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中国の伝統撃 とその技術移転

渡部 武

は じめに

中国の伝統翠 について、系統的な研究を行 った人はきわめて少ないO私の知 る限 りでは、中国農業 史研究 に生涯 をささげた天野元之助、山東省済寧市の農機 具研 究所で働 く周折、それにこのセ ッシ ョンで コメンテ ー ター を担 当 してお られ る雲南大学の争紹亭教授が、それぞれ フィール ドワー ク、考古学お よび文献研究の 成果 を取 り入れた、す ぐれ た研 究を公表 している。 その結果、中国における伝統翠のタイプや その地域的分 布 な どが明瞭 となってきた。 しか しなが ら、中国における翠の起源や その発展については、まだ解 明 されて いないい くつかの問題がある。最近の農業史研究の動向お よび私 自身の調査 を踏 まえなが ら、以下 これ らの 問題 について卑見 を述べてみたいO

1.

新石器時代の石琴 と商代の青銅撃の閉居

まず 中国にお いて、準がいつ ごろ出現 したかの問題 について言草 してみ よ うO 中国における翠の起源 につ いては2つの説がある。ひ とつは中国で独 自に発 明 された とい う説 、そ して もうひ とつは外部 よ り伝来 した とい う説である。 中国人研究者 の多 くは中国起源説 を支持 してお り、そのひ とつの根拠 となっているのが新 石器時代の石翠 である。

石翠は、主 として太湖周辺地方 (漸江省 ・江蘇省 ・上海地 区) の松沢文化、良渚文化 に属す る遺跡か ら出 土す る石製農具である。形状は率鋒 (率先)に似 た三角形 を呈 し、その中央部に2つ も しくは3つの穿孔が あ り、両側面は刃状に加 工 されているG大 きさは辺長約 20cmの ものが多 く、まれに辺長50cmを超 えるもの もある。 この石準は、木製の本体に装着 され て使用 されていたはずである。 なにぶんにも本体の木部は腐 っ て しまって残 らないので、石率の復元図は研究者 によって様 々に描かれ一定 しない。初期 の研究では、その 形態 を人力で曳 く枠型琴 の よ うな耕起農具に復元 し、 これが準のアイデアの原型になった と推 定 している。

しか し、近年の考古学の成果によると、 この石率 の1タイプに、2つの翼状の石製部品が付帯 し、 これ らを 組み合わせて使 用す ることが明 らか となってきた。 しか も幸 いな ことに、漸江省平湖市の良渚文化遺跡か ら 木部本体付 きの石翠が出土 し、それが耕起用の踏鋤 である可能性が大 となったO漸江地方の新石器遺跡の発 根経験 を有す る小柳美樹 は、多 くの石準 を詳細に観察 した結果、 この石翠 と後代の華北地方の枠型翠 とを関 連付けるべ きではない とい う見解 を述べている.。私 自身 も彼の意見に賛成である。

中国における翠の起源 に関連 して、前述の石翠以外に言及 しておかなければな らない農具 と して、青銅製 の翠鍵がある。 この種 の準鉾は発見事例がきわめて少ないO 代表的な もの としては、近年 、江西省新干県の 商代の大墓か ら発見 された2件 と、天野が 自著において紹介 してい る、河南 ・陳西の間で出土 した西周期頃 (?)の1件がある。それ ぞれ表面に饗聾風の文様 があるので、儀礼用の農具 と思われ る。大 きさはいずれ も長 さ約 10cl山、幅約13cl山で、きわめて小 さいQ新干遺跡か らは別 に青銅製農具の未 ・箱 ・鐘 ・締 ・鍔が出 土 しているので、撃鍵 にはこれ らの農具 とは巣なる使用法があったはずである。形状の類似 だけか ら、 この 農具 を家畜に曳かせ る翠 の先端部品 と即断できない。 その理 由は以下の とお りである。初期の漢字である商

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セッション Ⅱ

撃の形態比較から乗アジアの民族移動に迫る

代の甲骨文字を調べてみ ると、準 (後漢時代の字書 『説文』では r辞」と表記)の初字 (原初の字形)は

r

巨」

(刀) と考 えられてお り、末のよ うな踏鋤で土壌 を耕起す る象形文字 となっている。 この漢字に 「牛」の構 成要素が加わるのは春秋戦国期以後である。 当時、孔子 (前551‑前479)の弟子に畢耕 に関係 した名前 を持 つ人物が2人 (再耕、字は伯牛、お よび司馬耕 〔一名司馬翠〕、字は子牛)排 出 しているのは象徴的である.

