大阪を中心に近世後期から明治期にみられた貸付の
とみあい一つに並合がある︒一般には両替商が商品を担保とし
ておこなう融資であるとみなされている︒
担保をとる融資に引当・質・並合がある︒引当は借
金などの担保をいう︒担保を借主︵本稿では債務者を
借主と表記する︶が保有する場合︑銀主︵本稿では債
権者を銀主と表記する︶にあずける証文も引当とよん
だ︒質は商品以外の動産・不動産を担保として銀主に
あずけるものである︒これにたいし︑売却を前提とし はじめに
薬種取引における並合
て荷受問屋などの蔵に保管された商品を担保におこな
う融資が並合である︒通常︑融資期間中の担保物件は
処分できないが︒その売買を認めている点で並合は引
合や質と区別される︒
これまで経済史家は並合を両替商がおこなう金融で
苫あると理解してきた︒本稿はこの通説に修正を求める
ものである︒そして次の二点を明らかにしたい︒一つ
は近世には唐薬種取引でおこなう並合が主流であっ
て︑両替商による金融機能としての並合はその派生で
あったこと︒第二点は明治初期︑並合に変化がおこっ
たことである︒
野高宏之
I ■ ■ ■ ■
醗文
並合の語義には金融機能を重視する説と商取引を重
視する説がある︒﹁日本国語大辞典﹂︵小学館︶は商取
引説をとる︒
一方︑﹃古文書用字用語大事典﹄︵池田正一郎編︑新
人物往来社︶は並合を両替商金融と解釈する︒
並合についてはじめて言及した研究者は管見のかぎ
3り幸田成友である︒幸田は並合を両替商金融と考えた︒
その内容を要約すると次のようになる︒ 江戸時代︑大坂での商事上の慣用語で︑抵当の意︒また︑抵当による貸借のことをもいう︒江戸時代︑両替商の貸付ケの内︑担保をとってするもの︒素銀の対︒︵中略︶品物を担保に用いること︒ 第一章仮説の呈示両替商がおこなう商人貸には担保をとる場合と不要の場合があり︑後者を素銀というのに対し前者を並合とよぶ︒並合の担保として米切手・砂糖切手などの証券以外に商品そのものも対象となる︒このほか家屋土地を担保とする融資を家質という︒信用貸を基本とする大坂では素銀が基本で︑並合貸は両替商の間で軽蔑された︒また利子も高率である︒
戦前・戦後を通じて関西の経済史の重鎮であった本
庄栄次郎は両替商がおこなう貸付のうち﹁信用貸を素
銀といい︑担保による貸付を並合といった﹂と記述し
ている︒幸田の影響は明らかである︒
本庄が深く関与した日本経済史研究所による﹁日本
経済史辞典﹂には︑
徳川時代大阪に於ては︑商事上の慣用語として抵
当の事を並合と言ひ︑それよりして抵当に依る貸
借の事をも並合と言ふ︒当時小両替中には並合を
行ふものがあったが︑大両替は之を蔑視したと言ふ︒
地域創造学研究 一一
という記述がある︒ここでは一般論として並合を﹁商
事上の慣用語﹂と解釈しながらも︑それをおこなうの
は小資本の両替商であるという見解を示している︒
このように戦前の経済史学は幸田説により︑並合を
両替商がおこなう金融行為と解釈した︒﹃日本経済史
辞典﹂の後半および﹃古文書用字用語大事典﹂はこれ
を採用したのであった︒この見解はおおむね現在の経
5済史の研究者も支持している︒
一方︑﹁日本経済史辞典﹂の前半部分と﹃日本国語
大辞典﹂が示す︑並合を商取引であるとする根拠は何
であろうか︒﹁日本国語大辞典﹄は二つの出典をあげ
ている︒
一つは﹁守貞漫稿﹂である︒本書は江戸と大坂の世
相風俗をテーマとした随筆である︒岩波文庫から﹁近
世風俗志﹂として刊行されている︒本書は近世風俗史
研究の基本史料でありながら︑経済にかんする記述が
6すぐれているとの評価を得ている︒
この巻之八︹質物︺に次のような記述がある︒引用 これを解釈すると以下の通りである︒
中国・オランダからの輸入品を質として倉庫に保管
する場合︑その品は幕府が管理する貿易品なので倉庫
からの出納を許可する︒輸入品以外の質物は倉庫から 箇所は質物一般の説明ではなく︑舶来品など特定の質に関する記述である︒
唐と和蘭より来舶の諸品︑その本幕府の官市たる
が故に︑もしこれを蓄ふの時︑倉廩を完封するこ
とありといへども出納を許す︒他品は出納を聴さ
ず︒また来舶の物も包を解きて後は︑他物と同制
か琴L師ソ︒
︵中略︶京坂も来舶の品物と家質のみ︑定額にあらざるも
のを質にとる事を許す︒来舶の諸品を質するを︑
なみあひと云ふ︒並合と害す︒俗言なり︒これに
因って諸買物を質するをも並合と云ふ︒
三
鯖文
出すことを禁止する︒輸入品であっても箱詰の荷を解
いた後は︑他の質物と同様︑倉庫からの出納はできない︒
︵中略︶京都や大坂では輸入品と家質にかぎり︑定額
ではないものを質物とすることができる︒輸入品を質
物とするのを﹁なみあい﹂といい︑並合と書く︒ここ
から派生して商品を質物とすることも並合という︒
ここからわかる並合の特徴は次の五点である︒
・長崎輸入品を担保とする融資である︒
・長崎で梱包された状態︵箱詰︶で倉庫に保管する︒
・箱詰であることが融資の条件である︒
・倉庫からの出納を前提とする︒
・並合の商品は価格が未定である︒
なお︑長崎貿易品は︑本来﹁幕府の官市﹂とみなし
ている点にも留意しておく︒
﹁日本国語大辞典﹂にのる二つめの史料は﹁商事慣
習問目並報告書案﹂である︒明治十五年︵一八九二︶︑
農商務省商務局からの照会により︑大阪商法会議所は
大阪府下の商慣習を調査し回答書を作成した︒本史料 はその記録である︒調査にあたり大阪商法会議所は︑明治維新以前の慣習を報告し維新後はあつかわないという方針で臨んだ︒明治維新後は﹁商業ノ状態頗ル変
8遷シタル﹂ことがその理由である︒ただし維新後の商
慣習がまったく除外されているかについては注意が必
要である︒
照会項目に﹁商事上ノ抵当及其特権ノ事﹂がある︒
その第一条は民事上の抵当と商事上の抵当の違いを問
うものである︒商法会議所はこの回答書のなかで
と記している︒﹃日本経済史辞典﹂の前半はこれによる
ものである︒続く第二条は融資期限をすぎた抵当物の
9取り扱いである︒これには次のように回答している︒ 商事上二於テハ︑抵当ヲ並合卜云う慣語アリ
凡ソ商業上ノ抵当ダル︑皆従来取引ノ間柄ニシテ︑
最モ信義ヲ重ズルモノナレバ︑其期限二臨ミ︑或
地域創造学研究 四
商取引における融資︵抵当︶は︑長年取引があり厚い
信頼関係にある業者間でおこなう︒返済期限の前後に
銀主は借主に︵抵当物の処置を︶照会し︑回答をまっ
て売却する︒その代価によって融資の元利を精算する︒
精算後余剰金があれば借主に返金し︑不足があれば借
