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Die Intention auf die reine Sprache : Der Begriff der Sprache in Walter Benjamins "Die Aufgabe des Übersetzers".

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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

Die Intention auf die reine Sprache : Der Begriff der Sprache in Walter Benjamins "Die Aufgabe des Übersetzers".

森田, 團

西南学院大学 : 准教授

https://doi.org/10.15017/1564296

出版情報:哲学論文集. 51, pp.41-59, 2015-09-26. The Kyushu-daigaku Tetsugakukai バージョン:

権利関係:

(2)

純粋言語へ の志向

ベンヤミン

﹁翻訳者の課題﹂における言語の概念

オョt

~木

田

圏

はじめに

﹁翻訳者の課題匂守怠

h m G r h N a g s s s

﹂︵

一九

一一

一年

執筆

/一

九二

三年

発表

︶は

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﹄の

うち

﹁パ

リ風

景国

室内

ぬま

も

Q

S S

a

﹂に収められた詩を対訳のかたちで出版した書物にベンヤミンが付した序文である︒その企図は︑

翻訳行為ならびに翻訳作品を︑原作にとって本質的なものとして理解すること︑そのために翻訳についての先入観︑すなわ

ち翻訳は原作の言語を解することがない読者に向けられたものであるという一般的な理解を批判し︑翻訳の存在の意味を解

純粋言語への志向

明することにある︒この試みの途上において︑ベンヤミンは言語そのもののあり方を問いに付すのだが︑この点で﹁翻訳者

の課題﹂はベンヤミンの言語への哲学的洞察を示すものとなっている︒そのうえ︑この言語の根本的なあり方は︑翻訳行為

を通してのみあらわになるものとして捉えられているのである︒訳詩集の序文であるにもかかわらず︑﹁翻訳者の課題﹂がベ

ンヤミンの言語哲学の中心的なテクストとみなされてきた理由はここにある︒

(3)

﹁翻訳者の課題﹂におけるベンヤミンの言語理解の鍵となる概念は︑﹁純粋言語忌

2

・

2

∞

5

胃

R

E

﹂である︒この概念をいか

に理解するかが︑翻訳者論の意義を測るうえで決定的であることは言うまでもない︒純粋言語こそが︑翻訳者の課題︑ひい

ては言語の根本構造を規定するものだからだ︒以下では︑ベンヤミン独特の翻訳概念を翻訳可能性と志向性の概念を中心に

して叙述し︑それを踏まえて純粋言語の概念がいかに理解されうるのか︑﹁翻訳者の課題﹂における言語への洞察がいかなる

ものであるのかを明らかにすることを試みる︒

形式としての翻訳

翻訳が原作に対して本質的な存在であるためには︑翻訳のみが達成できる固有の働きがなければならない︒その働きによっ

翻訳固有の作用を見出すためにほかならない︒

ベンヤミンによれば︑翻訳の形式性は︑原作に内在する﹁翻訳可能性

て翻訳には独自の意義が付与されることになるからである︒ベンヤミンが翻訳を﹁形式問︒ロロ﹂と規定するのは︑そのような

d Z

同

ω

O R σ R

g

芹﹂に応じるかぎりにおいて保たれる︒翻訳は原作に内在するある可能性を実現するための固有の形式なので

ある

翻訳可能性はある作品にとって本質的である︒このことは原作の翻訳が︑原作自身にとって本質的であるということを ︒

意味するのではなく︑原作に内在するある特定の指示が︑原作の翻訳可能性においてあらわれるということを言ってい

る︒

︵

HJN\ゲ也︶

翻訳可能性において﹁ある特定の指示があらわれる﹂︒翻訳可能性とは﹁ある特定の指示﹂の翻訳可能性だと言い換えるこ

(4)

