著者 山本 悠三
雑誌名 東京家政大学博物館紀要
巻 14
ページ 91‑107
発行年 2009
出版者 東京家政大学博物館
URL http://id.nii.ac.jp/1653/00010300/
はじめに
本稿の課題について限定しておきたい。
教化団体連合会は大正 13(1924)年 1 月に結成され、昭和 3(1928)年 4 月に中央教化団体連合 会へと改組されたが(以下適宜連合会と略す)、結成時点からその組織的課題として教化網の拡大 を掲げていた。その具体的な経緯については以下に述べるとするが、当初は府県単位から始まり次 いで市町村単位へと進められていくことになる。
その一方、文部省も教化総動員運動(昭和 4 年 9 月から昭和 5 年 4 月ごろまで)を経る中で連合 会の市町村教化網に着目をすることになる。それが後に社会教育委員の設置へと向かう契機になる が、その具体的な指示は昭和 7(1932)年 4 月に「社会教育振興ニ関スル件」の通牒発布であった。
この経緯に関しても以下に述べることにするが、このことは市町村を舞台として連合会による教化 網の拡大と文部省による社会教育委員の設置が競合する関係になることが考えられる。
とすれば、それらは具体的にどのような展開をしたのであろうか。この課題について筆者は「都 市教化問題の展開と対応」(『東京家政大学紀要』47、48 号所収 2007、2008 年)で触れたことが あるが、同稿は都市教化問題を論じる上での一環として取り上げたもので正面から検討したわけで はない。そのためこの問題に関して改めて考察をしておく必要があると思われた。そこで本稿では まず連合会による市町村教化網の敷設について説き起こし、次いで文部省による社会教育委員の設 置経過について論じ、さらに両者が市町村でどのように競合をしていったのかを明らかにしておき たい。以下の構成はそれに基づくものである。研究史としてはこれまで皆無である。
1 連合会による教化網敷設の経緯 (1)教化団体連合会の成立経緯
教化団体連合会の成立に関しては既に述べたが1)、行論の関係から市町村教化網の敷設に向かう 経緯を要約して述べておきたい。
大正 12(1923)年 9 月 1 日の関東大震災を契機に同年 11 月 10 日国民精神作興詔書が発布されると、
市町村教化網の敷設と社会教育委員
山本 悠三
Network of the cities,towns,villages and Social committee of education Yuzo Y
AMAMOTO国際コミュニケーション科 歴史学研究室
その趣旨を宣伝すべく様々な運動が繰り広げられていく。その過程で内務省から教化団体を結集す ることによりその目的を達成する案が浮上した。そこで東京府内に散在する教化団体に呼びかけた ところ、36 の教化団体がそれに応じたので、この 36 団体を中心に教化団体連合会を設立して国民 に働きかけることになった。
連合会は翌大正 13(1924)年 1 月 15 日に設立の運びとなり、当日設立に関する宣言が発表された。
その宣言には「国民教化ヲ以テ任トスルモノ」は「自ラ其ノ責ヲ大ナルヲ思」い、「慈ニ同志各団 体ノ連合ヲ画」しつつ「弘ク之ヲ全国民ニ及ホ」さなければならないとあった2)。また、宣言にも とづいた決議事項の 1 つに「全国同志団体ヲ勧誘シテ連合ニ加盟セシムルコト」とあったが、その ことは「弘ク之ヲ全国民ニ及ホ」すとした宣言の文言とともに連合会が当初から全国的規模での活 動を視野に入れていたことを窺わせるものであった。その意図は同年 11 月 10 〜 11 日に開催され た第 1 回の全国教化団体代表者大会(以下全国大会と略す)で「特に全国に教化網を布く事」が決 議されていることにも示されている3)。
4 年後の昭和 3(1928)年 12 月 14 〜 16 日に開催された第 5 回の全国大会では、決議事項として「各 市町村単位ノ教化団(体カ―引用者注)ノ設置ヲ促進セシメ教化網ノ完成ヲ図ルコト」があげられ、
希望事項としては「未設置の府県教化団体連合会の設置促進」があげられていた4)。
そのうちまず後者の希望事項に関して補足しておこう。昭和 3 年 4 月に中央教化団体連合会に組 織が改められたことは述べたが、それは個々に加盟していた教化団体をそれぞれの所在地の道府県 の連合会に加盟させ、道府県を単位とする教化団体連合会の連合機関として再編するもので、道府 県の教化団体連合会の会長には各知事(県によっては学務部長)が就任した。改組の時点では 1 道 3 府 20 余県にわたって陣容が整っていたといわれている。翌昭和 4(1929)年 7 月の組織化状況を みると 1 道 3 府 30 県で教化連合機関が設置されていたが、この段階でも 13 の県で未設置というこ とになる5)。全国大会での希望事項は未設置の県を解消することを意図したものである。
また、前者の決議事項は文字通り市町村教化網の完成を目指すものであったが、府県レベルでの 連合機関の結成を第一の課題とする段階にあったため、具体的な提案が見られるまでには至っては いない。とはいえ、決議事項として掲げられていたことは市町村教化網の設置が既に課題となって いたことを意味するものであった。そのことは翌昭和 4 年 3 月 1 日の教化事業調査会の例会で『教 化網の完成 附 教化団体取扱に関する定義』(以下附の部分は略す)と題する要領がまとめられて いることに窺えよう。
ちなみに教化事業調査会とは連合会が成立した直後の 5 月に設置された調査部会が翌大正 14 年 に調査委員会となり、更に中央教化団体連合会へと改組された直後の昭和 3 年 5 月に調査委員会を 解体して設置されたものである。そこでは教化事業に関する事項について会長の諮問に応じ調査審 議することとなっていたが、会長自らがこの調査会の会長を兼任し 25 名の常務委員が業務を担当 していた。
『教化網の完成』は 5 頁の小冊子で、1、教化網の意義、2、教化網完成の必要、3、教化網敷設の 現況、4、道府県連合機関とその組織内容、5、地方教化網の単位を市町村に置かざるべかざる、6、
道府県連合機関の組織単位の 6 項目から構成されている(「教化団体取扱に関する定義」は項目外)。
そのうち 4 の「道府県連合機関とその組織内容」では「不日未設置各地方に於て同種機関を設置 するに至らば、所謂教化網敷設の目的を達成したるもの」とあるように府県レベルの連合機関の完 成を急ぐものであったが、続いて「地方教化網完成上重要なる地位を占むべき市町村の如きは、殆 んど顧みられざるが如き現況にあるは、最も遺憾とせざるべからず」とあるように、課題はむしろ 市町村教化網の設置に移っていたと思われる。
