琉球の集落計画における祭祀的理念
その他のタイトル A Ritual Idea in Ryukyu Village Planning
著者 松井 幸一
雑誌名 ジオグラフィカ千里 = Geographica Senri
巻 1
ページ 261‑280
発行年 2019‑03‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/00021104
琉球の集落計画における祭祀的理念
松 井 幸 一
*
摘要
本稿は沖縄県今帰仁村の今泊集落を対象として,琉球の集落においていかに祭祀的計画性・理念 の反映があったかを今帰仁村の今泊集落を事例に考察したものである。今帰仁村の今泊はかつての 北山の中心地域で、今帰仁城の麓には城下集落とも呼べる集落があった。それが薩摩の侵攻によっ て消失した後に現在の海岸部に集落が移動し今泊集落となった。現集落の単純な門中宗家の復原か らは明確な計画性はみられなかったが、神人を輩出する門中宗家を抽出するとその屋敷地は特定地 域に偏在し計画性が示唆される。また旧集落と現集落の祭祀空間の相対的な位置関係は非常に近似 しており,移動後集落においても祭祀空間を維持しようという意図がみられた。
キーワード:琉球,村落計画,祭祀空間,祭祀者
Ⅰ はじめに
現在の沖縄県である琉球王国は東アジア交易において中継地点として機能し,一帯の交易活動 上で重要な位置を占めていた。交易活動では物資だけでなく,中国由来の文化や風習,思想や理 念などももたらされた。その結果,琉球は中国由来の文化,思想がよく残り,それらは土着の思 想と結びついて独自の発展を遂げていく。
日本本島で城下町や都に一定の計画性が見られるのと同様に,琉球においても都市・村落には 同程度の計画性とまではいえないまでも,思想や理念などが反映した形態が今もなお見られる。
そこには交易の過程で流入した思想・理念が色濃く反映し,また琉球は祭政一致の社会構造であ ったことから,祭祀上の理念も都市・村落の空間構造に考慮されていたと考えられる。
そこで本稿では琉球の村落を対象として,その村落計画にみられる祭祀的理念を明らかにする ことを試みる。具体的には集落移動・集落空間・祭祀空間に焦点を当て,それらを祭祀的理念か ら考察を進める。対象集落はかつての北山の中心である今帰仁村の今泊集落とする。
分析では,祭祀空間(拝所)に関する調査として祭祀を司る住民への聞取り,旧集落と現集落 での祭祀空間の由来・位置の確認をおこない,さらに地籍図,土地台帳および現地調査から集落 構成を考察した。祭祀者への聞取りは,主としてノロと呼ばれる集落祭祀を仕切る住民,拝所を 管轄する集落の区長,および古老に対しておこない,考察には明治期に現地調査された拝所調査 も用いる
1)
。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
*関西大学文学部
E-mail : [email protected]
― 261 ―
集落構成の検討は土地台帳と字誌
2)
の利用,現地調査を主としておこなった。今泊集落の土地 台帳には作成年代が明記されていない。しかし,「1965年成果表による地籍訂正」の記述がある ことから,1965年以前であること,記載内容から戦前の状況が色濃く反映していることが指摘 されている3)
。字誌には今泊集落の歴史・文化・諸行事にいたるまで詳細に記載されている。現第
1
図 今帰仁城跡位置図 今帰仁村教育委員会2007 4) , 3
頁より引用。― 262 ―
在は個人情報保護が重要視されているため,個人情報に関わる記録の収集は困難であるが,ノロ 家の情報や有力者の系図などは,それ自体に考察の価値がある貴重なものである。したがって字 誌の利用は,集落構成を考察する際に大いに役立つ。
なお,本稿での新旧集落名の使用基準は今帰仁城近辺に存在した今帰仁集落・親泊集落はそれ ぞれ旧今帰仁集落・旧親泊集落,海岸部に移動したのちは今帰仁集落と親泊集落,合併後の集落 を指す場合は今泊集落を用いる。
1.今帰仁城下集落の歴史
沖縄県今帰仁村字今泊は,世界遺産『琉球王国のグスク及び関連遺産群』のひとつ,今帰仁城 を有する歴史ある地域である(第
