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『宗教研究』184号(39巻1輯)

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(1)

――目次――

論文

1,

曽富理神:古事記の成立をめぐる疑惑, 西田長男, Sohori-no kami: A Doubt about Compilation of

KOJIKI, Nagao NISHIDA, pp.1-40.

2,

人格的実存と交わり, 田辺正英, Die Persönliche Existenz und Kommunikation, Shōei TANABE,

pp.41-65.

3,

慈恩大師の維摩経観, 橋本芳契, Tzu-en Ta-shih’s View of the Vimalakīrti-nirdeśa, Hōkei HASHIMOTO,

pp.97-91.

展望

4,

パレスチナにおける発掘調査の趨勢:ペルシア時代からローマ時代まで, 後藤光一郎, Kōichirō GOTŌ,

pp.93-110.

書評

5,

石田瑞麿著『日本仏教における戒律の研究』, 田村芳朗, Yoshirō TAMURA, pp.111-114.

Posted in 1965

(昭和40)年

(2)

興味をいたいてい

究 の 範 時に属せしめ

、同様に取り扱うこ

のき白い訳 ネし ある。

うかがわれないで

は 、もちろん、持ち

様であった。中に就き、

として序の上表にある。

て、 ﹁いさなぎの大神﹂ 曽

い 。あんなもののた (1)

曲目白ロ

理神

古事記の成立をめぐる疑惑

長男

西田

(3)

拙著﹁古代文学

2

民氏

がおられ、私が

はともかく、

記序が

前に柿本人麻呂長歌

似た表現にならざる

妥当性があらう目と︵

3

上限としての和銅

されたと思われる

になるのだが、それ

瓦 壊してしまったかのようにみえる。

(2) 2

(4)

き こしめす背面の国の マキ

真木立っ不破山越えて

置かれていたので

東海道伊勢 国 鈴鹿郡

方の来襲を防ぎ、よって

王 ﹂、即ち天武天皇は 、

原町野上︶にまで進出し、㏄ 曽

から 1 ときに最前線 3

集 、巻二の﹁高市

紀 並びに 記序 との 比 較を試みるのが便宜ではなかろうかと思 う 。 オホキ

Ⅲやすみししわが大王の

0 周辺﹂にも再録しておいた ゥ|

賞 、昭和三十九年一月 寺 ︶

︶﹁西田長男

照 。 |

和 四十年四月号︶

(5)

オキ

て 還りたま ふ 。 ィ デマ

りたま ふ 。天皇、 妓

高市、神祇の霊に

マキ ムカ / ダ ム キ

さく、⋮⋮と。

の 家に︶に到りて、 先づ さしむ。 又 、稚 桜部 即ち 停 りて遣さず。﹂ ,デ 。 ふ比 、尾張国司 守小 。野上に到りたま ふ ここに行宮を営ま ァ モ カリ 、、 . ヤ 行宮に天降りいまして

て ﹂と歌っているの 4

つて越えられたこと︶ はないのである。

㈲犯則

和射見 が原︵ 和雙ガ原 ︶ の

(6)

曽 富 理 神

夏、和

に住して、,季

ノ @ ゴク

オめ

日 ︶。将軍等、不破

イホリノマヘ

。とすると、人麻

射見

﹂としるしてい

宮を出発された天皇

うして、この野上に

たのであるが、この

セ月

四・五日頃の大

斐国

にまでも及んで

いたものであろうか。

㈲ちはやぶる人を釈せと

(7)

クナ

夜 であった。

、それはあたかもこ 津 Ⅰ柘植間の五 0 キ 柘植 町 のことで、 伊 朝 には 債 殖の山口に 十五日の暁にかけて に相ぃ 当たるのであ に ㈲に列立しておい げなげな姿をみ ら

皇子ながら任

け 賜へば

ろ う 、高市皇子

こされた 日 ︵二十四

ょ られたものであろ

㈲大御身に大刀取り帯かし

大御手に弓取り持たし 御軍士を率ひた まひ (6) 6

(8)

念ふまで聞の恐く見惑

一は云ふ ふ までに。 、諸人の、 ク モ 神 引き放っ箭の繁けく 理 大雪の乱れて来れそちより来れば。一は 云ふ、篠 なす、 富 曽

二 赤色 - 著二 太上口

せる小角の音も。

笛の音は。一は

云ふ、

みたる虎が

ゆると

ササ

挙げたる幡の摩きは

毎に著きてある火の春野焼く火の。

一は云ふ、冬

ごもり、

ムク

共磨

如く

取り持てる

二弾の

騒サヮキ

み雪降る冬の林に

ぬかもい巻き渡ると

これも㈲に引立しておいた﹁⋮⋮皇子、腎を

の 霊に頼り、天皇

である。 ㈹ 斎

ふる鼓の昔は

ィ カツナ 雷の声と聞くまで

(9)

0 部分から、直接に 過程﹂を見出すこと 者の表現過程は類似する L と述べられている。 低 しているのは、 た

工数百里

切れないほど、

のをもってゐる。﹂ モ中紅以前に柿本人

序は壬申 紀 を見なく たからりか﹂と批判しておられるのである。 とは、﹁内容は極め 思われるのである。 い て壬申の乱に関す

あるものは、どれも 壬申の乱という過去

のであるまいか。 西

紀 と記 序

との一致に︶

の 一致が 歩い ﹂、それ

しとあるのに﹁

8

(10)

ぅ 結論にまで 導 びかれているのである。

また、人麻呂の長歌

?.

︶、

梁封

二棟

-

策文

る ﹂、言い換えれば、

いから、﹁

記序が

壬申

柿本人麻呂長歌のや

(9) ︵ く Ⅰ︶

ゑ 赤旗 所 。 指 、 妖畳洞 嗅ュル コト 雷塞ノ若

氏は 、こうした先人

両者の表現過程は類 似する﹂と速断せられたものであるま いか 。

しるしている。 し ゴト

野火 ノ趣か コト 雲蝿ノ若ク兜虎ノ嗅ュ ル声 雷 娃ノ如シ ﹂とあり、 ︵ ノ丹 ︶

巻 王に 、 ﹁ココ ニ楚王 なものだろう。

う に、漢籍による

(11)

る 、幡の摩ぎは、 冬 ごもり、 て 類似している﹂ではないか 赤色 - 著 ニ女上 ニ けたという ナ いないのである。が、 記序 や こ う い うと 、一見、西宮 氏 風 の 共 、 扉かふ 如く﹂に﹁極め

の久

は 近江 方 のそれと区別するために﹁ 以ニ 用いたということはまったくしるされて いうことがあったのだろうと思う。 これはどこまでも﹁内容 し 即ち事実上 の 一文とは、﹁大麻呂

