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『宗教研究』213号(46巻2輯)

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(1)

――目次――

論文

1,

古代イスラエルにおけるアシュタルテ信仰, 大畠清, Ashtarte Belief in Ancient Israel, Kiyoshi ŌHATA,

pp.1-16.

2,

現代におけるキリスト教の根本問題:赤岩栄氏の問題提起をめぐって, 中川秀恭, A Fundamental

Problem of Christianity Today as Pointed Out by the Late Rev. Sakae AKAIWA, Hideyasu NAKAGAWA,

pp.17-38.

3,

パリッタ(Paritta)呪の構造と機能, 奈良康明, The Structure and Function of the Paritta, Yasuaki

NARA, pp.39-69.

4,

正理・勝論学派の有神論に対する仏教論理学派の批判(2):シャーンタラクシタにおける, 木村俊彦,

Gottesbeweiskritik

Śāntarakṣitas zu Nyāya-Vaiśeṣika, Toshihiko KIMURA, pp.71-89.

5,

禅宗は恵能と壇経以後に:伝心法要より考察して, 長嶋孝行, Summary of “伝心法要” (Denshin Hoyo:

Lectures on imparting mind), Takayuki NAGASHIMA, pp.91-116.

書評

6,

荒井献著『原始キリスト教とグノーシス主義』, 滝澤武人, Taketo TAKIZAWA, pp.117-123.

(2)

が アシュタルテ女神像土偶の首部︵高さ七・一一 ︵ 2 ︶

ヤ色

︶であるが、墓地、第五号石棺墓から出土 した アシュタルテ女神像土偶は、脚部を少し欠 いてはいるが、 他は 完全 古 である。 -3 ︶高さ一一・ 0 センチメートル、幅七 二 二センチメートル、厚み 二 ・ ニ センチメート エル 裏側は一面に赤色彩色が施されている。 前 九 f 八世紀のものと考えられる︶ 、 及び、﹁南のテル﹂ B 地区から出土した における ア 『 コ 肩 j 一

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(3)

一九︶。 このような家庭祭儀に際して、これらの供物︵ 葡 萄酒と パン︶をそなえ、また、香をたく、対象 があったのではな いか、それが、押型によって大量製産せられた 小 さな女神像ではなかったか、と言うことが考え られるのである。 アシュタルテは 、 ヘブライ語では、 下 ㌢ o ∼ W ︵ ぽ、 フス・シャムラ文書では、下目占 い ︵ 佳 a 下 、 ェニ キ ヤ列 文 では この家庭祭儀においては、葡萄酒とパンが供え

られた︵ イェ レミア四四 ノ 一八 | 一九。 セノ 一八参看︶。 パ ンは 、この女神にかたどってーこの女神のシンボ ル としての新月と金星にかたどって | 造られた

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(4)

Ⅷ断片及び及び分類不可能のもの

ろブ

リッチャー ド によって類別された小女神 仰群を、 -7 ︶新たに、遺蹟ごとに、再編成して、 そ の 鉄器時代︵イスラエル め 時代︶に属するもののみを挙げれば、次の如 くなる。 ノン エ メギド ミ の 幅 式年。 ト Ⅰ m 刑臣に団斗 。 ろ もの

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(6)

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休 -2 l ︶ アシュドドからは二体。 い づれもⅡ型である。 - 托 ︶ ハツ ォか からは五体。 内、 Ⅱ型に属するもの

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休 W 型に属するもの

休 Ⅶ型に屈するもの

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-l Ⅰ l 人 @ テル・ エ ル・カシ レ からは一休。Ⅶ型に属する。 7@ (135)

(9)

シェルで、他はすべて内陸にある。 テル・アフ・ハワン メギド ベト ・シャン テル・ゼロール サマリア テル・ エ ル・カシ レ テル・エン・ナス ベ アシュドド アイン・シェム ス ︵ ベト ・ シヱ メッシュ ザヒりイヱ ︵テル・ ザ カリ イェ ︶ テル・エル,アジュ ル テル・ベイト・ミルシム ゲラ ル 以上一四遺蹟のうち、地中海に臨むもの、 ︶ 及び、それに近いものは、 テル・アフ・ハワン、テル・ゼロール、 テ 以上、プリッチャー ド に 甚 く 上した遺蹟を 、 北から南に向 っ ハツォー ル 八 遺蹟と、われわ て数えると、次の れが新たに追加した 人 遺蹟と、合計一四の 、 様になる。

:136) 8

(10)

古代イスラエルにおけるアシュタルテ 信ィ / ロ また、鉄器時代小女神像の推定年代に関しては、 次のことが知られる。 メギド出土の二一体は、一休︵前人 00 年1所 四 五 0 年頃 9? ︶を除いて、他は悉く、前一一世紀 から 前セ 世紀匹目 一 る 各地層から出土している。 テル・ベイト・ミルシムの一四体は、前一三世紀 から前六世紀に 亘る 各地屑から出土。 ゲラ ル の一一体は、前一二世紀から前七世紀に 及ぶ各地層から出土。 アイン・シェム ス の 一 0 体は、前一三世紀から 一 刊 六世紀に至る各地層から出土した。 ベト ・シャンの七体は、前一二世紀及び 前 一一世 紀の地層に属し、 テル・ ェン ・ナス ベ 出土の二八体は、前一二世紀 から前六世紀の間の地層に属していた。 ハ ツ オールで見出された五体のうち、四体は 、一 制一 0 世紀︵二体︶、前九世紀︵一体︶、前八世紀 ︵一体︶の各地層 に 属したが、他の一体については、鉄器時代に属 したとのみ報告せられている。 テル,ゼロールの三体は、前一一世紀 及 前 九 1人 世紀の各地層から出土している。 また、テル・エル・アジュ ル 出土の鉄器時代 小 女神像二体は 、い づれも、前一 0 世紀乃至前九世 紀 に属し、 テル・アフ・ハワン出土の一体は、前一三世紀 乃 空前一二世紀に 、 ザヒりイェ 出土の一休は、前一 000 年頃に 、 テル・ エ ル・カシ レ 出土の一体は、前九世紀に属 する。 つまり、鉄器時代小女神像出土の遇 蹄は 、特定の 箇所に局限せられず、広く、イスラエル全土に かって、分布し ているのてある。 g (t37)

