J.ガントナーの講演「ゼ、ムパーとル・コルビュジ エJ(1927)
著者 市川 秀和, 森山 学
雑誌名 福井大学工学部研究報告
巻 48
号 1
ページ 239‑257
発行年 2000‑03
URL http://hdl.handle.net/10098/3319
第48巻 第l号
2000年 3月 239
J .ガントナーの講演「ゼ、ムパーとル・コルビュジエ J ( 1 9 2 7 )
市 川 秀 和 * 森 山 学 * *
Joseph Gantner 冶Le c t u r e Semper und Le C o r b u s i e r " ( 1 9 2 7 )
‑T r a n s l a t i o n and A n n o t a t i o n ‑
H i d e k a z u ICHlKAWA and Manabu MORIYAMA ( R e c e i v e d F e b . 2 9 , 2 0 0 0 )
J o s e p h Gantner ( 1 8 9 6 ‑ 1 9 8 8 ) i s t h e b e s t p u p i l o f H e i n r i c h W o l f f l i n , who was a famous h i s t o r i a n o f Westem A r t s . T h i s G a n t n e r ' s l e c t u r e "Semper und Le C o r b u s i e r ( 1 9 2 7 ) " was a n i n a u g u r a l a d d r e s s o f Z u r l i c h u n i v e r s i t y . G e n e r a l l y , G a n t n e r ' s works i s known s t u d i e s on M i c h e l a n g e l o , L e o n a r d o and Rembrandt i n r e n a i s s a n c e . However , h i s modem a r c h i t e c t u r e t h o u g h t i s v
ぽyi m p o r t a n t wor
k.So
f:紅白i sG a n t n e r ' s l e c t u r e i s v o r g o t t e n u n f o r t u n a t e l y .
T h i s r e p o r t s a r e J a p a n e s e t r a n s l a t t i o n and a n n o t a t i o n o f
出i sG a n t n e r ' s l e c t u r e .
KeyJ
予匂trds:J . G a n t n e r
,G . S e m p e r
,Le C o r b u s i e r
,E u r o p e a n Modem
Arc h i t e c t u r e
1 .ヨーゼフ・ガントナーの近代建築都市論
ガントナー
U o s e p hG a n t n e r )
については、ヴェルフリン( H e i n r i c hWδl f t 1 i n 1 8 6 4
・1 9 4 5 )
以後のパ ーゼル学派を引き継ぐ中心人物であり、そのミケランジエロやレオナルドに関する数多い研究 や 、 プ レ フ ィ グ ラ ツ イ オ ン( P r a f i g u r a t i o n )
という新らしい概念から構築した独特な美学思想などから、日本の研究者のなかでも既に広く知られたスイスの美学者である。
南ドイツ・ミュンへン大学のヴェルフリンの下で、
1 9 2 0
年にまとめたミケランジエロに関 する学位論文が基点となり、ガントナーの本格的な研究活動は始まったのである。なお、その 後1 9 3 8
年の秋に、パーゼル大学美術史講座主任教授に就任するまでのおよそ十五年の期間に おけるガントナーとは、スイスの建築雑誌r W e r k J
やドイツ・フランクフルトで活躍中の建 築家エルンスト・マイ( E m s tMay 1 8 8 6
・1 9 7 0 )
の関与する雑誌r D a s n e u e F r a n k f u r t J
の編集に携*建築建設工学科 **八代工業高等専門学校
わったことなどから、当時の建築や都市をめぐる新たな動向に殊のほか深い関心を寄せたので あった。このような活動のなかから、ガントナーにとって最初の著作『スイスの都市~(1
9 2 5 )
が 出版できたのであり、またチューリヒ大学教授資格論文「ヨーロッパ都市の基本形式 一系譜 による歴史的構築の試みーJ
(I9 2 6
, 出 版 :1 9 2 8 )
がまとまるなど、まことに充実した年月だった と言える。さらにこれらを踏まえて、1 9 2 7
年 の チ ュ ー リ ヒ 大 学 私 講 師 の 就 任 講 演 「 ゼ ム パ ー とル・コルビュジエJが生まれるに到ったと考えてよいだろう。ところがパーゼル大学就任以後のガントナーは、それまでのような建築や都市については殆 ど触れず、再び本来の課題であるミケランジエロやレオナルドなどの探究を精力的に始めて、
今日一般に知られるガントナ一美術史学が樹立されたわけである。しかし建築史研究から見れ ば、著名なガントナーの十五年にも及ぶ建築や都市への論及は、当時の急進的な近代建築運動 の展開を重ねてみるとき実に興味深く、これまでに全く評価されていないのが残念でならない。
そこでヨーロッパ近代建築思潮史の再評価という視座から、ガントナー・建築都市論の本格的 な究明を目指して、この本稿では、十九世紀後半の歴史主義から来たる二十世紀の近代主義へ の大転換期におけるドイツとフランスの代表的な建築家を取り上げて論じた興味深い内容であ る、「ゼムパーとル・コルピュジエjの全訳をまず試みたい。なお現在、これに合わせた訳者 による論考(市川fJ.ガントナーと近代建築
J
・森山f 1 9 2 7
年のル・コルビュジエJ
)を準備中 であるが原稿の制約もあって別の機会に譲り、本稿ではこの全訳と訳注のみに止めた。また本稿での作業を進めるにあたって、ガントナーに直接学ばれた京都教育大学名誉教授の 中村二柄博士の著書等を大いに参照させていただし、た。
中村二柄著『美術史学の課題』岩崎美術社
1 9 7 4
11 W 東西美術史ー交流と相反-~岩崎美術社 1992
11 W 美術史小論集一一研究者の足跡-~一穂社 1999
P . B e t t h a u s e n : J o s e p h G a n t n e r , i n : M e t z l e r K u n s t h i s t o r i k e r L e x i k o n , S t u t t g a r t , s 1 0
仏1 1 2 , 1 9 9 9
なお因みにガントナーの邦訳書をあげると、以下の多数にのぼる。『人間像の運命 ーロマネスクの様式化から現代の抽象にいたるー.!I (中村二柄訳)至成堂書庖
1 9 6 5
『ロダンとミケランジエロ~ (海津忠雄訳)昭森社
1 9 6 6
『ガントナーの美術史学 ーパーゼル学派と現代美学への寄与一~ (中村二柄編訳)勤草書房
1 9 6 7
『レンプラントとクラシック形式の変遷~ (中村二柄訳)岩崎美術社
1 9 6 8
『レオナルドの色彩~ (中村二柄訳)岩崎美術社
1 9 7 5
『未完成なる芸術形式~ (中村二柄訳)岩崎美術社
1 9 7 7
『心のイメージ一美術における未完成の問題ー~ (中村二柄訳)玉川大学出版部
1 9 8 3
『レオナルドのヴィジョン一大洪水と世界の没落-~(藤田赤二・新井慎一共訳)美術出版社
1 9 9 2
凡 例 ー 翻 訳 ・ 訳 注 に 当 た っ て ー
・翻訳の原文は、
J . G a n t n e r: S e r n p e r u n d L e C o r b u s i e r
,i n : R e v i s i o n d e r K u n s t g e s c h i c h t e
,P r o 1 e g o r n e n a z u e i n e r K u n s t g e s c h i c h t e a u s d e r n G e i s t e d e r G e g e n w a r t
,Wien 1 9 3 2
,s . 6 2
・8 9