う にすりかえられて

ぃ 壬申 紀 、 セ 五二十

推論に及ばれたもの

な 、どちらかとい へ 何とおこたえして よ いか途方に暮れるというほかはない。

したる関係もなか

と 人麻呂の長歌との

呂の長歌の﹁ 指挙た

かわらず、恐らくは

いることを十分に 0

、 巻 五や説苑、 巻

十︶

(12)

たものと思われる。

、まさしくその後を

二年二月丁目朗笑 禾 ︵ 二

﹂﹁高市皇子 命 ﹂としる

に 太政大臣に任ぜられた 曽

皇子の先例について 11 (11)

徴証は、何等見出す ことができないのである。

内容はもとより 表

ぎの拙稿で詳しく論

も 事実であらう。 し

う 散文とを比較して

それでも う 十分であるまいか。即ち、西宮 氏 の 一案に、﹁尤も 、記

るのが 却 えって妥当 でなかろうか。

皇の十年︵の の の レ

発した 年 ︵寒め レ ・ ロ, ︶

行く方を知らに、 舎

(13)

りで鬼ごっこなどに ︵ 8 ︶

た頃 おいには、そこ

サブ 甲

目 も 大海人皇子の東 の全体の見通しか かの﹁通ご近江 荒 のあたり大津の宮 ︵ 41 ︶

て 草壁皇子や高市 ず 。大麻呂、作歌無し。

天に於ける諸事に際して歌を作って の 皇女 莞ず 。大麻呂、作歌あり。 大 に 御幸あり。大麻呂、作歌無し。

の 作を残してゐない。これに依っ

間 、舎人として奉仕して ぬ たもの 安元年九月、紀伊の国に行幸 同年十二月、持続大上天皇崩 るることが多い。然るに二年 て見ても、大体大宝元年頃 ま であらう。

あったろう。

皇子の尊覧

。はれてこうした 諌歌 2

(14)

に矛盾も乖離も

1

、 ﹁み雪降る 、 冬の林

来れば 、億 なす、﹂とかと歌っ

よ う に、人麻呂が 戦

わば 歌 そらごとであったためであらう。﹁ 敵み たる、虎が 呵 ゆると﹂

や ﹁ 兜虎ノ嗅ュ ル声審廷

であることは、最早明々 富 白々である。 ササナ

天皇の 、 神の尊の 、

、まことにそのと お りであろうと思 う 。

何に基ずいて歌っ

と 、伝承 か 記録かの ︵ 9 ︶

聞いて居たので﹂ あ

りを一度ならず二度

ぎも 、それが伝承に

の 乱は、六月の終り

セ月 二十三日であっ

(15)

のかといふ想像をも

ならぬ。然らば、 酉 たといわなければなるまい。

関する所伝の統一

大麻呂の長歌の如 き

つまるところは 歌そ

のでないのを注意すべぎであろう。

、これに 紀臣 何 % 麻 由紀は主として安井 して全貌を示したも ら 、壬申 紀 はしかく られたものと思われ ではなかったろ う 。 いてしたためられ

、それは容易に気づ

の 壬申 紀 が最初でな

、壬申紀の中にも 何

0 編者が、その編集 (14) 14

(16)

と 思われるからである。 富 ㈲ まつ ろはず立ち向ひしも 曽

露霜の消なば

消ぬ べく 神

堂も ﹁太安万侶︵ 古

一に よ る︶ こ訂叶 L せれ ノ ﹂

記録の類に墓ず いて

はかった﹂壬申 紀 によってせられたものであ るに相違ないのであ

と せられたところで

すらりかがわれるの

ある。ただし、 記序

来年 二 近江 節 - 雄士別、

の 作者のように漢籍

挨 慶運 レ天 ﹂の如き

を 通じ、すべて﹁ 赤

ほかに、これより 先

ものが存在していなかったためであるまいか。

る 記事はすべて 洩

氏 がこれを評して、

(17)

東南朋伊勢 ノ ︵ 如 ︶

のとみえる。

の役では、 皇大神 その 十 ツラナ

ち 大友皇子・左右 人 神風にい吹き惑はし 天雲を日の目も見せず トコヤ @

常闇に覆ひた

まひて

定めてし瑞穂の国を

の 最後の決戦であっ 神 ながら太敷き座して やすみししわが大王の

天の下申したま

へば

は 、この地に鎮座

依 ︵ 村 国連月 依 のこと

て 参戦していたろ う ︶

ず 。 旗織野を敵 し、

ふに

渡会の斎の宮

ゆ (16) Ⅰ 6

(18)

曽 富 理 神

、於ニ 明年明︵朝明 力 ︶

ることは 更 めていう Ⅰナ ナ

名賀郡青山町種土 の

に 帰したものの ょぅ である。

、﹁戦闘中に偶東南

神風と 云徴 したので

ぎ 日本紀には 書偏 し

ついて之を利用した

も 人麻呂が之を歌 ふ 17 (17)

大神宮に戦勝の祈願

では、その四年 セ月

覆 役した。これはた

でも斯くの如くであ

としたものであろうと考えられるのである。 壬申の乱においても

に 有利に吹いたもの

日の条に、﹁ 旦 、 於去

(19)

ぬが、壬申 紀 に欠い

やにはまったくみえ

仁 伊勢太神宮 令二祈

之日 。天皇防御世 利 。

了 者。 文 武本 云 。健ニ

親王 参 二人 於 太神宮 -

献二 伊勢神宮 - 始 恭二 斎 には多くの誤伝も交じえている よう であるが。

ぅ のである。然ら

実であると い わなけ ︵ 蝸 ︶

神宮諸雑事記、第一

推古 朝 以来五十余年

實 のためであったろ

る 潤色、あるいは

二十六日における 天 ︵ 乾 ︶

を籍 りていえば、 そ

例の 一 とせられよ 。︵㎎︶︵ う u ︶

漢の高祖が項羽

と戦

8

(20)

要するに、西宮 氏の

う に私には思われるのである。 註

天武天皇元年

大倭宗ハ 還ニ 神

記事は 、壬

得られるものではなさそうである。 理

、 ﹁︵天皇は︶ 恵 古品

恵沢近江に 曽

はずなの 19 (19) もたらす﹂、即ち 、 麻呂の長歌の如きは、壬申紀や記事とともに、

ものであろうとい

になって来よう。

いことは少なか ら 5 人 ︵ 騰 ︶

おいてか、西宮 氏が、 と れ も 日 て

して安井 仔禰 智徳

家記といった如き

あったよ う に思わ

ぅ である。とする

を 従軍の老人など

(21)