市町村教化網に関しては 5 の「地方教化網の単位を市町村に置かざるべからず」により詳しく述 べられている。そこでは「各地方の教化事業をして真に実効を挙げ」るためには「民衆と至大の交4 4 4 4 4 4 4 渉を有する管下市町村及び市町村所在の各種教化団体の熱誠と真摯なる努力4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4」(傍点は原文)が必 要と述べられているが、具体的な市町村教化網のイメージはそれぞれの自治体単位に教化団体連合 会のほか教化事業協会、教化事業連合会、あるいは教化委員会、民風作興会等々名称はともかくと して、そのような教化機関を設置していくことであった。
(2)教化総動員運動の展開
この小冊子では市町村教化網の具体的なイメージを打ち出していたが、実態としては依然として
「殆ど顧みられざるが如き現況」がその後も続いていた。昭和 4 年 9 月から政府の主導による教化 総動員運動が開始されるのは、連合会がそのような状況にあった時である。教化総動員運動の展開 に関しては既に述べたことがあるが 6)、ここでは主として連合会の動向に即して論じておくことに しよう。
運動の展開としては開始前の 8 月 6 日に文相から教化団体、青年団体、宗教団体、婦人団体等に 対して「自覚ヲ喚起セムコトヲ期」する訓示が出された。次いで文部省から「参加方を勘奨」し「其 の施設計画並にその運動方法等」を「文書を以て提出すべき旨」の通牒が出されると、8 月 14 日 から中央教化団体連合会をはじめ大日本連合青年団、少年団日本連盟、生活改善同盟、日本国民禁 酒同盟等 10 数団体から教化動員の参加計画案が提出された。
連合会の場合「当然の任務として、その運動に参加し、本会加盟の各地方教化連合団体と緊密な る連絡提携を保ち、最大の努力を傾注してその目的の貫徹に邁進す」べく、「逸早く」8 月 14 日に
『教化動員計画案』(以下『計画案』と略す)を提出した7)。その『計画案』によれば「全国教化総 動員の実施は中央教化団体連合会多年の宿志」であると述べられ、連合会が「年来各方面に対して 各種の施設を講じ、諸種の事業を実施し、且普く全国に教化網の完成を促進し以て其の運動の発展 を図らんとして鋭意努力し」てきたのも「全く右趣旨の徹底を期せむが為の方途に外ならず」との エールを送った。
とはいえ「所謂教化網としての全国各府県に於ける既設教化事業連合団体を見るに其の名ありて 実の之に伴はざるものあり其の組織単位の完からざるものあり」という状況にあるため、「本会は 之等の欠陥を補はむとして、『教化網の完成』と題する具体的要項を公」にし「只管其の名実を完 備せしめむ」としてきたが、「今新に教化総動員の大計画に乗じ此の機を逸せず速に年来の宿望を 貫徹するに万遺憾なきを期せん」8)と述べていた。そこには連合会がこの運動に寄せる独自の組織
的課題である教化網の敷設と拡大が込められていたといえよう。
教化総動員運動への連合会の対応としては 9 月 3 日に『教化動員に関する要綱』を発表し、運動 の要旨、方針、方法等に詳細な指示を与えていた9)。そこには「概ね各地方に於て共通的な」もの として「直接宣伝」と「間接宣伝」に分け、前者には講演会、講習会、懇談会、およびラジオ放送、
文書宣伝としてのポスター、パンフレット、リーフレットの使用が、後者には展覧会、活動写真の ほか琵琶、講談、音楽、浪花節等の利用が「効果多かるべ」きものとされていた。
以後の具体的な行事としては、教化講演会や教化に関する講習会に講師を派遣した府県は 26 府 県、講演箇所は 77 箇所、派遣または斡旋した講師数は 42 名、派遣日数は 83 日であった。また、
「今次の教化動員に際して」は各地で地方教化事業懇談会が開催されたが、「特に其の開催地方を増 加して趣旨の徹底」をはかった。日程的には 9 月 24 日の福井市をかわきりに津市、那覇市と続き、
翌年 3 月 25 〜 26 日の富山市まで数箇所の地方都市で実施された。
その結果昭和 4 年 10 月 14 日の沖縄県における連合会(名称は沖縄県教化連合会)の創立を最 後として、すべての府県に連合機関を設置し「所謂教化網完成の第一段を達成」するに至った10)。 その直後の 11 月 10 〜 11 日に第 6 回の全国大会が開催されたが、そこでの連合会による提出協議 事項は「郡市町村教化網完成上適切ナル具体的方途如何」であり、それに関して「郡市町村ニ於ケ ル教化網ハ道及府県教化連合機関ノ内容ヲ充実整備セシムルタメ其ノ構成単位トシテ組織スルコト ヲ要ス」とする意見が提出されていた。
さらに「一、市町村所在ノ各種教化団体並各種教化機関ヲ糾合シテ市町村教化連合会又ハ教化連 盟ヲ組織スルコト……三、市町村教化連合会又ハ教化連盟ヲ組織シ難キ場合ニアリテハ、当該市町 村内各方面ノ有力者ヲ網羅シテ教化委員会ヲ設置スルコト」11)とあり、市町村教化網の名称として 教化連合会、教化連盟、教化委員会等が用いられていた。それらの名称のうち教化委員会以外の教 化連合会と教化連盟は『教化網の完成』には見られなかったが、そのことは市町村教化網の名称に は拘束力がなく、選択枝が多様であったことを意味していたことになる。
そしてこれ以降翌年にかけて「第二段の教化運動」として市町村教化網の敷設が本格的に着手さ れていくことになる。とはいえ、市町村教化網の名称に関してはともかくとして、この協議事項は 前回の第 5 回の全国大会での決議事項でもあったことから、この間に市町村教化網は殆ど進展して いなかったことをはからずも裏書していたことになる。
教化総動員運動の始期はともかく終期に関しては必ずしもはっきりとしない。内閣にあって中心 的な役割を果たしていた小橋一太文相が 11 月 19 日に鉄道疑獄事件で辞任したこともあって、その あたりから「さしたる進展はみられな」12)くなっていたようである。また、文部省でも「本教化運 動は余り長からざる期間内に行ふを本旨と」し「本年度末迄の間に於て適宜施行する」13)と述べて いたことからみて、はじめから比較的短期間内に終らそうとする意図があったようである。
それでも、昭和 5(1930)年 4 月 2 日に文部省が文部次官名で「昨年来実施した教化総動員計画 が一時の宣伝に終るを憂ひ更に今後も国民精神の作興と国民生活の改善を期するため」に、地方長 官宛へ「教化振興方ニ関スル件」の通牒を発して「教化動員の趣旨徹底を期」していたように14)、
運動自体は継続をしていたようである。次にそのあたりの経緯を明らかにしておきたい。
2 文部省の社会教育委員構想
(1)「教化振興方ニ関スル件」の発布
教化総動員運動は浜口内閣の提唱で開始され文部省が推進する形で進められたが、実態としては 連合会がかなりの主導権を発揮する形で展開したといえよう。とりわけ昭和 5 年に入ると連合会が 主となって「第二段の教化運動」に入ったことは既に述べた。連合会としては文部省と連携しつつ 各市町村に教化運動委員会を設置したほか、4 月 29 日の「天長の佳節」を中心に全国教化運動週 間を設定するなどして教化総動員運動の継続をはかっていた15)。