主に請求する習慣である︒
この記述からわかる並合の特徴は次の三点である
・商取引にみられる︑担保をともなう融資である︒
・商取引を通じて信用が生まれた商人同士で行う︒
0
.返済未納分は銀主が抵当商品を売却し精算する︒以上︑近世後期大坂の商慣習を記録した二つの史料
は並合について経済史家とは異なる解釈をしている︒
そのポイントは次の六点である︒ ハ期限ヲ経過スルニ至ラハ︑義務者二照会シ︑其報ヲ得テ︑之レガ売却ヲナスモノナレバ︑其代価ヲ以テ元利ノ弁償ヲ得︑其剰額ハ義務者二返シ︑不足アラバ請求スルノ習慣ナリ
本章では唐薬種取引の概略を示す︒
咽﹄唐薬種︵荒物を含む︶は長崎で五ケ所本商人が落札
する︒落札に参加する商人はあらかじめ根証文として
家質証文を長崎会所に提出しなければならない︒本商
人は商品受取後︑三十日以内に大坂銅座に︑あるいは
五十日以内に長崎会所に入札代金を支払う必要があ ①並合は長崎からの輸入品を担保とする融資である︒②抵当は商取引の過程で倉庫に保管する商品である︒③抵当商品は長崎で梱包された状態で倉庫に保管する︒
融資期間中であっても倉庫から出すことができる︒
ただし荷解した後は出すことはできない︒
④並合は信用ある取引業者間に限られる︒
⑤返済未納分は銀主が担保商品を売却し精算する︒
⑥契約時点で担保商品の価格は未定である︒
この六点を仮説として呈示する︒
第二章薬種取引における長崎と大坂
五
輪文
る︒納付延滞の日数によって︑次回の入札資格がなく
なったり︑家質が売却される罰則が発生する︒
本商人は長崎で落札した荒物・薬種を箱詰めのまま
大坂の唐薬問屋︵掛り問屋︶に送り︑保管と販売を委
託する︒特定の問屋と契約するのが通例である︒
唐薬問屋は道修町の薬種中買に連絡し︑薬種改︵商
品の吟味︶・入札︵価格の決定︶・正味廻︵重量の検査︶
を要請する︒この一連の作業を問屋からは売出︑中買
からは買出という︒この取引における売り手︵荷主︶
は本商人︑買い手は中買である︒
本商人が入札価格に同意すれば買出が成立する︒中
買が商品の一部を買い取ると︑商品に信用が生まれる︒
中買は全国の薬種問屋の代理として買出をおこなうの
である︒買出が済まない商品は買い手がつかない︒買
出後は問屋が顧客をみつけて商品の売買をおこなう︒
荷主の代理として取引を成立させることが問屋の役割
である︒その利益は売買によるものではなく︑口銭︵手
数料︶と蔵敷︵商品の保管料︶である︒ 買出後︑中買が注文した残りの商品は問屋が蔵に保
管し︑売支配︵荷主にかわって買い手をみつけること︶
を続ける︒ただし中買との協定により︑問屋が扱うの
は原則として箱単位の商品である︒一方︑中買は潰し
物︵込薬︶といって荷解きした唐薬種を紙袋に詰め直
したものを扱う︒これを込薬といい︑一般の薬種商や
合薬屋︑医師に小売する︒
箱単位であれば問屋は中買以外の者とも取引ができ
た︒脇店︵問屋・中買以外の薬種商︶や素人衆︵薬業
関係者以外の者︶は買持または質入︵荷主側からみた
表現︶という方法で問屋と取引する︵問屋が自己資金
で買持をする場合もある︶︒買持とはおもに投機目的
で唐薬種を買い取り保管しておくことである︒
箱単位の商品を小売できるのは中買だけである︒脇
店や素人は買持した商品を問屋に売り戻すほかないの
である︒買持は切渡商内の形をとる場合もある︒決済
日の相場を予想して買い取り︑精算時の実際の相場と
の差額を精算するという形をとる︒
地域創造学研究
︷ハ
このほか︑建物取引の一種で表物とよばれる取引が
ある︒米など他の商品と異なるのは︑本商人から買い
取った︵または買取を予定した︶唐薬種をもとに︑問
屋が先物取引をおこなうことである︒米などの建物取
引とはことなり︑決済時に現物商品を受け渡しする︒
中買が取引をした場合は商品を引き取ることもあった
が︑脇店や素人の場合はふたたび問屋に転売したと思
われる︒
大坂における先物取引は長崎での入札の過程に組み
込まれていた︒中国船・オランダ船が入港すると︑長
崎会所は積荷物帳を作成し︑飛脚便で大坂におくる︒
この帳面をもとに大坂で入札︵先物取引︶をおこない︑
大坂唐物相場がたつ︵建物取引︶︒この相場情報をも
3とに︑長崎で落札商人らが入札をおこなうのである︒
以上︑先行研究によって長崎貿易の流れを概観した︒
ここで私見を五点述べておく︒第一点は︑買持も質
入も表物も︑問屋の倉庫を前提としてする取引である
という点である︒いずれも商品は問屋から買主または 質主の手元に移動することはないと考えられる︒第二点は︑本商人は最大五十日以内に落札商品の代金を幕府に納めなければならないという事情がある︒これが買持や表物︵先物取引︶の背景に考えられる点である︒小資本の落札商人のなかには落札商品を売却しないことには納付代金を確保できない者がいる︒ところが薬種は相場の見合もあり︑一カ月で完売できるものではない︒そこで取引量を拡大するため︑問屋の倉庫機能を利用して︑投機色の濃い買持や切渡商内︑表物取引がひろまったと考えられる︒第三点は︑なにより大坂で事前に唐物相場をたてないと︑長崎での入札ができなかったのである︒唐薬種の相場はあきらかに大坂で形成されていたのである︒最後に︑薬種取引量を拡大させるため︑買持や質入とともに並合がおこなわれたと予想されるが︑先行研究では並合をあつかっていない点である︒
長崎奉行の指示で先物取引の萌芽が始まったことを
示す史料に︑﹁長崎在勤四ケ所糸割符年寄勤方書﹂が
七
溌文
Mある︒これによると︑享保十七年︵一七三二︶︑長崎
さし落札荷物について長崎奉行三宅周防守が三十日限の差
がね隔金商売を命じている︒堂島米市場で帳合米取引が公許
この背景には本商人が落札荷物代銀上納を延引する
6事態が生じていることへの危機感がある︒そこで長崎
奉行は︑長崎から出荷する時に見込みの代銀をうけと
り︑大坂で売り捌いた金額との差額を三十日後に決済
するよう指示したのである︒三十日という期間は︑長
崎から商品を大坂に発送し︑大坂で買出が完了するま
でを想定していると思われる︒大坂銅座会所への支払
期限を三十日としているのはこれに由来すると考えら
れる︒あらかじめ相場を予想して売買契約し︑期日内
に商品の引渡と差額を精算をするという方式は︑切渡
商内とよばれる先物取引と同様である︒
これ以前︑長崎の唐物は延売が行われていた︒落札
商人が長崎会所への上納銀を滞納することが増加して
いることについて︑享保十五年に糸割符年寄が幕府に 金商売を命じている︒堂島米圭されてまもなくのことである︒ 回答した史料は︑近時京坂で物価が下落しており︑長崎から唐阿蘭陀荷物を上方の問屋に送っても利潤が少