1
図)。今帰仁城の麓には発掘調査により旧今帰仁集落と旧親 泊集落が存在していたと想定されており,これらの集落は代表的な古琉球5)
集落であった。琉球におけるグスクの本質をめぐっては,数多くの見解が存在するが
6)
,多くのグスクは,軍 事機能のみならず,有力者の聖域および居住地としての機能も併せ持つ。今帰仁城城内にも複数 の拝所が存在することから,三山鼎立時代には軍事機能,居住機能,聖地としての機能を併せ持 ったグスクであったと考えられる。北山の中心拠点であった今帰仁城は,1422年
7)
に中山によって攻め滅ぼされる。その後,今帰 仁城には山北監守が派遣され,琉球の北の拠点のひとつとして活用された。14世紀〜15世紀に かけての今帰仁城は,最も隆盛を極めた時期であり,現在まで残る主郭・外郭のおおよその形態 は,すでにこの時期には築かれていたことが発掘調査により明らかにされている。今帰仁城がグ スクとして機能していた時代,城下一帯には旧今帰仁集落,旧親泊集落,志慶真集落の3
つの集 落が存在していた。特に今帰仁城の前面に位置する旧今帰仁集落と旧親泊集落には祭祀施設も存 在し,両集落が中心的な城下集落であったと考えられる。2.城下集落の移動
1609
年の薩摩による琉球侵攻によって,今帰仁城は焼き打ちされた。その結果,監守一族は 城内での生活が不便になり,海岸部の集落へと移動した。旧今帰仁集落と志慶真集落もほぼ同時 期に移動したと推測されている8)
。旧親泊集落については,薩摩の琉球侵攻を記した『喜安日 記』に「此磯に親泊と云あり」あるいは「親泊の沖にて敵船一艘漕来て」などの記述があること から,薩摩の琉球侵攻が始まる1609
年以前には海岸地の側に移動していたと考えられている。このような歴史的過程をまとめると今帰仁城一帯の集落移動の要因は,薩摩による今帰仁城の焼 き打ちが契機であり,その結果
17
世紀前半には城下周辺から北部海岸地一帯へと集落が移動し たといえる(第2
図)。今泊集落の移動元となる旧今帰仁集落と旧親泊集落について,高橋は地籍図を用いることによ り初めて集落地割の構成を指摘した
9)
。この指摘に関しては,その後の発掘調査によっても追認 され,集落跡と一定の整合性をもつことが確認されている10)
。― 263 ―
前述したように旧親泊集落は,旧今帰仁集落が移動する前にすでに,現今泊集落に存在してい たと考えられているが,今泊集落の小字は中央の街路を境として集落の東側は親泊原,西側は今 帰仁原となる。この東側の親泊原に旧親泊集落,西側の今帰仁原に旧今帰仁集落があったとされ ている
11)
。今泊集落内での旧集落の位置に関しては地元の口伝のみならず,集落の東と西で道路・区画に おいて明確な差異がみられることからも,両集落の独立性および移動の時期に若干の差異があっ たことが高橋によって指摘されてきた
12)
。しかし,近年には従来の「定説」を再検討した結果,第
2
図 今帰仁城跡周辺遺跡位置図(今帰仁村教育委員会
2005,「今帰仁城跡周辺遺跡位置図」を一部改変。)
― 264 ―
旧集落が「集団」として移動し,「集団」で新しい家屋群を構えた事実は無かったことも指摘さ れ
13)
,従来指摘されてきた今泊集落の東側が親泊集落,西側が今帰仁集落であるという「定説」は不確かな部分も多い。
このような「定説」は口伝や伝承,あるいは小字名から推測されており,高橋の研究以前には
「定説」が「前提」として扱われる傾向が多分にあった。
Ⅱ 集落内の祭祀空間の構造
琉球集落には拝所と呼ばれる「御願所」,つまり祭祀空間が点在し,現在も祭祀がおこなわれ る。基本的には
1
つの集落に1
つの御嶽と呼ばれる拝所があって,その多くはかつての葬所でも ある。御嶽は「腰当森」とも呼ばれ,そこには「腰当神」として集落住民と血の繋がった祖霊神 が眠る。「腰当」の本質は祖霊神が集落住民を抱く状態であって,御嶽または「腰当森」を中心 として徐々に集落が形成される。つまり,琉球集落の集落形成には拝所を中心とした形成過程が みられる。ここでは集落内の拝所と集落祭祀を司る人物に焦点をあてその場所と役割から集落の 空間構造を考えてみたい。1.集落内の拝所構成
今泊集落にはフプハサギ,ハサギングヮー,オーレウドゥンの
