立 教 組 千 生 文 化 運 動 小 史
諸
井
忠 序
との小稿は︑立教大曲申経梼畢舎十年史を執筆するに嘗って︑皐合史を規定づけるところの︑立教聞学生文佑運動の歴史的考察
を必要としたととによるものである︒
皐生文北運動の密接た構成部分の一つとし℃︑その泊長とともに歴史的歩みを時け来たった経済拳舎を︑この一般的な聯嗣
( 10 )
かち切り離して論じるとと段︑ぞれ自身︑孤立した同市副首都的偏見であり︑争舎の本質的意誌を理解し得ざるものと一一二口ばねばな
らわからである︒
この小稿は︑別項の控憐間半曾十年具︑と謝照の上で韻まれんこム﹂乞希望する︒
更に︑私位︑時期の離に於℃︑挙合創立の昭和四年に止め歩︑立教に枇曾的文化が芽生へ:た大豆十一年にまで遡ワた︒過去 礎
ワて
︑
のあらゆる段階に於ける文北運動の科準的検討とそは︑明日の立歌文化の躍進の震の基礎たり偽ると信やるが故にである︒
との意闘よりして︑鼠半生文化運動の最も根幹的な活動に︑中心的た封拍がを置いた︒
各皐謹部閤酬阻む活動︑特に立教醤術運動史については︑資料の不足と紙教の制限の局︑こL
に全く摘れることを得なかっ
た︒その賄︑金剛腕的た立敬文化運動の考祭の翁には誠に不定分なものと一一百はたければならたいが︑それにういては︑との機曾
に趨嘗友人によって聞訳される乙とを希望して止まない︒
私のとの貧しい回顧も︑立敦愚生文化運動自民とし℃は最初のものであり︑その意味に於℃︑多少の意義を認むるものである
がそれにも拘ら歩︑資料としては立敬大串新聞を利用し得たに過ぎ十︑加ふるに筆者の浅間学非才は︑との小稿の範園に於て
さへ︑呆して誤りたく停へ得たか疑ひたきを特友い︒
先輩諸賢の御叱正を得ば幸である︒
本稿執筆に営って︑武藤武雄氏の御好意により︑秘蔵される﹁ムサシノ﹂及﹁立教大間半新聞﹂を閲覧するを得た︒とL
に記
して謝意を表する︒
x
×
x
立敬文化運動史にういて筆を起するに蛍って︑現在︑円学内文北運動が︑島十護部活動の狭い意味で理解されてゐるばかりでた
︿.
恐ら
くは
︑
その狭い範聞に於てさへ停滞があるととについて
二一
口私
見を
詰べ
ると
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許し
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きた
い︒
こLで取り扱はれてゐる年代︑特に昭和四年|八年代の準内文化運動の歴史を回顧されて︑或は︑その根底に
c 11 )
間半
生諸
君が
︑
皐生自治運動を持ってゐたところの積極的性質を不可解と思はれ︑筆者が飴りに債い範固に筆を仲ばし℃ゐるととを理解して
貰らへたいのではないかと危慎せしめるほ芝に︑それ程︑皐刊の雰圏訴は︑昭和四年l八年代とかけ離れてゐるやうに思ふ︒
今︑それについての歴史的考察は趨首な場所でたく︑曲学内文化運動がどうあるべきかにワいても.私は潜越な結論を避ける︒
しかし︑私は︑拳内文化運動を︑凡子語部活動の扶脳た枠内に閉ぢとめる見餅が︑皐間におする興味の犬はれがちな世慣れた
昼試の中で︑員の事究的精榊が孤立した何事に眠り易い現貫む事態を反映してゐると同時に更に︑皐生の文化的活動は︑朗学
業の徐眠を以って口比れりとする支配的た方針に照臆するものであるととを強調したい︒かくては︑畢寛皐内文化運動はひから
びた仇花となり︑皐生の玩具に過ぎぬであらう︒
私は立激文化運動む現献を批判するためにこのことを言ふのではたい︒
昭和四年i八年代の立歌文化運動が︑皐校の現買や︑支配的方針に鋭い批判の限を失ってゐなかヲたととを一=口ひたかったの
であ
る︒
昔時に於て︑立歌文化法動は︑ムへ成十本来の文化的意義を支へた挺子であった︑
若しくは︑母子であらうとしたととについ て︑叉︑皐生相側白め集圏的生話に深い根擦を持ワてゐだことについて︑間学生出対の記憶を呼ぴ起じたいのである
o
営時の撃内文化運動は︑若しも犬皐本来の存在意識が教室で安住の地を得たいとしたら︑息ナ生文化運動の山中に擦り刊ところを 持つべきであり︑それ故にとそ皐生文化運動ば皐生自前運動と悶い結合を持つべきであると佐一日ふ高い立場に立った︒
準内文化運動は︑贋い間野を持ち︑動かし難い深さを得た︒
例へば︑暴生の皐悶の衷失と同時に︑皐生の反吐舎的同町︵荷風ナや肉瞳的反脆弱さ等々︶を知ってゐた治一歩的皐生謹は︑運 動部問題に含まれてゐる県生スポーツに封する正しい犬衆的要求を汲み取ることが出来た︒しかも︑準友舎に於けあ墜器部の 優位と一言ふ玉しい根を持った主張を︑学生大衆から孤立させることなしに取りあげることを知ってゐたのである︒不五分であ るとは一一日へ︑皐生スポーツを皐内文化運動の一翼に包含させる方向がとられた︒
叉︑聞学究的友智識の過剰が︑開学生の将来の職場に於て喜ばれてゐたい世相に於ては︑問中間の枇曾的つ伝がりは失はれ︑山学生 が息子聞に謝する愛若を持ったとしても︑それは︑偏った︑不具友︑好事家的た態度を以て皐聞に近づく外に道がたいかに見へ た時に︑串内文化運動は︑集問的な敬室外の組織によって︑串間に劃する近づき方を示した︒
との時期に於て︑語の股密な意味で︑インテリヂンチヤの尖端としての墜生の新しいグイプが生れたのである︒
( 12〕 現在︑立教文化運動は.俸統乞見失ぴ︑後退じたばかりでなく︑血苧持一一部活動の優位についての主張をさへ抑棄したかに見へ
私 る ︒
