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真宗研究48号 023学会彙報

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ム E A [ 果

ム 一 山 平成十四年度 ︿第一回﹀から︿第三回﹀に関しては、すでに﹃真宗研究﹂ 第四七輯において報告済み。 ︿ 第 四 国 ﹀ 平成十四︵二

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二︶年十二月三日︵火︶一七時より 場所一大谷大学博綜館五階第三会議室 議案一一、﹁真宗研究﹄第四十七輯編集の件 二、第五十回大会の件 三、研究発表・記念講演・聖跡巡拝の件 四、その他 ︿ 第 五 回 ﹀ 平成十四︵二

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一 二 ︶ 年 三 月 五 日 一 七 時 よ り 場所一大谷大学博綜館五階第三会議室 議案一一、第五十回大会の件 二、研究発表者選考の件 三、聖蹟巡拝の件 四、木辺御門主奨学賞選考の件 五、新入会員の件 六、その他 学会棄報 平成十五年度 ︿ 第 一 回 ﹀ 平成十五︵二

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二 己 年 五 月 六 日 ︵ 火 ︶ 場所一大谷大学博綜館五階第三会議室 議案一一、役員変更の件 二、第五十回大会の件 二二新入会員の件 四、その他 ︿ 第 二 回 ﹀ 平成十五︵二

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三︶年六月六日︵金二二時三

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分より 場所一大谷大学博綜館五階第二会議室 議案一一、役員変更の件 三、平成十四年度事業報告の件 三、平成十四年度収支決算の件 四、平成十五年度収支予算の件 五、木辺御門主奨学賞受賞者の選考結果と授与の件 六、大会運営の件 七、規約一部改正の件 八、次回大会の件 九、新入会員の件 十、その他 一 七 時 よ り 五 五

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学会葉報 ︿ 第 三 回 ﹀ 平成十五︵二

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三︶年七月十五日︵火︶一七時より 場所一大谷大学博綜館五階第三会議室 議案一一、第五十回大会の会計報告の件 二、﹁真宗研究﹄第四八輯編集の件 三、次回大会の件 四、木辺派門主奨学賞の会計の件 五、新入会員の件 六、その他

第五十回大会

平成十五︵二

OO

三︶年六月六日︵金︶・七日︵土︶の両 日、大谷大学を会場として、第五十回大会が開催された。内 容は左記の通りである。 ︽ 第 一 日 V 六 月 六 日 ︵ 金 ︶ 一、研究発表︵九二二

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一 二 一

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︶ 発 表 一 五 分 質 疑 五 分 ︽第一部会︾博綜館五階第四会議室 一 、 ﹁ 浄 土 論 託 ﹂ 同 土 紅 厳 に 関 す る 大 谷 派 冨 岡 量 秀 ﹂考察他者との関係性をめぐって 二 、 親 驚 に お り る 伝 と 疑 大 俗 大 学 高 木 淳 善 二 一 、 真 宗 相 承 に 見 る 五 念 門 の 意 義 龍 待 大 学 殿 内 恒 四 、 ﹁ 安 楽 集 作 の 二 一 身 説 に 関 す る 一 F J W 宋 龍 谷 大 学 長 谷 川 岳 史 |惰代諸師の三身解釈との比較を通して 五 六 五、無明についての蓮如上人の御教示 本願寺派 三門徒派 京都女子大学 六、自然法爾の世界を頂く 七、親鷺聖人の言語観 言語と文字 ︽第二部会︾博綜館五階第五会議室 一、﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂の成立過程 本願寺派 !︿異本﹀の存在証明とその意義

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二 、 タ ー ミ ナ ル ケ ア に つ い て 悌 光 寺 派 ー ビ ハ l ラ に 晶 子 ぶ 三、光明本と﹁尊号真像銘文﹄の関係について 例光寺派 木 辺 派 高 田 派 四、浄土三部経諸註釈の一考察 五、道徳教育と宗教 !浄土真宗の立場から| 六 、 真 宗 と 清 国 同 朋 大 学 尾 畑 ー真宗門徒にとっての靖国問題とは何か 七 、 新 出 の 親 驚 真 蹟 を め ぐ り て 大 谷 派 小 山 ︽特別部会﹁真宗と近代﹂︾博綜館五階第一会議室 一 、 近 代 の 真 宗 と 真 俗 二 諦 龍 谷 大 学 宇 治 二、目黒野元豊氏の親驚浄土教理解本願寺派牧野 滝沢克己氏との関連において 三 、 国 民 ﹁ 宗 教 ﹂ の 創 出 大 谷 派 戦時期・暁烏敏の教説をめぐって| 智 谷 公 和 西 教 恵 野 村 伸 夫 佐々木瑞雲 虞 沢 晃 隆 堤 八 藤 )J谷 正 康 信 史 超 道 文 正 正 X 平11 仁 貴 福 島 米 寿

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四 、 明 治 期 真 宗 高 田 派 と 発 献 上 人 高 田 派 五、伊藤証信の﹁無我愛﹂運動と真宗 同 朋 大 山 子 大谷大学 大 谷 派 常磐井慈裕 田 代 俊 孝 安 冨 信 哉 前田恵向子 六、清沢満之の公共思想 七、真宗と近代 二、評議員会・理事会ご二二二

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一 コ 二 二

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︶ 博綜館五階第二会議室 三、記念講演︵二二二二

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一 六 一

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︶ 講 常 講題﹁真宗連合学会の願いと歩み﹂ 講師龍谷大学名誉教授千葉乗隆氏 専修寺宝物館主幹平松令三氏 大 谷 大 学 名 誉 教 授 名 畑 崇 氏 ︵司会草野顕之大谷大学教授︶ 四、総会二六一一五

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一七一一五︶講堂 司 会 木 越 康 大 谷 大 学 助 教 授 勤 行 挨 拶 神 戸 和 麿 理 事 長 来 賓 祝 辞 真 宗 出 雲 路 派 事 摂 寺 門 主 藤 光 永 様 祝 辞 大 谷 大 学 学 長 小 川 一 一 来 氏 議 事 一 、 座 長 推 挙 出席会員の中から木村宣彰氏が推挙される。 二、役員の交代について 輿正派評議員佐々木安徳氏の退任にともない藤井浄 学 会 葉 報 行氏が新評議員に就任、理事大桑斉氏の退任にとも ない、評議員草野顕之氏が後任理事に、新評議員に 藤獄明信氏が就任したことを事務局より報告。 一 二 、 平 成 十 四 年 度 事 業 ・ 会 計 報 告 事務局より報告がなされ、いずれも承認された。な お会計収支決算については後記の通りである。 四、平成十五年度収支予算案提審議 事務局より提案がなされ示認された。なお予算につ い て は 後 記 の 通 り で あ る 。 五、規約一部改正案審議 ﹁金融機関等による顧客等の本人確認等に関する法 律﹂の施行に伴う﹁本人確認﹂の必要により、規約 に事務局の所在地を記載する改正案について提案が なされ、審議の後、承認された。ただし真宗連合学 会設立の趣旨に鑑み、さらなる検討を加える必要が ある、との意見も提出され、それについても今後引 き続き理事会において議論する旨、確認された。 六、平成十五年度木辺御門主奨学賞授与 第四十九回大会における発表者の中から、理事会の 推薦によって大谷大学の三木彰円氏に賞状と奨学金 が神戸理事長により伝達された。 七、聖蹟巡拝﹁宗祖帰洛後の史蹟を訪ねて﹂の案内 木場明志理事より翌七日の聖蹟巡拝の趣意について 案 内 さ れ た 。 八、次年度第五十一回大会について 五 七

