• 検索結果がありません。

『共和国か宗教か、それとも──十九世紀フランスの光と闇──

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "『共和国か宗教か、それとも──十九世紀フランスの光と闇──"

Copied!
6
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

う︒評者の考えでは︑﹁歴史によって歴史を克服する﹂という謎めいた成句は︑その表現が見出される直接の文脈において解釈されるのみならず︑﹁歴史と形而上学﹂︵Geschichte und Metaphysik︶︵一八九八年︶という初期の神学論文などとも関連づけられるとき︑はじめてその深い意味が明らかになるであろう︒

  以上︑専門的見地から辛口の批評を述べてみたが︑これはあくまでもトレルチを神学者として扱う立場からのもので︑﹁トレルチにおける歴史と共同体﹂という書名が示すように︑著者の意図は別のところにあるのかもしれない︒そうであれば︑お門違いとの謗りを免れないであろうが︑いずれにせよ︑上記の批判は本書の価値を貶めるためのものではなく︑若い有望な研究者に対する口うるさいロートルからのエールのようなものである︒評者を含めた旧世代の著作とは一線を画する斬新な研究書として︑本書には新鮮な切り口と重要な問題提起とが多く含まれている︒本書によって長い惰眠から目覚めた評者は︑トレルチをもう一度読み返さなければと思わせられた︒瑞々しい学問的刺激に対して︑トレルチ研究者の一人として心からの感謝を申し上げたい︒ 宇野重規・伊達聖伸・髙山裕二編著

﹃ 共 和 国 か 宗 教 か ︑ そ れ と も

││ 十九世紀フランスの光と闇 ││

白水社  二〇一五年一二月刊四六判  三〇〇+四頁  二三〇〇円+税

山  﨑    亮   本書は︑同じ編者らによる﹃社会統合と宗教的なもの││十九世紀フランスの経験﹄︵白水社︑二〇一一年︶││本誌八六輯一号に︑竹沢尚一郎による書評がある││の続編であり︑二〇〇七年に発足した﹁フランス政治思想研究会﹂の気鋭のメンバーが︑十九世紀フランスにおける﹁宗教的なもの﹂の所在を︑八人の思想家││第一章で扱われるボードレールも含めて││の検討を通じて探ろうとした意欲的な論文集である︒

  序章のなかで︑編者の一人である宇野は︑本書編纂の意図についておおよそ次のように述べている︒フランス革命後︑旧来の宗教=カトリックへの批判を通じて︑社会の﹁精神的な基礎﹂を新たに探し求める動きのなかに︑従来の宗教からはみ出た﹁宗教的なもの﹂を読み取ることができる︒その複雑な様相を描き出すという点で︑本書は基本的に前著と同じスタンスに立っている︒ただし︑前著は三・一一の直後ということもあって︑日本社会の動揺期にあたって新たな﹁精神的基礎﹂を探求する上での参照点として︑十九世紀フランスの経験が引き合い

(2)

第三章 モノに魅惑されたリベラル   ││ミシェル・シュヴァリエ      髙山裕二鼎談 シャルリ以後の新たなフランス学に向けて   前篇 宇野・伊達・髙山Ⅱ共和国の聖人たち第四章 ﹁普遍史﹂とオリエント

  ││ジュール・ミシュレ 杉本隆司第五章 詩人が﹁神﹂になる時   ││ヴィクトル・ユゴー 数森寛子第六章 ﹁国民﹂と社会的現実   ││マルセル・モース 赤羽  悠第七章 社会主義と宗教的なもの  ││ジャン・ジョレス 伊達聖伸鼎談 シャルリ以後の新たなフランス学に向けて   後篇 宇野・伊達・髙山   ﹁Ⅰ反動の後で﹂では︑主に世紀前半に活躍した思想家たちが取り上げられる︒