は︑
このことに就℃老人ビみた悲観を繰り返すととを止めて︑かつて︑ドクトル・ペルツポ帝大の教授や聞学生達を前に詩
みた一場の講演を想起しよう︒
とL
で ︑
ドクトル・ペルツは︑
ヨーロッパ上り白白に提供せられてゐる精神的資本によって
E利を博する機舎が葱まれてゐ
る開
学生
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︒ 大準が全文北的華宵積の正営た利子を
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子生に支掛ってゐるや否やは別とじて︑町学生が埼前一的資本の利札切りであるととによっ て︑パンむ保設を受けることの山内来たくなった時代に︑血中生文化活動は新しい山内衰を試み自らを高めたのである︒
同じ集曾に於てベルツは︑日本人が︑御傭ぴの外人教師迂を皐問の切寅商人と日見倣して︑彼等がもたらした新しい牧穫の松 一五の科接的精神を製ばうとはしたいと古った︒
辛らつな批判を合んだこの巧みな比鳴が︑↓一一十年後の今日︑なほ我々関学徒の胸を打ち自省せしめたいではおかないところの 乙の闘の文化的地盤が存在する限り︑曲学生文化運動は深い世曾的意義と生命を犬ふととはないであらう︒
島 一
d生文北運動が護生した時代や︑存在の地盤についてのこの簡単な考察こそは︑現在皐内に於て︑立教文ル刊運動の俸統は見
失はれてゐるとは言へ︑なほその存在は主張し得るものであると言ふ保信を私に興へたのである︒
(一)
( 13 ) 簡翠に立教文化運動の前史をスケッチしてから本論に入るであらう
o
立教文佑運動は︑
一般的墜生文化運動がロシア飢怖救酵運動を契機とする県生聯合曾の結成等によって.新しき運動への樽 換の第一歩を踏み出した時期||大正十一年後半期に︑その耐芽を見出すととが出来る︒
立教大島ナ新聞の前身である﹁ムサシノ﹂の創刊はハ大正ト一年十月十五日︶立設に文化を告げた暁鐘であった︒
一般諸運動の大衆的な琵展に影響されて︑金臨としての皐生居へ弐第に枇合的傾向が浸潤しヲ
Lあった時︑立教に於てもそ
の頃より﹁ムサシノ﹂を中心とし℃労働問題政治経掛問題が論議され始め︑畢生の間に弐第に粧曾的関心が呼び起され℃行っ たのであるが︑︵詰一︶との傾向は︑それが如何に素朴︑且非買践的であったとは言へ︑円本に於ける良平生文化運動の母胎であ うたデモクラシー諸運動の惇統をさへ持たや︑一切の﹁枇合的﹂なものから隔離されてゐた平和た皐園︵註二︶に於ては︑現び
も放く﹁文化﹂の察明であった︒而して︑翠明期にふさはしく︑同県園に於ける若いぜネレ
1シヨシである諌梓の皐生を多分に包
合しながらこの傾向は鷲展して行った︒
設一﹁私の友人は此冬期休液中深川の場末に行ワて労働者連と混ぢワて汗ミド口に成ヲて仕事し食事を線ぺて一絡にLて来た様だが無論友
人にも何等の組向もな︿遊び字分に宇ワた事ではなからうと忌ふ︒又一友人は同じ︿此各期中東京の莱郵便局に行ヲて働いて来た︑脅
しかワたかと等ねたら﹁柴ぢゃない︑使ふのは祭だが儲けるのは苦Lい﹂とい︿ちかわかヲた綾な口授りだワた︑弱者何れにしても努
働なるものL概念に抑制しては他の坊ツチャン式の厚生上りは確に一日の長と成P待た︒成る程前相等は等生の身であるから事業を放棄し
て迄も附労働者の群に立ち入ワて労働問題をば研究すると号一同ふ事は勿論出来ぬ︑僅に夏期︑冬期の短い月日を利用して研究する迄の事
だ︑
以上
の晶
体
hu色身な駄から観察して見れば未だ前者一一人なEは装だ失躍ながら努働一枇舎の極︿一端を味りて来たに過ぎぬ︑然しなが
ら長商目な考へを以ワて研究するには例へ二三日で有ふうが何等かの妨害も干渉屯要らぬだらう﹂︵﹁ムサシノ﹂大豆十二年一月サ六日
後行第四銃所載﹁問中生と明日働﹂よりU
註ニ﹁先づ立教の畢生は他の大墜の厚生に比べてロ院に紳士的であると言ふ事を断言ナる︑夫から準生が比較的活安で他の大準の厚生が如何
なる事をなさうξも驚かず︑ねたまず平然と夫俸のサアークルの外に立ヲて見てゐる事である︑余が夫を評ナるなら了度塵界を離れた
谷間にスツクP主立
m Jゐる白百合の様である・::::それから飲貼と言ふ可き鮎は・::;生き
fk
した一万策が飲けて居ゃしないかと言ふ
事である・::::﹂ハ前掲﹁ムサシノ﹂第四放論説欄﹁希望の春を迎へて﹂止りU
c 14 ) この様な枇舎問題研究の傾向は︑︐究第にその目的及方法等に於℃統一せられて︑途に大五十二年三月︑
よって問題を科率的に探求することを目的とする﹁経費回学研究舎﹂む護舎となワて現はれた
oとわ研究曾は立教に於ける﹁皐
究的﹂園鶴とし℃は最初のものであり︑且っその研究の内容や合員の枇合併究に劃する熱情等に於℃立秋文北史の中で劃期的
一定
の研
究コ
1
スに
た意義bL
持つものであ一る︒それは衣第に曾口氏を増加し一年後には約四拾名主擁して︑官時の都下大暴周宇生の研究曾の中でも優
秀た風瞳む一となうたのである︒
大正十三年夏︑皐究的精榊に燃へる立歌暴徒の中には︑労働者の祉人間的教育の渇にフヱピアン協合同主催の労働講習曾等へ講
師として参加するものもあった︒
然しながら︑大正十二年の早大軍事研究国事件︑大事擁護運動或は震災後の普選問題等による皐生の政治的関心の増大に閥
聯して︑更に軍事敷山間賞施の前蝿れとしての文部省の﹁早生野策一口︑周学校山口同局によって忠買に謹守され︑ベ砿舎研究にはその