に拠る0. 原 文 に お け る 独 語 は 市 川 が 、 仏 語 は 森 山 が 、 そ れ ぞ れ 担 当 し て 翻 訳 し 、 全 体 を 纏 め た0
・講演原稿の性格を尊重して、訳文は話し言葉の語調とした。
・原文中の " は 、 訳 文 で は で 表 示 し 、 な お 書 名 は
w
~とした 0・講演内容の理解を助けるために、顔写真・図版と訳注を新たに付け加えた。
( 市 川 記 )
Gottfried Semper (1803‑1879) Le Corbusier (1887・1965)
2. 翻訳・本文
以下の 1927年4月30日に催されたチューリヒ大学就任講演の内容は、 同年にチューリヒ の雑誌 rAnnalenJの7号と8号にわたって記載された。それをここに再録するのは、この 小 著1)で叙述された思考方法が既に示唆されているからであり、さらにまた「現代精神によ るJ十九世紀美術史の一側面を省察する内容がここに含まれているからである。
ゼムパーとノレ・コルビュジエ
現代建築 の討論に関心を寄せる者にと って 、ゼム パーとノレ・ コノレビュジエを取り合わせるの は聞き慣れないことでしょう 。 と言うのも、この両者はまるで光と影あるいは水と火の関係の ごとくであり 、そして 前者の死後およそ十年 も経ってから 後者 が生ま れているよ うな、 両者 の 完全な世代格 差があ ります。この ような両者の対立は個々の相違とともに、歴史的な背景にも 拠ると思われます。つ まり今日ではもう既に忘れられようとしているゼムパー に対して、 一方 のル ・コルビュ ジエ においてはその前途が 今華々し く始まったように 、ここには二つの世界が 象徴されているようです。ところがこのようなゼムパーとル
・コルピュジエ、それもチューリ
ヒやス イスで一際目立つ独特な建築家を結び付けるこ とは、それほ ど良い ニュアンスを生み 出 さなし
1かも知れま せん。例えば閉じよ うな観点か ら北 ドイツを 眺めると 、お そらくシンケノレ
2)とグローピウス
3)が思い浮かぶでしょう 。 ともかくゼムパーは、ここチ ュー リヒにおいて建築
家兼教育者 として活躍し、この 工科大 学では最初の指導層の 一人であり、そして名誉博士号を
授与しています。 これに対し て ノレ・ コ ノ レ ビュジエは 、カ ーノレ
・モーザー
4)によ る最も 新しい建
築運動のなかで唯一のスイス 人として実質 的な指導的役割を果たしています。 これから 私が論
及しようと試みるのは、この 二人の建築家の活躍の良否ではなく、ま して やその一般的な理解
度を検討することではあ りません。 さらに両者の世界観を比較して、そのより優れた 一方を考
察 し よ う と す る よ う な 安 易 な 試 み で も あ り ま せ ん 。 む し ろ 私 は 、 異 質 な 二 つ の 世 界 を 繋 ぎ 止 め る 考 察 を 試 み た い 。 そ の 上 に 、 い つ ま で も 理 解 さ れ 難 い わ れ わ れ 美 術 史 家 の 立 場 に つ い て 、 そ れ が 時 代 遅 れ の 過 去 を 扱 う 仕 事 な の か 、 あ る い は 現 代 的 な 仕 事 な の か と い う 、 研 究 の 実 質 的 な 内容に向けられた偏見に対しても論及したいのです。
そ こ で ゴ ッ ト フ リ ー ト ・ ゼ ム パ ー と は 、 わ れ わ れ の 世 代 が 根 本 的 に 避 け よ う と す る 歴 史 的 な 芸 術 を 代 表 し て い ま す 。 現 代 の 芸 術 家 た ち に と っ て の 確 信 と は 、 さ ま ざ ま な 歴 史 的 蓄 積 を 閉 ざ して、あのブ、ルクハルト 5)が 言 う よ う に 、 過 去 か ら 引 き 継 ぐ 課 題 の 解 消 を 宣 言 し 、 過 去 の 終 末 が 完 了 し て し ま っ た こ と を 記 憶 に 刻 み 込 む と と な の で す 。 こ の よ う な 新 し い 状 況 に お い て 、 均 等 に 開 放 さ れ た 全 て の 各 時 代 か ら 距 離 を 適 度 に 取 る た め の 可 能 性 が 、 わ れ わ れ に 与 え ら れ て い ます。ここでわれわれは、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライト 6)の語る、建築におけ る「ルネサンス(復古)Jは 絶 え ず 誤 り だ っ た 、 と い う 悪 質 な 言 説 を 真 っ 先 に 修 正 せ ね ば な ら ないのです 7)。今日の世界で最も注目されているこの建築芸術家の言説に対して、 ドイツの伝 記 作 家 が 一 致 し て 酷 評 を 与 え ま し た 。 な ぜ な ら 、 あ ら ゆ る 世 代 に と っ て す ば ら し い 演 劇 か ら 純 粋 な 感 動 を 受 け な い よ う な 人 間 に 限 っ て 、 誤 解 や 嫌 み を 口 に す る で し ょ う か ら 芸 術 と は 、 常 に 完 成 の 途 上 に あ るoJと い う 、 す ば ら し い 一 つ の 古 い 格 言 が あ り ま す 。 そ こ で 、 古 代 ロ ー マ の 彫 刻 家 が ギ リ シ ャ 彫 刻 を 自 由 に 模 倣 し よ う と 、 ま た サ ン ・ ピ エ ト ロ 大 聖 堂 の 設 計 依 頼 を 受 けたブラマンテ8)が「私はコンスタンティヌスのバシリカの上にパンテオンを構想Jしようと、
さらにクレンツエ 9)が ミ ュ ン へ ン の グ リ ュ プ ト テ ー ク の 手 本 に ギ リ シ ャ 神 殿 を 選 ぼ う と 、 そ れ ら が ど う で あ ろ う と も 、 芸 術 と は 常 に 完 成 の 途 上 に あ る と 言 え ま す 。 こ の 正 当 性 は 、 あ る 特 定 の時代だけのもでなく、現代も含めていつの時代にも共通して妥当するものなのです。
そ し て 美 術 史 家 と は 、 予 測 の 付 か な い 明 ら か に 混 乱 し た 状 況 に 臨 ん で 、 根 拠 の な い 印 象 や 西 洋 人 の 陥 り や す い 懐 古 的 な 称 讃 を 与 え る よ う な 奇 妙 な 主 張 を し な く て は な ら な い 時 も あ る で し ょ う 。 ま た あ る 美 術 史 家 が 、 創 造 的 な 努 力 に お け る 休 息 で あ る と 主 張 し た り 、 あ る い は 一 方 で 感 覚 的 な 実 践 に 対 す る 精 神 的 な 思 索 の 勝 利 で あ る と 主 張 し た り 、 さ ら に 高 権 力 に よ る 支 配 体 制 で あ る と 主 張 し た り す る で し ょ う が 、 そ れ ら は そ れ 自 身 の 原 理 に 従 つ て の こ と で す 。 1834年 に31歳 の ゴ ッ ト フ リ ー ト ・ ゼ ム パ ー は 、 ド レ ス デ ン ・ 建 築 ア カ デ ミ ー で の 就 任 講 演10)で、「建 築的造形の創造とは暖昧なものからで、あるにもかかわらず、確固たる完全な原理によって創ら れた自然の基本的法員iJと一致するように思われる。Jと 話 し ま し た 。 こ の す ば ら し く 情 熱 的 な 講 演 が 、 そ の 後 の 人 々 や ほ ぼ 百 年 後 の 今 日 の わ れ わ れ に 読 ま れ る と き 、 こ の 31歳 の 人 物 の 芸 術 や 世 界 観 が は っ き り と 伝 え ら れ 、 わ れ わ れ は 再 び 「 芸 術 と は 、 常 に 完 成 の 途 上 に あ る 。Jと
口にすることでしょう 1])0 31歳 の ゴ ッ ト フ リ ー ト ・ ゼ ム パ ー の 作 品 か ら 感 じ ら れ る 仕 事 へ の 情 熱 に も 見 ら れ る よ う に 、 彼 は そ の 確 信 に 従 っ て 完 成 を 掴 も う と し て い た の で す 。 こ れ に 疑 い を抱く人たちに向かつてゼムパーは、 1760年の若きカン卜 12)に よ る あ る 追 悼 文 「 哲 学 の 教 師j
に 書 か れ た 、 「 人 間 は 誰 で も 、 そ の 世 界 に お い て 自 己 の 宿 命 に よ る 固 有 の 意 図 を 果 た す の で あ る。Jという言葉でもって反論することでしょう。
II.