そうした状況下の 4 月 2 日各地方長官宛に文部次官名で「教化振興方ニ関スル件」の通牒が発布 されたのであった16)。その通牒は「昨年来実施シタル教化動員ノ計画ハ、教育教化ニ関係アル諸 団体並個人ノ援助ヲ得テ、相当ノ効果ヲ収メ」たが、その運動を通して「必要欠クベカラザル」こ とは「教化機関ヲ地方市町村ニ至ルマデ普ク設置スルノ一事ナリ」とするものであった。とはいえ
「地方ノ実情ニ依リ或ハ難易アル」ため、「教化網ヲ全国ニ布キ」その「普及徹底」をはかるにあたっ ては 4 項目に及ぶ「留意」点が必要とされた。
そのうちの第 1 項には「市町村ニ於ケル教化機関ノ設置ニ当」っては「大体市町村長ヲ始メ、広 ク教育、教化、修養等ニ関係アル各種団体ノ幹部並篤志ノ個人ヲ網羅シタ」うえで、教化事業協会 あるいは教化事業委員会等名称はともかくとしてそうした組織を作り、「時々協議会ヲ開催シテ、
当該市町村内ニ於ケル教化ノ普及ニ関シ具体的ノ方途ヲ講ズルコト」とあった。
この項目には文部省と連合会の関係が集約されていたといえよう。というのは、教化総動員運動 は内閣が提唱し文部省が主となって開始されたにもかかわらず、途中から連合会がリードする形で 進められることになった。連合会はこの運動に参加することで課題であった市町村教化網の設置を 進めることとなったが、文部省もこの通牒に見られるように教化事業協会や教化事業委員会など連 合会が進める教化網の設置を唱えていた。
このことは連合会がこの運動を途中からリードしたことに対する見返りとして、文部省が連合会 の課題を代弁していたとも言える。その一方で文部省の通牒に教化事業協会や教化事業委員会等の 市町村教化網の設置が盛り込まれていたのは、文部省としても教化総動員運動を経る中で連合会に よる市町村教化網の敷設に着目し、それを先取りする意図があったものと考えられよう。それが次 の社会教育委員構想として具体化していった伏線と考えられるのである。
(2)「社会教育振興ニ関スル件」の発布
昭和 7(1932)年文部省は社会教育委員構想を打ち出すに至った。社会教育委員とは社会教化委 員とも称し、地方長官もしくは市町村長が図書館、実業補習学校、青年訓練所、小中学校等の教職 員、市町村吏員、市町村会議員、学務委員、在郷軍人会、婦人団体、男女青年団、神職宗教家、教 化公益団体関係者その他から選任する名誉職(無報酬)である。そして、町村では部落または字数 を考慮して 10 人内外、市では 20 人から 30 ひとぐらいが「適当」とされ、それぞれに委員会を置
き各府県にも連合会を置いて統制連絡機関とするものであった17)。
社会教育委員設置に関する通牒「社会教育振興ニ関スル件」は 4 月 8 日18)粟屋謙文部次官名で 各地方長官宛に発せられた。それは「社会教育委員並社会教育委員会設置理由」と「委員及委員会」
の 2 種類から成る。
そのうち前者には「一、社会教育振興の根本策として」、「二、社会教育実施主体並実施機関の機 能増進策として」、「三、社会教育行政の円滑策として」の 3 つの大項目があり、各大項目にはさら に 3 つの小項目(計 9 項目)と若干の解説が付されている。各小項目をアトランダムに拾ってみる と、一の場合は「社会教育委員をして民衆の覚醒鼓吹の機関たらしむ」ものであり「社会教育委員 をして社会教育振興の原動力たらしむ」ことなどである。また、二の場合は「社会教育委員をして 社会教育実施機関の諮問機関たらしむ」ことや「社会教育委員をして、社会教育実施機関と各種団 体との連絡機関たらしむ」ことなどである。さらに、三の場合は「社会教育委員をして社会教育振 興に関する行政の補助機関たらしむ」ことや「社会教育委員をして各種団体の指導を便にし、且団 体相互間の連絡促進機関たらしむ」ことなどである19)。
これらの相互関係を要約すると、社会教育委員とは「民衆の覚醒機関」であり「社会教育施設の 普及促進機関」の「原動力たらしむる」ものであり、さらに「社会教育実施機関ともなれば社会教 育振興に関する行政の補助機関ともなって各種団体の指導を便にし、かつ団体相互間の連絡を促進 させる」20)というものであった。そこには社会教育委員の地方行政機構における位置関係と「行政 の細胞機関」としての果たすべき役割が明らかにされていたといえよう。
また、後者は 1、委員は地方長官或いは市町村長に於いて之を嘱託するを常例とし、地方長官が 嘱託する場合に於いては市町村長の推薦に依ること、1、委員の名称は社会教育委員、社会教化委 員等とすること、1、市町村長(6 大都市の区に同委員会を設けたる場合は区長)は必要に応じて 委員会を招集するを得ること、1、委員会の協議事項は其の都度知事及市町村長に報告すること、
とあるように社会教育委員の事務手続き上の取り決め等が詳細に示されていた。
続いて、5 月 27 日社会教育局長から各地方長官宛に「社会教育委員設置ノ趣旨徹底方ノ件」が 発せられた。それは 4 月 8 日の「社会教育振興ニ関スル件」の趣旨を徹底すべく「社会教育委員の 設置に就て」と題する文書を配布するにあたり、「特ニ左記事項」についての確認をするためのも のであった。
その「左記事項」とは昭和 5 年 4 月 2 日の「教化振興方ニ関スル件」で市町村に設置を勘奨した 社会教化委員会は「国民精神ノ作興ト国民生活ノ改善ヲ図ルヲ以テ」組織されたが、「今や社会教 育全般ニ亘リ其ノ振興ヲ期スルノ要愈切ナルモノ」があるため「今回社会教育委員ノ設置ヲ勘奨ス ルニ至」ったというものである。
そして、既に社会教化委員会が設置されている地方は「更ニ其ノ組織ト職能ヲ拡充シ以テ社会教 育全般ニ亘ル振興助成機関タラシム」ることが求められるとともに、「未ダ其ノ設置ナキ地方ハ今後」
社会教育委員を設置することが求められた。とはいえ、「一市町村内ニ社会教化委員会ノ外ニ社会 教育委員ノ設置ヲ勧奨スルノ意味ニハアラズ」との注記が付けられていた21)。
ところで、「教化振興方ニ関スル件」では教化網の名称として教化事業協会や教化事業委員会が 用いられていた。また、『教化網の完成』でもその名称は教化事業協会のほか教化事業連合会や教 化委員会、民風作興会が用いられていた。それに対して、ここでは社会教化委員会という名称になっ ている。ということは教化事業協会その他から社会教化委員会の名称にどこかの時点で統一された ことになる。この間文部省の公的な通達などを掲載する『文部時報』には名称の統一を告げる記事 はみられない。そのことからすると「社会教育振興ニ関スル件」が出された昭和 7 年 4 月 8 日の時 点で社会教化委員会に統一されたものと考えられる。
名称変更の論議に関してはひとまず置くとして、「左記事項」に述べられていたように社会教育 委員は同一市町村内に社会教化委員会と併置をするのではなく、社会教化委員会が設置されていな い市町村に置くことが謳われていた。このことからこれ以降文部省としては既設の社会教化委員会