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学 会 柔 報 次年度大会は平成十六年六月四日・五日に開催され ることが報告された。なお会場および詳細について は後日理事会で決定されることも併せて報告された。 五、記念撮影︵一七二一五︶正門前ピロティー 六 、 懇 親 会 二 八 一

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︶ 京都ガーデンパレス﹁葵の間﹂に会場を移し、来賓 各位をはじめ会員約一

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名の出席を得て懇親会が 開催された。真宗大谷派門首大谷暢顕様の御祝辞の 後、臼井元成参与に乾杯の発声をいただき、大谷大 学藤獄明信氏の司会進行により、参加諸氏のスピー チを交えてなごやかに歓談した。 ︻ 資 料 展 観 ︸ 大谷大学の協賛を得て、響流館において真宗連合学会結成 後の活動の中から編纂・刊行された多くの出版物の展観が開 催 さ れ た 。 ︽ 第 二 日 ︾ 六 月 七 日 ︵ 土 ︶ 聖蹟巡拝﹁宗祖帰洛後の史蹟を訪ねて﹂ 午前九時、東本願寺御影堂門前に集合。約三十名の参加 を得てパスで聖蹟巡拝に出発。現地解説を大待大学教師伐木 場 明 志 氏 が 行 っ た 。 九一一五真宗大谷派光固寺。本堂での説明、 徒 歩 で 移 動 。 浄 土 宗 大 泉 寺 。 本 堂 一 で の 説 明 、 ス で 移 動 。 見 学 の 後 、 九 一 五

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見学の後、パ 三五八 本願寺派角坊別院。勤行の後、 見 学 。 パ ス で 移 動 。 善法院社。見学の後、昼食休憩。 安養寺。本堂での説明、見学の後、 動 。 大 谷 祖 廟 ︵ 大 谷 派 ︶ 。 勤 行 の 後 、 説 明 、 パ ス で 移 動 。 大谷本廟︵本願寺派︶。茶毘所跡で勤行の後、 説 明 、 見 学 。 一 六 一

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京 都 駅 到 着 、 解 散 。 このたびの聖跡巡拝には、各寺院の皆様に格別のご配慮を 賜りました。ここに厚くお礼申し上げます。あわせてご参 加いただきました会員諸氏のおかげにて意義ある研修とな りましたことをお礼申し上げます。

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一 四

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本 堂 で の 説 明 、 一 一 一 四

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二 一 一 五

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徒歩で移 一 一 二 一 四

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見 学 。 一 四 一 四

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当日配付資料 ①光円寺︵真宗大谷派 七 ︶ 花園殿光円寺。西洞院通から松原通を東に入ってすぐの北 側に寺はあり、門前には﹁五条西洞院月輪本荘/親轡聖人御 入滅之地/花園殿旧跡﹂と刻まれた石碑が建っている。南面 の 本 堂 に 入 っ て 向 か っ て 左 の 余 聞 に 九 条 兼 実 ・ 組 制 驚 聖 人 ・ 石 一 日姫・平太郎の木像が安置されている。その他、光明本尊、 教如筆名号などの法宝物を所蔵するという。 寺伝によれば、この地は関白九条兼実の別邸があった場所 京都市下京医新町通松原商入薮下町

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であり、親鷺聖人が兼実の娘玉日姫と結婚してこの地に住ん だという︵いわゆる﹁玉口伝説﹂はぺ親驚聖人御因縁﹄に詳 しい︶。また、﹃親驚伝絵﹄熊野示現段にある、常陸国の平太 郎が熊野詣に際し親驚聖人を訪問したのもこの地であったと する。九条兼実関係の伝承、平太郎伝の史実性はともかくと しても、関東から帰洛した親驚聖人が居所を転々とする中で ︵ 史 料 H ・口︶、この地、﹁五条商洞院﹂に一時期住んだのは 間違いない︵史料 2 ︶。善驚がこの地にあった親鷺聖人を訪 問したという中世史料もある︵史料 3 ︶ 。 親 驚 聖 人 は そ の 後 、 ﹁ 押 小 路 南 、 万 里 小 路 ﹂ ︵ 史 料 2 ︶に移って没したとみるの が妥当であろう。ただし、戦国期には既に五条西洞院にて没 したとする伝承もある︵史料 4 ︶。親鷺聖人遷化の地につい て は 後 述 す る 。 光円寺はなかなか近世京都の地誌類にみつからず、今回調 べ た 限 り で は 、 ﹃ 一 一 十 四 輩 順 拝 図 会 ﹄ ︵ 一 八

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三、史料却︶ま でその初見は下る。大泉寺に伝わる伝承との関係性も含め、 親鷺伝承の出現と系譜については興味深く、後考を要する。 ⑧大泉寺︵浄土宗京都市下京区西洞院通万寿寺東入月見町 五 四 ︶ 花園御坊︵花降山︶大泉寺。現在の五条通から西洞院通を 北上して東側に寺がある。この寺も光円寺と同様、九条兼実 と親驚聖人・玉日姫伝説を持つ。﹃二十四輩順拝図会﹄︵一八

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コ 一 、 史 料 却 ︶ ﹁ 花 洛 羽 津 根 ﹄ ︵ 一 八 六 三 、 史 料 引 ︶ に ﹁ 大 泉 寺﹂は立項される。また﹃都名所図会拾遺﹄︵一七八七︶に は寺地が描かれ、詳細に説明されるという。光円寺とともに 学会嚢報 寺地の縮小が言い伝えられるが、 係牲については興味深い。 本堂上がって右手奥の座敷に一連の伝承関係の法宝物が安 置される。九条兼実・親鷺聖人・石一日姫・平太郎のほか、親 繁聖人没後は覚信尼がこの地をついだとの伝承もあるためで あろう、覚信尼の像も安置されている。 ⑧角坊別院︵浄土真宗本願寺派京都市右京区山ノ内御堂殿 町 二 五 ︶ 安政四年︵一八五七︶、西本願寺第二

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代広如上人時代の 建立。親鷺聖人六百回御遠忌こ八六二関連事業の一とし て広如上人の命を受けた僧純︵西派学僧︶が調査・研究して、 主同祖聖人皇都霊跡誌﹄︵※未活字史料︶を著し、この地を 善 法 院 跡 と 定 め た 。 西大路通から御池通を西へ進み西小路通を越えた北側に別 院はある。門前には明治期の石灯篭があり、門の脇に掛けら れた傘には親驚聖人九十歳の時の﹁御臨末の御室こが記され ている。門から入って正面が現在の本堂。左手に大きな親管 聖人の銅像が立ち、右手には旧本堂﹁還浄慮﹂がある。