このような 31歳 の ゴ ッ ト フ リ ー ト ・ ゼ ム パ ー は 、 ハ ン ブ ル ク の 裕 福 な 商 家 の 出 身 で あ り ま した。彼は、ゲッテインゲンにおいて数学をガウス 13)か ら 、 考 古 学 を オ ト フ リ ー ト ・ ミ ュ ー ラー 14)か ら そ れ ぞ れ 短 期 間 学 び ま し た が 、 そ の ミ ュ ー ラ ー の 影 響 力 は 今 な お 考 古 学 雑 誌 に 拡 がっています。この後に建築へと転向して、ミュンヘンのゲノレトナー15)や パ リ の イ ッ ト ル ブ16) の 下 で 修 業 し ま し た 。 そ し て 続 い て セ ネ カ 17)を 熱 心 に 読 み ふ け り な が ら イ タ リ ア と ギ リ シ ヤ
を 旅 し 、 そ の 途 上 で 古 代 建 築 の 色 彩 に つ い て 実 に 詳 細 な 調 査 研 究 を 実 施 し た の で す 。 そ れ を 根 拠 に し て 、 ブ ル ク ハ ル ト の 師 ク ー グ ラ ー 18)に 古 代 建 築 が 完 全 に 彩 色 さ れ て い る か ど う か の 論 争 を 挑 み ま し た 。 古 代 建 築 が 全 体 的 に 多 彩 だ と 考 え る ゼ ム パ ー と 、 柱 上 部 以 上 の み と 考 え る ク ー グ ラ ー と の 間 で 起 こ っ た 論 議 は よ く 知 ら れ て い ま す 19)。 そ し て シ ン ケ ル の 推 薦 に よ っ て ゼ ム パ ー は ド レ ス デ ン ・ 建 築 ア カ デ ミ ー の 学 長 に 就 任 し ま し た が 、 こ の 新 た な 公 職 と は 、 歴 史 に 関 心 を も っ 教 師 と 創 造 的 な 建 築 家 と い う 相 反 す る 立 場 に お い て 、 彼 の 才 能 を 発 揮 さ せ る こ と に な っ た の で す 。 こ こ で 発 揮 さ れ た 二 面 的 な 才 能 は 、 十 九 世 紀 独 特 の 人 聞 と 芸 術 家 の あ り 方 を 明 きらかにしています。さらにゼムパーは、多才に優れた能力を小さく分け与えて残しました。
つ ま り そ れ は 一 建 築 家 で あ り か つ 父 親 の 協 力 者 と な っ た 息 子 マ ン フ レ ッ ド ・ ゼ ム パ ー 20)であ り 、 美 術 史 家 で あ り か つ 父 親 の 伝 記 作 者 と し て の も う 一 人 の 息 子 ハ ン ス ・ ゼ ン パ ‑2])でした。
この息子たちにとって父親の実力は圧倒されるものでした。
さ て 、 先 に も 引 用 し た ド レ ス デ ン で の 就 任 講 演 の な か で ゼ ム パ ー は 、 「 あ ら ゆ る 時 代 の 記 念 的 な 作 品 を 学 習 し た り 比 較 す る こ と が 、 建 築 家 に と っ て 不 可 欠 で あ る こ と は 明 確 で あ り 、 建 築 家 養 成 の 上 で も か な り 現 実 的 に 必 要 で あ るJ土 話 し て 、 い わ ば 彼 自 身 の 全 作 品 に 対 し て 抱 く 指 針 の よ う な 理 念 の 一 つ に 言 及 し ま し た 。 つ ま り ゼ ム パ ー に と っ て 、 こ の よ う な 考 え 方 は 建 築 家 と し て 仕 事 に 取 り 組 む 上 で 決 定 的 に 重 要 な の で し た 。 そ こ で 、 ア カ デ ミ ー 主 催 の 裁 判 所 コ ン ペ に 応 募 す る 計 画 案 と し て 、 ヴ ェ ネ ツ ィ ア の パ ラ ッ ツ オ ・ ド ウ カ ー レ 22)を あ る 一 人 の 学 生 が 模 倣 す る と き 、 ゼ ム パ ー は 彼 に ゴ ー ル ド ・ メ ダ ル を 与 え る こ と で し ょ う 。 ゼ ム パ ー 自 身 、 世 界 中 の あ ら ゆ る 建 築 様 式 を 使 っ て 設 計 し た の で し た 。 例 え ば 、 英 国 式 ゴ シ ッ ク の 城 塞 ス タ イ ル に よ るパウツェンの歩兵部隊兵舎(図ー1.)や、ヴェネツィアにあるサンソヴィーノ設計の図書館 23)
を モ チ ー フ に し た ド レ ス デ ン 美 術 館 ( 図‑2.)、 そ し て ロ マ ネ ス ク と ム ー ア の 様 式 の 要 素 を 折 衷 させたドレスデンのシナゴーグ(函‑3.)な ど が そ れ な の で す 。 さ ら に 1844年には、ハンブりレク の ニ コ ラ イ 教 会 の た め の 大 き な コ ン ペ に 際 し て 、 息 子 の ハ ン ス に よ る と 「 初 期 キ リ ス ト 教 お よ びドイツの初期ゴシック教会建築を手がかりに」、ゼムパーは一つの計画案(図・.4)を提出しま し た 。 多 く の コ ン ペ と 同 様 に 新 聞 や 雑 誌 で の 論 争 か ら 守 り ぬ い た 計 画 案 に は 、 次 の よ う な 言 説 が 付 け ら れ て い ま し た 。 「 過 去 の 様 式 を 考 慮 す る こ と は ま す ま す 必 要 な の で あ り 、 そ こ か ら 創 り 出 さ れ た 一 つ の 建 築 作 品 が 、 過 去 の 一 部 分 を 根 拠 づ け る の で あ るO あ る 劇 場 が 性 格 的 に 必 要 な ら ば 、 古 代 ロ ー マ の 劇 場 を 完 全 に 想 起 さ せ る べ き で あ るO あるゴシック的な劇場が、古ドイ ツ あ る い は ル ネ サ ン ス の 様 式 の 教 会 と 見 分 け が つ か な い の は 、 わ れ わ れ に と っ て 教 会 的 な も の で は な い 。 わ れ わ れ は 何 と 言 っ て も こ の よ う な 立 場 に 立 つ の で あ る 。 」 こ れ に は 意 見 が あ る か も 知 れ な い 。 つ ま り 、 そ の よ う な ゼ ム パ ー に よ る ド レ ス デ ン あ る い は ハ ン ブ ル ク で 使 わ れ た 過 去 の 様 式 が 旅 行 記 録 に 拠 っ て い る と す れ ば 、 古 代 ロ ー マ の 劇 場 の よ う な 例 を ど こ か ら 手 に 入 れ た ら よ い の だ ろ う か ? と 。 し か し こ の よ う な 疑 問 は 間 違 い な く 素 人 の も の で あ り 、 ゼ ム パ ー に と っ て 注 意 に 値 す る も の で は な い の で す 。 ゼ ム パ ー に と っ て の 芸 術 と は 、 教 養 あ る 人 々 や 人 文学者、知識人、美術史家だけを対象にしていたのですから。
このようなハンブルクでの論争を踏まえて、 1845年に纏められた小冊子『福音主義教会の建 築について~ 24)のなかでゼムパーは、その折衷主義の典型的なプログラムを次の言葉によって ま と め て い ま す 。 「 わ れ わ れ の 芸 術 と は 、 現 代 に と っ て の 真 実 な 表 現 を 担 う べ き で あ り 、 過 去 のすべての時代と現代との必然的な繋がりを引き受けなければならないのである。もし仮に、
こ の よ う な 過 ぎ 去 る こ と な く 退 化 す る こ と も な い 芸 術 こ そ が 、 わ れ わ れ に と っ て 必 要 で な い と す れ ば 、 現 代 の 状 況 の な か で 強 烈 な 印 象 が 思 い 描 か れ て 残 さ れ る こ と も あ り 得 な い 。 そ し て そ の豊かな題材を意識的に率直さをもって取り上げられることもないのである。J