ともできよう︒この﹁ある特定の指示

2 5 Z

注

目

EZF

邑

g E D m

﹂とかかわることによって翻訳は形式となる︒この﹁指示﹂

は翻訳という﹁形式﹂を通して何らかの仕方で実現されるのである︒以上のことからすでに︑翻訳が原作の﹁意味∞古色︑す

なわち翻訳が一般的に基準にするような伝達され理解されるような意味にはかかわらないことが示唆されている︒かりに翻

訳が指示ではなく意味を対象とするならば︑翻訳は原作のたんなる﹁意味の再現当ぽ号片岡山σ

︒ ι

2

巴

52

﹂︵

同︿

\ゲ

可︶

にす

ぎ

ず︑再現であるかぎりで翻訳は自律的な存在とは言えなくなってしまうからである︒

もっとも︑﹁指示﹂と訳出したのは国広

g g

おという語であり︑通常は意味や意義と訳される︒したがって︑ここで﹁指

示﹂と訳した理由について述べておくことにしたい︒引用文中にあらわれる回包

2 E

おは︑文脈上︑あきらかに原作の意味

や意義と解することはできない︒すべての用例を示すことはできないが︑以下のいくつかの引用からも読み取れるように︑

﹁翻訳者の課題﹂において回包

gZ

認 な い し 宮

号

Eg

という語は︑純粋言語にかかわる述定がなされる箇所では︑志向や指

示をあらわしていると解釈するほうが文意を取ることができるのである︒

基本的な語義に立ち戻れば︑︿意味するσ包

o E

g

﹀とは意味を志向することであり︑音

することである︒つまり︑宮号

Eg

には意味志向や意味への指示も合意されている︒以上のことから︑この語を︑動調がも

つ意味を最大限に汲み︑指示や志向と訳出することは︑決して無理なことではない︒このことによって︑原作に内在する

国包

gZ

ロぬが︑原作がもつある特定の指示︑志向をあらわしており︑翻訳可能性の概念の核を形成すると解釈することがで

純粋言語への志向

きるようになる︒もちろん︑その妥当性は︑以下の論述において示されねばならないが︑とりわけ回包

g g

認を﹁指示﹂︑

σ色 ︒

Eg

を﹁指示する﹂と訳出する場合には︑そのつど原語を挙げて明示することにしたい︒

(5)

翻訳と合目的性

原作に内在する﹁ある特定の指示﹂が翻訳を﹁要請する認巳

8 m

g

﹂︵ヨ\﹁呂︶のならば︑いかにして翻訳はそれに応える

のだろうか︒ベンヤミンは原作と翻訳との指示を介した関係を合目的性の概念によって捉えているが︑その解釈に際して︑

生の概念を参照しながら︑次のように述べている︒

原作の生の展開は︑独得な高次の生の展開として︑独得な高次の合目的性によって規定されている︒生と合目的性︑そ

の見かけ上はわかりやすいが︑ほとんど認識からは逃れてしまう連関は︑生の個々の合目的性すべてが目指す目的が︑

ここでも生固有の領域にではなく︑より高次の領域に探し求められるときにのみ理解できるものになる︒合目的的な生

の現象すべては︑その合目的性一般と同様に︑結局のところ︑生に対して合目的的なのではなく︑生の本質の表現に対

して

︹岳

二ぬ

ロ﹀

5

骨

R r 8 5

2

巧

2 8 ω

︺︑ある指示の呈示に対して︹

BH

色町

R

ロ

E o g − −

m

巴

ロ耳

目︒

E

号

g m

︺

合目

的的

であ

る︒

だから翻訳は︑要するに諸言語の互いの最も内的な関係の表現に対して︹宮門己

g k r g

骨

R

W

号

1 5 2 ω

ぽロ

ポ岳

民同

E 2

R 2

己

∞ − v E n F B N 5 E S

︻

目︒

円︺

合目

的的

なの

であ

る︒

︵弓

\

Y H

H円 ︶

したがって︑原作にとって合目的的な現象として翻訳があるならば︑それは原作そのものにとって合目的的なのではなく︑

原作の本質の表現に対して合目的的であると考えねばならない︒原作と翻訳の関係をこのように解釈することによって︑ベ

ンヤミンは翻訳が原作の言語を解さない読者のために存在するという解釈を退ける︒なぜなら︑この場合︑原作と翻訳との

関係は読者の観点から解釈されているが︑そのとき翻訳は︑たんに原作の意味の媒介ないし伝達となり︑その点で原作自身

(6)

にとって合目的的であるにすぎなくなるからである︒したがって︑原作の﹁表現﹀

5

骨

R r

﹂や﹁呈示ロ

R2 0ロ

gm﹂において

意味は決して出会われることはない︒実際︑ベンヤミンは︑原作が表現するもの︑呈示するものとして︑原作の﹁本質者

28

﹂

ゃ﹁指示回包

gE Dm

﹂を挙げている︒翻訳は︑原作の本質ないし存在︑原作の苧む指示を表現することに対応するかぎりに

おいて︑合目的的なのである︒

この原作の表現をどのように理解すればいいのだろうか︒たとえば︑原作が詩である場合︑それは意味の総体とみなすこ

とはできない︒たしかに言葉と意味は︑ベンヤミンが別の箇所で述べているように︑緊密な一体性を形成しているものの︑

同時に詩は︑置き換え不可能な言葉の配置でもあり︑その配置そのものの表現や個々の語がもっ響きや陰影による表現とい

うものも想定することができるからであ討︒詩を意味に還元してしまうことは︑このような意味での詩の表現を隠蔽してし

まう︒先に翻訳が意味の媒介や伝達に対して合目的的であるという解釈が退けられたのはこのためでもあろう︒

以上の例からもわかるように︑一言語自身も︑そして個々の語もまた︑意味を志向すると同時に︑何らかのものの表現でも

ありうる︒のちに明らかにするが︑原作の翻訳可能性とは︑このような語そのものがもっ意味志向ではない﹁指示﹂にかか

わる︒語の表現︑あるいは語がもっ指示に応じるときにのみ︑翻訳は合目的的なのである︒

翻訳者の課題

先の引用の最後では︑翻訳が﹁諸言語の互いの最も内的な関係の表現﹂にとって合目的であると言われていた︒この関係

の表現によってこそ翻訳に固有な形式性が認められ︑その存在に独自の意味が与えられることになる︒おそらく︑批評︑註

釈︑そして解釈は︑翻訳とは違う仕方で原作の表現にかかわる可能性をもつが︑それに対して翻訳は︑原作の表現を諸言語

の関係という観点からあらわにするのである︒

(7)