(11)

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(138) 属することを知るのである。 かくの如く、上記 各迫曲 出土の鉄 拙 時代小女神 像は 、その殆どすべてが、前一三世紀から前六世 紀 にむ る 各時代に

(12)

り 石棺 咄 がら出土したアシュタルテ女神像上 偶を 挙げることが出来るであ⑨

の 、交通或は通商に附随しての移入も考えられ る 。

イシュタルが拝まれた︵ イェ レミア 七ノ 一八、 凹 四 、一九︶。これらは、 ュ いずれも、 コ シア王の改革によって 、取 り 除 か如仙 たが、 イュ ホヤ キム がバビロニアの オ フ カ ドネザルに 臣五 するに 及

つになった︵ 列 三下二円 ノ 三︶。

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信仰が青銅器時代田小女神像信仰の継承であるこ とを示すもの、と言えるであろう。 イスラエルにおける異教信仰は、このような 前

移入が考え ろ る 。 国外からの、異教信仰の移入としては、 先づ、王 妃の家郷よりの移入、がある。ソロモンの妻妾 達が、 例えば、

、モア ブ の神 ケモシュ の如く、それぞれの郷国 の神々を移入して これを祀った、と伝えられている︵ 列王 上一一 ノ 一 1ハ、 列 正丁三一 フ一 三︶。 ィスラエ ル国 ア ハフ王は シ ドンの 女イゼ ベルを 笘り 、サマリアにバアル神殿を建 て ︵ 列 三上一六 ノ 三一 | 三三︶、また、 ユ ダ国王 コラムは 々スラェ のア ハブの眼を妃とし、バアル崇拝を移入した ︵ 列 三下 人ノ 一八︶と、記されている。 ル 玉 、 シ

(13)

(140) 12 で

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(14)

、 追葬 に際して、以前の披 葬 者の遺骸を片隅に 取り片づけた状況が見ら 鵬

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、第三号第五号第六号第八号の各

石 棺墓 では、古い遺骸や副葬品の上に 、 新しい 遺 骸を重ねて葬った状況も 吉 見られる。

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て @0 ︶ いる。 なお、前一一世紀に、テル・ ゼ 海港ドール し 0 ︵を、所謂﹁海の人﹂に属すると 0% 左の モ N の 叶村 ㏄守が に 対して、個人皇であり、その規模も余り大き ただ、 ギり -9- くはない。 シァ の場合は、テル・ゼロールの石棺 塞 が安 肢 米で あ る

テル・ゼロールの石棺 束は 、パレスティナにお

代 ︵ 前 一一二五1所 一 0 セ 五︶に属する墓に 、テ ル ,ゼロールの 右

れる。

-8-

これらの 要 索から、これらの石棺 弗が 営まれたの

紀 にあたると見ら 九基の石棺 虫 中に副葬されていた土器類 は、す べて、鉄器時代に属するもの のと 比 慨する仕らば、 一 ・北のテル﹂の第一一層 | 第九層のものこ最も近似する。, @ .4 ︵ 6 l ︶ また、石棺墓の構築に明し、第七号石棺塞が後 時代に屈すると推定される 土増 墓を断ち切った 状雙で雙 かれていること等から @ Ⅳ - ることを知る。 である。土器形式をテルで出土したも れており、第四号石棺 塞 が後期青銅器 、石棺 京臼拙 築年代が鉄器時代に属す ば、こ , l 可 、 れらの石棺 墓は 、当時、家族 栗 とし ァ これらの石棺 曲 が使用された 姐 Ⅱは 、

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(142) 1 このような、石棺束の再使用の形跡と、第三百方 棺 寒中に小児の辿 骸が 葬られていたことなどを 考えるわせるなら

(16)

ヰノ

か的

階層において、行われていたのである。

群 によって、部族 神 、あるいは部族 群 共通の神 として崇拝せられ︵所謂 キ ト日ロ 田ガ ︵ ゼ 0 三 ⑧、また、民族国家成立後は 、民放の神として、崇拝せられた。しかし、 同 時に、小女神像崇拝を含

として、一般的に 、 行われていたと考えられる のである " 15@ (143) ル等が考えられる。

ラエルの地に広く、イスラエルの各時代に 亘っ て 、イスラエルの各社会 テ 信仰

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(17)

