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本的人権 を3 大原則とした日本国憲法が 1946 年 11 月 3 日公布 1947 年 5 月 3 日から実施されました 憲法が目指す理想の国の実現は 根本において教育の力に待つべきものであるとして 教育基本法が 1947 年 3 月 31 日から公布 実施されました 戦前の 大日本帝国憲法 と

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戦後70年、「戦争をしない国」として発展して きた日本が、再び「戦争をする国」になろうとして います。戦後70年の東アジアの変動の中で、日本 の歩みを読み解き、東アジアの平和構築について考 えたいと思います。

第1章

冷戦構造と東アジア

第二次世界大戦以降、世界秩序を指導したのは、 超大国、アメリカとソビエト連邦の核軍拡競争と覇 権主義の対立でした。この「敵対的共存」を「冷戦」 構造といいます。アメリカの主導する北大西洋条約 機構(NATO、1949 年設立)と、ソ連の主導するワ ルシャワ条約機構(WTO、1955 年設立)の軍事同盟 を軸に、資本主義陣営と共産主義陣営の対立は、戦 後世界の動向に決定的な影響を及ぼしてきました。 しかし、戦後の冷戦構造は、ヨーロッパ諸国と東ア ジアに対して、対照的な影響を与えることになりま す。ヨーロッパにおける冷戦は、先鋭的でありまし たが、西ヨーロッパの資本主義国家と東ヨーロッパ の社会主義国家の対立は、力の均衡が保たれ、比較 的安定的に推移してきました。これに対して、東ア ジアでは、米ソを軸にした勢力均衡にもとづく強力 な集団安全保障体制はつくられませんでした。この ため、アジア諸国は、植民地支配から解放され、民 族独立を追求しますが、それぞれに多様であり、自 主的な独立を達成する過程で、冷戦構造を主導する 両大国の介入があり、朝鮮戦争やベトナム戦争とい う熱戦が繰り広げられました。このように、東アジ アでは、米ソの影響力に限界があり、冷戦の様相は、 ヨーロッパの安定的均衡とは対照的に、極めて不安 定に推移してきました。このような戦後東アジアの 国際関係、とりわけ日中韓の関係の本質を歴史的に 把握することが、今日の東アジアの平和構想を探る 鍵となります。以下、冷戦構造の推移を歴史的に3 期間に分けて考察していきます。 1 冷戦構造の形成・深化と東アジア、2 冷戦構造 の変容と東アジア、3 冷戦構造の崩壊と東アジアに ついて、順次考察します。

第2章

冷戦構造の形成・深化と東アジア

1945年8月15日、大日本帝国の降伏により、 日独伊3国が世界秩序を武力で変えようとした時代 は、終焉しました。ヨーロッパでは、戦争を引き起 こしたナチ・ドイツを米ソが共同で軍事占領、武装 解除をし、過去の清算を共同でおこないました。こ れに対して、東アジアでは、アメリカが、日本を単 独占領して反共基地として再建しました。日本は、 隣国を侵略した過去を反省しないまま、アメリカに 従属し、「経済大国」として国際舞台に登場し、東 アジア地域内部での信頼関係が形成されないまま戦 後復興することになります。 第1節 アメリカの単独占領と民主化措置 敗戦で廃墟になった日本を占領支配したのは、ア メリカの連合国最高司令官総司令部(GHQ)であり、 最高司令官ダグラス・マッカーサーが全権をふるい ました。しかし、日本の政府と官僚制度の基本的な 枠組みを維持する間接統治方式を採用しました。対 日占領政策の初期の基本目標は、日本の軍国主義の 再発防止と民主的政府の誕生でした。このため、軍 部と財閥の解体、戦犯逮捕と公職追放、5大民主的 改革(女性解放、労働組合結成の奨励、教育自由化、 圧政的制度の撤廃、経済民主化)など、次々と民主 的措置がとられました。「国民主権、恒久平和、基

