福沢諭吉の家族論
国内社会の秩序形成と家族道徳との関係
中 江 和 恵
はじめに
ある社会の支配秩序は︑常に家族生活をも支配しているものであり︑その支配秩序に含まれる矛盾︑抑圧的な
構造は︑常にその杜会が婦人に対して如何なる抑圧を強いるかという点に︑集中的にあらわれる︒また婦人への
その抑圧と︑それを含んだ家族道徳は︑その社会に生きるほとんどすべての人間の生活習慣と化するものである︒
それ故に︑変革期において旧い家族道徳を批判することは︑その生活習慣そのものに対決することであり︑それ
によっでその社会の支配秩序をゆさぶることを意味する︒更に︑新しい家族道徳の創造は個々の家庭内の問題解
決としてのみならず︑生活習慣と化した支配秩序を変革し︑新しい社会秩序を創造するものとして重要な意味を
持ち︑同様に新しい社会秩序の創造は︑新しい家族道徳の創造を含んでこそ︑実践的.本質的なものとなるとい 7 ユ えよう︒﹁進歩的精神を比較的正確に測定し得る対象は︑家族道徳に関する見解である﹂といわれるのも︑この
ように家族道徳が社会秩序の根底に位置ついているためであろう︒ 福沢は幕末から明治という変革期を︑維新をはさんで前後共に三十三年間生きた思想家である︒彼は幕末゜明 2
治初期に封建的女性抑圧を批判し︑西欧思想の摂取によって新しい家族論を啓蒙する︒三従七去に代表される封
建的女性抑圧は︑門閥制度の下で家の維持を可能にする最も有効な方法であり︑封建的身分秩序の最末端に位置
つく支配秩序であった︒それ故に︑これに対する批判は封建的身分秩序そのものに対する批判を意味し︑新しい
家族論の提示はこれにかわる新しい社会秩序の形成を模索するものであった︒しかしこの模索は︑明治前半期に
おける国内社会の変動の中で次第に支配秩序の形成へと変化し︑一八八八年に至り︑天皇制イデオロギー下での
家族道徳論として完成する︒これは家族道徳を国内社会の支配秩序の根底に位置づけ︑この両者の依り処を帝室
に求めたものであった︒
小論の課題は︑福沢の家族論を以上述べた意味において︑歴史的かつ構造的に把えることにある︒すなわち家
族論を国内社会の秩序形成との関連において把え︑各々の時期におけるその構造を明らかにし︑かつその構造の
時期的変化の過程を明らかにすることにある︒家族論の歴史的・構造的把握を福沢に即して試ることは︑近代日
本において婦人が家族と国家に対して如何なる位置を占め︑家族道徳が国内社会の支配秩序にとって如何なる意
味を持っていたかを解明する手がかりとなり︑同時に近代日本の支配秩序の形成過程を解明する試みの一つとな
ろう︒
ここで従来の福沢研究の中での家族論・婦人論評価を︑簡単に分類整理して紹介しておこう︒従来の評価は大
きく二つのグループに分けることができる︒
第一に︑封建的家族制度批判及び新しい家族論の提示として高く評価するグループ︒羽仁五郎・家永三郎゜丸
山真男・鹿野政直らである︒羽仁は︑﹁封建主義の女性抑圧を痛烈に批判﹂し.︑一夫一婦家族を主張したものと
して評価し・家永も同様に評価して・・夫婦を単位とする近代的小家族生活を力聾したその主張が︑︑㌣敗
戦後の民法においてようやく実現せられた近代的黍制度をつとに志向した先駆的三一・趣とし三る.丸山は︑
福沢の襲批判の主要内容として儒教の婦人道徳批判と新婦人道徳の創造を位置竜︑鹿野も︑既成の家族道徳
への攻撃近代的家族制度の形成という占⁝で高く評価し・同時に資本義思想として位置づけて峯こ三氏
は共に・明治三±年の民法を福沢の婦人論三契機として評価してい寿︑この民法の性格に三ては小論で
も言及する︒
このグループは︑福沢の思想の全体像の中に︑特に道徳思想の一環として︑家族論.婦人論を位置づけている
点に意義がある︒家族道徳と社会秩序についての彼の発言は︑封建制批判という一貫性のもとに把えられている︒
しかし全体像及び道徳思想評価の方法として︑時期的変化を把えることよりも︑むしろその時代の最も意義ある
特徴的な一面において評価することに力点が置かれている為︑家族論.婦人論も時期的変化を無視した形になっ
ている︒ 第二は︑福沢の全体像を後期福沢に重点をおいて否定的に評価しつつ︑家庭内においてだけは市民的自由︑女
性の対等自立があると評価するグループ︒広田昌希・安川寿之輔らである︒広田は︑福沢の﹁独立自尊﹂には対 等な人間関係論が稀薄であったとしながら︑その中で﹁家族関係だけは一定の市民的家庭像を提示しえた﹂と評
価する︒また安川は︑福沢の思想の全体像を﹁︿一国独立11富国強兵﹀という生涯の﹃大本願﹄の道を一筋につ
きすすん芭と把え・婦人論三家庭内における女性の対等自立を意味するにとどまつ瑞ごいう.これは表現9 2 こそ異なるが広田と同様の評価といえよう︒
このグループは︑福沢の思想の全体像に対しては︑彼の論理に内在化して把える意識的な努力をしているが︑ む 家族論・婦人論が家庭内にとどまったという点でしかその一環として位置ついていない︒その為︑家族道徳と社3
