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松島町雄島周辺海底採集板碑の報告(2)

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松島町雄島周辺海底採集板碑の報告(2)

著者 新野 一浩, 七海 雅人

雑誌名 東北文化研究所紀要

号 46

ページ 17‑136

発行年 2014‑12‑25

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00000496/

(2)

松島町雄島周辺海底採集板碑の報告口

松島板碑研究会

( 新 野 一浩・七海

雅人)

調査の概要と成果

雄島位置図

はじめに

雄島は松島湾の北西最奥部に位置する︑南北約二三 Om ︑東西約

五 Om の南北に細長い島である(図 1 ・

2 )

︒板碑の表採作業は二 O O 六年から始まり二 O 一四年まで継続して行われている︒今回は二 00 七年の調査報告になる︒

図 1

S  = 1 / 2 5 0 0   図 2 雄島地図

東 北 文 化 研 究 所 紀 要 第 四 十 六 号 二

O

一四年十二月

(3)

松n川町雄白川辺海底同悼集叡仰の制法H

二 OO

ヒ 年 の 似

探 集 作 業 は 前 年 の 成 出 を

一刈

に︑

同じ両側・卜出の 北 側 か ら開始し

︑市

下して前年と

じ区域をも円剥在した

ま た 山 南 端 部 で

︑﹁潮時に山到する俺かな‑卜悶に多くの板巾怖が散布してい

る状削

(

凶 3 )

湖の政も引いた時間仰にこの

が附 川町 泌山 米た ため

翌初日8~手 7 月 3811影

域も調本比した︒ この年から畠山篤雄

・七 海 雅 人

・尚 続

勝・

渋 谷 悠 子 氏 は じ め

︑ 来

学 院 大 学 の 学

作い

が 参加する織になり︑作業

日数 は 昨 年 よ り :

日多

のべ作業人数は

しハ情強のしハ

五 人 であった

探 いト円であったが︑

1 1 1 ;

︑ 初即総勢 写 山 内 総影に追

資 料 数 も 前 年 の 六 倍 に

LLり︑

洗 浄

乾 燥

雄 島南端 部 海 岸 の 板 碑 散布状 況

われる状態で

︑ 次 回 の調査まで令

て処 刑怯仕 切 れ ない引もあっ

た︒ なお︑ぷ採作業に

る 経 緯︑

川刷

伐 ト刈 法︑ 処

型・

似性

一一

日等

に聞

して

﹃点 北 文 化 研 究 所 紀 盟 都 内 問 日﹄

O

一一年・

発 行 (以 後︑京文印刷問

18 

凹号とする

)

を参照していただきたい

ニ OO

七年に

採 集 し た 板 碑 西側干潟区域の仮仰のあり方は前年と同様で︑泥土の最深部︑山石 盤 上 に 接 し て い る

のから

間 や ぷ 附 で 見 つかるものと様々

で ︑

図 3

ンクリ l

ト 片

︑ビニール︑

ガラス 胤悼の削例代物と共に聞もれていた︒ 市 端 部 で の打線は州側・卜出版域とやや溢う︒

砂川 此に 川町もれてい

る 資 料もあるが︑全く埋もれず︑全体に凪や海部︑

その他海洋生物が多 数付訂している状態のものが多数あった

の年の表採

点 数 は

ι .

九 九 点

︑ 内

一点

ずつの接合例が

問 件 (山川年 と の 接 合 例 は 除 く て 同 一個 体 と 考 え ら れ る 例 が 一件あったので︑

(4)

2 6 下内防仁、内岡弘 l ド 医

2 5   、 み 民 兵 5 Y 立 、

i~ \I[vlえ レ

23 ・1・'.~\ =同 13,

l

¥ 〆

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H  r  1 0 '   ,  , 

質 4 山 点 でぶした 五九四点 となろうか 附 は 土佐町を

M

円 である ︒ ︒

尺 伎 の 都 合上 ︑ 乱雑となる 均ぬ を 付し ていない ︒

限 らず複 数点 出 土した 地点 も ある ︒ 一

一 地 点

が 一

点 とは

都子また は銘文等の一部 が確 認 出 来たものは一八 凹点

あ っ

た ︒ 種 f の 踊矧 と 点 数は同

5 の 通 り

︒ ﹁

? ﹂ は風 化 等 に よる劣 化 の為雌実

に 判断

で な い も の ︑

﹁ 系 ﹂ は

欠失

により全体の形を

想定

できるが山

繋 点や 宅 内

⁝ 等

くことによって

の 日 間 千 と な り 仰 るものに 付 し た ︒ 積 子は 二 五種あり ︑ 上 位 三 柿 は ﹁ カ

﹂ 二

四 点 ︑

﹁ ラ ﹂

二 二

点 ︑ ﹁ パ

ン ﹂

一 七 点である ︒ 前年は金 剛 界 大日 如 来 を 表 す

﹁ パ

ン ﹂が最も多

か っ

た が

今回は地蔵菩躍 を 示す ﹁ カ ﹂ ・

﹁ ラ

﹂ が それを 上 回 っ た ︒

ま た前年 は 川

の龍樹 ﹂ という利子を検 市 内 初 雌をぷす ﹁ ナ 出 した 佐

ポ北文化研究所紀.決

O ‑

例年卜一川 明山 内卜

h

η

ア 3 

アク ア ク ? ア ン ?

イー

5  イー

• 2 

3  カ 2 4   カ ?

力一

カー ン 2 

カン 3 

キ リー ク 9  キリ ーク 7 3 

サ 7 

サ ?

サク 3 

ンャン

/"¥ 

1'¥

イ 2 

パク 4 

パー ンク

パン 1 7 

パン系 9 

マ 2 

マン 2 

二L

フ 2 2  

ラ ? 5 

ラ系

フン 6 

)11 

5  ル ?

不明 2 4  

S  = 1 / 7 0 0  

板碑出土地点 図 4

図 5 穂子一覧

1燈蛾地蔵 2:弁尼地蔵

(5)

Mm Q町 級品 周辺 海・ ほ係 拍車 飯碑

の報

H

が︑今阿も

一 一 五

⁝ 山

t

し た

︒ さらに今川は新たに ﹁ ル ﹂ という山内初 の柿チが見つかった ︒

こ の

﹁ ル ﹂ の主将に附しては後述する ︒ 以下郁子や銘文のあるものを図示し︑一部に解説をおこないたい ︒

銘文のある板 碑 柿子は l ク ﹂ ﹁ キリ の民字体で︑妙舟という人物の冥耐を修した ①胤山

極 的

問 で

あ る

︒ 下部を欠失し銘文の一部が不明である ︒ 失われた文字 は文而から一行日は ﹁ 刃 ﹂ ︑ 二 行口は 一

字 ︑

二 .