% 里芋共営三族 ンリヘヲ

レ日 兄二廿 先後一二

げておくべぎであろう。

集雑欣 ﹂に再録された。

五日の夜、

なるのではな

いることで

報 以前に 既

が おくれ、

にしても、

時は伊賀 国

られた意味

大徳 朝 御世

天武天皇︶

、あるいは

う に推定する

氏 の一案の

機の判断で

は 、またま

個の国とし

家を焚く。

を 語って い

ていったも のと考えてよいのではあるまいか。 (20) 20

(22)

曽 富 現 神

(23)

ゆる六千古

然に 察知 せ られたよしを述べたものである。

は 、壬申

と 同様に 、

る ︶、冬二 武

い 如くもの

が 明らかに

さらに陳書

が 陳書 と南

︵陳書、高

いうのもみ 式ぎ 「 をク将 乗 に り 横ヲ て 帝音大

へ及 : て ら 目 な

くせ 、 し 天 と

に 黒

分雲

れ 床 な さ の 十

洋傘

な 文 ばか

も天

経れり。牒送ひに

/

かと」 幸ン異 み

こ ナ音吐 ろ ち を 燭 新 を く 挙よ 四 し 六 て

文観

ほ ら

日の条に 、

﹂に類似し

文章である

条の ﹁ 濱ニ新

てものかと

覚 腹中 猶熱 、

ら ひそかに

序の ﹁ 聞 幸菱②

・ 龍顔 ・ 垂 2

帯 心独善﹂

(24)

ところがあ すべぎであ ろ う 。︶ 嫡妻 腹 ︵ 正 れる。ただ は 持統天皇 子にも﹁ 尊 ﹂ の 一字を用いることとなったのであろうか。 ︵ 7 ︶﹁国文学研究柿木人麻呂 孜 ﹂所収。 究篇 、 上 ︶ ︵Ⅱ︶たとえば、次のようにある。 円 大般若波羅蜜多経巻第五十 幸臣 為 神風伯大神 一 願主沙弥道行 書写小君陸地算 ﹂︵この一行後 筆 ︶ 神 自大般若波羅蜜多経巻第九十一 理 富 百 愚 、 巻ヨ如レ 失レ魂 2 3 曽

(25)

呂の長歌に 、

天雲を 、日

天平宝字二年歳次二成成一十一月 ﹁大般若波羅蜜多経巻第九十一﹂︵この一行後 筆 ︶ 奉 -@ 伊勢大神 一 願主沙弥道行 書写優婆塞 円智 二校已下 ︵は︶上記﹁柿本人麻呂と漢文学第二﹂

文 参看。

しス は 自 祝ふも

は頗 神経質

その最適切

とて、その証

、冬 ごもり、

同担 が専ら 赤

沖 公司何 % 黄

られよう。

。が、井上

を 用ひた き

の 傍証に 、

@% ヨ楚ッグ 一軍

レ 木菟 レ屋、 (24)@ 24

(26)

曽 富 理 神

やぅ である

を 用ひたの

とは、壬申 紀 漢書、光武帝 別に﹁ 柿 ぅが| これ タマヒテ は 述べておら 暗くなるも 晦と アマ 雲 過ぎないの 中細 や記序 らとて、 人 を 掲ぐる 時 からを漠の の事であっ ︵上︶で、

色の中から、

、 私には 到

ることの 著

していたと

総連・大度 鱗 ︶

て 最も不幸 5

周知のよう

(27)

マヰチ

り 、朱鳥 元

たとえば、

天皇︶ や多

が 天武天皇 朝 にはじまるという伝えも注意すべぎであろう。 ﹁㎎︶上記﹁柿本人麻呂と漢文学第二・一 マ キ ヤヤヤヤ

神宮に向で 15 り 天 、 武 回 天 年 皇 四組

戸、

日 一 " 一 0 年 条 二 に 月

宮に居らしめたま

。是は先

づ ハペコア 」 飛鳥浄御原宮に即帝位 す マ ッヒツギ

ン。

ンノ 穿 と

である。 人

遊プ 。:::﹂

シテ三回 ス 。

らではある

、壬申の乱

もなかった

の 説をもっ

脚 といった

時になされ

われるから

れたのは 直

﹁天武天皇

の 研究をも のされたが、はたしてど う だろう。 (26) 26

(28)

曽 「

富 成 理 神 「 と ら 述 る る ば 。 疑 神 、 治

。 の が っ 神 本 氏 疑 ら の 文 目 も わ ざ 27 (27)

(29)

らぬ点であろうと

ぅ のである。

も 重要な主題の

であるのである。

みことも

の忍穂

耳の命の知ら

原の中っ国を言向

るものといってよか

間柄のものであるこ

上巻︵神代替﹂にお

ある。

てあたかも、木に

の国は

@ Ⅰと三生口

し 子、大国御魂の神。

いるのがそれにほか

まして生みし子、大

するものであるが、

(28) 28

(30)

曹 富 理 神

生みし子、 ふは

神話がさしはさまれ る

ちの神話が叙述

ないということは、 に関する神話が 、本 却 えって 記

紀 神話 、残念ながら、この 問題にこれ以上触れている違を有しない。 Ⅱ大国御魂

囲聖神

としよう。 戸車

については、まず

ハ香周匝元ロ

229@ (29)

(31)

の 序文にしるすとこ 年前のことである。

らノ

これらの神々の中 のの中では、ことに の㈹の㈲の大山咋神 し 、 亦 、高野の松尾 町に鎮座の日吉神社 でもなかろう。そ う のであることは隠れ 年秦 忌寸都連 ノ 創建 も 神 が列記せられているのに注目される。まず、 Ⅱ 本 ま も 万

ところである。大宝元年といえば、文武天皇 の 大年神 リ クハ大知辺 流 美夏 比 ㈹

% 七 ハ

亦 神り 者 、 末 之 入 主 神

く :6) (5 サてとユ 4 Ⅰく 3 ウ ィ 2) く 1)

若山

秋鹿 夏 高 弥立 若沙 若年

神神神

︵亦の名、夏二元 神 ︶ (30) 30

(32)

、地理の関係上深い因縁︶

勝の正嫡を承けたと思はれる 島麿 ︵嚢下 鳴麻 呂 ・ 秦 忌寸 鳴 麻呂・案分億席

て 宜からりと思ふ。かく

げればなるまい。 っ ︵ 2 ︶

㈹の㈱の田の若山 咋

であることはい う ︵ 3 ︶

相ぃ 並んで鎮座せら

ては、たとえば、 古

可 。 移ニ 他姓 去 " 、 干 。

韓神は、元来、平安

ロ 氏は、﹁平安遷都の

平安京の大内裏はも

によって之を植 ゑた

宅の附近に造ったものであ 川の附近、恐らくは れども、是は何時の

たと察せられる。随っ

(33)

