東京都立大学教師22年
山住 正己
私が東京都立大学に助教授として着任したのは1972年4月であり,春,教壇 に立ったとき,ふっと停年までは22年あるなと思った。しかし以後そんなこと はまったく忘れて学内外の仕事にとりくんできたのだが,ここへ来て とい
うのは,周囲の人たちが94年春に向け,あれこれと企画をたてているのを知っ て,あるいは私に知らせずに何やら企てているらしい,しかし少しつつもれて
くるその内容を知って,ということだが一22年たったのだなと,ちょっと感 慨にふけったりするところである。
しかし来春以降も都立大学には土曜・日曜を除く毎日,ひきつづき出勤しな ければならないのだと思うと,そんな感慨はたちまちしぼんでしまう。そうは いっても人文学部の教師としては任を終えるので,やはり一文を草しておく必 要があると考え,r人文学報』編集委員に「短いものを書くよ」と申し出て,
いま筆をとっているのである。
私は1960年代から70年代初頭にかけ,いつかは大学教授という職に就く機会 がやってくるのか,それとも在野の研究者・評論家として生き抜かなければな
らないのか,わからなかったσ
そのころ,私にとっていい兄貴分である小川利夫さん(現・名古屋大学名誉
教授)は,たいていは酒の席においてではあったが,「君は就職しなくても食
っていけるんだから,教育学における久野収になれ」と,何度も,まるで命令
するかのように言った。それは,研究の実績さえ積むことができれば,ちょっ
とかっこいい生き方だなと思いつつも,この先何年も定職なしをつづけるのは
つらいだろうなと想像した。
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つれあいには「小川さんが何度も同じこと言うんだけどね」と言うと,「い いわよ」との答は返ってきたが,その生き方に腰をすえ,覚悟をきめるという のは難しかった。しかしあれこれ思い悩んでも仕方がないし,目の前には,問 題が山積し,悩むひまもないくらい忙しく,あれこれの仕事をつづけていた。
初めて教壇に立ったのは59年4月であり,青山学院女子短期大学の非常勤講 師として「教育原理」を週1時限担当した。最初のころは用意したノートは終 わってしまったのに,まだ時間が余っており,大いに弱ったことがある。その 年の10月から日本女子経済短期大学(現・嘉悦女子短期大学)の,名目は専任 講師となったが,やはり週1回の「教育原理」の授業を担当するだけで,待遇
も気分も非常勤講師にとどまっていた。
こういう生活を大きく転換させたのは都立大学への就職である。そこにいた るいきさつについては別の機会に語ることにするが,その同じ月から私は『朝 日新聞』の書評委員を引き受けており,新聞社側は「評論家」という肩書を用 意していた。私は「この春からこういう身分になったので,評論家という名称 のままでは学生に申しわけない,そこで私にとっては,ちよっと不本意だが,
東京都立大学助教授に変えてくれ」と申し入れたところ,担当者は,「就職宣 言ですね」と応じた。
委員には都留重人さんを最年長とし,同世代の大岡信・林光君まで十数人が おり,隔週開かれる委員会は,当時,都立大学の仕事よりずっと楽しかった。
同じころ岩波書店の雑誌『世界』の読書室欄も担当し,これは人数も少なかっ ただけに,いっそう楽しく勉強になった。この会については遠山啓さんの追悼 文で何度かふれた。
都立大学の方は学生が新任教師の歓迎会も開かぬので「ひでえところへ来た
もんだ」といささか腹立たしい思いをした。しかし私は,自分のいるところが
世間や学界からみじめな研究室と思われるのは口惜しいので,少しつつ学生や
大学院生と語り始め,講義やゼミの充実に,私なりに努力した。
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人文学部教授会には,小学校や旧制中学校の同級生もいたので親しむことが できたが,だいたいは居眠りをきめこんでいた。
ところが74年に入り,迂正三学部長に「筑波大学法案について一言発言して くれませんか」と頼まれ,そういうことであれば引き受けないわけにいかず,
初めて教授会で挙手,立ちあがり発言したのだが,それがいけなかったのか,
目をつけられ,その年の秋,将来計画検討委員会の学部代表に選出されてしま
った。
こうなると教授会では毎回報告をしなければならない。しかもそれは大学の 将来を左右する大問題だから発言すべき事項を整理して委員会・教授会にのぞ
んだものだ。
そのころの総長は沼田稲次郎先生で,総長室の真上が教育学研究室であった ということも理由の一つであったろう,たびたび「君,ちょっと降りてこない かね」という電話があった。総長とは教育・文化・社会・政治について見解の 一致するところが多かったので,こういうことになったのだと思う。
一一番おかしかったのは新設しようとしていた社会福祉学の最初の教授の人選 であり,これには戸塚七郎人文学部長がもっとも苦労されたのだが,私の案を 語るや,沼田総長は即座に「そりゃいい,君はあのかわい子ちゃんを選んでく れたのか,そりゃいい,ぜひ一度総長室に連れてきてくれ」という反応があっ た。社会福祉学の第一人者も沼田さんにかかっては「かわい子ちゃん」なので あった。これは諸般の事情で実現しなかったが,そのころから始まった社会福 祉学専攻設置への努力が実って93年4月,大学院博士課程設置まで漕ぎつける
ことができた。
教育活動では学部教育に手抜きをしたのではないが,まず大学院生の指導に 力を入れ,それによって研究室全体の底上げができるだろうと判断,2年目,
福沢諭吉を丹念に読むことから,それを始めた。その成果は3年後にゼミ員一 同の名により日本教育学会の大会に報告した。日本教育学会にそっぽを向いて いた私がこのような行動に出たので「学会へのなぐり込みですか」と言った友
人もいた。
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実は都立大赴任2,3年前,ある私立大学から膝づめ談判で誘いがあり,
「2,3年後に学長になっていただきたいのだ」といわれたのに嫁驚いた。そ の大学でいい仕事をしている大学時代の同級生もおり,心は動いたが,親しい 友人に相談したところ,「教育学専攻の大学院のある大学へ行って下さい。き っとお誘いがありますよ」と,どこにも当てはないのに,これまた強烈な説得
があった。結局,後者を選び,やがて都立大学勤務となった。そんな事情もあって,ま ずは大学院の充実をはかろうと考えた。幸い,私が指導教官を引き受けた大学 院生のうち20人近くが北海道から鹿児島までの大学に就職したので,まずまず の成果だと喜んでいる。
しかし,である。この数年,評議員・学部長の職が忙しくなったせいもあ り,大学院のゼミの運営に自信を喪失,挫折した。これについてはいつか検討 し直さなければならないと思っている。
一方,学部の方は着任3年目から開いたゼミがほぼ,ときには大いに順調に すすんで20年目を迎えている。初年度のゼミ報告書を『碑』(rいしぶみ」と読む)
と題しガリ版刷りで発行,94年3月,その第20号の刊行が予定されている。こ ういう同じ標題のゼミ報告集の連続刊行は日本の大学史上にはなかったことな のではないか,と心ひそかに自負している。いや,それは私が自負することで はなく,ゼミの伝統を受けついできた学生諸君の名誉であると思っている。し かし,これについては別の場所に書かされることになるので,ここでは省略す
る。