行 日

﹁ β ﹂ の下半 と忠われる ︒ 被供益在は法名から火性であり︑銘文に川忌供益を・不

す文言はないが︑純子から

‑ 一 ‑

川 忌

の供益仰になろうか ︒ 左下部に刻まれた ﹁ 治午州 ﹂ は年川と忠われるが不明である

﹂ 治 ︒ ﹁

の付く年号の ﹁ 午 ﹂ 年︑州

日 二

月とすれば徳的元作になろうか ︒

②ぬ山 柿子 ﹁ カ ﹂ の ド

に 辿

ム け を刻む ︒

山 内

に 辿

ム け

を 作

・ つ桜仰は数必ある

が ︑ 全て小

大型的問で︑今回出土したような小型仰は初である ︒

山 述

台はやや斜め上からの側而観で︑上部に蓮子が見える表現と忠われ

る 緩 い 二 主の弧線を持つ ︒ 連台下の碑而中央に紀年銘を︑右下部に

被 供

益 押

収 引

を 刻

︒ .卜郎を欠制しているため被供長押名は ﹁ 例鏡 ﹂

の で 文字しか政存していない ︒

﹂の被供養者名については 二 通りの考えがある ︒

一 つ は ﹁

OO 仰

門﹂のように

﹁ 僧 鏡 ﹂ が

法名である ︒ もう一つは ﹁ 伯﹂は僧侶であ

る こ と を 示 し ︑ ﹁ 鏡﹂は法名の一文字日であるとする与えである ︒ 雄山山内にある板仰の例では例制を不す析結は ﹁ 例 ﹂ ではなく ﹁ 比 R ﹂ が使川されている ︒ よって被供益宥が例制であれば ﹁ 比 R OO ﹂

または ﹁ OO 比丘 ﹂ となるであろう ︒ 従って ﹁ 例鏡 ﹂ は法名で︑例 制を表す﹁例 ﹂ を冠したものではないとしたい ︒ しかし完全 に再定 も で き な い の で ︑ さらに検討を裂する ︒

③ h m 

h m

は作りと思われる部分の破片で︑破断したた側の位低に

﹁ (

欠 )

・・・

( 欠

) ﹂ と刻まれている 四文字凶の ﹂ ﹁ 巴 は十 ︒

二 支卜干の巳で︑布隣にト千を刻む為︑行の左寄りになり欠失を逃

れ た

︒ 他の凶文字は左側端が雌認できるだけである ︒

現 状

で い

い 民

さ 五

五四︑制 一 六 ‑

Rm

あり︑小

・ ト

︿明仰の破片と忠われる ︒

hu

vn

u"

'

KM

部を欠失し︑将 は不明である 回行の銘 文は 三 口までが 行 願 t F ︒

nhH

文︑問行日は紀年で︑ ﹁ 願 E

山 ﹂ で終わっている

︒ ﹁ 七分

叫 ﹂ の

文 ‑

け か

﹁ 妙阿仰尼 ﹂ の辺修叫とわかる ︒ 願文に ﹁ 俳ほ ﹂ や ﹁

川 凶 行

柑 ﹂ などあまり見られない単語を使用している点に特徴が認められ

ぬ胤 ⑤ ‑ m る

一 .

点 が

接 合

し た

般 的

問 で

︑ 約江卜

m 雌れ

て比つかった ( 閃 6 ) ︒

被供益将

﹁ 相成

禅 門 ﹂の供養碑で ︑極子は弥軌菩薩を表

す ﹁ ユ ﹂に空点 を伴っている ︒ 読みとし

て は

﹁ ユ

﹂ と な る が ︑ 官 日 比 の 限 り ﹁ ユ

2 0   図 6 N o . 1 8 4 と N o . 1 8 9

の出土位置関係

(6)

ン ﹂ が表す 主

将 は

な く

﹁ ユ ﹂ の典字体とするしかない ︒ 紀年の ﹁ 文

二 四月六日 ﹂ の不 明文 字 は縦方向 の 一

部が成

っ て

る が ︑判読

h u

a ‑ ‑

‑ H H  

d

uyM

4q .

H

M

できない

︒ ﹁

年 ﹂ は 元 々 無 く ︑

﹁ 二

﹂ の 下に ﹁ 四 月 ﹂ と続く ︒

二 OO 六年の調査で 出土した

h u と 二 OO 七年に出土した恥加が 接合した仮碑である ︒ 東北歴史博物館 の塩凹達 也 氏が接合すること

を発見し ︑ 銘文の内容から

hm(

図 7 ) と双山博であると判明した ︒

G  H 

.80 

1 1  

1 0  

.41 

.20

~イ T λ1 ‑ : : : 1 "   ト

京北文化研究所紀.公

N o . 8 0  

図 7

図 8 N o . 4 1 ・ 2 0 1 ・ 8 0 の 出土位置関係

wuvH

Lt

LJ

︑ ︐

t

‑VE

‑︐ 

O

一凶作卜二月

点文研四四 号の 報告で倣 ったが今 回も附巾に紹介したい ︒

hu

・ 加

と h

m の出上位世関係は閑 8 に示した ︒

子は謹讃

地践を返

す ﹁ イ l ﹂ ︑組

子 ド に仙として出駒沢経を凶行 にわた り刻む ︒ 備 の 下︑中央に紀年銘を︑左 右に振り分け て願文を 刻んでいる ︒ 願文から 逆修碑であるこ と がわかる ︒ 種 子は ﹁ カ ﹂ を削って消し︑ ﹁ イ l ﹂ を彫っている ︒

こ の

事 か

ら ︑

初既存

の舷 附怖を利用して製作された改刻仰と 考 え た ︒ しかし銘 文

を削った・制跡はなく︑改刻されたというより訂正したという印象を

必 く受けた ︒ 銘文のない仰を使用したのであれば 削

っ た

痕跡が

な い

のは当然だが︑双叫を建てる謹経済 的に裕稲 な人物であれば︑識か

の供益に使用されていた碑を再利 用す るより新たな石材を求めて製

作すると考えたい ︒ また積子の而から考胤すると︑ ﹁ カ ﹂ と ﹁ イ l ﹂ は共に地蔵を 表 すが ︑ 六 地 蔵に当てはめると︑ ﹁ カ ﹂ は地雌又は出

天 川

以 地

蔵 ︑

﹁ イ l ﹂ は護讃地蔵となる ︒

六道において預天白

地 政は

天 道で︑謹讃地蔵は人道で人々を導く役目を担ってい るという ︒

あれば逆修碑に刻む種 子 としては ﹁ カ ﹂ より ﹁ イ l ﹂が 適している と思 われる ︒ 以上の事を理由に ︑ 当 碑は改刻では なく︑より現 世利 益を受けられるように種子を訂正した仰と理解したい ︒ なお接合した 二 点は約九 m 離れた 地 点か ら 出 上 しているが︑こ の

区域の干潟は泥土で︑自然出部で落ちて破倒したのであれば︑さほ

ど時間をおかずに埋もれてしまうだろう ︒ 大風 の時でも放が さほど

立 たない場所であるか ら波力で移 動した︑または潮 汐 作用で移動し

たとは考えにくい ︒ 恐らくれ何内で破峻され ︑ 人為的にそれぞれの 山

(7)

机町 山町 川却 品川 辺海

‑ M

岡悼

集似

仰の

削刊

LL

地点近 くに投棄さ

れたと思われる

⑦ h m

・ 揃

二 OO

六年の調在で

﹁ 源政行

銘仮柳

h A N (

凶 9 )

が 山 上

し ︑

ト 米

文 研 問凹け にて報告 し

た が

二 OO 七年の訓古代においても同 一

人物 銘 の 板 碑 ・ M m

揃が 出土 した ︒ 山

土佐川関係は閑刊に示した

h m と 摘は 直接接合しないが︑ h .