(つまり連合会)に配慮しつつ、社会教育委員の設置に着手することを意味していた22)。
その職務内容の概要に関しては先に述べたが、「社会教育委員の設置に就て」と題する文書にも 具体的な事項として掲げられていた。それによれば「社会教育に関係ある機関並に施設に就ての十 分なる知識」が必要とされ、「一般青年の修養施設」としての男女青年団、一般青年の「教育機関」
としての実業補習学校、青年訓練所、「修養に関係ある成人団体」としての戸主会、婦人会等、「社 会教育の重要機関」としての教化団体、図書館、博物館等に「完全なる注意を払ふべき」であると いうものであった。
(3)社会教育委員構想の起源
ところで、社会教育委員の構想はいつごろ生まれてきたのであろうか。昭和 5 年 4 月 2 日の「教 化振興方ニ関スル件」に社会教育委員の名称は見られない。その後昭和 7 年 4 月 8 日の「社会教育 振興ニ関スル件」で社会教育委員の名称が出されるまでの間に、社会教育委員の構想がどのように 練られていたのかについては、「通牒」及び「社会教育委員の設置に就て」の文書のいずれからも 読み取ることは出来ない。
では社会教育委員の名称はそれ以前にはなかったのであろうか。あったとすればいつ頃からであ ろうか。そのあたりを検証しておくことにしたい。
大正 10(1921)年 10 月に第 1 回の社会教育主事会議が開催されたが、第 4 回のそれは大正 13(1924)
年 11 月 3 〜 5 日に文部省で開催されている。そこでは諮問案として「農村の現状に鑑み社会教育 上施設すべき事項如何」が提出されたが、その答申案には「特に刻下最も緊切なりと認」められる 11 項目が掲げられていた。
その項目の 1 つに「社会教育指導者の職制を定め各郡には専任者を各町村には専任者又は社会教 育委員を置くこと」とある。社会教育委員が社会教育主事会議で論じられたのはこの時が最初と思 われる23)。とはいえ、どのような経緯からこの場で論じられたのかは明らかではないが、ともか くも社会教育委員の名称は大正 13 年段階で確認出来る。もっとも、その項目にみられる「社会教 育指導者の職制」とは何か。また「専任者」とは何か。さらには各郡に置くのは「専任者」で町村 に「専任者」または「社会教育委員」が置かれるのは何故か。等々の疑問点があるが、それらはい
ずれも答申案の項目から読み取ることは出来ない。
さらに、文部次官の通牒(昭和 7 年 4 月 8 日)「社会教育振興ニ関スル件」で示された社会教育 委員の設置は市町村を範囲としていたが、この会議では「農村の現状」に対処するにせよ町村を範 囲とするものでそこから市は除外されている。そのことからこの答申案の社会教育委員は通牒で示 された社会教育委員とは幾分か異なった職種のようにも考えられる。また、そこでの社会教育委員 が「農村の現状」に対してどのような役割を期待されていたかとなると、具体的なことは不明である。
社会教育委員の名称は翌大正 14(1925)年 10 月の第 5 回社会教育主事会議には見られない。そ して、それ以降社会教育主事会議で社会教育委員の名称が確認出来るのは昭和 8(1933)年 1 月 13
〜 15 日に開催された社会教育主事会議である。そこでは社会教育主事の任務の一つとして「社会 教育委員ノ設置及其ノ指導ニ関スル件」がみられたが、そのことは社会教育委員に対して指導的な 立場にあったことを意味していたことになる(この点は註 25 も参照のこと)。
次に昭和 7 年 4 月 8 日の通牒発布以前で文部省関係者の発言の中に社会教育委員の名称が見られ るのは昭和 6 年で、文部書記官高田休廣の論稿「町村社会教育委員と町村社会教育主事」24)がそれ である。高田によれば「市民の日常生活に現はれて之と直接関係を有する自治生活の最小単位」と「法 制的に公認された自治生活の最小単位」である市町村とは必ずしも一致してはおらず、前者は後者 よりも「更に小さい範囲」にあるとする。この「不一致」は自治制の不振を招いているが、それは さらに「倫理的作用」の欠如をももたらしているとする。そこでその欠如を埋めるべく社会教育委 員の設置を提唱するのであった。つまり、市町村にあって社会教育及び社会教化に関心をもつ人々 を社会教育委員として任命し、その配置については社会教育主事に任せるというものである25)。 また、社会教育委員は「真に奉仕的に努力する人」であり「売名の徒」は「排撃」されねばなら ず、しかも「手当を給し得るなら之に越したこと」はないが、「それが困難な場合に」は「実費弁 償でも止むを得」ず、「それも困難であるならば全く名誉職的に取扱ふのも却てよかろう」とする ものであった。
さらに具体的な活動内容としては青年団や女子青年団に対して「援助を与」え、実業補習学校や 青年訓練所や少年団の「後援会の様な作用」をし、市町村の行事とりわけ「その社会的に広く深き 影響を与ふべき行事の評議員会」のような場合もある。あるいは市町村の祭典や儀式の世話人とい うような場合や、図書館や郷土博物館の維持奨励委員会のような場合もあるが、いずれにせよ「活 動すべき分野は多」くその範囲の広さは方面委員の比ではない。そして、各地方の「志ある者を社 会教育委員とし」て団結すれば、全国的に社会教育委員網が作られ、それに「電流を通じ、気合を かけるのは容易なことであ」るため、社会教育委員の出現が切望されるというものであった。
ここには名誉職であることのほか「活動すべき分野」も「社会教育委員の設置に就て」に示され た社会教育委員の職務内容にほぼ相当するものであった。とすれば昭和 6 年の段階で文部省内にそ の構想を発表する手筈は整っていたことになる。
(4)内務官僚の社会教育委員構想
これ以外にも社会教育委員の構想は内務官僚によって既に大正期から練られていた。その構想は
佐上信一(内務書記官 地方局長)の論稿「農村社会教育振興策」26)及び論稿「農村に於ける社 会教育の現状と其の振興の方策に就て」27)に見られる。ここでは後者に依拠しつつその論旨をまと めてみよう。
佐上によれば現在社会教育の振興は緊急を要する事態であるが、「頗る不振の現状に」あるため 振興方法の「大要」を提案する。その「大要」とは「社会教育の機関を確立」して「其の機能を発 揮」することであるが、「其の中心機関を欠」いているため、「府県庁内に社会教育の中心機関とし て府県社会教育委員会のようなものを設置」することが必要であると説く。府県社会教育委員会は 知事が「首脳者」となり、内務部、学務部及び警察部の各部長が参加することは勿論のこと、教育、
自治、産業、警察等の事務に従事する官公吏のほか、民間の有識者も加えた中から委員を選考する ものとする。