甚大なる閥心が注がれて︑種々配慮の結果︑この経普皐研究舎は十三年十月頃には漸く衰退し始めた︒
軍事政練問題は︑犬正十二一年暮から大豆十四年始めにかけてのものと︑占ヘ五十四年十月小樽高商事件を中心とし℃再度思生
文化運動の封象となったのであるが︑同問題に劃する一般皐生の﹁態度﹂は我が問中園の中にも現はれ︑最初の時は良平内に盛大
な演説曾を開催し︑また開学生中には一月サ四日の﹁牛ケ淵﹂除列の一人とたるものもあったものL如くで︑更に後の場A口
に於
ては︑早大帝大と共に﹁共同宣言﹂︵立教大間半新聞第廿問調︶を護表して︑その態度を主張するところがあった︒
然しながら︑大正十四年九月より本墜に於て責施せられた軍事教練は支障なく取り行ばれた︒
この様な校勢のうちに︑大正十同年春頃より立救文化運動の中に開中国自治運動が︑即ち附常生生活の改善︑その向上瑳展のた
c 15 )
めの運動が現はれ始めた︒
ぞれは一つの韓機であった︒
事外への遣は鎖され︑一般向学生生活の基礎に立った合理化運動が特につきはじめたのである︒
立教に於ける常時のグラスl一般間半生を土蓮とした自治運動は︑先づ平凡友︑しかし同運動の震には基礎的た﹁クラス曾﹂
玄作ると言ふことであった凸
との頃皐内に於て始めて泉友曾問題が論議の艶象とたったのであるが︑しかしそれは自治運動との聯闘を未だ持ち得友かっ
た。
とのふ友合問題を﹁クラス曾﹂の児地に立って考察するならば︑それが皐内文化問題とUては最も大きた課題の一であると
と︑更に同問題に謝する最初の提唱︵註一︶が間半友舎の本質的た賠に鯛れた正しいものであったにも拘ら歩︑ぞれが卒業間際の
.一紫舎に於て論議されたことを除けば︑金障としては︑グラス内の日常む問題として取り上げられたものではたく︑従ってみ一
般的畢生の要望の上に立って登場したものではなかったのである︒それは諜算分間をめぐヲての﹁蓮動部﹂と﹁皐事部﹂の封
立の土牽む上に浮ぴ出たもわで︑問題の華々しい舞蓋も準友曾謀算委員舎の範園に限られ︑しかもそむ中で論戦されたもの伝
提唱された﹁解散﹂論でなくて分配の﹁比率﹂であった︒こLでは皐友合問題は︑一般的には開学生の外に立つ℃ゐたのであっ
て︑準事部圏瞳によって局された﹁提唱Lは︑出単たる提唱として経ったのみでたく︑その苦闘の如何に拘らや︑寧ろ︑間学友舎
への﹁割込﹂の掲のみの示威運動の観をさへ呈じたのであった︒
骨同時︑阻午友曾品川の拳護部間引に土ワて事友曾の僻散論が提唱きれた︒
解散の理由を契約すれば次の如きものである︒
一︑事友舎は大開早生活の傍ら徳育智育機育を錬燐し立教文化を謝外的に賞揚する鋳に組織されたもので︑とれが居刷会事生は会副に比
を見ない高額な十六闘五十銭の皐友舎費を納入してゐる︒
てしかるにとれが利用は祭文曾所属各部のみに限られ︑これら古き部は聯盟を作ワて新県の部舎の入舎を拒止してゐる様な扶怒
で︑まして如何なる郊にも加入してゐない大字の筆生にとづては何等の利益となヲてゐない︒
つ問題を拳友曾内に限ワても︑そとでは濠算分配は運動部一一︑準装部一の不均衡で︑しかも乙の分配をめ﹁ワて厳しい釣立が演じ
ら れ る
︒
一︑各部の舎計調査が行はれぬ銭め︑一般血中広の負携した謬友舎費が合理的に使用されない場合がある︒等
而して︑車友舎制度に代るペ曹ものとして主張されたととるのものは
一︑大犠内にるる一一切の院中ム官︑舎︑部停の院中生悶盤を凡て自治組織とし曾員の舎費を以て組持しで行︿こと︒
一︑従来のチャンピオン制の繰ひのあづた率友倉健育部に謝Lて︑運動の会準生化を依件として年額六闘の陸育費を一般事生︑が承認
ナる乙と︒
一︑従来の事友曾文察部に属する曾員及び之に準ずる問中曾研究舎に封しては大事の名誉の箆に行ふ事業に限り若干の補助金を犠校よ
P支出することoハ大正十四年一一一月五日渡行立大新聞第十三競﹀
骨同局に於ても皐友舎の弊害を痛感してゐたものの如︿︑その頃︑杉浦単文
A W長は又解散論を議ベてゐるo
﹁従来の事友曾の幣害は誰よりも私がよ︿知ワてゐる積りだ︑限られた一定の繋算を中央に各部が互に死力をワ︿して奪
n v合ふ有
晶体は誠に大事生正してあきましい︒去年は最早僻散させる以外に方法がないと息づたが︑とにか︿従前泊Pの事になワたが今年ζ
註
( 16 )
註
そはEうあワても解散させる外にない﹂︵立大新岡第十三猿﹀
その限Pに於て三謝一.五封一︑或は一一・五謝了五と小さ︿区切った分配論まで現はれた︒
これに比較して︑周年広卒業生の結束ぶりに刺戟せられ℃︑この頃より本科の皐生聞に盛に起った﹁クラス曾﹂結成の試運
は︑未だ﹁合理北﹂のための契機として立ち現はれることは・少かったとは一員三皐生生括の核心に燭れ皐生文化運動の土墓石
であ
つも
ん︒
我Kは嘗時の自治運動が︑未だ運動と言ふよりは寧ろ自治的た﹁気分﹂の躍がりつLあワた時期であることを知るのである
が︑しかし︑既にその中に於ても︑間早たる﹁懇親融和﹂以上に出でようとする意闘が氏めゐ℃ゐるのを認めることが出来る︒
蛍時皐校AY同局も拳生の自治的意識は﹁大由学費展﹂の局に是非とも必要であることを理解してわたものL如くで︑クラス曾結
成は
山口
同局
によ
って
積極
的な
賛意
を表
せら
れた
︒
杉浦察長談﹁立敬がそう言ふ傾向を取る事は大凪午後展の峰崎に殺めて喜ぶべき傾向である︒今後は其のク一フスの代表者と共に大撃の諸事を
相談するととにしよう﹂