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本的人権」を3大原則とした日本国憲法が、1946 年 11 月 3 日公布、1947 年 5 月 3 日から実施されま した。憲法が目指す理想の国の実現は、根本におい て教育の力に待つべきものであるとして、教育基本 法が 1947 年 3 月 31 日から公布・実施されました。 戦前の「大日本帝国憲法」と「教育勅語」に変わり、 「日本国憲法」と「教育基本法」を基本にして、戦 後日本の復興が始まりました。 第2節 中国革命と冷戦の深化 抗日戦争を勝利で終えた中国は、新しい未来を準 備することができましたが、革命を追求する共産党 とこれを抑えようとする国民党との間で内戦の危機 が高まりました。この危機を防ぐため、平和協議を 求める国民の声が高まりましたが、妥協を拒む蒋介 石の強い反共主義により内戦は避けられなくなりま した。内戦初期は、圧倒的な軍備に勝る国民党の勝 利が予想されましたが、内部的な官僚腐敗、軍閥主 義の残存、深刻な経済貧困で民心の支持を失いまし た。一方、共産党は、農民と労働者を支持基盤に統 一戦線政策を実施し、広範な国民の支持を広げ、 1949 年 10 月 1 日、毛沢東を国家主席、周恩来を首 相とする中華人民共和国を樹立しました。中国は、 ソ連の援助のもと、新国家の経済建設に着手し、ス ターリンの死(1953 年 3 月)まで、対ソ一辺倒の 外交を展開しました。アジアにソ連、中国という社 会主義大国が出現し、冷戦構造が深化したことによ り、アメリカの対日政策は、180度転換すること になりました。1949 年 12 月、国共内戦に敗れた国 民党の蒋介石は、残った勢力を引き連れて台湾に移 転し、国民党の専制政治を継続します。 第3節 朝鮮戦争と朝鮮民族の悲劇 大日本帝国は、1910 年、日韓併合条約を強制し、 朝鮮民族を同化主義=皇民化政策により、朝鮮民族 の文化的・伝統的な一体感を破壊し、日本民族の言 語・文化を浸透させ内面的にも日本人にするという やり方で深刻な苦痛を与え続けてきました。1945 年 8 月 15 日、朝鮮民族は、日本帝国主義の非人道 的な植民地支配から抜け出しました。35年間の日 本帝国主義の植民地搾取と経済的収奪の結果、社会 は混乱し、食料と生活必需品は慢性的に不足してい ました。それでも、朝鮮の国民は、米ソの協力によ り、自主的な朝鮮統一国家が形成されるものと期待 していました。しかし、ソ連が朝鮮半島に進駐を進 めると、アメリカは、日本を完全占領するために、 「38 度線」を基準に朝鮮半島の分割占領を提案し、 合意を得ました。このように、朝鮮の人びとの理解 と要求を全く考慮せずに引かれた分割線は、二つの 国家をつくり、同じ民族同士が闘う朝鮮戦争の悲劇 をもたらしました。1948 年 2 月、国連総会が南朝 鮮だけの総選挙実施を決議し、5 月 10 日、初代大 統領に李承晩が選ばれ、8 月 15 日大韓民国が樹立 されました。北朝鮮も内閣首相に金日成を任命し、 9 月 9 日朝鮮民主主義人民共和国を樹立しました。 米ソは、二つの政権の正当性をめぐって対立しまし たが、12 月 12 日、国連総会は、大韓民国を唯一の 合法政府と認定しました。 1950 年 6 月 25 日、北朝鮮軍の攻撃により、朝鮮 戦争が勃発しました。アメリカは、直ちに国連安保 理事会を招集し、国連軍の派兵を決定しました。国 連軍と韓国軍対中国に支援された北朝鮮軍は、38 度線をめぐり、攻防戦を繰り広げました。戦争は、 資本主義陣営対社会主義陣営間の国際戦争の性格を おび、第3次世界大戦に広がる危機から、休戦の機 運が広がり、1953 年 7 月 27 日、朝鮮戦争はどちら か一方の勝利でもなく「休戦」として終了しました。 この戦争は、朝鮮の人びとにとって、おびただしい 人命被害をもたらしただけではなく、民族共同体意 識が破壊され、分断意識が強固に固定化された悲劇 中の非劇となりました。朝鮮戦争により、冷戦構造 が拡大・深化される決定的契機ともなり、両陣営の 理念的な対決と競争的な軍事費の増強をもたらしま した。アジアでは、あたらしい軍事的な地域秩序が つくられ、アメリカは、1951 年に日米安保条約、 1953 年に韓国、1954 年に台湾と相互防衛条約を締 結し、アメリカを頂点とする1対1の反共軍事同盟 が形成されました。また、東南アジアにおいて共産 主 義 の 膨 張 を 阻 む た め 、 東 南 ア ジ ア 条 約 機 構 (SEATO)もつくられました(1954 年)。 第4節 対日政策の転換とサンフランシスコ体制 中華人民共和国の成立と朝鮮戦争は、アメリカの 対日政策を大転換させました。日本を単独占領した