また、幹事として社会教育主事のような「主任者」を置き、府県内の各種社会教育機関の統一連 絡及び社会教育の調査研究に携わることとする。このようにして府県社会教育委員会は主に「府県 内の大組織に依る社会教育の力」を発揮するのに対して、市町村内の各種社会教育機関は「小規模 の社会教育」に従事するものとする。さらに、市町村内では社会教育の地方的中心機関として市町 村教育会や市町村自治会が「社会教育の実施」に当たることとし、それを府県社会教育の中心機関 たる府県社会教育委員会と連携させるとするものであった。
ここで述べられている社会教育委員(会)は文部省が提唱した社会教育委員と幾分か異なった性 格を持つものであったと考えられる。その相違はなによりも府県規模と市町村規模にあり、文部省 の提唱した社会教育委員は佐上の主張では市町村教育会や市町村自治会に相当するものとなってい る。したがって、この社会教育委員会構想は文部省による「社会教育振興ニ関スル件」(昭和 7 年)
に直接結びつくのかはいまのところ不明であるが、ともかくも社会教育委員(会)構想がそれ以前 に内務省からも提唱されていたことを確認しておきたい。
3 社会教育委員と連合会の教化網との競合 (1)府県下の市町村教化網敷設
昭和 4 年 10 月の沖縄県を最後に府県レベルの教化連合機関がすべて設置されたが、市町村教化 網は殆ど未設置の状況にあった。しかし、その後「第二段の教化運動」として市町村教化網の敷設 が着手され、翌昭和 5 年 4 月に「教化振興方ニ関スル件」が発布されると市町村教化網の敷設が具 体化されていくところまでは述べた。次にその後の市町村教化網敷設の経緯を連合会の機関紙『教 化運動』28)所収の「教化網の完成へ」欄その他に掲載されている事例にみていきたい。
兵庫県では郡市町村の教化連合機関の組織化は「未タ設立ヲ見サルモノ多」いため「設立ヲ速ニ シ遂次教化網ヲ完成」すべく、昭和 5 年 6 月 30 日に学務部長から各市町村長や学校長宛に「教化 振興方ニ関スル件」が通達された29)。その「教化振興方ニ関スル件」とは文部省の通牒を受けた ものであるが、兵庫県では 6 月末日になって県下に通達されたことになる。次いで同年 11 月 15 日 から 18 日にかけて、神戸市、姫路市、八鹿町、篠山町、洲本町の 5 市町で各種教化事業団体代表
者の参集を得て協議懇談会を開催し、翌昭和 6(1931)年 3 月頃までに郡市町村教化網の組織完成 に努めることになった30)。
そのうち姫路市の場合をみると昭和 6 年の 2 月 9 日に市の呼びかけで協議会が開催されている。
参会者は方面委員、第 10 師団、騎兵第 10 連隊、歩兵第 39 連隊、憲兵隊、保正会、青年団、婦人会、
在郷軍人会、警察、各宗教団体、各教化団体等の代表者約 30 人であった。その協議会では市内に おける各種教化事業の連絡統一を図り、また教化事業を助成し、教化の普及及び徹底を期するため 市教化連合会結成に向けての協議がすすめられていた31)。
そのような動きを経て、予定期日の 3 月までに県内 5 市のうち姫路、尼崎の両市に、25 郡のう ち津名、有馬、美方の 3 郡に、4 百数十町村のうち 250 町村に教化連合会が組織された。兵庫県で はこれらの町村に若干の補助金を交付するとともに、未設置の郡市町村に設置を奨励して「完全な る教化網の組織を急いでい」た32)。
また、愛媛県では昭和 5 年 7 月 21 日に愛媛県教化連盟大会を開催したところ、県下各郡市教化 団体代表者、教化事業関係者等 110 名が出席した。そこでの協議談話事項には「教化網完成方促進 ノ件」、「教化団体ノ連絡提携ニ関スル件」等があげられていたが、その直後から 5 郡市に教化連盟 の設立をみるにいたった33)。続いて、北宇和郡、上浮穴郡、宇摩郡の 3 郡にも教化連盟が設置さ れることになり、合計 8 郡市に設置されることになった。
そのうち、宇摩郡教化連盟の場合をみると、既に 6 月 26 日宇摩郡三島町公会堂で教化連盟の成 立に関する協議会が開催された。そこには県から社会事業主事補のほか、町村長会長、教育部会長、
青年団長、女子青年団長、神職会長、在郷軍人会、仏教団理事長等が参集し、「一同其組織の必要 を認め」るとともに「薬院を定」め、さらに消防連合団、郡農会、医師会等各種団体にも加入を促 していた34)。
各郡で漸次教化連盟が組織化されていくと、続いて町村にも教化連盟の設置をすることになり、
同年 10 月下旬から 11 月上旬にかけて県下の主要な町村に教化網完成に関する協議会を開催した。
たとえば西宇和郡の各町村には県より荻野憲祐社会事業主事が出向いたほか、郡教化連盟より関係 者も出張し、各種の教化団体代表者、町村当局者、各学校長、町村会議員、区長、神職、僧侶等の 有志に対して教化連盟の趣旨や教化網完成の意義、県下の概況について説明が行われた35)。 そのような取り組みを経て、愛媛県では翌昭和 6 年になると県下の大部分に町村教化連盟が設置 されることになった。そこで、県では「更に完璧を期」すために「未設置の地方に向つて過般猛運 動を開始」することになり、10 月中旬から 11 月上旬までの間に県下 8 カ所で協議講演会を開催し、
教化網の完成を期するとともに「現下の経済事情並思想問題に対する自覚を喚起」した。その結果、
各地で開催したその日に宇摩郡三島町、新居郡西條村、西宇和郡喜須乗村、東宇和郡魚成村、北宇 和郡岩松町の 5 町村に教化連盟が設置されることになった36)。
和歌山県では県当局者や郡市町村関係者並びに有志者により、昭和 5 年から 6 年にかけて県下 225 町村のうち 41 町村に教化委員会が設置された。この設置状況踏まえて全県下でなお設置を徹 底すべく 2 つの方策が示された。その 1 つは市町村教化是の樹立につとめ各種教化運動の徹底を図
ることであり、2 つは教化運動の実践的基礎をその郷土の実生活の上に確立することであった。
その方策を踏まえて昭和 6 年の 3 月 3 日から 9 日までの 6 日間、湯浅、御坊、田辺、和歌山、粉河、
橋本の県下 6 カ所で市町村教化関係代表者会議を開催した。参会者は 6 カ所の合計で 130 〜 140 名 であった。そこでは教化方針及び方法施設等について様々な意見が交換されたほか、各市町村にあっ て 4 月 29 日、6 月 1 日、9 月 1 日のいずれかを期日として市町村教化委員会の設置を完成させるこ とが申し合わされた37)。さらに 4 月 28 日和歌山市に教化統制機関の設置に関する協議会が開催さ れた。そこには市当局者、青年団、在郷軍人会、小学校長、町総代代表委員、各種教化団体の代表 者等 50 余人が出席し、6 月 1 日までに和歌山市教化委員会の設置を決定した38)。
以上兵庫県、愛媛県、和歌山県を事例に市町村教化網の設置状況をみてきたが、その他の府県に あっても設置が図られていたことはいうまでもない。その事例は同じく『教化運動』所収の「教化 網の完成へ」欄その他に詳しく伝えられている。とはいえ、全国的にみると市町村教化網の設置が 進んでいる府県はまだ限られていたといえよう。