質や碑而の状態︑大きさから同 一 個 体 と考えた

種子は

﹁ キ リ l ク ﹂ で︑川畔面右側に ﹁

( 欠

) 性 賢

三 ト

一 二

( 欠

) ﹂ ︑小心に

﹁ ( 欠 )

ハ ザ

三 年 八 月 二 十 一

日 源 政 行 敬

h ﹂ と 一 昨作の制作にも川いたので繰り返しになるが︑説明

刻 む ︒

以 ド

︑ を 加 える ︒ 碑田小央

﹁ (

欠 ) ツ 三 年 ﹂ は

h G 造立

一 一 .

年 後

の 元

f

一 年であろう

右側の ﹁

性 賢

三 卜

一 ニ ﹂

は ﹁

性 賢

﹂の三

十 三 回忌

の供養のために

造 立

した僻であることを不唆している

︒ こ の 一 .

行の銘文には位

舵 取

りを

N o . 4 3  ( 右:表左:裏)

N o . 4 3 ・ 2 0 2 ・ 2 0 6 出土位置関係

.206 

202

43 

図 9

図 1 0

する為の細い縦罫線が引かれているが︑

同 様 の盟組が碑而左側にも 認められる

供益民臼の源政行なる人物については仮碑の規肢からみて︑凶人ク

ラスの人物ではないかと

舵 定 されるが

︑伐念な

がら誹制不明であ

る ︒

被供控告と巧えられる

﹁ 性 賢 ﹂ についても持'制は分からないが︑

源政行が回忌供益を行っているので

こ の

被供益者

も源氏姓であろ

ぅ ︒

源氏姓で

﹁ 賢 ﹂

字を法名に持つ

人 物 とす

れ ば

︑ 同じ淑

氏 姓の 頼

賢と

凶辿 のある人物であろうか

︒ (

一 昨

年 制

限 公 参照

)

また て 法の舷断簡所を制終するとぬ刊はぶ

が ︑

h m

揃 はれ 側

下 川 形状に伏れている

︒ これは背 州 から 大

きな本槌等で訓られた

い 似

跡 で

あ る

こ の 二 法より小型または

同 脱 悦 で 現伐

も山内に辿って

いる板碑もあるが︑

それらは厚みが

一 O m

粍あり

︑破砕することも

22 

移動させる引も困難であったために残ったと

思 われる ︒

ぬ 川

町 と

は以さ

同 開

村 と

・ 減かったために倣砕され︑海に投棄されたと忠われ

る 。

なお ︑ 一

昨年の報告で﹁源氏姓を刻んだ仮畔は松島町初検出

﹂ と

報告したが︑頼賢碑が禅宗様頓碑として再認識されたので︑

an dJ

eu目

aq

'h

J

例 日

h m

加 は 三 例 U である ︒

@胤狐

比 附

柿 は

年 ・ りの一部

﹁ (

欠 )

't

jl

rl Hu

a'1 

! l J l   d l  ( 欠

) ﹂ が成る小山川である ︒ 彬 り

川 ﹂ ﹁ 石仁

が刻んだもの の一部に泌乱があり︑ ﹁ 什 ﹂

は 戊

く ︑

でないことは 一

目臨然である

なお︑この銘文だけでは近世些か似

的 問

断で

きないが ︑町似仰片として放 っ た ︒

(8)

@ L m

年号の 一

部のみが雌認出米る小片

周辺から出土した多くの資料

全てと接合関係を確認してはいな いが︑現在 の とこ ろ同資料と 接 合

するものはない ︒

比州 制

ぬ制は和

子 の

一 部が残る板碑右側上部片である

︒ 積子は不明であ

る ︒

碑而は研磨され︑下部に

﹁ 右 ﹂ 字の上部と

思われる刻みが見ら

れる ︒

⑪ hm 

仰月点を

もっ ﹁ パン ﹂

を種子とする

︒ ﹁ 息 女

﹂ の為に建てられた

供益搭で︑碑而中央に願文︑左右に紀年を振り分けて刻む

︒ 極 子の

周聞に刺突具による加工泌が多数見られる ︒

恥組

下半を欠失するが印叩を越す長さがあり︑中型碑に類する板碑で

ある ︒ 種 子 は謹讃地臓を表す ﹁ イ l ﹂

で ︑

そ の

下 に

浬 駒

栄 経

を刻

む ︒ 浬襲経の備は四文字一組で 一

行とし横並びに刻まれることが多

いが ︑当板碑は一 行 自 ﹁

諸行無常

是生滅法

﹂ ︑ 二

行 自

﹁ 生滅々己 寂減為楽

﹂ と刻む ︒ ただし欠失のため下段の 三 ・ 凶文 字 問は失わ

れている ︒

碑の頭部左右はやや円弧状に角を誌とし︑右側辺に打ち欠きによ

る加工が 明服に 残っている ︒

⑬ h M  

剛般若波雑蜜経の偶が刻まれた部分の小片で︑

行確認

出 来

ぃ米

北文

化併

究所

紀州

O

川作卜

て川

哨 山 内卜

h

︑ ︐ り

る ︒

備の右上方に種

子の 位世を決めるためと思 われ る円弧状 の罫線

があ る ︒ 郁 子 が右上方にあ ったとす れば︑制は 問 行あったものと 思

われ る ︒

石質は燕く敏密で︑玄昌石に近い ︒

⑭ h

m  

ヒ部を欠失し︑純子

は不 明 である ︒ 碑而中央下に紀年銘︑

そ の

に被供養者名を刻む ︒

こ の仮

仰は昭和十

六年 五月十

五日発 行の ﹃

例教

古 山 中論叢 ﹄ に掲

峨 さ れ ている

︑松 本説

中 門 の

﹁ 陸前向城郡の十川碑 ﹂ 第 ト ペ 凶 脚 ( 以下

古 川

問 問 とする ) に

該当す

る碑である ︒

hm

は穏子部分を欠損し︑彼

の ス

ケッチ と迫う部分もあるが︑銘文が全く 一 致して い るので︑双

叫で もな い限り︑同

一 碑

い え

る ︒ 後拘した図版に尺肢を合わせた

松本版 吉のスケッチを 掲載したので見比べていただきたい ︒ 図によると古伴仰の種子は 仰 月点を持つ ﹁ パン﹂で

︑命

点が独立

し ︑

縦 画 が 一 副目 にくい込む形態である ︒

仰而中 山 火 ド 部に紀年 銘が ︑

その右側に ﹁

智道仰門

﹂ と彫 っている ︒ 同 図中のスケ

ー ル

か ︑

り す

旦 ムム

N o . 6 2 1 出土位置

図 1 1

(9)