牛に曳かせ る撃が新技術であったか ら、 このよ うな命名が行われ たのであろ う したがって、私は商代の青 銅製率鉾をもって、畜力による率耕 の存在の直接的な証拠 とす ることに同意 しかねている。

2.

製鉄技術の革新 と鉄製農具の普及

春秋戦国期の文献、た とえば 『国語』、『戦国策』、『韓非子』、『商君書』 な どを紐解 くと、そ こには中原諸 国の富国強兵政策が如実に記録 されているoこれ らの書物の中に しば しば取 り上げ られているのは、「耕戦之 士」 と呼ばれ る人々である。 この語秦 を文字通 りに訳す と、平常時は農具 を持 って耕作に従事 し、戦闘時に は武器 を持 って戦 う人 々の ことである。春秋戦国期の社会の性質は、従来の商 ・西周期のそれ と大 きく異な り、人々の 日常生活 を支配 していたのは神霊ではな く、法律であった。 また国防の主力は戦車に乗 って戦 う 貴族ではな く、農耕 に従事す る平民であった。戸籍、兵役制度、農地の整備 とその給付方式、農法、税制、

お よび集落形態 に至 るまで、法律に よって合理的に連動 していた。戦国期にお ける諸国の君主の権 力と富の 源 は、直属の官僚組織 による政治 と外交、それ に耕戦之士に よる未 開の原野の開発 に負っていた。 とくに秦 国では、孝公の治世 中 (前 361‑前 338年)に断行 された r商秋の変法」の一環 として、 「肝晒制Jと称 され る大規模 な農地の基盤整備方式が導入 された。この土地制度 は、明 らかに率桝 と連動 していた。『戦国策』に も 「秦国は牛に曳かせ る琴で耕作 し、河川交通 を利用 して食糧輸送 を行 う」 と記録 されている。

翠排の普及 を支 えたのは、春秋戦国期の製鉄技術の革新であった。 中原地区での人工鉄器の出現は西周晩 期 (前800年頃)で、また春秋 と戦国の交替期 (前5世紀半ば)に鋳鉄 を脱炭処理 して鋼 を製造す る技術が 発 明 されたO この発明は世界の製鉄 史上画期的な出来事で、戦国中 ・晩期に至って、大量の鉄製の武器、農 具お よび各種の生産工具の製造 を促 した。戦国期の中原諸国で先進的な製鉄技術 を有 していたのは、山西 ・ 河南地方の韓 ・魂超 、お よび河北地方の燕であった。 これ らの諸国は、国営 あるいは民営で鉱 山の開発や 各種鉄製工具の生産 を行 っていた。後世の秦 ・漢帝国の鉄製の武器や農具の生産機構は、これ らの戦国諸国 の遺産 を継承 したものに他な らないO

戦国諸国の製鉄技術 は、周辺地域 にも大 きな影響 を及ぼ した。 た とえば、燕国の鉄製農具は、遼東半島を 介 して朝鮮半島に伝わ っていったO朝鮮の伝統的踏鋤 「クビ (ttabi)」は、中国古代の未や粕 を紡律 とさせ るので、両者の間に関連があると私は推定 しているO また朝鮮の在来翠 「朱錐 (jaenggi)Jが漢代の枠型準 に酷似 しているのは、武帝期 (前 108年)の朝鮮 内での4郡 (このl利 こ有名な楽浪郡が含 まれ る)設置の際 に、当地‑入植 した漢人が このタイプの翠 を導入 した結果であろ うO さらに秦国の場合 、中原 の諸国を征服 した際、それぞれの土地の住民 を強制的に辺境 に移 し、農耕開拓 に従事 させ た。 その中には 『史記』貨殖列 伝 に記録 されている卓氏や程鄭のよ うに