この間昭和 5 年 11 月 19 日から 21 日にかけて第 7 回の全国大会が開催されている。そこでの連 合会からの提案事項は「教化統制機関ノ機能ヲ発揮スルニ最モ有効適切ナル方策」39)であったが、
それにはこの時期に進められていた市町村教化網の設置を促進する意図が込められていたことはい うまでもない。
ところで、市町村教化網には様々な名称があったことは既に述べた。再確認しておくと、『教化 網の完成』(昭和 4 年 3 月)では教化事業協会、教化事業連合会、教化委員会、民風作興会等。第 6 回の全国大会(昭和 4 年 11 月)では教化連合会、教化連盟、教化委員会等。そして文部次官通 牒「教化振興方ニ関スル件」(昭和 5 年 4 月)では教化事業協会、教化事業委員会等であった。こ のうち教化委員会と教化事業協会は重複しているため実数としては 7 つである。
『教化運動』所収の「教化網の完成へ」欄には各府県の市町村教化網の設置状況が寄せられてい たことは述べたが、創刊号にあたる昭和 5 年 8 月 20 日付から昭和 7(1932)年 4 月に「社会教育 振興ニ関スル件」が発布されるまでの 2 年近くの間に「教化網の完成へ」欄に掲載された各府県の 市町村教化網の名称は以下の通りである(順不同)。
教化連合会 兵庫県、佐賀県、長崎県、香川県、岡山県、沖縄県 教化連盟 愛媛県、鹿児島県、福井県、和歌山県内海町
教化委員会 京都府、三重県、岩手県、和歌山県(内海町を除く)、千葉県 教化事業協会 島根県
教化事業委員会 滋賀県
教化事業連合会と民風作興会の名称を採用した府県はなく(もしくは確認出来ない)、教化事業 協会と教化事業委員会はそれぞれ 1 県であったのに対して、教化連合会は 6 県と最も多く、教化委 員会が 5 府県でそれに続いている40)。
市町村教化網の名称は各府県でどのように決定されるのであろうか。具体的な内部事情は不明と しても、先に選択枝が多様であったと述べたことにも関連するが、その決定は各府県の裁量に任さ
れていたと考えてよいのではなかろうか。
(2)社会教育委員設置以後の状況
では、昭和 7 年 4 月の「社会教育振興ニ関スル件」が発布されて以降市町村教化網の敷設にはど のような変化が見られたのであろうか。
『教化運動』昭和 7 年 5 月 3 日付に社会教育委員の設置を伝える記事が掲載されていた。そこで は 4 月 8 日に文部次官から各地方長官宛の通牒が発せられた際、同時に連合会にも通牒が発せられ
「一層の尽力を希望する」41)ことが求められたとある。しかし、「教化網の完成へ」欄その他の記事 が伝える社会教育委員の設置状況は府県によって様々であり、総じて文部省の意向を満たすもので はなかった。
『教化運動』昭和 7 年 8 月 3 日付に京都府から市町村長、学校長に対して「今回新たに通牒を発 し社会教育委員会の設置を勘奨する」旨の記事が記載されている42)。これが府県レベルで最初の社 会教育委員設置に関する記事であるが、通牒が発せられてから 4 カ月後ということになる。そのこ とが物語るように同じ時期に長崎県、三重県等では依然として教化連合会や教化委員会の設置に関 する記事が掲載されていた。
長崎県の場合は「社会教育振興ニ関スル件」の通牒を受けて 6 月 22 日学務部長より県下各支庁長、
市町村長等に「時局ニ対シ社会教育振興ニ関スル件」の通牒を発した。その実施要目のうち市町村 にあっては教化連合会の設置を、市町村教化連合会にあっては「連絡協議会開催及ビ統制アル教化 ノ振興」が求められていた43)。
また、三重県の場合昭和 7 年度の事業予定として各市町村に対して教化委員会を組織することを 勧め、それを以て市町村における社会教育諮問機関としての役割を発揮すること。また、社会教育 施設の普及発達を図ること等が目指された。さらに、市町村教化委員会のメンバーには『教化運動』
の購読が勧められていた44)。
このように各府県にあっては「社会教育振興ニ関スル件」が発布された後、それを受けとめつつ も社会教育委員ではなく教化連合会や教化委員会あるいは教化事業協会等それまでの名称による市 町村教化網の設置が続けられていたことになる。
この傾向は愛媛県において顕著であった。愛媛県では文部次官から社会教育委員設置に関する通 牒が出されたのを受け、学務部長を中心に教育課長、社会課長、視学官等が集まって協議を行った。
その結果、愛媛県では既に教化委員が設置されその数も 2600 人を越えており、県教化連盟、郡市 の教化連盟も成立している。未設置の町村もまだ残ってはいるが「遠からずして全県下に完全なる 教化網が出来る」予定である。また、名称も社会教育委員のほかに(社会)教化委員でもよいため
「之を改める必要もな」いことから、「別に更めて社会教育委員の設置の必要」は認められず「現在 の教化委員に対し一層之が普及発達を図る方策をとること」としていた45)。
ここには社会教育委員設置のつけ入る余地もないほどである。愛媛県ほどではないが、熊本県で も昭和 7 年 8 月 15 日に八代郡教化連盟の発会式が挙行され「非常な盛会であつた」ことを伝えて いたが、社会教育委員に関しては「今後新に」設置されることとなり、各町村から合計 800 名を選
び年内に任命を終える予定であることを事務的に告げているのみであった46)。 (3)文相訓示の提出
こうした状況に苦慮してか昭和 7 年 9 月 8 日の学務部長会議において、鳩山一郎文相は訓示の中 で「社会教育ニ関スル件」に触れた際、社会教育の「統制アル活動ヲ促サンガ為ニハ市町村ニ社会 教育委員ノ如キモノノ設置ヲ極メテ必要ト認メマス」ので「各位ニ対シ右委員ノ設置ニ就キ御配慮 ヲ請フト共ニ社会教育ノ改善発達ニ関シ一段ノ御尽力ヲ願ヒマス」47)と述べざるを得なかったほど である。
この文相訓示が出された後昭和 8(1933)年に入る頃から状況に変化が見られてくる。たとえば、
2 月 12 日名古屋市では社会教育委員の結束を固めるため社会教育委員大会が開催されている。愛 媛県では前年の学務部長会議直後の 10 月に県下の市町村長から学校長、教化関係団体長並びに産 業団体長、婦人団体長等約 6500 名を社会教育委員に嘱託した。そのうち市にあっては小学校通学 区を単位に、その他は町村ごとを単位に社会教育委員会を組織してそれを市町村教化網の単位とし ていた。
つまり愛知県は既に社会教育委員の設置が進んでおり、そうした下地が社会教育委員大会の開催 に結びついたと思われる。参会者は名古屋市内各区の社会教育委員をはじめとする関係者約 1 千名 ほどで、連合会から松井茂常務理事が出席し「教化事業の真諦」と題する講演を行った。さらに社 会教育課長から社会教育委員設置の趣旨並びに希望事項についての説明があり、市長から宣言なら びに決議が発表された48)。