岩佐車生監談﹁クラスで立汲な紡来を一不すのは大事会憎が一つになヲて働︿事の可能を示す事で何より喜ばしい︒此のグ一アス舎の委員で
血中生委員舎を諮りて大療の事生に闘する事件は事生自身が髭理ナる事にナれば私的仕事が無︿なって好んだが:・:﹂
ハ以上︑立教大皐新回大正十四年七月十五日後行第十九競V
この様に︑皐生よりも一歩先に﹁同学生委員会﹂の意義まで認識してゐた首局の態度に刺戟せられるところがあったものか︑
も聞学生自身の手によって大皐生活を改善しなければならないと−一己ふ傾向も究第に稜展し︑その一つの例とじて弐の様たことが起
( 17〕
った
七月の珠商二年の歴史の試験に於て二一十分以上も試験官が逼刻したことから︑閉山γ生は一刊誌して試験の延期を求めたと乙ろ︑ ︒
賞局も皐生の意を諒として試験は九月迄延期されるとととたったのであるが︑更にとの問題を機舎に結成されたクラス八回﹁新
生クラブ﹂は︑﹁九月施行せらるL試験より絶謝に試験監の配置を交けや高一不正者のある時はクラス内に於て相蛍の制裁を
ことを議決して省局に申出たところ︑これをもま免許可されるととろとなった︒
問題は日常の小さいものではあったが︑自治運動の木質的な方向を示すものであった︒ す
る﹂
︵第
十九
鵠︶
嘗時との問題に封して山市佐明学生監は弐の椋に語ってゐる
﹁皐生も随分興本簡はしたのだが其の態度が他に見られない紳士的な髭があるのは嬉しい︒本工︿感心した・;﹂︵第十九銃︶
"
しかしながら︑強科の試験には飴程何か不合理たものがあったものか︑翌十五年七月・再び珠商二年に試験の延期か撒寝か
に関聯して問題が起るや︑債か一年の間に問問題に劃する嘗品一の態度は一費したのである︒
杉浦準長談﹁源科二年の試験騒ぎは今年で丁度四年目だ︒察ナるに犬墜ヘ入ワて滞一年もたつと大需生意気になワて患部のように一年一
聞だけの試験と一吉ふζ
とにして見た︿なるものらしい︒しかしそうは行︿ものぢ宇ない︒今度はまあい誌かげんに済んだが此の次か
らは絡到に特赦しないで放校庭分にする積りだ﹂ハ大厄十五年七月廿五日受行第一一一十九披︶
この時には︑準友舎委員は︑電報官話で各部員の受験を勧誘し︑積権的に問題の解決の震奔走するところがあった︒
これら必ず校古局の費り易い虚置の緩慢は︑大正十四年頃の白治運動の根底に於ける非封立性を一不す一つの両である︒
昔時の血字国に於ける自治的傾向に劃して一つの影響となったものは︑大正十五年春新拳期より︑立教中皐に於て自治精神の
踊養を目的として試みられんとした﹁皐校市政﹂の計歪であった︒とれば各クラスを翠位に直合議員を選出し︑その最高貼者
( 18〕
三名を市曾議員としてこれらの開学生代表と間学校嘗局たる直長主事市長との協議によって摂生生活に関する立法をたし︑各議
員の協費を経℃これを行ふ三一一日ふ案であるが︑との計書が殻表せられるや︑大撃に於ても﹁的学生評議舎﹂の組織に謝して教授
皐生聞に要望が高められたが.しかし何等兵懐的た運動としては現はれなかった︒
教授舎の櫨限の揖張について皐生の希望がのべられたのもこの頃である︒
自治運動が︑犬皐生活の改善を目的とするものである限り︑営然それは︑犬墜の本質的責義たる﹁皐問的﹂友問題に鯛れな
ければたら友いものであるが︑立教に於℃は︑先づ圃書館の充賓護展の誌の運動となって現はれ元一︒
昔時本皐同書館が如何たる吠態にあったかを司書演岡敬一氏の言に聞かふ︒
﹁圏書館を開始したの波大疋八年と記憶してゐるcその骨同時は本と得ずべきものは一般もなかりたものが現在に於ては約二宮内加になった
のであるから可成りの波浪を示したものと畳一日ふことが出来る︒
此の内約八割は英舎であるみら此の方商のものは可成備はづた積りであるが何毛言ふにも一般皐生の奨語力な以てして英警を白出に誠破
すると言ふことは至難放勢之が利用に遺憾なきを引げない︒自ド最も需要のあるものは矢張り利害の経済商業法律及交感に隙ずるものであ
る︒間半生に封して此の方商に充分の泌足を奥へ得る様最善の努力をしで局る精一りであるが現有の財政扶態にては念に之を貸現するととは
困難である事は常に遺憾に唯へない︒若し之が貸滋出来てすべての研究が感校の嗣書館だげで十二分に出来る様になったら挙生一般の問
書館に到する考へが全然一一援するに逢ひかいそしてこそ始めて問書館存在の理由がある事主恩ふ︒︵大E十三年十一月サ四日後行第七務
所載演岡敬一﹁図書館の将来﹂より︶
この扶態に加へて設備の不完全︵カードの不徹底︑雑誌の無方針の蒐集︶や貸出方針の狭隆二時限りの一館外貸出︶等の潟︑
閉学生のこれを利用することも比較的少たかったものと見へ︑設備改善についての皐生の希望が述べられるや︑これに答へて潰
田氏は
c 19 )
﹁・:;新館に移一押せば設吋の粕は出来得る限り徳島叫に遮する様にする積りなれば幸準生諸君に於ても充分之れを利用的強せられ・・9
・:
﹁立
役運動競技品目祭事校﹂の世評を全滅せられん事k:・・﹂︵大正十四年二月五日設行店前十一一銃所載司書演田敬一﹁国書館に曇す﹂に熔ふ︑
土p
u
希望するところがあった︒
今とLで設備が先か利用が先かに就て詮索する必要もないが一糟同書舘の利用は︑その内容との相封的た闘聯に於て考察さ
れねばならない問題であ一って︑その本質的な翻賠からするたらば︑未だ﹁設備﹂以上の﹁闘書ー一の充買は解決されてゐなかっ
この貧弱な﹁聞書﹂の解決に営つては︑嘗局に劃してそれが要望せられるよりも︑市平ろ︑先づ感生に期たのである︒両して︑
