* 東京学芸大学(184‑8501 小金井市貫井北町 4‑1‑1)
音楽の批判的理論(2)
森 田 数 実 社会学
*(2008 年 9 月 1 日受理)
I.シェーンベルク論とアレゴリー論
本稿および次稿で,筆者は,アドルノの『新音楽の哲 学』1の構造・内容について,筆者に可能な限りで理解す るよう,試みてみたい。筆者は前稿で,アドルノの音楽 理論を,物象化論と言語論を定位点として考察する視点 を示し,そして彼の現代音楽の批判のうち,文化産業論 の構造・内容について検討を加えた。本稿では,文化産 業論と対をなす彼の分析,すなわちアドルノが,作曲す ること自体のなかへの物象化の影響と言い表わす事態に ついての彼の分析の半分をなす,彼のシェーンベルク論 が考察の対象となる。その際,筆者の見るところ,アド ルノのこれらの研究にとって,少なくとも一つの模範と なっているのは,ベンヤミンのアレゴリー論,そのなか でもとりわけボードレール論であり,したがってここで の考察は,ベンヤミンの理論を念頭に置きつつ,新音楽 の「音楽的言語」に対するアドルノの「言語哲学的」分 析の内容を明らかにすることであらざるを得ない。まず,
メニングハウスに従って,ベンヤミンのボードレール論 の概略を確認しておきたい。2
メニングハウスは,『ドイツ悲劇の根源』でのベンヤミ ンのバロック悲劇の分析を,超越的「恩寵」から切り離 された「被造物」としての近代の人間が,事物と人間に 対する「能産的関係」の「無価値化」に対するひとつの 反動形成として,「バロック・メランコリー」という「悲 しみ」の特殊な形式を形成し,そして「あらゆる種類の 変容」,「恣意」という形態での「抽象」と「主観性」を 本領とするアレゴリー的言語形式が,「無価値化」と「救 い」の弁証法 − 「アレゴリー的なもののアンチノミー」‑
を担う表現・媒質であることを解明するものであること を示した。メニングハウスによると,『ボードレールにお
けるアレゴリー的形式の解釈』は,19世紀のパリという 都市を母胎とするボードレールの詩を,このアレゴリー 的言語形式の理論を基礎として解釈する試みである。未 完に終わったこのボードレール論を,メニングハウスは おおよそ次のように再構成している。
メニングハウスによると,ベンヤミンは,『ボードレー ルにおけるアレゴリー的形式の解釈』の第一部,「問題」
としてのアレゴリーでは問題の提起を行い,第二部では 問題の吟味のための資料を提出し,そして第三部では問 題の「解決」を提出する,という構想を持っていた。 3彼 によると,このプロジェクトの第一部は,ボードレール のアレゴリー的表現法の事実性と美的特殊性を,さらに 続く解釈の「問題」として際立たせるべきものだった。
彼によると,例えば死,想起,時,後悔,害悪といった言 葉のアレゴリー的誇張は,その意味作用の重力によって,
詩的につくられた『像』の繊細な仮象のなかに,ひとつ の抽象の裂け目を入れる。この「仮象と意味とのアンチ ノミー」という,ボードレールの作品のなかの「根本的 逆説性」,ボードレールが主として,あらゆる種類のにお いと陶酔状態に対する彼の感受性と想起の能力とによっ て解明したような「万物照応の理論」と,アレゴリー的 抽象のなかに存在するような,この準-模倣的な『呼応』
の拒否[との間の矛盾]−それは「理想」と「憂鬱」と の対比に呼応する− をベンヤミンは,解釈を深める問題 として説明しようとした,とメニングハウスは言う。
第二部は,ボードレールの「アレゴリー的天才」の解 読および社会理論的基礎づけを企てる。メニングハウ スによると,この企ては,大都市,その要素としての群 集,労働と無為における『モデルネの』(時間-)経験の 構造(後者は遊歩者と賭博者のひとつの類型学に即して 叙述される)というモティーフの展開によって追究され
る。メランコリー的であると同時に快楽に満ちた「ショッ クの形象」が,大都市の経験の隠れた形象のパラダイム であり,そしてそれは,ショック-体験の消化形式として の意識的「追想」と,時間を満たすような「経験」のモ デルとしての無意識的「想起」という「記憶の構造」の 対極化に導く。メニングハウスによると,コンティンジェ ントなショックの連続への時間の分裂は,その時どきの
『内容』に対する無関心として時間経験の質の除去と密 接に関連し,そのことが市民的な無為を具現する三つの 類型−遊歩者,賭博者,研究者−と,自動機械を扱う労 働者に通有の時間-体験をなす。
このようにボードレールの作品のなかの「具体的な逆 説性」が,経験と(ショック-)体験,記憶と追想,満 たされた時間と抽象的な時間−時間知覚の抽象性が,憂 鬱といわれるものの基礎であり,倦怠とは,空虚に過ぎ 去る時間への倦怠にほかならない−という両極に集め られた後,それらは理想と憂鬱という概念のもとにまと まられる。ここでメニングハウスが指摘するのは,論文
「ボードレールにおける幾つかのモティーフについて」で は,理想の症候学は,アウラ的な万物照応という芸術哲 学的概念−香り,色,音が互いに答え合うことが,万物 照応のモデルである−に移行させられる一方,憂鬱のコ ンプレックスには,美的形式概念へのそうした分類が完 全に欠落しているということである。彼の考えでは,い うまでもなくこの芸術哲学的空位を埋めるのは,アレゴ リー的形式の理論であり,そしてそこへの移行にとっ て媒介項となるのは,ボードレールの「メランコリー的 天才」の規定である。「アレゴリー的志向の威厳。有機 的なもの,生あるものの破壊−仮象[偽りの輝き]の消 去。…仮象の欠如とアウラの凋落とは同一の現象であ る。ボードレールはアレゴリー的技法をそのために用い る。」4
そしてメニングハウスは,このプロジェクトの未完成 に終わった第三部は,外見上はまったく乖離したモティー フ研究と「ばらばらの形式分析とが…統一的連関を(形 成する)」はずだったのであり,この構成の収斂点は,
『悪の華』の内容の予定された叙述形式として,アレゴ リーを指示しているとする。そして今回は,先行する部 の『核心』は,再びひとつの「自立的なモティーフ圏」
に即して,すなわち売春婦の形象に即して叙述されるは ずだった,と続ける。「魂の抜けた,しかし依然として快 楽に奉仕する肉体において,アレゴリーと商品が結婚す る。」5メニングハウスによると,ベンヤミンのボードレー ル-書は,売春婦における快楽,商品形式,憂鬱,そし てアレゴリーの模範的な『結婚』を,その対象へのミ メーシスのなかで,明らかに「叙述」と「構成」によっ
て捉えようとした。以上,メニングハウスによって,ベ ンヤミンのボードレール論を一瞥した。
筆者は,アドルノのシェーンベルク論は,このベンヤ ミンによる,ボードレールにおけるアレゴリー的形式の 分析・解釈を,音楽的言語の領域へと適用し,独自に 展開しようとする試み,という視点から捉えることがで きるのではないかと思う。以下ではアドルノのテクスト を次の手順でまとめることにより,この問題を考えてみ たい。まず,アドルノが「新音楽」の概念のもとに何を 理解していたのかを確認した後(第二節),アドルノの シェーンベルク論を,(1)「作品」の崩壊と表現主義へ の移行−ここからはアレゴリー論の構造を読み取ること ができる−,そして(2)十二音技法をめぐって,さらに
(3)技術的な芸術作品の失敗−アドルノはそれを,作 曲のすべての次元で示す−,そして最後に(4)新音楽