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アメリカは、冷戦初期は国民党により中国統一がな されるという予測のうえに、日本の民主化措置をと りましたが、1948 年には、共産党による中国統一 が確実視される情勢になると、アメリカは日本を 「反共の砦」として復活させる政策に大転換しまし た。非軍事化と民主化措置は中止され、経済の復興 を支援し、公職追放と財閥解体は緩和されました。 1946 年 5 月から始まった東京裁判も、戦争責任を 徹底して追求しない方向に流れるようになり、過去 の軍国主義者とその協調者が復帰し、戦後日本の政 界、官界、経済界の要職をしめ、戦前の人的関係が 継承されました。日本を反共の砦とするために、ア メリカの軍事政策は、第一に日本を再武装させ、第 二に日本全地域を米軍基地として自由に使用し、第 三に日本から沖縄を分離して東アジアの軍事作戦の 拠点として統治することでした。朝鮮戦争では、在 日米軍も多数派兵される中、マッカーサーは 7 月 8 日、75,000 名の「国家警察予備隊」の創設および 8, 000 名の海上保安力の増員を認めるとの書簡を吉田 茂宛に送りました。日本政府は 8 月 10 日、警察予 備隊令を公布・施行し、この警察予備隊は、やがて 保安隊となり(1952 年)、現在の自衛隊となります (1954 年)。 東アジアにおける冷戦の本格化と朝鮮戦争は、ア メリカに、在日米軍の役割を再認識させ、日本との 講和条約締結を急がせることになりました。このよ うにして、1951 年 9 月 8 日、サンフランシスコ講 和条約が締結され(発効は 1952 年 4 月 28 日)、同 時に日米安保条約が調印されました。この 2 つの条 約により、日本の対米従属の体制ができあがるので す。 このように、戦後日本の経済社会は、恒久平和を 実現するために、国民主権により、私たち国民が戦 争放棄と軍隊を持たないと決めた日本国憲法を持ち ながら、明らかに憲法に抵触するサンフランシスコ 講和条約と安保条約に規制された体制のもとで戦後 復興をしていくことになったのです。

第3章

冷戦構造の変容と東アジア

中ソを中心とする共産主義陣営対アメリカを中心 とする資本主義陣営の対立が、冷戦構造の基本です。 しかし、ソ連のフルシチョフによるスターリン批判 を契機に、世界共産主義運動に大きな混乱と分裂が もたらされました。フルシチョフは、① 共産主義 国と資本主義国の平和共存が可能であり、② 武力 革命でなく、議会制度を通じて社会主義革命が可能 であると主張しました。米ソのデタント(緊張緩和) 政策をめぐり、中ソ論争から中ソ対立が深刻になり、 中国は「ソ連主敵論」を主張するまでになり、冷戦 構造が変容しました。さらにアメリカは、ベトナム 戦争を打開しようと米中接近をはかったため、東ア ジアの冷戦構造は事実上解体されることになりまし た。 第1節 中ソ論争から中ソ対立 資本主義国との平和共存と平和的に社会主義に移 行出来るというフルシチョフ理論は、中国共産党に より批判され、革命論をめぐり「中ソ論争」が展開 されました。中ソ論争は、キューバ危機(1962 年 12 月)の対応をめぐり政治的対立に発展しました。 キューバ危機は、核戦争を引き起こし、米ソが共滅 する可能性があるとして、核戦争を回避するために、 アメリカ、ソ連、イギリスは、「部分的核実験停止 条約」(地下以外の大気中等の核実験を禁止する条 約)を結びました(1963 年 8 月)。中国とフランス は、部分核停条約は、米・ソ・英の核兵器独占を永 続させると批判し、この調印を拒否し、核兵器の開 発を急ぎました。中国は原爆実験に成功し(1964 年 10 月)、水爆実験にも成功(1967 年 6 月)し、 核兵器所有大国となります。中国とソ連の対立は、 国際共産主義運動の中に、平和共存論を支持するソ 連派と世界革命論を支持する中国派という深刻な対 立と分裂を生みました。第9回原水爆禁止世界大会 (1963 年)では、部分核停条約の評価をめぐり、条 約を支持する社会党・総評系と条約に反対する共産 党系が対立し、前者が大会をボイコットし、「原水 爆禁止日本国民会議」を結成しました。このため、 日本の原水爆禁止運動は分裂したまま今日に至って います。さらにソ連では、フルシチョフ失脚(1964 年 10 月)後のソ連共産党を率いたブレジネフ第一 書記は、1968 年、「自由化」を目指したチェコスロ バキアに東欧4カ国の軍隊とともに軍事介入し、 「プラハの春」を弾圧しました。ブレジネフは、同