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﹃ 御 臨 末 の 御 書 ﹄ 我が歳きはまりて、安養浄土に還浄すといふとも、 和歌の浦曲のかたを浪の、寄せかけ/\帰らんに同じ。 一入居て喜ばず二人と思ふべし、二人居て喜ばず三人 と 思 ふ べ し 、 そ の 一 人 は 親 驚 な り 。 我なくも法は尽くまじ和歌の浦 近世におけるこの二寺の関 五 九

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学 会 嚢 報 あをくさ人のあらんかぎりは 弘 長 二 歳 十 一 月 愚 禿 親 鷺 満 九 十 歳 ④善法院跡︵旧柳池中学校京都市中京区御池通柳馬場角︶ 善法院は親鷺聖人が弘長二年十一月二十八日、往生を遂げ た場所とされる。﹁親鷺伝絵﹄に﹁押小路南万里小路東﹂︵史 料 2 ︶とされるのがこの地であり、現在﹁見真大師遷化之旧 跡﹂︵裏﹁明治二十一年三月再建之/虎石町法泉寺﹂︶と刻 まれた石碑が、柳馬場通を北上した右手、廃校となり解体工 事が進んでいる旧柳池中学の敷地内、道路に面したところに 建っている。石碑からわかるようにこの地は従前、虎石町と 呼ばれ、法泉寺という真宗大谷派の寺院があった。近世地誌 からもそれは明らかである︵史料日− M ・ M −

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︶ 。 明 治 二 十一年に旧柳池小学校が建てられた際に法泉寺は移転、その 代わりに石碑が建立された。町名の由来となった﹁虎石﹂伝 説については後述する。 親驚遷化の地、善法院︵親鷺の弟尋有が住した比叡山東塔 に属する里坊︶の場所については議論があるが、史料自体は 少なくない。前掲﹁親鷺伝絵﹄の他、親鷺消息の顕智書写奥 書︵一二五八、史料 1 ︶ 、 ﹁ 存 覚 一 期 記 ﹄ ︵ 史 料 4 ︶といった 同時代あるいは中世史料に始まり、近世初期から京都地誌な どにも頻出する︵史料 9 −

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幻 ︶ 。 詳 細 な 検 討 は 省 く が 、 ﹁ 親 鴛 伝 絵 ﹂ ﹁ 押 小 路 南 、 万 里 小 路 東 ﹂ と 顕 智 章 一 日 写 奥 書 ﹁ 三 条トミノコウチ﹂から善法院跡はこの地である可能性が高い も の と 思 わ れ る 。 脅虎石について ノ 、

現在も大谷祖廟の上方に安置される﹁虎石﹂は、伝承 によれば、善法院に住した親鷺聖人が井戸を掘った際に 出てきた石の形が伏した虎に似ていたことからそう名づ けて愛でたという。その後、豊臣秀吉の懇望によって衆 楽第・伏見城に移され、江戸時代には当初深草の日蓮宗 宝塔寺にあったものが、縁あって祖廟に移されたという。 近世地誌における﹁虎石﹂伝承を追うと︵史料 7 ・ 9

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日 ・ 日 −

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︶、当初は日蓮伝承と入り交ざっ ており、その後、親驚伝承が展開する。おそらく支塔寺 から祖廟に移ったこととも関係があるものと思われる。 ⑤安養寺︵時宗京都市東山区円山町六二四︶ 慈円山安養寺。寺伝によれば開創は延暦年間︵七八二

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五︶で、桓武天皇の平安遷都に際し、都鎮めのために伝教 大師最澄が創建したと伝えられており、現在の円山公園東端 に位置し、長楽寺に北隣している。山号は﹁円山﹂、現在は 時宗の寺院である。寺門・本堂ともに両面しており、本尊の 二尺余の阿弥陀三尊立像は法然上人念持仏とされ、安阿弥 ︵ 快 慶 ︶ の 作 と も 伝 え ら れ て い る ︵ ﹃ 都 名 所 図 会 ﹄ ︶ 0 当初の伝教大師開基以降の経緯については詳らかではない が、建久年中に天台座主の慈鎮︵慈円︶が中興して隠棲、 ﹁土口水坊﹂﹁慈円大乗院安養寺﹂と称し青蓮院の末キとなっ た 。 専修念仏を弘通するために比叡山を下りた法然上人は、当 初西山広谷に住したが、後に東山古水に移り、この地に草庵 を結んだ。これがいわゆる﹁吉水草庵﹂﹁吉水禅坊﹂で、承

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元元年︵一二

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七︶の﹁承元の法難﹂︵当時、法然上人七五 歳、親驚聖人三五歳︶までの問、ここで専修念仏を説いた。 親鷺聖人も建仁三年ご二

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一 二 ︶ 、 二 十 九 歳 の 時 に 、 こ の 地 を訪れ法然上人の門下となっている︵﹃親鷺伝絵﹂上口水入室 段 ︶ 。 承元の法難に際し、この地も廃絶しかけたが、時宗の国阿 上人の弟子宮阿が住持するところとなり、その後も維持され てゆくことになった。これ以後、時宗︵霊山派︶の寺院とな る。その後、近世には豊臣秀吉から寺領八石三斗が寄せられ るなどしているが、明治に入ってからは衰退し、本坊一宇を 残 す の み と な っ て い る 。 近世京都の地誌である﹃落州府誌﹄二六八六︶には﹁旧 天台宗之寺也、慈鎮和尚暫住薦、山下有吉水、故称吉水和 尚﹂、また﹃二十四輩順拝図会﹄巻一︵一八

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一 二 ︶ に は ﹁ 法 然上人吉水の御房と申は今の知恩院の本堂也とかや、吉水と いへる名水は、円山安養寺の中壇、勢至堂の下に湧出る是也 といへり、去によって、此傍を吉水と名つけたるよしいひ伝 う﹂と伝わる。現在安置されている﹁親鷺聖人信決定御満足 尊像﹂は昭和に入ってからのものであるが、親驚伝承は意外 に 古 く 、 ﹁ 京 師 巡 覧 集 ﹄ ︵ 一 六 七

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、史料 8 ︶ ﹁ 京 羽 二 重 ﹄ ︵ 一 六八五、史料叩︶に興味深い記述がある。現在の安養寺の北 上に﹁法垂窟﹂︵蛍窟︶という岩窟があり、かつて法然上人 がここ吉水で法を垂れたという伝承があるが、前掲史料の記 述はあるいはこの岩窟を指すものなのかもしれない。 ⑥大谷祖廟︵東大谷京都市東山区円山町四七七︶ 学会葉報 真宗大谷派の親鷺聖人御廟所。一般に﹁東大谷﹂と称され ている。円山公開の南に擁する場に立地しており、本堂・書 院・札席・輪番所・参勤肴控所・鐘楼・納骨堂・府門・茶所 な ど が あ る 。 大谷祖廟の濫組閣は、慶長七年︵一六

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二︶、東本願寺第卜 二世の教如上人が、徳川家康から洛中東六条に寺地寄進をう け、東本願寺を創立し、その境内南悶に祖廟を設けたことに 始まる。その後、第十四世の琢如上人が寛文十年︵一六七