会秩序との内的関連が不明確である︒また家族論の時期的変化には着目していない︒
女性史の分野では以上二種の評価の折衷がほぼ定説となっている︒すなわち封建性批判として肯定的に評価し
三︑婦人論が家庭内にとどまったことを限界とする見方であ垣
この他政治思想を中心に歴史的に追求した遠山茂樹は︑政治論の後退変節の中で婦人論だけは啓蒙家の原理原 ロ 則が後退しなかったと評価している︒この評価も政治論と婦人論の関連が不明なままになされており︑社会秩序
と家族道徳との関連は追求されていない︒また小泉信三は︑婦人論・家族論そのものを論じてはいないが︑
︑孝悌の行いL.私生活の清潔い已いう道徳実践者としての福沢の性格を・儒教に形成されたものとして称賛し
ている︒これも福沢の儒教観︑家風の尊重等を家族論に位置づける時︑留意せねばならぬものを含んでいる︒
従来の福沢研究における家族論評価は大体以上のものであり︑家族論の時期的変化は追求されていない︒また
家族道徳を国内社会の秩序形成の一環として把えた研究においてはその評価は封建性批判という一面にとどまり︑
後期福沢の家族論を国内社会の支配秩序の形成として把握したものはない︒それ故に︑前述の課題を解明するこ
とは︑福沢の家族論を新たな視点から評価する試みとなろう︒
︵1︶家永三郎﹁反近代主義の歴史的省察﹂︵﹃日本近代思想史研究﹄所収︶ 註
︵2︶ 羽仁五郎﹃白石・諭吉﹄︵一九三七年岩波書店︶二五三頁
︵3︶︵4︶ 家永三郎﹁解説﹂︵﹃福沢諭吉﹄一九六三年現代日本思想大系.筑摩書房︶三八頁
︵5︶丸山真男﹁福沢諭吉の儒教批判﹂︵一九四二年﹃東京帝国大学学術大観﹄︶四二〇頁
︵6︶ 鹿野政直﹃日本近代思想の形成﹄︵一九七六年︑辺境社︶一八一頁
︵7︶丸山は二民法親族相続篇の発布を機とし︑旧観念の根本的批判の上に新婦人道徳を築き上げよ・つと志した・︵丸山.前掲論
文四三頁︶と書き︑鹿野は︑・それ︵民法︶がふるい家族道徳をうちやぶ・た・とをよう・びつつ︑あた︑bしい家族道徳を
提示した﹂︵鹿野﹃福沢諭吉﹄ 一八六頁・一九六七年清水書院︶と評価している︒
︵8︶広田昌希﹁福沢諭吉における第三の転回﹂︵﹃思想﹄一九七二年十月号︶二十頁
︵9︶安川寿之輔﹃日本近代教育の思想構造﹄︵一九七〇年︑新評論︶十四頁
︵−o︶同 七七頁
︵11︶井上清﹃新版日本女性史﹄︵一九七六年︑三一書房︶・米田佐代子﹃近代日本女性史﹄︵一九七二年︑新日本出版︶・もろさわ
ようこ﹃おんなの歴史﹄︵一九七〇年︑未来社︶など
︵12︶ 遠山茂樹﹃福沢諭吉﹄︵一九七〇年︑東京大学出版会︶二五三頁
︵13︶ 小泉信三﹃福沢諭吉﹄︵一九六六年︑岩波新書︶二〇〇頁
一、
シ欧思想受容以前の家族観
1幼少年時代の家庭を中心に
福沢が西欧思想の家族論を摂取︑紹介する最初の著作は﹃西洋事情外編﹄であり︑封建的女性抑圧への批判も
これ以後はじまる︒しかし西欧思想の受容にはその受容の基盤となり観点となるそれ以前の意識があるはずであ 1
3り・その意識はその後の彼の家族論にも貫かれるはずである︒その上﹃西洋事情外編﹄の出版は彼が三十二歳の
時で︑既に自己の生家の家庭生活と結婚後の家庭生活とを体験しているから︑これらに対する彼の意識と全く矛 盾対立する家族論は受容されないと考えるのが妥当であろう︒幕末に福沢は西欧思想の受容によって一夫一婦の 3
家族論を唱導し︑これは終生貫かれる︒石河幹明はこれについて︑﹁一夫一婦を根本とせる婦人論は先生の宿論
ユというよりは殆ど先天的の思想﹂であると書いているが︑これも西欧思想受容以前から一貫した意識が︑受容の
基盤として強固に存在することを示唆しているのではないだろうか︒
それでは西欧思想受容以前の彼は︑家族と社会の秩序に対して如何なる意識を持っていたのか︒またそれは何
によって形成されたか︒自伝を通して検討してみよう︒
生家の家庭生活の体験は以下の三点に特徴づけられ︑それによって次のような意識・観点が形成されたと考え
られる︒ 第一に漢学者である父の存在︒福沢は三歳で父を失い︑家族の中での父の存在はその遺風によって維持される
家風として意識されている︒また父は学識のある道徳実践者として母から伝えられ︑福沢はそのような父に対す
る思慕の情を持っている︒品行方正な道徳実践者としての男子像が彼の家族論の重要な要素となる基礎が︑父に
対するこれらの意識によって形成された︒この男子像は︑封建性批判・文明社会の形成においても︑天皇制イデ
オロギー下での家族論においても貫かれる︒
また父が封建制度の轟の中で不平のうちに死んだ︑﹂タから︑福沢は﹁門閥制度は親の敵で御座芭という意
識を持つに至ったという︒これは彼自身による分析である為︑封建制批判という分析視点が父に対する意識から
形成されたということはできない︒しかし少なくともここから︑彼の封建制批判が家を代表して門閥制度を憤っ
ているものであり︑家という単位自体及び家庭内の封建制は自己の生家に関しては問題になっていないといえる・