[シェーンベルク楽派]に対するアドルノの総体的評価,
の順で記述したい。(第三節)以下でめざされるのは,
アレゴリー論の意味と意義とを念頭において,一人の音 楽の門外漢に可能な限りで,アドルノのシェーンベルク 解釈に内在する構造・内容を明らかにすることである。
II.アドルノによる「新音楽」の一般的特徴づけ
すでに述べたように,アドルノの現代音楽批判は,一 方の,音楽的現象自体が商業化された大量生産に組 み入れられることによって被る内的変化の立証と,規 格化された社会のなかでのある種の人間学的な変転
[Verschiebung]が音楽を聞く力の構造のなかにまで達し ていることを示すことをめざす文化産業論と,他方の,
作曲すること自体のなかへの物象化の影響を解明する,
いわゆるクラシック音楽の根底的変化の理解とからなる と考えられる。アドルノは『新音楽の哲学』の序論で,
この後者の問題を,啓蒙の過程という視点から捉え,そ のなかで生じる自律的な音楽という仮象の解体を自らに 引き受ける両極端として,シェーンベルクとストラヴィ ンスキーを位置づける見方を呈示する。
すなわち,アドルノは,音楽の進歩−素材支配の進展
−が物象化と同じ本質をつくり出すとし,音楽が他律的 な現実の真っ直中で巻き込まれる客観的アンチノミーを 認識することを,自己の課題として設定する。アドルノ は,文化産業論を踏まえ,大衆文化の含む大勢順応主 義の下でのラジカルな音楽の孤立化に言及し,また聴衆 の「人間学的」変化は,市民時代の初期から沈殿してき たような良い音楽,悪い音楽に対する基準を崩壊させた ことを確認する。6それによって音楽は,まがいものとア ヴァンギャルドへと分裂するが,その際,新音楽に対す
る主知主義との非難をめぐって,アドルノは,それを進 歩の影という視点から理解する見解を示す。
アドルノによると,先の非難では最近350年の調性の 語法[Idiom]は,あたかも自然であるかのように論証が なされるが,しかし調性という第二の自然は,歴史的に 生まれた仮象7 であり,新音楽は,例えば色彩豊かな快 い響きという点でも,感覚的に想像されたものではない とは言えないし,また音楽的思想の客観的結果は昔から,
主観的な作曲の意識による醒めた統御[Kontrolle]を要 求した。それにも拘わらず,主知主義との非難がなされ るのは,そこには事柄自体の否定性,すなわち音楽自体 が関与し,音楽自身の進歩はそれと一致する,あの啓蒙 の過程によって音楽自体が動揺させられているという事 態が示されている。受け取った素材や形式の直接的なそ れ自体の確かさが,芸術から消え失せてしまったとき,
芸術は,不可解なもの,すなわち挿話として完成した啓 蒙を中断するのではなく,啓蒙の最新段階に暗影を投げ,
ただしその現実の[暴]力によって像に描かれることを ほとんど排除する,そういう不可解なものを手に入れる。
このようにアドルノは,文化産業と対立し,全面的啓蒙 に対して,意識的に自分自身の暗黒を認めさせることで,
明るくすること[解明]に助力する,そういうものとし てラジカルな音楽を位置づける。
しかし同時に彼は,少数の非妥協的な作品の,致命的 とも言える問題に言及する。アドルノによると,あらか じめ与えられたものの崩壊は,素材と技術のすべてを意 のままにするという可能性には終わらず,芸術家は,疎 遠な,自分が製作する形成物からの厳しい要求として彼 に対立する,自分自身の志向の単なる実行者となる。す なわち,彼によると,あらかじめ与えられたものの除去,
音楽をいわば絶対的なモナドへと還元することは,音楽 を硬直させ,その最も内奥の内容を冒す。アドルノは,
表現と形式との関係の視点から,新音楽のアンチノミー を次のように言い表わしている。「…そのものとしての形 式は,自我−形式は自我の観点に立って企てられる−を 必然的に超えるが,しかし他方で再び,音楽−音楽は自 我の観点に立って生まれ,そしてこの観点を表現する−
は,肯定的[positiv実在的]にはこの観点を超えること ができない,ということである。」8 アドルノは,このアン チノミーが,新音楽の諸力を消耗させるのであり,新音 楽の硬直は,形成物が自己の絶望的な虚偽[非真理]に 対して抱く不安であると言っている。後に具体的に見て いくように,アドルノは,音楽の表現を担う要素の素材
[Material]への変化は今日,表現の可能性自体に疑問を 投げかけるほどラジカルなものとなったというところに,
新音楽の硬直のひとつの根本的な原因を見ている。9
さて,アドルノが『新音楽の哲学』で論じるのは,彼 の考えでは新音楽の両極端を示す,シェーンベルクとス トラヴィンスキーの音楽だが,その理由を彼は,この両 者だけが,妥協のない首尾一貫性に基づき,彼らの作 品に内在する衝動を,それらが事柄自体の理念として 解読可能となるところまで追い立てたからであるとして いる。10 以下で検討の対象となるのはシェーンベルクの 音楽であるが,アドルノが新音楽の考察にストラヴィン スキーを加えた理由について,一言だけ言及しておきた い。アドルノによると,ストラヴィンスキーのやり方が 彼に解釈を迫ってきたのは,次のような安易な逃げ道を 遮断するためである。すなわち,もしも音楽の首尾一貫 した進歩がアンチノミーへと導くのなら,過ぎ去ったこ との復活,[いわば]音楽的理性[ratio]の自己を意識 した[自己]撤回に何かが期待される,とする逃げ道で ある。11アドルノによると,進歩に対するどんな批判も 正当でないが,しかしストラヴィンスキーの作品が損な われた主体の問いを投げかけるとき,そこにもひとつの 弁証法的モティーフが作用している,したがってそれは 解釈を必要とする対象をなすのである。12
最後に,アドルノはこの研究の方法について,それは 一般的概念の力を具体的な対象の自己展開のなかに変換 し,その対象の社会的な判じ絵[Rätselbild]をその対象 自身の個体化の諸力で解くというものである,と言って いる。その際にめざされるのは,社会的正当化ではなく,
対象の核心にある美的正当さと不当さの説明に基づく社 会理論である。アドルノの音楽論は,彼の否定の弁証法 のひとつの具体的な適用例としても重要である。
III.アドルノのシェーンベルク論
アドルノのシェーンベルク論は,後期ロマン派の時期 を飛ばしていきなり表現主義の時期のシェーンベルク解 釈から始まる。それは新音楽というひとつの運動の客観 的な意味に焦点を合わせた彼の視点によるが,われわれ は 4 節からなるアドルノの考察の最初の節に,[音楽的]
言語の変化,仮象と意味のアンチノミー,そして基礎と なっている社会的・心的経験,さらにその経験の表現・
媒質としての[アレゴリー的言語・音楽]形式といった,
アレゴリー論の諸要素を見いだすことができる。アドル ノの言うところをまとめると,次のようになろう。
(1)「作品」の動揺と表現主義への移行。 アドルノは 冒頭に,最近の30年間に音楽に生じた変化をこう表現し ている。「音楽はそれ自身の事柄に即した結果の強制の 下で,完全な作品の理念を批判的に解体し,集合的な作 用連関を断ち切った。」13 アドルノによると,今日,卓越
した重要な作品は,もはや作品でない作品である。アド ルノはこのことに,初期の楽派の証,すなわち表現主義 的なシェーンベルクの『期待』および『幸福の手』と,