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盟諸国がソ連型社会主義から逸脱しようとした場合、 武力で内政干渉ができるという「ブレジネフ・ドク トリン」を発表しました。ソ連の武力進攻を恐れた 中国は、国境付近に地下壕を掘るなどの防護をし、 中ソの緊張が高まりました。数千キロにおよぶ中ソ 国境には、互の軍隊が配備され、1968 年から 69 年 にかけ、数度にわたり武力衝突が発生しました。こ のようにして、東アジアでは、社会主義陣営内の中 ソ両国の関係が、敵対的に悪化する一方で、米ソの 緊張緩和(デタント)と米中接近がなされたため、 冷戦構造が変容し、消滅することになりました。 第2節 日米安保改定から高度経済成長路線へ 日本を「反共の砦」として戦後復興させたアメリ カは、戦後日本国民に根付いた平和主義、非武装中 立主義の意識が、反米意識に転ずることを警戒して、 自衛隊増強や憲法改正を避けながら、米軍が日本の 基地を自由に使用できるように日米安保条約を改正 しようとしました。新安保条約は、1960 年 1 月に 岸信介首相とアイゼンハワー大統領の間で調印され ましたが、すでに自衛隊が存続していましたから、 日本もアメリカも相互に防衛義務を負う一種の軍事 同盟となり、アメリカのアジア戦略における自衛隊 の役割を強化したものになりました。安保条約改定 が、戦争放棄をうたった日本国憲法に違反し、日本 を再び軍事国家の道に歩ませると懸念した日本国民 は、平和と民主主義を守るために広範な安保反対闘 争に立ち上がりました。岸内閣は、国民の声を無視 し、6 月 19 日、新安保条約を自然成立させ、7 月 15 日、総辞職しました。第二次世界大戦後の日本 における最大規模の国民運動になった安保闘争は、 その後の日本の平和と民主主義を求める運動の先駆 となりました。政府自民党は、安保闘争後、党是で ある憲法改正を国会に発議することができなくなり ました。岸内閣の後を継いだ池田勇人内閣は「国民 所得倍増計画」を推進し、国民の関心を政治から経 済に転換し、驚異的な高度成長を実現しました。実 際、戦後日本経済は、10 年間 で敗 戦から 復興し (1945 年~ 1955 年)、15 年間(1955 年~ 1970 年) で世界第 2 位の経済大国になります。1955 年から 保守合同した自民党政権の大企業優先政策に支えら れて、高度成長期に「企業社会」が形成されました。 15 年間の実質経済成長率が 10 %という驚異的な成 長で重工業化を成し遂げ、世界第 2 位の経済大国と なりました。政府・財界とアメリカに支えられた経 済成長戦略が功を奏して、1970 年、日米安保条約 は、佐藤栄作首相のもとで自動延長され、「60 年安 保闘争」の再来は回避されました。 第3節 ベトナム戦争と東アジア 1954 年のジュネーブ協定で南北に分断されたベ トナムにおいて、親米政権であるベトナム共和国 (南ベトナム)を支援するアメリカと南北ベトナム の統一をもとめるベトナムの革命勢力との間で、ベ トナム戦争が勃発しました。これは、アメリカのア ジア戦略として、一国でも共産化すれば連鎖的に共 産主義化が拡大するに違いないとする「ドミノ理論」 に従って、中ソ大国との対立を避けて、小国ベトナ ムに軍事介入をした大義なき戦争でした。1960 年、 南ベトナム解放民族戦線が樹立され、南ベトナム政 府が弱体化すると、アメリカは南ベトナム政府軍に テコ入れし、1964 年 8 月、トンキン湾事件をでっ ち上げ、1965 年 2 月から北ベトナムへの大規模な 北爆を開始しました。北ベトナムと南の解放戦線は、 1968 年のテト攻勢でアメリカに決定的な打撃を与 え、1969 年 6 月、南ベトナム共和国臨時革命政府 を樹立、1975 年 4 月 30 日、ベトナム共和国が崩壊 し、戦争は終結しました。かくて南北統一が実現し、 1976 年にベトナム社会主義共和国が成立しました。 アメリカ軍死者 5 万 8000 人、生還した兵士も、精 神的障害に苦しめられました。ベトナム人犠牲者は 300 万にのぼり、戦勝者にとっても凄惨な戦争でし た。 日本は、明らかにアメリカのベトナム戦争に加担 しました。アメリカ軍の軍政下にあった沖縄の米軍 基地からは、連日、B52 戦略爆撃機が北爆へ出撃し、 「沖縄なしにベトナム戦争はできない」と言われる ほど、沖縄はアメリカのベトナム戦争の兵站基地と しての役割を担いました。日本全基地が、ベトナム への出撃機の補給・修理等の全面的な軍事支援をし ました。ベ平連をはじめとする、日本のベトナム反 戦運動が高まり、自衛隊のベトナム派兵というアメ リカの要請を阻止しました。一方、日本経済にとっ て、ベトナム戦争は戦争特需を生み、対米貿易黒字