門閥制度への反発は家庭外から家の序列化によって家を支配する支配機構に対する反発意識である︒
第二に母の進歩性・主体性︒福沢は三歳で父をなくして以来︑母を中心とする家庭で育っている︒その母は自 ︵3︶ 伝の中で︑宗教に対して淡白であり︑偏見や妄信を持たぬ婦人として描かれ︑更に兄の死後家督を相続した彼が︑ ︵4︶ 蘭学修業に再遊することを︑親戚の強い反対の中で承知し励ます母として描かれている︒これは封建的門閥制度
に縛られてお家大事とするのではなく︑封建制度に対して相対的に自立した精神を以て︑息子を保護し見守る態
度といえる︒女性尊重の精神と︑家庭を封建制度から相対的に独立させて家族の愛情を尊重する意識が︑この母
の存在によって培われた︒
︵5︶ 第三に中津の生活における家族的結束の強さ︒自伝に描かれているように︑福沢の兄弟は中津の人々にとけ込め
ず︑母を中心とする家族的結束の強い幼少年時代を送っている︒これは家庭内外の区別意識を形成し︑第一の家
風の重視と相侯って︑福沢の婦人論・男子論を家族という単位抜きには立論できぬものとしている︒同時に門閥
への反発︑封建制度からの自立的態度と相侯って︑その家族を肉親の愛情で結ばれた小家族として構想する基礎
となっている︒
以上の三点から福沢の家族観に次のような意識が形成されたと結論できるだろう︒まず家及び家族の重視と家
庭内外の明確な区別意識︒そして家庭外から家を支配し家族を支配する封建制度への反発意識︒一方家庭内にお
いては︑道徳実践者の父によって維持される家風と肉親の愛情で結ばれた家族を同質のものとして結び付け︑こ
れを肯定する意識︒その中での女性尊重︒
福沢自身の渡米・渡欧の体験は︑家族論・婦人論に特記すべき影響は与えていないと考えられる︒自伝の中に ︵6︶ 33 第一回目の渡米の印象として﹁女尊男卑の風俗に驚く﹂との項目があるのが︑彼自身の印象の唯一の記録である︒
福沢はここで︑妻が杜交を司り夫が接待の周旋奔走をしていることをおかしがっているが︑この夫婦像は彼の家
族論には摂取されない︒
またこの渡米の翌年︑文久元年に︑二十八歳の福沢は十七歳の上流士族の娘と当時普通の結婚をしている︒維
新の混乱期を壮年の時代に送り︑アメリカに公使として渡米︑帰朝後﹁妻妾論﹂を著わし︑自から契約結婚を敢
行した森有礼などとはちがって︑福沢の婦人論・家族論は生家での体験によって形成された意識を素地として形
成されていくのである︒
34
註︵1︶ 石河幹明﹃福沢諭吉﹄︵一九三四年︑岩波書店︶四一七頁
︵2︶ ﹃福翁自伝三一八九九年︶十九頁
︵3︶ 同 二八頁
︵4︶同 五三頁
︵5︶ 同 十七頁
︵6︶ 同 一一四頁
︵福沢の著作の引用は︑﹃福翁自伝﹄﹃学問のす・め﹄﹃文明論之概略﹄﹃福翁百話﹄が︑岩波文庫により︑その他が﹃福沢諭吉
全集﹄による︒︶
二︑封建制批判から文明社会の形成へ
1幕末から明治初期1
幕末から明治初期にかけて︑福沢は西欧思想の家族論を摂取し︑啓蒙する︒この家族論は封建的身分秩序への
批判及び新しい文明社会の形成としての意味を持っている︒それは以下の三点を要とするものである︒
第一に家族の重視︒﹃西洋事情外篇﹄で︑﹁人間の交際は家族を以て本とす︒⁝⁝夫婦親子団彙一家に居るも
のを家族と三已と紹介したのが・彼の西欧的家族論摂取の最初の文章である.封建的家族制度が︑門閥による
家族の支配であることに対して︑家族を基礎として社会が構成されるという百八十度の転換になっている︒門閥
制度への反発と家族を重視する態度が︑西欧思想の家族論をこのように受容する基盤となっているといえよう︒ それと同時に福沢は︑一夫一婦家族を﹁衆夫衆婦﹂の集まりとしての社会に対応させている︒一夫一婦という平
等性を基礎にした新しい家族道徳の創造が︑新しい社会と国家の創造のアナロジーとして重視されているのであ
る︒
ヨ 第二に夫婦の重視︒福沢はウェーランドの﹃モラル・サイヤンス﹄をもとに︑﹁︵人倫の︶大本とは夫婦なり﹂
と論じる︒封建的家族制度が家長を家の代表とし︑家の存続を第一としていたのに対して︑夫婦を家族の中心と
する点での転換であ廷夫婦を社会の壬フルの中心とする思想は︑福沢の場合まず天嘉道徳として主張され︑
彼はこのモラルが二身の私を慎芭男子の形成に三て維持されると考える・夫婦の重視は自己を主体的に律
する男子の形成と︑そのような男子によって形成される文明社会への展望につながっているといえよう︒
35
第三に婦人尊重︒家庭内の婦人の問題としては︑一夫一婦の主張と︑妻の重視という形で表われる︒前者はま
ず勇といひ女といひ等しく天地間の天にして軽重あるべき理な已という同権の払麗から・更に男女同暫36
いう具体的な啓蒙になる︒後者は︑夫の妻に対する蔑視が︑子どもにとって母を軽んずることになり︑教育者と しての母の存在が失われるという批判である︒﹁女大学﹂批判︑妾を持つことの批判は︑主としてこの観点から