︽▲pないことを述べたあとで︑次のように記している︒
大量に購入した本商人はそれを売り捌くため︑やむな
く安値で売りつける︒また荷物を引当に価格相当分の
金銭を調達する場合は︑延売といって問屋から内渡金
を受けとることがある︒しかし大坂で価格が決まり売
却代金との差引が済むまでは︑それににたいして高い
利子を払わなければならないという内容である︒
以上︑本章では荷主である本商人が︑幕府への支払
い義務を負っている落札代金を迅速に調達するため︑
唐薬種については実物取引のほか︑問屋による前貸金 荷物多ク買取為替相応に取組候商人ハ無是非下直二売付︑或は荷物引当相当分の金銀調達候得は延売と申二而︑直段相究方は五ヶ月七ヶ月の間︑右差引迄の内は以之外成高利相払
地域創造学研究 ノ1
町触に﹁並合﹂の語句が現れるのは管見のかぎり寛
8
政四年︵一七九三︶五月付の達一○二である︒これは米穀節約のため粥麦を奨励する町触である︒ここで
は他者とのかねあいという意味で﹁並合﹂の語句が使
用されている︒商取引の並合ではない︒
商取引における並合の最も早い事例は寛政九年六月
二日に大坂町奉行所が薬種売買を奨励するために出し
た町触︵達一二三︶である︒前年の八月︑大坂町奉
行所は唐薬種買占の嫌疑で唐薬問屋六名を処罰した︒
その直後から薬種相場がたたず取引が不振におちいつ
9たことが背景にある︒ 融や︑問屋の倉庫を利用した買持・質入・切渡商内・先物取引がさかんになり︑幕府もこれを認めたことを確認した︒また先行研究においては︑この中に並合が言及されていないことを指摘した︒
第三章町触にみる並合 この町触の内容をまとめると次のようになる︒昨秋以来︑素人から薬種商にいたるまで唐薬種売買が不振である︒︵薬種中買があつかう︶薬用潰し物のみ取引があるが︑これだけでは不十分である︒︵買占と疑われるのをおそれて取引をひかえているのだろう
が︶仲間同士における買置・持囲は商売の常であって
処罰はしない︒したがって長崎からの登り込荷物は遠
慮なく買置・並合を行え︒
﹁薬用潰し物﹂が﹁守貞漫稿﹂にある﹁包を解いた﹂
荷物であり︑薬種中買が紙袋につめかえた込薬である
ことは前章で述べたとおりである︒潰し物に﹁薬用﹂
の字句をつけるのは︑実際に薬種をつかう合薬屋︵売
薬業者︶や医師が入手するのが込薬だからである︒
寛政八年秋以降は薬種中買があつかう込薬のみ取引
された︒この実需取引だけでは唐薬種が捌けないこと
を町奉行所は案じ︑買置と並合は自由であるから積極
的に取引するよう市中に通達したのである︒
達二一三から︑並合の文言のある箇所を示しておく︒
九
醗 文
寛政八年に発生した唐薬問屋処分事件については後
ほど言及するので︑ここでは並合に関することだけを
確認する︒この町触からあきらかなように︑長崎から
の登せ荷︵唐薬種︶だけに並合が成立するのである︒
すでに市中にある商品︵唐薬種︶を並合とすることは
できない︵買置は可能︶︒また並合は買持や買占と同
列に扱われている︒このうち買占は処罰するが︑同業
者同士がおこなう買置と並合は許可するというのが町
奉行所の判断である︒並合が金融ではなく商取引の一
形態と理解されていたことがわかる︒
つぎに並合が現れるのは文化十年︵一八一三︶七月
付の達一三七八である︒この年︑町奉行所は大坂町人 直段之高下ニ拘り︑仲間江も一円二取引いたし︑買置・持囲ひ︑井二並合等二而出銀いたし候儀︑珈危踏可申訳無之候条︑登り込荷物等無遠慮買置︑井並合出銀之無差支様可致取引候 に御用金を指示した︒その影響で市中の金銀取引が不振におちいった︒そこで︑金銀取引を奨励したのがこの町触である︒ここに次の文言がある︒
これによると町奉行所は金銀取引を二つに分けてい
る︒金融取引︵貸付銀・両替商への預け銀︶と︑商取
引︵米切手の取引・薬種類の並合取組・商品の仕入︶
である︒ここでも並合が薬種取引に固有のものとして
登場している︒
御用金に際して金銀取引を奨励する町触は︑こ
の後も天保十四年︵達一二一二︶︑安政元年︵達
二四二一︶︑万延元年︵達二五六○︶とくり返し市中
に通達されている︒いずれも町奉行所は米切手入替や
諸品仕入とならんで薬種類並合を奨励している︒ 預ケ金銀或ハ両替江入込金銀等過急二取立候類︑又ハ米切手入替・薬種類之並合取組・諸商売物之仕入等差控候類有之候而者︑心得違二候
地域創造学研究 ■ ■ ■ ■ ■○
つぎに並合が現れるのは翌文化十一年七月二十日付
の達一四○九である︒この町触は︑唐薬種の取引が低
調なことを唐薬問屋が町奉行所に訴えたことがきっか
けで市中に通達されたものである︒それは次のような
内容である︒
最近﹁唐物買持井並合﹂などに取り組む者が少なく︑
商品がさばけない︒取引の人気があがる処置を唐薬問
屋が願ってきたので調査中である︒商品には時期に
よって人気・不人気がうまれる︒しかし薬種は人命に
かかわる商品なので︑長期間取引がとだえるものでは
ない︒だから﹁正銘物﹂においては買持であっても並
合であっても安心して︑各自の見込みにしたがって取
引をせよ︒
ここから唐物のなかでも唐薬種が幕府にとって特別
なものであったことがわかる︒輸入品といえば生糸・
絹織物といった著侈品が多いなかで︑幕府関係者は薬
種を数少ない実用品と評価したのである︒したがって︑
他の商品ならば取扱業者が商売不振の打開策を願い出 ても町奉行所は相手にしないが︑唐薬種は安心確実な商品だから﹁正銘物﹂を取引せよと奨励するのである︒
﹁正銘物﹂とは長崎から大坂に発送する際に︑正規
の輸入品であることを証明するため本商人が手札をつ
けた荷物のことである︒﹁長崎登せ荷﹂のことであり︑
問屋があつかう箱単位の商品である︒この取引の過程
に買持と並合があらわれるのである︒
﹁正銘物﹂における買持・並合取引を奨励する町触
は︑この後︑天保九年︵触五二九七︶︑安政三年︵達
二四四八︶︑文久三年︵達二六七一︶にも現れている︒
いずれも薬種取引の不振が契機となっている︒不振の
理由として︑触五二九七は正銘物が不正物であるとい
う浮説︵流言︶︑達二四四八は唐船の入港がなく薬種が
払底︑達二六七一は欧米への開港後の長崎から入津し
た荷物を大坂に荷受しないという風聞をあげてい牢
ちなみに達一四○九と同月に出た︑寒天に関する町
触がある︵触四三○九︶︒輸出商品であった寒天はこ
の頃︑生産過剰のため長崎でだぶつき売れ行き不振で
一
論文
割あった︒そこで尼崎又右衛門に寒天製造人取締を命じ