註 ︵Ⅰ︶テル・ゼロール発掘調査 報 上口書としては、次の 三巻が公刊されている。 大島清編テル・ゼロール、 1 、一九六 - ハ 。大息清編 テ ル ゼロール、Ⅰ、一九六七。大島清編テル・ゼロール ︵ 2 ︶大畠利札テル・ゼロ 一ル 、第二巻、一九六 セ、 図版 四セノ 4 。 ︵ 3 ︶大畠油田岡書、図版 四セノ 30 及び、 同畠口 絵 としてその色 粍 写真を掲載。 ︵ 4 ︶大畠Ⅵ 佃 テル・ゼロール、第三巻、一九七 C 、 図版六三ノー。及び、同書口強としてその色 耗 写真を 掲載。 ︵ 5 ︶ レ ・ ミ 臼のの r, し い のし uc ゴ ︶ er の ヨ寸 - ︶ののの " 六五Ⅱ 曲 @ 看 。 ︵ 0 介 ︶Ⅰ㏄ ヨ e の中り エおゴぃぺ Ⅰ・㌧の ト のの 由ぎ @ い 二 % おこ︵日の㏄ ぎ 日ド の - ドコ 0 コ付 。 0 のⅠ 侍ハ - コい り。 し 巨のの㏄のの オ臣 。 こミコヰア Ⅰ 0 ヱ 如オⅠ 岸り へい ︵ 口 3- し乙 ・五頁 | 五八頁参看。 ︵ 7 ︶︶・ 亜 ㌧﹁ @tc プ ぃ三回書六頁 | 三一頁年何。 ︵ 00 ︶ o.n. 呂 0 の 0 ミコ - 円臼の コソ白のの サ の ゴ - Ⅰ -P のト ド虫 ぃ ︵のの㏄ ダ ㏄ ひに ト人 る 。 ﹁ ハ Ⅰ︶Ⅰ・ ミ ・の︵・ 0 託 ︵ oo@@- の ・ 才ハ ・の∼・ 0 ま ふ 00 ダパ . 呂 ・ メのコせ 0 コ いいヨ 丹ヱ Nl のの 汗降の 、 目 ・・ 1O い q. ㌧ 守 ︵のの 目 。 沓 ・ 及 び、の ・ レ ・由のざ コ の グ の ・の・ 勺ざ迂 e Ⅰ し ・の・Ⅰ せ 0 コ - ⅠのⅠせ い Ⅰ 年巴 xc い へ いユ 。二の ぃ 田の ぃ 円コ の ﹁ ナ沖 ・ ト つり 下 ・㌧田舟のべ㏄による。 ︵ 皿 ︶ ぺ ・ ぺ蚤 P ぺ ・下ぎ qo 田 - ヴ し目 ぷ 窯の ァゼ ・ 円 ・ し 0 ︵ プぃコ ・ 力 ・ト臣 @ra コ ・㌧・ つめ ﹁ ro ︵・ 屈 az0 二ロ・ 、 ︶の中の・ ロ厨 ︵ ののⅠⅩ︵ HH 一白 へ宅 : Ⅰのの︶・ 目卍宙汀 a ハしハ しかし リハ Ⅱ せ ・ 六しハ しかしⅡ L く ⅡⅠ 卜 よる。 ︵Ⅱ︶Ⅰの qp 匹已 Ⅹ 宮 Oqp 庄 O コ ︶ OEq コ日 - ︶のの つロ ・ q 逼 ・ P の O による ︵は︶ ヨ ・ し 0 ゴいコ ・ ロ ・ ニ ・ 弓お色ういコ ・ ト紳 し 0 年︵: ト 0 の ゴ弓 正宮ポポく年による。 ︵ 穏 ︶木毛 0 の 王 0 すい毎 - り a の︵ 凹 品田沼Ⅰのすのコ % 年の rN ユ ︵年のの @ の﹁りの二市 ざ 0 アの コ木びコ @n ︵ ヒヨ m 。 O ﹁ 呂コ ︵ くミ ・ く : P つ ひの・ つロ ・ づ l8. 及 び ホ山 消ィスラエ ル王朝時代の宗教の研究、宗教研究 一一九 ザ 、一円 | 四四Ⅱ七口。 ︵ M ︶大出時 編 テル,ゼロール、Ⅱ、一九六七、五九 貝| 六六頁、大岳 治鳩 テル・ せ ロール、Ⅲ、一九七 0 、九七頁 |一 0 三頁 参看。 ︵ 10 ︶大岳 沼拙 テル・ゼロール、Ⅱ、六九頁参看。 ︵ 托 ︶大 爪 油綿テル・ゼロール、Ⅱ、六九頁参看。 ︵Ⅱ︶大仙 油紬 テル・ゼロール、℡、 一 0 八頁参看。 ︵ 腱 ︶大畠清編テル・ゼロール、℡、一七頁参看。 ︵㎎︶ オ ・ 緒せ aux.O. づ : 目 @ の ︵ 0 マ 0 レ二 % の ココのし ド の あ麒 ごト っ Ⅱ P. づ下 ドの ・ ,の ルユ l の 屈簗ぃ Ⅰ㏄ 円ぜおコ @ 目タ の に すヨ ぜおコ の 0 いコ の ヰ由宙はの,卍の の㍉ 、 目 るの参看。 ︵㏄︶ ん,ら e せ %x.o 戸主︵:Ⅰワ耳Ⅱ 卜 ︵: 再仁 ︵ すコ 8% ぎ ,ドゴの㌧ す臣 @ の宙コ e の りコ Ⅰ 圧 すの 0% ゴ のⅠのの曲㌧ り 0 つ - のタトつ Ⅱ つ せ ・ 0 等参看。 ︵ れ ︶ オ荏 ︵ す 宙のの︵﹁ ぎ ・・ 0 づ ・㌔︵・・ づ ・の・参看。

(18)

輻梓之セ 計ス 昭和四六年九月九日 f 一 O 日 、北海道大学にお いて開催された日本基督教学会第一九回学術大会 の

第二日目に

、 ﹁現代における正統と異端 7 元 岩栄 氏の場 合 ﹂という題でシンポジ ウム が開かれた。︵ 1 ︶ 発 題者は関東学院大 捜 学教授山本和 氏 、国際基督教大学教授古屋 安 雄 氏、元国際基督教大学講師︵現在ゲッチンゲ ン 大学助手︶田川建三氏 魅 で、筆者の司会により、 二 高間にわたって 討 論 が行なわれた。 抑 そこでとりあげられた主な点は、 赤岩栄が 異端とされる場合、それはどういう状況1社

全的・教会的におい

ス てであるか。 赤者 が生涯を通じてバルト、 フ 口々ト 、フーバーその他の人々の思想を次々に 借用しながら、自ら追及 パ し、表現しょうとした﹁ことがらしは何であ っ たか、ということであった。このシンポジウ ム において、これらの 占, に 光が投げかけられたが、全体としては 赤岩 栄 をどのように理解するかということが焦点に なっていた。 Ⅵ 赤岩 栄は我々にとって、二重の意味で、 問 題 となるように思われる。第一に、 赤岩 にとっ ては﹁キリスト教は如何 なるものであるか﹂、﹁キリスト教信仰はどのよ・ っ にして成立するか﹂、﹁イエス・キリストは私に とって何であるか 円 1

現代における

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赤岩

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リスト教の

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(19)