こ の よ う な ぜ ム パ ー か ら 既 に 八 十 年 の 年 月 が 現 在 ま で に 経 過 し て い ま す 。 そ の 期 間 内 で 西 洋 は 、 ゼ ム パ 一 流 の 折 衷 主 義 や 歴 史 主 義 の 完 全 な 衰 退 を 経 験 し て き ま し た 。 し か し な お 1926年 のパリにおいて、聖なるジャンヌ・ダ、ルク 25)の た め の 教 会 堂 コ ン ペ 26)の 審 査 委 員 会 は 、 そ れ を 知 何 な る 様 式 で 建 て る の か と い う 問 題 に 、 ゴ シ ッ ク 様 式 で 建 て る こ と を 決 定 し た の で す 。 そ の 理 由 は 、 ジ ャ ン ヌ ・ ダ ル ク の 時 代 が フ ラ ン ス に と っ て ゴ シ ッ ク と い う 栄 光 あ る 時 代 で あ っ た か ら だ と い う の で す ! と こ ろ が こ の 三 年 前 の パ リ で は 、 ゼ ム パ 一 流 の 古 い 見 解 を 一 挙 に ぬ ぐ い 去 っ て 古 き 時 代 の 終 鷲 を 告 げ る よ う な 、 一 冊 の 宣 言 書 が 出 版 さ れ て い ま し た 。 そ れ に は 次 の よ う な 言 葉 が 記 さ れ て い た の で す 。 「 建 築 に お い て 、 古 い 建 設 の 基 盤 は 死 ん だ 。 新 た な 基 盤 が あらゆる建築表現の論理的支えをなす時にしか、人は建築の価値を再び見出さないだろうO 二 十 年 間 は こ の 基 盤 を 創 造 す る と と に 費 や さ れ る だ ろ う こ と が 予 想 さ れ る 。 そ れ は 大 変 な 難 問 を 抱 え た 時 代 、 分 析 と 実 験 の 時 代 で あ り 、 そ の 上 美 学 の 大 い な る 大 変 動 の 時 代 で も あ り 、 新 し い 美 学 を 練 り 上 げ る 時 代 で あ るoJ 27)さらに重要な内容として、「建築は「様式Jというものと は 何 の 関 係 も な い 。 建 築 に と っ て 、 ル イ 十 五 世 、 十 六 世 、 十 四 世 様 式 や ゴ シ ッ ク 様 式 は 、 婦 人 の 頭 に 羽 飾 り が あ る よ う な も の で あ る 。 そ れ は と き に は 締 麗 で あ る が 、 常 に で は な い し 、 そ れ 以 上 で は な い !J 28)とはっきり書かれていました。
このように宣言したのは、 36歳 に な っ た 一 人 の 若 き ス イ ス の 建 築 家 シ ヤ ル ル = エ ド ゥ ア ー ノレ・ジャンヌレ、つまりル・コルピュジエであり、その書物のタイトルには控えめにも『建築 をめざして~ 29)と付けられていました。ル・コルピュ、ジエはここ数年間で、現代建築の緊迫し た 事 態 に 対 す る 数 冊 の マ ニ フ ェ ス ト 的 な 書 物 を 出 版 し て 、 実 に 信 じ ら れ な い よ う な 名 声 を 獲 得 した興味深い人物です。ラ・ショー・ド・フォンの出身である彼は、当地の必ずしも革新的と は 言 え な い 職 業 学 校 に 通 い な が ら 青 年 時 代 を 過 ご し て 、 二 つ の 住 宅 30)を設計していました。
この二十年代以前の住宅は、その奇妙なデザインから注目を集めたのですが、今日ではユーゲ ントシュティール 31)の 流 れ を 汲 ん だ 好 感 の 持 て る 作 品 と し て 受 け 入 れ ら れ て い ま す 。 こ の 後 に 世 界 へ 出 発 し た ル ・ コ ル ビ ュ ジ エ は 、 ヨ ー ロ ッ パ の 各 地 や 小 ア ジ ア 、 さ ら に 南 北 ア メ リ カ を くまなく旅行しましたが 32)、 こ の ガ リ ア 人 種 の 典 型 的 な 息 子 は 最 終 的 に パ リ へ 辿 り 着 き ま し た 。 そ れ か ら 戦 争 の 聞 は フ ラ ン ス の 首 都 パ リ に て 、 最 も 有 名 な 優 れ た 建 築 家 の ベ レ ー 兄 弟 33)
の 下 で し ば ら く 働 い た の で す 。 こ の ベ レ ー に よ る 建 築 表 現 が 、 ル ・ コ ル ピ ュ ジ エ の 建 築 修 業 の 実質を形成したのでありました。さらにいとこのピエーノレ 34)と 画 家 ア メ デ ・ オ ザ ン フ ァ ン 35)
と の 間 で 一 つ の 小 さ な グ ル ー プ を 結 成 し て 、 こ こ か ら 「 レ ス プ リ ー ・ ヌ ー ヴ ォ ーj誌 36)が 誕 生 し た わ け で す 。 そ の 誌 上 で の フ ァ ン フ ァ ー レ な 調 子 の 論 説 に お け る 「 新 た な 精 神Jからの絶 え 間 な い 急 進 さ 、 内 容 の 無 い 偏 見 に 対 す る 容 赦 の な い 批 判 、 さ ら に 設 計 構 想 の す ば ら し さ が 注 目され、戦後の大都市における交通難や住宅難、新たな建設のための経済難を克服する内容が 含まれていました。そしてこの「レスプリー・ヌーヴォー」誌上の論文のなかから編集されて、
パ リ の ク レ ス 社 か ら 出 版 さ れ た 最 初 の 著 作 が 『 建 築 を め ざ し て 』 な の で あ り 、 こ の ド イ ツ 語 訳 も既に発行されました 37)。 さ ら に こ れ に 続 く 短 期 間 の う ち に 、 ほ か の 著 作 も 次 々 と 誕 生 し ま した。それは、 1925 年の大展覧会 38) に合わせての『今日の装飾芸術~ 39) や『ユルバニズ、ム~40)、 またオザンファンとの共著『近代絵画~ 4J)、そしてこれまでの「レスプリー・ヌーヴォーj誌 を補完してまとめた『近代建築名鑑~ 42)でありまして、同じくクレス社から出版されました。
ともかく、この著作『建築をめざして』については、新たな思想を表明する宣言書として伝 え広まってゆく以外のものではありませんでした。もうかなり以前のことで私の間違いでなけ れば、 1900年 以 前 に こ う し た 今 日 の パ リ で の 同 様 な 出 来 事 が 、 現 在 活 躍 中 の ウ ィ ー ン の 建 築 家アドルブ・ロース43)によって、ウィーンにおける新聞の文芸欄や論評、講演で論及されて、
す ば や く 広 ま っ た の で す が 、 す ば や く 忘 れ 去 ら れ て し ま い ま し た 。 こ の よ う な 思 想 が 完 全 に 成 熟 し て 、 そ の 主 張 者 が 強 烈 な 発 言 力 を 確 実 に 持 て る よ う に な る た め に は 、 戦 争 の 動 乱 や 戦 後 の 大都市における膨大な住宅難が何よりも明らかに必要でした。
こ の 著 作 『 建 築 を め ざ し て 』 に は 、 ず さ ん に 印 刷 さ れ た ラ フ な 図 版 と と も に 簡 潔 な ス ロ ー ガ ン に よ っ て 、 新 し い 先 導 的 な 思 想 が 表 明 さ れ て い ま し た 。 そ の 主 旨 と は 、 あ ら ゆ る 歴 史 的 な 要 素 か ら の 完 全 な 転 向 で あ り 、 建 築 の 合 目 的 性 と そ れ に 基 づ い た 素 材 か ら の 純 粋 な 発 展 で あ り 、 そ し て 装 飾 だ け で な く 、 計 画 と 構 造 ( 開 口 部 、 地 下 室 、 平 屋 根 な ど ) に お い て も 不 要 な 部 分 の 完 全 な 排 除 で あ り 、 さ ら に 工 場 の 大 量 生 産 に よ る 建 築 材 料 の コ ス ト 低 減 と そ の た め の 規 格 ス タ イルの創造で、すO し か し こ れ に 対 す る 反 論 者 は 、 あ ら ゆ る 人 格 的 な る も の か ら の 事 離 で あ る と 批 判 し て い ま す 。 そ れ は 既 に 十 八 世 紀 哲 学 に お け る 「 人 問 機 械 論J44)が示唆するように、こう し た 教 条 主 義 の 考 え 方 の た ど り 着 く 結 果 は 明 ら か で 、 コ ル ビ ュ ジ エ は 「 住 宅 機 械J45)へ と 到 達 し た の で し た 。 け れ ど も こ の 哲 学 的 な 定 義 を 有 無 を 言 わ さ ず 論 駁 す る こ と は 現 代 建 築 の 課 題 の 一つであり、またここ十年間にわたって明らかに具体化されています。またル・コルピュ、ジエ は 、 「 何 十 万 戸 の 住 宅 が 不 足 し て い る 現 実 の わ れ わ れ に と っ て 、 な ぜ 、 安 く て 実 用 的 で 丈 夫 に 仕 上 が っ た ミ シ ン の よ う に 住 宅 を 購 入 す る こ と が 出 来 な い の か ?Jと問し1かけています。
こ こ で わ れ わ れ に と っ て 歴 史 的 認 識 の な か に あ り 、 現 代 と は 正 反 対 の 人 物 と 思 わ れ て い る ゼ ム パ ー を 改 め て 取 り 上 げ ま す 。 ゼ ム パ ー の 後 期 の 仕 事 、 そ れ も こ こ チ ュ ー リ ヒ で の 活 動 に 視 点 を向けるとき、この完全に対立する二つの世界がいっそう浮き彫りになってくるわけです。
III.