ベルクの『ヴォツェック』との関係から言及する。アド ルノによると,前二者の無媒介的な描写[unvermittelte
Aufzeichnung]は14 ,後者の新しい情動の像へと媒介さ
れる[vermittelt調停される]。形式の確かさは,ショック の吸収のための媒体[媒質]であることが明らかとなり,
不正の機構のなかでの無力な兵士の苦しみは,様式へと 和らぐ。「苦しみは回避され,宥められる。突然に生ま れる不安は,オペラに適した[musikdrama-fähig]ものと なり,そして不安を反映する音楽は,変容[Verklärung]
の図式に帰路を見つける。」15アドルノは,『ヴォツェック』
はひとつの傑作,伝統的な芸術のひとつの作品であると 言う。しかしそれにも拘わらず『ヴォツェック』は,そ れが出発点での立場を展開する,まさにその瞬間に,自 分自身の出発点での立場を撤回する。「作品の音楽的原 子のなかに生きている作品の衝動は,それらから外れる 作品に反逆する。それらは,結果を許容しない。」16 アド ルノによると,単に外部の威嚇的な社会状態だけでなく,
手段の歴史的傾向自体が,永続的な芸術的財産という夢 をかき乱す。すなわち,彼はまず,手段,あるいは素材 の傾向自体が,自己の内で安らう形成物というものへの 疑いを挟む,と言うのである。ではアドルノは,この音 楽の素材ということで何を理解しているのか,さらに,
いわゆる調性の崩壊がシェーンベルクのもとでとった形 態をどのように把握しているのか,彼の言うところを検 討してみよう。
アドルノは,音楽的主体の恒常性および自然的素材の 恒常性の仮定は,ともに疑わしいとし,素材の客観的精 神それ自身の運動法則を主張する。彼は上音関係を例と して次のように言っている。「すなわち,発達した聴覚 は,非常に複雑な上音関係を和声的に,単純な上音関係 と同様,精確に理解することができ,またその際,表向 きの不協和音の『解決』への衝動を決して覚えず,むし ろより素朴な聞き方へのひとつの逆戻りとしての解決に 自発的に逆らう,ということである。…素材から主体に 出される要求はむしろ,『素材』自体が,沈殿した精神,
ひとつの社会的に,人間の意識を通してあらかじめ形成 されたものであることに起因する。」17 アドルノによると,
内在的な相互作用のなかで,素材が作曲家に出す指示が 成立し,また作曲家は,それらの指示に従うことで,そ れらを変更する。技術的に熟練した聴覚にとって,漠然 とした不快は,ひとつの禁じられたものの規準に変わる が,アドルノによるなら,その規準は今日すでに,調性 の手段,すなわち伝統的音楽総体の手段を排除している。
アドルノはここで,二つのことを指摘している。
一つは,伝統的なクラングの紋切り型,三和音の虚偽 に関することである。アドルノは,「和音の真理と虚偽を 決定するのは,それらの孤立した出現[Vorkommen]で はない。それが測定可能なのは,技術の総体的水準から してのみである」18,と言っている。彼によると,和音自 体が,死滅したものとして,その追い散らされた状態の なかに,現在の技術の水準と相容れないような技術の水 準を代表している。それゆえ,音楽的に個別的なことの 真理,あるいは虚偽は,そうした技術の全体的な水準に 依存する。しかしアドルノは同時に,何が真で何が虚偽 かの聴覚の認識は,技術の全体的水準への抽象的な反 省にではなく,この一つの和音に結びつけられており,
したがって技術の全体的水準は,作曲上の課題の特定の 布置のなかにのみ読むことができると言っている。
もう一つは,作曲家の像[Bild イメージ]の変化であ る。アドルノはこう言っている。「時代と社会は,単に外 的にのみ音楽家を制約するだけでなく,それらは,音楽 家の形成物が音楽家に出す厳格な要求のなかでも,音楽 家を制約する。技術の水準は,音楽家が思い切って考え るあらゆる小節[Takt]に,問題として現れる。全体と しての技術はあらゆる小節で音楽家に,音楽家が技術を 正当に評価し,技術があらゆる瞬間に認める正しい解答 だけを与えるよう,要求する。作曲することは,そうし た解答,すなわち技術的な判じ絵の解決にほかならず,
そして作曲家は唯一,それらの判じ絵を読むことができ,
したがって彼自身の音楽を理解する人である。」19 作曲家 は,彼の音楽が彼に客観的に要求することを執行するが,
しかしそうした服従のためにすべての不服従,すべての 独立性と自発性を必要とする。だからアドルノは,音楽 的素材の運動は弁証法的である,と言うのである。
さて,アドルノは調性の崩壊がシェーンベルクのもと でとった形態を,仮象と遊戯[Spiel]への批判という視 点を基礎に解明している。アドルノの出発点は,音楽的 素材の運動は今日,完結した作品および作品とともに定 められたことすべてに,逆らうものとなった,というと ころにある。アドルノは,新音楽の楽節の短さ,時間上 の拡張に逆らうということは,個人的な無力,形式形成 への無能力に帰されるものではなく,その基礎には,作 品,時間,そして仮象への批判があるのだとする。そし て彼は,拡張的な図式への批判を,決まり文句への批判
−表現に関わる問題−と,イデオロギーへの内容的な批 判−否定的経験,現実の苦しみと形式に関わる問題−と の二つの視点から解明する。
まず第一の問題をアドルノは,シェーンベルクのエス プレシーヴォとロマン派のエスプレシーヴォとの質的違
いから説明する。彼によると,「劇的音楽は,様式化さ れ-媒介されたものとしての表現を,情熱の仮象を差し 出した。劇的音楽が,それを超えて,表現された感情の 向こう側に実体性を要求した場合,…この要求を保証し たのは唯一,音楽的記号[Charaktere文字]とその連関 を支配する形式の全体であった。」20 しかしアドルノは,
シェーンベルクにあっては事情はまったく異なり,シェー ンベルクにおける文字通り革命的な契機は,音楽的表現 の機能変化にある,と論を進める。「情熱が虚構される のではもはやなく,音楽という媒体[媒質]のなかにあ りのままに,無意識,ショック,トラウマの動きそのも のが記録される。それらの動きは,形式の禁忌を攻撃す る,というのも形式は,そうした動きに形式の検閲を受 けさせ,それらを合理化し,そしてそれらを像に置き換 える[transponieren 移調させる]からである。」21 だから アドルノによるなら,シェーンベルクの形式的革新は,
表現内容の変更と結びついている。というのも,それら の革新は,表現内容の現実の出現に奉仕するからである。
「最初の無調の諸作品は,精神分析の夢の記録の意味で の記録である。…しかしあの表現革命の傷痕は,像にお いても音楽のなかでも,作曲の意志に対するエスの使者
[Bote]として付着する斑点[であり],現実の苦しみは それらの斑点を,それが芸術の自律性をもはや認めない ということのしるしとして,芸術作品のなかに残したの である。それらの斑点の他律性は,音楽の自足的な仮象 に挑戦する。」22