なされる︒封建的家族制度における妻・子どもの母の立場の弱さへの批判となっている︒それと同時に︑﹁人間 ロ 交際の道を知らしむる﹂教育者としての父母像の中には︑その父母によって教育される子ども達への期待が表わ
れているといえよう︒
また家庭内の問題としてだけではなく一般論としての婦人尊重も︑この時期には出されている︒﹁一人前の男 ︵11︶ ︵12︶ は男︑一人前の女は女にて︑自由自在﹂﹁男も人なり女も人なり﹂という同権の主張である︒また福沢はミルの
婦人論が︑男は外︑女は内という万古以来の習慣を変えようとするものであると紹介して︑習慣に疑を入れるこ に との重要性を説いている︒これらはここでは家庭における婦人と矛盾するものとして扱われていないのみならず︑
文明社会の人間のあり方を示す基本テーゼとして位置ついている︒
以上三点は福沢が西欧思想の受容を通して示した新しい家族と社会の秩序である︒これらが国内杜会を最も基
礎的なところから形成する家庭像として結晶し︑それに向けての教育への現実的な期待と結合しているのが︑
﹁京都学校の記﹂であろう︒福沢はここで﹁英学女紅場﹂の教育を称賛し︑ここの生徒たちの十年後を予想し
て︑﹁童子は一家の主人と為りて業を営み︑女子は嫁して子を生み︑生産の業︑世間に繁昌し︑子を教うるの道︑
家に行は裡るであろうといい︑このような家庭を築いていく子どもこそが二文明開化の名を実疏︶﹂するもの
であるという︒文明社会の根本からの建設はこのような家庭の創造によってこそ可能であると考えられているの
である︒ しかしこの家庭像は総論的なもので︑家庭内における夫婦の権利︑妻の社会的活動等の各論がない︒それ故
に婦人の自由・権利の問題と家庭像との対決がなく︑また生家の家風の尊重と西欧的な夫婦像との矛盾もあらわ
れていない︒
また﹁英学女紅場﹂の教育内容は︑男子に英語︑女子に英語と裁縫という異ったものであるが︑これは必ずし
も女性を家庭内に限定した為ではないと思われる︒同年福沢は慶応義塾衣服仕立局を作り︑婦人の為に職場を提
供するという意図を明らかにしている︒彼はここで︑人が﹁男女の差別なく生涯他人の厄介にならぬよう心掛べ
き甦であると三て・婦人の経済的皇止の必要性︑その職場の必要性を主張している.
以上のようにこの時期の福沢の家族論は︑封建的身分秩序を根本から変革し︑文明社会の創造をめざすもので
あり︑新しい家族と国家の秩序を形成する指針となるものであった︒それは婦人論の体系的展開には至らなかっ
たが︑婦人を市民社会を形成する人間として位置づけ︑一夫一婦家族を社会秩序を形成する基礎単位とした点で︑
根本的な社会変革への可能性を示すものであった︒しかしこれは以後の国内社会の秩序形成には充分にうけつが
れてゆかない︒その理由の一つは︑婦人論の体系的展開の欠如にあり︑その展開は﹃日本婦人論﹄︵一八八五年︶
の刊行まで待たねばならないが︑一方国内社会の秩序形成は婦人論の視点を欠如させたまま追求されてゆくので
ある︒
註 7 3 ︵1︶ ﹃西洋事情外篇﹄︵一八六七年︶一巻三九〇頁
︵2︶ ﹃西洋事情外篇﹄︵一八六七年︶一巻三九一頁 ︵3︶ ﹁九鬼隆義宛書簡﹂︵一八七〇年︶十七巻九三頁 3
︵4︶ これらの思想は︑他の啓蒙思想家達によっても紹介されている︒﹃泰西勧善訓蒙﹄前篇︵箕作麟祥訳述の修身教科書一八七
一年︶では︑﹁人二男女アリテ互二姻ヲ結ヒ以テ族ヲ為スパ是レ天ヨリ命スル所﹂︵﹃日本教科書大系﹄近代編巻一・一〇七頁︶
として﹁夫婦相互ノ務﹂が最初におかれている︒また森有礼は﹁妻妾論﹂︵一八七四年﹃明六雑誌﹄︶で︑﹁夫婦ノ交ハ人倫ノ
大本ナリ︒其本立テ而シテ道行ハレ︑道行ハレテ国始テ堅立ス﹂︵﹃明治文化全集﹄第五巻九三頁︶と書いている︒
︵5︶ ﹁九鬼隆義宛書簡﹂︵前掲︶九三頁
︵6︶ ﹁中津留別の書﹂︵一八七〇年︶二〇巻五〇頁
︵7︶ ﹁男女同数論﹂︵一八七五年︶十九巻五五二頁
︵8︶教育者としての母の重要性は︑啓蒙思想家達の婦人論の共通な論点である︒例えば箕作秋坪﹁教育談﹂︵一八七四年﹃明六
雑誌﹄︶森有礼﹁妻妾論ノ四﹂︵一八七四年同︶中村正直﹁善良ナル母ヲ造ル説﹂︵一八七五年同︶など︒
︵9︶ ﹁九鬼隆義宛書簡﹂︵前掲︶﹁中津留別の書﹂︵前掲︶
︵10︶ ﹃学問のす・め﹄八編︵一八七四年︶九〇頁
︵11︶ 同 初編︵一八七二年︶十三頁 ︵12︶同 八編︵前掲︶ 八五頁 ︵13︶同
十五編二八七六年︶一五〇頁︵14︶ ︵15︶﹁京都学校の記﹂︵一八七二年︶二〇巻八〇頁
︵16︶ ﹁慶応義塾衣服仕立局開業引札﹂︵一八七二年︶十九巻三八六頁
三︑ ﹁一身独立して一国独立する﹂の論理構造
〜﹃学問のす・め﹄から﹃日本婦人論﹄以前の家族観ー
一八七三・四年以後﹃日本婦人論﹄を刊行するまで︑福沢は家族論としてまとまったものは発表していない︒
しかしこの時期の彼が如何なる男子像を構想していたかを検討することによって︑その男子像と家族と国家との
関係を解明し︑その関係に含まれる家族観の性格を明らかにすることができよう︒