待するところが多く︑しかもこの期待された皐生の積極的友行動によって︑その一歩が踏み出されたのである︒
前掲の﹁園書館の将来﹂に於て潰同氏は次の如く皐生に要請するところがあったが︑
﹁最後に来春卒業せらる
aA
諸君に御願び致し皮雪一事がある︒:i
従来卒業記念正して樹木を植え父は立派なる柱時計を残きる
hを一伎
の例として来たけれども之と同等済︿は逢に有意義な記念方法は同書寄贈にありと思ふ︑一人兆五闘寄贈さる
Lとしても可成総まったも
のを買入れる事が出来る︑若し此事にして災現するならば
HK
1の故大必要一本たる和舎の経済訟律商会決文開唱に闘するもののみを購入し皮
き考へである;:﹂門前掲滋同﹁国書館¢将来﹂より
U
との要請忙射して︑大正十四年度卒業生は︑線長より﹁最近大問山内で起︵コた長大のや宍単﹂と訟酔を主ぜられた﹁一法/首文山し
の設置を以って臆へた︒この文庫は一名十図以上締額千国の服金を以って設置が計宣されたものてあるが︑委員は誼同氏と同
道︑早︑慶︑法︑商品世干の各大泉間比日館をけん品十ぜるところ︑洋室口殊にキリスト教文警は他大撃の追従を許さたいが︑邦蓄は本山J
固量一日館が一番貧弱であることに感嘆したのであった︒
とφ一紫食文庫に刺戟せられて︑全開学生から制苦肱入安として毎月五十銭を納入せしめようとの長附ないとも現はれたが︑大
正十五年度卒業生も︑前年広に倣って多数制蓄を育臆した︒
この様た脳書館に謝するふ生の熱監に−引かされるとこるがあワてか︑山学校合同も︑
この
頃︑
をの解伏への局に積版的に
TK
P
( 20づ
出したのであるがしかしその僻決む方向は︑闘書館告として年間中期一国のm学生負捨額を定めることであった︒︵大豆十瓦年
八月
犬同学の泉究的生活護展の詩の︑かくの如き粗大の骨一六奉の一うとして︑更に弐の校友エピソードがあった︒ ︶
木県出身
mu
俊才として︑与生かム絶大た信組と矧待の下にドイツ留与に祇遣された大野信一一一氏が︑一九寒
m Lベルリンに於亡︑
︑ ︑
月僅か五十回の開田准安乞以℃病弱と鞍ひながらししとじて研究を結叫りられてゐるを聞くや︑県生は立って激助金募集運動ξ起
し︑岡敬授を知らぬ誠科の附学生からも之に肱募するもの非常に多く︑総頼回百飴固を集めたのであヲた︒しかしこの校た同救
授に劃する堅生の熱﹂栢も報ひられチ︑犬正十四牛突如常rんより師削引を命ぜられ︑種々な一事情によって同氏を母校の政一濯に
""、
しめなかったのは誠に遺憾たことであヲた︒
我々は大正十四五年頃の自治運動を考察する時.その中に意識的積極的契機が弐第に護展しつLあるのを見るのであるが︑
それにも拘ら歩借金瞳的には︑例へば皐究的問題等に於てよく示されてゐる如く︑未だ塾生の﹁猫自﹂た立場を以てそれは現
はれるとと友く︑嘗局に劃する或る期待と同情の下に立って︑協調的た﹁足らざるを補はんとする﹂ところの傾向が主流とた
ってゐるととを見るのである︒
との傾向は︑一般的自治運動の段階と関聯して考察されたければたらたいが︑本皐に於て︑更にこの傾向に影響したところ
のものは︑文部省補助金に謝する﹁不遇﹂た地位であった︒
一均
L 大串令による私立大皐中現に政府よ毎年一定の補助金を受け居るもの早稲田慶醸外教校あるに不拘立致︑同志紅︑慈恵瞥科大事CP
外七校の私立大事は未だ其の特典に浴せず而も其現肢は何れも内容充貨の促進上資金を袈ずる極めて念なるものあp︑依ワてさきに補助
金受領の特典を有する他の私立大塵同様大正十四年度より補助金下附の請願陳情を政府賞局者に向ワて各大事聯合してこれを強要せり:・
・:如何せん大部の新規事業に拠到する緊縮減の際たれば大蔵省に於て査定の結果削除せられしもの
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等私
事官
事者
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一宮も早︿其の内容を整斉し大事と1ての機能を遺憾な︿畿揮し国家文致に貢献せんとするに賞p:::願は︿ば文部省よP復活要求濠算
の一に加へられんととを希望して止まぎるものなり﹂ハ大正十一一一年十一月サ四日後行立教大事新聞第七銃所載曾計課長矢津賢一氏﹁文部
省首局に曇ナ﹂
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( 21 )
きた
問題
を含
んで
ゐる
ので
ある
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山口
同時
の立
敬に
於て
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︑︑
︑
宅︑
出品
Tろ肯定的た形で反映されたのであった︒ この補助金の問題は︑私立大撃の皐生にとっては特殊友意義を有するもので︑日本に於ける教育制度の根幹にまで燭れる大
それ等の命題は形成されや︑皐校蛍局に劃する同情的た傾向とし
補助金の問題が︑準園の文化的﹁依陥﹂に劃する肯定的た契機から引き離されたのは︑昭和二年のパ=ツクをその根底に持
ったととるの一般的意識的自治運動が︑立敬に於ても護展するに至った時期に於てである︒
(二)
昭和二年l八年代は︑開学校が過剰人口の貯水池と成ヲた時代である︒
内務省批合局の統計によれば︑大五十二年に七九%であった大準高等専門拳校の就職率が︑昭和三年には五四%︑四年には