松島町雄・品周辺海底採集甑碑の報告︒

と地上高二尺六寸 H 約七八・八佃︑最大幅は一尺五寸 H 約四五・五

個となるであろうか︒さらに図下部の横線の表現は地面であろうか

ら︑松本源吉が調査した時︑この板碑はいずれかの地点に建ってい

た と 考 え ら れ る ︒

図 U に

hm

の出土位置を矢印で示した︒

‑松本源吉が見た板碑地問

恥聞とは別にもうて白⁝︑松本源吉がスケッチしたと思われる板碑

が出土している︒

h m は﹃悌教考古準論議﹄に掲載されている︑松

本源吉の﹁陸前宮城郡の古碑﹂図十八聞と同一ではないかと思われ

る ︒

hm

の様に銘文がないので確定は出来ないが︑図版に載せた彼

の描いたスケッチと見比べていただきたい︒どちらも石材は粘板

岩︑形状は長方形で︑頭部右側に違いが見られるが︑左辺の立ち上

がりの途中で内側に凹んだ後︑円弧状に頭部まで続く形状は良く似

ている︒種子﹁パン﹂は仰月点がない︑命点が独立している︑縦画

が一一凹目にくい込んでいるなど共通点が多い︒

当資料は下三分の一が泥に刺さった状態で発見され︑図版写真で

分かる様に上部には貝が無数に付着していた︒

地 問

‑ w

h 附の種子﹁パイ﹂は彫りが浅く︑形状は不鮮明であるが︑漆と

金泥が残存しており︑種子を荘厳していたことが分かる︒島内にお

いても金泥で荘厳された板碑が三基あり︑これが四基目となる︒残

存する漆皮膜と金泥は著しく劣化しており︑保護のため拓本は採っ

て い

な い

‑荘厳された種子 ぬ聞は種子の部分が赤黒く変色している︒漆皮膜や顔料等は残存 していないが︑色素が石材に沈着したための変色と考えられるの で︑赤色系の顔料で荘厳されていたと思われる︒

・荘厳板碑を改刻した板碑胤削

h m は頭部を圭頭とし︑﹁カ﹂を種子とする︒種子の上下に横方

向の罫線が引かれ︑左側に碑面下部まで続いていたであろう縦方向

の罫線を引いている︒欠失しているが︑右側にも同様の罫線があっ

たと推定される︒さらに種子下側の罫線から縦方向の罫線が三本引

かれ︑碑面を五区画に区切っているが︑銘文等は認められない︒碑

面半ばより下は欠失している︒

種子に注目すると上下と右側にノミ痕が多数見られ︑﹁キリ l

ク ﹂

の一部を削る改変によって︑﹁カ﹂としたことがわかる︒また種子

2 4  

内は褐色に変色しており︑削り残しのイ l 点にも認められるので︑

元々の種子﹁キリlク﹂は赤色系の顔料等で荘厳されていたと考え

ら れ

る ︒

‑宮城県初検出の種子

Lanan

ι n H M

l w''

M0

・内唱

u‑n4

‑ RH u

nι

' ι n h u n H M

種子﹁ル﹂は﹁ラ﹂の右横に点が

付いた形状(図ロ)で︑﹁ロ﹂とも発

音する︒この種子が示す主尊は妙見

種子「ル」

菩薩︑七仏薬師の宝月智厳光音自在

王如来︑伊舎那天︑羅剃天がある︒

妙見菩薩は北極星を神格化したも ので︑妙見は優れた視力という意味

図 1 2

(10)

になる ︒ そこから転じて眼 耐 に御利抗があるとされている ︒

巾 ・

世に

おいては千葉氏や九戸氏 一 族の守り神であった ︒ 通常用いる組子は

﹁ ル ﹂ ではなく︑党名スダルシャナの頭字﹁ス ﹂ を 使用 する ︒

薬 師如 来は病気を治す 仏として 信 仰 され︑その浄土は東方にある

という ︒ 七仏薬師の信仰では束方浄土は手前から七つの浄土 が順 に

続いており︑以も述い浄土は柴師 如 来が居る浄朋璃 浄 t

で ︑

五 月

厳先音自伝王如米は手前 か ら 三 帯口の妙宝浄上をで附加する仏となっ

ている ︒ ただ七仏部 仰 は 七体 そろっていなければ御 利 読がなく︑宝

月智厳 光 音自在王 如 来 一 体だけの椅 子を仰面 に刻み肥る引はないと

思われる ︒

伊合加天は十 二 天の一つで

︑ 北

市 氷点灼の護法持紳である 仏教で ︒

は 大

' H 在

. 大

の 化

・ 川

河 と

さ れ

て い

︒ 迷いや欲望を絶つため︑または人

生 の 飢 品 川 さ や

‑U

到の惨さを明らせるため︑右 鈷岐︑光手に の 手に 三 胤

人った杯を持ち︑どくろの首飾りをしている ︒ 通常梅子は ﹁ イ ﹂ ま

た は

﹁ イ 1 ﹂ を用いる ︒

羅剃天は伊舎那天と

同 じ

く十 二 天の一つで ︑ 西南方角の護法普神

である ︒ 凹

天 王 の て 多

聞 天の谷属として夜文と共に 仕 える ︒ 下に

持つ剣で航悩を絶ち︑法依純を信 心 する者を守護するといわれてい

る ︒ 通常精子は ﹁

ニ リ

﹂ もしくは ﹁ ラ l ﹂ を川いる ︒

七仏薬師の 一 である京 川 智雌光背自花 王 如 米は 巾独で川いる併は

ないと思われ︑ 残る 三

時も通常

川 いる種子が別にあり︑ いずれも

﹁ ル ﹂ の主尊と確 定しがたい ︒

Jι

ド 民

JJJMωhAH

法稽経を 日俊明え続け

u

s.