高島郡高島町 鴨に 鎮座の式内壮志 昌 志神社は

日吉三宮 と 呼ばれていた ﹂がやがて﹁ 志昌 志﹂に 鎮座の白髭神社、即ち

分布している白髭 社の ろ う 。また、﹁此度 神

う 白日神も亦、前後の ところからしても、日吉二宮の祭神大山咋神 転記したものであるまいか。︵ 7 ︶そうして、この 本祠 とせられ、それが い わゆる蕃神を祀った が 蕃神を意味する﹁ 夷神 ﹂であろうこともほ 関係よりして、韓神と同じく、 秦氏 のもちい は 当に然るべきことと思ふ﹂と。とする られる 嶋 麻呂の家に祀られていた邸内 祠 つ ごろから祀られ来たったものであるか らかでないけれども、何れにしても棄民 に 至ったのは、このように平安遷都の際 都 以後の述作に成ったものとすべぎでは それはともかくも、次にⅡの㈲の㈹の らかでない。松岡静雄氏の 如 ぎは、これ

、園神社・韓神

ないしは屋敷神で

、それを遠祖の河

という帰化蕃別の

あるまいかとも

白日神について

﹁新羅袖﹂の謂

社は 、棄民の 本 宗ともい う あったことは明らかである 勝の時代まで遡らしめて よ 祀っていたいわば蕃神であ るのに、この韓神が史上に であるから、その名のみえ われるのである。 えてみよう。それが如何な ︵ 6 ︶ であろうと考えられた。 あ べ き河 勝の正嫡を承けたと考え とい わねばなるまい。それが い いものかどうかは、もとより 明 っ たから、かく﹁韓神﹂などと はじめてその名を喧伝せられる ている古事記は、当然、平安道 る 神であるかは、もちろん、 明 るいは思うに、滋賀県︵近江田︶ て 今や此の島麻呂の女を妻と が 新宮の敷地として選ばれた からざる財源を得て事を為し 長官とな 仁京 ・ 長 らず此の り 、 某島麿 所有の川勝 岡京 等の経営の際、 秦 島 麿の家より出て居る 田部 氏 よ ・ と解 の地 9 歩 する (32) 32

(34)

延喜式神名帳に 、和

、あるいは﹁毒性 を

﹂字に宛てて産出さ 関よ りして、そ う推 測 してもさして謬りはなかろう。

、京都府︵山城国 ダ

かとさえ想像される である もれ をい う の

らのうちの何れかが 々についてしるした

れないのである。 適従するに困難を

、本殿には大年神の同母

の母神なる大山津見神の

問題とせられよ う が 、蓋

月 とすることは、従来の

名よ りして、やは

られよ う と思 う 。 33 (33)

(35)

呼ばれ、また書紀の一書に

︵ⅡⅡ︶

正鵠を得たものと

のとすれば、当然、

百は

、また、古事記

︶﹂より僅僅一年

のことであった。

いしは産土神たる

、第一、その名は外

持った日鮮共通語

除伐︵の

0

づ ゴロ︵︶

は神霊の来臨する

0

名とともに、前述

士のる﹂︵

︶Ⅰと。これをも 2

いっているのと同じ

である。

情からして、ど

、いわれる、﹁

に、

之を思ひ立った

( 鍍 ) 34

(36)

曽 富 現 神 ょ 他 の ほ 地 も 恭 て 多 の の 隣 保 た る て 題 と い の 護 ど よ し 仁 は 大 と 女 直 が ; 、 の は 。 諸 り の り れ 宗 、 の 解 を 系 深 秦 小 兵 火 云

そ は し で も げ 岡 こ 荷 ば せ 商 た 島 の 仰 小 長

嚢 都 ば ら

傍目

等のきのもの

衰て

てみ

" " め

の 雑 肥 万 卒 祭 そ 遷 従 よ の 富 を に に 発 ら っ 諸 波 5 面 安 神 の 都 事 り 秦 を 賜 其

恭起

ぬ た

ち に た い 護 の 深 す た 聖 が た 市 野 営 思 な 財 山 お と に り 大 い る も 武 し も し 麿 の は れ 政 城 い い 繁 神 山 関 こ の 人 て の て は 擦 る ば 状

ほろ

"

と襄に

" 熊

の こ は い 、 韓 し 可 だ 仁 其 れ の 母 城 じ 種 て 之 うし何等目貫

継へ

たこ 特に 神社 てい 能で しい 京

や 少 の

る。

広降 の生 の垣 様な

自 発 よ い の 神 た だ 当 の に 秘 事 以 姓 麿 雷 様 有 見 ぃ が と や も か た 長 、 の か て を に 豪 は に す

35 (35)

(37)

のである。かの日吉

うして、ことに山城

呂などは、この山城

のである。それには

の計り知れない利益 茄 らすものである。 国 たる韓半島におけ 勧請したものとみえる。

を 史上にあらわす

お、 明らかでな い も

る 神社の祭神であっ た 。さもあるべぎところであろうと思 う 。 に 遷都の行なわれ

年 以後ということに

八十三年の後代に引 ぎ 下げなければならぬこととなるのである。 とした い 。 ︵Ⅱ め ︶ 韓神は京都の元 (36) 36

(38)

曽 富 理 神

古の考へのや ぅ は 、どうも朝鮮 ないが、それに に 、そんなのが出来るのはをかしい。 田の神・家の神

しては家を祝福

は釈 げた。此が 37 (37) つけて一 つに薗

を 極めるのは 語 更に疑はしいの

先生の説を合せ

は 当て字だ。 こ

そほ

りといふ 語 稲 見当がつく。 赤口 神 がある。

ぅも 自国らしい。︵ ︶Ⅰ次に 4 謀 らぬのは、皇神で、 此は見当がっか 社 。︶聖は神にあ ではなく、得体の

(39)

てゐる

やう

純粋だが、素義

まだはっきりせ

説明せねばなら

おけば

いのかも

て、

木に竹を継いだ

一文の前任収めて

せられなくもないの

たちに関する神話も

推察に難くない。

ちばんあとで附加せられたものであるま

いか

みずからをふと

私は、今、そういう

古事記が全体とし

して、その最下限の

(38) 38

(40)

