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竹内直良先生追悼

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Academic year: 2021

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出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 41

ページ 72‑82

発行年 1989‑03‑24

URL http://hdl.handle.net/10114/10346

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本会顧問法政大学名誉教授、竹内直良先生は、昭和六十四年一月七日午前五時四十分、急性心不全のため、東京都目黒区鷹番三’二一一一’二○の自宅で逝去されました。享年八十四歳。告別式は、九日午後二時から自宅で行われました。墓地は青葉園(大宮市三橋五丁目青葉通り)です。心から哀悼の意を表します。先生の略年譜・論文目録は『法政史学』第二十七号に掲載されています。

竹内直良先生を偲んで

芥川龍男

昭和年代とともに先生の生涯は幕を閉じた。そのご最期がいかにも寿命を全うされるがごとく安らかなものであったことをうかがい感慨深いものがある。今にして思えば、先生は「東洋的西洋史学者一であった。このような表現は私の勝手な造語であるが、四十年間先生に接しての結論めいたものである。お宅における先生の姿からは、西洋史学者というイメージはわいてこない。地味で質素な和服を召され、黒縁で円形のロイド眼 法政史学第四十一号

竹内直良先生追悼

鏡も生涯変わらないものであった。折々お宅にお邪魔すると、いつもこのようなお姿で接してくださった。もとの書斎を改造されて四畳半の来客用の和室と、庭(五、六坪)を造られ、門柱を建て直されたときは、ここはこうした、庭はこの角度からが一番良いのでこうした、掛け軸の「漁父の生涯竿一管」の語を愛され、高名な仏師によって造られた阿弥陀像を安置されていた。このように改築されたのは先生五十代の半ばであったと思われる。卒業論文についてご相談にあがったとき、私は西洋史をやりたいつもりでうかがったのであるが先生のお言葉は、こうしろ、ああしろというのでなく淡々とご自分の感想を述べられるものであった。「わしは西洋史の道に入ったが、所詮日本人に西洋のことは理解できん。隔靴掻痒の感を覚えたこときしりである…:.」と述べられ、さらに「西洋と日本の接点の問題を取りあげたら面白いな」と、瀬戸の大きな火鉢を挟承、先生は火箸で灰を寄せながら話された。今でもそのときの火鉢のぬくもりが思い出されてならない。今日の学生と教授の間に、このような触れ合いがあるであろうか。思い出すにつれて自分が当時の先生の年を越え、同じ立場にあることを思い恥じ入るばかりである。

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もう一一一十年ほ肝前であろうか。歌舞伎の招待券が二枚手に入り先生と観劇に行ったことがある。そのときの演目も忘れてしまったが、休憩時間のロビーで「君あそこで見合らしいものがあるよ」と攝かれた。さらに「あの女性の曲げが島田で、なかなか良い悴をつけているな」、「今日は「歌行燈』の世界に帰ったようだ」などと、思わぬ先生の一面を見せてくださった。武骨な父などからは聞いたこともなかったことなので驚いていると、「わしは本郷の真砂小学校に通っていた。だから『歌行燈』の世界は身近にあったな-」などと語られた。また折々には、金沢の長町の武家屋敷町や長岡中学校さらに金沢の四高時代の思い出を目をやや細める感じで独白のように話されることもしばしばであった。淡々と話されるのであるが、不思議な魅力のあるお話ぶりで、時々擬音のような口振りを入れて話され、先生の回想のなかの主人公になったような境地になってしまうのである。今にして思えばこのような先生との対話のうちに文化の継承を受けてきたように思えてならない。大学での先生についての思い出はどなたかが書かれるであろう。私は人間竹内先生の一面を述べ、私の晩年が少しでも先生の境地に近づきたいと念願するものである。先生のご冥福をお祈りして筆をおくものである。(法政大学第二教養部教授)