3
つの拝所がある。それぞれの 拝所はどのような特徴をもっているのだろうか。フプハサギの言語的な意味は大きなハサギで,ハサギングヮーは小さなハサギという意味である。大小の違いはあるが両所ともにハサギと呼ば れる拝所である。ハサギとは神アサギのことで首里王府編纂の『琉球国由来記』,『琉球国旧記』
などには神アシアゲと表記されている。辞典によれば神アシアゲは「村の神を招いて祭りをおこ なう小屋」である
14)
。また多くの先学でも神アシアゲは建物を指すとしている。一方,仲松は神 アシアゲと呼ばれる場所に建物が無い事例をいくつも調査した結果,先学とは異なる見解を示 す。その見解を列挙すると,(1)神アシアゲは殿と同じく祭祀場所の名称である。それは殿と本 質的には同じものであって,たんに名称が異なっているだけである。(2)建物の有無とは関係が ない。建物があってもよいし,なくてもよい。(3)したがって名称も建物に由来したものではな く,沖縄方言の「アシアゲ」からつけられたものと考える。つまり,仲松は神アシアゲとは祭祀 をおこなう空間と定義した。一括りに祭祀空間といってもそこで行われる祭祀には様々な種類がある。神アシアゲの祭祀空 間を考えるために,まずは同質の空間として挙げられた「殿」について考えたい。「殿」は『琉 球国旧記』では神殿として記載されているが今帰仁間切には存在しない。これは「殿」と呼ばれ る祭祀場が沖縄本島中南部だけにみられる祭祀場だからである。「殿」の祭祀ではまず神女たち が決まった方向へ手を合わせて御嶽の神を招請する遙拝がおこなわれる。「殿」の数と御嶽の数 は基本的には一致し,それは集落内の血縁集団の数とも一致する。したがって,基本的には一つ
― 265 ―
の血縁集団が一つの「殿」を持っている。「殿」の場所については特に決まりがなく,集落内の 広場や特定旧家の庭が「殿」と呼ばれる事例がある。以上のことから,「殿」とは個々の血縁集 団が御嶽の祭祀をおこなう祭祀空間であるといえる。
神アシアゲは「殿」と同質のものなので神アシアゲもまた御嶽の祭祀をおこなう祭祀空間とな るが,「殿」と神アシアゲの
2
つが併存する集落もある。仲松はこのような集落でそれぞれの祭 礼を調査し,「殿」では御嶽の神に対して感謝・祈りがおこなわれるのに対して神アシアゲはで は神歌が謡われ,稲穂が捧げられ,神酒・供物の歓待がおこなわれることから各「殿」での祭祀 を統合すべく発生したのが神アシアゲであるとし,御嶽,殿,神アシアゲでおこなわれ祭祀の本 質は同じものであると指摘した15)
。この見解を概念図として表したのが第5
図である。神アシアゲ(神アサギ)がそれぞれ「殿」ひい ては御嶽に対応し,さらに伝統的な集落では
1
集 落に1
御嶽が存在する原則とも併せて考えれば旧 今帰仁集落,旧親泊集落の2
集落と今泊集落の神 アサギはそれぞれの旧集落に対応するはずであ る。実際にフプハサギは旧親泊集落の神ハサギ,ハサギングヮーは旧今帰仁集落の神アサギと伝わ る。両神アサギの言語的意味を単純に考えれば,
旧今帰仁集落は今帰仁城と深い関わりを持ってい 第
5
図 拝所間の関係第
3
図 フプハサギ 第4
図 ハサギングヮー第
6
図 オーレ御殿― 266 ―
たと考えられているのにその神ハサギは小ハサギと呼ばれやや不自然な感がある。形状,大きさ をみてもフプハサギ,ハサギングヮーともに大・小というほどには大きな違いはない(第
3
図・第
4
図)。王府による初の地誌『琉球国由来記』には各間切の神ハサギについて名称と祭礼の記載が残 り,それによれば旧集落と現在の今泊集落を合わせた範囲には「今帰仁城内神アシアゲ」と「安 次嶺神アシアゲ」,「親泊神アシアゲ」の
3
つの神アサギが存在した。「今帰仁城内神アシアゲ」は今帰仁城内にある神アシアゲで建物はないが,現在も香炉が置かれている。「安次嶺神アシア ゲ」は祭礼方式などからみて現在のハサギングヮーであると考えられ,「親泊神アシアゲ」は現 在のフプハサギである。これらの記述からいえることはそもそものハサギの名称には大・小の区 別はないのに加え,旧今帰仁・旧親泊両集落の明確な移動時期は断定されていないが,『琉球国 由来記』が編纂された時期(1713年)にはすでに祭祀も現今泊集落でおこなわれ両集落の移動 は完全に終わっていた点である。