まず﹃学問のす︑め﹄の﹁一身独立して一国独立する﹂という基本テーゼにおいて︑家族と男子.婦人とが如
何に把えられているかを検討しよう.福沢は独立を︑﹁智恵﹂と.財Lとの二面において強調する.経済的独立
に三ての丙を・彼は藪子年長乞口と論じおこし︑自己の経済的独立を達成し︑妻を嬰り︑
子の教育も一通り行ない︑とに角一軒の家を守る状態としている︒ここで経済的独立が男子のみのものとして論
じられているだけでなく︑﹃学問のす・め﹄全篇を通して︑女子の経済的独立を論じた箇所はない︒そのかわり
に﹁不魏立の人物﹂︵已いわれる男子は︑自分天だけでな圭子を養い家を守るという形で︑豪族全員の
経済的独立を支えている︒福沢はその男子に対して︑﹁人たるものは︑唯一身一家の衣食を給し以て自ら満足す
可ら肯﹈といって︑社会の中での活躍を奨励する︒更に彼が独立を内と外の義務に分けることによって︑その論
理は明確になる・内の霧は二軒の家に住居して他人へ衣食を仰芭ぬ事で︑これを.豪独立の主但とい
い・外の義務は﹁日本に居て日本人たるの名を恥しめず︑国中の人と共に力を尽し︑この日本国をして自由独立 9 3 を笹させる事で・そうしてこそ﹁独⊥立の呆亙であるという.家と国家とい三側面における独立が︑天
前の男子の内と外の義務として設定されていることに注意せねばならない︒家と国家を支える一人前の男子の形 む 成こそがこのテーゼにおいて意図されており︑しかも家と国家は並列的にではなく︑段階的に把えられて 4
いる︒一家の主人であることは﹁一身独立﹂の不可欠の条件であり︑逆に家族・婦人は一人前の男子の付随物と
してしか存在していない︒国家の独立は新しい家族論の創造によってではなく︑家族を従えた一人前の男子の活
躍によって支えられるという論理なのである︒
それでは家庭内の人間関係は如何に構想されているのか︒幕末に既に夫婦を中心とする家族論を紹介していた
にも拘わらず︑この時期には夫婦の対等性や妻の位置は明らかにされていないままに︑妻は家族の中に十把ひと
からげ謬まれている.それは.婦子の満足は夫親の悦と生とい−形で︑また﹁黍親子﹂と豪風正しき
家の︑王人Lとの対比の形で表われ︑また精神の独立を保ち得ない状態を﹁一家内の内には主人なきが如く・一身
りの内には精神なきが如く﹂とたとえることにあらわれている︒家庭内の婦人が家族以前の個人として︑また妻と
して︑登場しない︒
その結果︑婦人の知的独立もここでは全く忘れ去られている︒福沢は家庭内を徳義の支配領域とし︑﹁智恵の事
は僅に世帯整理の一部に用を為すの甦とした・知的独立も︑経済的独立と同様に・家を袋す三家の主人
にのみ要求され︑家庭内に限定された婦人には世帯整理以上の知恵は必要とされていない︒
権利の問題に三ても同様である.福沢は.同等﹂を︑雇理通義の等しき﹂E㌧﹂ととした・その権理通義L
とは︑生命・財産・面目名誉を守る㍍であるが︑家族内では﹁私有を保護するの心なく・面目を全ふするの心
な−︑生命を重んずるの心も亦あらざるな06﹈と三て︑一切の個人的な権利を認めていない・そのかわりに彼
は家庭内を肉身の愛情と徳義の支配する場としているが︑箕作麟祥や森有礼によって受容された西欧思想の夫婦
︵15︶ 像が権利の問題にふれていることからみて︑これは自己の生家に対する肯定的な意識に強く支配されたものと考
えられる︒婦人の権利の裏付けのもとに家族道徳を変革するという﹃日本婦人論﹄での観点はここには全くない︒
このような家族観は女子教育論をも支配している︒福沢は﹁女子に学問をさせんなぞとは如何なる考︑之より思 ︵16︶ ひ立ちしことなる乎﹂といって︑西洋流教育を批判する︒これは現実から遊離した流行としての女子教育へ
の批判という意味を持つが︑この批判の観点は︑世帯持てずを作るという点のみである︒ ﹁妻となりて一家の ︵17︶ ︵18︶ 世帯を引受け︑⁝⁝子供の母となるに差支なき様に仕込﹂む事こそが︑女子教育の目的となっている︒
以上述べた家族観・婦人観は︑福沢が家族論・婦人論として論じたものではない︒二身独立して一国独立す
るLというテーゼが︑家と国家を支える一人前の男子の形成という観点から構想され︑家族はその男子にとって
不可欠な付随条件であった︒男子論における家と国家二側面の強調及び婦人論の欠如が︑この時期の福沢の家族
論の構造であり︑この構造のもとでの家族と国内社会の秩序形成が道徳論・帝室論として展開される︒
︵1︶ ﹃学問のす・め﹄九編︵一八七四年︶九三頁
註︵2︶ 同 九四頁 ︵3︶同 十編 一〇一頁
︵4︶〜︵7︶ 同 一〇三頁
︵8︶ ﹃文明論の概略﹄ ︵一八七五年︶ 一五七頁 家族を夫婦と子どもという対比ではなく︑﹁婦子﹂と﹁夫親﹂という対比
で語っている︒
︵9︶ ﹁家庭叢談緒言﹂︵一八七六年︶十九巻五五七頁﹁京都学校の記﹂でも二家の主人Lという使い方をしているが︑内容的
41
には夫妻各々のあり方を追求している︒ここでは﹁主人﹂と﹁家族﹂の対比によって妻の立場が明確にされない︒また﹁家風