竹内直良先生追悼 竹内直良先生の思い出

村上直竹内直良先生が法政大学を定年退任されたのは、昭和五十年三月三十一日であった。その年の二月八日には日本出版クラブ会館において、最終講義ともいうべき記念講演『ローマのカタコームについて』が七十名に及ぶ出席者を前に幻燈を使いユーモアをまじえながら行われた。このとき、講演終了後に開かれた懇親会で、先生を讃える挨拶をなさった、岩生成一・森克己・豊田武の三先生中、すでに鬼籍に入られてしまわれ、史学科の関係者にとっては年毎に寂しさを増しているこの頃である。竹内先生は退任後↓、史学会などには時折りご出席になり、また、お元気で駒沢大学の講師としてご出講になっておられたが、しだいに足の方が弱くなられたということで、大学や外ではお会する機会が少なくなった。しかし、最近では昭和六十二年十一月に法政大学史学科・地理学科、創立五十周年記念の祝賀会のために作成された『法政大学史学科・地理学科の半世紀』をお送りしたところ、大変、喜ばれ、また、「法政史学』四十号の史学科創立四十周年記念号をお届けに伺ったときには、大学のことなどをお話しすることができた。その後も、お電話などでは、まだまだお元気であったし、昭和六十四年元旦には年賀状をいただいたばかりであった。しかし、それから一週間後の一月七日、悲しい計報に接することになったのである。

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今、告別式もすゑ静かに生前の先生のお姿を偲ぶと、懐かしい思い出が次々にうかんでくるのである。私は法政大学文学部で、先生の講義をうかがったのは、昭和一一十三年から二十六年の三年間であったが、確か一年次は西洋史概説、二年次はキリスト教史であったと記憶している。教壇の先生は大学ノートを開かれ、朗汽と時折り微笑を浮かべながら講義をされたが、論旨はきわめて明快で学生にとってノートは非常にとりよかった。私は大学を卒業して二十年後に、はからずも他の大学を経て法政大学の教員になり、再び親しく先生に接することになったが、騨礫たる先生は、少しもお変りなく、長い歳月の経過が感じられなかった。それほど、先生はお元気であったのである。昭和四十六年十月、私は文学部の助手問題で学内が大揺れに揺れているとき専任教員となったが、この年の史学科は岩生成一先生が定年退任、丸山忠綱先生が亡くなられた後で、竹内・河原両先生のもとで、日本史担当は安岡先生と私の二人だけであり、まさに苦難の時期であった。史学会の総会もしばしば紛糾し混乱もあったが、竹内先生を中心にまとまって、種々の問題を解決してきた。キャン。ハスにはプレハブ校舎が並び研究室も今と比べるときわめて貧弱であった。しかし、私はこの当時のことを思い出すと何故か一番懐かしく感じるのである。総長団交の連続、大学はまさに阿鼻叫喚の体をなしていたと述懐した某教授もいたくらいで、現在とは隔世の感があった。しかし、その反面で、史学科はよくまとまっていると、他学科の教授からはうらやましがられた

こともあった。 法政史学第四十一号

竹内先生のもとで、私が史学科教員としてご一緒に研究室で生活したのは僅か四年間であったが、今も、先生とは十数年もご一緒であったような気がしてならない。法政大学史学科の其一礎は竹内先生によってつくられたのであるs法政史学』四十号参照)。このことを私たちは何時までも銘記しておきたいと思う。それと同時に、史学科が苦況のときから、現在のような充実した体制に向うことができたのは、やはり先生のお力が大きかったと思うのである。竹内先生は、紛争のざなかでも毅然たる態度をもって堂生を指導され、常に物事に動じない古武士のような風格があった。先生に接していると、まさに明治生れの人という実感があった。そうしたことからか、当時のある雑誌に法政大学の名物教授の一人に取り上げられたこともあった。教授会では先生は多弁ではなかったが、その存在には長老としての重永があり、先生のご発言には多くの教授が一目置く場合が多くあった。しかし、普段の先生はいつも微笑をたやさない穏やかなお人柄であり、史学科の集りや史学会の史跡見学の際の団藥のひと時は本当に楽しかった。特に私は、大学の帰り東横線での方向がご一緒であったため、その日のことについて車中で、河原先生やのちには豊田先生も交えてのお話は楽しい思い出の一つである。竹内先生は、法政大学を定年退任されてから十年以上にもなるが、やはり三十余年間にわたって教授として在任された法政大学のことを忘れられることばなかったようである。何時であったか、突然、大学に奥様とご一緒にお見えになり、懐かしそうに市 七四