五
o v m
と激しい低下を示した︒とのことは昭和二年の金融恐慌乞契機とする産業合理北の進行が︑準生暦に興へた激しい衝動
を想起するに足るものである︒大五十二年の震災恐慌以来.思十生速を脅じてゐた就職率低下の傾向は決定的たものとなった︒
戦後日本資本主義の熱病的な稜畏に臆ビて︑特に大正八年l十二年に急速度に境張せられた高等設育機聞から︑年々大量的
その父兄達である都市農村に於ける小プルジヨに生産される均一的友商品.戦前夢にだに息び及ば占なかった落犬た皐生鳳胞が︑
ア階級諸共激じく傷めつけられ︑その存在の意義をさへ否定ぜられるに五ったのである︒
昭和三子四・五年と引きつどき労働者運動に濁する営局の激しい追求が行はれる度に︑多数の同学生が連座し︑間学校騒動が日常
( 22 )
の出来事とたった︒
乙の闘がいち早く巻き込ま礼た慢性的世界経漕恐慌を前にし℃︑奮卒債による金解禁が行はれ︑再び呼び迎へられた険悪友
歌勢
が︑
満洲
一挙
費
H五・一五事件を劃期とする非常時の中に解消しはじめ一る起︑事生問題は思想問題の一部であった︒
昭和八年以後軍吉イシプレ
I
ヨンの無配の中で︑門学生連は瀧川事件と.所謂﹁韓向聾明﹂を︑かつての持前である懐疑やV
小心を籍めた冷静さを以て見送りたがら︑再び﹁教室﹂へ鵠り︑ほどよい勉皐を始めた︒時にはヂヤ1
ナリ
ズム
によ
って
︑間
学
生遠の世曾的純一閥心や智能の低下が問題とせられることもあったが︑最早皐生問題は本来の吐舎的意義
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失ったかに見へる︒
然し︑皐生達が焦燥し熱狂することを止めたとしても.昭和二l八年代が障るところたく曝き立℃た皐生建に身近な一切の
問題が跡かたもたく滑へ去りはじたかったのである︒それは奥深く憎められ内江した︒
要約すれば︑昭和二|八年代は皐生建に凡そ四つの問題を提出し︑その解決をうたがしたのである︒
大皐の国有な意味での文化史的意義の問題︒
これが第一︒それは日本資本主義の運命と深い連がりを持っており︑特殊的に は鞍後資本主義心機構に於ける精神労働の筋肉労働化の傾向を含めた債汎た問題である︒
第こに︑大暴行政が同家の教育行政の一部とたってゐることがら生起する政治的側面を持った一切の問題︑
一言
にし
て言
へ
ば同
学生
自治
の問
題で
ある
︒ 共に︑似令へその教育の根幹に於ては文部省の統制む下にあっても︑私用品ナ蛍局が向学校の一維持については銀行命回世と同様た配 慮を必要とする潟︑そこから生じてくる私皐特有の大撃の﹁企業化﹂の問題が曲学生建の劇心を呼び起した︒それは授業料︑皐 友舎費︑或は畢生泊費組合運動等に一不された同学生の経捷的た︑負捨の問題である口 大正九年の大開学令が︑イデオロギツシユな意味で私墜を官準化したにも拘ら歩︑前文部省補助金に示されたが如き官皐私皐 の差別待遇︑従うて大資本と小資本の商品にも警ふべき卒業後の不均等々の堅生の日常利害の問題もとの中にあうた
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これ
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換−
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﹁性格﹂と﹁要求﹂を輿へたことは疑ひのたいととであるが︑かふした皐生暦が枇舎的にどのやうな意義を持うかと一吉ふとと 第四は︑皐生が撃校で形誼くってゐる一円J
の﹁
生活
﹂︑
( 23 )
第三である︒
であ
る︒
以上の問題は︑大戦後の時期に徐々に形成せられて行き︑同学校が同学生に生括の一保詮を興へたくなうた瞬間から県生の前にク ローズアップされた︒
或る人は無関心に︑若しくは嫌悪を以ってその前を通り過ぎたとしても︑
とれ等の問題が毘近にある乙とを否定する現時には
行かなかった︒
これらの一般的問題にどのやうに結びつき︑如何に解決したかと一員ふことは︑山口同然我々にとって意義深い 謀題ではあるが︑今日その趨嘗な場所でたいことと︑紙数の制限の局に以下露に客観的た叙越に止める︒
立歌文化運動が︑
我が皐園に於ても︑世舎的一般的傾向の影響を受けて︑昭和二・二一年頃工り意識的要素が︐次第にその比重を増大し℃行ったの
であるが︑運動としては文科舎問題︵詰︶等を見たのみで︑会穫としては︑昭和四年に至るまでは︑次の蛮展の震の準備期の範
闇を出で歩︑皐内文化運動は平穏な扶態を輯けたのである︒
註 文科舎問題とは︑昭和吉一年春の皐友曾線舎に於て文萎雑誌﹁塔﹂の底止が決定されるや︑これに鈎抗Lてすへ科の同学生に上ヲて起きれた
皐友曾肱返還訪である︒
しかしながら︑この股港運動は︑一般堅生の立場に立づた﹁血中友合﹂の根本的な解決の怨の︑濁自な方向を以ワて行はれたものではな
︿︑丈科舎への猿算支出の嬰求との閥批判に於て諭ピられたもので︑運動毛
Mk nJ
て不徹底なものに終ワたのであるが︑それにも拘らず︑
過去の皐友命日問題に比較して︑運動の形惑としては︑始めて自治的な契機を取P上げたものであり︑その意味に於て問中友舎に針ずる﹁巌
Lい﹂批列であワたと言ふととが出来る︒
乙の批判は昭和二年六月に第一一回の改正が行はれた事亥曾曾則の待度の改正に直接的な影響を奥へたものであった︒