アドルノによると,新音楽は芸術作品の仮象的特性に 逆らう。「装飾の批判,慣習の批判,そして音楽的言語の 抽象的な一般性の批判は,同じ意味である。」23アドルノ はここで,シェーンベルクははじめてニーチェの挑戦に 応じたと言う。すなわち,彼によると,ニーチェは首尾 一貫して,美的な慣習に対して肯定的な態度をとり,そ して彼の最後の手段[ultima ratio]は,その実体が消滅 してしまった諸形式とのアイロニカルな戯れ[Spiel]だっ たが,このニーチェに対してシェーンベルクは反抗す る。「シェーンベルクの諸作品は,そこでは実際何ものも 他であり得ない,最初のものである。それらは,記録で あると同時に構成[Konstruktion]である。それらのうち に,遊戯[Spiel]の自由を保証した慣習は,何も残って いない。」24 シェーンベルクの「記録的・構成的」音楽は,
遊戯に対しても仮象に対しても,攻撃的な態度をとる。
アドルノは,シェーンベルクは次の二つの定式化,「音楽 は装飾すべきではなく,音楽は真であるべきである」と
「芸術は能力[Können]にではなく義務[Müssen]に由 来する」によって,認識へと向かうと言う。このことは 第二の問題,イデオロギーへの内容的批判と関連する。
アドルノによると,新音楽は,意味と表現との断絶の 根底に,人間の変容させられない苦しみを見る。「…人 間の無力は,仮象と遊戯をもはや許さないほどまで増大 した。衝動的葛藤−シェーンベルクの音楽は,それが性 的起源を持つことに疑問の余地を残さない−は,記録に よる音楽のなかで,それらの葛藤を慰めて静めるのを音 楽に拒むような[暴]力を受け取った。表現主義段階の シェーンベルクの音楽は,不安の表現のなかに,『予感
[Vorgefühl]』として,無力を示す。」25 アドルノはモノド ラマ『期待』について次のように言っている。このドラ マの女主人公は,いわば分析的な女患者として音楽に委 ねられ,憎悪と欲望,嫉妬と許しの告白,さらにそれを 超えて無意識の象徴的表現の全体が,彼女から無理に取 られる。そして音楽は,はじめて女主人公の狂気ととも に,その慰める異議申し立ての権利を思い出す,と。こ こでアドルノは,成熟したシェーンベルク,また同様に ヴェーベルンの形式的世界の総体が依存する形式的法則
−分極化−に言及する。
「しかしトラウマ的なショックの地震計的記録は同時 に,音楽の技術的な形式的法則となる。この形式的法則 は,持続性と発展を禁じる。音楽的言語は,その両極端 に向かって分極化する。すなわち,ショックの身振り,
いわば肉体の痙攣の方向と,不安によって硬直させられ る者が,無表情に動きを止めることの方向である。」26 ア ドルノは,この音楽的「媒介」の破壊を,形式と内容と の交差の視点から,孤独な人の不安との関連で解釈する が,彼は,シェーンベルクは孤独を極端まで固く保持し たことで,孤独の社会的特質に逢着したと論を進める。
アドルノは,音楽付きの劇『幸福の手』について次のよ うに言っている。シェーンベルクはこの劇で,性愛でも 労働の分野と同じ欲求不満を経験するストリンドベルイ 的に孤独な人を描くが,その際彼は,この人を「社会心 理学的」に産業社会から説明することは拒絶するが,し かし諸主体と産業社会との不安を通しての相互関係,意 志の疎通を書きとめる,と。
第三場の仕事場で,主人公が労働者たちを「見ない」
ことについて,アドルノはそれを,物質的生産から切り 離された者の,物質的生産に対する不安,すなわち目を 覚まさなければならないという不安と関連しているとし,
この不安が一貫して,夢の舞台と現実との表現主義的葛 藤を支配していると解釈する。「夢に囚われている人は,
自己に対する好意のために,労働者たちを見ることがで きないため,その人は,威嚇は労働者たちからくるので あって,その人と労働者たちを互いに引き裂いた,あの 全体からくるではない,と思う。」27 アドルノは,明らか にされないものは明らかにされないままにしておく『幸
福の手』の混乱した側面は,シェーンベルクが仮象と遊 戯に反対して主張する,あの知的な誠実性を証明してい るが,主人公が代表する物象化への批判は,ヴァーグ ナーと同じく,反動的だと言う。批判は,社会的な生産 関係−価値法則と[資本]集積の世界である−に向けら れるのではなく,分業に向けられるからである。アドル ノは,芸術作品はそれが社会的に密接に結ばれている眩 惑連関から,美的に逃れることはできないとして,次の ように言う。
「根底から疎外された,絶対的な芸術作品は,その盲 目性ゆえにトートロジー的に,唯一自分自身にのみ関係 する。その象徴的な中心は,芸術である。だからそれは,
自己を掘り崩す。」28 アドルノは,すでに表現主義の盛時 に,新即物主義のなかで明瞭となる空虚が,芸術作品を 捕らえている,と言う。29 アドルノはさらに,表現主義 の異議申し立てを,様式としての孤独から捉える。彼は
『期待』の終わりごろに引用される,ジョン・ヘンリー・
マッケイの『路傍』という歌曲を分析しながら,「孤独 は,ひとつの共通な孤独,すなわち相互にもはや何も知 らない都市居住者の孤独である」30 と言う。彼によると,
孤独な人たちの身振りは,比較できるものとなる。だか ら身振りは,引用される[呼び出される]のである。表 現主義者は,孤独を一般性として暴く,というわけであ る。そして引用という行為をめぐって,次のように言う。
「学問の分野でと同様,引用は権威を示す。引用する孤 独な人の不安は,妥当しているものの下に支えを求める。
…現実のなかでの絶対的なモナドの立場は両方,すな わち悪しきゲセルシャフト化に対する抵抗と,より悪し きものへの準備ができていることとの両方である。」31 以 上のようにアドルノは,孤独の弁証法および様式として の孤独の説明によって,新音楽の「内容」−それを担う
「形式」ともども−を説明するのである。
この節の最後は,表現主義の,調和のとれた構成への 強制としての即物性への転化の説明に当てられる。アド ルノによると,表現主義的な立場を固執することが禁じ られるのは,次の表現主義の矛盾に基づいている。「美 的客体は,純粋にここにあるもの[Diesda]として規定 されることで,それは,まさにこの否定的な規定,すな わち美的客体がそれの法則としてその支配下にある,す べての干渉するもの[Übergreifende]の拒否により,純 粋にここにあるものを超える。一般性からの特殊なもの の絶対的な解放は,特殊なものを,一般性自体への論争 的,原理的関係により,ひとつの一般的なものにする。
規定されたものは,それ自身の刻印に基づき,それがそ こへと刻印された,単なる個別化以上のものである。」32 アドルノは,『期待』のショックの身振りでさえ,それが
ただ一度くり返され,そしてそれを包み込む形式を引き 寄せるとすぐに,自己を公式[Formel]に類似させる,
そして最後の歌は,ひとつのフィナーレである,と言う。
次の文章は,表現主義の内容,すなわち絶対的主体は,
絶対的ではないということが,即物性への転化と結びつ くのを説明する重要な文章であるため,そのまま引用し ておきたい。
「調和のとれた構成への強制を即物性と呼ぶとすると,
即物性は,表現主義に対する単なる反対運動ではない。
それは,表現主義の別様のあり方である。表現主義の音 楽は,伝統的なロマン派の音楽の表現の原理を厳密に解 したため,表現の原理は記録の性格を帯びた。しかしそ れにより,表現の原理は正反対のものに転化する。表現 の記録としての音楽は,もはや『表現豊かな』ものでは ない。音楽の上,定かでない遠くを,表現されたものが 静かに流れ,音楽に無限なものの反映を与えることは,