︵ー︶ コ 日本の神字 L 第一一巻一九七二年、シンポジウ ム ﹁現代における正統と異端ラ・ 赤岩栄 氏の場ム ロ ﹂二三四 | 一八 0 頁 ︶参照。 実は、この問いかけを通じて、問われているこ とがら自体が次第に明らかになってくるのであっ たが、それは究極的 には﹁イェスとの出会い﹂、﹁イェスを行ずるしと いうことであった。ところで、第二に、 赤 君に おけるこの間 い かけ の方法が特徴的である。 赤 岩の方法と、例えば ハ イデッガーの方法とを比較するとき、それが 明 らかになる。ハイデ ッガ ーによれば、哲学の根本問題は﹁存在とは 何 か ﹂ということである。そこで、彼は哲学の歴 史を批判的に破壊し て 、存在の根源へと迫るべく、思索するのである、、、、 。他方方 岩は、 人々の思想を吹から次へと借用 し、 衣を脱ぎ替える ように脱ぎ捨てながら、自分の考えていること がらを表現し、同時にそのことがらを明らかにし ようと試みる。かく して、このような方法をとる 赤君 自身をどう 理 解するかが我々の問題となる。すな ね ち、一万 に おいて 赤 岩の提起し た 問題がキリスト教への根本的な問いかけであ るが、他方において 赤岩 をど う 理解するかが我々 0 間 題 となるのであ る 。 第二の問題が基督教学会のシンポジウムでとり あげられたことは、すでに述べた通りである。 そ こで、本稿におい ては、第一の問題をとりあげることとする。 す なね ち、 赤岩栄 の一連の問題提起をキリスト教に たいする根本的な問 いかけとしてうけとめ、それにたいする答えが どのような方向において求められるかについて、 考えて見よう。 (146) ﹁イェスはキリストであるのか﹂、﹁キリスト教に おいて人間の人間性回復は如何にして可能であ るか﹂ということが 問題であった。彼はこのことをキリスト教の教 義 、教会史を越え、更に聖書そのものをすら越え て、 問いっづけた。

(20)

広島県

陸中学入学。トルストイの作品を読む。

づいて社会主義思想の洗礼をつけ、大杉栄の

無政府主義の思

大正八年︵一九一九︶一六歳

フスキーを読んで感銘を受ける。

神戸神学院入学。

大正一二年︵一九二三︶

0

大正一四年︵一九二五︶

二歳

固有退学。

大正一三年︵一九二四︶

一歳

大阪神学院入学。半年で退学。

19 (147) 愛媛県に生まれる。父方 君 長吉は小学校長。 そ の後牧師となり、再び教員となり、転々 す 。母の 信仰が栄の生涯 に 大きな 影 筈を与えた︵ 非 侮日神を探ねてロ奏 昭 " し 。 大正五年︵一九一六︶一二表 明治三六年︵一九 0 三︶

m 石

栄の年譜は次の通りである。︵

1 ︶

一 一 '

(21)

東京神学社卒業。篠原芳野と結婚。九月日本垂 督 教会佐渡伝道 所へ 赴任。 昭和六年︵一九三一︶二八歳 東京へ 掃 えり、高倉徳太郎を中心とするグルー プの 刊行する月刊誌 司 福音と現代目の編集にあた る 。小田急線中 原 に日本基督教会中原伝道所を開設する。 昭和 セ年 ︵一九三二︶二九歳 一月、伝道所を代々木上原︵ 駅 横の借家︶ へ 移し 、日本基督教会上原教会として再発足す。按手 礼を受けて日本 基督教会の正教師となる︵この時の体験につい ては コ指 三一 0 号 参照︶。 昭和九年︵一九三四︶三一歳 処女作﹁ 生 と死の所属ヒ出版。 昭和 一 0 年 ︵一九三五︶ 三 二歳 日曜集会満員の状況となり、二階落下のおそれ を 生ず。会堂建築計画具体化す。 昭和一一年︵一九三六︶三三歳 会堂新築。日本キリスト上原教会となす, 昭和一二年︵一九三 セ ︶三四歳 ﹁微行者イエスし出版。 昭和一四年︵一九三九︶三六歳 (148) 東京神学社入学。在学中高倉徳太郎の影響をう け 、 聖 苫を本格的に勉強しほじむ。 昭和三年︵一九二八︶二五歳 20

(22)

﹁永遠者の探究 只 ﹁人間・この逆説的なるもの 口 出版。 現 昭和二四年︵一九四九︶四六歳 おけ たが、それが理解されず、教団の指導者層に失 望 した。 る キリスト教の 根本問題 司 マルコ伝ヒ出版。 昭和一五年︵一九四 0 ︶三一 セ歳 ﹁イエスの 讐 ヒ出版。 昭和一六年︵一九四一︶三八歳 胸部疾患に倒れて入院、約一年間静養す。 昭和 一セ年 ︵一九四一コ三九歳 ﹁ 神 われらと偕に在すヒ出版。 昭和一九年︵一九四四︶四一歳 戦争の激化に伴い、徴用され、東京の理化学研 究 所で課長代理を つ と か 。 戦争中、日本基督教会は他の教会と共に日本 墓 督 教団に統合、爾来示岩は日本基督教団に属す。 昭和二一年︵一九四六︶四三歳 ㍉日々の 糧 L 出版。 昭和二三年︵一九四八︶四五歳 この年、赤岩は思考の領域から社会的実践を明 確に打ち出して行った。日本基督教団主催の第二 回 全国指導者 協 議会︵六月二九日 | 七月一日、塩原︶の席上、赤 岩は社会的実践の方向として日本共産党を支持 する発言口を行なっ 21 て 149)

(23)