  第一章では︑反革命論者として著名なメーストル︵一七五三︱一八二一︶のカトリック擁護論と︑それを換骨奪胎して独自の﹁神なき宗教﹂を構想したボードレール︵一八二一︱六七︶が扱われる︒メーストルは︑キリスト教の﹁愛の神への信仰﹂による反革命を正当化すべく︑フランス革命とその後の恐怖政治を︑異教的世界観を前提とした﹁怒りの神﹂への﹁犠牲sacrifice﹂とみなす︒ボードレールはメーストルのこの仮構を に出されていた︒そこでは︑宗教についておおっぴらに語られる︑たとえばアメリカ社会とは異なって︑日仏いずれの社会も﹁宗教の語りづらさ﹂という点で共通するという認識が前提となっていた︒

  これに対して本書では︑シャルリ・エブド事件に対する日仏の反応のズレ││﹁私はシャルリ﹂を合言葉に︑表現の自由の保障を求めて一致団結したフランス社会と︑そのような一枚岩の反応に対して違和感を抱いた日本社会││を考える参照点として︑十九世紀フランスにおける﹁宗教的なもの﹂が据えられる︑という︒さらに︑前著の執筆者の専門分野は政治学︑宗教学︑社会学であったが︑本書にはそれに加えて文学研究者による論考が含まれる︒十九世紀フランス思想史における﹁宗教的なもの﹂の所在が︑前著以上に多様な視点から追求されている︑と言ってよかろう︒

  本書の全体像を俯瞰するために︑まずは章ごとのタイトルを列挙した上で︑第一章以下の内容を宗教学の視点から手短に概観し︑最後に若干の評言を試みたい︒

序章 ﹁宗教的なもの﹂再考   ││シャルリ事件を超えて 宇野重規Ⅰ反動の後で第一章 二つの宗教の狭間に

  ││ジョゼフ・ド・メーストル 川上洋平第二章 近代世界という荒野へ   ││シャトーブリアンと宗教 片岡大右

(3)

増大︵成長︶に対する実直な信仰﹂はシュヴァリエのなかでその後も継続し︑それは︑経済成長を支える権力集中の是認に結び付いた︑とされる︒

  ﹁Ⅱ共和国の聖人たち﹂では︑もっぱら十九世紀後半の思想家たちが扱われる︒

  第四章で取り上げられるのは︑ミシュレ︵一七九八︱一八七四︶である︒杉本は︑処女作﹃世界史序説﹄︵一八三一︶と晩年の﹃人類の聖書﹄︵一八六四︶に共に見られる﹁普遍史﹂の構想の内実を検討することで︑いわばリベラル・カトリックから反教権主義への︑この歴史家の移り行きを描き出している︒前者のなかでミシュレは︑世界史を神の摂理としての自由の展開ととらえ︑その頂点にキリスト教を置いていたが︑後者では︑当時流行のオリエント学の知見を援用しつつ︑自由・平等・愛といったフランス革命の理念を︑インドやギリシア伝来の普遍史的展開のなかに位置づけようとしたのであった︒

 第五章は︑﹁国民詩人﹂たるユゴー︵一八〇二︱八五︶を扱う︒数森によれば︑過激王党派詩人として﹁文学的なカトリシズム﹂から出発したユゴーは︑自由主義に転じた後も︑神の言葉を伝える﹁詩人の使命﹂を一貫して自覚していた︒彼はみずからが﹁神を信じる者﹂であることを繰り返し宣言するが︑その﹁神﹂はカトリックなど既存の宗教の枠には収まり切らない独自の存在であった︒教会批判を強めてライシテの確立を求める一方で﹁真の宗教﹂を探求しようとする彼の姿勢は︑とくに一八五一年以降の亡命生活のなかで深められていく︒晩年︑第二帝政の崩壊を機に帰国してからは︑ユゴーは第三共和政の 積極的に引き受けて︑﹁怒りの神﹂を人間の内面に転生させ︑これを﹁悪魔﹂として表象し︑みずからが希求する﹁悪そのものから導かれた︑神なき宗教﹂の﹁新たな聖性の源泉﹂に据えるのである︒川上は︑このようなボードレールの︑いわば﹁悪の宗教﹂に︑﹁十九世紀における宗教的なもの﹂の一つの顕われを見出す︒