曽 富 理 神 補を加えて再録したものである。

神 、 次供レ北 、韓神しとある。 ︵ 4 ︶﹁帝都﹂︵第十一章の一︶

には、上とはち ︵ 6 ︶﹁記紀論究﹂︵神代篇 四 、出雲伝説︶

し 得られろ限りではな

ゆる大比叡 9

平安朝初期に至るま

ることは 想察 に難く

る 弊をできるだけ避けたいと思 う 。 註

による。

一節古事記の大

、多少の修 、それから推すのに、﹁ 現 ﹂古事記 ﹂に冊げ加えておきたいのは、はじ する気持はさらさらないのであって 、 ないように思 う のである。古事記の主 は 何としても平安朝初期の成立 めにも一言目したように、だから また、そういうことをいって たる部分が奈良朝以前に遡る 往

(41)

荷田 氏 所伝の稲 府社縁起Ⅴ︶参看。

この中沢氏の示唆によるところが大きいのである。

な神 Ⅱ古事記は偽 宙か ㈲ 1 ︶ ニ ケ 峯 Ⅰ鎮座 セ ド一 ブラス、

、和銅 四 と せられて 銅 年中、 始 ト部 家 の 二 える。さら りもなおだ いぶん後のことのよさである。

(42)

4 Ⅰ (41) 人格的実存と 交わり

る さ ツ ル 首

、え ケ 学 ル 領 人 の 個 え 入 れ ん 背 す 間

に さ

あ ら 人 も の を の 間 間 性 間 か 宗 取 対 の 題 の

く教

0 条 士

に間

ヱ 質 の す な の 花 然 で が ル と 中 る げ 自 は を は で バ し に 八 れ 己 、 も な ぎ

決 在

て な 々 す れ に 中 退 て 性

6 間 の め す ト て の で で

人格的実存と交わり

田辺正英

(43)

ものとしては捉えない。﹁私が思惟する限り、

秘密は人間の本質で ︵ 7 ︶

のである。従って へ

意味での歴史的存在 問題となったのである。

間の本質は 、 決し

的 諸関係の総体であ " ハ に関するテーゼ ヒ

、社会的経済的 諸関

解から、新しい人間

学者は世界をいろい

は 、そのまま、現実的

または社会的人類﹂︵﹁テーゼ﹂ 騰 ︶の実現に つながるものとなっ たのである。

﹁だれが人間の

か 。その人こそ フォ

ゲルスの﹁フォイ ヱ (42) 42

(44)

人格的実存と 交わり

するフォイエルバッハへの傾倒であろう。

異質面も存在する へ| ゲル的思惟概念 え た点がさわだって 的立場における人間 てもや ぱヴ 共通しているのである。 ︵ 9 ︶ がある﹂という フ

も 捉えた点は単なる 実存の立場ともみられるのである。

まれる﹂という フ

モ人間とともにある ︵ 皿 ︶

| はこれを﹁人間学 ︵ Ⅱ︶ @ 0 人間的現存在︵口ロ おぎ ︶への還元を行った﹂ ものとして、 司 将来 哲

認めるのである。 し

刊 する。もちろんこ

も 見られないところ ︵ 衿 Ⅱ︶ るのである。 43@ (43)

(45)

方 においては、 そ 全的な人間と人間と 規定﹂︵ N 毛抜。 ゴ 0 コ ヴ甲 っている。すなわち ら な い ﹂とする キル すなわち神との対話

わち 向 私の著作活 動と 単独者との関係についての提言 L ︵ ト田ゴ ︶

の 覚醒についての カ

者 たるべく戦って 来

されるのである。 と 同時に、﹁公衆

含むものでなければ いて L ︵︶㏄ ミ ・︶との決断がなされたのである。

においては、い

までもなく人間存在は

﹁単独者﹂︵

して規定し、それを

をもったのに対し

宗教的実存として

( 且 ) 44

(46)

できないのであ

ケ ゴールの単独者に しているのもこの点にかかっているのである。

は 自然の基礎の中

をもちえなかった。

的な人間相互の人

といえ よう 。

以上、追求さる べ

人格的社会的連帯 桂

主体性を喪失せずし

単なる経済関係や労 ︵㎎︶

代 において、単に二

の 接点をなす人格的

くことのできないも り 効 のであろう。 井 @ 存 実 Ⅱ 的 格

に 行き着くと考え ,く 45 C45)

(47)

現存在は

現に

8

通じて歩むか、

うない

0

実存の

してのみ存在す

にあって時間を超えている。

︵㎎︶

する﹂からであ

でないことを

何ものでもない

交わりの中に

歴史的一回

性に

︵ 初

存在する﹂と

ぅる

。﹁交わり

の い に か の l の 交 ら 間 こ

スお

パい

るです。

の覚る

そ る な

る存

。 在無こヤ

「 (46) 46

(48)

人格的実存と 交わり

くなく、むしろ人間

ども、︵その意味で

抜出︶教授の下で

界も知らされたので

のである。すなわち

47 (47)

(49)

に 触れる道が開けることを意味するから、 単なる哲学であるよりも ︵ 駐 ︶

抹 するのである。 す

る 。そして思惟的

常に実存から離脱 ︵ 恭 ︶

ざるをえたい。 従

︶のことは存在とし

題 となることを 意

目口Ⅰ レ 由の す由 。 ガいの執

それゆえに、﹁ 実

ないものである﹂︵ 9 2 ︶ されるのである。

、そのことは、﹁

︵ EN 由 。しと﹁暗号 解 超 と 存 ゲ 味 て つ し 哲 ︵ <0 ︶ ︵ 却 ︶

につながって来るの

もつことにつなが

哲 え 学 そ な は こ い 科 で と 学 「 す と 音 る 宗 学 の 教 す で め る あ

中間ること

5 移 ャ, 目 」 立 ( つ ノ 田 ノ . 」とを必要とす づ 田のⅡのし の こ

0

ろ は の で、 科

刀寸

味 と

ヤ 田 ス て

l 6 ス の ほ で ぉ あ

いる

は す 今 な 日 わ で、 ち (48) 48

(50)

て 客観化されえないもの

かるものとしては人間 そ ︵

観 的なもの・対象的なも

ヤスパースはとり

るとともに、自ら肉

仁丹﹁の曲の臣︶という新しい わ

科学的専門知識の対象を

る 。

巻 L

ーと﹁実存

・第三巻 L

ーは

の 精神病理学者・ 心

限界をも自覚したの

人間がそれ自体の内

が 、科学的思惟はそ 学 とは認めがたい

、科学による客観化 ると考えるのであ ︵ 6 3 3 。 ︶

(51)

( 瓠 ) 50

可能なもの、一般化

り 、前者は技術と 馴 のぃコ の うゴ の︵︵︶の中での ︵㏄︶ ある﹂と い わねばな らないのである。

される。いまや 医 りはなされた人格と

由 へと求められかつ

﹂であり、他の人間

の 愛があるだけであ 能 であると一応考え

れる場合にのみ、 実

界 定位は、哲学的な

命な う ることになる のである。

交わりの問題は 、

定 できない。それは

方向に一致して﹁ 交

(52)

