明了の世界にわけ入ることである。 その諸仏を念ずることが、入初地口聞においては般舟三昧といわれ、その般舟三昧と大悲とが諸仏の家であり、その家 よりもろもろの如来を生ずと述べられているのである。 更に諸仏の家より出生したもろもろの如来は、自分の出生した家を離れて別の世界に行かれるのかというと、 そ う ではない。出生した如来は、常に諸仏の家を離れないのである。 ﹁この菩薩この諸法を以て家とするが故に、過後あ ることなけん﹂の文が、その聞のことを、 よ く 語 っ て い る 。 先に、教巻、及び行巻巻頭の御自釈の丈を通して究明してきた如来の智慧海と大行との係わり方、それと同じ類型 のものを、ここにも見い出すことができるように思うのである。 教 行 二 巻 と 如 来 の 智 慧 海 九