  第二章が取り上げるのは︑一般には革命後の社会秩序の回復を目指した護教家と目されるシャトーブリアン︵一七六八︱一八四八︶である︒しかしながら彼は︑その処女作﹃諸革命論﹄︵一七九七︶では不可知論者として振る舞っており︑回心を経たと自称する﹃キリスト教精髄﹄︵一八〇二︶以降の護教家としての姿勢も︑キリスト教による社会的紐帯の回復から自由や平等の擁護へと︑政治情勢の変化に応じて揺れ動く︒片岡の見るところ︑シャトーブリアンは結局︑﹁超越的秩序への無頓着﹂を持続させながら︑﹁神が存在していないとしたら︑発明しなければなるまい﹂と語ったヴォルテール以来の﹁プラグマティックな宗教観﹂の圏内にあった︑とされる︒

  第三章は︑﹁モノの復権﹂︵=経済成長︶を通じて﹁普遍的協同﹂の実現と貧困階級の救済を目指したサン=シモン主義からの転向者︑シュヴァリエ︵一八〇六︱七五︶を扱う︒サン=シモン主義は︑新キリスト教を唱道したサン=シモンの弟子︑アンファンタンらによる宗教教団の体裁を取っていたが︑そこから離脱したシュヴァリエは︑以前の神秘的要素を払拭し︑自由貿易を推進するエコノミストとしてナポレオン三世のブレーンにまで登り詰める︒けれども髙山の見るところ︑﹁モノとその

(4)

く宗教に似ていながら︑あくまで宗教と一線を画す精神的な営み﹂︵﹃宗教と社会的統合﹄一一頁における宇野の規定︶の︑多様な顕われの片鱗を窺うには十分であろう︒前著﹃宗教と社会的統合﹄で扱われたコンスタン︑ボナルド︑サン=シモン︑コント︑ラムネ︑トクヴィル︑プルードン︑キネ︑ルヌーヴィエ︑デュルケームと合わせるならば︑﹁宗教的なもの﹂を軸に︑十九世紀フランスの広義の宗教・社会思想のかなりの部分をカバーし︑その複雑な様相を浮き彫りにすることに︑ある程度成功していると言えよう︒

  もっとも︑いささか冷徹に眺めるならば︑本書のそれぞれの論考の出来にばらつきがあることも否定できない︒たとえば︑メーストルのカトリック的保守思想の反転として︑ボードレールの﹁悪の宗教﹂を読み解いてみせる川上の手並みは鮮やかだし︑あるいはユゴーの演説をリアルに再現して︑その神格化へのプロセスを描き出す数森の筆致は説得力に富んでいる︒他方で︑赤羽のモース解釈には﹁宗教的なもの﹂への眼差しがほとんど全く欠落し︑また対比されるデュルケームの社会概念の理解もステレオタイプに堕してしまっている︒評者の見るところ︑﹃社会学講義﹄以降︑デュルケームの社会概念も展開しており︑たとえば﹃宗教生活の基本形態﹄に見られる﹁集合的沸騰﹂の議論には︑ここで赤羽が指摘したモースの柔軟な社会観に繋がるものがある︒

  それはさておき︑十九世紀フランス思想における﹁宗教的なもの﹂のこのように多様な広がりであるが︑本書ではその総括は試みられていない︒評者なりにその位相を整理するならば︑ ﹁ライックな神﹂に祭り上げられ︑死後パンテオンに祀られることになる︒独自の﹁神﹂への信仰と探求の果てに︑彼自身が﹁宗教的なもの﹂に位置付けられ︑ライックに神格化されたのである︒

  第六章の対象は︑デュルケームの甥︑人類学者のモース︵一八七二︱一九五〇︶である︒赤羽は︑一九二〇年代から断続的に書き継がれた草稿﹁国民la nation﹂を素材に︑モース独自の社会観を読み取ろうとする︒デュルケームの﹃社会学講義﹄に典型的に代表される︑近代の国民国家的な︑静態的で硬直した社会観││権威と規律を重んじ︑上からの統合を前提とする││に抗して︑モースは社会主義の視点から︑交換・交流の具体的実践の場面に根ざした︑自主的な社会生成のプロセスを重視していたのだ︑とされる︒