この﹁諸言語の互いの最も内的な関係﹂を︑ベンヤミンは次のように規定している︒

諸言語は互いに疎遠ではなく︑アプリオリに︑あらゆる歴史的な関係を度外視しても︑互いに諸言語が言わんとするも

の︹

45

ωω

ぽ﹇

色︒

∞買

R Z D

﹈

g

m g

君 ︒ −

g

−

︺に

おい

て親

縁的

︹︿

句者

自岳

︺な

ので

ある

︒︵

弓\

Y H N︶

言語は言語であるかぎり︑何かを言︑つが︑言われる対象︑言われるものからみれば︑言語の歴史的生成や語族の関係など

に関係なく︑諸言語はアプリオリに相互に親縁的であるとベンヤミンは言う︒この言われる対象こそが純粋言語なのだが︑

そうであるならば︑翻訳の合目的性は純粋言語との関係をあらわにするかぎりにおいて確保されることになろう︒そして︑

翻訳者の課題とは︑諸言語の最も内的な関係︑すなわち﹁親縁性︿貨当自吾

R E E

を表現にもたらすことにほかならない︒し

たがって︑﹁言わんとする

g m g d g

﹈ −

g

﹂ことは︑意味を志向することとみなすことはできず︑やはり﹁ある特定の指示﹂の︑

要するに指示すること︹宮号

E g

︺の言い換えと解するべきである︒ではなぜ翻訳という形式が︑諸言語の言うこと︑ない

し指示をあらわにすることができるのだろうか︒

純粋言語と志向性の概念

この間いに取り組むまえに︑どのように純粋言語の概念が導入されるのか︑まず確認しておきたい︒

二つの言語の親縁性は︑歴史的な親縁性を別にすれば︑どこに求めることができるだろうか︒いずれにせよ︹二つの︺

詩の類似性にも︑その詩の言葉の類似性にも求めることはできない︒むしろ︑歴史を超えた諸言語の親縁性は︑総じて

(8)

言語全体を形成するおのおのの言語の親縁性において︑ひとつの︑それも同じものが︑そのつど志向されていることに

基づいている︒このひとつの同じものは︑諸言語のうちの個々の言語にはやはり到達可能なものではなく︑互いに補完

しあう諸言語の志向の総体にとってのみ到達可能なもの︑すなわち︑純粋言語なのである︒︵弓\

YZ

︶

諸言語の最も内的な関係︑すなわち親縁性は︑﹁ひとつの︑それも同じもの巳ロ

25

乱N者向含

E0

50

﹂が言語において志向

されていることに根拠をもっ︒この﹁ひとつの同じもの﹂が純粋言語にほかならない︒純粋言語は決して一言語において見

出されるようなものではなく︑諸言語の志向が補完され︑全体化することによってはじめて到達しうるものとされているが︑

﹂のことから少なくとも純粋言語とは︑一言語内で了解される意味とは根本的に区別される何ものかであり︑さらには指示

対象ないし外的対象でさえないと言うことができよう︒

このように純粋言語は諸言語の志向と深いかかわりをもつが︑ベンヤミンは両者の関係を志向の分析を通して︑より精綴

に思考しようとしている︒

この言語哲学の根本的な法則のひとつを正確に把握するためには︑志向において志向されるものから志向する仕方を区

別しなければならない︒︿ブロ

l

ト﹀と︿パン﹀において︑たしかに志向されるものは同じものだが︑対して志向される

ものを志向する仕方は同じものではない︒というのも︑志向する仕方には︑二つの言葉がドイツ人とフランス人にとっ

てはそれぞれ異なるものを意味すること︑二つの言葉が両者にとって交換することができないこと︑それどころか結局

のところ互いに排除しようとすることが合意されている︒他方︑志向されるものには︑結局のところ︑両者が同じもの︑

同一のものを意味することが帰せられる︒このように二つの言葉において志向する仕方は互いに抗うのに対して︑二つ

の言葉はそれが属する二つの言語においては補完しあう︒それも二つの語において志向する仕方は志向されるものへと

(9)