一月の総選挙において東京四区より立候補した 目 木 共産党の風早八十二氏を応援して街頭に立つ

。二月それ

がもとで、日本基督教団総会 講長 小崎 迫雄 氏 よ り 教団離脱勧告をう く

。四月共産党入党の決

意 を公けにしたが ︵所謂﹁共産党入党首 喜二 ︶、その後事情により 入 党 をさし控えた。 ﹁私は今もイエスを追う目コキリストと共産主義 円円私はイエスを裏切らない L 出版。 昭和二五年︵一九五 0 ︶四七歳 共産党入党首 喜 口は上原教会を分製させ、五月に は 約二 0 名の教会員が上原教会から脱退した。 そ の 理由は、 赤岩 は 救済を﹁信仰と社会﹂の二点に求める二元論 をとる、ということであった。 一二月、月刊誌﹁ 指 L を創刊、﹁イエス 伝ヒ を田 版す 。 昭和二八年︵一九五三︶ 五 0 歳 教会制度にたいする批判をはじめる。そのきっ かけは日曜学校問題であった︵﹁ 指 ﹂三五号参照︶ ﹁新しい人間誕生日﹁人間への省察 ヒを 出版す。 昭和二九年︵一九五四︶五一歳 エミール・フルンナーの来日を機会に、フル ンナ | 批判を展開する。 昭和三 0 年 ︵一九五五︶五二歳 バルト神学と訣別 し、 ﹁キリスト教批判を制度の 変革とイエスに回帰する方向で展開﹂しはじめ る 。 同 キリスト教入門ヒ出版。 昭和三 01 三三年︵一九五五 | 五八︶五二1玉 五歳 この間に教会改革を逐次 行 な う 。すな ね ち、講壇 をとりはらい、オルガンをピアノにかえ、自作 の 讃美歌を集会 (150) 22

(24)

現代 @c おけるキリスト 教の根本問題 餐を中心とする交わりの集いとし︵ 昭 、三二︶ 、 祈祷会を廃止して聖書研究会とする︵ 昭 、三三︶ 昭和三二年︵一九五セ︶五四歳 バルトとの訣別を官書ロする。 ﹁マルコ伝 L 改訂版出版。 昭和三五年︵一九六 0 ︶ 五セ歳 安保闘争を市民運動にもりあげるために活躍す る 。 昭和三 セ年 ︵一九六二︶五九歳 昭和三 0 年頃より聖書の歴史批評的研究態度 を 深めてきたが、史的イエスの研究に挫折、イェス を 描くことを 断 食 した︵㍉ 指 L 一四一号参照︶。 ﹁人間・その回復 L 出版。 昭和三九年︵一九六四︶六一歳 ㍉キリスト教脱出 記 ヒ出版。 昭和四一年︵一九六六︶二八三歳 六月頃より身体の異状を訴えはじむ。八月入院、 九月退院、その後再び入院。 一 0

月日本基督

教団第一四回 総 会 に赤岩を教団から除名する決議が上程された。 折柄 赤 岩は病気加療 中 であったので、その病状 を 静観した上で決 靭 足 する 旨 確認した。かくして除名問題はたなあ げになった。一一月二八日逝去。﹁ 指ヒ 一九六 ロ吉 , ︵一九六 セ、二 23 ? 三月号︶をもって第一期を終刊とした。 時に歌い︵ 昭 、二一 0 ︶、日曜学校を廃止し、説教 を ケリ ュグマと 改称︵ 昭 、三一︶、献金を廃止し 、聖餐を変えて 愛

(25)

第一期 共産党入党宣言までの時期は、岩永達郎氏によ れば、﹁人間の悲惨 と神 問 との不和の和解を通じての人間の復権という 公式で表現される正統キ リ 赤君 はこの時期にはカルヴァン、バルトに傾倒 していた。 第二期 昭和二四年四月、赤岩は共産党入党決意を宣言 した。それによって﹁ キ の 栄光、イェス・キリストにおける神と人 ︵ 3 ︶ スト教へのいちずな 信 従の段階﹂である。 リ ス卜者の社会的実践の問題を鋭くつきつ ︵ 2 ︶ スト 教 脱出 記 L である。 (1%n 24 る

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過 を ︵ 巳 Ⅰ @ 約される﹁われ在り ヒ の実存的段階。﹂ 月刊誌﹁ 指ヒ ︵昭和二五年一 第三期 昭和三九年︵一九六一︶ 、 キノ 舌ロ い而呪 わしている。﹁おの 二月創刊︶で行なわれ、﹁キリスト教脱出 記ヒと して結実した。 赤岩は ﹁キリスト教脱出 記 L を出版した。 赤岩 の 生涯におけるこの時期を、岩永 氏 はこ れの生のその場においてイェスを心にうつし 出 し、 ﹁イェスは私である ヒ という命題に要

けた﹂

赤岩は、

﹁その場合の同キリス卜者

L

とは

何かということを批判的に追及し続ける﹂こと

となる。︵

4 ︶この作業が

25@ (153)

(27)

三 、﹁﹁ 指 ﹂百号を出すにさいして﹂ 宍指ヒ一 0 0 号 、昭、三四・三。Ⅷ・二九八以下︶。ここで 赤 岩は自分のこれ までの作業を回 田し 、その 托 来を展望している。 Ⅲ % 分 は教轟 学的な領域で考えることはやめ た 。バルトの射程の外に出た︵Ⅷ・二九八︶。 ㈲キリスト教々理の神は 禾 条理である。何故 なら、﹁キリスト教々義学の﹁ 神 L は創造に閲し ては、排他的に人 間の参与を拒みながら、 救肝に Ⅲしては、信仰 という人間の協力を必要とする。﹂﹁キリスト教々 義学の﹁ 神ヒは ユダ ヤ的 ・キリスト教的神学思想の産物にすぎない。 ﹂︵Ⅷ・二九九 |三 00 ︶。 ㈲﹁福音書の記事はすべて、イェスの行動、 イ エ スの言葉ではなく、旧約聖書やユダヤ黙示 文 学を通じて、イエ スを メシア︵キリスト︶として弟子たちが 官喜ロし ようとしたものであるなら、福音書の記録は 々 エ スの意図に反し て 、弟子たちのイエスにたいする信仰を表明し たもので、実際のイェスの舌口葉や、行為を福音 垂 目から見出すことは 不 可能になって﹂くる︵Ⅷ, 三 0 ニ ー三︶。 ㈹イエスの神は審判者としての専制君主では なく、やさしい 又 と考えられた。このことは ィェ スの 生来のやさし さをあらわしている。したがって、あの恐るべき 審判のキリスト や 、カイザル・ティ べりタ スに 対応する キュりオ ス ・キリストは、初期教団のキリスト再臨から 生 れた復讐心の表現でありて、決してイエスの あ りのままの姿ではな い ︵Ⅷ・ 三 0 三 1匹 り 。 ㈲これからの自分のしなければならない仕事 は 、ユダヤ教的、ユタ ヤ 黙示文学的に塗ったくら れた新約聖書の メ シア像のおくに、イエスの人間性を探ねるとい, っ ことである︵Ⅷ・ 三 0 五︶。 ㈹﹁この人間イェスにあたためられて、始めて 、 物に過ぎない僕が人間にまでよび出されるこ とを感じる。その 意味で、イエスは僕にとって、僕の主体を呼び 出す原主体である。イエスのあのやさしい人間性 が 、今でも、物にす (154) 26