「安次嶺神アシアゲ」も「親泊神アシアゲ」も拝所の種類としては同じ神アサギである。しか
第
7
図 拝所の分布― 267 ―
し,それぞれ対応する旧集落が異なるため両神アサギに対する住民意識の違いは祭祀的序列とし て祭礼の際にみえてくるのではないだろうか。そこで『琉球国由来記』に記録が残る両アサギの 大折目の祭礼を比較してみたい。「安次嶺神アシアゲ」では「大折目次三日,蕃薯神酒五・肴三 器オエカ人,同神酒拾・肴五器百姓,酒二合宛・重箱一組宛,首里大家子・大掟・南風掟・西 掟・今帰仁掟。」とあるのに対して「親泊神アシアゲ」では「大折目次三日,蕃薯神酒五・肴三 器オエカ人,同神酒十・肴五器百姓。」とあって,「安次嶺神アシアゲ」の方が役人も出席し供物 も多い。特に注目したいのは「安次嶺神アシアゲ」には役人も出席していることで,両神アサギ での祭礼方法の違いは旧今帰仁・旧親泊集落の性格や序列性が反映していると考えられる。
オーレウドゥン(オーレ御殿)は阿応理屋恵ノロと呼ばれる人物が管轄した拝所である。この 拝所も本来は旧今帰仁集落にあったのが集落の移動とともに現在地へ移動したもので,かつては この場所に今帰仁阿応理屋恵殿内
16)
があったといわれ,周囲には共同井戸のウルンガー(御殿井 戸)が残る。現在はコンクリート造りの祠が建てられ,中には北山監守の位牌も祀られている。祭祀を司るノロの位置づけについては次章で詳述するとして,続いて
3
つの拝所の位置を確認し たい。3
つの拝所の位置を集落内に示したのが第7
図である。まずその位置を概観すれば集落中央部 に集中し,集落の東西軸ともなっている大道からもそれほど離れていない。フプハサギの現在地 は公民館前の広場だが,フプハサギは幾度かの移転を繰り返している。戦前には現在地より若干 北の敷地にあった。ハサギングヮーは公園の中にあって,公園の東はサーラと呼ばれる小丘がす ぐ横に迫っている。オーレウドゥンは今帰仁原と親泊原の境界に接する大道の西端の街区に位置 する。ここで注目したいのはフプハサギとハサギングヮー,両神アサギの位置である。神アサギは御 嶽と本質的には同じ拝所で原則的に
1
つの集落に1
つの神アサギが存在する。現在は今泊集落と して一つの集落になっているが,小字が今帰仁原と親泊原に区分されるようにもとは2
つの移動 してきた集落が合併したものである。これを念頭に神アサギの位置を再度確認すると,これまで の伝承のとおり今帰仁原と親泊原の小字境界線を旧今帰仁・旧親泊集落の境界線に設定すると旧 親泊集落側に2
つの神アサギが存在することになる。前述したようにフプハサギは幾度か移転し ているが,それはわずかな移動で両小字の境界を越えるような大幅な移動ではない。したがっ て,これまでの先行研究で当たり前のように前提とされてきた今帰仁原に旧今帰仁集落が移動 し,親泊原に旧親泊集落が移動したという伝承は祭祀空間の分布からみれば極めて不自然とい る。あくまで小字境界線を何かしらの境界線として考えるならば,今帰仁原のオーレウドゥンと 親泊原の2
つの神アサギの祭祀空間の境界線としてみるべきであろう。したがって祭祀空間の分 布からのみ旧今帰仁・旧親泊集落の移動先を推定するならば,大道を境として北にフプハサギ,南にハサギングヮーがあることから親泊原北側を旧親泊集落,親泊原南側を旧今帰仁集落の移動 先と考えるのが自然であろう。
― 268 ―
Ⅲ 集落内の祭祀者
1.ノロと神人
村落の祭祀を司る住民は,ノロと呼ばれる神職である。ノロは特定の家系の女性が継承し,現 在でも祭祀の際には中心人物として祭祀を取り仕切る。そもそもノロの出現は琉球の古代社会と 深く結びつく。琉球のマキ・マキヨあるいはマキョと呼ばれた古代集落は一般に「同一血縁団体 と,その村落名」
17)
または「同一御嶽の祭祀集団」18)