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︶に、かつての大谷廟堂のあった地に近い現在の地に祖廟 を移転し、その後、元禄十二︵一六九九︶

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十四年︵一七

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一︶にかけて墳墓の改葬・御堂の建立が行われ、御堂への遷 仏法要が元禄十六年に営まれた。﹃叢林集﹄︵一六九八︶には ﹁寛文十庚戊年、本願寺大僧正琢如上人、始めて此の地を占 めて、祖師の御尊骨を敬重し給ひけり、この地は鎮西の隠徒 袋中という僧の庵地たるを買得して、其余を買ひ加へ、まず 右の古庵を刷ひ、当年の夏本尊を移坐し給ふ、︵下略︶﹂と伝 わ る 。 それ以降、本山の掛所﹁大谷御坊﹂として女房講や大谷講 などの祖廟護持のための講組織も整備されていくこととなっ たが、元禄期頃には墳墓・収骨が増加したため、幕府に廟地 拡張の願い出を行っている。延享二年︵一七四五︶に幕府よ り一万歩の土地を寄附されることとなる。これについては ﹃大谷本願寺通紀﹂︵一七八五︶に﹁延享二年八月公府賜廟 地一万歩云、唯西南隅有石碑十数基、不刻法名等、蓋由廟地 狭 隆 也 ﹂ と あ る 。 ノ 、

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学会葉報 近世における東山大谷伝承は早くからあるが、大谷祖廟自 体については、虎石安置の場として簡単に記される﹃都花月 名所﹄︵一七九三、史料日︶、次いで﹁一一十四輩順拝図会﹄ ︵ 一 八

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コ一︶には﹁大谷根本の地、高祖聖人の御墓所也、山 の中壇に石碑を拝す古樹山腹に連って、在世の往古を観じ、 青苔岩壁に茂て、歴代の春秋を惟、寂静たる尊廟感に堪難く して、自落涙せしむ、則聖人御在世の御時、御寵愛あらせ給 ふ虎石を此石室に納め給ふ所なりとぞ﹂とある。﹁虎石﹂は 現在も祖廟の墓石の上に安置されている。 近代以降は明治五年に﹁大谷管剰﹂、同九年には﹁大谷別 院﹂となり、昭和二十七年に東本願寺飛地境内となって﹁大 谷本廟﹂、そして﹁大谷祖廟﹂となり現在に至る。 ⑦大谷本廟︵西大谷京都市東山区五条橋東六丁目五一四︶ 浄土真宗本願寺派の親鷺聖人御廟所。一般に﹁西大谷﹂と 称される。五条坂北側にあり、廟所・拝殿︵明著堂︶唐門・ 仏殿︵本堂︶鐘楼・鼓桜・聴聞所・対面所・御成殿・無量寿 殿・土蔵・諸講詰所などがある。 そもそも、親驚聖人の御廟は、聖人入滅の際、茶毘・葬送 が行われた鳥部野の付近にその起源をおいている。その聖人 の墳墓がのちに﹁大谷廟堂﹂となり、本願寺へと展開する。 ﹁親驚伝絵﹄洛陽遷化・本廟創立段︵史料 2 ︶から、聖人の 茶毘・葬送が行われた場所が東山、鳥部野の地であることが 分かるのであるが、その地に本願寺は近世にいたるまでなん らかのかたちで廟所を維持していたと考えられており、天正 十七年二五八九︶十二月一日には豊臣秀古から、﹁大谷道 ノ\ 場﹂の門前境内地の地子銭免除を受けている︵本願寺文書︶。 その後、本廟は慶長八年︵一六

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三︶十月に、徳川家康の 命によって、鳥部野延年寺山︵現在の東山五条坂︶に移転す る 。 ﹃ 紫 雲 殿 由 縁 起 ﹄ ︵ 一 六 三 八 ︶ に ﹁ 知 恩 院 増 地 再 建 一 一 ヨ リ テ、大谷地ニ在住ノ寺院、将軍家ヨリ替地ヲ給ヒ、他所ニ遷 転ス、本願寺祖廟ノ住ハ鳥部野ニ遷ル、其地尺寸ノ無差二十 丈四方相渡﹂、また﹃叢林集﹄︵一六九八︶に﹁東照権現、知 恩院御再興の時、近隣の寺々、敷地を代へ取らしむ、謂く、 太子堂は東六条へ引取り、常在光院は相国寺へ移しき﹂とあ るように、幕府による知恩院の寺地拡張の政策に伴って、現 在の地に移転したことがわかる。 慶長十一年︵一六

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六︶には、仏殿が建立され、移徒法要 が行われる。寛文元年︵一六六二、宗祖四百回忌法要に際 し西本願寺十三世の良如上人がこの地の南三一十歩の場所に本 堂を再建立し、輪番所の設置、門徒の墓を営むことを許可す るなど、本廟としての整備が始まっていった。着々と諸堂が 整備される中で、元禄十五年︵一七

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二︶には本堂に﹁龍谷 山﹂の額が掲げられた。享保期に入ってからは、本廟運常の 組織なども定められ、本廟護持の講中として﹁京惣講中﹂ ﹁ 大 谷 御 講 中 ﹂ ﹁ 大 坂 堺 摂 州 十 三 一 日 講 中 ﹂ な ど が あ っ た 。 幕末には慶応三一年ご八六七︶二一月、火災によって仏殿・玄 関・奥書院・輪番所などが焼失したが、明治四十三年︵一九 一

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︶ に 復 興 し て い る 。 女御茶毘所について 近 世 に 編 ま れ た 京 都 の 地 誌 で あ る ﹃ 山 州 名 跡 士 山 ﹄ ︵ 一