 第七章では︑共和主義的社会主義者ジョレス︵一八五九︱一九一四︶が取り上げられる︒彼は一八九一年執筆の生前未発表の論考のなかで︑無限なものへの志向と社会的紐帯としての﹁共通の信念﹂という独自の宗教観を表明している︒そして社会主義は︑正義の要求の根底に神︵=無限なもの︶を見出し︑これを回復することができる︑という︒伊達によればジョレスは︑このように独自の宗教観を抱いていたからこそ︑一九〇五年の政教分離法成立に際しても︑カトリックを排除しない柔軟なライシテ概念を打ち出すことができた︑とされる︒

  以上︑本書の広範な内容を的確に伝えるにはほど遠いかもしれないが︑それでも︑本書が描く﹁宗教的なもの﹂=﹁はてしな

(5)

鼎談後篇の伊達の発言︵二八六頁︶にあるように︑﹁宗教からの脱出﹂後の﹁宗教的なもの﹂の再構成という︑マルセル・ゴーシェの発想が本書の構想の下敷きにされているとしても︑この枠組み自体の生産性は︑少なくとも評者には計りかねる︒

  さらに︑序論で強調されるような日本との比較の視点も︑いささか取って付けた印象は拭えない︒十九世紀フランスにおける﹁宗教的なもの﹂の経験が︑宗教をめぐる日仏両社会の類似と差異との参照点になりうると言うのであれば︑日本における﹁宗教的なもの﹂の位相を︑少なくともその骨格だけでも示す必要がありはしないか︒

  最後は︑あるいはないものねだりの評言になってしまったかもしれない︒政治学を始めとして︑社会学︑宗教学︑さらには文学に至るまでの多様な領域から︑宗教ないしは﹁宗教的なもの﹂を視野に収めつつ十九世紀フランス思想を眺める︑これまでにない学際的な取り組みは︑それだけでさまざまな可能性を含む十分魅力的な営みとなろう︒評者自身︑本書を読み進めるなかで教えられることは多かった︒本稿の︑いささか辛口の評言が︑この営みのいっそうの進展にとって少しでも糧となれば幸いである︒

付記

  評者は︑本年七月二六日に︑本書の合評会として開催された第一六回﹁フランス政治思想研究会﹂に招かれ︑本稿のもととなる報告をする機会に恵まれた︒その際︑本書の執筆者も含む研究会のメンバーと率直に意見を交換することができた︒そこ カトリック擁護の姿勢を貫くメーストル︑﹁神なき悪の宗教﹂を希求していわば﹁反宗教﹂の立場に立つボードレール︑反教権主義││ミシュレ︑ユゴー︑ジョレス││︑社会を支える﹁精神的な基礎﹂あるいは紐帯としての﹁宗教的なもの﹂││それぞれの方向性は異なるものの︑シャトーブリアン︑シュヴァリエ︑ユゴー︑ジョレス││︑既成宗教から脱却した独自の﹁宗教﹂の積極的構想││ユゴー︑ジョレス││といったところであろうか︒十九世紀フランスの変化に富んだ社会・政治情勢のなかで︑それぞれの思想家が既存の宗教││基本的にはカトリック││と格闘しながら︑新たな﹁宗教的なもの﹂を模索していった︑その試行錯誤の試みがこのように多様な形で現われたのだ︑ということなのだろう︒

  しかしながらこれら多様な試みを︑﹁宗教的なもの﹂という︑形式的でゆるやかな枠組みに一括することで︑結局何が見えてきたのだろうか︒たとえば宇野は︑﹁このような本書の多様な考察は︑世俗の共和国としてのフランスを支える精神的な基礎が何であるかを示すであろう︒それを 000﹁宗教 00﹂︑あるいは 0000﹁宗 0

