る花押について
著者 中野 栄夫
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 43
ページ 119‑123
発行年 1991‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00011107
『兵庫県史』史料編中世一によれば、淡路には現在八○点余の中世文書が伝存するというが、その内の六○点は護国寺に伝わるものである。護国寺は、現在の三原郡南淡町賀集(もとの一一一原郡賀集村八幡)にある真言宗寺院で、現在は高野山の系統に属している。護国寺は貞観年中(八五九~八七七)に大安寺僧行教が創建したと伝え、本尊は平安後期の木造大日如来坐像で重要文化財に指定されている。また近年は、淡路七福神の中の布袋様のお寺としても親しまれている。護国寺には中世文書のほか近世・近代文書も数多く伝わっており、また、中世の宗門関係の史料も若干伝存している。それらについては、現在、護国寺の協力を得て調査中で、調査完了後に公にする予定であるが、護国寺文書の中で、まず注目されるのが、正文としては淡路で唯一の鎌倉期の文書でもある、元久二年(一
元久二年四月の淡路国司庁宣に見られる花押について(中野)
八研究ノートV 元久二年四月の淡路国司庁宣に見られる花押について
二○五)四月の淡路国司庁宣(以下、単に庁宣という)であろう。同文書は、現在軸装で伝わっているが、損傷が甚だしく、早急の修補が望まれる。さて、この庁宣は『兵庫県史」史料編中世一には、謹国寺文書第二号として収録され、『鎌倉遣文』にも一五三五号として収録されているもので、「鎌倉遺文」が典拠を、「淡路常盤草四伊佐奈岐神社」としていることからも分かるように、その存在は古くから知られていたものである。この文書には、写真Aでも明瞭のごとく、杣と奥とに花押が据えられているが、原文書を調査したと見られる『兵庫県史」でも、その人物比定はなされていない、また「鎌倉遺文」は「淡路常盤草」から引用したためか、袖判(袖花押)の存在を明示していない。なお、念のためにいえば、東京大学史料編纂所蔵の影写本には袖判も影写されている。元久二年(’二○五)四月の淡路国司庁宣の袖と奥に孝られる花押の人物比定を試みようとするのが、小稿のささやかな目的で
中野栄夫
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現在、国司一覧表としていちばん便利なのが「日本史総覧」二(1)所収の「国司一覧」であろう。そこでまず『日本史総覧』の「国司一覧」を詮ると、元久二年(’二○五)前後の淡路国司は、表Aのように示されている。この表に見える「藤原(名欠)」の典拠は、まさにこの庁宣にほかならない。ここでは、「藤原(名欠)」となっているが、手がかりはその前に見られる藤原範周であろう。そこで藤原価周なる人物を「尊卑分脈』に求めると、施周なる人物は一人しかおらず、表Bの人物らしいことが知られる。すなわち、これらによれば藤原範周は、知行国主としてみられる藤原節季の孫で、前国守である藤原範時の子であることが判明する。|股に、知行国主制度の下では、知行国主は一族の子弟などを国守に推挙するのが通例であったといわれている。事実、この珈例を見ても、知行国主藤原範季は、子の藤原価時を国守としている。表Aによれば、藤原施季の知行国主としての徴証は正治元年(一一九九)二月までというが、孫の藤原範周が元久元年(’一一○四)に国守となっているので、その後も淡路国の知行国主であったと考えるのが順当なところであろう。「尊卑分脈』では施季が卒したのは元久一一年(一二○五)であることしか示されていないが、『明月記』の元久二年(’二○五)五月一一日条には、「昨日午刻従二位範季卿入滅」とあり、藤原範季は前日の五月一○川 ある。
一
二○
能B表
表A淡路国司在職表『日本史総覧』より)
藤原範周藤原(名欠)藤原教隆 藤原範時(知行国主)藤原範季
元久二年四月の淡路国司庁宣に見られる花押について(中野)015 氏名一所見年月日一種別
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黛痢
範季流系図依順徳院外祖元久二 へ図弓尊卑分脈」より)異本云友実子実父能兼為範兼子云を従一一位木工頭式部少輔文治侍読 建久七年正月二八日正治元年二月二○日元久元年正月一七日元久二年四月元久二年一一月二九日建永元年九月一一二日 建久七年正月二八日元久元年正月一七日