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ヶ谷のキャン。ヘスを歩いて帰られたことがあった。私は偶然、教務の事務室でお会いして、しばらくお話をしたが、それが大学において先生とお会いした最後になってしまった。先生は何時まで地法政大学を愛し、忘れられることがなかったのである。その後↓、お宅にお訪ねしたとき小史学科の充実を喜ばれ、将来の発展を願っておられた。奥様のお話では、先生は亡くなられる前日までお元気であったとのことである。そして、元号「昭和」の最後の日、俄かに不帰の客となられたのである。悲しゑの中にも、先生らしいご最期であったということができる。ここに追慕の念を深めながら、改めて先生のご冥福をお祈りするしだいである。(法政大学文学部教授)

偲びごと

笹目善一郎

それは終戦の翌年、昭和二十一年もおし詰まった十二月二十九日のことであった。これより先、二十六日に単独で初めて先生のお宅を訪れた。仲間を連れて又お邪魔しますと申し上げ、この日が実現した。高等師範部の四人と参上した。奥様もお子様もまだ疎開中で、先生お一人の日女であったようだ。我々にとってはこの年十月十六日の教室における先生の電撃的洗礼をうけたばかりでs法政大学史学科・地理学科の半世紀』に記した)、それをさらに深くお聴きしようというのである。先生は次のように言われ

竹内直良先生追悼 た。「今は教壇から日本への自覚を求めるのは不可能だ。何かの機会に相集い相語るという時に、我々のささやかな祖国への愛情は次代の若者に植えつけられるであろう。恩へぱそれは悲願の極地であり、その苦しさに耐えることも亦、我々の努力の一つである」と。壇の上から説くだけでなく、師を囲承相語らう所に教育の心髄を見たお考えであった。先生と自分の御交諏はこうして始まった。爾来御急逝なさった今日まで、常にお話の中心は日本はこれでいいのか、我が国を如何に正しくするかであった。先生の教壇五十年は終始ここに貫ぬくものがあったのである。しかし本来、先生は学究の徒であられた。その御講義は定評あるものとして、先生に接した限りの人々に大きな感銘を残している。先生が西洋史に志を立てられたのは、旧制第四高等学校の涌井鍵|郎先生の御講義の結果だと伺った。いつか身振り手振りを交えて浦井先生の教室の御様子を示して下さった。テキストは詳細を極めた「浦井年表」と呼ばれた一冊で、先生は亡くなられる直前まで珍重しておられた。また御専門となった中世キリスト教史御選択のきっかけは随分とロマンチックなものであった。四高時代病を得て金沢の聖霊病院(現存・カトリック系)に入院された折、看護に当ってくれたシスターの言動と信仰の姿に胸を打たれ、それがしとで中世の修道院に関心をもち、終生の研究課題とされたのであった。初期西方修道院に関する御論文がいくつもおありになるが、いつの頃からかその通史をまとめられていた。大学ノート約二百頁に細字でびっしりと書かれている。題して「西