た︒そして大坂市中町人が寒天荷物を質物や引当に
取って融資する場合や荷物を預かり所持する場合は︑
荷数を町奉行所まで報告するよう市中に通達した︵達
一四○八︶︒このように寒天を抵当する融資は質物と
引当であり︑並合はみられないのである︒
以上︑町触から並合の語句を抽出して検討したとこ
ろ︑初期の一例を除き︑すべて唐薬種取引の一形態とし
て現れたことが確かめられた︒また︑町奉行所は買持・
勿一買置と並合をセットに考えていたこともわかった︒また︑
唐薬問屋が保管する箱荷をもとにおこなう並合・買置・
質入といった形での取引を町奉行所が推奨したこと︑こ
うした取引には素人も参加したことを確認した︒
本章では本商人・唐薬問屋・薬種中買の史料から︑
唐薬種取引において並合がおこなわれた事実を確認 第四章薬種取引における並合 する︒
前章で寛政八年の薬種買占事件をとりあげた︒ここ
では関連史料によって︑その経過を確認する︒
本商人として唐薬種もあつかった三井越後屋がこの
認一件を記録している︒それによると︑甘草・木香・砂
糖の高騰は買占が原因と判断した大坂町奉行所は︑五
月四日に唐薬問屋七名を町預としたうえで取り調べる
とともに︑持囲の者はいちど売に出すよう︑買占は処
罰する旨の町触︵達一○八七︶を出した︒七名の問屋
と質物・並合取引のある者を町奉行所に呼び出したが︑
素人客はその対象とならなかった︒調査のあと判断を
江戸にあおいでいる︒大坂では当初厳しかった対応が︑
のちには和らいだようだ︒聞書を作成した越後屋も︑
この件は﹁買〆と申にも相当る間敷﹂と判断している︒
それでは買占と疑われた取引はどのようなものであっ ︵一︶唐薬問屋の史料にみえる並合
地域創造学研究 1 ■ ■ ■ ■ ■
ー
Ⅱ ■ ■ ■ ■ ■
七名の問屋は下落している薬種相場を上昇させるねら
いで買持をした︒しかし小資本なので並合によって外
部の資金を調達した︒並合の商品は銀主に預けた︒相
場が上向いたので商品の売却をこころみた︒しかし三
月決算の支払いを済ませた買い手には五月四日限商品
を購入する資金が不足しており︑取引は低調だった︒ たのか︒問屋は次のように弁明している︒
一唐薬種類先達而買持候所︑其後相庭下落仕候付︑
︵為替︶為買平均弥買持候所︑元来薄元手之者二御座候故︑
並合と唱︑外方二而銀子繰合候付︑代ロ物ハ其銀
主二相預置御座候︑尤近来相場高直二相成候付売
払可申処︑三月限後は五月四日限二而売渡し候儀
二付︑買人控も銀子払底故買人無数御さ候付︑五
月四日過候ハ︑又々七月十四日切にて売捌可申奉
存候処︑不存寄御答被為仰付恐入候︑此段被為聞
召分被下候様︑乍恐奉願上候 そこで︑次の七月十四日限取引に期待していたところ︑町奉行所の摘発をうけたというのである︒
薬種相場では下落傾向にあるとき人気薄となり取引
が低調となる︒そこで相場を支えるためにおこなった
買持や並合が買占の嫌疑をうけたのである︒これは買
占にあたらないというのが問屋の考えであることは先
に述べた︒ちなみにここでは問屋が自己資金で買い置
くのを買持︑外部資金をいれるのを並合とよんでいる
ことがわかる︒
七月に関係者七名の処分がきまった︒三郷払に加え
商品の薬種欠所と薬種問屋株取上が付加された者一
名︑町払に付加刑が同様の者二名︑財産の三分の二欠
所と問屋株取上になった者が残りの四名であった︒江
戸の判断は予想よりも重い内容であった︒
この一件を問屋が記録した史料が道修町にある︒﹁寛
政八辰年五月三日薬種問屋七軒騒動之節御触書井二薬
訓種相場成行之写﹂がそれで︑問屋関係者が作成した記
録の写を中買が入手したものと思われる︒
I ■ ■ ■ ■ ■
4 ■ ■ ■ ■
■ ■ ■ ■ 1 ■ ■ ■ ■ ■
溌 文
この史料は︑買占の事実はない旨の調書を大坂町奉
行所が作成した後︑江戸への引合になったとの風聞や︑
五月四日切の取引に支障がでて問屋仲間が大混乱にお
ちいったことなどを記している︒その後の経過を記し
たのが次の箇所である︒
三月限切渡相庭漸々六月五日方出候所︑右大変落
着無之候二付︑大二人気砕ヶ︑何品共四月晦日
之相庭より三︑四割方引下ケ候而も一向買人無之︑
殊二商内も無之候︑如何之具合二候哉︑相庭日々
下落仕候故︑弥以素人衆中も気請悪敷︑誠二困入
申候︑且亦無程七月十四日取引二追付候故︑仲間
一統夜之目も不合心配仕候而︑段々相談之上︑七
月九日相庭を以十月切之居並合仕エリ越候処︑道
修町・京二条辺井素人衆中迄も右之仕法仲間二無
理も有之候様︑殊二前々通︑六月五日方之相庭二
商内も無之二下落仕候段を申立︑一向不取合︑誠
二以十方二暮︑問屋大難渋仕居候 六月にはいっても人気がなく︑どの薬種も四月相場の三︑四割安値でも買い手がみつからない︒七月の決済日が近づいたので問屋仲間が心配し︑協議のうえ七月九日相場をもって十月切の居並合にするという案をだした︒しかし道修町の薬種中買や京二条の薬種問屋︑さらに素人衆までも難色を示した︒そのため六月五日以降も相場の下落が続いた︒
このあとオランダ船・中国船の入港がなく品薄がお
こり︑また五月決済後に七名の調書の内容︵軽い処分
になるだろうという予測︶も伝わり︑問屋らは気持を
切り替えて取引を始めた︒そうしたところ七月に七名
に対する重い処分が決まった︒その対応のため仲間が
協議を重ねた結果︑問屋は﹁半解行﹂という方法を考
えた︒これに関連する箇所を示す︒
建物方商内者六月限︑十月切居並合仕候を半分方
元直段二て解行仕候而︑漸々十月切之仕法立相済
候︑併客方掛り合色々二て済兼申候︑尤此半解行
地域創造学研究 1 ■ ■ ■ ■ ■
四
建物商内については六月限のものを十月限まですえお
くことにしたが︑これについては半分を元値段で精算
する﹁半解行﹂を採用する︒たとえば十櫃を売り込め
た者は元値段で五櫃買い戻す︒逆に十櫃を買持した者
は元値段で五櫃売り戻すという仕法である︒しかしこ
の仕法では並合取引をした業者や現物商品の売込をし
た素人衆には︵損が出て︶気の毒であるとの感想を加
えている︒実物取引と並合取引が建物取引に対置され
ていることから︑並合取引は実物取引の一種とみなさ
れていたことがわかる︒