向うことで補完しあうのである︒︵弓\

YE

︶

ベンヤミンによれば︑宮宮と尽旦は︑それぞれ固有の﹁志向する仕方佳作町二

2

冨

2 5

5

﹂をもっ︒つまり︑パンを狙う

ために︑フランス語は﹇

Um﹈

︑ド

イツ

語は

E B

己という音声形態を介さなければならない︒もっとも︑志向する仕方は音声

形態そのものを指すわけでもない︒なぜなら︑音声形態そのものを取り出したにせよ︑そこに意味を狙う仕方があらわにな

るわけではないからである︒さしあたってここでは︑志向する仕方を︑たんなる音のつらなりを統一し︑特定の仕方で意味

へと方向づける様式Hスタイルであると解釈しておきたい︒志向する仕方とは︑それ自体として︑たとえば音声形態として

言語から取り出される対象ではなく︑二つの言語の相互関係を通してのみ見いだされるような志向の一側面なのである︒

諸言語の補完

志向する仕方と純粋言語との関係を引き続き考えるために︑言語と意味との関係を比聡で語っている次の引用を検討する

﹂と

にし

たい

︒

というのも︑原作においては内容と言語は果実と表皮のように一定の統一性を形成しているのに対して︑翻訳の言語は

自らの内容を︑豊かな壌をもっ王のマントのように包み込むからである︒なぜなら︑翻訳の言語は︑自ら自身よりも高

次の言語を指示する

p a g Z

円︺からであり︑それによって翻訳の言語は︑自らに固有の内容に対しては︑不適切で︑途

轍もなく異質なのである︒︵弓\

Y5

︶

(10)

原作において言語と意味内容は表皮と果実のように一体を成しているのに対して︑翻訳においてこの一体性は解かれ︑王

のマントと身体のような関係となる︒すなわち︑翻訳においてある語は意味との関係を緩める︒そのとき翻訳において﹁高

次の言語

2 5 5 Z 5 8 5

♀立すなわち︑純粋言語への指示ないし志向があらわれるのである︒ちなみに︑右の

σ 包

g Z

ロ の

用法において︑この語が﹁高次の言語﹂への志向を意味していることがはっきり読み取れるが︑先に回

a g

認を﹁指示﹂

E

と訳出した主要な典拠は︑この引用における用法である︒

以上のことを︑水という語を例にして考察しておこう︒たとえば︑水を︿司自

ω R

﹀という表現でしか狙うことができない

ドイツ語は︑水を︿

g z

﹀という語によって狙うフランス語に出会うことによって︑そしてゆきをドイツ語に翻訳する行為に

おいて︑水が者

gS

円によって指示されることが必然的ではない可能性︑

g

ロによっても水を志向できる可能性を見出すだろ

う︒言い換えれば︑当包括円という語と水との関係の恋意性が︑そのとき浮かび上がるのである︒あるいは︑翻訳が問題にな

るかぎり︑当

g ω

白という語は︑あくまで

g z

の翻訳語︑その代替物でしかないのであり︑その意味で︑当

22

円と志向され

るものとの関係は︑自国語のうちで用いられる場合とは根本的に異なると一言うこともできよう︒このような翻訳語としての

宅 問 凶

ω ω

日のあり方においてこそ︑志向する仕方がはっきりとあらわれる︒そこで巧

E 8 H

という語は︑自らの志向作用をいわ

ば宙づりにされ︑意味との関係もまた括弧に括られるからである︒

しかし︑いかにして当

g ω O

円が

0 2

という語の志向する仕方の代替物となりうるのだろうか︒別の仕方で言えば︑二つの語

は一言語のなかでは互いに排除しあう関係にあるが︑この排除の関係は︑いかにして補完関係に反転するのだろうか︒翻訳

純粋言語への志向 において︑当

S2

円という語がもっ意味への志向は中断する︒そして︑まさにそのとき︑垣島

ω R

という語は︑

g z

という語の

志向する仕方と補完関係に入る可能性をもつだろう︒自らと意味との関係を様めるかぎりにおいて︑当

28

円は

g z

のように

志向する可能性を得るからである︒ベンヤミンは器の破片の比聡を用いて︑翻訳における二つの語の志向する仕方は︑二つ

の破片がそうであるように互いに似る必要はないが︑そのかたちに沿って正確に合致しなければならないと述べているが︑

(11)

語と意味の関係が緩むとき︑いわば宅

g ω

日は

︑

g z

の志向する仕方に正確に対応するような志向のあり方を自らのうちに形

作ることができるようになるだろ日︒この事態は︑当然

g

ロという語にも当てはまるo巧

28

円という語のもつ志向のあり方

の特殊性が

g c

によってもたらされるならば︑逆もまたそうなのであり︑そのときにおいてこそ︑この排除の関係は補完関

係に

反転

する

︒ この志向する仕方の互いの補完行為︑つまり翻訳行為によってこそ︑諸言語がもっ純粋言語への関係が表現される︒極端

に言えば︑当

g ω R g

もロもそれぞれ水という意味を現前化させることがないときに︑両者が水という意味を意味しえないと

きに︑両者が意味を超えるものを志向していることがあらわになると言ってもいいだろう︒このように翻訳行為のさなかに

おいては︑志向する仕方から意味が脱落するのである︒ベンヤミンがヘルダlリンのソフォクレス翻訳を引き合いに出しな

がら言うように︑徹底した翻訳においては︑意味が根源的に失われる可能性にさえ言語は晒されており︑翻訳とは﹁底なし

の言語の内奥

g

含巳

2 0 8 5

各宏貯ロ﹂に踏み入る行為でもあるのだ︒

翻訳の表現様態

諸言語の補完関係が志向する仕方の補完関係である以上︑純粋言語への志向は翻訳を通してのみ明らかになる︒ただ︑諸

言語が︑潜在的に純粋言語を志向しているということは︑やはり自明なことではない︒そもそもそれぞれ同じ意味を志向す

る語が︑なぜ意味を越えて︑意味以外の何か︑すなわちひとつの同じものを志向しなければならないのだろうか︒個々の言

語における語は︑フッサlルの用語を用いて述べれば︑その都度の意味志向に対して意味充実が与えられるとき︑その機能

を十全に果たす︒つまり︑諸言語においてひとつの同一のものが志向されることを言語一般の根本的機能として想定するこ

とに何らかの音ω義があるとはすぐさま言うことができないのである︒はたして純粋言語は言語の本質の理解に貢献するもの

(12)