もはやない。音楽が表現されたもの,音楽の主観的な内 容をはっきりと,明確に固定させるとすぐに,その内容 は音楽の視線の下で,まさに音楽の純粋な表現的性格が その存在を否認する,客体的なものへと硬直する。その 対象への記録による[protokollarisch]態度のなかで,音 楽自体が『即物的』となる。音楽の爆発によって,主観 性の夢に劣らず慣習が爆発する。記録による和音は,主 観的な仮象を粉砕する。しかしそれにより,それらの 和音は最終的には,それら自身の表現的機能を破棄す る。それらの和音が,どんなに精確とはいえ,客体とし て模写するものは,重要でないものになる。何しろそれ は,作品が主観性の方へ向ける視線の精確さを前にし て,その魔法[Zauber]が消え失せる,その同じ主観性 なのだから。こうして記録による和音は,構成の素材と なる。」33
この構成について,アドルノは,それにより音楽は,
表現主義の認識水準に逆戻りするだけでなく,同時に 表現主義を超えて前進するものであると言っている。彼 によると,完全な,それ自身の内で破れることなく調和 したものとしての,作品のカテゴリーは,表現主義が その嘘を暴露する,あの仮象に吸収されない。そのカ テゴリーはそれ自体,二重の性格を持っている。「作品 は,孤立し,完全に疎外された主体に,調和の欺瞞,す なわちそれ自身および他者との和解の欺瞞として正体を 現すが,同時にそれは,悪い社会に対する悪い個体性
[Individualität]に制限を示す審級である。」34 諸作品のな かにのみ,主体と客体の制約を同じように克服するもの が現存する,アドルノによるなら,音楽は表現主義の段 階で全体性の要求を取り消した。しかし表現主義的音楽 は「有機的」であり続け,言語は主観的,心理学的であ
り続けた。このことが,表現主義的音楽を再び,全体性 へと駆り立てることになる。「表現主義は,有機的なもの への迷信に対して,充分に根底的な反対の態度を取らな かったとすると,有機的なものの清算はいま一度,作品 の理念を晶出させた。」35 表現と形式の関係の問題は,諸 作品のなかでさらに追究されることになる。
(2)十二音技法をめぐって。 調性の原理は存続しな くなり,したがってくり返し一般的なものの布置によっ て特殊なものを捉えるという逆説性も解消した。慣習
[convenus]が作曲家に,彼がここで,しかもここだけ で用いるクラングを禁じることはない。アドルノはまず,
素材の解放,それと同時に素材を技術的に支配する可 能性の増大と,十二音技法の根源について,次のような 説明をしている。彼によると,西洋の調性音楽のさまざ まな次元−旋律性,和声法,対位法,形式,インストル メンテーション−は,歴史的にかなりの程度,相互に独 立に発展した。例えば,ロマン派の時代に旋律性が和声 法の機能となったような場合にも,それらは単に相互に 同化したにすぎず,また対位法は,旋律的-和声的に構 想されると,独立した声部の進行を不明瞭にする。しか しアドルノは,不釣合いは全体を動かす力ともなると言 う。「というのも,個々の素材領域が発展させられ,そ れらのうちの幾つもが,ロマン派での楽器のクラングと 和声のように,融合させられればさせられるほど,あの 不釣合いを除去する,音楽的素材総体の合理的な徹底的 組織化という理念が,ますますくっきりと浮かび上がる からである。」36 アドルノによると,すでにヴァーグナー の総合芸術に関与していたこの理念が実現されるのは,
シェーンベルクによってである。「シェーンベルクの音 楽では,単にすべての次元が等しく発展させられている だけでなく,すべてが収斂するような仕方で,お互いか らつくり出されている。すでに表現主義の段階でシェー ンベルクの念頭には,そうした収斂が,例えば音色旋律
[Klangfarbenmelodie]の概念で,浮かんでいた。…さら に後には,すべての音楽的次元に対するひとつの公分母 が求められる。それが,十二音技法の根源である。」37 十 二音技法は,ポリフォニーのフーガの組織と,ホモフォ ニーのソナタの組織との対立を止揚[破棄]しようとい う意志において頂点に達するが,アドルノはこの作曲の 合理的な徹底的組織化の理念,作品のなかの素材次元 相互の「無差別」ということに,十二音技法の根源を見 るわけである。
さて,アドルノによると,芸術作品の統合的組織化は,
芸術作品を自己のうちから自由に組織しようと努める自 立的主観性の産物であり,そこへの移行は,展開部の技 術的処理によって行われる。アドルノは,展開部の扱い
の歴史をたどりながら38 ,調性の言語がその形式形成的 な力を失うことと,音楽的時間の分解−それは主観的な 表現の契機の,時間上の連続からの突出と,音楽的言語 の合理的支配の可能性増大と関連する−とを説明する。
まとめとなる文章を引用しておきたい。「ベートーヴェ ン,さらにブラームスにあっては,動機的-主題的労作 は,主観的なダイナミックスと伝統的な−『調性の』−
言語との一種の調停[Ausgleich]のなかで得られた。主 観的な企て[Veranstaltung]は慣習的な言語に,それを 言語として断固として変化させることなしに,二度目に 話すように強制する。言語の変化は,ロマン派-ヴァー グナーの系列で,音楽自体の客観性と拘束力を犠牲にし て行われた。それは,歌曲のなかでの動機的-主題的統 一を崩壊させ,そしてそれからライトモティーフと標題 によって代用させた。シェーンベルクがはじめて,ヴァー グナーの新しい,主観的な,解放された素材自体のなか の多面的な[universal]統一と配剤の諸原理を明らかに した。シェーンベルクの作品は,ヴァーグナーが導入し た音楽的言語の唯名論が徹底的に追求されればされるほ ど,この言語はますます完全に合理的に支配される,と いうことを証明する。」39
アドルノによると,この支配は,言語自体に内在す る傾向に基づいてであって,調停する妥当なものに対 する感覚や趣味によってではない。アドルノはこのこと を,和声法とポリフォニーとの関係から説明する。彼に よると,シェーンベルクは,ポリフォニーの原理を,解 放された和声法自体の本質として暴露する。すなわち,
シェーンベルクにあっては,古典的-ロマン派的伝統の なかで主観的な表現の担い手として,ポリフォニー的客 観性に対する反対極を意味する個々の和音は,和声法に 固有なポリフォニーのなかで認識されるのである。そし てそのための手段は,不協和音である。「あらゆる和音 が協和しなければしないほど,すなわちその和音が,互 いに異なり,その独自性の点で効果のある音をそのう ちに含んでいればいるほど,その和音はますます『ポ リフォニー的に』なる…個々の音はすでに諧音[和音]
の同時性のなかで,『声部[Stimme]』の性格を受け取 る。」40不協和音の優位は,調性内部の合理的,「論理的」
諸関係,すなわち単純な三和音の諸関係を破壊するよう に見える。しかし不協和音は,そのなかに現れる音の関 係を分節化された形ではっきり分からせる限りで,協和 音よりも合理的である。41そしてアドルノは,この不協和 音をめぐる事象と,記録的な作品との関係について,次 のように述べる。
「そして不協和音と,それと結びつけられた『不協 和な』音程による旋律形成のカテゴリーは,記録的な表
現性格の本来の担い手である。こうして主観的な衝動と,