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祥中世修道院史」。先生手書きの詳細な地図や収集された写真まで貼付されている。生前何人かの有志が、是非とも出版をとお願いしたが、先生は「そんな北の活字にして恥を残させる気か」とおつしやり、今日まで陽の目を見ていない。明治人のある種の気概とでも申し上げるべきか。類書の乏しい分野だけに筐底に納められたままでは勿体ない話である。忘れてならない御著作に通教テキスト『西洋史概説」がある。当然市販されてはいないが通教開設以来四十年、幾千の通教生が手にしたものだ。本文四一一○頁で戦後史まで網羅してある。構成極めて明快、記述も詳細を極めているが、ちょっと古風な文章の妙こそ何ともいえない風格をもち、時に朗々音読の魅力に駆られる部分すらある。一般の人々の手に渡らないのが残念である。西洋史家としての先生が欧州へ行かれたのは昭和三十八年一一一月。法政大学からの外地留学で、キリスト教史に欠かせないイタリアを中心に、一時はローマの修道院に寄宿して調査研究され、米国を回って十一月帰国された。先生は筆マメでいらっしゃったから何通ものお便りが留守宅に届き、必ず一首二首短歌が記されてあった。御留学の成果は早速御講義に生かされ、特に昭和五十年二月退官記念講演での「カタコームについて」に凝集されたのである。次の外遊は昭和五十七年金婚式を迎えられた時、奥様御同伴の欧州旅行であった。この度はゆっくりとしたツァーを組糸、曽遊の地も回られ奥様に史跡解説をなさったそうである。今でもその旅のお話をされる時、奥様のお顔は心なしか高潮されるから格別 法政史学第四十一号

或る日の竹内先生

安岡昭男学園紛争時の法政大学明年館八六五教室Ⅲ時限目、竹内直良教授の講義終了直前、最初一、一一名の妨害学生が入室、教授の制止に一瞬たじろいだが、続いて集団で乱入し、五一一三教室での集会に出席を要請した。これに応じて先生は一一一時五分前ごろか吟、個人的見解と断わって学生たちの質問に応じ、その中で次のようなやりとりがあった。 の思い出となっておられるのであろう。御退職後の先生は四、五年前から日本年号を憶えるのだとおつしやり、独創的な一覧表を作られて挑戦しておられた。国史の勉強における年号の大切さを再三拝聴した。そして常に歴史教育に思いを至され、灰間する現状を嘆かれておられた。もっと教壇に立たれ、あの名講義を多くの学生に聴かせる折を望まれていたのではなかろうか。最晩年はお-人のお孫さんのお話に相好を崩されることが多かった。今やその先生亡し。この四十余年いつも個人的な事で御面倒ばかりおかげしていた自分としては、屯早、時に叱って下きり時に寛大に励まして下さる先生を失った。これからは何処に頼れというのであろうか。生前の御恩恵に深く感謝申し上げると共に、先生の御冥福を心からお祈り申し上げる次第である。(駒場東邦高等堂校教諭) 七六

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問「バリケード撤去は教授会の決議か、紛争処理対策委員会で決めたのか」答「知らない、総長に尋ねよ」問「ストをどう思うか」答「ストは悪いと思う」問「いかなる事由でしか」答「そうである、大学の告示は正しい」問「中教審答申、大学立法をどう思うか」答「全部読んでいないので答えられない」問「立法巾にストライキ反対の条文があるが」答「確かに書いてあるなら立法に賛成である」約束の午後六時が過ぎたので、先生は退場を宣し、瞬間静まった会場から去り、地理学科の渡辺一夫教授は残って、なお応答は続いた。’九六九(昭和四十四)年五月二十六日のことで、二十年も前の川来噺になろうとしているが、この応酬ぶりからも先生の凛乎とした気慨の一端がうかがえよう。礼節を重んずる先生は、講師の委嘱にも必ず当方から出向くものとされた。史学会の仕事では、謝礼に「寸志」は失礼で「御礼」にせよと教えられた。史学会春秋の史蹟見学にも必ず学生たちと行を共にされた。西洋史を講じながら西洋かぶれを嫌い、俗流を排し酒脱で人間味豊かな先生であったが、人物を見る眼識は鋭かった。慎重で細心な先生は、通信教育部西洋史卒業論文(林五平)の『法政史学』第十二号掲載には、米国史の清水博先生に校閲を請

竹内直良先生追悼 われ、『法政史学』英文目次を作成されると知己の外国人に目を通してもらうなど常に万全を期された。史学科の創業と育成に情熱を注がれた先生は、退職されてからも常に大学の事が念頭にあられたのである。先生の遺志を継いで後進が史学科の充実発展に努めるのを霜どうか見守って頂きたい。(法政大学文学部教授)