また、市町村教化網の設置を進めていた三重県、兵庫県、滋賀県でも社会教育委員の設置が見ら れるようになっていく。三重県の場合文相の訓示を受けると社会教育委員を設置してそれを社会教 育の中枢機関とし、青年団、婦人会、教育会その他各種の教化団体を統制し最善の機能を発揮させ るべく、昭和 8 年 5 月 20 日に社会教育委員会規定を告示し同時に各市町村長に通牒を発した。また、
兵庫県の場合も文部省に方針に則り各市町村に社会教育委員を設置することになり、その細則を制 定して知事から市町村長に委員の人選を依頼することになった49)。さらに滋賀県の場合にはまず
「最初は少数の委員」を「市長村に於て設置」してそれを模範とする方針を打ち出し、8 月 15 日付 で知事から 9 人の社会教育委員に委嘱することになった50)。
そうした変化の背景には文相訓示に加えて前出の昭和 8 年 1 月に文部省で開催された社会教育主 事会議の影響を見落とすことが出来ない。そこでは社会教育委員の活動により各種団体の連絡を緊 密にすること。文部省並びに道府県、市町村は社会教育に要する経費を増額して機能を一層発揮す ることなどを取り決めていたが、それはいわば社会教育委員設置に向けての梃入れを図るもので あった51)。この梃入れが各府県で社会教育委員の設置を促した一因と考えられる。
(4)社会教育委員の累計
とはいえ、その後の社会教育委員の動向は島根県、岡山県、静岡県、和歌山県等で確認出来るも のの、いずれの府県でも社会教育委員が続々と設置されていたというわけではない。そのため、連 合会の進める市町村教化網の敷設と社会教育委員の設置との関係は絶えず軋轢が生じていたと思わ
れる。『教化運動』には特集として昭和 9 年に「教化網の完成を訪ねて」が 5 回組まれたが(3 月 1 日付、3 月 11 日付、4 月 11 日付、4 月 21 日付、5 月 1 日付)、そこには両者の様々な関係が記載さ れていた。
たとえば、それまで「完全なる教化網の組織を急いでい」た兵庫県では、その後郡市の教化連合 会が 90%、市町村の教化連合会が 95%の組織率で、未設置の市長村は 3 市 23 町村であったから「殆 ど完成の域に達し」ていた。一方、社会教育委員は知事から市町村長に委員の人選が依頼され「其 の旨を体し之が設置に努めつつあ」ったが、市町村教化網とは「決して重複するもの」ではなく「其 の設置」は「県下社会教育各機関各団体の連絡提携を図り以て社会教育全般の進展を計らんとする もの」であり、両者は「相共に十分なる活動をなさしめん」とするものであった52)。そこでは両 者が別個な体系にあったとも考えられる53)。
それに対して秋田県では市町村教化連合団体が作られ、その構成員に市町村社会教育委員を充て ることとなった。そこで昭和 7 年 8 月県訓令社会教育委員規定に基づき社会教育委員を設置するこ とにした。その結果、翌年 12 年 1 月までに市町村社会教育委員の組織率は 89%に達するまでになっ た。秋田県の市町村教化網はまさしく市町村社会教育委員会そのものであったといえよう54)。 その一方、県下のすべての市町村教化団体連合会を組織していた岐阜県では、文相の訓令以後市 町村社会教育委員を市町村教化団体連合会と同様の扱いとしていたことが報じられている。岐阜県 では連合会の市町村教化網と社会教育委員とが融合しているようにもみえる55)。また、市町村教化 網の組織率が 90%の佐賀県でも、文相の訓令以後社会教育委員を佐賀県教化連合会(他府県の教 化団体連合会に相当)の地方委員として委嘱する方法を採っていた。その地方委員は市町村長の推 薦により佐賀県教化連合会長(知事)が嘱託するものであったが、これも両者の融合であったとい えよう56)。
これまでみたように連合会が推進した市長村教化網の敷設と社会教育委員の関係は各府県によっ てそのあり方は多様であったが、以下の 3 種類に累計される。
1 つは社会教育委員の設置を市町村教化網に代用したもので、秋田県、愛知県、香川県、島根県、
岡山県、長野県、三重県、石川県等である。2 つは市町村教化網が強固に組織化されているもので、
新潟県、長崎県、兵庫県、山梨県、沖縄県、滋賀県、京都府、奈良県、静岡県、徳島県、北海道等 が該当している。3 つは市町村内にある教化団体や産業団体等すべての団体を包含して「真に全村 的連合団体を設置」しているもので、いわば社会教育委員と市町村教化網との融合型であるが、福 岡県、佐賀県、岐阜県、愛知県、高知県、和歌山県、埼玉県、熊本県、広島県等が該当している57)。 以上の府県のうち例えば愛媛県のようにこれまでみてきた実情から考えて別な範疇に類型化され るべきではと思われるものもあるが、其の後の局面で変容していったことも考えられる(あるいは 類型者の主観であろうか)。たとえそうであったとしてもその実情を明らかにする手掛かりはない。
おわりに
本稿では連合会による市町村教化網の敷設と文部省による社会教育委員設置の関係を極めて粗く スケッチをしたに過ぎない。市町村を舞台にそれぞれがどのような競合を繰り広げていくのかは、
むしろこの後の展開を見通した後でなければ結論に辿り着くことは容易ではなかろう。その意味で は結成後から府県 市町村へと続く連合会の教化網敷設と文部省による社会教育委員設置との関 係をどう理解するのかという課題は問題提起的な段階に達したに過ぎないといえよう。
註
1)拙稿「教化団体連合会の成立事情」(『東北福祉大学紀要』5 巻 1 号所収 昭和 56 年)
2)『社会教育』大正 14 年 7 月号所収「教化運動」
3)『中央教化団体連合会史 十年の今昔』(以下『十年の今昔』と略す)
4)『中央教化団体連合会会報』(以下『会報』と略す)6 号(昭和 4 年 6 月 27 日) p16
5)『会報』7(昭和 4 年 10 月 28 日)p21。つまりこの 1 年 3 カ月間に数県しか増加していなかったこ とになる。なお直後に紹介する『教化網の完成』の「教化網布設の現況」では昭和 4 年 1 月末で 1 道 3 府 24 県となっている(p2)。
6)拙稿「教化総動員運動の展開」(『民衆史研究』18 号所収 昭和 55 年)
7)文部省社会教育局編『教化動員実施概況』(昭和 5 年 9 月)所収 8)前掲『教化動員実施概況』p703
9)前掲『会報』7 号に所収
10)『会報』8 号(昭和 4 年 12 月 28 日)p3。各府県の連合会の名称は殆どが教化団体連合会の上に各 府県名を冠していたが、北海道精神作興会、愛知県教化事業協会、 鳥取県教化連合会、和歌山県 教化連盟等のような名称もある。
11)前掲『会報』8 号 p98 〜 99
12)『日本近現代史辞典』(東洋経済新報社)p142 13)民政党機関誌『民政』昭和 4 年 10 月号 p52 14)『東京朝日新聞』昭和 5 年 4 月 3 日付