仮象を持たない自己表明への欲求は,客観的な作品の技 術的手段[Organon]となる。反対に,従わされた素材 を主観性にとって最初に完全に扱いやすくするのは,再 び,この素材の合理性と統一である。」42 あらゆる個々の 音が透明に,全体の構成によってよって決定されている ような音楽では,本質的なものと偶然的なものの区別は 消滅する,すなわち,そもそも主題は存在せず,また厳 密な意味では「展開」も存在しない。アドルノによると,
シェーンベルクの主題形成のやり方は,音楽の記録的性 格から生じる,それは「音楽的推移の諸契機は,心理 学的な心の動きと同様,制約を受けずに[ungebunden], 最初はショックとして,それから対照形態として,並列 される。」43 不連続が音楽的な力学を破壊するが,それは 音楽が時間を,偏在する構成によるすべての音楽的契機 のひとつの一時停止を通じて否定するという形,すなわ ち音楽的時間の分解によってである。
こうして音楽的動力学[Dynamik]は,音楽的構造の 静力学-動力学[Statik-Dynamik]へと転化するが,それ が,アドルノによるなら,シェーンベルクの作曲が十二 音技法によって晩年の段階でとった,特有に固定された システム的性格[特質]を説明する。アドルノは,十二 音技法を用いた作曲を次のようにまとめている。「十二 音技法は,絵を描くこととよりも,パレットの上の色の 配列と比較される。作曲が実際に始まるのは,ようやく 十二音の配置[Zwölftondisposition]が終わったときであ る。…十二音の配置は,あらゆる楽曲−それが個々の楽 章であれ,あるいはまた多楽章の作品であれ−はひとつ の『基本形態』あるいは『セリー』から導き出される,
ということを要求する。『基本形態』あるいは『セリー』
のもとに理解されるのは,調律された半音システムのな かで自由に使える十二の音の,その時どきに特定の配列
…である。作品全体のあらゆる音は,この『セリー』に よって決定されている。もはや『自由な』音符は存在し ない。…それに対してシェーンベルクは,古典的な,さ らにまた古代の変奏の諸技法を,大胆に十二音素材に取 り入れる。彼はたいていの場合,セリーを四つの方式で 用いる。[第一に]基本的セリーとして,[第二に]その 転回,すなわちセリーのあらゆる音程が,反対方向の音 程と取り替えられることによる転回として,[第三に]古 い対位法のやり方の意味での『蟹型』,すなわちセリー は最後の音で始まり,最初の音で終わる[蟹型進行・逆 行]として,[そして第四に]蟹型の転回として。これ ら四つの方式は,それ自体が再び,半音音階の十二すべ ての異なる起点となる音に移高し[transponieren],した がって48の異なる形式のセリーが,作曲のために使え
る。さらにセリーから,特定の音の対称的な選択によっ て『派生[Ableitung]』が形成されるが,それらの『派 生』は新しい,独立した,それにも拘わらず基本的セ リーに関連づけられたセリーを生み出す。…反対に,音 の関係の濃密化のためには,セリーは,それ自体近い関 係にある[verwandt]部分的形態に区別される,最後に,
作曲は,一つのセリーに基づくのではなく,…二つ,あ るいはさらに多くのセリーを起点となる素材として利用 することが可能である。」44
アドルノによると,セリーは,単に旋律的にだけ現れ るのでは決してなく,和声的にも現れ,そして作品のあ らゆる音は,どんな例外もなく,セリー,あるいはその 派生体[Derivat]のひとつのなかにその位置価を持ち,
このことが,和声法と旋律法の「無差別[Indifferenz]」 を保証する。
アドルノは,諸規則は恣意的に考え出されてはいない,
と言う。それらは,素材のなかの歴史的強制の布置であ るのと同時に,この強制に適応するための規準である。
彼によるなら,意識はそれらの規則のなかで,音楽を崩 壊した有機的なものの残りから浄化しようと企てる,す なわちそれらの規則は,音楽的仮象に対する戦いを無慈 悲に続行するが,しかし最も大胆な十二音の諸操作も,
素材の技術的水準から聞き出されている。同じ音の早す ぎるくり返しに抵抗する感性,あるいは二重のクライマッ クス[doppelte Höhepunkt]の対位法上の禁止,さらには あまりに性急に同じ音に再び達する,和声の作曲作法の なかのバスの扱い方における弱さの感情など,これまで に習熟された経験の抑え難さは,個々の音の他の音に対 する優位を正当化してきた調性の規準が一度取り除かれ ると,その強度を増すとアドルノは言っている。
こうして,音楽の分野でのひとつの自然支配のシステ ムが,結果として生じる。そしてアドルノは,この支配 を,啓蒙の弁証法の視点から解釈する。彼によると,自 らのうちに後退する十二音技法は,その歴史を欠く静力 学の点で無限である。その無限性は,純粋な同一性で ある。しかしそれは,主観的な自律性と自由−自然支配 はそれらの名のもとに遂行された−自体を逆転して攻撃 する。「十二音的合理性は,ひとつの完結し,同時にそ れ自体が不透明な体系として−そこでは手段の布置が 直接,目的および法則として実体化される−迷信に近づ く。」45 十二音的合理性が実現する法則性[Gesetzlichkeit]
は同時に,単にそれが規定する素材に判決を下すだけの,
つまりこの規定されてあること自体が何らかの意味に奉 仕することのないであろう,そういう法則性である。ア ドルノは,シェーンベルクは記録的な表現に対して音楽 を自由に使えるものにすることの結果として,「意味」−
それが,ヴィーン擬古典主義の伝統のなかでのように,
純粋に曲の構成の連関にあると要求する限り−を根絶し た,と言う。46 そしてアドルノは,その後のシェーンベル クの歩みを次のように捉える。「曲の構成そのものは,有 意味であるものではなくて,正しいものであるべきであ る。そのとき十二音音楽が作曲家に向ける問いは,音楽 的な意味はどのようにして組織されるか,ではなくむし ろ,組織はどのようにして有意味となることができるか,
であり,そしてシェーンベルクが 25年来創作してきたも のは,その問いへの前進する回答の試みである。」47人間 は,自分自身が強くあることと自然を支配することを学 んだが,その過程で運命は,純粋な抽象にもたらされた ものとして,自己を再生した,というわけである。
アドルノはこの節の最後で,歴史的弁証法の手中に 陥った音楽が不自由へと転化するということに言及する。
「十二音技法は,音楽を解放することで,音楽を拘束す る。主体は,合理的なシステムによって音楽を支配する が,それ自身は合理的なシステムに屈服する。」48アドル ノは,表現主義的な主体のうち残っているのは,技術へ の新即物主義的な屈従だけであると言う。[表現主義的]
主体は,歴史的素材[Stoff]と取り組むなかでなした合 理的経験を,この素材に投射することで,自分自身の自 発性を否認する。音の素材の盲目的支配を破る諸処理は,
規則体系を通して第二の,盲目的な自然となり,主体は この第二の,盲目的な自然に順応し,そして自らのうち から音楽を実現させる可能性に関して望みを失うがゆえ に,そこに保護と安全を求めるから,というわけである。
アドルノは,たしかに十二音技法の規則のなかには,作 曲に関する経験から,すなわち音楽の自然的素材の解明 の進歩から必然的に出てこない規則は,一つもない49, つまり規範の内容は,自発的な経験の内容と同一である けれども,その内容は,その対象化により,不合理に変 わる,と言う。