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冒険心に富んだ製鉄技術者 がいて、積極的に異民族 を雇用 して冶 鋳 (鉄の製錬 と鋳造) に励み、四川の奥地で大成功 を収 めた例 も見 られ る。 しか しなが ら、多 くの少数民族 が錯居す る西南 中国において、 この よ うな冒険的製鉄技術者が果た した役割 は、おそ らくは農 具の普及方面 ではな く、武器の革新面においてであろ う。鉄製農 具の本格的な普及は、前漢時代の国営工房 「鉄官」の設 置まで待たなければな らなかったO

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3.

漢代画像資料に見える枠型撃 と華北の乾地農法

ところで、古代 中国の翠 は どのよ うな形態を備 えていたのであろ うか。 そのことを具体的に教 えて くれ る 絶好の資料は、後漢時代 (1‑2世紀)の墓葬 を飾 る画像石や壁画な どであるO後漢時代には豪族勢力が台頭 し、彼 らは 自らの財力を誇 るために墓葬 に美大な費用 を投入 した。その結果、墓室の壁面に 自己の荘園や農 耕の情景を描写 した画像石基や壁画墓が出現す るに至った。現在、私が把握 している翠耕図は約 15件 ある。

これ らの翠耕図を仔細 に検討 してみた ところ、中国の古代翠 には2つのタイプがあ り、両者 は地域的に も明 確 に区分できるoす なわち、眺酋 ・甘粛 ・内蒙古地区では方形枠型翠 が、また山東および蘇北 (推河以北の 江蘇省北部)では三角枠型率 がそれぞれ使用 され ていたo つま り、中国の古代翠は基本的に枠型翠であ り、

以後その伝統は絶 えることな く今 日に至 るまで伝承 されていったO

枠型翠、 とくに長 い翠床 を具えた方形枠型準 は、深 く土壌 を耕起す るのに適 してお らず 、 もっぱ ら浅 く耕 起す るのに用い られた。 このタイプの翠の採用は、華北地方特有 の土壌性質 と気候風土の上に考案 された乾 地農法 (dryfarming)と大いに関係 がある

周知のよ うに、華北地方は広範囲にわたって黄土 (loess)によって葎われ 、農民たちは古 くよ り天水 に依 存す る無濯概農業 を行 って きた。年間の平均降雨量は400‑600mmで、その大半が作物の成長期 に当る夏か ら 秋 にかけて降る。そのため農 民たちは、播種期お よび幼苗期の春 に深刻な早魅 に苦 しめ られて きた。「十年九 春早」(10年間に9年 は春季の草地 に見舞 われ る) とい う華北地方に伝わる農諺が、その ことをよく物語 っ ているO それ に対処す るため、農民たちは土壌 「円こ浸透 した貴重な両沢 をた くみに保蓄す る処理方法を考案 した。 それは翠で土壌 を浅 く耕起 し、把で土塊 を粉砕 し、 さらにそれ を拶 (あるいは糖) で鎮圧す るO この よ うな丹念 な表土処理 を行 うことで、毛細管現象によって土壌 中の水分が蒸散 しないよ うに努めたのである

とくに秋 の収穫後 におけるこの種の作業は重要で、このよ うに して土壌 中に蓄えられた水分によって、春季 の播種が可能 となるのである。 この乾地農法の体系を最初に記 したのは、北魂時代 (386‑534年)の農学者 貫思親 で、その著書 『斉民要術』 中に、や は り 「撃 をかけた後 に棋作業 を行わない くらいな ら、何 もしない ほ うがま しだ」とか、あるいは r拷作業は再三なるがよい」 といった秋排の重要性が説かれている,私 自身 も山西省 の農村 を調査 した際に、収穫後 に 「丙琴 南杷」

、「

一撃‑」 といった土壌処理の回数 を、農民か ら 教 え られた経験 がある。

従来、 このよ うな乾地農法体系の完成時期は、前述の貫思姦賢が活躍 した5世紀末か ら6世紀初 と考 え られ て きた。 しか し、近年 になって甘粛省の嘉略関や酒泉の魂晋時代お よび五胡十六国時代の彩絵碑墓か ら、乾 地農法 を示す農耕図が多 く発見 されてい るので、この農法の成立はかな り古 く、漢代 にはすでに翠一純一拷