竹内直良先生

倉持俊―

竹内先生がなくなられた。先生が昭和五十年三月に退任されてから、多忙にまぎれて怠慢な私は、先生の目黒のお宅にうかがったことは一度もなかった。従って、たとえば河原正博先生の退任.ハーティーとか、岩生成一先生を囲む会といった史学科の新Ⅲの教員が出席する会で、お目にかかったことがあるだけである。お宅にお邪魔して、先生からもっともっとお話しをうかがっておけばよかったと、今になって悔やまれる。心より御冥福をお祈り申し上げたい。竹内先生は、昭和三年三月に東京大学の西洋史学科を卒業された。二十六年三月卒の私にとっては一一十三年もの大先潅である。あまりにも離れていることもあり、不勉強な私は、実はこの大先輩のお名前を存じ上げていなかった。私が法政大学に職をえた経緯は、「法政史学』四十号に中村英

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勝先輩が書かれているとおりでlただし中村先生はこの文で、私を大変過大評価なさっていて恥ずかしいがl竹内先生から御依頼をうけた中村先生が、廃学まじかの東京教育大にいた私を推薦して下さったのである。私は学生時代から中村先輩にいろいろとお世話になっており、当時はよく中村先生の御勤務なさるお茶の水女子大で非常勤講師をさせていただいていた。この小文を草するため、古い日記類をひっくりかえして承ると、中村先生の御推薦で、はじめて竹内先生にお目にかかったのは、昭和四十九年六月二十一一一日のことである。私が先生の目黒のお宅へおうかがいし、豊田武先生本来られていて、お二人から、法政での勤務の内容、法政の実状などを、お聞きしたのである。その場所は、玄関を入ってすぐ右の部屋で、先だって先生の御葬儀(通夜)の夜、われわれ史学科の教員がお酒をいただいた部屋である。二人の大先生をまえにして、私は固くなってお話しを聞いていたのであるが、豊田先生は御友人であるお茶の水女子大の尾鍋輝彦教授に私のことを聞かれていたらしく、「尾鍋さんが、倉持君は良い人で・・・…」といわれたのを覚えている。私はそのときか民.、法政にお世話になるつもりでいたのだが、教育大の方の事情もあって、就任は、竹内先生の退任から一年後の昭和五十一年四月ということにしていただいた。そのことについて、竹内、豊田両先生の御承諾をえたのは十月十四日のことであった。両先生にお目にかかるのは、たしかこれが二度目で、場所は法政の五十八年館二階の教職員食堂であった。そこで河原正博教授、留学から帰国したばかりという安岡昭男教授に紹介され 法政史学第四十一号

たように記憶している。竹内先生のお人柄についての印象はといえば、戦後に旧制高校・大学で学んだ我女とは隔絶した、「古武士」の風格をもつ方で、しか小厳しさのなかに優しさを秘めた晒脱な方というようなものであった。あとで「法政史学』二十七号(竹内先生の退任記念号)に清水博先生が書かれている文章を読糸、全く同印象だと思った次第である。私が先生にお会いして、古武士の印象ということで、すぐ思い浮べたのが、東京教育大の杉勇教授である。先生は東大の西洋史で竹内先生の一年先輩にあたる方で「端然たる大酒家」であったことを別にすると、竹内先生とよく似た方であったように思う。あとになって杉先生に、竹内先生の後任として法政に勤めることになりましたと報告すると、嘗て留学中の竹内先生と、ロンドンのブリティシュ。ミューズィァムの図書室で遇然に出会われた話しをされ、「変な所で会わなくて、よかったな/」と二人で笑いあったと話されたのを、よく覚えている。一一一度目に竹内先生にお会いしたのは、昭和五十年二月八日、夕方から日本出版クラブ会館で開かれた退任記念懇親会のときである。懇親会のまえに先生の講演会があったのであるが、それには、当日教育大の卒論発表会で抜けられず、欠席した。この懇親会で、先生が締めくくりの御挨拶のなかで、次のような趣旨を述べられたのが、いまでもはっきり頭にのこっている。自分にとって、今までの生涯で最も嬉しかったのは、第四高等学校に入学できたときと〃今日〃である。四高に入れたときの喜び 七八