1849年 に ド レ ス デ ン で の 政 治 的 な 暴 動 に 参 加 し た ゴ ッ ト フ リ ー ト ・ ゼ ム パ ー は 亡 命 を 余 儀 な く さ れ て 、 ま ず 最 初 に パ リ へ 移 り 、 そ れ か ら ロ ン ド ン へ 渡 っ て 当 地 の 美 術 館 と 応 用 芸 術 学 校 の 金 属 技 術 部 門 の 指 導 者 と な り ま し た 。 ロ ン ド ン に お け る ゼ ム パ ー は 残 念 な が ら 建 築 家 活 動 を 実践できませんでしたが、小冊子『建築の四要素~ 46) や『科学・産業・芸術~ 47)な ど の 著 作 を 数 多 く 執 筆 し ま し た 。 ま た 古 代 ギ リ シ ャ の あ る 銘 文 の 意 味 と 地 域 性 を め ぐ っ て 、 テ ィ ー ル シ ユ48)
と の 問 で 論 争 を 交 わ し ま し た 。 そ し て 1855年 に は 、 チ ュ ー リ ヒ に 新 設 さ れ た 工 科 大 学
( P o 1 y t e c h n i k u m )
へ の 招 聴 を 受 け 入 れ た わ け で す 。 で も 実 際 は ぜ ム パ ー に と っ て こ の 招 鴨 と は よ く よ く 考 え た 末 の こ と で あ り 、 い や い や な が ら の と と だ っ た の で す 。 既 に 十 三 年 の 滞 在 49)を経た 1866年に彼はある手紙のなかで、「私は残念ながら暗い気持ちでとの土地に留まってい る の で す 。 憂 欝 な な か で 消 え 去 る か の よ う に 注 目 さ れ る こ と も な く 。Jと書き記すのでした。
こ の ゼ ム パ ー の 悲 嘆 と は 、 チ ュ ー リ ヒ と の 関 係 か ら 発 し た も の で は 決 し て あ り ま せ ん 。 彼 の チ ュ ー リ ヒ 時 代 と は 、 大 規 模 な 設 計 依 頼 が 山 の よ う に 舞 い 込 ん で い ま し た 。 ゼ ム パ ー は ヴ ォ ル 7 50)との共同設計を開始するやいなや工科大学校舎の新築計画(図・5.)の 依 頼 を 始 め 、 天 文 台 (図‑6.)や レ ー ミ 通 り の フ ィ ー ル ツ 邸 ( 図‑7.)、ヴインターツールの市庁舎(図‑8.)、 さ ら に 弟 子 ヴァンナ~ 5))が 手 を 加 え て 実 施 し た チ ュ ー リ ヒ の 新 し い 中 央 駅 舎 ( 図‑9.)、 ま た ベ ル ゲ ル に お けるカスタセグナのある邸宅(図・10.)な ど 、 次 々 と 設 計 委 託 を 受 け ま し た 。 ゼ ム パ ー は 公 共 の も の か ら 個 人 の も の ま で 考 え ら れ る あ ら ゆ る 建 築 作 品 を 手 が け 、 さ ら に コ ン ペ 審 査 会 の 委 員 に もなったのです。そのほか、チューリヒ近郊のアッフォノレテルンの教会塔の修復(図・ 11.)も断 ら ず に 取 り 組 み 、 こ れ に 対 し て は そ の 自 治 体 か ら 名 誉 市 民 権 が 与 え ら れ た の で し た 。 こ の よ う にチューリヒにおいてゼムパーは、ヨーロツパ的名声を獲得した建築家へと成長したのであり、
また主著『様式論~ 52)もこの地で完成しました。そして 1869年 に ゼ ム パ ー が ウ ィ ー ン か ら の 招 鴨を受けられたのも、チューリヒでの活躍に拠るものでした。
ウィーンへ移ったゼムパーは、宮廷博物館(図ー12.)と続いて市民劇場(図‑13.)し、うモニュメ ン タ ル な 建 築 物 を 完 成 さ せ ま し た が 、 そ れ に は ハ ー ゼ ナ ウ ア ‑53)の 協 力 が 何 よ り も 不 可 欠 で
した。ゼムパー自身がこれらの設計にどこまで携わることができたのかは明確ではないのです。
つ ま り ド レ ス デ ン 博 物 館 の 上 に 丸 屋 根 が 不 自 然 さ の な い よ う に 架 け ら れ た の と 同 じ く 、 ウ ィ ー ンの博物館にも見られるわけですが、 ド レ ス デ ン で の ハ ン ス ・ ぜ ム パ ー の 場 合 の よ う に ゼ ム パ ー の 根 本 理 念 に 従 っ て 、 ウ ィ ー ン の ハ ー ゼ ナ ウ ア ー が 丸 屋 根 塔 を 付 け 加 え て 実 施 し た の か ど う か は 不 明 な の で す 。 ま た チ ュ ー ヒ リ の 工 科 大 学 校 舎 の 円 堂 が 、 実 際 に i文字の上の小点のよう だという批判は今でもなお聞かれることなのです。
と も か く ゼ ム パ ー の 折 衷 主 義 の 性 格 は チ ュ ー リ ヒ に お い て 完 全 に 解 消 さ れ て 、 ル ネ サ ン ス へ の絶対的な偏愛に到ったと思われます。ゼ、ムパーの弟子でありその伝記を執筆したリープジウ ス 54)に よ れ ば 、 「 ゼ ム パ ー は 、 最 も 高 度 な 芸 術 で あ る ギ リ シ ャ を 含 め た 時 代 の ど れ よ り も 、 ル ネ サ ン ス の 芸 術 を 優 れ て 卓 越 し た も の と 見 な し た 」 わ け で す 。 よ っ て チ ュ ー リ ヒ で は 幸 運 に も
ド レ ス デ ン 博 物 館 以 上 に 秀 逸 な 工 科 大 学 校 舎 が 、 こ の 最 も 洗 練 さ れ た 理 念 に 従 っ て 結 晶 し た 作 品 な の で あ り 、 さ ら に 後 の ウ ィ ー ン へ 移 る ま で に は 、 ヴ イ ン タ ー ツ ー ル の 作 品 ( 図‑8.)が そ の 理念、の純粋さをはっきりと見せています。
こ の よ う な 独 特 な 宿 命 の も と で の ゴ ッ ト フ リ ー ト ・ ゼ ム パ ー の 生 涯 は 、 ロ ー マ 滞 在 中 に お け る1879年5月 15日 に 閉 じ ら れ て 当 地 に お い て 埋 葬 さ れ た の で し た 。 こ れ に あ の ケ ス テ ィ ウ ス の ピ ラ ミ ッ ド 55)を 思 い 浮 か べ る と 、 イ タ リ ア へ と 視 界 を 開 い て 古 代 の 世 界 へ と 奥 深 く 惹 き つ けられてゆく、北方の人々の多くの生涯が見出されてくるのです。
チ ュ ー リ ヒ に お け る ゼ ム パ ー の 活 躍 に つ い て 私 は 先 に 、 そ の 成 熟 し た 壮 年 期 の 作 品 に よ っ て 特 徴 づ け ら れ る と い う こ と を 述 べ ま し た 。 つ ま り 歴 史 様 式 と し て の ル ネ サ ン ス を 絶 対 的 優 位 な も の と す る ゼ ム パ ー の 確 信 で あ り ま し た が 、 し か し な お そ の 確 信 の 中 に は 、 ル ネ サ ン ス が あ ま り に も 早 い 近 代 的 手 法 に よ っ て 破 壊 さ れ 、 バ ロ ッ ク へ と 進 展 し た と い う 歴 史 的 な 問 題 が 内 包 さ れ て い た の で す 。 こ れ に 対 し て ル ・ コ ル ピ ュ ジ エ は 、 十 八 世 紀 の 北 方 の 賢 者 と 呼 ば れ た ヨ ー ハ ン・ゲオルグ・ハーマン 56)に基づいて、「他の充足した分野に対して歴史は、その枯渇した状 況 を 見 つ め る べ き で あ る 」 と 指 摘 し ま し た 。 パ リ で の 大 き な 展 覧 会 開 催 の 二 年 数 ヶ 月 前 に 出 版 した『ユルバニズム』においてル・コルピュジエは、次のようにも言及していました。「パリ装 飾 芸 術 国 際 博 覧 会 は 過 去 へ と 向 け ら れ る 視 線 の 決 定 的 な 無 益 さ を 示 す だ ろ う 。 そ れ は 完 全 な 吐 き気となろう、そして一つのページがめくられるだろう。J57)さ ら に 「 大 規 模 で 急 激 で 荒 々 し い進化は過去との関係を断った。J58)と 述 べ て 、 歴 史 的 な 様 式 が 何 の 助 け も な く 揺 さ ぶ ら れ て 崩壊していることへの警告は、その展覧会によって正当に確認されたのでした。
こ の よ う な ゼ ム パ ー と ル ・ コ ル ピ ュ ジ エ か ら 、 十 九 世 紀 の 歴 史 的 な 人 聞 と そ れ に 対 す る 二 十 世 紀 の 非 歴 史 的 な 人 間 と の 相 違 が 明 ら か に 見 受 け ら れ ま す 。 そ れ ぞ れ の 理 念 が 全 く 対 極 的 な も のであり相容れないものであって、この両者に架け渡す橋は最早見出せないようです。
N.