(糖)体系は確 立 していた と思われ る。

漢代 の枠型撃 の繋師 表で最 も多 く採用 されていたのは、r二年拍横」とい う方式であるO私の西南中国農具 調査において も気づいたことであるが、 この方式は長い素直 ぐな韓 のせ いで、翠の方向転換が きわめて不便 であるo ことに方形枠型肇 は長床 を具 えているので、無床翠 に近い三角枠型翠に比べて、操作す る上で熟練 した技術 を必要 とす る。 また1頭の牛で牽引す る短榛の揺動方式の準 もあった。挽畜は牛以外 に馬 (漢代の

『塩鉄論』にその事例が記 されている) も用い られた。 そ して私が最 も奇妙 に感 じたのは、山東省 の膝県 と 東荘市の後漢時代翠耕画像石に見 られ るよ うに、牛 と馬 とを1セ ッ トに して曳 く翠耕方式があった ことであ るO このよ うな方式は、現在において も華北地方で見 られ る と灰 聞 しているが、残念 なが ら私 自身はまだそ の実例 をこの眼で確 かめてはいない。

漠代の翠の機能で注 目すべ き点は2つある。ひ とつは、当時すでに土壌 を翻転す るための翠師が考案 され

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セッション Ⅱ

撃の形態比較から乗アジアの民族移動に迫る

ていたことである。翠軒の実物 として、土壌 を両側 に翻転す るタイプ と片側 に翻転す るタイプの2種類が出 土 してお り、翠耕図中にも琴錦 を装着 した琴 を認 めることができるC英国の中国科学技術史研究者 ニー ダム の大著 『中国の科学 と文明』の農業巻 を分担執筆 したプ レイは、中国人によるこの率餅の発 明を琴耕技術史 上の重大事項のひ とつに位置づ げている.前漠時代にお ける聾 (ウネ) と溝 を交互 に利用す る槍過 の r代 田 法」は、 このよ うな翠師 の発 明があって、は じめて実現できたのであるo も うひ とつの注 目すべ き琴の機能 は、耕裸 を調節す るための装置 (健 と評)がすでに考案 されていたことである。この装置は唐代 の陸亀蒙 (?

‑881年)の 『末相経』 に初めて記録 され るが、その発 明の時期は、われわれの予想 を超 えて、かな り古かっ たのであるO この よ うに漢代の画像資料は、中国の農業技術史を解 明す る上で、われわれ に多 くの新事実を 教えて くれ るのである。

4.江南 ・嶺南地方における乾地農法の技術転移

中国の風土は、秦嶺 と准河 とを結ぶ線で二分 され る。以北の華北地方は、ア ワ ・キ ビ ・ムギな どを栽培す る畑作地帯。そ して以南の江南 ・韓南地方 は、イネを栽培す る水 田地帯である。 この区分 はきわめて大まか なものであるが、中国の風土を概観す る上できわめて便利である。 中国古代の翠耕の発達 と準 の改良は、主 として泰衡 一推河線以北で展開 され た。戦国か ら漢代にかけての江南 と嶺南地方は、未開発の土地が広が り、

人 口も希薄で、「火耕水 」と称 され る農法で水稲が栽培 されていた。 しか し、この農法の実態 はよく分か ら ず 、たぶん琴 を用いない、イネの直播栽培であったろ う。

漢代の記録 の中に、わず かな事例ではあるが、西南 中国や江南地方で翠耕 の普及 を試みた行政官の活動 を 見出す ことがで きるo Lか し、この試み を過大評価 してはな らないo秦嶺一推河線以南での本格的な窄新技術 の導入は、後漢末か ら六朝時代発生 した大量の難 民や入植者 たちによってもた らされた。 この西暦3世紀初 頭 か ら6世紀半ばにかけての時代は、黄 巾の乱、三国 (魂 ・呉 ・萄)の鼎立、異民族五胡の華北地方侵入に よる南北王朝の対立、お よび王朝内部での政権抗争な どが相続 き、未曽有の人 口流動化現象 を引き起 こ した。