史料はこの騒動が一段落したのち︑唐薬問屋年行司 ト申仕法立者︑警ハ拾櫃売込有之者元直段二て五櫃買戻し︑又拾櫃買持有之者買直段二て五櫃売戻し︑何れ半分通元直段二而類用仕候事二御座候︑扱又右之仕法二而□はた之出入井二並合亦者素人衆中之正荷物込之人者右半分通り荷物持二相成︑大二気之毒二被存候 の願いにより追放処分をうけた七名の問屋株が各店に戻されたこと︑各店は当主を替えて問屋商売を続けたことを記録している︒この事実は︑大坂町奉行所と江戸の評定所で買持や並合に対する認識の違いがあったことを物語っている︒先に示したように大坂では買占ではなかったという結論に達していた︒買持・並合は相場を安定させる目的で問屋がおこなった通常の行為とみなしたのである︒ところが先物取引によって相場を安定させるといった経済段階に達していない江戸では︑買持・並合は商品を退蔵させる買占であると判断した︒その結果が重い処分となったのである︒問屋株の回復は江戸が下した処罰に対する救済を大坂町奉行所が認めたことを意味する︒
処分をうけた七名の問屋の並合物は銀主に渡され
た︒返済未納の並合物は銀主のものとする方針は︑こ
の時に町奉行所が定めたものであることが︑つぎに紹
介する薬種中買の史料に記されている︒
q ■ ■ ■ ■
五
論文
次に薬種中買の史料から並合をみてみよう︒﹁米屋
久兵衛・長崎屋三郎兵衛並合物出入の儀仲間仕様御尋
濁につき返答下書﹂は︑大坂市中でおこった並合物出入
に関連して︑大坂町奉行所からの諮問に対する薬種中
買仲間の返答書の下書である︒寛政八年以後まもなく
のものと思われる︒二カ条からなる︒御尋の内容を返
答する旨を記しただけの第一条は省き︑ここでは第二
条を引用する︒ ︵三薬種中買の史料にみえる並合
二 法 先 取 ケ 候 右 至 相 方 組 差 、 並
、 究 心 、 入 依 合 不 申 底 尤 借 之 物 如 儀 次 其 銀 其 之
臺帝董自蔭墜落
難 蝿
、 相 元崇筌識蕊 灘蛎語 歪鰄輪
この内容をまとめると次のようになる︒ 子調差入申荷物引取申候得共︑引当直段方下落有候ハ︑代呂物其時之相場ヲ以銀主へ扱仕候︑畢寛差入候者之実意二従ひ︑間々是迄下二而相済来罷在候︑然ル処近来右躰内端二差入申者無之様二成来申二付︑出銀仕候者見込違二ても︑義利合重キ道理之趣被存候へ共︑差入候者心底難行届相見得申候︑乍去出銀仕候者も綴之利足徳用二可仕候迩︑最初方損銀可仕存寄之者無御坐候得共︑唐薬種之義ハ高下之節無之習ひ二候ヘハ︑三ヶ月又ハ五ヶ月之間二下落︑出銀仕侯者覚悟可有御座二も奉存候︑左候ヘハ差引残銀之出入二而︑元利銀二而不如意之者相手取御出訴申記合二も不奉存候︑殊二寛政八辰年右一件御糺之上︑並合皆納銀主之物二相成候段︑一同相心得罷在候間︑以来差入候者実意取計仕様御威光ヲ以被仰付被下候ハ︑随而御尋二付奉申上候︑以上
地域創造学研究
|︷ハ
・並合物は御互いに信頼する者同士で取り組むもので
ある︒したがって並合に規約はない︒
・並合の融資額は商品相場の二︑三割安が一般である︒
しかし最近は相場と同額を融資する傾向にある︒
・融資期限後の精算は商品相場の変動によって変わ
る︒決済時に上がっていれば残金を支払い商品を引
き取る︒元の相場より下がっていれば︑その時の相
場価格で精算する︒借主は不足分を支払わず︑商品
は銀主の所有となる︒借入金返済未納の薬種並合荷
物を銀主のものとする方針は︑寛政八年の大坂町奉
行所の指示による︒
.﹁差引残り銀之出入﹂︵精算時における返済不足の
トラブル︶が生じても︑町奉行所に訴えることはせ
ず和解によって解決してきた︒
これが十八世紀後半に薬種中買仲間がおこなった並
合取引である︒ここからいくつかの事柄がわかる︒ま
ず︑荷主と銀主はだれになるのだろうか︒取引を通じ
て信頼関係のある者同士ということになると不特定多 数の素人衆ではない︒﹁以来差入候者実意取計仕様御威光ヲ以被仰付被下候ハ﹂という文言がある︒荷主に対して誠実に並合をおこなうよう町奉行所から指示していただけるならばという内容である︒本史料は中買が作成したものである︒したがって荷主は本商人か唐薬問屋︑銀主は薬種中買ということになる︒
つぎに︑並合に規約がないことから︑取引の際も証
文を作成せず︑口約束だけで済ませている可能性が考
えられる︒また︑通常の取引は節季払いなので荷主が
商品の代銀を受け取るのは二︑三ヵ月後である︒一方︑
並合は直ちに商品価格に相当する金銭を入手できるの
が荷主側の利点となる︒
このように考えると︑唐薬種における並合は次のよ
うな形をとる︒問屋の蔵に保管された箱詰荷物は︑本
商人が問屋に保管と販売を委託した商品か︑問屋が本
商人から仕入れた商品である︒かれらは蔵に保管した
箱詰荷物を抵当に中買から融資を受ける︒抵当品は中
買の蔵に移され︑中買が荷解きし込薬として販売する︒
−
七
験文
猫つぎに本商人の事例をみてみよう︒まず本商人が銀
主になる事例を確認する︒
これまで見てきたように︑並合取引において本商人
は荷主であった︒ところが資本力の大きな本商人は銀
主として並合取引をおこなった︒越後屋長崎方がその 決済時に融資金額と売却金額の差額を精算するのである︒﹁守貞漫稿﹂は並合物は蔵からの出納が自由であると記している︒蔵から出すのは商品を販売するのが目的なのである︒
また︑相場が下落したとき商品を銀主に渡すことに
よって不足分︵損失︶を支払わなくてもよいのである︒
並合取引は先物取引の一つであり︑将来相場が下落す
ると予想したとき︑荷主・問屋は中買に並合取引をも
ちかけるおそれがある︒並合取引を信用取引であると
本史料が記すのは︑こうした事情による︒
︵三︶本商人の史料にみえる並合 例である︒越後方は寛政期から薬種類の落札に参加する︒やがてみずから落札するリスクを負うよりも︑他の本商人が落札した荒物・薬種に対して融資し︑確実に利子収入を得る方法を選択する︒寛政八年から並合方という部署を新設し︑大坂に送る唐薬種に対して荷為替ならびに並合貸を始めた︒長崎から大坂への輸送中は荷為替をくみ︑問屋の蔵におさめた後は並合貸にきりかえるものである︒
三井から並合貸の融資をうける対象を唐薬問屋とす
る説と本商人とする説がある︒
訂﹁三井事業史﹂は問屋説をとる︒しかし︑口銭︵手数料︶
を利益とし︑自己資金で買入れをしない問屋が荷主と
して並合貸をうけることには疑問が残る︒これについ
て﹁三井事業史﹂は唐薬問屋が荷受問屋としての性格
を変え︑自己資金による薬種売買を始めたことを示唆
謝している︒越後屋が並合貸をおこなう理由については︑
自己資金で価格変動の大きな商品を扱うリスクを問屋
に転化するねらいがあったと説明している︒
地域創造学研究 Ⅱ ■ ■ ■ ■ ■
八
これに対して︑賀川隆行は荷主︵本商人︶と中買と
の間での売買が成立するまでの間︑唐薬問屋が荷主に
前貸金融をおこなう︒その資金を並合貸によって供給