ところがこの二人のそれぞれの主著を、つまり分厚い二巻本の『様式論~( 1860‑1863)と小さ な『建築をめざして~(t 923)を 相 並 べ て ゆ っ く り と 熟 読 す る と き 、 幾 つ か の 人 間 的 な 特 徴 か ら 実 によく似ているということをわれわれが認めるならば、ある予想、も出来ない事態に遭遇するこ
とになると思われるのです。
そ こ で 最 も 興 味 深 い の は そ れ ぞ れ の 序 文 で す 。 厳 格 で 回 り く ど い 言 い 回 し の ゼ ム パ ー に 対 し て ル ・ コ ル ビ ュ ジ エ は 電 報 の 形 式 の よ う に 簡 潔 で あ り 、 両 者 と も に 捉 ら え ど こ ろ の な い 世 界 原
理 か ら 言 及 し 始 め て い ま す 。 ゼ ム パ ー の rPlolegomena(序論)Jと付けられた官頭の序文には、
「この夜空に、ほのかな微光を放つ星々の美しさが現れているのは、過去に飛び散った星群な の で あ ろ う か 、 あ る い は 一 つ の 核 を め ぐ っ て 新 た に 生 成 し た 星 群 な の で あ ろ う か ・ ・ 芸 術 史の分野においても同じような現象なのであって、形式を喪失したある芸術世界の移行状況と 同時に新たな形式が生成する段階が見られるのである。J59)と回りくどく書かれています。そ れ に 対 し て ル ・ コ ル ピ ュ ジ エ の 著 書 に は 各 章 の 冒 頭 に rArgument (概要)Jが付けられており、
そ の な か で 次 の よ う な 言 及 が あ り ま す 。 「 経 済 の 法 則 に よ っ て 鼓 舞 さ れ 、 計 算 に よ っ て 導 か れ た 技 術 者 は 、 我 々 を 宇 宙 の 法 則 に 一 致 さ せ る 。 建 築 家 は ・ ・ ・ 我 々 が 世 界 の 秩 序 と の 調 和 の 中 で感じる秩序、美として強く感じるところのものを我々に見せつける。J60)これら両者の言説 は 既 に 引 用 し た ゼ ム パ ー の ド レ ス デ ン で の 就 任 講 演 に 見 ら れ た 、 「 建 築 的 造 形 の 創 造 と は 暖 昧 なものからであるにもかかわらず、確固たる完全な原理によって倉IJられた自然の基本的法則と 一 致 す る よ う に 思 わ れ る 。 」 と い う 内 容 に 通 じ て い ま す 。 絶 え 間 な く 続 く 永 遠 の な か に 新 た な ものが原理的にもたらされ、;主た今までの秩序が問いと化してしまい、世界の原理にとって新 た な 支 柱 を 探 求 す る よ う な 信 じ が た い 思 い が 抱 か れ る の で す が 、 し か し そ れ に つ い て は 誰 も 明 らかにはできません。さらに倫理的な正当性に見せかけた偽善さによって、そのような創造と 自 然 と の 一 致 が 与 え ら れ た 革 新 的 な 理 念 を 求 め よ う と す る 不 当 さ は 、 ま る で あ る 民 族 が 他 の 民 族 に 神 の 名 を 使 っ て 戦 争 を 挑 む よ う な も の に 思 わ れ ま す 。 そ し て こ の よ う な 世 界 原 理 で も っ て 二 人 の 建 築 家 が 関 係 づ け ら れ る の で あ れ ば 、 も う 言 及 す る ま で も な く 、 そ れ を 繋 ぎ 止 め る も の が 要 請 さ れ る の で あ り 、 そ れ は 心 理 的 に も 理 解 で き ま す 。 ま た 揺 ら ぐ 古 い 基 盤 の す べ て が 、 混 乱 の な か に あ る 時 期 に お い て は 、 そ れ を 新 た に 形 成 す る こ と に な り ま す 。 絶 え 間 な く 続 く 永 遠 のなかに、これまでのものが揺れ動くなかで改革者は精神的な状態を不確かなものと見なし、
また一方で改革者でないならば世界の中に映し出すのです。ゴットフリート・ゼムパーの回り くどい言葉で述べるなら、「その兆候はなく・・・ただ、根本的な社会の原因において一般的 崩壊の兆しなのか、あるいは健全な状態での兆しなのかどうか、確かではない・・・ jのであ って、われわれは危険な状態に臨んでいます。しかし断固として不安が無いのであれば、ゼム
ノfー は ル ・ コ ル ビ ュ ジ エ に 倣 っ て 「 古 い 基 盤 は 死 ん だ ・ ・ 二 十 年 間 は そ の 新 し い 基 盤 を 創 造することに費やされるだろうことが予想される。J61)と主張したでしょう。そして芸術が「あ る動乱のなかで舵を失うと同時に行き先をも失って、さらに最悪なことにはその原動力さえす り減らしてしまった」と悲観的にぜムパーが考えるのとは対照的に、一方のル・コルビュジエ は何の鴎陪もなく楽観的に「偉大な時代は始まったばかりであるJ62)と宣言するものの、この 二人からはある共通した状況が認められると思うのです。
v .