アドルノによると,晩年のシェーンベルクの重要な諸 契機は,十二音技法に抗してとほぼ同様に,十二音技法 によって獲得された。「十二音技法によって,というのは,
音楽はそれによって,没落の後に音楽にかろうじて唯一 与えられるような冷たさと仮借のなさをもって振舞う能 力を与えられるからである。十二音技法に抗して,とい うのは,それを案出した精神は,依然としてその柱,ボ ルト,ねじの組み立てを時折くまなく巡り,輝かせる−
あたかもその精神は,最後にはしかし技術的な芸術作品 を終末的に破壊する用意があるかのように−のに充分な ほど自己を支配し続けるからである。」50 しかし,技術的 な芸術作品が美的仮象を破壊するその徹底性は,最終的 に,仮象を技術的な芸術作品に引き渡す。技術の自己目
的化は,ひとつの単なる「吸収[Aufgehen熱中]」の統 一で芸術作品の実質的統一を代用することに繋がるから である。「芸術作品における仮象的特質[性格]の解体 は,芸術作品自体の一貫性によって要求される。しかし 全体の意味が命じる解体過程は,全体を無意味なものに
する。」51 統合された芸術作品は,絶対的に不合理な芸術
作品である,アドルノはこのことを最後に,ストラヴィ ンスキーの仮面とシェーンベルクの構成の「共通点」か ら説明している。
「ストラヴィンスキーの和音と,十二音のクラングの連 続とはむしろ,同一のものにおける帰結の異なる段階を 表わしている。両者には,原子化されたものを意のまま にすることに基づく,拘束力と必然性への要求が共通し ている。両者にとって,無力な主観性のアポリアが案内 所[Auskunft]となり,不確定ではあるが命令的な規範 の形態をとる。両者にあって,たしかに形成のレベルは まったく異なり,実現する力は同じでないとはいえ,客 観性は主体的[主観的]に設定される。両者にあって,
音楽は空間のなかで硬直する危険がある。両者にあって,
すべての音楽的に個別的なものは,全体によってあらか じめ定められ,したがって全体と部分との真の相互作用 はもはや存在しない。全体に対する任意の処理的な指図 は,諸契機の自発性を追い払う。」52 技術的な芸術作品の 失敗を,作曲のすべての次元で示すことが,次節の課題 である。
(3)技術的な芸術作品の失敗。 アドルノがまず問題 とするのは,十二音の旋律とリズムである。基本的セ リーが,どうして十二の音すべてを含むべきなのか,し かも十二の音だけなのかは理解されないが,旋律法―
旋律はセリーと一致すると仮定すると―は数の実体化 に,それが単に個々の音の優位からだけでなく,導音の 効果,すなわち自動化された終止法[Kadenz]の虚偽の 自然的強制からも自由になった,ということを負うてい る。しかしアドルノは,旋律法の完結性は,旋律法をあ まりに緊密に閉じる,と言う。「旋律はあまりに完成され ており,十二音にある終止の力は,リズムの躍動によっ て超えられることはできるが,しかし音程自体の引力に よってはほとんど超えられることはできない。」53そして アドルノはここで,伝統的な作曲法が扱わなかった続 行[Fortsetzung]の論理に注意を促す。54彼によると,セ リーは一度完結すると,自分からはもはやまったく前に 進もうとせず,それにとっては外的な企てによってはじ めて前方へ駆り立てられる。続行の苦労は,続行自身が 出発点でのセリーを参照するように指示されているだけ に,なおさら大きいものである。「続行は単なる演繹とし て,そのすべての契機の点で中心に等しい距離にあるよ
うに,という十二音音楽の不可避の要求を否認する。」55 さらにアドルノは,セリーが時間上の連関を破壊する ことを指摘する。「ある旋律の真の質は常に,いわば音 程の空間的関係を時間のなかに変換するのに成功してい るかどうかで測られる。この関係は,十二音技法によっ てその深部で破壊される。時間と音程は分かれる。す べての音程の諸関係は,基本的セリーおよびその派生体
[Ableitung]によってきっぱりと確定されている。音程の 進行のなかに新しいものは何もなく,そしてセリーの偏 在はセリー自体を,時間上の連関をつくり出すのに適し ていないものにする。なぜなら,この連関は,区別する ものによってのみ構成され,単なる同一性によっては構 成されないからである。」56 それによって旋律的連関は,
ひとつの旋律外部の手段,すなわち自律させられたリズ ム法という手段を参照するよう指示される。しかしアド ルノは,このことは最後には,旋律が主題的なリズムの 犠牲となることに帰着する,と言う。セリーの内容に無 頓着に,主題的,モティーフ的なリズムがくり返される。
出来事はリズムだけであり,音程の平均化[nivelieren]
は,音程の差異に入り込んだすべての経験を失わせ,旋 律とリズムの関係の偶然性は,旋律に特有なものがリズ ムによって無価値にされるという事態を招来する,とア ドルノは言っている。57
アドルノが次に問題とするのは,分化[Differennzierung]
である。アドルノによると,音楽的な唯名論,すなわち すべてのくり返される慣用句[Formeln]の廃止が終わり まで考えられると,分化はひっくり返る。彼は,調性と いう座標系からの特殊なものの解放が,ひとつの粗雑化 へと行き着くことを,幾つかの例を挙げて示す。彼はま ず,和声的知覚について次にように言う。「調性の音楽 では,ハ長調のナポリ六の和音に,ソプラノのナポリ六 の和音とともに,ソプラノのロ音を伴う属七の和音が続 くとき,和声の規準の[制御]力に基づき,ロ音の後の 和声の進行−それは『減』三度を意味するが,しかし抽 象的に測定すると二度音程を表わす−は実際のところ,
三度として把握される,すなわち間にあって省かれたハ 音が一緒に関係づけられる。」58アドルノは,こうしたひ とつの「客観的な」二度音程の三度としての直接的知覚 は,調性の向こう側では不可能である,と言う。それは 座標系を前提としており,座標系からの差異によって定 まるからである。
アドルノは次に,音楽的組織の例を挙げる。「『魔弾の 射手』序曲のアガーテ-アリアから取り出された副主題 では,第三小節の頂点ト音に行く着く音程は,三度であ る。作品全体のコーダでは,この音程は,最初は五度に,
最終的には六度に拡大され,そしてこの六度は,主題の
出だしの音[Ausgangston]−主題の理解は,振り返って この出だし音に従う−に対しては,九度である。九度は,
八度の広がりを上回ることで,熱狂的な歓喜の表現を得 る。」59アドルノによると,このことは,いわばひとつの 度量単位としての,調性のなかで与えられている八度音 程の考え方によってのみ可能である。すなわち,八度音 程が超えられると,それによって意味が極端に,すなわ ち体系の均衡を破棄するものに高められる,というわけ である。十二音音楽では,八度は,その三和音の根音と の同一性のために八度に与えられた,あの組織する力を 失った。だからそれは,誇張された,粗野なクラング素 材の対照に頼らざるを得ないことになる。アドルノは,
微妙な差異は暴力行為に終わり,微妙な差異を排除する 十二音技法はその点でも,解き放たれた主観性の裁きを それ自身に対して執行しているのだと言っている。
アドルノが次に向かうのは,和声法の問題である。ア ドルノは,十二音音楽の垂直的次元の法則は,補完的