なの

だろ

︑っ

か︒

この間いに答えるために︑翻訳が行う表現についてさらに検討を加えておきたい︒先に指摘したように︑翻訳は﹁諸言語

の互いに最も内的な関係﹂︑すなわち親縁性を表現にもたらす︒この表現についてベンヤミンは次のように述べている︒

翻訳は︑この隠された関係そのもの︹H諸言語の内的な関係︺を啓示することはできず︑産出することもできない︒し

かし︑翻訳は︑この隠された関係を︑萌芽的に︑あるいは内包的に現実化すること︹

r s z

沖

a

R E o s

−︿︿

2 3

再出

の宮

︺

によって︑表現することはできる︒それも︑指示されるものを産み出す萌芽的な段階の試みによって︑この指示される

ものの表現︹色

0 8

口問

旦色

g m o E g

回包

g z

z

ロ︺は︑非言語的な生の領域においては︑たとえほとんど見いだされない

としても︑まったく独得の表現の様態なのである︒というのも︑非言語的な生というものは︑類比性やしるしにおいて︑

内包的な︑すなわち先取的であり予兆的な現実化

F Z E 0 5 0

ν

5

ヨ

己 −

F︿

R m

B g

同

F

信

号

E B

号 万円 三円

W F F g m

︺とは

異なるタイプの示唆︹

E E g E

お︺を知っているからだ︒すなわち︑念頭に置かれている諸言語の内的な関係とは︑実

際︑奇妙な収束の関係なのである︒︵ヨ\

r H H 円 ︶

ここで述べられているのは︑翻訳が諸言語の親縁性を示すとしても︑この示しが限界をもっていること︑同時に通常の記

号とはことなり︑翻訳という表現様態が︑内包的︑先取的︑予兆的な現実化を行えるという特徴をもっていることである︒

もちろん︑この﹁現実化

5 2

耳 目 付 F g

m

﹂という語は﹁翻訳可能性﹂に対応して用いられている︒原作の可能性は翻訳を通

して現実にいたるが︑この到達は翻訳においては︑内包的︑先取的︑予兆的な現実化にすぎない︒このことをいかに理解す

ればよいのだろうか︒ここでは内包性や先取性の哲学史的な合意を検討することは措き︑議論に必要な範囲で︑翻訳の表現

様態に考察を加えたい︒

(13)

ベンヤミンは非言語的な領域において︑翻訳がもつような表現様態に出会われることはないと述べている︒たとえば︑白

然の領域において︑雨雲は雨の予兆になりうる︒この意味で雨雲は雨の予兆的表現である︒しかし︑雨雲がそのようなしる

しとなるのはあくまで雨雲を先触れとみなす存在者によってである︒雨雲と雨との関係は︑それ自体は自然的関係であるが︑

その関係を超えて︑両者を記号的な結びつきとして措定する存在者があって︑はじめて雨雲はしるしとなる︒

それに対して︑翻訳は﹁諸言語の最も内的な関係﹂を表現しようとするが︑この表現関係において両者を措定するような

存在者は存在しない︒なぜなら︑諸言語はアプリオリに﹁一一百わんとすること﹂に対して親縁的であるからだ︒つまり︑翻訳

が諸言語の親縁性を先取的に表現することができるのは︑そもそも諸言語が純粋言語への志向を﹁萌芽的に﹂苧んでいるか

らなのであり︑翻訳がもっ独得の表現様態は言語の構造にいわば基づいているのである︒

このような考え方からすれば︑言語は純粋言語の先取という構造をアプリオリに包含していることになる︒この先取によっ

て︑つまり絶対的な志向されるものによって志向が成立するのならば︑純粋言語との関係において言語は生起するのであり︑

この意味で純粋言語は諸言語に絶対的に先行するもの︑諸言語の根拠であると言うことができよう︒ここから言語を用いる

人聞が言語に先取的構造を与えるのではないことが少なくとも帰結する︒さらには︑このような言語構造のうちに︑人間は

そもそものはじめから存在すると一言うこともできよう︒つまり︑言語と﹁指示回

a g

g

ロ色︑そして指示の宛先である純粋言

語との関係は︑言語を操作する存在者によって外的に定められるのではなく︑言語の構造を根抵から規定するものであり︑

外的ではなく内的なものなのである︒

言語に先行的に与えられる純粋言語への志向が︑なぜ翻訳においてのみあらわになるのだろうか︒かりに言語が純粋言語

への志向をアプリオリに苧んでいるならば︑この言語のうちに根本的に隠された志向は︑決して一言語のうちで︑その使用

者によって見いだされることはないだろう︒言語が自らの内奥に秘す純粋言語への志向は︑いわば言語の内面性を形成する

と言

える

が︑

一般に内面性と関係するのは︑それを苧むもののみであり︑この場合︑秘された志向には︑言語のみが接近す

(14)