起 作

山 能

・ 刈

を 身

に つ

け た

比仏卜

. 人

ゃ ︑

同じく法修終を 日 夜 m

ぇ ︑ 仏

点北

文化 研究 所い 紅型

‑ 4 0

例年 ト

・バ

︑ き

u

・ ・

a

︑ ︐

.3 A Au ra

alJJ︐ 

﹂ がぷす主部は縦刺天ではないかと 思 う 的には ﹁ ル ︒ 人の市米といわれた納町の住した山である引を巧雌したとき︑私

LL

異字体種子

t 3 1 9  

UHH

h Hu ‑

anHwe

ト 1 4 6

先述したぬ 出 ・

聞 の

穏 子﹁ ユ ﹂ に空点が付き︑主尊が見当たらな

い た め ﹁ ユ ﹂の英字体 としたが︑これと同級︑空点 等が付加され ︑ 見 字体とした碩子があるので紹介

た い

︒ 凶日は弁厄地泌を表す

﹁ イ l ﹂ の民字体と 忠われる例で

あ る

︒ h

m

︑ 主点が付く例

で︑読みとしては ﹁ イ 1 ン ﹂ となろうか ︒ ぬ聞は ﹁

l ﹂ の在布の

内 ⁝

が 各

一 点(本米は点ではなく小円)ずつになるところ︑各 二 点ず

つになっている例である ︒ こ れらの積 f に該当する主将はなく︑

﹁ イ l ﹂ の見字体と巧えざるを 仰ない ︒

﹁ キリーク ﹂

の 山 火

山 チ

体 は

く 比

か け る が

主点呼が付加されて民

字体となった訳ではなく︑今 川 の 織 に 付加 することによって災字体

化 する例は特殊な例となろう ︒ この付加による異字体化は今後の諜

題で あり︑調査

研究していかなくてはならない ︒ 何方か の

ご 教

授 ︑

ご指導を是非ともお願いしたい ︒

図 1 3

‑ h

m ‑

m の種子について

恥削の

﹂ m m ﹁ ナ 子は

と し

た が

﹁ タ ﹂ の 吋能性 もある ︒ ﹁ ナ ﹂

は 一

(11)

M m ‑ 川町 雄品 川辺 泌氏 探州 刷版 仰の 制限

ω

面白である斜め部分の左側が円弧状に上がる(さらにその先端の位

位に点が人る場合がある

) ︒

しかし当資料の種子は直線で刻まれ︑

この点だけを見れば ﹁ ナ ﹂ ではなく ﹁ タ ﹂ になる ︒ しかし ﹁

ナ ﹂

﹁ タ ﹂

共に 二商自の縦線 下端は右にはらった状態になるが︑当資料の種子

は下端をはらっていない

︒ ﹁

ナ ﹂

﹁タ﹂どちらともいえるが今回は

前例 のある﹁ナ﹂を選択した ︒ なお ﹁ タ ﹂ であれば宅尊は先天 ︑ 金

剛光菩醗︑金剛般的背磁があり︑以内初検出の積チと忠われる ︒

L m m

は月天を表す ﹁ シャン ﹂ とした ︒ これは雄向島 内に ある板碑

で 月

天を表す﹁シャ ﹂ とした種子の前例があり︑これに従って ﹁

シ ャ

ン ﹂ としたものである ︒

た だ

﹁ パ

﹂ ではないかという疑問が践ら

ないでもない C M M を凡ていただき た い

︒ ﹁

パ ン

﹂ と ﹁ シャン ﹂ は

般聞の下

の 左

側に山る部分が前山するか︑ ﹁ く ﹂ 字状になるかの迫

いだけである ︒

仏 川

m の問題の部分は ﹁ く ﹂ 字状である か ら ︑ ﹁ シャン ﹂

の特徴と 一 致する ︒ しかし椅子全体を見ると ︑ 横凶が直線または下

方へやや膨らむ川弧状となるところ︑凶線 2 本で ﹁ へ ﹂ を逆さにし

た織に 彫っている ︒ さらに彫り 日体 が机く︑諸問彫の

・ぽ

線がはみ 出

している筒所もあり︑石

工 が

彫 っ

たも のとは思えない ︒ 石工が手が

14

ル ‑ 費

者 ︑

⁝ け

た 同

憾 な

批 判

臨 な

彫 りであれば ﹁ シャン ﹂ で納得するが︑これは向山

仙献を彫る技術を持たない人物が ︑山 線となるべき術 所を簡易的に 阻

線で彫った様 に 比える ︒ だとすれば こ

れ は

﹁ シャン ﹂ ではなくよ人

が 彫

っ た ﹁ パン﹂と解する

こ と

もできよう ︒

ま た

h

とすべきではないかと ﹂ m だ けでなく 形状から﹁シャン ︑

いう郁子は多く ︑ これらすべてが月ぷを去すとすれば︑ ﹁

パ ン

﹂ と

した椅子の半数 近 くがこれに当たり ︑ 極めて特典な 状 況となる ︒ ど こで区別すべきか ︑ 今後の課題となろう ︒

‑円離の板碑

N o .   2 0 4   始どの 比内 石製板碑は仮状に 訓 られた材を佐 川 しており︑時折

ぬ 制 の燥な 川似 一治であ

っ た

時のなめ らかな山を成しているものもあ

る が

︑ 当資 料 は 一 耐平な縦長の 川 傑をそのまま 利川 している ︒ 長さ 二

26 

五 ・ 五叩と 小 さく ︑ 種子は不動 明 王を表す ﹁ カ

lン

﹂ である ︒ 後年 の調査で同形態の板山怖が出土している ︒

再利用の板碑

N o .   4 8 2  

当資料 は長さ凹問

4

H

で m の完形 ︑

f

は 令

剛 川

介 ト

如米ほか

多くの主尊を表す 一 パ ﹂ である ︒ 積子の布側に別の薬研彫が見られ︑

彫刻方法が 追って

い る

︒ ﹁

パ﹂の薬研彫は底線に 対して

ノ ミ

・艇が匝

行しているが

︑問 題の柴研彫りはノミ泌が並行になっている ︒

こ の

似世に︑しかも片側だけに刻みを付ける引に芯味は無く︑こ

の 柴

彫は別の秘子の 一 部であると巧え た ︒ 彫り幅や深さ からすると栂知 は不明ながら 相 当大きく ︑

当資

料は 中

大型碑を 訓 っ て 製作したと

考えられる ︒ これまで隙而を改刻した仮併 の例(恥山等 ) はあった

(12)

が︑中・大型碑を割って新たに板碑を製作した可能性がある資料は

初めてであり︑今後雄島の板碑を研究する上で貴重な資料である︒

・ 長

さ 初

m 以下の板碑

n u m E a a u s

q a

M V E U 4 1

Nn

・ 日

m n n n ・ ・ ・ ・

・ 剖

・ u m M ω ・ ・ ・

・ 似

雄島島内の板碑はほとんどが小型板碑と言われているが︑海底か

ら表採した資料を見ても小型板碑が多い状況である︒しかしその中

においても︑極めて小さい板碑が確認されている︒右に挙げた十二

点は完形もしくはわずかに欠失しているが︑長さ三

O ω

以下の板碑

である︒銘文等は無く︑種子のみが稚拙な彫りで碑面上部に刻まれ

ている︒最も小さい恥雌は長さ二 0 ・五叩︑幅八・七畑︑種の大き

さは縦二・五側︑横一・五仰しかない︒

この極めて小さい板碑に関して︑二 OO 九年三月十五日に瑞巌寺

で行われたシンポジウム﹁雄島の板碑﹂において千々和到氏は﹁奉

納する板碑ではないか﹂と発言されている︒つまり︑独立して造立

するのではなく大型碑に結縁する様な形で納めたものではないかと

いう︒今まで板碑は小型であっても地面に建てるものだという感覚

しか無かったが︑氏の指摘に確かにその通りであるとその場で納得

がいった︒今︑多くの人がお寺で健康︑家内安全︑先祖供養等の為

に写経をし︑奉納しているが︑この感覚に近いのではないか︒石材

を手に入れ自分で︑もしくは手慣れた人に種子を彫ってもらい︑逆

修や供養の念を込め雄島の大型碑近くまたは雄島自体に奉納したの

ではないだろうか︒

この極めて小さい板碑に関しては年代や性格等︑検討しなくては

胤北文化研究所紀要第四十六号

O

一凹 年十 二月

ならないことが多く︑今後の課題となろう︒なお︑二 OO 六年表採

の 恥

1

・ 却

も 三

Om 以下の資料である︒

( 新

一 浩

)