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と好況(いざなぎ景気)をもたらしました。 しかし、アメリカにとって、ベトナム戦争は、覇 権国の威信をかけた戦争であったため、その敗北は、 アメリカの威信を傷つけるとともに、大量のドル散 布と国際的競争力の低下をもたらしました。戦後、 自由貿易圏の安定的な経済成長を支えた IMF 体制は、 1971 年 8 月のニクソン声明(ドルと金の交換停止) による変動相場制の移行により崩壊しました。 第4節 米ソのデタントと米中和解 東アジアでは、社会主義陣営が分裂(中ソ対立) して敵対関係にまでエスカレートし、相互にアメリ カとの関係の修復をはかりました。このため、東ア ジアでの冷戦構造は、ヨーロッパより早く、変容し 崩壊しました。 1969 年 1 月、アメリカ大統領に就任したニクソ ンは、ベトナム戦争への出費による財政赤字とドル 危機への対応から、対ソ、対中政策の修正を余儀な くされていました。まずソ連に対しては、11 月、 戦略兵器削減交渉(SALT)を開始し、1972 年 5 月 に交渉は妥結し、モスクワで調印が行われました。 これは両国の保有する弾道ミサイルの数量を追認し、 追加を行わない軍備管理を規定したのみでした。し かし、冷戦構造による核軍拡から核軍縮に向けた最 初の締結でした(SALT 1 )。第二次交渉(SALT Ⅱ)に おいては、第一次交渉に加え核兵器の運搬手段の数 量制限と、複数弾頭化の制限が盛りこまれました (1979 年 6 月 18 日)。しかし、ソ連のアフガニスタ ン侵攻を理由としてアメリカ議会の批准拒否により、 そのまま 1985 年に期限切れになりました。ニクソ ンは、中国に対しても「中国封じ込め」政策を 180 度転換させ関係改善につとめました。中ソ対立を利 用して、「ベトナムからの名誉ある撤退」のための 中国接近でした。1971 年 10 月の国連第26回総会 で、中華人民共和国が国連に復帰し、安保理事会の 常任理事国になり、台湾政府は代表権を失い、国際 連合を脱退しました。1972 年2月、ニクソン訪中 により、共同コミュニケ(上海コミュニケ)が発表 され、米中和解が達成されました。以上の経過によ り、資本主義国と社会主義国の敵対関係という冷戦 構造は、東アジアにおいては変容しました。米中和 解は、アメリカに従って中国敵視政策を推進してき た 佐 藤 栄 作 内 閣 に は 、 対 応 が で き ず 、 沖 縄 返 還 (1972 年5月)を花道に総辞職しました。1972 年7 月成立の田中角榮内閣は、9月に訪中し、「日中共 同声明」を発表しました。声明では、「日本側は、 過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大 な損害をあたえたことについての責任を痛感し深く 反省する」ことを表明しました。中国側も、これを ふまえて、対日賠償請求権を放棄しました。1978 年 8 月には「日中平和友好条約」を結び、1998 年 11 月に「日中共同宣言」を発表しました。「日中共 同声明」、「日中平和条約」、「日中共同宣言」の3公 文書によって確約された基本原則は、日中両国の友 好関係の基礎となりました。1979 年からは、中国 への政府開発援助(ODA)を提供するとともに、中 国貿易も拡大し、日中経済の相互依存関係は拡大、 強化の一途をたどってきました。

第4章

冷戦構造の崩壊と東アジア

1989 年から 91 年にかけて、東欧とソ連の社会主 義体制が崩壊しました。世界の冷戦構造が崩壊し、 超大国アメリカによる一極覇権主義の世界支配が始 まりました。冷戦構造が、すでに変容していた東ア ジアにおいては、ヨーロッパのような社会主義国家 の崩壊というかたちをとらずに冷戦時代は終わり、 グローバリゼーションの進展で東アジア経済圏の形 成が現実の課題になってきています。しかし、依然 として朝鮮半島は南北に分断され、中国と台湾の関 係も正常化されていません。また、日本、韓国、中 国の関係がヨーロッパの英・独・仏のような緊密な 協力関係になっていません。これは、日本が侵略戦 争と植民地支配の「過去の清算」を十分にしなかっ たために、中国・韓国との信頼関係を築けていない からです。このような状況下で、如何に東アジアの 平和を構築するべきかが問われています。 第1節 ソ連型社会の崩壊とアメリカ帝国の成立 1989 年 11 月、ベルリンの壁が崩壊し、1990 年 10 月、東西ドイツが統一されました。東欧社会主 義の体制の崩壊はソ連に波及し、1991 年 8 月、ソ 連共産党が解体し、12 月までにソ連を構成してい た 15 の共和国が次々と独立を宣言し、ロシア連邦