正しき﹂という形容は生家の儒教主義的家風の肯定の上に成り立っている︒ 4︵10︶ ﹃学問のす・め﹄十六編︵一八七六年︶一六二頁 一家の主人と一身の精神との対比は︑主人が一家内で唯一人︑精神を備え
たものであることを意味する︒一方﹃泰西勧善訓蒙﹄後篇︵一八七三年刊・前掲︶では︑夫婦の説が異った場合︑権限は同等
であるが︑決断は最終的には夫がすると説いている︒︵﹃日本教科書体系﹄前掲・=二七頁︶この時期の福沢にはこのような対
立が全く意識されていない︒
︵11︶ ﹃文明論之概略﹄︵前掲︶一五七頁
︵12︶ ﹃学問のす・め﹄二編︵一八七三年︶二二頁 ︵13︶同 二三頁
︵14︶ ﹃文明論之概略﹄︵前掲︶一五七頁
︵15︶箕作訳述の﹃泰西勧善訓蒙﹄後篇では︑夫婦は﹁其産業ヲ同ウシ其権利ヲ合ス可ク且総テ夫婦ノ間二彼我ノ物ノ別ナキハ婚
姻ヲ結ヒタル要旨ト相適フカ故二必ス幸福ヲ致スヘシ﹂︵﹃日本教科書大系﹄前掲・=二五頁︶とある︒婚姻の契約による双方の権
利の一体化であって︑それ以前の個人の存在を前提にして論じられている︒また森有礼の﹁妻妾論﹂︵前掲︶に﹁人婚スレハ
則権利義務其間二生シ﹂︵﹃明治文化全集﹄第五巻九三頁︶とあり︑試案としての﹁婚姻律案﹂は︑婚姻契約における権利義務
関係を定めたものである︒
︵16︶ ︵17︶﹁女子教育の事﹂︵一八七六年︶十九巻五六四頁
︵18︶ これは中村正直の女子教育論と比較した時︑非常に限定されたものといわざるを得ない︒中村は日本を﹁開明ノ域﹂に進ま
せる為の良妻賢母主義教育を主張し︑女子教育の実践に力を注いだ︒彼の良妻賢母主義は女子の高等教育を排除するものでは
なく︑その普及の理由となっていた︒彼自身︑﹁同権力不同権カソレハサテオキ︑男女ノ教養ハ同等ナルベシ﹂︵﹁善良ナル
母ヲ造ル説﹃明六雑誌﹄・﹃明治文化全集﹄第五巻二一二頁︶と書いている︒
四︑道徳論と帝室論の変遷
﹃文明論之概略﹄から﹃日本婦人論﹄以前1
家と国家の独立を支える男子の形成という課題は︑国内社会と家庭とを如何なる秩序のもとに再組織するかと
いう具体策を伴うことによってはじめて実現される︒幕末︑明治初期の家族論は︑西欧思想の受容による国内の
封建制批判と︑文明社会の形成への模索を示すものであった︒国内社会の秩序形成が︑国家の独立を支えるため
という強い目的意識に裏付けられて追求されるのは︑﹃文明論之概略﹄からであり︑その秩序形成は︑私徳.公
徳概念を軸として展開される︒そしてこの私徳・公徳こそが︑家族道徳と社会秩序との関連を示す基軸となり︑
ひいては︑家族道徳を天皇制イデオロギー下での国家道徳の一環として位置づける論理の骨格を作るものとなる︒
そこでここでは︑﹃文明論之概略﹄から﹃日本婦人論﹄以前の道徳論・帝室論の変化を︑私徳.公徳概念を軸と
して追求する︒
﹃文明論之概略﹄において福沢は智と徳について論じ︑これを私徳.公徳.私智.公智の四つに分ける︒私徳 ユ は﹁真実・潔白︑謙遜︑律儀等の如き一心の内に属するもの﹂で︑福沢はこれを︑智に媒介されねば方向を定め
得ぬものとすると同時に︑その影響力の範囲を家庭内に限定する︒彼は日本の従来の徳義が私徳であるとし︑こ
れを人類の普遍的な徳義として肯定する︒漢学者であり道徳実践者である父を尊敬し︑その父の遺風によって維
持される家風を肯定していたことは︑家庭内においては徳義を重視し︑しかもその徳義を︑儒教をも含めて人類 3 4 普遍のものとして肯定する素地となったと考えられる︒このことは︑﹁中村栗園宛書簡﹂︵一八七八年︶の中で
彼が父への尊敬を表明し︑その範囲で儒教を肯定しつつ︑家風の維持が−本望であると述べていることにもあらわ れている︒しかし私徳という概念を示すことによって儒教を家庭内に限定したことは︑国内社会の秩序形成とい 4
う面において︑重要な意味を持つ︒それは家族と社会とを異った秩序によって維持するという新しい杜会秩序の
創造を意味し︑家族以外の社会を儒教道徳の支配から解放することを意味する︒そして家族以外の社会の秩序は︑
公徳概念によって示される︒公徳は︑﹁廉恥︑公平︑正中︑勇強等の如き外物に接して人間の交際上に見はる︑
所の働﹂である︒同時に︑私智・私徳を公智・公徳に拡げる謀介項として︑﹁聡明叡智の働﹂が設定される︒こ
れは自他の関係認識をふまえた価値判断の能力であり︑その到達点として福沢が意識しているのは︑世界の中で
自国の進むべき方向を判断する力としてである︒公徳が自由平等な市民社会のモラルとしてのみならず︑ ﹁聡明
叡智﹂の支配のもとで︑自国の国家的利害を判断した上での行動として想定され︑しかも私徳より価値的に優位
なものとされていることに注意せねばならない︒しかしここでの道徳的判断形成の順序は︑福沢におけるその価
値的な優位性とは関係なく︑相対的価値判断による市民社会の形成から国家的利害の判断へという形で︑認識発
達と道徳的行為の相互的な発達のプロセスをふまえている︒ここでの智徳論及び公徳概念の提示は︑その意味で