襲癖
八十三 範資侍読学士遷補見補任任任任 止補 三長記、不知記、明月記。任豊前守 明月記同年一一月三○日条 鎌倉遺文一五三五号 公卿補任承久元年藤原範時項、弁官補任承元四年藤原範時項 明月記同年二月二一日条 公卿補任承久元年藤原範時項、弁官補任承元四年藤原範時項 公卿補任承久元年頁、弁官補任承元四年項任任公卿補任承久元年頁、弁官補任承元四年項
備前守範周母出家
出
典
この庁宣に見られる奥上署判は国守の藤原範周のもの、杣判は知行国主の藤原範季のものと考えることができよう。
ところで、幸いなことに、藤原範季の花押は、早稲田大学所蔵の寿永三年(’一八四)二月七日後白河院庁牒(『平安遺文』補(2)’四三号)に見られる。それが写真Bである。この花押と、庁宣に見られる花押(写真C)と比べると、庁宣の花押は損害が甚だしいが、残画から見る限り、|致すると見て差し支えないであろう。したがって、庁宣の衲判は藤原範季のものと断定してよい。なお、藤原範周の花押(写真D)は他に確認し得ていないが、以上のことから霜この時点での淡路守は藤原範周であると考えられるので、範周に比定して差し支えないであろう。『花押かが承』
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考
午ごろに蕊じた}」とが知られる。つまり、〉」の淡路国司庁豈の発せられた元久一一年(’二○五)四月には、藤原範季はまだ生存していたわけである。したがって、この時の淡路国の知行国守は藤原範季、国守はその孫の藤原範周と考えられるであろう。とするならば、
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写真C淡路国司庁宣に見られる袖判 写真,淡路国司庁宣に見られる藤原
範周の花押
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じつは、この庁宣の袖判が藤原施季であることを確認するために、『花押かが象』の元久二年(’二○五)以降をすべてめくって承たのであるが、なかなかめざす花押は出てこなかった。ところが『花押かがみ』には藤原施周と藤原範季とは、隣り合わせに載っているのである。そのことに気がついたのは大分時間が経過してからのことであった。この時の苦い経験などが、別稿の「花(3)押かがみ文書名索引」を作成するきっかけとなったのである。藤原範季は、後鳥羽天皇の後宮に入った修明門院藤原重子の父親でもある。修明門院は順徳天皇の母である。『愚管抄」巻第五にはヨノ範季〈後鳥羽院ヲヤンナイタテマッリマイラセテ、践柞ノ時モヒトヘーーサ がこの花押を藤原範周に比定しているのも、以上のことなどによるものと見られる。
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以上のことより、元久一一年(一二○五)四月付の淡路国司庁宣の袖に承られる花押は淡路国知行国主藤原範季のしの、奥にゑられる花押は淡路国守藤原範周のものであることが確認できた。藤原範季はそのすぐ後の五月一○日に莞じているので、やがて国守も交替となったものと見られる。 『民経記』安貞元年(一二二七)五月一○日条によると、この日、修明門院は安楽心院御八誌を惨しているのが、これは「贈左大臣範季公料鰯也」という。
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○
タシマイラセシ人也、サテ加階〈二位マデンタリシカドモ、当分ノ母后ノチ入ナリ、サテ贈位モタマワレリ……」と記されてい
(2)早稲田大学資料影印叢書『古文書集』|より複写転載。(3)現在は「『花押かがぷこ』文書名索引」(『法政大学部紀要』’一一四)の翠を発表。 (証(1)『兵庫県史」史料編古代一~三には、詳細な「国司年表」が付されているが、これは元暦元年(二八四)までであり、鎌倉期の国司在職を知ることはできない。また最近、宮崎康充編『国司補任』が刊行されたが、現在平安時代の途中までしかできていないので、
元久二年四月の淡路国司庁宣に見られる花押について(中野) 参考にはならない。
西
〔付記〕本稿は、一九八八年度法政大学特別研究助成金および一九八九・九○年度文部省科学研究費補助金に韮づく成果の一部である。