ると考えることができるからである︒翻訳が言語のもつ純粋言語への志向に触れることができるのは︑とりもなおさず︑翻

訳が言語を言語によって反省する形式であるからだとさえ言うことができるだろ日︒

純粋言語とは何か

翻訳が言語の反省形式であるとするならば︑それも言語がもっ志向の反省であるならば︑反省としての翻訳は一言語内で

は問うことのできない︑言語の根本的な志向のありょう︑純粋言語との関係を問いただすと言ってもいい︒つまり︑翻訳と

は︑言語の根拠を︑要するに言語が何であるかをあらわにする形式なのである︒

すでに明らかであるように︑ベンヤミンは︑志向の概念を手がかりに言語の根本的なありょうを追究している︒特定の語

が何かを志向するには︑そもそも言語が何かを狙う構造をもっていなければならないが︑言語が複数存在する以上︑ある言

語が何かを狙う構造をもっていたとしても︑この志向のあり方は特殊なものでしかなく︑それもこの志向はつねに意味との

関連で了解されてしまう︒ベンヤミンが述べるように︑複数の言語を問題にする場合︑言語と意味のかかわりは諸言語のあ

いだでは互いに排除しあう︒つまり︑普遍的な志向のあり方を一言語のなかで語ることはできないのである︒純粋言語の概

念は︑この普遍的な志向のあり方についての問いに答えるものとしても構想されている︒

純粋言語への志向

もはや何も志向せず︑何も表現することがなく︑表現を欠いた言葉︑創造的な言葉として︑すべての言語において志向

されるものであるこの純粋言語において︑最終的に︑すべての伝達︑すべての意味︑すべての志向は︑それらが消滅す

るよう定められているある層に遭遇する︒︵弓\

rS

︶

(15)

まず言語が︵純粋︶言語を志向するとされていることに注意したい︒言語が狙うものは︑意味でも指示対象でもなく︑言

語そのものとしての純粋言語なのである︒言語が言語を志向することの意味は次のように捉えることができよう︒先に述べ

たように︑諸言語が純粋言語との関係によって存立するならば︑純粋言語への志向とは︑自ら自身の根拠への志向であるこ

とになり︑根本的に自己回帰的・反省的なものである︒純粋言語との関係は︑言語の根本的な自己関係なのであり︑この関

係を翻訳は反省する︒ここから翻訳が合目的的な現象と呼ばれていたことの本来の音山味を汲み取ることができるだろう︒翻

訳は言語による言語の根拠への遡行なのであり︑言語自らが自らによって自らが何であるかをあらわす形式なのである︒こ

のような存在が言語にとって目的に適っていることは当然であると言えるだろう︒

次に問題にしたいのは︑純粋言語が無志向の言語︑表現を欠いた言語と呼ばれていることである︒記号というものをいか

に理解するのであれ︑言語は記号とともに与えられるしかない︒一言語は自らをあらわにすることで︑別の何かを示す構造を

もつが︑この別の何か||究極的には世界そのものーーを示すために記号性は必要不可欠だからである︒しかし︑純粋言語

にあっては︑自らをあらわにすることが︑何も示さないことであり︑まさにこのことによって世界そのものを自らとして現

出させると言えよう︒純粋言語は︑記号性を徹底的に欠いたまま︑純粋に意味なきものとして︑いわば純粋に透明な媒体と

して自らを示しながら︑同時に世界を与えるのである︒純粋言語においては世界と言語の関係そのものが消失し︑言語と世界

は無差別に一致している︒この意味で純粋言語は﹁真理の言語﹂なのであり︑よってまた﹁真の言語なのである﹂︵円︿\﹁忌︶︒

さらにベンヤミンが﹁創造する言葉﹂という表現を用いていることを考えれば︑この真の言語が︑﹃創世記﹄における神の

創造する言葉に比されていることは明らかであろう︒神は言葉によって世界を創造するが︑そのとき言葉はいかなる志向も

表現ももたず︑そのまま光を︑天地を現出させる︒言語行為の遂行と世界の創造の無差別においてこそ︑おそらく純粋言語

は見いだされ刻︒純粋言語が創造する言葉であるなら︑それは世界を与える遂行性そのもの︑この世界の根源的な与えその

ものであり︑諸言語に﹁純粋言語の種子骨片

E 5 8 5 E 2

8 5

島

︒﹂

︵︿

包・

弓\

﹁に

︶が

秘め

られ

てい

るの

なら

ば︑

世界

の意

味

(16)