ここで特徴となる純粋に人間的なやり方とは、「心理的な革命Jの 一 つ に 含 ま れ る よ う な 根 本 的 な 新 し さ を 際 立 た せ る こ と で あ っ て 、 人 は 一 度 そ の 糸 口 を 捉 え る と 決 し て 見 失 わ な い も の なのです。この二つの著書に感知される背景的な状況から、その思考過程のなかにまで探究し ようとするとき、それぞれの成立には同じような観点が見て取れるのであり、ル・コルビュジ エの最初の根本的な考え方と同様な認識をゼ、ムパーにおいて一挙に掴むことになるでしょう。
そ れ は つ ま り 、 装 飾 に よ る 強 制 か ら 形 式 を 解 放 す る こ と と 、 形 式 に よ る 強 制 か ら 素 材 を 解 放 す ること、なのです。
ま ず 『 様 式 論 』 と は 、 詰 ま る と こ ろ 他 の も の に 比 べ て 、 最 終 的 に 何 だ っ た の で し ょ う か ? それは結論的に芸術産業としての製品を問題にしているのであって、それを言葉どおり引用し
み る と 、 「 素 材 や 使 用 が そ の 目 的 と さ れ る の で あ り 、 道 具 や 工 程 と い っ た 生 産 に 必 要 と な る 材 料が適用されるのである。Jということです。これこそがゼムパーの『様式論』において最も重 要 な こ と で あ る に も か か わ ら ず 、 混 沌 と し た 多 く の 知 識 が 詰 ま っ て い る た め に 理 解 し よ う に も 実に読みにくのです。またひどく回りくどい内容のなかで唯一はっきりと書かれているのが、
四 つ の 自 然 の 原 素 材 、 つ ま り 糸 (Faden)、 粘 土 (Ton)、 木 材 (Holz)、 石 材 (Stein)の こ と で あ り 、 そ れ は 四 つ の 主 要 な 芸 術 産 業 と し て の 織 物 (Textile Kunst)、 陶 芸 (Keramik)、 木 工 (Zimmerei)、石工 (Maurerei)に対応しています。従って、素材と目的によって形式が成立す る唯一の考えの下では、応用芸術や建築における諸芸術の総合、そしてその関連性において、
い わ ゆ る 「 高 次jの芸術の位置にある建築とは、「低次j の 諸 芸 術 か ら そ の 装 飾 を 決 し て 借 用 しなくてはならないということになります。
こ こ で 振 り 返 っ て ゼ ム パ ー の 初 期 の 著 作 を 紐 解 く と き 、 そ の 芸 術 的 な 考 え 方 は 優 れ て 適 切 で ありかつ明快であって、限りなく読みにくし
f
様 式 論 』 と 比 べ る と 実 に 卓 越 し た 新 し い 見 方 が はっきりと言葉で表明されているのが分かります。1851年にロンドンにおいて執筆された小冊子『科学・産業・芸術』とは、ゼムパーにとって 当 時 の 美 術 工 芸 活 動 の 苦 境 を 何 と か 打 開 し よ う と 努 め た 内 容 で あ り 、 「 伝 統 的 な 素 材 を 抑 制 す る科学において欠落しているものj を 考 え た の で し た 。 こ こ か ら 捉 え 直 さ れ た 装 飾 が 伝 統 的 な 様 式 を 破 壊 し て 解 体 す る と 考 え る ぜ ム パ ー に と っ て 、 こ れ に 対 す る 抵 抗 と は 人 間 の 本 質 的 な 創 造 性 か ら 喜 ば し い も の で あ り 、 い っ そ う 新 し い 構 想 に 着 手 す る こ と を 望 ん だ の で す 。 さ ら に こ う し た ゼ ム パ ー の 根 本 理 念 に 従 え ば 、 「 新 た に 考 案 さ れ た 機 械 と 投 機 に よ っ て 、 予 め 準 備 さ れ た 素 地 を 科 学 的 に 設 計 す る こ と が 可 能 で あ り 、 そ こ か ら 新 し い 形 式 が 造 り 出 さ れ る 。 さ し あ た り建築 (Architektur)は そ の 王 位 の 座 か ら 降 り な け れ ば な ら ず 、 市 場 に 出 て 教 え 学 ば な け れ ば ならない。Jという警告のような内容がわれわれの耳元には響いてくるわけです。
近 代 化 へ の 提 言 と は こ の よ う な こ と を 率 直 に 要 求 し て い ま す 。 ゴ ッ ト フ リ ー ト ・ ゼ ム パ ー の よ う に 建 築 と 美 術 工 芸 と の 根 本 的 な 相 違 を 最 早 容 認 し た 上 で 、 今 日 の 近 代 的 な 「 造 形 大 学 (Hochschule der Gestaltung) Jに 見 ら れ る よ う な 建 築 部 門 と 日 用 品 の デ ザ イ ン の た め の 部 門 と は 相 互 に 深 く 関 わ り 合 っ た 新 し い 高 等 教 育 の ス タ イ ル が 、 か つ て の 芸 術 ア カ デ ミ ー が 徐 々 に 消 え て い く に と も な っ て 成 立 し 始 め て い ま す 。 こ の よ う な 新 し い 教 育 ス タ イ ル は ゼ ム パ ー に と っ て そ れ ほ ど 歓 迎 す べ き こ と で は な い に し て も 、 彼 の 数 多 い 著 作 の な か に は 既 に 教 育 問 題 に つ い て も取り組まれていました。さらにぜムパーにも見られるように、近代化への提言とはさまざま な 芸 術 家 の 手 作 業 か ら 素 材 と 使 用 目 的 に 適 っ た 作 品 の 機 械 に よ る モ デ ル 化 へ と 展 開 す る こ と を 求 め て い る の で す 。 こ う し た 新 た な 動 向 に 建 築 芸 術 も 既 に 取 り 囲 ま れ て お り 、 近 代 化 を 推 進 す る熱狂者 (Fanatiker)に と っ て 建 築 に 必 要 な も の と は 古 い 意 味 で の 芸 術 で は 決 し て な く て 、 そ れ は つ ま り 最 早 単 な る 芸 術 家 (Architekt)で は な く 、 む し ろ 技 術 者 (Ingenieur) と し て の 建 築 家 (Baumeister)な の で す 63)。 と こ ろ が 、 こ の よ う な 意 味 で の 芸 術 的 必 要 性 を 認 め な い 安 易 な 論 拠 は 実 に 脆 い が ゆ え に 、 芸 術 不 要 (kunstlos)について簡単には解決できません。
V I .
さ ら に 先 を 進 ん で 、 こ の よ う な 考 え 方 が 広 ま れ ば 広 ま る ほ ど 、 そ の 事 実 と 進 展 の 表 面 的 な 無 根 拠 さ へ の 疑 惑 が 美 術 史 家 に 対 し て 明 ら か に 強 ま る ば か り で す 。 そ れ で は ぜ ム パ ー の 明 快 な 芸 術 作 品 の 形 式 理 念 は 、 素 材 と 使 用 目 的 か ら の 結 果 的 な 生 成 に よ っ て の み 満 足 す る の で し ょ う か ? そ し て 建 築 制 作 や 工 芸 の 仕 事 の 上 で 、 そ の ぜ ム パ ー 独 特 の 理 念 が 認 め ら れ な い こ と な の で し ょ う か ? またこのような理念が『様式論』において主張されて以来、ヨーロッパに一つ
の見解が広まったことを、現在のわれわれは建築や装飾芸術の歴史において全く先例のない没 落 (Niedergang) と し て 考 慮 す べ き な の で し ょ う か ? さらにその上、フランスの鉄道建設技 術が十九世紀後半には人間のことを何ら考慮することもなく充分な発達を既に遂げた経緯と全 く同様に、技術による新たな建築の形式が発達すると、最早歴史的な様式からは一度たりとも 建 て ら れ る こ と は な い 、 と い う こ と な の で し ょ う か ? そして 1900年頃からは、あらゆる時 代の要求が技術によって実現されつつあるときに、アドルフ・ロースがその著書『反響のない 語り~ 64)で 述 べ て い る よ う な 、 人 間 へ の 警 告 と は ど の よ う な 事 態 な の で し ょ う か ? 突き詰め て言うならば、これまでには考えられないような突然の衝撃から、表面的には確かでも内部の 脆 い 氷 が 砕 け て し ま っ た 事 態 と は 何 だ っ た の で し ょ う か ?