(28)

仰の保持者であった。それは回心と召命を意識 した上で、自己のものとした信仰であり、そうし た 根拠に立って 、数 種 の 護 教的書物も苦いている。ところが、戦後、 史的イエスの研究に従事するようになって 、教 理の根拠として、 こ れまで無条件で信じこんでいた事実が、神話的 な 架空なものであるということを次第に知らされ て 行った。神話的 雰 囲 気の中で生きていた古代人にとっては、その ような神話も、生活の座としての意味があったに し 、科学的世界像の中に現に生きている私たち にとって、このような古代人の生活の座を 、 私た ちの生きる根拠にす 瞳 ることには、さまざまな矛盾と不都合とが 起 る 。そこで私にほ、回心の回心という 逆 回心︵ カウンター・コンヴァー 妹 ション︶が起らないではおれなくなったので ある。﹂ 雀 脱出 記 ﹂﹁はじめに﹂ 、 Ⅸ・ セ一| 二︶ 。 赤右 にとって は、 ﹁ キ 如 リスト教からの脱出は、そのまま人問注︵ フマニタス︶への回帰を意味する。﹂︵Ⅸ・ セ 二︶。 ﹁アウグスティヌスは ス 神に 呵 って彼の回心のヱロ 白 L を書き綴った が 、その神が実はアウグスティヌスの意識で はないかということが 問

キ題

となりはじめた私は、むしろ人間に伺って コロ 白 ﹂を 曹く 必要を痛感する のである。﹂︵Ⅸ・ セ士じ 。 - ハリ l ︶ 拙 本書が出版された後、日本基督教団におい て赤 岩の処分問題が検討されようとしていた 頃 ﹁除名についての ㈹私の弁明﹂ 宍指 ﹂一九六六年四月号︶を発表 、その中で次のように述べている。﹁私が㍉ キ リスト 教 脱出 記 ﹂を書い 現 たのは、福音書の様式史的研究、編集史的研 究の結果、在来、私の抱いていた信仰が神話に 基づく迷信であったとい 27 (155) 四、コ キリスト教脱出 記 ﹂︵ 昭 、三四。Ⅸ・ セ一 11 三 一二︶。

Ⅲ本署

軌牛 の 助伶は ついて小岩は次のように 述べている。﹁私は以前、プロテスタント,キリ スト教の正統的 信 ぎない僕をぽかぽか温めてくれて、僕を物から 人間にしていて下さるということ、このことこそ 、 何よりも、イエス が 復活されたということではないだろうか﹂︵Ⅷ 三 0 五| 六︶。

(29)

うことを知らされたので、私はそれに対して 責 任を感じ、その過程を明らかにしたのである。﹂︵ Ⅸ・ 三 一五︶。 ㈲次に本書の内容を概観し、 赤右 の﹁キ リス ト教 脱出﹂の作業の経過を跡づけることにしよう 第一章﹁古い権威望舌と信仰﹂ ここで 赤岩は 、 戦 徒行った史的福音書研究が里主 目の権威からの脱出の試みとなった次第を述べて いる。それは﹁ キ リスト教を唯一の尺度として、他のあらゆる 尺 皮を否定するキリスト教的偏見からの脱出であっ た 。﹂︵Ⅸ・ 九 0 ︶。 かくして獲得された﹁自由は自分勝手なことを 奔放にやってのけることではない。﹂︵

九こ

。﹁ 権 威から脱出したもの は 、権威に対するアンチの姿勢ではなくて、 主 体 的自由を自己のうちに確立することが肝要であ る 。﹂︵九一︶。 赤岩 は 、このように自由を自己のうちに確立する 所 以 のものを﹁フマニタス﹂︵人間性︶とよぶ。 そ れは﹁随処に主とな れば、立処みな真なりと言った境地である。﹂︵ 九一︶。 赤右 によれば、﹁キリストという権威の ヴ エールを脱ぎすてた イエスは随処に主となり、立処みな真という 底 0 人間﹂であった︵九一︶。イエスにとっては、 律法の神的権威より も、 フマニタスの方が大切であった︵九二︶。 か くして 赤君 は、神話的権威の地盤から、現代人 にふさわしい成人し た フマニタスの地盤に移行するのだ、という︵ 九一一 う 。 第二章﹁古い権威の中心神﹂ ここでは、主として宗教史的方法によって、権威 の中心としての神からの脱出が試みられる。﹁ 私は神の約束 と権 威 によって 、 私たちの行為を律することは奴隷 内書生心であって、成人した人類の生き方ではない と思,つ 。﹂︵一一 0 ︶。 それ故に、﹁私たちは他律的権威に奴隷のように 縛られないで、自由な人間となる必要がある。﹂ ︵一一 0 ︶。﹁このよ う な自由な人間は⋮・・・自己に対し、隣人に対し、 社会に対してあくまで自発的に責任を負う人間 となる。﹂︵一一 0 | 一︶。 赤岩 によれば、責任ということが真の主体 的 自由の特質である。かくして、﹁人間が神を裁 き 殺してし 茸っ 時代 (156) 28