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共和国が誕生し、ソ連は解体されました。同年6月、 経済相互援助会議(COMECON)が解散、7月は、ワ ルシャワ条約機構が解体しました。ソ連型社会は、 一部官僚が国の基本的決定権を掌握し、国民は生産 をめぐる基本的な決定から排除されていました。こ のような一部の官僚による生産決定システムは、市 場経済の発展を阻害し、壮大な生産の非効率とコネ 社会を招来させました。多数の国民が、基本的な生 活物資を得るのも困難な社会が崩壊するのは当然で した。一部官僚による専制支配の国を崩壊させたの は、基本的人権を求める国民の運動であり、歴史の 進歩の証でありました。大国ソ連の崩壊は、超大国 アメリカ帝国を成立させ、新自由主義(市場原理主 義)による世界市場支配(グロ-バリゼ-ション) を可能にしました。20 億人から 60 億人に広がった 旧社会主義国を含めた市場を、アメリカの多国籍企 業が独占利潤を求めて駆け巡り、その経済グローバ リゼーションの進展を、宇宙をベースにした軍事覇 権により警護していく体制が整備されたのです。90 年代のクリントン経済優先政策は、冷戦構造時代の 軍事技術(IT技術)をビジネスに適応し、インフ レなき持続的成長により、財政赤字を解消し、「ア メリカ独り勝ち」となりました。このグローバリズ ム(市場支配)にユニラテラリズム(軍事支配)を 一層強化し、「強いアメリカ」政権をつくるために 登壇したのが、新保守主義(ネオコン)にささえら れたブッシュ政権(2001 年~ 2008 年)でした。政 府高官にエネルギー関係者 21 人、兵器産業関係者 32 人を擁するブッシュ政権は、9・11 同時多発テロ を契機に、アフガニスタン、イラクを侵略し、泥沼 状態の戦況をもたらしながら、地球規模の先制攻撃 を可能にする軍事再編をしました。加えて、新自由 主義にもとづく市場原理主義政策の強行は、資本主 義社会に破滅的なコストをもたらしました。目を覆 うほどの社会的不平等と貧困の広がりにより、人々 の生存権が侵害され、環境基準の押し下げによる深 刻な地球環境問題を抱える一方、資本主義諸国にお ける福祉政策が崩れ、世界市場競争にさらされる競 争国家へと追い込まれ、民主主義の形骸化と人権侵 害が深刻となりました。サブプライムロ-ン問題を 契機に発生した世界金融危機は、アメリカのバブル 経済と新自由主義経済の破綻をもたらしました。ア メリカ国民は、地球規模の戦争政策にも反対し、多 国籍企業の利潤を優先する新自由主義的政策にも反 対し、平和と国民生活防衛の要求から、史上初の黒 人大統領オバマを選び、変革(チェンジ)を選択し ました。今は、世界の潮流が、東アジアも含め、明 らかに平和と地域共同の方向に変わりつつあるので す。 第2節 東アジア地域のグローバル化と日米同盟 ソ連の脅威に代わってアメリカが構想したのは、 イラク・イラン・シリア・リビア・北朝鮮などの 「ならず者国家」の近隣諸国に対する侵略という脅 威であり、その無法行為を制御する「世界の警察官」 としての軍事大国の役割を担うことでした。1991 年の湾岸戦争は、「世界の警察官」としてのアメリ カの役割と必要性をアピールしました。湾岸戦争で は、50万を超える多国籍軍が派遣され、イラク軍 がクエートから撤退し戦争は終結しましたが、イギ リスとフランスが軍事力を分担し、日本・ドイツと 湾岸王族国家が戦費を負担しました。軍事超大国に なったアメリカは、財政赤字と貿易赤字が累積し、 軍事費の削減を余儀なくされ、冷戦崩壊後の新軍事 戦略として同盟国の軍事力を育成して、役割分担さ せ、地球規模でのアメリカの戦力の不足分を補う構 想に転換しました。ソ連の脅威が消滅した在ヨーロッ パ米軍は3分の1に縮小しましたが、アジア太平洋 地域では、軍事力の削減はありませんでした。第2 次大戦後の大規模戦争は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、 湾岸戦争ともアジア地域であり、アメリカにとって アジアは、軍事的に重要な地域だからです。とりわ け、在日アメリカ軍は、第7艦隊・第3海兵遠征軍・ 第5航空軍という広域の戦略機動を目的とした部隊 であり、アメリカのアジア太平洋地域の覇権戦略の 中軸に日米安保体制が位置づけられているのです。 1996 年 4 月の日米首脳会談では「日米安全保障共 同宣言」が発表され、日米安保条約が、日本の防衛 という枠を超えてアメリカの一極主義的世界戦略を 支えるものに拡大されることになりました。このた め、1978 年の「日米防衛協力のための指針」(ガイ ドライン)が見直され、新ガイドライン(1997 年 9 月)では、日米安保条約は再定義され、日本はアメ リカの先制攻撃戦略の地球的規模のネットワークに