この ときに華北か ら江南お よび嶺南 に移住 した人 口は多い。例 えば、永寮の乱 (4世紀初)によって西晋王 朝が滅 び、江南に東晋王朝が成 立 した際には、r中原の人々の60‑70パーセ ン トが江南に難 を避 けた

j(

『晋

書』巻65、王導伝) と記録 されている。彼 らは出身地別 に新 しい居住 区を形成 し、こ うして誕生 した郡や県 を 「僑郡」、r僑県」 と称 した。 この 「僑」 とい う漢字は 「郷里を離れ て仮住 まいす る人」 とい う意味で、戸 籍 に もその本籍地が記 され、土着の人々 と区別 されたO

当時、西南 中国や嶺南地方には多 くの少数民族が居住 していたので、入植 した漢 人は彼 らとの紛争 を避 け るために、ある程度の棲み分けに配慮 していたはずであるO私の雲南調査の経験 を参照す るな らば、入植 漢 秩 (多 くjま湖南 ・湖北出身 の貧農)の国営農場は、山地で焼畑耕作を行 う少数民族 と盆地で水 田稲作 を行 ラ 少数民族 との間の緩衝地帯に設 け られている。そ こには学校 ・病院 ・農機 具修理工場な どの施設が整い、一 種の文明単位 を形成 していて、彼 らの政治的、文化的意識はきわめて高い。

実は、前述の動乱期 の入植漢人にお いて も、それ に似た意織構造が認 め られ る。彼 らのアイデ ンテ ィテ ィ を象徴す る具体的事物が、西南 中国における 「帳塘稲 田模型と嶺南地方にお ける 「翠 田把 田模型」であろ う。 これ らはすべて墓に副葬 された明器で、前者 はそのほ とん どが後漢時代 (1‑ 3世紀初)に属 し、水利 濯概施設 (養魚池 をかね る) と水稲栽培 との結合が表現 され、また後者 は西 晋か ら東晋時代 (3世紀末〜 5 世紀)に属 し、播種 前の準 と絶 とに よる水 田の整地作業が表現 されている。前者にはまれ に踏鋤 の 「鋪」を 所持す る人物桶が付加 され る場合 も有るが、翠耕 を示す事物は一切見 られない。 その理 由は、西南LFl国では

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率 がほ とん ど普及せず 、もっぱ ら鍬や踏鋤 な どの手農具に依存す る農業 を行 っていたか らであるO その こと は、四川の萄郡の鉄官 で生産 された鉄鉢が西南中国に広 く流通 していた事実か らも立証できるO それに対 し て、後者 の模型 に率 と把が登場 して くるのは、動乱期にお ける乾地農法経験者の入植 と関係 して くるか らで ある。

現在までの ところ、翠 田杷 田模型は7件発見 され ているD 発見地は広東デル タ地帯 に集 中 してお り、1件 のみは広東以外の広西地方か ら出土 してい る。前述のよ うに、すべて西晋時代以後 に属 しているが、 これ ら とは別に広東省仏 山市澗石か ら後漢期 (2世紀)の水 田模型1件が出土 しているD この模型 はその田面に翠 鍵が表現 されている ところか ら、後漢時代 に広東デル タ地帯 において翠耕が普及 していた証拠 として、 しば しば研究者 の注 目を集 めてきたoLか し、あるとき私はこの模型 中の琴桝について疑念 を抱 くよ うになったO その理 由は、翠雄 とそれ を操作す る人物の位置関係 に妥 当性 を欠いていたか らである。2005年春 、私は広東 省の番 馬博物館 を訪問 した際に、 この館の所蔵 品中に後漢期の碑室墓か ら出土 した類似の水 田模型があるの を発見 した。 そ こに表現 されていたのは、翠 によるのではな く、踏鋤 による水 田耕作であった。模型出土地 の番 馬 と前述の潤石 との距離はわずか30kmにす ぎない0両模型が表現 している内容は、動乱期以前の広東デ ル タにお ける入植者たち (あるいはその末商)の稲作技術水準を示す ものであ り、耕作農具の主流は翠では な く踏鋤であった ことを物語 っている。か くして、広東デル タ地帯での翠耕 の普及が3世紀末以後の入植者 たちによってもた らされた と、私はいよいよ確信 を深めたのである。