(30)

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において完成した︵一二四︶。これ

らの解釈は凡て﹁ある時代の思想的背景によっ

規定されている限り、

わけには行かない。﹂︵一二五︶。それ故、﹁キリ

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異論

、今日

りでも真理として通用するためには、人間の内

にある

。コイズムと、超自我との相剋が強調

される必要がある

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教の根本問題

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ス 。 受 の 史的事実を前提しているが、そこに書かれてい ることは、イエスを㍉キリスト L と告白する 信 仰の告知であって 、 歴史的事実でないということが公平な判断であ る 。﹂︵一一セ︶。 赤岩 によれば、 召 キリスト ヒと いうのは、固有名詞 ではない。教会のイエスに対する信仰告白なので ある。﹂︵一一八︶。﹁キリスト教の最初期は 、司 キリスト L の死を ユ ダヤ人に対する 疽罪的死 と解釈して、ユダヤ教 約一セクトにとどまっていた。その後打金 曲 折を経て、イエスは ユダヤの メ シ ャ から世界の司キリストしになった 。﹂︵一二一︶。イエスの処女降誕も﹁史的事実 ではなく、イェスが ﹁キリスト ヒ であるということを表明するために 要請された物語りである。﹂︵一二一︶。ところで 、﹁ 贈罪 というキリ スト教の中心思想も晴異論として教義的に展開さ れる場合、種々雑多な解釈がある。﹂︵一二二︶。 この 晴 罪は先ず が 来た﹂と舌口 う ︵一一一毛。 第二一章﹁古代的神話 像 キリスト﹂ ﹁福音書から、イエスの伝記や、生涯を再現する ことはほとんど望み薄い。﹂︵一一六︶。﹁確かに 福音書は 、 二三

(31)

二セ︶。 赤右 によれば、そもそも﹁ 贈罪論 が今日 通用しないということは、キリスト論の問題で あって、イエスの 史 的 事実と矛盾するということで決定的となる。 と いうのは、イェスが 過 越の祭の期間に十字架に つけられたというこ とは、イェスの死に贈 罪的 意味を与えるように なった初期教団の要請にもとづくもので、史的 事 実ではないというこ とである。﹂︵一二九︶。キリストの復活について も 同様である、と方岩は舌口 う 。﹁それは、イエス をコ キリストヒと し て解釈した初期教会の当然の帰結である。﹂︵一一一 一四︶。﹁﹁キリスト ヒ の復活信仰も婚 罪 信仰と司 様に史的事実を根拠 としているものではない。したがって、キリス ト 復活信仰によって、 主括的 精神 探作 に終始する ことは、私たちの 現 在的 生 る 、幻想に終らせる結果となる。﹂︵一二一 五︶。要するに、 赤岩は 本章において、イェスの 処女降誕、十字架の 死に対する 贈異 論的意味づけ、キリストの復活 は 、イエスをキリストと告白する初期教団の産物 であって、われわれ の 生をかかる幻想に 括 らせることはできない、 と する。人はキリストからイエス ヘ 脱走しなけれ ばならない。 第四章﹁キリスト神話の母胎キリスト教会 ここでは、キリスト教会がユダヤ教の母胎から 生 ね 、初代、中世、近世を経て現代にまで至った 経過が宗教史的・ 教会史的・精神分析的方法で説明される。 赤岩 によれば、今日﹁キリスト教共同体も、かつての 神話的権威によって は 、もはや、その崩壊を支えることができない 時日にきている。﹂︵一五四︶。﹁現代とは、一切の 神話的権威が歴史の 背後に、暗転して去っていく時代であり、それ にかわって、あられな人間の世界が、白日の下に 現れる舞台なのであ る 。﹂︵一五四 | 五︶。﹁したがって、過去の神話 的 権威によって閉鎖的な共同体をつくるのではな く 、そのような過去 の 権威から自由にされたものとして、開かれた 人 間 共同体を形成する責任を、自由の表現として とりあげなければな みない。﹂︵一五五︶。 第五章﹁死後の生命についての神話キリス ト教 終末論﹂ (158) 30

(32)

現代におけるキリスト 教の根本問題 赤右 によれば、﹁原始キリスト教の神話的終末 払 珊は幻想にすぎず﹂二六 セマ 今日の教 捉的 キリ スト教の非神話化 による実存論的終末論は﹁たんなる人間の意識 の 操作﹂︵一六八︶にすぎない。﹁私たちはただ キ リスト 教的 終末論 を 、古代的神話として退けたり、その非神話化 による意識操作に満足したりしないで、むしろ、 それとの対決におい て 、この現実の生の繰返しえない唯一回 的 意義を 認め、そのかりものでない生を生きることを 意 図したい。﹂︵一七 一二︶。 第六章﹁イエスの非神話化史的イエスの間 題 ﹂ この章の背景には、 赤 岩の未完成のままに終っ たと舌口われる史的イェスの探究があるように思わ れる。﹁福音書の イエスは、イエスを㍉キリスト L として告知し た 文書である。したがって、イエスの史的記録で はない。﹂︵ 一セ 四︶。 しかし、そのような告知の背後には史的イェス が 立っているに違いない。そこで、﹁福音書の キ りつ ハト生口 W 牡 州の舌口音木の 中から、史的イェスの 広 き、人格の片 隣 、真正 な @@ 口説の断片を取り出す方法﹂︵一八三︶を見出 すことが、とりもな おさず史的イェス探究の方法を見出すことであ る 。 赤岩 はその着眼点として、﹁キリスト論 や、 ない福音書のイエス告知を問題として見たい。﹂ という︵一八三︶。﹁つまり神話に彩られない ィ エ ス記録である。 そ れは当時のユダヤ人が、法律を知らないために、 約束の民の外にあると考えた罪人、遊女、みっ ぎとりとのイェスの 交友関係と、彼らに示したイエスの特別な愛情 である。そのようなイエスの態度は、イエスが キ リストであることを 告知するために神話的に構成された物語りでは なく、イェスの史的事実であったに違いない。﹂︵ 一八三 | 四︶。 赤而右は マルコの報告する安息日についてのパリサイ大と イェスとの論争をとりあげ、﹁安息日は人のた めにあるもので、 人 が 安息日のためにあるのではない﹂という句を 、 イエス の 七ロ末工な舌口 丑 下木としてと Ⅱ P ノだヰ Ⅱ ン 。﹁この @= 口 葉は決定的なイエス 0 人間宮 喜ロの 言葉である。﹂︵一八九︶。﹁イェスに とっては、人間の共同体と、その中に生きる 具 体 的人間が問題であ 31 (159)