認したと解釈している︒筆者は賀川説を支持したい︒
いずれにせよ︑両替商でもあった越後屋は商品売買
ではなく並合貸という金融業を新たに展開したのであ
る︒最初に本商人が銀主となるケースと分類したが︑
内実を検討すると︑両替商や本商人などの多角経営を
展開する越後屋が︑最初は本商人の立場で参入した唐
物取引において︑より確実性が期待できる金融業に転
測換したものと考えられる︒これが両替商がおこなう並
合貸の実態である︒したがって︑両替商の並合は薬種
中買がおこなう商取引上の並合から派生したものであ
ることは明らかである︒また素人衆にはこうした両替
商も含まれることが考えられる︒
つぎに本商人が並合の融資をうける事例を確認する︒
享和元年︵一八○二︑本商人は連名で唐薬種取締
3仕法改正を大坂町奉行所に歎願した︒近世の薬種業界 には道修町の薬種中買が買出を済ませない限り︑売買が成立しないという商慣習があった︒買出とは大坂に入津した登せ荷物の荷解きをし品質を見定めたうえで相場︵価格︶と斤目︵重量︶をきめる手続きであることは︑第二章で述べたとおりである︒中買が仕入独占するのではなく︑ごく少量でも買出を済ますと商品に信用が生まれる︒全国の薬種問屋は安心して取引を開始するのである︒道修町の薬種中買仲間は全国の買い手︵薬種問屋など︶にかわって薬種を検査していたと
型理解できる︒
近世を通じて中買は買出特権によって薬種流通を支
配した︒買出の手続きを遅らせることで相場を引き下
げることもおこなった︒薬種代銀の上納や蔵敷の経費
など考えると︑本商人は早急に販売を開始する必要が
ある弱みを握られていたのである︒
これを打開するため︑作成した訴状が本史料である︒
この中で並合に言及している文言を引用する︒
ー
九
鶴 文
道修町が値組を済ませない商品を並合や質物に入れ
ることはできない︒もちろん脇店や素人などへの販売
もできないと本商人は訴えている︒
ここから︑荷主である本商人が商品を担保に並合や
質物という形で融資をうけること︑銀主には素人も加
わること︑中買による買出の済まないうちは並合等の
形で売り捌くことができないことが確認できる︒ここ
には買持の字句がないことから︑買持は問屋がおこな
うものであって︑本商人がおこなうものではないとい
う推測がなりたつ︒
以上︑本章では本商人︑唐薬問屋︑薬種中買それぞ
れの史料から並合を検証した︒その結果︑確認できた
点は以下の通りである︒
①唐薬問屋の並合 元より彼等︵薬種中買︑筆者注︶立言直組相立呉不申品は︑並合質物二差入候義も出来不申︑勿論外方へ売捌可申様無御座 問屋が自己資金で買い置くのを買持︑外部資金をいれるのを並合とよんでいることがわかる︒②薬種中買の並合
中買は唐薬問屋の蔵に保管された箱詰商品を自分の
蔵に移して並合貸をおこなう︒融資期間中その商品を
販売する︒決済時に融資金額と売却金額の差額を精算
する︒相場が下落した場合は融資金額と売却金額の差
額を決算し︑代銀の不足分は請求せず︑代わりに商品
を受けとる︒
③本商人の並合
資本力の大きな本商人は︑自ら落札せず︑落札商人
に対して荷為替や並合貸のかたちで︑商品を担保とす
る融資をおこなう︒本商人が並合や質物のかたちで融
資をうけることができるのは︑道修町薬種中買仲間の
買出後である︒
つぎに︑第一章で呈示した仮説の検証をおこないた
い︒仮説は次の六点であった︒このうち①〜③は第三
章で確認した︒
一
Ⅱ ■ ■ ■ ■ ■
地域創造学研究 ○
①並合は長崎からの輸入品を担保とする融資である︒
②並合は長崎で梱包された状態で蔵に保管した商品を
対象とする︒
③融資期間中でも倉庫から出すことができる︒ただし
荷解した後は出すことはできない︒
④並合は信用ある取引業者間に限られる︒
⑤並合は担保商品の売却によって精算する︒
⑥契約時点で担保商品の価格は未定である︒
仮説の①は︑並合の対象が長崎からの輸入品である
ことであった︒これについては﹁長崎登せ荷﹂﹁正銘物﹂
が買置や並合の対象となっていたことを確認した︒さ
らに生糸・反物・雑貨品ではなく︑唐薬種や荒物に限
定されることも確かめることができた︒
仮説の②は︑並合は長崎で梱包し大坂の倉庫で保管
する商品であることである︒これも①で示したように︑
買持や並合物は﹁長崎登せ荷﹂﹁正銘物﹂であること︑
掛り問屋︵唐薬問屋︶の蔵に保管されるものであるこ
とを確認した︒ 仮説の③は︑並合が倉庫からの出納が自由であることである︒唐薬問屋の蔵から薬種中買の蔵に移管した箱荷を込薬として売買することで融資金の回収をはかるのが並合貸の基本であることを本章によって明らかにした︒すなわち倉庫からの出納は抵当商品の販売を意味したのである︒
仮説の④は︑並合は信用ある取引業者間に限られる
ということである︒これは中買の史料に﹁元来相互心
底見込取組﹂むものであると記されていることと符合
する︒
仮説の⑤は︑並合取引は担保商品の売却によって精
算するというものである︒この点については中買の史
料によって確認したとおりである︒
仮説の⑥は︑契約時点で担保商品の価格は未定であ
ることである︒先物取引により大坂唐物相場がたった
にせよ︑実物の相場は中買の買出によって成立する︒
問屋の蔵に薬種が搬入された時︑まだその価格は決定
していないのである︒買出がすまないうちは質入や並一
験 文
合ができないのはこうした事情にもよる︒
以上︑六つの仮説を検証した︒これにより得られる
結論は︑並合は唐薬種の流通過程でおこなわれる担保
付融資の一形態であり︑両替商がおこなう融資はその
棚
派生であるということである︒また︑並合が買置や質入とならんで史料に登場する︒
本章の最後に︑この点を検討する︒
買置や質入は他の商品にもみられるものであり︑し
ばしば買占とみなされて幕府の規制の対象になること
が多い︒ところが荒物を含む薬種の場合︑買持・質入
とならんで並合とよばれる取引があり︑幕府が買占と
判断しない限り︑大坂町奉行所はこうした取引をむし
ろ奨励した︒その背景として︑薬種は有用品であると
の評価にくわえて︑貿易輸入品の代金を早く確実に回
収したい幕府側の意図がうかがえる︒
つぎに薬種類にかぎって並合取引がおこなわれる理
由である︒ふつう荷主に対する前貸は︑販売を委託さ
れた問屋が︑その商品を自己の蔵に保管しつつ︑自己 明治三年︵一八七○︶三月二十四日︑大阪府は民間で使用されている証文を文例集にまとめ︑大阪布令として交付した︒このなかに︑並合証文の雛形がある︒