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竹内先生の思い出

矢口五郎

亡くなられた竹内先生のことで、私がまず想い起こすのは、昭和二十八年頃の先生の講義のことです。「西洋史概説」や「キリスト教史」の講義を受けたのですが、その形態に独特の雰囲気がありました。当時としてはあたりまえのことかとも思いますが、温顔の先生が諄諄と口述される内容を、学生が筆記するのです。教室の中は張りつめた空気の中、ただ先生の声と.ヘンを走らせる音がするの承、今、中高の現場で生徒の私語(大学でも学生の私語が多いと聞きますが)になやんでいる現状から思うと、正に昔日の感があります。卒業論文の審査の時に4、忘れ難い思い出があります。かねて先輩から、卒論面接審査の際に過去に卒倒した人も出たなどの話 は躍り上がるようなものであって、今日の喜びは、もっと落ち着いた深いものである。旧制高校に合格したときの天にものぼるような気持ち、これは私にもわかる。そのお人柄と堂恩を慕って参集した多くの同僚、後輩、教え子に閉まれ、借Lまれ祝禰されながら第一線を退く静かで充実した喜び、それは法政での三十余年、研究と教育にすべてを作げた先生にして、はじめて経験しうるものなのであったろう。

(法政大学文学部教授)

竹内直良先生追悼 を聞かされ、不勉強の私は戦戦恐恐でした。西洋史の論文なので、多少の準備はしておりましたが、何と竹内先生から日本史の質問が出たのです。たしか「六国史」のことを聞かれたと思いますが、私は冷汗をかき、満足な答えが出来ませんでした。竹内先生や丸山先生が適当なところで鉾をおさめてくださったので卒倒はせずに済ゑました。あの時の先生の微苦笑が、いまだに忘れられません。卒業後、同じ法政内に職を得て、組合の委員をつとめていた時、確か昭和三十七年頃でしょう。最初の学園紛争の時でしたが、市ヶ谷のお濠端で、お帰りになる先生にお会いしたことがあります。挨拶の際たずねられ、「大学に会議に参ります」と言うと「それはご苦労さま」と言われたのです。考えて見れば、日夜激しい動きをする学生諸君に対して、私などより先生の方がどれだけご苦労をされていたことか、ただ恐縮してしまった次第です。自己には厳しく、他にはやさしくという思いやりを持った先生のお人柄を改めて感じ、いつまでも先生は先生であり、弟子は弟子だなと思ったものです。不肖の弟子はその後何回かお会いする時はあって↓、あの左肩を上げた優しい先生が、いつまでもそのままの姿でお元気であるとしか思っておりませんでした。「夜学というのはね。銭湯に行くようなものだ。来るまではいやだなと思っていて咄、帰る時にはああ良かつたなと思うようになる」と仰しやったことがあります。学問を続けることの大切さと、そして二部学生への励ましを与えてくださった先生の暖かいお気持を、忘れずにかふしめて行きたい、と思っております。

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先生のご計報をきき、弔問に伺った時、奥様が「お風呂が好きで、入っている時は仏様のような顔で喜んでいました」と話されていました。退職後も、常に講義のこと、学生・卒業生のことを考え続けておられた先生、どうか安らかにお休糸ください。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。(法政大学第一高等学校教諭)

竹内先生を偲んで

工藤長昭

一月九日(日)の朝、オーストラリアから帰国する途中の日本航空機の中で私は先生の計報に接した。その日、午前九時五十分プリスペン発の同機内では、私を含む乗客の多くが天皇崩御に関する八日付の新聞記事を夢中で読んでいたのであるが、突然先生のお名前が私の眼中に飛び込んできたときの衝撃は、今でもとても言葉に表わすことができない。私が初めて先生にお目にかかったのは、昭和四十五年に法政大学に入学し、史学研究室に出入りするようになってからだった。当時の史学研究室は第’五八年館の三階にあり、先生のお部屋はふだん院生や学部学生が出入りすることを許された史学研究室とは別に、廊下を隔てて向かい側の中庭に面した所にあった。中は先生のご専門のキリスト教史関係を主とし、他に海外交渉史関係などの洋書・史料類がピッシリと壁面を埋めており、そのせいかお部屋が少々狭く感じられた。先生のお机は中庭側の窓に面して 法政史学第四十一号