人格的実存と 交わり スパースの交わりの 51 る サリヴァン︵ 目 ・ の も 、その学問的移住 られない。それらの (51) 在的 ︵ 0 巨がのす︶ な 、実存的︵のⅩ∼の︵の コ ま色 む ︵の辻井の コ ︵

︶ではない。そこで新しい

のである。﹁この交わりのテーマの取り扱い

巨 0 ロ 0 住のの ゴ ︶、実存論的 題を捉えようとしている ︵㏄︶

ことをも意味する 存 皿

学 に対して、一つ わり﹂や 通して、 い 発展に すなわ の日モ の e ︶ である。

的 交わりを

れるの新し 寄与しているといい う るであろう。

︵ 巴 Ⅹ ト の円の コ Ⅱ 一 ︵ 舘 ︶

みられるの

(53)

人間存在の事象それ 捉えたものを、また

アッ ガ ーの﹁世界内存在﹂ ︵ ぎ 1 片 7 毛色 丁 おぎ︶という現存在の根本 ろ う 。

存在分析論﹂︵ しキ

スフンガーは、﹁我々

さて、このような﹁人格的な関係﹂︵

3 ︶

生活の深みにあるものを、︶組織化し、 示唆するの しているの ︵ 2 ︶ である。 は 、 い う までもな 性 信仰﹂︵

Ⅱの︵のコチ

︶ののの 臣 ㏄のゴリ田ヰ︶ トのゴヰ の トヰ ︶ 内的に独立した精神 。彼等は、堕落する

ることを、︵すなわち

いのである。

認めう つ も、その ︵ 即 ︶

義 と同様に、人間が

る 。従ってそれは、

(54)

ゴロ

コ串

し け

︶の様式を

本質的なものとする。

ない。その点でま

︶とするフロイト

選択可能︵

旧苦

%T

りという神秘めいた

医学的現存在分析は

って自己を差し向

のである。それは、

せ 。

Ⅱ㏄仁の臣︶であり、

るものとして、出会いに

い であるとする。

︵ Cq

ヴ の幅の抽コロ

ロし

︶でもある。

53 (53)

して捉えるのである。

(55)

すなわち﹁眼の前

我々的出会い﹂も 、 根源的共在性を強調し

に 出で立っ腕白駒 実

﹁関心﹂に対比され

ちながら、前期の ハ ある。

ハイデッガー 的

配慮﹂︵口のの 0 ︵㏄の︶に

急 が起りうるので、 ︵㏄︶

宙 0

︶において 現

艦ヰ ︶

|ビソ

スワン

。実存論的に他人の ︵ 炬 Ⅱ︶

ている﹂とされる。

︵の 目 Nw 笘 ∼ l0 臣侍 0 ロ 0 ㏄ ト の りゴ ︶ ︵ 諺 ︶ 意味をもっている﹂ことになるのである。

存在的︵ 0 コ * が 0 ゴ ︶ ︵ 駅 ︶

︵ H 山口 侍の 0 三 0 つ のの づゴ の ト Ⅰ︶ (54) 54

(56)

55 (55)

他人への関係が本質

彼がただ注目してい

1が考えるよさに、

全体的関わり︵

田 ・

在 的交わり﹂と﹁実存的交わり﹂に分たれる。

しかし実存的交わりのみ

する。⋮⋮この交わりと

︵ 印 ︶

ス の場合は、レー

(57)

﹁存在﹂ | 後期に到 シ スワンガーがこの く 、無理な面があるに

義の克服を問題とし ︵㏄︶

、実存の明るい開拓 者として共感されるのである。

な ビンスワンガー 公評価に値する。﹁ ビ

むをえない。

からである。

︵㏄︶

実存﹂︵

芭ガ

・絃の田の

コぃ ︶

︵㏄︶

ハイデッガーにお

( ㏄ )

イ バ ツカ ーが本来的 6

(58)

超え、哲学することをも

5

ⅠⅠ

、人間の実存的交わりを

語る﹂のを聴くことに

ことに由来すると考えるのである。

を 確認し、ビンス

安 五性を重視しはじめた ︵ 舘 ︶

基本現象である。 愛

する愛の中に、ここ 、予想的に把握され ︵㏄︶ るのである﹂と 讃 えられる。

の ﹁存在の思索﹂

てること、住むこと、

田 のの︵の︵ ヴ 目の コ ミ︶ と

イデッガーにおける

ことによって、﹁ 無 ﹂

なら人間は住むこと

般 に人間の本質は 、

(59)

である。従ってそれ

人間の心の全体は 、

、かげがえのなさの

いるのではないだ る

命は道徳的な責任を

い 。独自かつ一回 的

ごとのものとして 明 による心の救済 ︵ 6 9 L ︶

て 実存の把握に関し 保 していることも 否

中に実存が考慮され W

いのである。

あれ、﹁交わり﹂の

人間関係的主体にお

を 、人格的に捉える

(60)

存在﹂︵

mo.

のの

ぃコ

︶につい︶

応答的に人間存在を捉え

、また綜合不可能な統 り

ら む る

存 在 て

論 そ 理 れ は

ノつ の 行 為 の , 巳 、 理

的 相 在 る な ピ 応 と 。 い i 生起 か 駆られた存在﹂として

0 ﹁ ま臼 ・ おぎ ︶である

ていない。すなわち ︵ 出 Ⅱ︶

い ﹂と批判する。かく

れることになる。 Ⅱの コ ︶されてしまう。

破壊される。だから

(61)

なるのである。﹁ 良

るものなのである﹂

ために決断するもの

常にその志向を共同

に向 げられるもの

よってまた、真の意

り ︵の 0 ヨヨ 仁三 0 口 ︶ も また、かかるものとして捉えられたのである。

いえ よう 。 ︵ 穏 ︶

﹂を 、 通しても、

背後に、﹁生きている ︵ りは ︶

何のし 偉 ︶を予想せしめるものである。

おけるごとき、 現

すなわち出世間に対

もの﹂の方向におい

﹂﹁交わり﹂の哲学

スが ﹁理性﹂を 、ブ ︵㏄︶ ︵ 乃 ︶

エ フが、﹁交わり﹂ (60) 60

(62)