汎管見ではこれが並合証文の初見史料である︒ 資金を荷主に貸与するものである︒その商品を買得すると買持になる︒自己資金が不足するか︑さらに販路を拡大したい場合︑前貸金を第三者に依頼するケースもある︒これが質入になる︒ただし質入中はその商品を売買することができない︒そこで薬種の販売にかかわる薬種中買に前貸金の融資と販売を依頼したのが並合ではないかというのが筆者の考えである︒すなわち並合は問屋の仲介によって荷主︵本商人︶と薬種中買の間とかわされた契約とみなすことができる︒この仮説は越後屋長崎方がおこなった並合貸についての賀川隆行の解釈と符合する︵一九頁︶︒
第五章近代における並合
I ■ ■ ■ ■
I ■ ■ ■ ■ ■ 一
1 ■ ■ ■ ■ ■
地域創造学研究
この証文の特徴は①担保物件が﹁家業要用﹂の品であ
ること︑②第三者の﹁土蔵借り受﹂保管していること︑ 並合証文之事
一金何百両也但利足月
何分極
右ハ我等家業要用二付︑所持之何品︑何町何屋誰
方土蔵借り受差入有之︑右並合二相渡置︑借用申
候処実正也︑返済之儀ハ何ノ何月迄ノ内︑右品売
払︑代金を以返進可致候︑尤期月迄二相場引下
ヶ候ハ︑︑何時成とも差金不足之分相渡可申候︑
万一期月二至︑蔵出不致︑返済及延引候者︑貴殿
方二而御売払︑元之申分無之候︑侶而蔵主加判︑
為後日証文如件
何町年号月日
借用主何屋誰印
何町
蔵主何屋誰印 何屋誰殿
③返済期限までに﹁右品売払﹂う予定であること︑④売払代金で返済するものであり︑差額不足分は別途支払うこと︑⑤期日がすぎても蔵出しせず︑返済が伸びる場合は銀主が担保物件を売り払い元利の回収にあてること︑⑥蔵主が保証人にたつことである︒近世の唐薬種取引にあてはめると︑借用主は本商人︑
蔵主は唐薬問屋︑銀主は薬種中買となる︵のちに両替
商が銀主となる並合も現れることは前章で確認した︶︒
唐薬問屋が荷主︵本商人︶に対して中買との間での売
買が成立するまでの間︑前貸金融をおこなう︒その資
金を並合貸によって供給したとする︑三井越後方がお
こなった並合貸についての賀川隆行の解釈ともあう︒
つまり︑この雛形は近世の薬種取引でおこなわれた並
合を反映していると考えられる︒
ところが︑この文例集が公布されたとき︑並合証文
について大年寄から異論が出た︒蔵主の調印︵⑥︶を
除外してほしいという申入れである︒蔵主は場所を提
供するだけである︒万一の際の保証人と理解されては一一一一一
賎 文
荷主に蔵を貸す者がなくなり︑商売が手狭になるとい
猫
うのがその理由である︒大阪府はこれを了承し︑四月郷八日︑並合取引証文に蔵主の必要ない旨を通達した︒
修正後は借用主の奥に蔵主以外の請人が署名する形
式になったことが︑明治七年刊行の﹁改正請証文定則鑑﹂
3所収の並合物証文雛形から確認できる︒修正後の並合
証文は明治中期まで使用されていたようである︒大阪
市立大学図書館が提供する公開データベースには︑こ
のほか明治九︑十一︑十二︑十四︑十七︑十九年の文例集が
ある︒そのどれにも並合証文がのっている︒十七年の
文例は﹁荷物送状﹂と﹁並合証書﹂がセットになり︑﹁荷
物送並合証書﹂として立項されている︒こうした複数
の文例集に掲載されていることから︑明治前半期︑並
合証文は実際に活用されていたと考えられる︒
明治三年の時点で蔵主を保証人とする近世型の書式
が市民によって否定され︑第三者を保証人とする書式
が受け入れられた背景には︑並合をとりまく条件が変
化し︑新たな取引の形態が生まれたことが考えられる︒ その根拠のひとつに︑明治維新後まもなく新しいタイプの並合貸が現れたことが指摘できる︒蔵主が銀主となるものである︒住友家がおこなう並合貸がこれにあたる︒
大坂の富島に住友家の土蔵があった︒これに目をつけ
た富島の問屋らが︑商品の保管と商品を担保とする金
融を住友家にもとめるようになった︒こうして蔵主が銀
主となる並合業が始まる︒住友家からみると蔵敷料と
利子が収入となったのである︒当時は蔵に担保を保管す
るのは質屋業とみなされた︒そこで明治八年︑住友家
郷は大阪府から質屋業の鑑札を交付をうけたのである︒
明治初期から始まる並合業は道修町でも確認でき
る︒江戸時代から道修町で薬種商を営んできた塩野吉
兵衛店は︑明治六年九月︑質屋開業の許可を得てい
る︒住友家と同様︑この質屋業は並合業であった︒同
店には明治八年から十七年までの並合取引を記録した
﹁並合荷出入﹂という簿冊がある︒これをみると︑保
管と融資をおこなった商品は薬種以外に︑針金・芸州
1 ■ ■ ■ ■ 一
地域創造学研究 四
鉄・米・博多帯・秩禄公債などさまざまである︒明治
以降︑塩野吉兵衛店では本業の薬種商を営むほかに︑
0
敷地内の蔵を活用した並合業を展開したのである︒4塩野吉兵衛がおこなった並合貸の証文を引用する︒
並合証文之事
︵印紙七枚添付︑割印有︶
︵壱歩半︶一三百七拾円也但利足壱半定
右者我等家業要用二付︑所持之紀州銅三百四拾両︑
永浜銅三百両︑右並合二相渡置︑借用申処実正也︑
返済之義者来明治七年二月廿八日迄之内︑右品売
払代金ヲ以返進可致候︑尤期月迄二相場引下ヶ候
ハ︑何時成共差金不足之分相渡可申候︑万一期月
二至︑返済及延引候ハ︑貴殿方二而御売払︑元利
共御受取可被成候︑其節不足有之候共一言之申分
無之候︑依而請人加判︑為後日証文如件
借用主粟生与三兵衛︵印︶ 明治三年に作成された並合証文の雛形と比べると︑雛形にある﹁土蔵借り受差入﹂の文言が︑ここには見えないことがわかる︒これは塩野吉兵衛店が所有する蔵に担保の商品を受けとるからである︒蔵主が銀主となる事例である︒また︑塩野吉兵衛店の並合貸は商品と貸付金の総額をあらかじめ決めておき︑商品を受けとるたびごとに融資をおこなっていたことがわかる︒
塩野吉兵衛店には並合が完了した時に作成する証文
もある︒それは次のようなものである︒
明治六年八月十九日請人
田口作兵衛︵印︶塩野吉兵衛殿
前書金高之内荷物請取金子相渡申候︑左二
戌七月五日戌十一月十六日 金廿円渡︵印︶金九円渡︵印︶
同同同同
紀州銅三拾両請取︵印︶永浜銅三拾両請取︵印︶
証
一 一
五
験文
この本文は抵当物件である鉄荷物の受け渡しと︑借
用金の返済がともに完了したことを記している︒
道修町の老舗小野市兵衛商店も明治十七年に質物台
4 2
帳を作成している︒
同じく明治初年の道修町で活動した人物に山本忠が
いる︒山本家は近世︑紙屋の屋号を名乗り︑諸藩の蔵
元をつとめる両替商であった︒また三郷質屋仲間の年
寄をつとめた時期もあった︒近世後期は道修町二丁目.