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組み込まれることになったのです。これを受けて、 政府与党は、憲法改正への策動を加速化させ、1997 年5月、改憲団体「日本を守る国民会議」と宗教右 翼「日本を守る会」が統一され、改憲を基本運動方 針にした「日本会議」が発足しました。これに連動 し、「日本会議国会議員懇談会」、「憲法調査委員会 設置推進議員連盟」が発足します。さらに、「新し い歴史教科書をつくる会」、「日本の前途と歴史教育 を考える若手議員の会」が結成され、歴史教科書か ら日本軍「慰安婦」や南京大虐殺の記述が抹消され るなどの第3次教科書攻撃が本格化しました。 アメリカが世界に張り巡らした軍事基地が縮小さ れているのとは対照的に、日米軍事同盟(日米安保 条約)だけが拡大、深化されています。実際、日本 の 1 都 1 道27県に133か所の米軍基地がありま す。アメリカの同盟国 27 カ国のうち、日本は、他 の 26 カ国の合計を上回る思いやり予算を提供して います。ミサイル防衛計画の受け入れも決定し、数 年で 1 兆円の予算を計上しています。世界の軍事同 盟が解消されているのに、日米軍事同盟だけが拡大、 深化しているのは、何故でしょうか。それは、日米 軍事同盟の強化により、この軍事力を背景に、アジ アに進出しようとする日本の多国籍企業の私的利潤 行動があるからです。資本金 10 億円以上の日本の 企業数(約 5600 社)は、全企業の 0.2 %ですが、 純利益では、70 %を独占しています。現在、海外 に進出する日本企業は 2 万社、そのうち 1 万 3 千社 はアジアに進出しています。アメリカのグローバリ ゼーションと地球規模の戦争政策がエスカレートし たのは、2001 年からです。1 月に、ブッシュ政権が、 4 月に小泉政権が成立し、9.11 同時多発テロが引き 起こされた年です。アメリカ(ブッシュ政権)が日 本(小泉政権)に押し付けた軍事的役割は、忠実に 受け入れ実施されました。2001 年 10 月テロ対策特 別措 置 法 成 立 、 11 月 海 上 自 衛 隊 イ ン ド 洋 派 遣 、 2003 年 6 月有事関連 3 法案(武力攻撃事態対処法・ 改正安全保障会議設置法・改正自衛隊法)7 月イラ ク特別措置法成立、2004 年 2 月陸上自衛隊イラク (サマワ)派遣、6 月有事関連 7 法案成立、2005 年 9 月郵政選挙で与党大勝(自民 296、公明 31)、10 月 自民党憲法改正草案決定、2006 年 9 月安倍内閣ス タ-ト、12 月改正教育基本法成立、2007 年 5 月国 民投票法成立等です。アメリカが日本に押し付けた 経済的役割も、忠実に受け入れ実施されました。新 自由主義にもとづく市場開放要求は、小泉「構造改 革」として農産物輸入自由化、金融自由化、労働市 場の自由化をはじめ、規制緩和と福祉・医療・教育 分野の市場経済化が強行されました。この背景には、 日本の多国籍企業のアジア進出による、独占利潤確 保という私的決定がありました。しかし、2008 年 の金融恐慌は、新自由主義経済の破綻を明確にし、 2009 年 1 月オバマ政権が成立、核軍拡から核廃絶 の方向が示唆され、日本でも政権交代が実現しまし た。しかし民主党政権の保守回帰(新自由主義への 回帰)と公約違反から、2012 年 12 月、虚構の多数 により、第2次安倍政権が成立し、日本を再び戦争 する国にするために暴走しています。集団的自衛権 を閣議決定(2014 年 7 月)し、安保法制を今国会 で強行採決しようとしています。 第3節 東アジア地域のグローバル化と政治変動 冷戦構造の崩壊とグローバル化の進展は、東アジ アにおいては、韓国対ソ連、韓国対中国という国家 対立構造の変動をもたらしました。ソ連も中国も自 国の経済成長のために、韓国と同じ世界資本主義市 場経済に参入することになったからです。1988 年 2 月に発足した韓国の盧泰愚政権は、「北方政策」を 打ち出し、北朝鮮を含む北側の社会主義国との関係 改善をもとめ、積極的な外交を展開しました。1989 年 2 月にハンガリー、11月にポーランドと外交関 係を樹立し、12 月に韓国・ソ連両国の領事館設置 で合意しました。1992 年 8 月には、中国と国交正 常化をおこない、12 月は、ベトナムとも国交樹立 し、経済協力を推進しました。中ソ両国も、脱イデ オロギー化を進め、資本主義体制と政治思想を受け 入れていきました。1989 年 5 月、ゴルバチョフと 鄧小平が会談し、歴史的和解を確認しました。中ソ 国境紛争は、国境地域兵力削減協定・信頼醸成協定 (1990 年 4 月)、東部国境確定協定(91 年 5 月)の 締結によって基本的に収束しました。中国は、改革・ 開放政策を決定した 1978 年以来、社会主義市場経 済の構築という理論の修正を行い、外資導入に踏み 切り、経済成長による国民生活の向上を目指しまし た。1987 年、政治改革構想も採択され、社会主義