ニ OO 七年採集板碑・資料編

一 覧

雄島海底板碑については︑採集作業のたびに新野一浩氏が計測・

碑面観察・写真撮影をおこなっている︒資料編では︑二 OO 七年に

採集した資料五九四点の基本情報(採集板碑一覧表)を提示する(二 00 六年分については︑前稿﹁松島町雄島周辺海底採集板碑の報告

付﹂﹃東北学院大学東北文化研究所紀要﹄第四四号︑二 O

一 二

年 に

掲 載

し た

) ︒

採集した資料は︑その順番に番号を付し︑高さ・幅・厚さの法量

を計測した︒備考欄には︑銘文や加工に関する所見を記載した︒ガ

イド欄は︑前掲図 4 における出土地点を示す︒採集作業日について

は︑最大干潮時刻(この時刻の前後合わせて三時間程度が採集作業

の可能時間帯である)とその時の海水面の高さ︑作業員名を記録と

して記載した︒

2 .

写真・拓本・釈文・デ l

タ 表

つぎに︑新野が作成した一覧表の中から種子や銘文が認められる

資料をピックアップし︑写真・拓本・デ l タ表・釈文を提示する︒

(13)

松島町雄島周辺海底採集版碑の報告口

釈文は左右に実線を配して︑その内側に示した︒種子︑偶額︑紀

年銘︑願文などの文字のみを示し︑枠線などは示さなかった︒党字

(悉曇)は片仮名で表記し︑種子として使われている場合は()

内に記した︒ただし︑碑面に種子のみしか認められない資料につい

ては︑釈文の提示を省略した︒銘文が判読できない箇所について︑

内容から明らかに文字の存在が推定できる場合︑文字数に応じて口

で示した︒文字数が不明の場合は円 U で示した︒また︑その文字が

推定可能な場合は傍注で示した︒

データ表には一覧表の番号(漢数字により表記)︑年代︑保存状況︑

石材︑法量︑種子法盤︑種子調法︑形状︑備考記事を掲げた︒法量

の数値はすべてセンチメートルである︒種子法量については︑①縦

および横の数値は原則として種子となる党字の縦軸を垂直にした向

きを基準に計算した︑②彫幅は党字を構成する画の中で最も幅の広

い部分を計算した︑③彫深は現状で最も深い部分を計算した(種子

が欠損していて計測が難しい場合︑ーーを示し数値を記入しなかっ

たものがある)︒種子調法については︑種子の彫り方の断面形態と

彫刻技法を示した︒形状については︑石材の形状や加工技法︑碑面

の調整︑破損状況などを示した︒加工技法については︑先端の尖っ

た工具で板碑の輪郭を造り出している技法を﹁敵打﹂︑石材を割り

取って板碑の形状を造り出している技法を﹁割り矧ぎ﹂と表現した︒

備考欄には︑改刻︑偏額の出典︑罫線などの記事を示した︒板碑の

碑面・背面の左右については︑碑面に対しての左右を示した︒

データ表の作成については﹃仙台市史 特別編 5

板 碑

﹄ (

仙 台

市 ︑

一九九八年)を参照し︑資料の整理作業には岡山卓矢︑乙戸崇︑菊

地航平︑倉田祐介︑瀬戸秀一︑長津伸樹︑中村貴昭︑七海雅人︑新

野一浩︑福田慶二郎︑星由香里︑松田陽子︑松本尚也︑森祐一朗︑

吉成恵美があたった︒

( 七

雅人)

28 

(14)

2 0 0 7 年 採 集 板 碑 一 覧 表

N

o . 種 子 法 量 (mm) 備 考 ガ イ ド

20070408 干 潮13:22  海 水 面8cm 作業員 七新野海雅一人 高 橋 調 高 橋 周 子 吉 成 恵 美 乙 戸 最 104 キリーク 591 x 270x40 

画 翌 年 i i i i i ; i T L

F‑18 

治午卯(欠)J

105  630x 220x30  上部欠失/罫線上部2本・下部2本・右1本・左2本 F‑20  106  220x 145x 15  碑原面石状に加の工石痕材の?/剥背離而片 {母岩面)に横方向の榔痕多数、加工(削り)/河 F‑20 