他の大墜に比較しτ︑立教に於けるこの﹁文化﹂の立ち遅れほ︑昭和悶年︑時の皐長佐浦民共郎氏の衣のす口粟を基礎づけた
ぐ24)
ものであった︒
ゐ
近年稀なる暑気御機嫌如何被矯仕候や伺上候 何時も御配慮を辱ふし居候立教大挙は以御蔭盆々健全の設建を致居候段厚︿御櫨申上飲 準内の空気は誠に良好にて同学生数も千二三百に候ゆへ思想怒化の恐れ殆Hと無之︑開閉引業の方面にも本阜の少数授業主義を徹底的に費施し︑
又人絡陶冶の上には今春より特に専任のチヤプレンを任命して大準教育の理想賓現に努力罷夜候・::云云O︵昭和四年八月十日五後行立
教大事務開第八十波杉浦皐長﹁暑中見舞﹂
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︶
昭和二年以降︑各大準高校等に於ては︑鼠半生息忽の悪化︑と拳校店勤の慢性的傾向に悩されはじめた時に︑我が市屈に於℃
は健全た護建が議はれたのである︒
更に我々は別友田からこの健全友扶態を考察しよう︒
営時の皐生思想悪北の吐合目的背景を得した﹁就職難﹂の問題は︑本皐では如何たる欣態であったか︒
昭和二年のパユツクの年に於℃も︑組織だった就職機闘がたかったにも拘らす︑本準就犠妖況は︑他大撃に比し℃良好な成 績を納める事が出来た︒市︿に品川職難時代に割腹して就職斡旋委員ん闘が生れた昭和一一一年に於ても﹁不景試いづこ︑就職円前国々伏 定︑今年も銀行曾吐に大も℃﹂︵第六一一淵︶の吠態が吹けられた︒昭和同年に於て段︑就問機闘の陣立︑人事課試巴の要望が珂
る︒
我々
は︑
との年も﹁心配御無用た折半士の就職探︑昨年同様一郎る良い成績﹂f第七七琉Jを
喜ぶ
乙と
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来たのごあ
この立救の喜ばしい就職卒の某礎が︑特殊た就職地盤のためと一一一口ふよりも︑﹁思想議化の恐れ殆ど畑地⁝之﹂め原囚
はれたのであるが︑
であった僅山少な千三百の堪生数にあったととを梓日切に認めることが山川来る︒
杉浦皐長が︑この二つのととを結びつけて理解してゐたか否かは知る限りではないが︑ともあれ常時に於ける就職のために
も︑叉思想善導の震にも﹁過剰人口﹂の一居なかった我が皐園乙を調一隅されねばならない︒
しかしこの﹁通営な﹂早生数も︑その後に於ける事態の本賞的傾向を阻止する力乞持ち一なかった︒特殊な僚件にめぐ受れ
c 25〕
てゐた皐闘の中にも︑流石に昭和五年司より枇曾的不況注浸透しはじめたのである︒
との頃工り就批難の問題は︑﹁現費﹂として円抗争園の中でも論ヒ閉められ出した︒
それでも未だ昭和五年の卒業期には︑﹁八方塞がりの就職に﹂とか︑﹁人事訴の手でご一訓は川市ちづけゐ﹂﹁第八五掛︶とか︑
そ
の前誌が懸念されてゐたにも拘ら歩︑命﹁文車部は全く駄目一︵第八七棟︶であった科皮で︑商息ナ部はそんなに不況を嘆かない
で積むことが出来た︒
しかし昭和六年春には︑現にザぞれより以前︑昭和五年六月の職制改革によって︑かね亡より要望せられてゐた準生人事課が
確立されたにも拘らや︑就職難は商車部に於ても例外ではなくなっ℃じまったのである︒
﹁就職鞍刊干︿も峠を越し去就に建ふ卒業生﹂︵第九七掛︶が増大し.就職欺ぬも﹁四割弱にぬいぎつける﹂︵第九八現︶とか︑
﹁六十三名の新事士土十ふじて職にありうく﹂︵第九九鵠︶と今一白うだ有様で︑苦しい就職戦が凶じられねばたらなかった︒この
斌態
は︑
その後の七年八年を通じて卒業生に興へられた宿命であった︒
﹁不幸中の幸か︑ぽっぽう決る決定数一割五分﹂︵第百九披︶或は︑卒業期から宇年後︑共の就職運動が始まった十月現在
で︑﹁本年度就職率六割七分強﹂︵第百十六現︶が報背せられ党︒
昭和八年春に於℃も.との悲蹴的拡態は好轄を一志さす︑卒業前ではあったがy
一一
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決定
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一ー
幸運
先同
三名
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二十一関︶忙過ぎなかヲ芦︒かつては新しい年を迎へる毎に積々と就職が決定した卒業生も
く新品士﹂︵第百九鵠︶とし℃ーその暗謄たる前詑に艶し︑﹁春
li
ぞれがなんだ!﹂︵第百九観︶と悲痛た叫がをあげねばたら この時代に於ては︑
﹁不
安に
戦
たかったのである︒
との﹁就職﹂に反映した一般的経詩的不況は︑昭和五年頃より﹁授業料﹂に劃しても自己む務めを果した︒
﹁::・逼迫した父兄の経済依態は授業料の納付にでき商に表れ︑その納付欣態は驚︿許りに不良ハ?︶で曾計課は頭痛鉢巻の態たら︿であ
る︒従来FU比駄に矢の催促もならず︑全︿凶悠必模拙称︑町内十校時叫動にづきものL授業料一一一割値下訟もまん夏空論どζろか切貨な常商め問題化 せん欣態だ;::今日までに第一一皐期分を納付せる者は阻中部に於ては瓦名に封L一名の割合といふ次第︑今血中期分を納付しある者は上々の
部で︑先製期分未納者は聞学部百十名︑珠科数十名を数へる︑これらは会︿致し方なき事情に基︿もので︑如何に不景気が深刻惨酷である
かを物語る以外の何ものでもない・;;・﹂ハ昭和五年十一月十五日夜行立大新聞第九三銃︶
c 26 )
更に翌六年に於ても納付紙態は少しも好柑押せ十︑