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民主制度の改革を提示し、実施してきました。韓国 政治の民主化も 1987 年 6 月の民主抗争以降、定着 し始めました。1997 年、アジア通貨危機が韓国経 済を直撃しているとき、金大中大統領が選出されま した。金大中大統領は、IMF から資金援助を受け, 危機に対応し、4大構造改革(金融構造改革、企業 構造改革、行政改革、労働改革)を断行し、自由化 も推進しました。98 年 2 月、大統領就任挨拶で① 朝鮮半島での一切の武力挑発を許さず、②北朝鮮を 吸収して統一することはしない、③南北間の和解協 力を推進するという3原則を明らかにしました。 2000 年 6 月、金大中と金正日による南北首脳会談 が行われました。そこでは、南側の連合制案と北側 の緩やかな連邦制案に共通する平和的手段による南 北統一の原則、南北離散家族の相互訪問実地、南北 の多角的交流、南北閣僚級会談の開催などが合意さ れました。金大中大統領は、1998 年 10 月、日本を 訪問し、日韓共同宣言を発表しました。歴史問題に ついては、日本政府は「今世紀の日韓関係を回顧し、 わが国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配に より多大の損害と苦痛をあたえたという歴史的事実 を謙虚に受け止め、これに対し、痛切な反省と心か らのお詫び」を述べました。これに対して韓国政府 は、日本の植民地支配に対する歴史認識の表明を真 摯に受け止め、「共同宣言の発表で新時代の友好関 係がひらかれた」と述べました。以上のべた対話と 協調による相互理解と交流こそ、東アジアの平和構 築に向けて新時代を拓くものと思われます。 第4節 東アジアの経済交流と平和構築の課題 冷戦構造が変容・崩壊し、グローバル化が進むな か、東アジアでも地域統合の動きが活発化してきま した。1980 年代以降、東アジア経済の域内統合が すすみ、貿易の半分が域内貿易となり、大量の日本 資本が、この地に投下され、生産を担うようになり ました。1990 年代から、政府レベルで自由貿易協 定(FTA)を中心とする経済連携協定(EPA)締結交 渉がすすめられるようになりました。東アジア共同 体論は、アジア通貨危機以降、政策次元において本 格的に模索されるようになりました。東アジア国家 間において、経済問題を中心に協力関係の制度化が 進 展 しま し た 。 1989 年 ア ジア 太 平 洋 経 済 協 力 体 (APEC)、1993 年アセアン地域フォーラム(ARE)、 1997 年東南アジア国家連合(ASEAN)に日中韓 3 国 が加わった ASEAN+3(APT)、2005 年東アジアサミッ トなどです。 これまでアジアの平和と共同の発展を推進してき たのは ASEAN(東南アジア諸国連合:1967 年)でし た。ASEAN は、東南アジア 10 カ国からなる相互尊 重の協力組織です。1976 年 2 月開催の ASEAN 首脳 会議で、TAC(東南アジア友好協力条約)が採択され ました。アジアの平和と友好をすすめるこの条約の 加入対象国は東南アジア地域に限っていましたが、 現在では、EU(欧州連合 27 カ国)が 2006 年 12 月、 加入の意志を表明していますので、52 カ国となり、 世界人口の 68 %が参加していることになります。 TAC の基本原則は、主権尊重、内政不干渉、紛争の 平和的解決、武力による威嚇および武力行使の放棄 を国家間の規範であると定めています。ASEAN が作 り出したアジアにおける平和の共同の試みが、今や 世界に広がる大きな流れに発展しているのです。東 アジアの平和を構築するうえで、今一番求められて いるのは、 日本共産党が提唱している「北東アジ ア平和協力構想」を実現することだと思われます。 この構想は、ASEANが実践している地域の平和 協力の枠組みを、北東アジアにも構築しようという ものです。 もちろん、北東アジアには、東南アジ アにはない複雑で困難な問題が存在しており、それ らの諸問題の解決のためには、独自の取り組みが求 められます。 それらも考慮に入れながら、日本共 産党は、「北東アジア平和協力構想」の目標と原則 として、次の四つを提案しています。 第一は、関係諸国を律する平和のルールとして、 武力の行使の放棄、紛争の平和的解決、内政不干渉、 信頼醸成のための効果的な対話と協力の促進などを 定める北東アジア規模の「友好協力条約」を締結す ることです。 第二は、北朝鮮問題について、「6カ国協議」の 2005年9月の共同声明に立ち返り、非核の朝鮮 半島をつくり、核・ミサイル・拉致・過去の清算な どの諸懸案の包括的解決をはかり、この枠組みを、 北東アジアの平和と安定の枠組みに発展させること です。 第三に、この地域に存在する領土に関する紛争問

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題の解決にあたっては、歴史的事実と国際法にもと づく冷静な外交的解決に徹することです。力による 現状変更、武力の行使および威嚇など、紛争をエス カレートさせる行動を厳に慎み、国際法にのっとり、 友好的な協議および交渉をつうじて紛争を解決する 行動規範を結ぶことをめざします。 第四に、北東アジアで友好と協力を発展させるう えで、日本が過去に行った侵略戦争と植民地支配の 反省は不可欠の土台となります。日本軍「慰安婦」 問題など未解決の問題をすみやかに解決するととも に、歴史を偽造する逆流の台頭を許さないことです。 (みわとしかず/所長・元北九州市立大学) 参考文献:「新しい東アジアの近現代史」(2012 年 日本評論社)、志位和夫講演「北東アジア平和協 力構想を語る」(ソウル高麗大学)

参照

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