107  340x 140x20  F‑19 

108  175x 165x 15  F‑20 

109 r~ 463x 152x29  F‑21 

110  228x 150x20  上部片/背面に加工(削り)痕 F‑21 

111  275x 190x55  F‑21 

112 カ 410x205x27  下端欠失/罫線種子の上下に各2本・碑左右に各1:本・碑中心に1:本 F‑21 

113  邸x100x 10  F‑21 

114  145x80x20  F‑21 

115 イー 212x 188x29  石材を横目にして使用/種子小さい G‑21 

116  360x210x35  F‑21 

117 カ 220x 140x20  上部片/穂子彫り浅い G‑21 

118 サ 580x 180x40  種子上部剥離欠失/穂子縦長 G‑21 

119 パン 460x 150x30  G‑14 

利子有り:8  破 片 :8 

言 8  8  合 計16(通算56 2 61  119)  20070421  干 潮12:06  海 水 面 ‑3cm  作 業 員 高 橋 調 新野一浩

120 カ 395x 137x20  F‑21 

121 不明 165x209x30  種子下部のみ残存 F‑21 

122 一 555x 185x 25  F‑21 

123 フ 520x295X48  下端欠失 F‑21 

124 カ 495x 180x40  下「端欠失/僧碩一鈍月子下四(欠に日蓮)( 台{側面観)/蓮台下に年号等 F‑21  康永四年一 欠)J

125 パン 460x 170x40  石質玄品石に近い F‑21 

126  360x 160x20  割痕ノミ幅l.lcm/石質玄昌石に近い F‑21 

127  440x 250x40  F‑22 

128 パン 450x 125x30  両面擁痕 G‑21 

129  215x 155x30  河原石状の石材/石質玄昌石に近い F‑22 

130 一 275x 190x40  碑函館痕/石質玄昌石に近い F‑22 

131  270x 190x 15  碑面僚出・刺突痕/罫線1本 ? F‑22 

132 不明 289x210x 11  F‑22 

133  555x 166X30  キ理(欠面)に口沿口っ口て巴、口縦方(欠向)Jに欠損 F‑22 

134 サ 226x 183x36  上部片 F‑22 

135  290x 120x20  F‑22 

136 フ 255x 117x20  F‑22 

137  250x 120x 15  石質玄日石に近い F‑22 

138 不明 221 x 215x 16  碑面酪痕/石質玄日石に近い F‑23 

139 サ 576x 180x41  F‑23 

140  390x 140x 15  碑面罫線2本 F‑23 

141  210x 190x20  下 部 片 ? F‑23 

142  170x110x20  F‑23 

143  135x95x5  河原石状の石材の剥離片/石質玄昌石に近い F‑23 

144  126x 134x 15  石質玄白石に近い F‑23 

145 ラ ? 311 x 172x33  種子中心部欠失/下部欠失 F‑23 

146  360x 290x20  石質玄白石に近い F‑23 

147 一 350x215x25  碑面掠痕多数/石室玄白石に近い F‑23 

148 パイ 405x213x47  種子に金泥/石質 白石に近い F‑23 

149 カ 170x 175x31  下端欠失/穂子小さい/背面酪痕 F‑24 

150  200x 120x20  下 部 片 ? F‑24 

151  210x 105x 15  石質玄日石に近い F‑24 

152 一 300x225x25  F‑24 

153  265x 125x30  河原石状の石材 E‑24 

154  225x 185x 10  石質玄昌石に近い E‑24 

155  290x 170x30  F‑24 

156  295x 225x25  F‑24 

157 不明 61Ox270x40 

干 援 i i ! ? i i i i T 4

こ罫線 F‑24 

東北文化研究所紀要

第四十六号二

O

一四 年十 二月

(15)

松島町雄島周辺海底採集板碑の報告口

N

  . a

種 子 法 量 (mm) 備 考 ガ イ ド

158 .1'¥ 305X 167x40  上端欠失/下端欠失?/碑面蝦痕 F‑24 

159 ナ 440x 178x35  碑面搬痕 G‑14 

160 

410x 165x35  石賀玄日石に近い G‑14 

161 カ 483x282x38  //3本圭頭/種子上下左部 F‑21 

162  515x335x25  F‑21 

葬王査~ 主主のみ:

盤丘:

24 

合計59(通算73 4 85  162) 

2 5  

2  32 

20070504 干潮11: 01  海水面‑8cm  作業員 七瀬海戸雅秀一人 高山橋田祐勝介 高福橋田鹿三潤郎 高‑草橋野周子一浩 宮成恵英

163 イー 849x200x49  H‑9 

164  195x 135x 15  H‑9 

165  230x 135x20  H‑9 

166  190x 105x35  H‑9 

167  175x 120x25  石賀玄白石に近い H‑9 

168 

210x 130x 10  H‑10 

169  320x 170x20  H‑10 

170  230x 140x 25  H‑10 

171  120x70x5  H‑9 

172  75x60x 10  H‑9 

173  215x 140x30  H‑9 

174  180x 100x 20  H‑9 

175  80x75x15  碑而に僚痕 H‑9 

176  230x 110x 15  碑而に僚痕? H‑9 

177  180x 125x40  H‑9 

178 ア 318x340x45  上部片 H‑I0 

179 不明 255x 115x 17  穂子一部残存 H‑10 

180 タ 371 x 170x45  F‑5 

181 フ 220x 150x40  種子の彫り浅く、小さい F‑5 

182 カ 393x 155x39  F‑5 

183 

200x 150x25  F‑5 

184 ユン 555x213x20  /N月門0.189と接合 F‑5  文和 六日施主敬白」

185  240x80x 15  碑而に削り、擦痕/石賀玄白石に近い F‑5 

186  290x250x35  碑面に儲棋 F‑5 

187  340x210x35  碑面に儲痕 F‑5 

188 カ 355x 195x30  種子の彫り浅い/下部欠失 E‑5 

189 

555x213x20  /N門月0.184と接合 F‑5  文和 六 日 施 主 敬 白J

190 .I{ 857x330x80  石材横目に使用/海底に突き刺さっていた資料 F‑5 

191  415x 160x25  碑面削り痕/石質玄昌石に近い F‑5 

192  125x95x20  石質玄白石に近い F‑5 

193 パン 440x 175x35  種子彫り浅い/碑面に搬出/石賀玄昌石に近い F‑5 

194 

260x 120x50  F‑5 

195 .I{  455x250x50  F‑5 

196 

230x 145x20  F‑5 

197 

370x 125x30  E‑6 

198  220x50x40  F‑8 

199 不明 310x 165x40  上端欠失/積子上部欠失/背面下部に削り痕 G‑9 

200 

190x 135x20  両而僚痕多数 G‑9 

201 

690x225x25  4 上

「1下諸(+欠行却部〉無減1・の左常法法側量辺右文部宕保四趣矢二O先者年X相3戊/叩h口午×h4二E310陸月と接作十普合五日 敬白」

G‑9 

202 キリーク 720x518x40  N0.206と同一個体 H‑I0  203  620x 245x35  上部欠失/上下に2本l組の航罫線 H‑I0 

204 カーン 255x 115X43  上部右側欠失/河原石状の石材 H‑I0 

205 カ 470x 197x31  H ‑10 

206  934x525x50 

Na「2((0欠欠2))と性亨同三賢一年三個八十体三月二(欠十)一日源政行敬白」

H ‑10 

207 

85x50x 10  石賀玄白石に近い H‑9 

208 

165x65x20  H‑9 

209  180x80x20  H‑9 

210  140x 120x45  碑面に削り・刺突痕 G‑9 

211  245x 140x20  G‑9 

212 

115x60x 15  G‑9 

213 マ 245x 170x40  上部

H

G‑9 

214  300x 160x25  G‑9 

30 

(16)

No.  種 子 法 量 (mm) 備 考 ガ イ ド

215  110x60x35  G‑9 

216 カーン 170x 140x26  租子の彫り浅い/上部片 G‑9 

217  195xl00x30  G‑9 

218  160x70x35  G‑9 

219  210x 150x 15  H‑I0 

220  260x130x25  H‑I0 

221  295x250x30  縦罫線l本、横罫線1本 H‑I0 

222  505x210x30  上端欠失 H ‑1O 

223 パン 614x 186x32  碑i師背面に撮痕/種子の彫り浅い H ‑lO 

224 ロ 362x 168x17  H‑I0 

225  245x 145x 15  H‑9 

226  180x 130x40  H‑9 

227  150xl泊x23 碑面削り痕 H ‑1O 

228  220x 155x25  H‑I0 

229  180x 100x 15  H‑I0 

230 キリーク 796x290x38  碑而中央に削り痕(文字を消した跡か) H‑I0 

231 カー 320x235x25  上部片/稲子上下に罫線 H‑I0 

232  560x250x35  H‑I0 

233  270x 100x20  蹴剖S~長碩/下端わずかに欠失 H‑I0 

234 

150x70x20  碑而に削り痕 H‑9 

235 

85x80xI0  H‑9 

236  115x90xl0  H‑9 

237  195x 155x20  石材を横目にして使用 H‑9 

238  145x110xI0  H‑9 

239  80x 160x 10  H‑9 

240  105x80xI0  H‑9 

241  90x70x 15  碑而に僚痕 H‑9 

242  100x45x5  H‑9 

243  140x45x25  H‑9 

244  75x95x 15  H‑9 

245  100x50x 10  H‑9 

246 ラ ? 125x 140x25  田子彫り浅い/上部片 H‑9 

247  60x40x3  H‑9 

248  180x 110x20  H‑9 

249  95x 100x 15  H‑9 

250 

130x65x3  石賀玄白石に近い H‑9 

251 不明 104x76x5  組子の一部残存/石質玄目石に近い H‑9 

252  70x65x5  H‑9 

253  55x35x3  H‑9 

254  65x40x3  H‑9 

炉型:

28  廷 の み :0 

蹴:長

体と

*i恥~~184 ・ 1895、241 ・ 201は接合、 Na2021 ・ 206は同一個

して合扱計い148総(数通は算胤100‑431472

51) 

20070518 干 潮 10: 37 海水面‑8cm 作 業 員 乙 戸 崇 新野一浩

255 イー 360x235x49  上部片/圃子下部欠失 G‑14 

256 

400x160x50  安山岩/碑而上端より8cmの位置に横罫線?/碑耐背面に掠痕 G‑14  257 パ ン ? 327x 137X52  相子彫り浅く、不鮮明 G‑14  258 サク 750x244x35  種に罫子線上半l欠本失/積子下、碑而下部、同右側に2本

HU

の罫線、碑面左側 ‑13 

259 

255x 165x20  G ‑13 

260 ...<ーンク? 440x290x20  上部片 G‑13 

261 不明 355x215x40  上部Ji" G‑14 

262 カ 400x 190x21  積子彫り浅い/上端欠失 G‑13 

263  520x295x25  G‑13 

264 キリーク 240x 140x 14  純子右側残存 G‑13 

265  410x240x25  石質玄白石に近い G‑13 

266  240x270x25  碑.聞に等間隔で縦罫線4本 G‑13 

267  240x 150x30  G ‑14 

268 :/ 655x170x40  上端左側欠失 G‑14 

269 パイ 361x169x23  冊子彫り浅い/頭部圭碩 G‑14 

270  395x160x40  碑面上部に削り痕 H‑14 

271 

195x 105X40  H‑14 

272 カン 535X170x27  下部欠失 H‑14 

273 ンャン 310x 145x 15  下部欠失/石質玄目石に近い G‑14 

274  370x305x25  下 部 片 ? H‑14 

前子有り :11 文字のみ:0  破片:9 

*両恥1184

1896、341

201は接合、Na202い206は同一個1体03として合扱計い1、68総(数通は算N1a1数1‑43と15な6主2ι71) 

東北文化研究所紀要第四十六号二

O

一四年十二月

(17)

松島町雄島周辺海底採集恒碑の報告口

恥 種 子 法 量 (mm) 備 考 ガ イ ド

20070520 干 潮11: 55 海水面‑5cm  作業員 吉高橋成恵美 福田鹿ニ郎 乙 戸 崇

275  190x150x20  碑面削り痕 H‑9 

276  129x82x20  H‑9 

277  265x 100x30  碑面削り痕 G‑9 

278  230x 145x 20  石質玄昌石に近い G‑9 

279  160x65x40  G‑9 

280  300x 195x35  上部片 G‑9 

281 

340x 180x25  G‑9 

282 サ ? 263x 135x30  下部欠失/積子風化により不鮮明 G‑9 

283  240x 120x35  碑商削り痕 G‑9 

284 ロ 252x 115x 14  H‑I0 

285  210x65x20  H‑I0 

286  285x 110x30  周縁整形 H ‑lO 

287 不明 416x 178x32  上部欠失/冊子下端部残存 H‑I0 

288 

270x200x25  H‑I0 

289  280x160x20  碑面背面酪痕 H‑I0 

290 パク 225x225x30  上部片 H‑I0 

291  65x 125x 15  H‑I0 

292  360x210x 15  H‑I0 

293 ア 1022 x 280 x 77  H‑I0 

294 カ 505x224x34  下端欠失 H‑I0 

295  225x 138x25  上部片 H‑I0 

296  310x205x30  H‑I0 

297  250x 120x35  下部欠失 H‑I0 

298  340x250x40  下部片 H ‑lO 

299  300x 170x25  碑面削り痕 H ‑lO 

300 不明 2回x120x20  種子一部残存 H‑I0 

301 ア 640x320x35  頭部圭頭/下端欠失 H ‑lO 

302  690x305x34  周縁整形 H‑I0 

303  215x85x35  H ‑lO 

304  100x 115x 15  H‑I0 

305 不明 120x80x41 

f C

欠)月廿四日(欠)J H‑I0 

306 アク 1030 x 280 x 55  H‑I0 

307  300x280x25  石質玄昌石に近い H ‑lO 

308 

240x 120x 25  碑面削り痕 H‑I0 

309  205x 130x40  H‑I0 

310  200x 130x30  H‑I0 

311 カ 200x 115x20  下端わずかに欠失 H‑10 

312 キリーク 175x70x20  種子下部残存/恥524と接合 H ‑lO 

313 

245x 105x20  H‑I0 

314  540x200x75  上下端欠失/両而削り痕 H‑10 

315  255x 140x 20  H ‑lO 

316  90x85x5  H ‑lO 

317  85x90x 10  H‑I0 

318 キリーク 810x300x50  H‑I0 

319  105x50x8  石質玄目石に近い H‑I0 

320  80x40x8  H‑I0 

321  155x 125x 15  H‑ll 

322  270x 130x30  碑面削り痕 H‑ll 

323  215x 100x35  削り痕/横罫線1本 H‑ll 

324 不明 310x 149x 16  上端碑面剥離欠失/種子下部残存/石質玄昌石に近い H ‑l1 

325  185x 115X 15  H‑ll 

326 不明 325x 130x40  上端欠失/種子上端欠失 H‑ll 

327 不明 460x 185x25 

E

語 醍 Z f

?

E j F

部二

9

2

21

2

、綿認子弘下子醐宮手線持と碑論而下 H‑ll 

328  140x 140x 15  碑面削り痕 H‑I0 

329  270x75x20  下部周縁整形 H‑I0 

お0マン 550x250x30  種子上下に横罫線各l本、碑面左上部に縦罫線1本/周辺整形 H‑I0 

331  130x60x 15  H ‑lO 

331 

130x60x 15  H‑I0 

332 

135x95x 15  H‑I0 

333 不明 86x95x 15 

f C

欠)貞治五(欠)J H ‑lO 

334 

165x165x25  H‑I0 

335  170x80x20  周縁整形/碑i師錦り痕/被熱? H‑I0 

336  95x 165x20  H‑I0 

337  140x130x15  H‑I0 

338  170x80x 20  碑面掠痕/周縁鞄形/被熱 H‑I0 

32 

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