非常に意義深いものであった︒
福沢は公徳についてこれ以上論じず︑家庭外の人間関係は﹁規則﹂によって維持されると説く︒これは儒教道
徳と結A口して存在する封建的身分秩序への批判の︑有効な論理となる︒
これと共に福沢は︑国民国家の成立によっておこった欧米の愛国心を﹁私情﹂と抱え︑﹁我も亦これに接する ヨ に私情を以てせざる可らず﹂という︒家族観において︑一身の﹁私﹂が一家に同一化されたのと同様に︑ここで
は一身の﹁私﹂が一国に感情的に同一化されている︒この﹁私情﹂は︑幕藩体制下での藩への忠誠意識と重ねら
︵5︶ れ︑﹁報国心﹂﹁報国尽忠建国独立の大義﹂となる︒そして報国心と公徳とは︑外国に対しての報国心︵非合理な
感情︶と国内での公徳という楯の両面をなす︒後に公徳の第一が天皇への忠となるのは︑この非合理な感情の収
れんの中心を天皇に求め︑一方公徳を認識発達による道徳的判断形成のプロセスから切り離して︑感情の収れん
による秩序形成と同質のものとした為である︒とはいえこの時期の福沢は︑﹁報国﹂の達成方法をあくまでも国
内における文明の進歩︵産業の発展と市民社会の形成︶においた︒公徳は最終的には国家的利害の優先性を示し︑
報国心は非合理な感情による国家への忠誠意識として提示されながらも︑市民社会の形成を阻害し家族道徳を支
配するものではなく︑むしろその健全な発展を奨励する論理になっている︒
この時期の彼の帝室論も︑これに対応している︒王制一新が王室を慕うことによってではなく︑幕府の政を改
めようとする人心によっておこったと分析する福沢は︑それが成功した現在︑﹁日本国民として之を奉尊するは
固より当務の職分なれども︑人民と王室との間にあるものは唯政治上の関係のみ︒其交情に至ては決して遽に造
る可きものに非已と三て・皇学者流の国体論に反対する・ここでは帝室と政権とはまだ分けられ三ず璽
と国民の関係も・政治上の関係すなわち規則゜約束・職分に依ってい廷
﹃帝室論﹄︵一八八二年刊︶は︑次の二点において﹃文明論之概略﹄での帝室論と異っている︒第一に国内秩序
の維持と国権拡張の為に︑精神収撹の中心として帝室を利用しようとする事︑第二に帝室と政権とを分離させ︑
帝室を政権を超越したものとする事であ蘇〜福沢は政治を︑﹁形体の秩序を整理するの具にして人の精神を制す
るものに非肯﹈として︑国内社会での政治の役割を限定し︑一方﹁精神道徳﹂の部分を﹁君臣情誼﹂にゆだねる ︵10︶ という︒勿論既に指摘されているように︑福沢自身には皇学者流の﹁天皇信仰への﹃惑溺﹄はなかった﹂とはい
えよう︒しかし﹃文明論之概略﹄で︑国内社会の秩序形成と国家的利害の判断とを︑共に認識発達に支えられた
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公徳によって可能にしようと意図したのとは全く異り︑伝統的な﹁君臣情誼﹂による感情収れんを国内社会の秩
序形成の枠組として設定したのである︒しかしここで﹁精神道徳﹂﹁人心﹂等と表現されているものは非合理な
感情的側面であって︑これらは必ずしも﹃文明論之概略﹄での公徳・私徳につながるものとしては位置づけられ
ていないと思われる︒一国の枠組を感情的側面において形成する論理︑私情としての報国心を収撹する論理が︑
帝室利用論として構想されているのである︒公徳・私徳と君臣情誼との関係はここでは明らかにされていないが︑
前者が後者の枠組の中でしか存在し得ないという構造は︑もはや﹃帝室論﹄で完成しているといえよう︒
杜会生活上の道徳そのものは︑﹃徳育如何﹄︵一八八二年︶に始まる徳育論争の中で︑儒教批判を通して追求さ
れる︒﹃徳育如何﹄での徳育論は︑私徳を中心に一身の独立を根本にしたものであ葡しまた﹃徳育余論﹄では・
﹁下流の人民を教導して徳心の公議興論を起し其反対の大勢力を以て上流を警しむるものは唯宗教あるの輪⊂と
いうが︑これも社会生活上のモラルを形成する方法である︒
翌年に書かれた﹁儒教主義﹂で︑福沢は儒教を徳育に利用することを批判する︒批判点の一つは︑儒教が政治
学と道徳学の不可分一体性をその本質とする事にある︒彼は︑修身斎家治国平天下の組立てを︑﹁修身斎家は誠
に道徳なり︑治国平天下は真の政治足哩﹂という・これは﹃文明論之概略﹄での主張である家庭内外の区別及び
家庭内における道徳︵私徳︶と家庭外における規則・約束・職分という把握と同様である︒ところが彼はここで︑
儒教のこの本質を︑家庭外の国内社会のあり方からではなく︑国家の枠組︑外国交際の問題から批判する︒治国
平天下が政治であるという論理の追求なしで︑修身以下の四則に﹁外国交際国権拡張﹂を加えよと主張する︒同
時に三三はじめて︑公徳が天皇への忠と結び付けられ輪・︶家庭内の道徳と天皇への忠は・私徳゜公徳という道
徳概念によってここに対応するのである︒国内社会の秩序形成から国家的利害の判断へという構造を持っていた