配置され、ご講義の合い間などに先生はよくそれを利用なさっていた。私は隣の史学研究室に居て、先生がドアをお開けになる鍵音を聞いては、何かにつげて飛び出して行ったものである。ここは卒論指導のほかに各種行事用の。〈ンフレヅトの印刷など、先生の面影とともに思い出の尽きない場所である。先生の面影はすらりとした長身、まるい黒縁メガネ、懐中時計およびステッキ、ときどきハットといういでたちであられた。その物腰はあくまでも柔和かつ謙虚であられ、深い人間愛に満ちていらっしゃった。すなわち、すべての道理を悟られた寛大にして偉大なる人格者としての風格が、学者としての威厳をより一層際立たせ、それゆえ多くの学生およびOBが先生のまわりに集まり、先生は尊敬され、生涯の師と仰がれておられたのである。先生はヨーロッ。〈中世キリスト教史の草分け的な存在であられ、類書の重要箇所にはしばしばそのご論文が紹介・引用されているのを見掛けるのである、単に中世ならずともヨーロッ。(の歴史を研究する際にはキリスト教の理解が絶対に不可欠であり、先生はこの分野において各方面に大きな貢献をなさったものと確信する。先生はへプライ語、ギリシア語およびラテン語の聖書はもちろんのこと、ほかに各国語に翻訳された聖書を何冊もお持ちだった。とかく宗教史については一般に非科学的な学問と誤解されがちであるが、その点先生のご研究・万法は、よくいわれる「理性に基づく学問と信仰に基づく宗教とは調和しない」ことを当然ながら十分認識されたうえでの科学的な分析を基本とされたものであ 八○

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り、文字どおり厳密な「学問」そのものであったことはいうまでもない。このように先生の学問に対する態度は非常に厳しく、一点一画。|字一句厳密かつ詳細を貴あめ、些事もおろそかにできない完全主義者であられた。それゆえ先生のご講義の内容は定評があり、学生のあいだに人気があったため、常に教室が受講生でいっぱいであり、席を確保するのに苦労するほどであった。因に、あえて私が在学中(昭和四十五年度~昭和四十八年度)に先生から教わったすべての科目ならびに教室を明示させていただくとつぎのようになる。二年次如「西洋史概説」(月曜日第三限および木曜日第五限、於八五六教室)三年次、「キリスト教史-」(火曜日第一一一限、於八五八教室)「西洋史演習l」(木曜日第四限、於八六八A教室)四年次・・「キリスト教史Ⅱ」(火曜日第三限、於八五八教室)「西洋史演習Ⅱ」(火曜日第四限、於八六六教室)先生のこれらのご講義の内容は、大学ノートにして八冊余りにもなる。私は例年これらのノートやご論文を読永かえしては高校における教科指導に役立てさせていただいているのであるが、その都度先生の学識の高さに驚嘆させられ、ますます畏敬の念を強くさせられるのである。思えば先生のお宅は東横線の「がくげいだいがくまえ」でおり、西口商店街を通って駅から約三○○メートル行った所にあった。昭和四十六年六月二十日(日)午後三時に私は初めて先生のご自宅におじやまさせていただいたが、先生は和服姿でいらっし