[komplementär]和声法の法則と言ってよいであろう,と 言う。彼によると,補完的和声法は,通奏低音的和声進 行が存在せず,その代わりにそれ自体が静的なクラング の平面が存在するところに見いだされる。「補完的和声 法では,あらゆるクラングは複合的に組み立てられてい る。クラングは,その個々の音を全体の自立的で異なる 契機として含み,それらの契機の差異を三和音和声法の やり方で消滅させることはない。」60アドルノは,ひとつ の和声の平面から,次の補完的平面への変化は,和声的 な立体効果,一種の遠近法をつくり出すが,それは伝統 的な音楽が時折努力はしたが,しかしかつてほとんど実 現しなかったものであると言う。
しかしアドルノは,この補完的な和声法の法則は,本 当に和声的な法則としてのみ妥当するのであり,それは,
水平の線と垂直の線が無関心[無関係]であることに より麻痺させられる,と論を続ける。十二音のポリフォ ニーでは,実際に自己を形成する諸和音は,それぞれ補 完的な関係にはほとんどなく,それらの和音は,運声法 の「結果」だからである。アドルノは,補完的-和声的 に考えられた箇所は例外をなすとし,その理由を次のよ うに述べる。「というのも,セリーを同時的クラングへと
『組み合わせる[Zusammenklappen]』という作曲原理は,
個々の音それぞれがセリーの音として,水平的であると 同時に垂直的であることを証明することを指示するから である。このことは,垂直的な諸々のクラングの間の純 粋な補完的関係を,稀な偶然事にする。」61アドルノは,
「クラングの衝動生活」は抑圧されている,と言う。「セ リーの主題のなかの根源,その旋律的な意味は,和声的 な解釈替えに逆らい,したがってその解釈替えが成功す
るのは,特殊和声的な関係を犠牲にする場合にのみであ る。補完的な和声法はその純粋な形式では,連続的な和 音をこれまで以上に密接に結び合わせる一方,連続的な 和音は,十二音技法の全体によって,互いに疎遠にされ る。」62導音からの純化は,連続的な瞬間の無関係性と硬 直へと導く。「十二音技法は,『媒介』,『推移』,衝動的 な導音[性]を,意識的な構成と取り替える。しかしこ の構成は,クラングの原子化という代償を払う。」63 諸々 のクラングのモナド的な無関係性と,すべてに対する計 画的支配は,いよいよもって偶然性を生じさせ,もはや 協和音に対置されることのない不協和音は,単なる量,
すなわち素材の単なる物理的な音の関係へと逆戻りし,
協和音と不協和音の無関心な[無差別な]並立は,あの 音楽的な空間の奥行きを消滅させるとアドルノは言って いる。
アドルノが次に取り上げるのは,楽器のクラングの問 題である。アドルノによると,十二音技法の重力は,以 前から和声的次元と緊密に結びついた楽器のクラングの 次元にも制限的影響を与える。シェーンベルク中期の計 画では,音色旋律[Klangfarbenmelodie]にはその場所 が与えられていた,すなわち,音色の変化はそれ自体か ら作曲上の出来事となり,作曲の進行を決定すべきであ るとされていた。けれども結局は,音色構造それ自体が 作曲に対して貢献することはますますなくなり,作曲の 創造的な次元としてのクラングの次元が無くなるように,
音色構造が制限される。アドルノはその理由を次のよう に言っている。「十二音技法にとって,それ自体から作 曲に貢献するような,音色の想像力といった考えは,冒 瀆と見なされるもので,そして純粋に作曲が表現するの でないすべてを追い払う,音色重複に対する恐れは,単 に後期ロマン派の色彩法[音色法]の悪しき豊かさに対 する憎悪を示すだけでなく,十二音の作曲[作品]の限 定的な空間を破るものすべてを制限しようとする,禁欲 的な意志も示している。」64 アドルノは,クラングは記録 に近づくとし,こう続ける。「…このクラングの多彩さと より安定したバランスは,それがそこから身をもぎ離し た無秩序の発現を不安げに否認し,そして新音楽のすべ ての真正の衝動が反抗するが,しかし自身が強制的にそ の準備をせざるを得ない,そういう秩序の像に加担する。
夢の記録は,プロトコール命題へと落ち着く。」65 さて,アドルノが次に向かうのは,対位法の問題であ る。アドルノは,十二音技法の本来の受益者は疑いも なく,対位法である,としつつも,調性の形式形成力が 失われることは,そこに大きな問題を生じさせることを 指摘する。彼はまず,対位法的な思考は昔から,垂直 線を和声的な慣習[convenus]の盲目的な強制から救い
出すがゆえに,和声的-ホモフォニー的な思考に優って いるとした後66,十二音技法と対位法の関係について次 のように言う。「十二音技法は,セリーの関係の普遍性 により,根源において対位法的である−というのも,す べての音[Note]はセリーの不可欠の要素であるがゆえ に,そこではすべての同時的な音は,等しく自立的だか らである−また伝統的な『自由な作曲』の恣意に対する その優位は,対位法的な性質のものである。」67そして彼 は,古典的な対位法とシェーンベルクの対位法との違い を,次のように説明する。「バッハとベートーヴェンのポ リフォニーの試みでは,必死の力を込めて,主観的な動 力学と拘束力を持つ客観性との間のひとつの調停として の,通奏低音のコラールと真正の多声性との調停をめざ して努力がなされていた。シェーンベルクは,ポリフォ ニー的な組織を,素材に外部から課すのではもはやなく て,それを素材自体から導き出したことで,音楽の最も 隠された傾向の代表的人物としての真価を発揮した。…
十二音技法は,複数の独立した声部を同時に考え,和音 の支えなしに統一として組織することを教えた。」68 アドルノによると,バッハにあっては,いかにして多 声性は和声的なものとして可能か,という問いに対して,
調性によって,という答えが与えられた。それゆえバッ ハは実際のところ,和声の音楽家[Harmoniker]である。
シェーンベルクにあっては,調性は,あの答える力を断 念した。シェーンベルクは,調性の瓦礫に,和声のポリ フォニー的傾向について質問する。だから彼は,対位法 の音楽家[Kontrapunktiker]である。「いまや予め与えら れた諸和音の外的強制は破られているため,諸声部の統 一は,『親縁性』という仲介者なしに,厳格にそれらの 差異に基づいて展開される。それゆえ,十二音の対位法 は実際のところ,すべての模倣法[Imitatorik]と[数学 的]音響学に逆らう。」69
アドルノは,十二音の時期のシェーンベルクにあっ て,そのような手段が適用されることは,過剰決定
[Überbestimmug],トートロジーとして作用すると言う。
すなわち,それらは,すでに十二音技法によって組織さ れているような連関を,もう一度組織するからである。
アドルノは,この連関と慣習的な対位法の実践との違い について次のように言っている。「ポリフォニーの古い接 合剤は,調性の和音空間のなかにだけ,その機能を持っ ていた。それらは,諸声部を互いにつなぎ合わせ,一つ の線が他の線を模倣することにより,諸声部に対して和 音の度の意識が持つ声部に疎遠な[権]力を緩和しよう と努めた。模倣法と[数学的]音響学は,そうした度の 意識を前提しているか,あるいは少なくともひとつの調 性の『モードゥス[Modus旋法]』−それは,舞台の裏