﹁本事は他大経に比して授業料納入はやL良好の様ではあるが︑時節約一一半期の授業料は令院中生の五分の一が未納の欣態であるoそれに
授業料延期版弘一昨年・肢に比較して本年度凶可成りの捨加である;:凶に今度合計認では近日中に授業料納入の統計表を作成して︑参考ま
でに一般事生に愛表ナる向﹂門川町和六年六月サ四日遂行第百一銃﹀
私は昭和七・八年の献態にういては具睦的資料を持たないのであるが︑しかし乙れ等の欣勢からして︑決して香ばしいもの
で−なかったことは推察するに難くたい︒
との就職と授業料に直接的に反映された現象こそは︑我が立教千三百の暴徒にとりて︑世曾的影響P何等例外で有り得たい
とと
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亦す
もの
であ
る︒
就職難は前途を暗くした︒授業料滞納は現在を暗くした︒この生々しい経静的影響の上に立って︑精紳的影響が何故例外で
たければたらないだらうか︒
昭和
四年
は︑
一般的不況の深刻化と︑思偲的動世間の批態の下で︑島ナ生文ル刊運動が︑特に︑曲学生生話の擁護改善︑封建的隅習
の撒躍を目標とする意識的自治運動が︑最も組織的統一的にたった時代である︒
かL
る抗
勢の
巾で
︑
との年立教文化運動に於ても︑その後に引きつYいた五・六・七年にが︑ける劃期的た品訪の第一歩を踏み
出したのである︒
﹁昭和凶年は立訟にとヲて誠に意義深い年であヲた︒お仲間州路蕩文字諮り無事息災のh恭一方の塔で何時もながら長閑な佑阪を楽しみ過ぎるの 感があワた立敬がこの年において貨に活援なる進出を開始したのである
o
勇まし︿開け放たれた窓キは︑ひた押しに流れ寄せる﹁時代の
風﹂を大き︿呼吸した﹂︵昭和四年十二月十五日護行策八四銃︶
これは昭和四年主総るに際しての立教犬県新聞の同顧である︒
c 27)
この﹁時代の風﹂を受けて︑昭和四年︑立敬文化運動に大きく浮び出たものは︑泊費組合運動と経商摩舎の創立でありた︒
立教大挙準生泊費組ム口は︑昭和四年五月創立されてより昭和六年九月の解散に亙るまで二年有半︒短かい存在に過ぎなかっ
たが︑しかしそれは何よりも先づ皐生の経措的利益擁護在同標とした運動であった臨に於て︑立教文化運動史上特異友意義を
記鎌するものである0︵立大暴滑に就ては附録参照︶
J 昭和四年十月︑あらゆる困難を克服し℃創立された経時拳曾は︑皐困に於ける畢究的精神の確立を目的として︑大皐の本質l文化的志義K最も簡れるところの通勤であワた︒尽十曾は種々な欝展段階を閲したが︑随一T
究機
関の
不完
備︑
附学
究心
のは
臥乏
等の
悲観的一材料﹂の中で︑皐究的判村地ナ的精神普及の露にたしたところの功積は高く評債されねばならない︒︵経掛県曾十年央参
照、wノ
昭和四年頃より文皐部む括動も括況を呈しはじめ︑史風干曾輩行の一史苑﹂は︑その﹁日本的貫録﹂が稀議され︑哲障子曾の﹁哲
間半バシフレツト﹂と共に斯界に貢献せるところ犬きい︒
就中︑昭和四年七月︑﹁塔﹂の後を受けて創刊された﹁立較文皐﹂を中心とする葱術運動が埠頭した︒
私は︑商品十部文学部を通じて︑各m
品下
型部
開躍
の活
問︑
特に
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術運
動に
闘し
ては
︑ するを得ないが︑立教に於ける県捜部関韓は︑昭和何年を一つの輯機とし℃︑司令ム瞳的た︑日刊拐へと歩み始めたのである︒
﹂Lに充分な資料と紙教を持た友い魚川詳述
開け放たれた窓々から︑かくの一如く意識的文化の波が浸透しつLあった時に︑直時一的には昭和三年の文科曾問題の批判を受
けて︑準女合曾則の再度の改E
が行
はれ
た︒
昭和四年一月改一正委員が任命され︑
これ等委員は﹁多方同の意見を参考とし℃﹂改区一計五員舎を開くこと前後五同︑途に同月 始め部長曾へ草案提出の運びと成ったのであるが︑同部長舎及その後四月末に開催された市長委員駒令舎何れも同草案を可決 し︑更に五月八・九雨日開かれた皐友合臨時綿舎に於ては︑﹁合長幹事の公選案﹂﹁留計の委員管理案﹂
﹁部
外開
館補
助桔
H二 割
c 28 )
支給
案﹂
﹁撃中央一舎費情下集﹂等の修疋案の提案を日たが否決され︑る一草案﹁殆ど修正なく﹂通過するに至づた︒
との新曾則ば現在に迄至っており鼠平生均一開討の熟知してゐるところであるから︑こLに洋述を避けるが︑新合則は︑各クラ
スを単位とした代議員制度を以て特徴とするもので︑批判ぜらるべき黙としては︑委員舎が代表委員のみでなく更にそれと同
教の部委員によって構成せられてゐる子と︑かLる構成にまる委員合提出の珠算案︑部の新設廃止案に到して︑特別調査委員
の設置による代議員舎の根本的検討の快除等の昧陥を持つてはゐるがそれにも拘らや︑組織の貼に就ては自治組織にふさは
しく︑全感生の基礎に立ったデモクラチックた原則を採用したものであって︑ぞの意味で皐友一合突
Lし
劃期
的な
改一
止で
あ一
った
と
言ふととが出来る︑との改正によって︑犬E十四年頃より費生した皐友合同問題も烈友舎存純の立場に立つ限り︑かなり完備さ
れた舎悶が採用され︑形式上に於ては一嬉解決を見るに至ったの?ある︒
それはあくまでも形式上の解決であづて︑所設︑息十文合問題の根木的解決が︑間噌生白身の手によって︑組午生−月治の重
要なテ
1
7の一っとして取り行はれねば友らたいものである以上︑その話の﹁立憲的﹄基礎がこれによって輿へられたのであ
併し
︑