人格的実存と 交わり 註

の ・の か ㏄ⅠⅠの・はの 申

0 Ⅱ 三ざオガ往 ︵・ ぃ ㏄の っ ・︶

︶参照

比 的に 捉 えた。

コ 由の由円 いの ・ ゆ ・のの・︶

由円 Ⅰ 臣 Ⅰ C コ 0% ニ % けガ皓 この・ ひ トト

円 ㏄ 卜ト ・︶の・ひ い何

二九二頁 台 神聖家族 し

ゴ内の守ののの コ の中Ⅰ ゴ 0 ︵ あヨ の コ ・︶

& のの 紬臼 おす 0 コ ・︶ か ㌣ ひ き ハ ⅡⅡ︶ ま旺 ︵ 0. の・の ト ド ︵Ⅱ り ︶ & ざ ︵ 0. ひ Ⅰ び pN

亡臣 隼 の由井 い の 壊 ・ 壌め ・︶

セ 六号︶参照 ︵ 蝸 ︶ 審 ・ 甘しヴの ︵ @ 毛の﹁ Fm. 頭申 ・Ⅱ・の・ NP の 1 の・ N のの

臣 ・ H 乙ジ ︵粟田 沢 ・岩波新書︶

コ ・︶の・の 申 ⅠⅠの・ トト Ⅱ , ︵ M ︶ & ∼︵︵ 0 の・ ゆ、 ろ う 。 ︵ 終 ︶ ︵ 竹 ︶

にして社会の中で基 61@ (61)

(63)

(62)

やヌ ㌧・や・の c ゴロ 一 舌口・︶

ロ P. ︵ ロコ @ パ ・ ヒ ののⅠの﹁の ,ゴ ﹁の め ・ セ ・㌧・ ン ・㏄ 0 ゴヱ つ 口 ・︶ ︵㌍︶ 隼ご ︵ 0. の・ N の

の N. ︵ 田臣 @ 刃の 0 プ 0 コの。 オ 曲用︵ 億コ Ⅰ や E ㏄ ヴトはガ ・ ト めの P. ︶

︵ ぎ @ 勾 ec オ 。 コの 。 ゴの ネ田 仁 二色 ト 屈の ヴヰ 0 ガ・ ト のの H. ︶

の ㏄ P. ︵ ド の切の・の け ㏄ 0 ゴ。 コ ︶の・ ト ㏄ の ︵ あ ︶ 住ご ︵ 0, の ・ H び pl の・ H ひの

簗れヲ打曲 e ぺ O 目 e 臣ヴ倖 ㍉ 屈コの ・ ト 0% ひ

ド肚 ︵㏄︶ 木 ・︶ののⅠのⅠの @ 巾 三ロ 0 の 0 づゴざ ・ 馬隼 ・Ⅰ・の・のの ︵㏄︶ ま ︵︵ 0 ・ し隼 ・Ⅰ・の・ N 申 H? の , N の 肚 ︵ 紐 ︶ & ざ ︵ 0. し q. Ⅰ・の・︶ い の ? の・ N びの

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︵ 打い ︶ 由ざ ︵ 0. の・︶ 吋び ︵㏄︶ 臼 ︵︵ 0. の・︶ い の

下岸牙 出汁Ⅱの 巾由 Ⅰ・ トの肚 q. け ⅠⅠ・ トめ印印

の c オヰざゴ のコロのの ゑ 臣の ド のの㏄

︵笠原・三好 択 みすず書房︶

佐野・木村沢︶ ︵㎎︶ 缶ざ ︵ 0 の・ め 62 ︵ 初 ︶ & ざ ︵ 0. の・ A の

(64)

人格的実存と 交わり ︵ ︶く 企り し 55 ︵ くリ テ 0 ︶ ︵ 5 @ ︶ ︵ 00 ︶ ︵ 0 Ⅰ︶ ︵ ハリ ︶ ︵ⅠⅠ︶ く Ⅰ ︵ くリ う乙 ︶ ︵ ヶ 1 ︶ ︵Ⅰ サ ︶ ︵ アサ ニリ ︶ ︵ ︶ⅡⅠ 6 ︵ メサ り乙 ︵ⅠⅠ︶ ︶ ︵ アサ ク Ⅰ︶ ︵ ︶Ⅱ 0 廿 ︵ Ⅰ︶ⅠⅠ れ ︵Ⅰ 0 ︶

Wn 記 ︶

一 局 木 ・︶ののⅠの︵の @ ㌧ ヨ ro の 0 Ⅰ ゴざ ・ ロ 升目・の , H のⅡ

ト のの の ・Ⅰ・ め 卜は

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Ⅰ Ne ざ ・ ト のの の Ⅰ ざ庄 0. の・ ト ㏄

目 りのⅠ e Ⅰの︶の・ ト のめ

誠一五八頁︶ ︵ ぎ @ 下目の 坤血 / 曲玉︵の せ 0 ︵︵ 卸幅 の廷臣曲中 屈 ︵ 笘い の㎡︶

0 三 T 才のコロのの 黛コの ・ レ 0 月 N. ︵ N. サ臣コ ・ ト め旬 び ・︶

ze Ⅱ・㏄・ ト の の 4 の・ ト ㏄Ⅰ

原 ・三好調︶一一一頁

の 。 オヰ 。 オ 0 口ロ由の 0p コ ㏄の , ㏄ 巾

原 ・三好 訳 ︶ 一 三一頁

㏄・い いめ 隼ざ円 0. 肺り ・ ト のの Ⅰ ざ円 0. の・ トいつ

︶㏄・の壌の

︶の ,ひ のめ

e コの c プ e 口目のめ㏄・の・㏄ 肘 63 (63)

(65)

リⅠⅠ ( ミ

/ づ ・の巾車 の ・ 害 arn 臼 @ ゆ 宙の色や 4 ゑ︵日のい り ヨ 仁の・︶ ︵㏄︶ & ざ ︵ 0. の・ upo? の・ Np ︶

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い の

ぬ訳 ・ 死 と愛 | 実存分析入門 1 ︶ ︵㈹︶ ま窩 0 ・四四頁 ? 六七頁

9. 木村 訳 " 執 られざる 神 ︶八頁

二五頁

おける一心理学者の体験︶︵箱止 訳 ︶

のの︶の・ トい の

づ ・ トひゆ ⅠⅠ・ トの申

の 0. ︵ N. や仁コ ・︶の・のの、 1 の・ び Ⅱ ︵ 田 ︶ メ ・︶曲の口の︵の @ 由子二 0 の 0 つゴナ 9 し ロ ・Ⅰ・の・のの ︵㏄︶ 色ざ ︵ 0. の・のの ︵㏄︶ 隼ざ ︵ 0. の・の 申

pE コ ・︶の鼻の・︶の・ H の ︵㎝︶Ⅰ ご ︵。

のけの・︵の・中ロ p. ︶の・︶の

の ・ ト仁口 ・︶ 卍 ゆか ゆ ・の・ 肚壌 目 ・出のぎの坤軸の二 % すり ぺ Ⅰのコ下 屈ヨ笘田 02 ヰの・卍の

の曲Ⅹ あ 円の コヱ笘 由 り 1 (64) 64

(66)