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公徳が︑﹃帝室論﹄で完成された天皇への忠という感情的枠組と同一化され︑この枠組による国内社会の支配秩
序の形成へと形を変えたといえよう︒
福沢は︑﹁宗教の信心と云ひ居家の人倫と云ひ又尽忠報国の義と云ふが如きは︑全く数理を離れて純然たる徳
義の誕と三て・これ以後この三つの嚢の普及につとめる.天皇への忠︵尽忠報国︶と家族道徳︵居家の人
倫︶と宗教とが︑以後福沢が国内社会の支配秩序を形成する柱となっている︒中でも尽忠報国はすべてに優先す ロ る絶対的な徳義で︑宗教も﹁此一義︵尽忠報国︶のみを以てするも或は感動に鈍きの恐﹂があるからとされる︒公
徳概念の提示は︑もはや国内に市民社会の秩序を創造する論理ではなく︑尽忠報国を盲目的に信奉する国民を形
成し︑国内社会の秩序維持をはかる論理なのである︒
以上述べた尽忠報国の道徳としての絶対化と︑そのもとでの社会生活上の道徳の必要性の主張は︑これ以後婦
人論との結合を経て︑徳教実施の場所としての家族の強調︑及び家族道徳と帝室との結合へと進む︒
註
︵1︶︵2︶ ﹃文明論之概略﹄︵前掲︶一〇五頁
︵3︶福沢は︑﹁今の人間世界にて家族と親友とを除くの外は︑政府も会社も商売も貸借も︑事々物々︑悉皆規則に依らざるもの
なし﹂︵同書一六六頁︶といい︑これによって平和を保つ事を︑﹁規則を以て大徳の事を行ふもの﹂︵同書一六七頁︶といって
いる︒
︵4︶ ﹃文明論之概略﹄︵前掲︶二五五頁 ︵5︶同 二三九頁 7 4 ︵6︶ 同 二三五頁
︵7︶遠山茂樹は︑この時期に﹁福沢が君主制をみとめたのはその積極的意義を見出したからというよりは︑むしろ天皇の
政治的役割が小さくなる︑天皇11政府の権威に依頼盲従しない人民の独立の気風が強くなるという文明化の見とおしの上に立っ 4
て﹂︵遠山前掲書︑八三頁︶承認したという指摘をしている︒これはここに述べた公徳観及び智の重視によっても裏付けられ
るだろう︒
︵8︶ この二点が出てくる政治的背景として︑次の三点があげられる︒第一に国際関係に対する認識︒福沢は﹃時事小言﹄︵一八
八一年︶で︑国家的利害の優先の必要性を説き︑国権論に従うことを宣言する︒この為に国内社会の安定が不可欠となる︒第
二に自由民権運動への対応︒彼は﹃学問のす・め﹄で既に暴動や革命につながる反政府行動を否定していたが︑︵同書十七頁・
七六頁︶民権運動の高揚は彼にその危険を感じさせた︒︵﹁大隈重信宛書簡﹂一八八一年十月一日・十七巻四六八頁︶この対策
の一つが︑帝室による国内秩序の維持である︒また彼は民権を︑多様な領域における国民の自主的活動と考えていたから︑政
治の領域での民権伸張は国会開設だけで充分であると考えた︒︵﹃時事小言﹄五巻九八頁︶一方同時に多様な領域の活動を活発
化し︑かつ国家的統一を保つ方策として︑﹁万機を統﹂︵﹃帝室論﹄五巻二六七頁︶ぶるものとしての帝室をおき︑帝室と政
権を分離させた︒第三に明治十四年の政変︑大隈の政府からの追放という権力閥争と国会開設の詔の公布である︒福沢はこれら
政権の不安定さを補い他国に対して国権を維持する方法として︑政権と分離した帝室を想定した︒
︵9︶ ﹃帝室論﹄︵一八八二年︶五巻二六四頁
︵10︶遠山茂樹前掲書 一七一頁
これは家永.河野健二.遠山.広田.安川らほとんどの福沢研究者の共通見解であるが︑評価のしかたは異っている・福
沢の思維方法.意図から評価する家永・河野らは肯定的に︑一方歴史的役割から見る遠山・広田・安川らは否定的に評価して
いる︒遠山はそれが﹁ブルジョア王制への転化と︑国民の独立の精神の育成をかえって阻む効果をもつ﹂︵遠山前掲書一七一
頁︶という点で︑広田はそれが天皇制国家の帝国主義的発展へのとりくみにつながるという点で︑︵広田昌希﹃福沢諭吉研究﹄
二二四頁.↓九七六年東京大学出版会︶安川も同様に﹁手段としての天皇制を次第に政治の主人へ︑さらには政治そのものを
呪縛するわく組みへと変えていく﹂︵安川 前掲書一四三頁︶役割をになったという点で否定的に評価している︒ここでは福
沢の天皇制が︑まず国内社会のあり方を支配し︑更に進んで家族道徳を支配していく過程を追うことによって︑その家族論に
占める位置を明らかにしたい︒
︵11︶ ﹁今日の徳教は輿論に従て自主独立の旨に変ず可き時節﹂︵﹃徳育如何﹄三六三頁︑一八八二年︶と書いている︒
︵12︶ ﹁徳育余論﹂︵一八八二年︶八巻四七〇頁
︵13︶ ﹁儒教主義﹂︵一八八三年︶九巻二七一頁
︵14︶福沢は日本人の徳について︑﹁私徳に就て見れば平均して身修る者と云はざるを得ず﹂﹁公徳に於ては︑振古以来一系萬代
の君を戴て⁝⁝公徳の基本堅固なりと云ふ可し﹂︵﹁儒教主義﹂︵前掲︶二七六頁︶と書いている︒
︵15︶ ﹁徳教の説﹂︵一八八三年︶九巻二八一頁
︵16︶同 二九一頁
︵17︶ ﹁国交際の主義は修身論に異なり﹂︵一八八五年︶十巻二三五頁
五︑婦人論から家族道徳論への変質
﹃日本婦人論﹄から﹃日本男子論﹄﹃尊王論﹄