はアプリオリにかつ﹁萌芽的に﹂諸言語に含まれており︑あらゆる語は︑それを基盤にして何かを志向していることになろう︒

諸言語における純粋言語

何も意味せず︑志向を欠いていることは︑純粋言語においては︑世界の現出と同義であると考えられるが︑諸言語におい

ては︑何も意味せず︑志向を欠いていることは︑いわば記号的な契機であると言える︒そして︑諸言語においては︑この契

機によってはじめて志向が成立するだろう︒なぜなら︑言語は自らを示すことによって︑自らとは根本的に異なるものをあ

らわにするが︑そのとき言語は自らとは異なるものを示すために︑つまり意味の代替物になるために︑自ら自身は何も意味

しないという︑いわば記号的な契機を苧まざるを得ないからである︒ただ諸言語において︑この記号的契機はたんなる代替

性であり︑純粋言語のように無意味であることにおいて何かを示すことはなく︑むしろ自らが無意味であることによって︑

意味との関係を設立し︑意味への志向を切り開く︒つまり︑純粋言語が与える言語の可能性は︑純粋言語との関係から離反

することによって生じるのだ︒さらに言語における記号的契機は一度意味と結びつくやいなやそれと一体化してしまう︒記

号はいわば﹁重い﹂意味を背負い込むのであ針︒そのとき記号は自らの本源的な意味を欠いた媒体性をほとんど失ってしま

うことになろう︒この記号的契機と意味との結びつき方の具体的なあり方こそが︑志向する仕方にほかならない︒

そうであるとするならば︑志向する仕方は︑一方で重い意味を担う通常の意味での記号的な側面をもっと同時に︑他方で

純粋言語への志向

純粋言語へと連なる意味を欠いた記号的契機をもつことになる︒ベンヤミンは後者を﹁象徴﹂の概念によって語っているよ

うに思われる︒

とはいえ︑ある言語形成物の意味︹印宮口︺が︑その伝達と同一視されても差し支えない場合にも︑意味のまったく近く

(17)

とはいえ︑やはり無限に遠くに︑音山味のもとに隠されているとはいえ︑あらゆる伝達を越えてはっきりと︑意味によっ

て屈折させられているとはいえ︑あらゆる伝達を越えて強力に︑究極の︑決定的なものが存する︒すべての言語︑そし

てまた言語による形成物のうちには︑伝達可能なもの以外に︑伝達可能ではないものFEZ

−各

ヤ冨

宮色

E B ω

︺が︑それ

が見いだされる連関にしたがって︑象徴するもの︹芝居ぎ宏ほお

E g

︺と象徴されるもの︹∞可

BU

♀在

1

︒

2

︺が存してい

る︒象徴するものは︑諸言語の有限な形成物のうちのみにあるが︑象徴されるものはと言えば︑諸言語そのものの生成

のう

ちに

あり

つづ

ける

︒︵

弓\

YS

︶

ベンヤミンは︑意味ないし伝達とほとんど区別できないかたちで﹁伝達可能ではないもの﹂が言語ならびに言語作品に存

していると言い︑それを﹁象徴するもの﹂と呼んでいる︒またこの引用のすぐあとで︑﹁象徴されるもの﹂は︑はっきりと純

粋言語と結び付けられている︒﹁伝達可能ではないもの﹂は︑まさに意味を欠いたものであり︑それが象徴するものと呼ばれ

ていること︑そしてすぐあとで﹁言語的なもの

8 5

♀

r F

﹂︵円︿\﹁巴︶と言い換えられていることは︑ある種の記号性が

g

純粋言語に連なるものであることを示唆している︒何ものも意味しない純然たる記号性は︑何ものも意味せず︑伝達せず︑

志向しないかぎりにおいて︑純粋言語への指示を表出するだろう︒通常は重い意味を担わされている記号は︑翻訳において︑

自らの志向する仕方を︑外国語がもっ志向する仕方に沿って形成し︑意味から自らを解放すことによって︑自らの起源を取

り戻そうとするのである︒

お わ り に

以上を踏まえて︑諸言語において純粋言語が志向されることの意味を述べておきたい︒純粋言語は︑いわば世界を現出さ

(18)