人格的実存と 交わり ︵ 0 舟 ︶ ︵Ⅰ ︶Ⅰ 1 J 9% 曲 R 色 " ヱ 0 ヨ 0 乱笘 0q ト ㌢ 肚 ハ リノ目 で円 pqnm ロ " 目 ︶の︵ ひ ︵ 0 音︶・ か ︵︵ 0 ︶ののⅠ

トのびト

越 知謀 クセ ジュ文庫︶

ゴ ︵竹下訳理想 社 ︶ ︵ ぬい ︶ 65 (65)

(67)

て見られた。

︶。唯識因明を主とした時期。

そのとし、すなわ

て 中国語に う つしか セ 十六部、千三百四

、つ ぎの三期 存 分 け

一新訳

維摩

とその研究

慈恩大師

維摩経

橋本

芳契

(68)

な 研究註釈の書を成

か 、まず窺基の維摩 疏 そのものの輪郭をさぐって見ることにする。

文 ︶とまで称せら

にの ばり、他にすで

親署であるかを疑わ

が 、それらの吟味と

た 窺基 が 、のちこの

ヴに 収め、その紙数

事実は、維摩経の前

つものにとって 、ま えてみたい。 玄実 は 大乗 光 ︵ 普九 ︶の 筆

するこの新訳がよ う

大成した慈恩大師 窺 司 て 説 無 こ 垢 こ 称 で

はそ

L

六の

巻 随 ( 一 大 た 正 る 新 も 脩 の 大 と 蔵 し

目吋 簿 記 十 案

二期

口巻

中に

6,

を の も 新 つ 訳 も た め る (68)

察さるべ き こととし 8

(69)

慈恩大師の維摩経 観 接 ﹁唯識 学 十四巻のよ 基礎になっ としてほ 、 尼 等の諸経 69 (69) に 維 た ぅ 」

に関

ものもお

摩以

V

こ、

ょ 外 も 仏 係 ん に あ 教 し で 、 ろ 学 た い 勝 ぅ 徒 書

ぃ 阿 反 タ か ぅ 弥 対 多 に

陀に大

・直な

門口ム 既 弥 接 忠 明

ょ 生 結 蒙 論 う ・ 摩 っ 疏 に 弥 の て 』

て 金 れ 物 上 犬 心 あ

実に荒

理 わ は 乗

も 法 た L 林

紹苧芙甚喜

が 薬 乗 る セ わ 師 経 う 巻 れ

陀研

・ 典

えま

でた

す 羅 究 の は

︵ 弓由乙 の中的弓 ヨ目 *

る 交譲・羅什の両 訳

と 考えられたからで

一項でもなければな

たる 司 料簡 L 二巻、 か仁ワ、こたル氏ワ L こ 口説

であるが、上述の ょ

をとりあえず﹁ 経疏 L

め賛ヒセ巻 、﹁維摩経

を 検することがで き

ではないか、 場ムロ に

たのではないかとさ

述 としては、前記 直

(70)

巻を 、合巻﹁ 本 ﹂と よっても明瞭なよう

か 、それは明らか

り 、また﹁別意﹂と

うした著述も一通り せ 般 か 指 チ

な と て ・

L

,思 て ひ て の 含 識 が 教

る と 釈 典 意

のの上

も 通 明 に

を て か き 定 知 に な

内薬 と る 恩 領 色 四 の べ 想 で 彩十 に一ヒ一

ぎ史あ

0 号

し ら を ㍉ あ に た 説

し、

力、

Ⅹ 言 - 平 わ ー し 無 に と で も ち に か あ 散 う り 供 べ ) し き の た で、 ご も あ と の ろ ぎ も う に 多 。 よ い い っ の

ずれ

に 太 る し 師 か

維 は 々 摩 お な 経 け 理 が る 由 扶 持 か 枯 色 ら 宗 一 明 義 肢 確 は な に お 心 窺 い 得 基

の し と ょ か 信 ぅ る じ ほ の て 受 ち ょ げ 疑 い

ら い 疏 れ と b

か も は の 経 " の 讃 イ 真 と ン 杏 す ド 判 る 定 こ (70) 70

(71)

慈恩大師の維摩経 観 A ハ説 無 3 2 Ⅰ へ声

万席

沖 垢称 間 使 疏 の 名 構 造 と

他 書 経 ll コけ ) 用 市田 回

表し 旧 国 釈 教 四 一 八 経 セ 八 六 旬

末談 ) 一 、 哀別 末、

︵Ⅱ序品。 支謙 ・ 羅

釈 に入る前に、第一

して、この﹁玄談﹂ る 上でも大きな手が

、その種目はこれを

ある。また﹁ 旧 ﹂ して旧訳、とりわけ

た二セ 八回の多ぎに おょ んでいる。︵ 註 ︶

セハ| 七九頁に 詳 一ワ浮の所載 拙図 を転 渇 さる︶ 7 Ⅰ (7 Ⅰ )

(72)

金光明経、観音授記 経 ︵一五︶、隣里 経 大乗論︵﹂ 0 ︶、顕揚論︵

0 ︶、唯識論︵九︶ 、金剛般若経︵八︶

︵五︶ 、ぬ 万度論︵四︶

、正法会 経 ︵二︶ 、梵 @@ 14@ 13@ 12@ 11@ 10@ 9@ 8@ 7@ 6@ 5@ 4 唱 法 観 音 香 不 善 観 不 問 菩 二 挺 君 恩

耳 @ 旦 Ⅰ 計

/L

ゼ 三 五 三 三 三

セ 一 五 八 六 六 一 二 八 三 セ 一 一 八 四

小木 ハ 幸木竹 エハ 五 ・ 五 四 四 末 本 木 本 ( ヴ 2) 72

(73)

接 、音写で示した 上

合一の計二二回があ

ても﹁ 経疏ヒは、以

﹂ならびに序品の部 観 たが、彼は会わなかったとい 師

た 軽量邸中観 師 大 田し 代入 ま コソ︵ 曲曲の vp 慈

をも継承した 新 73 (73)

、千仏因縁経、

ゐ 口論︵計一

0

︶︵

ま ︶

回数なぎは引用一回だけのもの。

⑨印は窺基の自著たるもの。

、科技その他に

原意を明らかにする

﹂の﹁空理義﹂と、

計一

0

八回の多きに

参照

Outline

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