翠 田杷 田模型は、明 らかに華北畑作地帯の乾地農法か らの技術移転を表現 している。模型に登場 して くる 農具は、肇、杷お よび碑碑である。それぞれ挽畜 (牛 もしくは水牛)1頭 で曳かせ 、翠で耕起 し、杷 (抄杷) で土塊 を粉砕 し、そ して棟碑で水田の耕盤 を絞めるのである. これ は乾地農法の翠 一杷 (疎紹) ‑梯体系の 応用でもあるO棟碑 に類 した農 具は華北畑作地帯にもあ り、土壌の鎮圧 に使用 されている。 この技術移転の 際 の大 きな発 明は、畑 作用 の疎 把 を水 田用 の紗 把 に改 良 した こ とであ る。 天野元之助 は南采 時代 の横棒 (1090‑1162年)によって描かれ た 『耕織 図』 を根拠に、抄紙の発明を12世紀 と推定 したが、その年代 を大 幅に修正す るこ とになったのであるO また嶺南地方に導入 された翠 は、枠型翠 (一部は長床率)であった と 思われ る。 さらにこの撃 のタイプに関連 して、重要な1つの発見がある。 それは広西西林県か ら出土 した六 朝期 (4‑ 6世紀)の銅鼓の表面に、典型的な枠型 曲軽率 を用いた農耕 図が見 られ ることであるO これが こ の タイプの翠 に関す る最古の図像資料であるo dj】輯翠は、たぶん乾地農法の技術移転の過程で誕生 したのか も しれ ないO

むすび

以上、漢代の画像資料 、晋代以後の蟹 田細 田模型な どを用 いて、Llコ国古代の伝統的翠の形態、率耕技術、

お よび華北乾地農法の水 田地帯にお ける技術移転な どの諸問題 について概観 してみた。 このよ うな検証作業 を通 じて、文献では埋 めることのできなかった中国農業史の空 自部分を補完できたのではないか と、私は思 っているO しか しなが ら、この報告 において、私 はあえて中国における翠の起源に関す る外来説 を話題 に し なかったO琴の起源 については、中国に比べて西アジアのほ うがはるかに古いo も し西方か ら伝来 した とし たな らば、翠の形態だけではな く、栽培作物 、人間の移動、繋駕法、動物の馴致技術 な どをも考慮 して、総 合的にこの間題 を鼓論 しなければな らないQその点で、応地利明が提示 した仮説はきわめて魅力的である.

すなわち、西は地 中海沿岸部か ら東は中国 ・日本にまで達す る、アジア大陸を東西に横断す る 「長床撃の道

を想 定 し、翠型の多様性 に富む西アジア とイ ン ド東部 を翠の起源地候補に挙げていることであるO 中国翠の

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セッション Ⅱ

撃の形態比較から乗アジアの民族移動に迫る

起源 問題 を解 明す るには、道 の りはまだ遠い。

[参考文献]

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図版2;江素等酒洪県出土後桝 帯色石

図版6:甘漸省茅噸 関新 城1号墓 彩絵 碍耕 種固 執 晋時代 の辺鍵 で の乾地農法 を示 す重 要架 料

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セッション Ⅱ

撃の形態比較から乗アジアの民族移動に迫る

図版7:広東省連外 出土中田無 田模型 (画せ)

儀 9:広F'E解朗市出土平 田持田横型 (百官)

庫 11:広兼省広州市貴J*区出土水田鱒作模型 (百晋)

+:?

旋8;広香呉州市 出土水 田耕作模型 (脊聯)

旗 10=広東省広州市榊 区出土水田耕作模型 (百官)

国旗 12:広薫省広州市黄鏑区出土水田耕作養型 (甫晋)

図版13:広東省肇JE市東熊出土水 田耕作寝型 (真晋)

参照

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