4 3
三丁目の町年寄をつとめる名家であった︒
この山本家も明治以降︑質屋業から並合貸への転換 一我等方方其元殿江鉄並合取組一件二付︑当明治八
年十一月方十月三十一日迄︑金出入・荷物出入共
皆済相成候二付︑向後双方共右一条書類者一切可
反古︑依テ如件
明治八年十二月廿一日
西浦周蔵︵印︶
塩野吉兵衛殿
を模索している︒その根拠は山本家文書のなかに明治七年の﹁改正諸証文定則鑑﹂に載る並合証文とほぼ同じ文面の文書があることである︒ただし山本家文書に並合業を実際におこなったことを示す史料はない︒山本家の場合︑並合業をめざしたものの実現しなかったと思われる︒山本家の屋敷内には担保物件を預かるだけの蔵がなかったことがその理由として考えられる︒
以上︑本章で明らかにしたのは次の点である︒
①明治三年に大阪府下で並合証文ができる︒修正後の
並合証文は︑蔵主が銀主を兼ねる場合に対応する書
式となった︒
②明治六〜八年に新しいタイプの並合貸が確認でき
る︒住友家・塩野吉兵衛店・小野市兵衛店の並合業
がこれにあたる︒
③明治期の並合貸は雑多な商品を預かった︒
④並合業は表向き質屋業として登録された︒
一一︷ハ
地域創造学研究
本稿では二つのことを明らかにした︒一つは近世は
唐薬種取引における並合が中心で︑金融機能としての
並合は二次的なものであったことである︒後者のタイ
プに三井越後屋の並合業がある︒二つめは明治維新後︑
雑多な品目を預かる蔵主が銀主となる並合に変化した
ことである︒このタイプに住友の並合貸がある︒
これまで︑並合貸の研究は三井・住友という大店の
事例が中心であった︒そのため︑本来の形である唐薬
種取引における並合は見過ごされてきた︒本稿はこの
部分に初めて光をあてたものである︒
本稿では︑三種類の並合を明らかにした︒近世には
薬種中買がおこなうものと両替商がおこなうものの二
つのタイプがあった︒明治以降は蔵主がおこなう並合
である︒今後の課題としては︑明治初年に並合に変化がお
こった背景を明らかにすることである︒ おわりに
7
6 5 4 3 21
註﹁日本経済史辞典﹂﹁引当﹂の項︒鹿野嘉昭﹁江戸期
大坂における両替商の金融機能をめぐって﹂︵﹁経済
学論叢﹂五二五︑二○○○年︶︒幸田成友﹃日本経済史研究﹂︵大岡山香店︑
一九二八年︶︒のち﹃幸田成友著作集﹄第一巻に収載︒
本庄栄治郎﹁日本経済史﹄︵日本評論社︑一九二九年︶︒
のち﹁本庄栄治郎著作集﹂第一巻に所載︒﹁三井事業
史﹄本編第一巻︵一九八○年︶など︒三井とならぶ
大店の住友家が展開した並合業も有名である︒質入
業の一種とみなされたが︑これについては第五章で
あつかう︒
﹃幸田成友著作集﹂第一巻︑四九四頁︒この見解は
一九三四年刊行の﹃江戸と大阪﹄︵冨山房︶でも変
わらない︒
本庄前掲書︑三七五頁︒
嘉野前掲論文参照︒
宇佐美英機﹁近世風俗志﹂︵一︶解説︵岩波文庫︶︒
また渡辺祥子は唐薬問屋の商売に関する本書の記述
から︑唐薬種売買において空物取引が行われたこと
を明らかにしている︒渡辺祥子﹁近世大坂薬種の取
引構造と社会集団﹂清文堂︑二○○六年︒
大坂の両替商である布屋の勘定帳には︑慶応二年正
一
−
七
論文
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月に釘屋重兵衛にたいして錫を担保に並合貸をおこ
なっている記載がある︒布屋は文久三年に唐物業か
ら両替商に転業している︒また錫は長崎貿易の輸入
品であった︒この二つから︑布屋の勘定帳にのる錫
の並合貸を輸入品を担保とする融資であったと考え
ることができる︒ちなみに︑勘定帳には錫を担保に
引合貸をする場合も確認できる︒また家質にたいし
ての融資を見当貸と記して並合と区別している︒布
屋の勘定帳は嘉野前掲論文の引用部分を参照した︒
﹁大阪市史﹂第五︑四七四頁︒
﹁大阪市史﹂第五︑四七四頁︒
近世の並合の史料をみると︑銀主が並合商品を売買す
ることを前提にすると解釈が困難になる場合がある︒
以下︑﹁武田百八十年史﹂︑渡辺前掲書︑賀川隆行
﹁近世三井経営史の研究﹂︵吉川弘文館一九八五
年︶︑幡新大美﹁根証文から根抵当へ﹂︵東信堂︑
二○一三年︶による︒渡辺祥子氏は︑薬種取引が停
滞すると本商人の資金繰りが苦しくなり長崎での入
札が困難になるといった事情が背景にあることを指
摘している︒なお︑以下の記述で大坂の唐薬問屋が
おこなう建物取引と︑長崎の積荷物帳をもとにおこ
なう入札によって成立する大坂唐物相場を一連のも
のとみなしているが︑この点は検証が必要である︒
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越後屋長崎方では白砂糖・氷砂糖・蘇木・錫・鉛・
水銀・丸藤・象牙・胡椒・トタンを荒物に分類して
いス︾︒﹁大意書﹂巻十︵本庄栄治郎編﹁近世社会経済叢書﹄
七巻︑二一六頁︶︒ここでふれた大坂での入札は︑
先に示した買出における入札とは異なる︒買出にお
ける入札は長崎から送られてきた落札商品を見てお
こなうものである︒
大阪市史編纂所所蔵︒この史料は江戸・京都・大坂・
堺の糸割符宿老の長崎における職務を記したもので
ある︒
差金商売とは一般に仲介人が手付金︵差金︶を払って商品を買い︑名目上の所有者となって売却し︑そ
の代金からもとの荷主に残金をはらう取引のことを
い︑う︒賀川前掲書︑四六六頁︒
﹁会所用向留﹂︵三井文庫所蔵史料︑本七六○︶︒賀
川前掲書四六六・四六七頁の引用史料を利用した︒
本稿では大坂町触の番号を﹁大阪市史﹂所収の御触
及口達にしたがって表記する︒
達一○八七︑達一○九二︵﹁大阪市史﹂第四二五二
頁︑二六三・二六四頁︶︒
この他︑文化十一年九月と天保二年三月に﹁唐物
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一
地域創造学研究 ノI
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持渡の薬種・荒物類における買持と荷物並合引
当﹂に関する江戸触が大坂にも伝わっている︒触
四三一六︑触四九三九︒
尼崎又右衛門は三町人の一人である︒三町人は大坂
城で城代を補佐する特権町人であった︒
唐薬種の買置については渡辺祥子氏の研究がある︒
渡辺前掲書参照︒
﹃大坂両替商聞書﹂一一八六・一八七頁︒
塩野屋吉兵衛家文書︑古文書類八一九︒史料の閲覧
を許可された塩野太郎・木ノ下憲二両氏︑および本
文書調査の機会を与えていただいた小野功雄・石川
潔両氏に記して謝意を表する︒
道修町文書一○一○九○︒くすりの道修町資料館蔵︒
道修町文書は薬種中買仲間文書である︒下書という
性格上︑本史料には見せ消ちなど推敲の跡が残され
ているが︑本稿では修正後の形を示すにとどめた︒
原型は近く刊行予定の﹁道修町文書近世編﹂第二巻
で確認されたい︒中買同士の取引や素人衆の注文の
一つの形態に並合があった可能性も考えなければな
らないが︑問屋との並合取引が基本であることに変
わhソはない︒
本節はとくに断らないかぎり︑賀川前掲書第四章に
よる︒
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﹁三井事業史﹄本編第一巻第五章第六節︒
渡辺祥子前掲書︒
賀川前掲書︑五○八頁︒第五章で引用する並合証文
は借主・蔵主連名で第三者から融資をうけるかたち
をとっている︒蔵主は唐薬問屋をさし︑借主の保証
人である︒この証文の形式は︑三井の並合貸につい
ての賀川の解釈と符合する︒
幕末期に唐反物業から両替商に転業した布屋も︑引
合貸や並合貸などの融資をおこなっている︒鹿野前
掲論文参照︒
﹁道修町売出シ一件二付五ケ所本商人中願之写﹂三
井文庫所蔵史料︑本一六六九一二︒賀川前掲書︑
四九五・四九六頁の引用史料による︒
道修町の薬種﹁中買﹂が﹁問屋﹂の代表になること
に違和感を覚えるかもしれない︒これに関しては︑
大坂の蔵屋敷や米市で米切手を売買する商人を米中
買とよぶが︑それと同じケースと考えればよい︒彼
らの多くは大坂市中の米問屋である︒米切手をあ
つかう場面で米中買を称するのである︒米の中買
に対する問屋にあたるのは︑米問屋ではなく蔵屋
敷である︒土肥鑑高﹃近世米穀金融史の研究﹂柏書
房︑一九七四年︒拙稿﹁堂島米市﹂︵﹁大阪の歴史﹂
七十一号︑二○○八年︶︒値組は一般には価格決定
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