せる秩序Hロゴスと解釈できるが︑その意味でヘラクレイトス以来の西洋哲学における言語理解の伝統を基本的に踏まえる

ものであり︑また創造する言葉というヘブライの伝統をも受け継ぐ概念であることは間違いない︒このようなロゴスの概念

が|﹁翻訳者の課題﹂においては一箇所︑ロゴスへの言及︑﹁はじめに言葉ありき﹂の引用があおーー︑翻訳との関係長

いて問いただされていることがベンヤミンの思考の特徴である︒その際︑翻訳は︑実践的な行為としてだけではなく︑言語

の存立の根拠を反省する形式として捉えられているが︑この意味でベンヤミンの言語哲学は︑翻訳の形而上学と言ってもよ

い側面をもっている︒

翻訳の形而上学は︑原作の言語を理解しない読者のための翻訳という経験に依拠する理解を退け︑いわば絶対的翻訳の可

能性︑すなわち︑意味を介さずとも言語が言語であるかぎり︑絶対的に翻訳可能であることを示さねばならないが︑そのと

き諸言語が意味ではなく︑ひとつの同じものを志向しているという想定は︑このような翻訳の基礎づけのためには必要不可

欠なものとなることは容易に理解できる︒さらに純粋言語の想定が︑諸言語の根拠への聞いを言語によって思考しようとす

る試みにとっても避けがたいものとなることも同様である︒しかし︑この想定そのものの根拠づけを行うことがなければ︑

ベンヤミンの思考は不十分なままにとどまることになろう︒以上の読解では触れることができなかったが︑ベンヤミンは︑

この可能性を歴史の概念との関連で追究している︒最後に︑今後の課題を簡潔に素描することで︑論述を締めくくりたい︒

﹁象徴するもの﹂という言語の記号的契機は︑諸言語の生成ないし﹁言語の運動﹂︵弓\﹁

5

︶においては﹁象徴されるも

の﹂として︑ある種の変転のうちに隠されているが︑それこそが﹁純粋言語の核﹂︵︿同\

YS

︶である︒この核を成熟させる

ことが翻訳者の課題であるが︑この課題を果たすことにおいて諸言語もまた自らの根拠へと生長していく︒つまり︑翻訳と

は︑純粋言語という根拠を生長させながら︑すなわち︑自らの根拠を根拠づけながら︑同時に自らを根拠のうえに据える行

為なのである︒ベンヤミンはこの過程を歴史と呼んでいる︒それが歴史と呼ばれること︑またそれゆえにベンヤミンの歴史

概念が言語ならびに翻訳行為と本源的な関係を取り結んでいることの意味こそが︑これから解明されるべき課題にほかなら

(19)

亀',,.口4ミD,ニ,

組

(ー)V gl. Charles Baudelaire, Tableaux Parisiens. Deutsche Ubertragung mit einem 防rwortiiber die A句倉αbedes Ubersetzers, franzosisch und 

deutsch, Heidelberg 1923. 

(N) て入令II(入~lトぞ\tくム担当トeく川越最長0;;;m;sロート講話{ゆ!-1.ι~0ν綱案説Pトlト出ト講話併!‑1.吋0い令車総入j同(緩和語1時

4

眠時0Walter 

Benjamin, Gesammelte Sehr併en.Unter Mitwirkung von Theodor W. Adorno und Gershom Scholem hrsg. von Rolf Tiedemann und 

Hermann Schweppenhauser. Biinde I‑VII, Frankfurt am Main 1972‑1999. 

(的)Vgl.IV/1,15,17. 

(叩)'~ャーミぐ七ミィ・「\快入・「\入:長七ミム士主’崎時l]nrr聴会}嘩:{W~1]11rr相g~♂J宮崎員会tr:\布エ,...JK~ヤ弐申「-K'.fili]llIT穂高全信innereSprachform

」

..lJ昔、ミヰ」。て入与−11r入e「11'2壁1"'ト~:t:l+宍」e量三相当'£:'.君津さtr:\~量三拍e題厚生Q睦苦手早.J~号時..lJ~r毛布1°'fJ心存~t--'柏崎。Vgl.Wilhelm 

von Humboldt, Uber die Verschiedenheit des menschlichen Sprachbaues und ihren Einjluss auf die geistige Entwickelung des 

Menschengeschlechts (1830‑35), in: Gesammelte Schriften, hrsg. von der Koniglich PreuBischen Akademie der Wissenschaften, Berlin 

1907, Bd. VII, S. 80 ff. 

(L!J) Vgl. IV/l, 18. 

(也)V gl.IV /1, 21. 

(ト)て入伊rrr,\~塑制吋νエ記事E糾叫若布状昔話!-1.-RM'!i0ド~,lトャトll ~ ~,校入ム’!1~ H入i」~士時制高〔Antizipation〕e握併

~謹i招4眠時帝国持込~時為Pf J Q鴨盟主EE;~盤側!-1.鰭D~エ。frn~~~単組会1穏\\~纏わ<..lJ,.._)ド当~}ι会J.j)相堕~~fJ判。Vgl.Werner 

Hamacher;Intensive Sprachen,in: Ubersetzen:防'alterBenjamin, hrsg. von Christiaan L. Hart Nibbrig, Frankfurt am Main 2001. 

(∞)て入伊II(入当’5雲毒~1111目指g~~~どQ憎岳会iM窪田はが時入j,明t.(「盟れ1~ ~ verborgen

」

..lJ;二小聴会1戦

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(20)

︵一九一九︶において︑批評を原作の反省と規定していることの類比性から導き出されるものであり︑決して恋意的なものではな

い︒

m︿− − H\﹁足時・﹁翻訳者の課題﹂においてもロマン派の批評概念が参照され︑イロニlの概念が翻訳の成し遂げる仕事に結び

付け

られ

てい

る︒

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︵叩︶﹁言語一般および人間の言語について

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は神の創造する言葉を究極の言語として︑また人間の﹁名前の言語

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﹂の根拠として分析している

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︵西

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参照

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