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七一五︶は、﹁親皆上人遺跡﹂として﹁山門︵※知恩院 山門︶ノ北ノ地也、上人ハ法然土人ノ高弟、浄土真宗ノ 開制ナリ。選化アツテ白川部山ニ火葬シ。塚ヲ其麓ニ築ク。 比 ︵ 後 文 永 年 中 ニ 此 地 ニ 移 ス 。 上 人 ノ 伝 来 日 数 日 間 ア リ 。 日 必 ヲ 参 考 ス ル 一 一 。 始 応 部 山 ノ 延 年 十 寸 ニ 火 葬 シ 骨 其 辺 ニ 蔵 ム 。 文永九年ノ冬古水ノ北ノ辺ニ遺骨ヲ移テ。仏間ヲ L10 影 像 ヲ 安 田 ス 一 五 々 。 主 ︵ 地 是 也 ﹂ と 記 し て お り 、 首 相 相 臨 尚 一 伝 絵 L に も 4 n h か れ て い た よ う に 、 ﹁ 応 部 山 ノ 延 年 七 寸 一 一 火 葬 ﹂ し た場所が茶毘所であったと考えられる。 史料編 ︵ 出 典 ・ : 集 成 川 五 六 山 川 史 料 集 成 ﹄ 、 新 修 u u ﹁ 新 修 京 都 叢 主 目 ﹄ 、 新 撰 U ﹁ 新 撰 京 都 叢 書 ﹄ ︶ 1.﹁親鴛消息﹂︵※﹁自然法爾章﹂︶高田顕智書写奥書正嘉 二年三一一五八︶集成一 正嘉二歳戊午十二月日、善法坊僧都御坊、三条トミノ コウチノ御坊ニテ、聖人ニアイマイラセテノキ、ヵキ、ソ ノトキ顕智コレヲカクナリ。 2.﹁親鷲伝絵﹂康永本永仁三年︵一二九五︶集成一 聖人故郷に帰て往時をおもふに、年々歳々夢のことし、 幻のことし、長安洛陽の柄も跡をと﹀むるに蝦とて、扶風 潟湖ところノ\に移住したまひき、五条西洞院わたり、一 の勝地也とて、しはらく居をしめたまふ。 聖人弘長二歳了戊仲冬下旬の候より、いささか不例 の気まします。白爾以来、口に世事をましへす、た﹀仏恩 のふかきことをのふ。声に余言をあらはさす、もはら称名 学 会 与 軍 用 報 たゆることなし。しかうして同第八日午時頭北面西右脇に 臥給て、つゐに念仏の息たえましましをはりぬ。子時類 齢九旬に満たまふ。出伴坊は U K 安 潟 矧 の 辺 押 小 路 出 力 中 小 型 な れハ、はるかに河東の路を摩て、油市陽東山の西麓、鳥部野 の南辺、延仁士寸に葬したてまつる。遺骨を拾て、同山麓、 応部野の北、大谷にこれをおさめたてまつりをはりぬ。 ︵ 中 略 ︶ 文永九年冬の比、東山西の麓、鳥部野の北、大谷の墳墓 をあらためて、同麓より猶商、士口水の北の辺に、遺骨を掘 渡して、仏閣を L 1 て 影 像 を 安 ず 。 3 .﹁最須敬重絵詞﹂文和一年︵一二五三集成一 聖人五条西洞院ノ禅一房ニワタラセ給シトキ、カノ大徳 ︵善驚︶マイリ給タリケルニ、常ノ御スマヰへ請シ申サレ、 冬ノ事ナレハ炉辺ニテ御対面アリ。 4 . ﹁ 存 覚 一 期 記 ﹄

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応安六年︵一三七三︶集成一 上人御舎弟尋有僧都者善法院坊主也。 5 .﹁反古裏書﹂永禄一二年ご五六九︶集成ニ 抑東国ヨリ御帰京ノ後ハ扶風潟均所々ニ居住シ在ストキ コエ侍レトモ、マツ五条西洞院ニ住セタマブ。コレ御入滅 ノ地ナリ。御遺骨ヲハ東山大谷ニ納メ奉ル。 6 .﹁洛陽名所集﹂巻四万治一年︵一六五八︶新修一一 大谷

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此所は。鳥漫山の南なり親鷺上入学問所也元より藤の名 所にて。虞架などし。花の頃遊士おほく。賞吟いとまそひ 侍りぬ。支那の剣渓常春の藤花代々の旬々にうつし。杜甫 ノ 、

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学会集報 が曲蔵。楽天が盤屈。とっくりし。みな蛇形にたとへ。紫 白のしな六\まじへたるも。まさるべき。色すくなしとこ そ見侍れ。誠にさあるかたの庭などに。ほのめけるはいと ひや﹀かに主しのばる、ものなれ﹂ 7 .﹁扶桑京華志﹂巻三寛文五年︵一六六五︶新修ニニ

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虎石在狼谷日蓮宗寺 8 .﹁京師巡覧集﹂巻五寛文一

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年 ご 六 七

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︶ 序 新 修 。大谷 鷺公コノ岩屋ニテ和ケル讃ヲ顕シソノ勤ブヵ、リケル 9 .﹁出来斎京土産﹂巻一・巻三延宝五年︵一六七七︶新 修 一 一 。虎石奮跡 押小路の南。寓里小路の束にあり。本願寺閉山親鷺聖人 住給ひこ﹀にて遷化あり。その庭のつき山の立石虎のうづ くまりたるかたちに似たる故に今も虎石町と名づく。中頃 衆楽の城に虎石を引とられ。宜︵後此城を伏見にうつし。虎 一 れ も 引 れ た り に 什 国 治 部 少 輔 反 逆 し て 。 城 は 破 れ 。 石 は 狼 谷 にありといふ 物 毎 に ま こ と を 忠 へ 虎 に 刊 の 石に矢の立つ霊もそゐる で き 掛 川 。大谷 烏部山の市にあり。そのかみ本願寺の開山親驚上人しば らく此所にこもり給ひて勤学し給ひけり。また聖人遷化あ りければ双林寺の束に蛍りて。延仁よすといふ所に葬送し遺 六 四 骨を大谷におさめ悌閣を立られたり。今は西本願寺の領地 として近頃締麗荘厳の堂を建られ。閉山聖人の墳所あり こ﹀は往嘗より藤の名所とて架ひろくわたし。花のころ は遊士おほく見にゆきつ﹀ O 詩歌の興をもよをし侍べり 春毎にみにく人や大谷の 松 の 梢 を こ ゆ る 藤 波 で き 驚 叩.﹃京羽二重﹄巻一貞享二年︵一六八五︶新修ニ 。虎石狼谷日蓮宗の寺ありいしにへ此いし柳馬場通押 小路下ル町に有しを太閤秀吉公伏見の城へ引とり給ひしと ぞ 。親鷺御学問所東山大谷岩窟の内なり H .﹁薙州府志﹂古苑貞享三年︵一六八六︶新修四 虎石始在柳馬場二条南、此石状似虎、伝言日蓮上人据 斯石唱法、故於今謂虎石町、斯石今在深草宝塔寺方丈庭 ロ.﹃名所都鳥﹄巻四元禄三年︵一六九

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︶ 新 修 五 。 虎 石 愛 宕 郡 はじめ柳馬場二篠の南に有。此石かたち虎に似たるゆへ 也。日蓮

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人此行にこしかけて c 法を説給ふ其所を虎石の 町といふ也。此石は今深草費熔寺方丈の庭に有。又

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虎 石 愛 宕 郡 狼谷。日連宗の寺にあり。いにしへ此じい柳馬場通り。押 小路下ル町に有しを。太閤秀吉公。伏見の城へ引取給ひし となん。狼谷は紀伊都也 o

n

.﹁山州名跡士山﹂巻十二正徳五件︵一七一五︶新修一五 。虎石在一方丈北面庭一石形似レ虎。此石初二向宗開祖。

(11)

制相繁上人終潟地。立︵所洛陽前向里小路通押小路市也。仇其 町虎石町名。 AJ 猶爾也。秀上口公伏見城構玉時此行城内移 未然彼地変改後一れ猶其地政移二佐田山一円七照寺 刊.﹁親鷺聖人正明伝﹂しリ r 保一八年二七一一一︶集成七 聖人跡ヲ認来モモノウシトテ、或時ハ二条目高小路ニマシ マシ、或時ハ一条柳原、 V 入ハ三条坊門京小路、河東岡崎、 アルイハ古水辺一一モカクレ、清水ナムドニモ凶タマヘリ 日 . ﹁ 山 城 名 跡 巡 行 士 山 ﹄ 巻 −