15)以下に述べる「教化振興方ニ関スル件」が発布されると、直後の 4 月 10 日連合会会長からも各府 県の教化団体連合会の代表(主に知事)宛に「市町村教化網完成ニ関スル件」を発布し、「官民合同」
で「専ら市町村を単位とする教化連合団体」を組織することを確認している(『教化運動』1934 年 3 月 13 日→以下 34・3・1 と略す 「教化網の完成を訪ねて―1―」)。
16)『文部時報』昭和 5 年 4 月 21 日「通牒」
17)『教育時論』昭和 7 年 4 月 15 日号「市町村社会教育委員設置」。『文部時報』昭和 7 年 6 月 11 日「通牒」
18)文部次官からの通牒の日付は『文部時報』昭和 7 年 6 月 11 日号「通牒」欄と『社会教育』昭和 7 年 4 月 20 日号「社会教育振興と社会教育委員」ではそれぞれ 8 日となっている。一方『社会教育』
同号の「全国に社会教育委員」と『教育時論』昭和 7 年 4 月 15 日号「市町村社会教育委員設置」
では 7 日となっている。ここでは『文部時報』の記述に準拠した。
19)前掲「市町村社会教育委員設置」
20)『教育時論』1686 号(昭和 7 年 4 月 15 日)所収「市町村社会教育委員設置」
21)『文部時報』昭和 7 年 6 月 11 日「通牒」
22)社会教化委員会に対して社会教育委員となっているのは、「社会教育振興ニ関スル件」の中で「従 来ノ委員会トシテノ活動ノ外更ニ委員各自ノ活動」となっていることによるものと思われる。とこ ろで社会教化委員会ではなく何故「今後右ノ組織ト機能ヲ有スル」社会教育委員でなければならな いのであろうか。「通牒」では「社会教育各般ニ亘リ其ノ振興ヲ期スルノ要愈々切ナルモノ」があ
るため、「社会教育委員ノ設置ヲ奨励スルニ至」ったとあることだけしか判明しない。この点に関 して文部省社会教育官の不破祐俊著『我が国の社会教育』(昭和 15 年)で「文部省としてもこの(社 会教化)委員制度の適切なのを認めまして、社会教化委員の普及発達を奨励して参つた」が、「社 会教育の整備発展に伴い右申しあげた教化振興機関というだけでは範囲が限られておりますので、
更にその組織と機能の拡充を図り、社会教育全般に亘つてその促進を図る様に致し、昭和 7 年 4 月 に至つてこれを現在の社会教育委員の制度に改めた訳であります」 (p161)とする記述があるが、
そこに僅かに手掛かりを見いだすことが出来る。
23)『社会教育』大正 13 年 12 月号「彙報」
24)『自治研究』7 巻 11 号(昭和 6 年 11 月)所収
25)昭和 8 年 1 月 13 〜 15 日に開催された社会教育主事会議では社会教育主事の任務の一つに「社会教 育委員ノ設置及其ノ指導ニ関スル件」を挙げているが、社会教育主事が社会教育委員に対して指 導的な立場にあることは、本論で述べられている社会教育主事と社会教育委員との関係(「社会教 育主事に任せる」とした部分)にも共通するものであるといえよう。その関係はそれ以降も基本 的には変わらなかったものと考えられる。
26)『斯民』14 編 10 号(大正 8 年 10 月)、同 14 編 11 号(大正 8 年 11 月)所収 27)『自治研究』5 巻 1 号(昭和 4 年 1 月)所収
28)中央教化団体連合会の機関紙『教化運動』の創刊号は昭和 5 年 8 月 20 日付で月 1 回発行された。
昭和 8 年 9 月から旬刊、昭和 13(1938)年 8 月から月 2 回の発行となる。なお『教化運動』以前 には『会報』が第 1 号から第 9 号まで刊行されていた。第 9 号の発行は昭和 5 年 5 月 25 日である が所在不明である。「教化振興方ニ関スル件」の発布直後であるから、連合会の通牒への対応が詳 しく伝えられていたと思われる。
29)『教化運動』30・8・20「教化網の完成へ」
30)『教化運動』31・1・3「教化網の完成へ」
31)『教化運動』31・3・3「教化網の完成へ」
32)『教化運動』31・4・3「教化網の完成へ」
33)『教化運動』30・8・20「教化網の完成へ」
34)『教化運動』30・9・20「教化網の完成へ」
35)『教化運動』31・1・3「教化網の完成へ」
36)『教化運動』31・12・3「依然健闘を継続しつつある」
37)『教化運動』31・4・3「教化網の完成へ」
38)『教化運動』31・6・3「予報 情報」
39)『教化運動』30・12・20「第 7 回全国教化事業関係代表者大会特集」
40)和歌山県では教化委員会が多いが、内海町のように教化連盟を使用する例もみられる。また鹿児島 県は教化連盟であるが、昭和 7 年 4 月以降は教化委員会の指示が出されている(『教化運動』32・
9・15「教化網の完成へ」)。このほか東京府、大阪府も掲載されていたが、市町村教化網の名称に ついての記載がないため省いてある。
41)『教化運動』32・5・3「社会教育振興のために」
42)『教化運動』32・8・3「社会教育の振興を勧奨する」
43)『教化運動』32・7・3「時難に善処すべく社会教育の振興を期せ」
44)『教化運動』32・8・3「近畿附録」
45)『教化運動』32・8・30「愛媛県と町村教化網」
46)『教化運動』32・11・13「熊本県下一市三郡に」
47)『文部時報』昭和 7 年 9 月 21 日号「訓示」
48)『教化運動』33・3・3「名古屋市社会教育委員大会」。『教化運動』34・4・21「教化網の完成を訪ね て―4―」
49)『教化運動』33・6・3「近畿附録」
50)『教化運動』33・9・1「近畿附録」
51)『教化運動』33・2・3「社会教育主事会議」
52)『教化運動』34・2・1「教化網の完成を訪ねて―2―」
53)『教化運動』34・2・1「兵庫県で社会教育委員の設置」によれば社会教育「委員となり得る者は、
従来の市町村教化連合会の幹事並に学校青年訓練所等の職員、市町村職員、在郷軍人会員、男女成 人青少年団関係者、宗教家などを大体の標準としているから、市町村教化連合会及び其の他の従来 の教化機関とは実に密接不離な関係が有るわけである」とある。とすれば別個な体系というより錯 綜している部分もあるというべきか。以下に述べる類型でそれまでの実情とは異質な類型に加えら れているものもあるが、それはその後に変容していたり別な局面をみせているものがあるためで、
一つの類型に納まらない部分があるということである。
54)前掲「教化網の完成を訪ねて―2―」
55)前掲「教化網の完成を訪ねて―4―」
56)前掲「教化網の完成を訪ねて―4―」
57)『教化運動』34・5・1「教化網の完成を訪ねて―完―」
< 付記 >
本稿は『教化運動史研究』(下田出版 平成 16 年)所収の「市町村教化網の設置と社会教育委員」
の一部に誤記が見つかったこと。また新たに発見した史料に基づいて同稿を大幅に書き改めたもので ある。