ところがそれはとても単純に説明できるのです。つまりあの大戦と戦後の時代、言葉では表 現できないさまざまな物資の苦境と貧困におかれたなかで、新たな科学技術の働きこそが最後 の救済を成し遂げる可能性だったのです。この救済の実現化のためには、絶対的な単純さによ る目的の形式化こそが相応しいのであり、さまざまな宣言や演説が効果を生み出す前に現実的 な緊急さが進行していました。三の現実とそは美術史家の立場が踏み込む余地の全くないほど 適切な説明です。これは、あのドイツにおける宗教改革が長い間にわたって芸術活動の活力を 失わせ、また三十年戦争が造形芸術にとって壊滅的であった状況と全く同様な事態なのです。
このような説明をわれわれが傾聴するとき、美術史家にはある小さな不可解さが生まれるの も事実です。科学の普及する因果関係こそが問題であり、また一方で、物質的な緊急事態からの 精神的な救済による内面の声が確かに聞こえてきます。そして人間にとって科学が役立ち、物 質的には豊かになってゆくとき、すべてのもののなかに内在する原理から人格的なものの変容 によるそれを超えた法則が現れることについて繰り返して言われることでしょう。
こうした課題にこそ、現代の美術史家が努力を費やさねばならないのです。今日では唯物的 な 見 方 が 流 布 し て い ま す が 、 そ の 認 識 に つ い て 他 な ら ぬ あ の フ リ ー ド リ ヒ ・ ニ ー チ エ 65)が、 全ての歴史の本質的に帰結する到達点から触れています。それによると、歴史の実現化してゆ
く過程においてどんな新しい理念でも、一般的な状況との関わりはまず避けられないのであり、
後 に 結 果 と し て 適 切 な 妥 協 (Kompromis)が現れてくるけれども、その妥協とは最終的には暖 昧さ (Kuhnheit) を示す以外の何ものでもない、ということです。
現在のわれわれの状況を示唆する映画や映写機とは、時代の発達から影のような存在であり どちらでもない生命となって久しい演劇の伝統的な形式を進展させて受け継がなくてはならな いのです。さらに今ひとつ、それと順応した原則による独自な可能性の追求を始めないと、演 劇は決して存続できないでしょう。従ってそこから、独特な方法と表現を備えた何か本物の作 品 が 生 成 す る の で す 。 こ れ と 同 様 な 出 来 事 が ワ イ マ ー ル ・ デ ッ サ ウ の パ ウ ハ ウ ス 66)で創られ る革新的な作品に見られ、それは完全に過去からの自由を獲得してはいないものの、不快な意 味 で の 「 美 術 工 芸 的Jな装飾を克服しようとする試みです。また建築と工芸にとっての素材と
目的に適った形式に関するゴットフリート・ゼムパーの新たな追求は、結局のところ歴史様式 における創生へと怠惰的に帰結してしまいましたが、その独特な合理性が軽率に広く認識され る前に、じっくりとその歴史的な拘束からまず解放すべきだと思うのです。
われわれの現実は、以上のような成熟過程における最終的な段階に直面しています。おそら くこの二、三年で建築と工芸は、ゴットフリート・ゼムパーが取り組んだ以上のものすごい試 練をくぐり抜けると左になります。そしてこのような事態の真相については、あのル・コルピ ュジエが「偉大な時代は始まったばかりであるj と宣言したように、これからの未来が明らか にしてくれることになるでしょうO
~) I:::j.;,;,mn'..d 勿~N/'-I'/I 図1.)パウツェンの歩兵部隊兵舎
Kaseme in Bautzen 1839‑43
図5.)チューリヒ工科大学校舎
Hauptgebaud巴desPolytechnikums in Zurich 1858‑64
図3.) ドレスデンのシナゴーグ Synagoge in Dresd巴n1838‑40
図2.) ドレスデン美術館(左の中央) Gemaldegalerie in Dresden 1839‑51
図4.)ハンブノレク ・ニコライ教会の計画案 Nikolaikirche in Hamburg 1842‑45
図 6.) 天文台
Stemwarte in Zurich 1862‑64
図 8.)ヴ インターツールの市庁舎 Stadthaus in Winterthur 1864‑70
図 9.)チューリヒ中央駅舎の計画案 Bahnhof Zurich 1857‑61
図7.)フィールツ邸
Handelshaus Fierz in Zurich 1865・67
円 ; f J t
•
‑‑‑‑‑ . 園E
〆 . ‑
‑.1 図10Jカスタセグナのある邸宅Vil1a Garbald in Castasegna 1863
図¥3Jウィーンの市民劇場
図11.)アッフォルテルンの教会塔 Kirchtunn in Affoltern 1861
図12.)ウィーンの宮廷博物館 Museum in Wien 1869・76
surg Theater in Wien 1872‑76
訳 註
I)この講演原稿が再録された1932年出版の著書『美術史の検証ー現代精神による美術史入門ー』のことを指す。
2) シンケノレ KarlFriedrich Schinkel 1781・1841
ドイツ新古典主義を代表する建築家。ベルリン・アカデミーでジリー父子に学ぶ。 1803年から 1805年にかけ てイタリアとフランスを旅し、 1810年 以 後 は プ ロ イ セ ン の 建 築 官 僚 と な っ て 数 多 く の 建 築 活 動 を 展 開 し 、 代 表 的 作 品 に 「 新 衛 兵 所J (]818)や 「 王 立 劇 場J (]82])な左がある。また優れたロマン主義の画家でもあった。
ガントナーは、この講演でのゼムパーと同様に、シンケルiこおいても二十世紀の近代主義の萌芽を認、めていた のであろうか。なお杉本俊多『ドイツ新古典主義建築
s (
中央公論美術出版、 1996)などを参照されたい。3)グローピウス WalterGropius 1883・1969
ドイツ・モダニズムを代表する建築家。ベルリンとミュンヘンの工科大学で学んだ後に、 1907年から 3年間、
ベーレンスの事務所に勤めた。第一次世界大戦直後の 1919年には、ワイマールで、新芸術学校「パウハウスj を創設した。第二次大戦中はナチスを逃れて英国経由で渡米し、ハーヴァード大学で教鞭をとった。
4)カ ー ル ・ モ ー ザ ‑Karl Moser 1860‑1936
スイスのモダニズムを代表する建築家。チューリヒ工科大学やエコール・デ・ボザールで、学び、 1887年ーから 1915年 ま で ド イ ツ ・ カ ー ル ス ル ー エ に て 建 築 家 活 動 を 展 開 し 、 そ れ 以 降 は チ ュ ー リ ヒ で 教 鞭 を と っ て 、 多 く の後進を育てた。彼の代表作には、鉄筋コンクリート造による革新的な作品として知られたノtーゼルの聖アン
トニイ教会(1926・27)があり、ベレーのルー・ランシー教会(]923)に匹敵するとも言われた。
なおル・コルビュジエがラ・ショー・ド・フォンで住宅設計を行っていた頃、スイスで、の彼の影響はすで、に大 きく、ル・コルピュジエの作品にもそれが伺える。二人の関係はその後より直接的になり、国際連盟本部設計 競 技 (1927)の審査員であった彼はル・::‑Jルビュ、ジヱ案を擁護しているし、スイス学生会館 (1932竣工)の 設計者としてル・コルピュジエを推薦している。二人とも C.I.A.M.(近代建築国際会議)創設 (1928)時の主 要メンバーでもあった。またル・コルビュジエの事務所にアクソノメトリックの図法をもたらしたのはモーザ ーが送ったスイスの若いドラフトマンであったとも言われている。
5) ブノレクノリレト JacobBurckhardt 1818‑1897
スイスの美術史家・文化史家・歴史哲学者。パーゼルやベルリンの大学で学び、 1844年 に バ ー ゼ ル 大 学 私 講 師に就任以後、この地を終生離れなかった。弟子にヴ、エルフリン等を持ち、バーゼル学派の祖となる。主著は
『イタリア・ノレネサンスの文化 H1860) 、『ギリシャ文化史~ (I 905) 、『世界史的考察 ~(]905) など。ガントナーの 言及は、ブ、ルクハルトのベシミスティックな歴史哲学に基づいてのことと思われる。
6)フランク・ロイド・ライト FrankLoyd Wright 1869・1959
アメリカのモダニズムを代表する建築家。ウィスコンシンの大学で工学技術を学んだ後、 1888年から 1893年 までシカゴ派のサリヴァンのもとで修業してから、「ロビー邸J (] 909)を 代 表 作 と す る 独 特 な 有 機 的 建 築 で あ るプレーリー・スタイルの住宅を終生にわたって数多く設計し、自然と建築の関係を追究し続けた。 1910年 に最初の作品集がドイツで出版されると、たちまち全欧から注目を集め、また旧帝国ホテルの設計(]920)を通 じ て 日 本 で も 早 く か ら 広 く 知 ら れ た 。 そ の ほ か 「 グ ッ ゲ ン ハ イ ム 美 術 館J(I943・)などの公共建築も数多い。
7)これは、 ドイツで出版されたライトの最初の作品集(1910)に含まれた歴史主義様式への批判論を指すのか。
なお最初の作品集とは、 AusgefuhrteBauten und Entwurfe von Frank Loyd W right, Berlin 1910のこと。
8)ブラマンテ DonatoBramante 1444・1514
イタリア・ルネサンス盛期を代表する建築家・画家。まずウルビーノでラウラナから建築を学び、ミラノで画 家フランチェスカの影響を受けて絵画や銅版画も制作した。 1499年 か ら ロ ー マ へ 移 っ て 、 古 代 建 築 の 研 究 か ら代表作「テンピエットJ(J 502)を設計した。 1506年に法王ユリウス二世ーからサン・ピエトロ大聖堂の新築 を依頼され、本文にあるとおり、コンスタンティヌスのバシリカにパンテオンのドームを架ける構想を計画し たが、その実施工事は失敗に終わった。そのほか、万能の天才レオナルドとは生涯にわたって親交が深かった0
9)クレンツェ Leovon Klenze 1784・1864
南ドイツの新古典主義を代表する建築家。フランスのデュランやベルシエに学び