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円 年 ご じ バ 四 ︶ 新 修 三

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禅法院奮在一一三候坊門富小路丙一此地元右大将定方公第 抗 中 西 殿 其 孫 捨 レ 第 為 レ 寺 山 門 末 坊 弘 長 年 中 尋 有 僧 都誠一仰住レ此驚師又侍立一草忠一統一角此庭有 K 虎 石 鷺 師 於 一 此 地 一 遷 化 侍 一 五 押 小 路 市 高 問 主 小 路 市 沢 一 士 、 地 跡 不 レ 貞 中 古 有 一 古 松 − 皆 、 本 年 中 焼 し 又 有 一 古 井 一 柏 昨 t品 一 間 聖 人 山 町 I平 之 打 也 リ 人 俗 川 町 五 位 ヨ ー 水 今 建 二 此 地 二 子 − 競 二 法 泉 寺 子 ︹ ※ 延 生 水 誕 生 水 ︺

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益口法院主 HVA 作 レ 部 品 一 一 説 坊 門 宿 小 路 開 基 不 レ 詳 弘 長 之 比 盟 主 有 住 レ 此 弘 有 昌 絹 崩 円 上 人 弟 也 管 師 又 作 界 内 終 化 惇 け 押 小 路 南 苗 向 型 小 路 東 即 此 坊 傍 れ 虎 石 今 呼 五 一 虎 じ 刊 町 古 井 亦 存 H t け の 臼 跡 同 . ﹁ 京 町 鑑 ﹂ 縦 町 宝 暦 一 二 年 二 七 六 二 ︶ 新 修 三 企虎石町此町西側願行寺毎年冬至に天文のつをかうしゃ くしてみせる諸人上下着し見物東側に法泉寺とても何も東 門徒也 日.﹁大谷本願寺通紀﹂天明五年︵一七八五︶集成八 既 而 帰 京 、 寄 寓 諸 処 一 一 去 、 吉 水 ・ 同 崎 ・ 一 条 柳 川 出 ・ 一 J 末 坊 門 市 小 路 市 3 、嘗居五条西洞院案 u 疋 川 棲 地 日.﹁拾遺都名所図絵﹂巻一天明七什︵一七八七︶ 日 子 会 葉 報 新 修 七 法泉土寸万四十い小路押小路の南虎石町東側にあり東本願寺に 同す本尊阿か陀如来ハ怒党大師の作立像三尺計原ハ大台宗封境 庁一町にして店内法院角之幼と号し斜鰐塑人乃 A Z H 弟深有僧都の住 織し給ふ所之合兄 m T 人関東よりトし洛の渡時々此れ当与に来って 大乗い切れ乃法流を弘免給ふ満齢九卜才の時進化し給ふも此地な り放に型人宮跡

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一 段 と す 型 人 滅 後 九 / 宗 と な る 本 願 寺 山 間 記 に け 悌 定 ハ 長 山 k w w 矧 の 浸 押 小 路 の 南 万 四 十 ∼ 小 路 の い 栄 と 一 五 々 法泉井骨田守乃﹂駐中にあり往昔親鰐型人止住乃時此井を堀 しむ給ふ水底にじいありこれを引揚給ふ形虎乃臥に似たり故に聖 人銘して虎石となづく今東大谷祖刷乃卜にあり前編に委し町披 此れより起り守披此井より起る 刊日.﹁都花月名所﹄寛政五年︵一七九二二新修五

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虎 石 東 山 大 谷 廟 上 初は苛円里小路押小路の南。角之坊善法院にあり。日疋即親 驚聖人舎弟深有僧都の士寸也。今に虎石町とよぶ o

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.﹁二十四輩順拝図会﹄巻一一宇和三年︵一八

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一 二 ︶

d , 集 成 大 泉 寺 尚 一 削 院 万 寿 寺 通 月 一 見 町 角 に あ り 此寺今は浄土宗にして花降山と名づく往古九条関白兼真 公法然上人の御教化を尊び剃髪染衣して月輸の禅定円照と 法号し隠居し給ふ御別殿の旧跡なり、昔は花降の御所とい ひ又花園の御殿と名つけしとかや、其謂を問ふに親鷺聖人 月輪殿下の養君として此御殿に入せ給ひ、殿下と共に本願 念仏を勤行ましくけるに時として五色の花空にらんまんし 二 六 五

(12)

学会葉報 て降り下り世人これを見るもの多し、こぞって花降の御所 と称しけるとかや将又法然上人もたびく此殿に入せ給ける が、或時庭前なる泉水に渡したる石橋のト L に立せられおわ しけるに、御後に満月のごとき輪光あらはれたるを禅定殿 下目下にこれを拝し給ふ此いはれによって寺内の泉水を月 見の池橋を月見の橋と号し此町をも月見町と号るといへり、 又月見の松・珠数掛の梅・御腰かけ石といふあり、殿下の 姫君玉日君のいはれは委しく六角堂の下に記す 光 円 寺 東 派 松 原 通 西 洞 院 に あ り 此寺花園光円守と号しまさしく九条関白殿下の御別荘也、 建仁の頃親驚聖人此殿に御移住ましく又御年六十余歳関東 より御帰洛ののち居住し給ひける西洞院花園御坊と称せし 其旧地なる事明なり、御伝絵抄下の巻第五段に云、五条西 洞院わたり是一つの勝地なりとて、しばらく居をしめ給ふ とあれば則以て証とすべし、今の松原通といふはいにしへ の五条通也、常陸同平太郎熊野へ参詣の時事の由を尋参り ける御坊も此光円寺なるべきか 六 角 堂 一 民 法 t j と り す ︵ 略 ︶ 法泉寺東派柳作山山労組押小路卜る山四七町にあり 当寺は祖師聖人の御入寂の士門跡也、往山聖人の御舎弟尋 有僧都の御盟坊にして背は苔法院と称せしが聖人既に北陪 関東の化益過て六十歳の頃花洛に帰り給ひ五条西洞院花岡 の御坊又は渋谷の御寺岡崎の御坊杯所々に移住し給ひ又御 老年の後此御坊にも入せおわしまし益他力信心の正凶専念 ム ハ ム ハ 称名の正業を教化して化を十万に示し益を末代に施し給ひ けるか既に化縁の薪っきさせ給ひ頃は弘長二年中冬下旬第 八