教的なもの 00000﹂と呼ぶかはともかくとして 000000000000︑そのような精神的な基礎なしに国家や社会が存続することが難しいということこそが︑本書のメッセージである︒翻って日本社会を支える精神的基礎とは何であるか︒そのような考察の活性化に寄与することができれば︑本書はその目的を達したことになる﹂︵二三頁︑傍点は評者による︶と述べて序章を結んでいるが︑この記述からは﹁社会を支える精神的基礎﹂の重要性は読み取れても︑﹁宗教的なもの﹂の積極的な含意は窺い知ることができない︒

(6)

イブン・タイミーヤに言及されるだけになりがちな﹁ハディースの徒﹂についての理解を深めてくれる︒

  外国の研究では︑D. Gimaret, ’‘, Paris, 1990のように︑イスラーム神学のさまざまなテーマを取り上げた神学の概説書がある︒Gimaretの書では︑アシュアリー以外にも膨大な初期スンナ派神学者の神学書が引用されており︑マートゥリーディー学派も含まれる︒しかし﹁ハディースの徒﹂については︑アフマド・イブン・ハンバルが引用されているが︑ほかの学者はほとんど引用されていない︒その点においても︑本書の独自性は高く評価される︒また本書は︑W. M. Watt, W. Madelungなどが引用されているが︑欧米の研究者の二次文献を引用することは少なく︑アラビア語原典を数多く引用している点も従来の神学研究とは異なっているといえよう︒そのため今までの神学研究に接してきた者にとっては︑テーマ設定や説明様式などが異なっており︑新鮮な切り口からイスラーム神学を捉えることができるだろう︒本書の構成の概略は︑以下のとおりである︒

第一部  スンナ派概論第一章  スンナ派正統神学派第二章 ﹁異端﹂の諸派第二部  スンナ派の信条││ナサフィー﹃信条﹄訳解第三章  ナサフィー﹃信条﹄本文第四章  ナサフィー﹃信条﹄訳解附録  ムスリム・マイノリティのためのイスラーム法学と神学 で得られた知見をどれほど執筆に活かすことができたか心許ないが︑貴重な機会を与えて頂いたことに感謝の意を表しておきたい︒松山洋平著

﹃ イ ス ラ ー ム 神 学 ﹄

作品社  二〇一六年二月刊四六判  五一八頁  二七〇〇円+税 青  柳  かおる   本書は︑膨大なアラビア語原典を読み解きながら︑スンナ派イスラーム神学派の特徴および信条を詳細に述べた労作である︒本書では︑アシュアリー学派︑マートゥリーディー学派︑﹁ハディースの徒﹂という三つの神学潮流が均等に扱われ︑三者の対比がわかりやすく述べられている︒本書の大きな特徴は︑﹁ハディースの徒﹂を大きく取り上げた点であろう︒従来の国内外のイスラーム神学研究では︑アシュアリー学派の研究が中心であった︒﹁ハディースの徒﹂については︑研究はあるものの︑アシュアリー学派と同じ比重で扱われることはまれであった︒﹁ハディースの徒﹂はさらに三つに分けられ︑細かく比較されており︑一般的には︑アフマド・イブン・ハンバルや

参照

関連したドキュメント

といえども政治・経済から切り離された不干渉地帯ではありえず,現実には都市と同様,産業

[r]

いうことばが 5 回出てくる(ただし原典では 4 回 である)。しかしその原語は現在のドイツ語のワル ツ( Walzer

[r]

3 17 世紀のウォルトン( Izaak Walton , “Life of John Donne”[1640] )から 19 世紀のゴス ( Edmund Gosse, The Life and Letters of

の有限性と神の恩寵といったテーマを引き継ぎながら、宗教詩人ハーバートの詩作をめ

[r]

3) Jean Bouillaud, Essai sur la philosophie médicale et sur les généralités de la clinique médicale, Paris, J. Le Bouvier, 1836 ; Augustin- Nicolas Gendrin, Traité