(33)

った 。⋮ @ 真の共同体は、全体のために個人を犠 牲 にするものではない。個人の自由な生長が 、 全体の自由な生長の 条件となるような共同体の中で、人間は始めて 人間として 息 づくことができる。﹂︵一九 こ 。﹁ ィ エ スの人間日日 喜ロは おそらく、人間の実存的共同体を作り出すこと によって、自己を人間として具体化して行くこと を意図したものであ ろ う 。﹂二九一 |一コ 。しかし、 赤岩 によれば、 ﹁がらん、この意図は、イェスによって実現した とは言えない。十字 架上でのイエスの死は 、 明らかにその挫折をさ・ え 意味する。しかし、イエスの意図はこの挫折 と 共に終ったのではな い 。イエスはその後の時代の人々に、あらわに、 また匿名で、ヒューマニズムの火を点火し 、人 間 共同体実現の課題 を 委託し続けているのである。﹂︵一九二︶。 第セ章 ﹁イエスのヒューマニズムキリスト 教 脱出の目的﹂ 赤岩 によれば、﹁イェスを﹁キリスト ヒ として、 古代神話的に告白し、信仰することからキリス ト 教は始った。 こ の キリスト教からの脱出は 、 私にとって 、 私を 縛っていたドグマや﹁権威 ヒ から自由にされ、 非 人間 化 をまぬかれる ことを意味する。﹂︵一九三︶。﹁今日のキリスト教 0 間 題は 、キリストの名称によって、人間 % を 抑圧する古い神話的 権威を、今日もなお保持し続けていることにあ るのだ。 ロ キリスト﹂とは、古代の不条理な神話 的 権威が、今もなお その名称の下に私たちの間に生き残るための宗教 的 様式なのである。﹂︵一九六︶。かかるキリス ト から脱出すること で 得た利益は次の諸点だ 、 と方 岩は 言 う 。 ィ、原 罪や罪に対する宗教的罰の威嚇から、完全に自 由 にされた︵一九 八︶。 ロ 、排他的に絶対唯一の宗教を主張する キ リスト教の真理性が、神話性にもとづくもので 、もはや不可 謬 的な ものでないことを知った私は、絶対無謬の思想 とか、主義とかいったものは、この世界には皆無 であることを知らさ ね た︵一九九︶。 ハ 、キリスト教からの脱出によ って、未成年の人間から、成人した人間の域に 歩みいった︵ 二 00 ︶。 ところで、 赤右 によれば、﹁イェスの生涯は空し い 失敗の生涯の連続であった。にもかかわ らず、迷いながら 真 (160) 32

(34)

いくつかの文章の一つであるが、 司 脱出 記 L に おいて﹁イエスのヒュー 肪 マニズムしに到達した 方 岩の思想展開を示す ものとして重要である。イエスのヒューマニズ ム、 否むしろ、彼の フマ ㈹ ユ タスを如何にして自己のものとするかが、 この文章のポイントである。先ず 赤 岩の言うこ とを聞こう。﹁これらの 現 歴史︵バチカン第二公会議、アメリカでの神 の死 ・神学︶の動きは、十字架上に死んだ イェ スの 反覆にほかなられ 33 (lei) の 教 ︵ Ⅰ l Ⅰ︶

ス五

、目イェスを行ずる L 省 指目一九六六 年 九月号。Ⅸ・二八八 | 九一︶ 0 人間として生きたであろうイエスは 、 私たちの 心に、 生きる火をともしてくれることを今でも やめていない。 キ リつ ハト 焔 略も、もとはと毒ロ えぱ、ア しのイェスの 人 間性にその発生の根源を負っていたのである。 ﹂︵ 二 0 三︶。﹁キリス ト 教から脱出することで、私が到達した地点は 、 イエスの レしユ ーマニ。スムである﹂と 赤 岩は舌口 う ︵ 二 0 ニー 四︶。 そ れでは、このヒュー 7 ユ ズふ とは何か。 赤岩は それを次のように説明する。﹁私たちが今日の時 点でヒューマニズム という時は、その語をサルトルが㍉実存主義は ヒューマニズムであるヒと言った時の ロ ヒュー マ 二ズム L とほぼ同じ 意味で了解すればよい。いずれにせよ、ヒュー マニズムという表現には、ハイネマンの指摘する ような、神の権威に 守護を求めて生きる幼児癖を断念して、人間と して独立して生きようという成人 山昌茜が 含まれ ている。﹂︵ 二 0 四︶。 ﹁私たちは当初のイェスの人間共同体形成の意図 にもう一度たち帰って、そこから成年期の現代 を 歩み出すべきでは あるまいか。文化の発展によって、必然に将来 される人間疎外から、人間を守るためには、 ィェ スの ヒューマニズム による人間共同体を文化共同体の中に成立させ るほかに道がない。﹂︵ 二 0 九︶。最後に赤 岩 はこ , っ 結論する。﹁このよ 題 うな人類の遺産としてのヒューマニズムを 私たちのうちに点火するものこそ コ キリストヒと いう神話の衣をぬ ぎすて

参照

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