H

午ノ時満九十歳にして念仏の御声絶て浄土に帰らせ給 ふの御旧跡也、寺内に古井ありこれ聖人朝夕遺せ給はん料 に涌出たる浄水なりしと誠に化益を蒙るの輩末代流れを汲 むの門葉悲涙投地して尊重すべきものなるかな此町を虎石 町と号るに謂あり、聖人在世の昔虎石といへる名石を庭の 築山に居て朝夕是を愛し給ふ事生るものを愛し給ふがごと し、然るに聖人既に御入滅ましノ\ける時此石あぶらのご とき汗を流し生るがごとく声を発して泣悲む御門葉の僧達 是を聞き奇異の思ひをなし、か﹀る非情の木石までも聖人 入寂の御別れを悲むらんといとま涙をしぼらせ給ふ、かく て年久しく此寺に伝来せしに太閤秀吉公其名石なるを聞召 深く懇望ありてこれを乞取伏見の城にうつして愛し給ふ、 後年伏見の城御取払ひの閥諸人皆目疋を知らずして其侭城跡 の山に残りありけるに、深草の宝塔寺といへる日蓮宗の僧 新月二十八日此傍を通りけるに叢の中に、此石声を出して 泣に似たり、此僧一不思議の事に岡山ひ、又形虎に似て名行な るを知り、我寺に持帰り、愛して弄びものとせり、然るに 此 僧 或 夜 の 夢 に 、 此 行 親 驚 聖 人 の 御 寺 へ 参 り た き 由 を 一 一 一 円 ふ と見て大きに篤き、我寺に留置しがたしとて直に東本願寺 へ献ぜられけり、今東大谷の御廟の内に納め置給ふ名石是 也とぞ、実に石は非情のものなりといへど、聖人幹哀の御 心に感じて悲喜の戸を発す、是又不思議の事といひつべき もの也、此謂あるによって虎石町と号るといふ、此寺往古

(13)

は説々たる霊場なりけれども中古兵乱の災にか﹀り廃退し て小坊と成れり 引.﹁花洛羽津根﹂文久三年ご八六三︶新撰ニ 巻 五

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東 大 谷 長 楽 寺 の 南 東六条本願寺祖師の御廟なり。本尊阿弥陀仏立像、御丈 二尺余、安阿弥作。此本尊を片山仏と称、ず。其ゆへは、東 武に片山何兵衛といふ士ありて、此人の持尊なりしか、あ る時彼片山氏をはじめ門乗の輩、霊夢を感す。此仏を京都 本願寺へ転すべしと。此夢しばく感するま﹀其旨趣を一紙 に書し、本尊に添て寄附すとなり。聖人の御廟の後の山腹 にあり、墳上に虎石あり。此石はじめ聖人往生の地、柳馬 場押小路虎石町にありしを、太閤秀吉公伏見の城中に﹀つつ したまへり。其後、かの地より又こ﹀にうつされしと也。 巻 六

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大 泉 寺 万 寿 寺 西 洞 院 角 宗旨浄土、知恩院に属す。本尊阿弥陀如来立像三尺五寸、 恵心の舎弟寛印供奉の作、開基詳ならず。中興賢公上人、 寛永七年二月十四日の夜、本尊生極楽の要旨を霊告ありて、 其暁天に霊香薫し、天華降けり。是より右の尊像を花降の 如来と称し、号を花降山とよふ。又、如来の右の御袖脱せ られ、衆生引接の相を顕そぬれは、片袖女来とも称し奉る。 又、親鷺上人花園の旧地にして、もと九条殿下兼実公の別 館なり。花園亭と号す。聖人六十二歳の時、東国より上洛 ありて、此処に居住したまひしょし、伝記に見たり。 学会業報 。 法 泉 寺 柳 馬 場 押 小 帥 聞 の 尚 宗旨浄土真宗、東六条本願寺に属す。本尊阿弥陀仏、怒 覚大師の作。当寺もと善法印角之坊とりし、宗祖親驚の真 弟源有僧都の住給ひし処なり。親驚聖人関東より上洛の後、 折々此寺に来りて宗風の弘通し給ひ、すでに満九十才にて 遷化したまひしも此地なり。当寺庭に法泉の井いふ名井あ り。往昔聖人止住の時、此井を掘しむるに水底より小石を 掘出す。立︵ため虎の伏したるがごとし。故に虎石となづけ 給ふ。今東大谷祖廟の上にあり。大谷の処委しく記す。此 石によりて町名を虎石町といふ。寺号は此井により号す処 な り 。 巻 八 虎石深草定塔寺方丈の庭にあり。其かたち虎ににたり。 此 石 始 親 驚 上 人 終 吾 川 の 地 に あ り 。 其 所 京 万 里 小 路 の 南 也 。 其町虎石町と云。今猶あり。秀吉公伏見城をかまへ玉ふ時、 此石を城内に移さる。然して彼地変改の後、石なを其地に 有しを、今は東山大谷御廟にあり。

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.﹁京都坊目誌﹂大正五年︵一九二ハ︶新修一九・ニ O 下京区第十八学区之部 。光円寺薮下町北側七番地にあり。寺門南面す。真宗大 谷派本願寺に属す。天文二十一年八月僧貞尚開基す。其地 を詳にせす。後此時に移り。天明八年元治元年に回の類焼 に値ひ。近世再建す。境内面積百七坪五合民有一種を有す。

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大泉寺月見町北側西の角五十四番地にあり。寺門南面 す。浄土宗鎮西派知恩院に属せり。本堂南面本尊阿弥陀仏 六 七

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学会葉報 像を安置す。浄土寺鑑に印供奉の作とすいかんや文禄四年八月僧 賢公九篠兼実か花園の地たるを知り之に創建す天明元治及 明治七年五月十日等の火災に躍り。近時本堂以下を再建す。 月見ノ池と称するもの庭中にあり後人の穿つ所なり。境内 面積三百十三坪一勺。官有四種及若干の附属民有墓地を有 す 。 上京第二五学区之部 企虎石町柳馬場通押小路より御池までを云ふ。東側南半面 は 東 八 幡 町 な り 開 通 上 に 同 し 。 此 町 東 は 橘 町 。 守 山 町 。 西 は 竹 屋 町 。 扇 屋 町 。 御 所 八 幡 町 。 南 は 隔 道 し て 柳 八 幡 町 。 北 は 同 。 等 持 寺 町 に 対 す 町名起原虎石と呼称する奇石此地にあり故に名とす。 但伝に云ふ此石のある所。僧親驚終鷲の地なりと。石は今 大谷の廟所にありと云ふ。二説に僧日蓮此地に来り法を唱 ふと。石は今賓塔寺に移すと。現在の石は後世法泉寺の裡 に類似のものを立てたるに過ぎずと。何れが是なるを知ら ず。旧時東側に河越藩の邸あり。維新の際民有となり。明 治六年小学校の敷地となる。今東八幡町に号す 和漢合運指掌図云。宝永六年五月二十八日。洛東。東本 願寺親驚聖人之廟所。白ニ洛南深草宝塔寺一。引ニ送虎石一。 此石聖人之在世押小路万里小路禅坊庭前有石也。仇其所子レ 今 号 一 虎 石 町 一 。 石 形 似 二 虎 跨 裾 一 一 去 々 京 都 霊 跡 志 五 。 其 大 さ 幅 一 代 。 H H し ハ 尺 余 の 大 れ と あ り 。 編者云。親鷺は弘長二年十一月二十八日示寂す。絵詞伝 ニ長安鴻矧の辺押小路の南万里小路の東。善法院にしてと あり。安政四年本派本願寺広如・旧地を探求し。坊舎を建 L