竹内直良先生追悼 竹内先生を偲んで

浜徹夫

去る一月七日、竹内直良先生が逝去された知らせを芥川先生よりうかがった時、ある種の感慨が湧いた。そしてお通夜の為にお宅に参り、あの懐かしい先生のお顔にお目にかかると、いろいろな思い出が私の頭の中をかけめぐった。その後、村上先生より竹内先生の思い出を書くように依頼をうけたので、取りとめはないが書き留めてふたいと思う。まず先生と最初にお目にかかったのは、西洋史概説の授業であった。当時大学は大学紛争の残り火が煉り続け、白や黒のへルメ やり、玄関を入った奥の書斎で彪大な書籍に囲まれてお過ごしになっていた。その際私は手ぶらでは失礼と思い、手土産を持参したのであるが、先生は「(就職してない)学生の身分で土産を持って来る必要はない」とおつしやり、またある時、応接間に通された学生の私にこんなこともおっしゃった。「お客さんだから奥(上座)に行きなさい」と。先生は一事が万事すべからくこのように折り目正しく慈愛に満ちたお方だった。今私は、先生から公私にわたってお世話いただいた学生時代のことをポツリポツリと思いかえしては、生涯で「先生」とお呼びできる方を失ってゆくことの悲哀をかゑしめている。先生、どうぞ安らかにおねむりください。(神奈川県立港南台高等学校教諭)

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ツトが我があの顔にキャン.〈スを胴歩していた。ある日、九メガネ・風呂敷包承という例のスタイルで授業にこられた先生に、自治会の学生が「授業を三十分貰いたい」という旨の話に先生も了解されたが、ちょうど三十分たつと、「はい、それまで」と叫び、それでぐずぐず言う学生を一喝して教室から追い出し、その後は例の朗々とした口調で授業を進めていかれた。その講義に対する実直な姿は入学したばかりの私にとっては、先生に対する強烈な第一印象として残った。その内に史学会の役員になった私は、総会・例会や史蹟見学会という行事の計画やパンフレット作りの為に史学研究室に入り浸るようにたり、いろいろな先生と接する機会に恵まれた。その中でも、いつも一一「一二「一と笑顔を絶やさず挨拶をして下さる先生が研究室に入ってこられ、広辞苑を調べ始めた。興味をもった私が「何をお調べですか」と伺うと「年を取ると忘れっぽくて」と仰しやり乍ら不確かな事項を丹念に調べられ、メモをとって出ていかれた。ここでも些細なことでも疎かにしない先生の学問に対する姿勢を見せていただいた。そして又、史学会では毎年二度(春と秋)近隣の史蹟を見学する行事を行っているが、我々幹事は、従来の日帰りの旅行を一泊二日にして甲州まで足をのばしたことがある。先生方は全員参加頂いたが、竹内先生もあいにくの風邪をおして甲州に駆け付けて下さり、翌日、見学前に東京に一戻られた。この先生の誠実さには我を幹事一同は深く頭が下がる思いがした。私は大学では近代史を履修した為、先生の講義は「西洋史概 法政史学第四十一号

説」と「キリスト教史」の糸しか受講しなかったが、その概説の授業で、我々数名が何かの用事で二十分程遅れていくと、「おい、君達が来る二十分の問にローマは滅んでしまったぞ」と大声で仰しやった為、教室中で大爆笑が起ったことがあった。このように先生は、自分に対して実直であり、学問に対して謙虚であり、他人に対して義理固く、ウィットに富んだ方であることを卒業以来十五年して始めて意識した次第である。卒業して先生とは年賀状だけのお付き合いしかしなかった自分が、又、このような先生からもっといろいろなことが吸収できなかった自分が恥ずかしくてならない。私はたまたま、十数年ぶりに高校二年の世界史を担当して、先生の講義ノートを利用させて頂いており、先生の遺影によって改めて蘇った先生の思い出は私の心に刻永込まれることであろうし、又そのように努力したいと思っている。多難な時期にいろいろな分野において教えを受けた法政に誇りを持っている私は、時に触れて生徒たちにも学生時代の話をする機会がある。まだ私の生徒たちは実力の上で、法政に多数入学させることは難しいが、竹内先生の教育理念を肝に銘U、これからも努力し、私の後輩となる生徒を多く入学させ、皆で法政の校歌を高らかに歌い、先生にお間かせしたいと思っている。今まで若いとだけ思って「怠怜」をむさぼって居た自分に新たな鉄槌を打ち込んで下さった先生に改めて感謝するとともに、先生のご冥福をお祈りしたいと思う。(京北高等学杙教諭)

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竹内直良先生遺影

参照

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