一 , , , F F Jノ っ。今葛野郡西院村字山ノ内小字御堂因。角之坊是也。虎 石町を以て終鷲の地とするは非也。 寺院

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法泉寺虎石町東側二十二番戸にあり。真宗大谷派本 願寺に属す。元和元年八月。僧祐索開基す。地は宗祖親驚 の終鷲の所。善法院の牡と云ふ。今採らず寺は宝永。天 明。元治の火災に擢り。近年新築せり。寺域面積百七十四 坪 あ り 。 文責一安藤・川端︶

(15)

平成十四年度会計報告

収入の部 学会費 真宗教団連合助成金 雑収入 前年度繰越金 収入合計 支出の部 第四十九回大会充当金 学会誌第四十七輯刊行費 会議費 事務費 交通費 人件費 雑費 次年度繰越金 支出合計

平成十五年度予算

収入の部 学会費 真宗教団連合助成金 会 計 報 告 一 、 四 三 二 、 一 、

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、 二 三

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、 八 六 二 、 三 、 五 二 五 、

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円 二三二円 八

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五円

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三七円 八 九 五 、

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七八円 一、三五一、七七

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円 九二、七一五円 一四五、二二九円 一 四

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円 一 六

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円 三

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円 七 一

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、 三 三 一 五 円 三 、 五 二 五 、

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一 二 七 円 一 、 四

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円 一 、

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円 雑収入 前年度繰越金 収入合計 支出の部 第五卜同大会充当金 学会誌第四十八輯刊行費 会議費 事務費 交通費 人件費 雑費 予備費 支出合計 三

OO

七 一

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、 三 、 四 一

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円 三三五円 三三五円 一 、

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円 一 、 六

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円 一 五

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円 一 五

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円 二

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円 二 五

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円 三

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円 三

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、 二 一 三 五 円 二 一 、 四 一

O

、三三五円

第五十回大会収支決算

収入の部 懇 親 会 費 四 一 一 、

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円 聖 跡 巡 拝 費 一 五 九 、

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円 記 念 写 真 代 三 七 、

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円 大 会 充 当 金 八 三 二 、 二 ニ 九 円 賛 助 金 ︵ * ︶ 一 二

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円 大 谷 大 学 助 成 金 四 二

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円 収 入 合 計 一 、 九 七 九 、 二 二 九 円 牢本願寺派門主・新門様、大谷派門首様、臼井元成参与 ト 4 m Nリ 六 九

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会計報告 支出の部 記念講演謝礼 懇親会費 聖跡巡拝費 昼食代 記念写真代 印刷費 通信費 事務費 雑 費 支出合計 三 六

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円 五 四 一 、 四 三

O

円 二 六 二 、 六 五

O

円 一 一 五 、 五

OO

円 七二、七六五円 一 七 五 、 一 四

O

O

O

円 二

O

六、二二二円 六回、三六三円 一 、 九 七 九 、 二 二 九 円 七

(17)

簿

参 顧 与 問 真宗十派法主︵尊名省略︶ 本 願 寺 派 総 長 大 谷 派 宗 務 総 長 高 田 派 H H 仰光寺派 N 興 正 派 n w 木 辺 派 宗 務 長 出 雲 路 派 庁 誠 照 土 守 派 万 三門徒派 n H 山 元 派 N H 龍 谷 大 学 長 大 谷 大 学 長 同 朋 大 学 長 京都女子学園長 武蔵野女子学院長 高 田 学 苑 長 元 理 事 長 1/ II II II 不二川 熊 谷 生 柳 大 谷 大 路 吉 川 菅 原 波多野 阪 本 仰 木 神子上 沼 波 高 谷 演 島 田 中 千 葉 北 西 平 松 幡 谷 信 楽 恵 唯 義 光 宗 公 乗 和 義 辰 政 一 恵 道 龍 淳 メ色、 寸3 峻 II 北 池 寺 川 浅 岡 小 普 臼 浅 / / II / / 麿 明 三 弘 隆 麿 博 生 保 乗 群 宗 温 護 弘 教 彦 博 毒 恵 勝 II 理 フE 事 II II II 理事長 理 事 赤松徹真・矢田了章・浅田正博・武田龍精︵本願寺派︶ 神戸和麿・木場明志・草野顕之・安富信哉︵大谷派︶ 稲垣不二麿・栗原広海︵高田派︶ 田代俊孝︵同朋大学︶ 徳永道雄︵京都女子大学︶ 評議員 赤松徹真・矢田了章・浅田正博・武田龍精・太田利生・ 龍口明生︵本願寺派︶ 神戸和麿・木場明志・草野顕之・安冨信哉・延塚知道・ 藤獄明信︵大谷派︶ 稲垣不二麿・栗原広海・松山智道・梅林久高︵高田派︶ 田代俊孝・康瀬健︵同朋大学︶ 徳永道雄・佐々木恵精︵京都女子大学︶ 神戸和麿 七 野 賢 井 野 典 勇 俊 和 成 亮 蓮 晃 元 教 生 諦 Bl]敬 海 明 寿 成 伝 畠 田 川 瀬 井

(18)

役員名簿 山 崎 龍 明 ︵ 武 蔵 野 大 学 ︶ 徳 永 大 信 ︵ 九 州 龍 谷 短 大 ︶ 梨本哲哉・佐々木英彰︵悌光寺派︶ 藤 井 浄 行 ︵ 興 正 派 ︶ 福 永 恵 順 ︵ 木 辺 派 ︶ 北 野 龍 雄 ︵ 誠 照 寺 派 ︶ 菅原弘︵出雲路派︶ 悌 木 道 宗 ︵ 山 元 派 ︶

(19)

真宗連合学会第

50

国大会

2003

(平成

15

)年

6

6

日∼

7

日 於大谷大学

(20)

研究発表者募集のお知らせ

真宗連合学会第51回大会は、左記のとおり開催される予定です。大会 での研究発表を希望される方は、左記の要領によりお申し込み下さい。 尚、発表の可否については、理事会にご一任下さい。後日お知らせい たします。

研究発表申し込み要領

マ発表題目に発表要旨( 1,000字以内)を添えて、 2004年2

21日(必 着)までにお申し込み下さい。なおその際に、お名前(よみ)・所属 (派・大学等)・これまでの連合学会大会における発表の有無も併せて お知らせください。 マ 申 し 込 み 先 千 6038143 京都市北区小山上総町 大 谷 大 学 内 真 宗 連 合 学 会 事 務 局

5

1

回大会開催予告

時: 2004年6

4日(金)・ 5日(土) 場:真宗高田派本山専修寺(三重県津市一身田町) 程:第1日 研 究 発 表 高田山参拝 第

2

日 聖 跡 巡 拝 尚、詳細につきましては改めてご案内いたします。 日 会 日 七 四

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情報理工学研究科 情報・通信工学専攻. 2012/7/12

【 大学共 同研究 】 【個人特 別研究 】 【受託 研究】 【学 外共同 研究】 【寄 付研究 】.

社会学文献講読・文献研究(英) A・B 社会心理学文献講義/研究(英) A・B 文化人類学・民俗学文献講義/研究(英)

社会学研究科は、社会学および社会心理学の先端的研究を推進するとともに、博士課