として理解されている。このマキヨ時代に有 力者たちが近隣の集落を支配下に置き,各地で複数の勢力が台頭し始める。その背景には一部の 按司の経済的・軍事的勢力の強大化とともに,宗教的勢力の強力化がある。琉球では血縁的集団 の中核である宗家は集落の草分けの家で,その家は根屋・元屋・大家・根人屋・根神屋などと呼 ばれる。草分け家の兄弟(エケリ)がマキヨの政治的支配者となったのが根人であり,エケリの 姉妹(オナリ)が宗教的支配者となったのが根神と呼ばれる人物であった。根人・根神の出現に はマキヨの政治的社会化があり,このような政治と宗教を司る人物を同一の宗家から輩出する支 配体制が祭政一致社会の原型である。複数の集落を支配した根人が按司となり,按司社会では宗 教的活動の主体であった根神はノロ(祝女)と呼ばれるようになった。そしてノロは按司の支配 地一帯の最高神女の地位を占め,領内の神女を率いて按司と並ぶ祭政一致体制の中心的存在とな っていった。ノロの宗教的な性格は名称こそ違うが根神と同様で職能にも著しい違いはない。し かし,マキヨ社会よりも一層政治的社会化の進んだ按司社会において,宗教的勢力の保持者であ るために根神よりも政治的色彩は濃厚になっている。根神または初期のノロは按司とともに地方 社会を支配する祭政一致社会の宗教的な一側面であったが,1429年に尚巴志によって統一的な 琉球王国が建国されると中央集権的な神女組織の組織化が顕著となった。この神女組織の中央集 権化は宗教の政治に対する従属化を目的としたものであった。その後,明確に神女組織が確立し たのは第二尚氏王統の尚真王(1477〜1526)時代である。ここに至って,地方集落の祭祀におい て主体的な役割を担ったノロは琉球王国の地方神女組織に組み込まれ,公儀ノロとしての地位を 確立した。なお,ノロは地方神女組織に属し複数の集落祭祀を司祭していたが,根神もまた集落 祭祀のみでなく国家単位の祭祀の際にも引き続き重要な役割を担い,根人も祭祀の補佐役を果た していたことが指摘されている19)
。旧今帰仁集落には今帰仁ノロ,供のかねノロ,今帰仁阿応理屋恵の
3
人がいた。今帰仁ノロは 旧今帰仁集落,旧親泊集落,旧志慶真集落の3
集落を管轄し,供のかねノロは今帰仁ノロの次位 の役職で祭祀の際には今帰仁ノロの供をした。今帰仁阿応理屋恵は三十三君20)
のひとりで前者の ノロとは性格が異なる。今帰仁ノロと供のかねノロが集落祭祀をおこなうのに対して,今帰仁阿 応理屋恵は城の守護,王統発祥地である伊平屋島への遥拝など国家単位の祭祀をおこなってい た。ノロ以外にも女性神人21)
としてサキモリ,クモリ,ヨモリ,花の真牛,志慶真乙樽,居神な どがいて,男性神人もシマヌウフヤク,カータヌウフヤク,トントトトンガミなどがいた。大正― 269 ―
末期の調査では居神
38
人,トントトトンガミ7
人を含めて今帰仁ノロ以下50
名ほどの神人がい たが,戦後は30
人を越えた例はないという22)
。2.神人の分布と空間構造
神人は代々,特定の門中と呼ばれる始祖を同じくする父系の血縁集団から輩出される。もとも と神人が輩出される門中は集落形成期の有力門中であって,それが現在まで連綿と続いている。
そのため神人を現在も輩出している門中は集落形成期においても有力な一族であったと考えるこ とができ,現在の神人を調査しその分布を考察することによって集落形成期の有力一族がどのよ うに配置されていたかという計画性をうかがい知ることができよう。そこで,まず『今泊誌』収 録の門中調査票から門中の数について確認をおこなうと全
29
の門中を確認することができた。次に公民館館長への聞き取り,屋号や門中構成員の姓名を参考に各門中の宗家を判断し地図上に 復原する作業をおこなった(第
8
図)。門中調査票で確認された全29
の門中の中には他地域に宗 家がある門中や,複数の屋敷地を持つ門中宗家もいるためこの図は全29
の門中宗家の位置を示第
8
図 門中の宗家分布― 270 ―
した図ではないが,図上に大部分の門中宗家を復原することができた。
伝統的な集落では土着の「腰当」思想を基盤とするため,一般に御嶽を最上位としてその下位 に宗家,分家と階層的な屋敷配置がみられる。そのため門中宗家は集落内でもより古い場所に立 地していると考えることができる。そこで,図上にて門中宗家の位置を確認したが,門中宗家は 分散して立地しその分布からは特定小字や特定地域への集中を読み取ることはできなかった。
次に門中宗家の分布から神人を輩出している宗家を改めて地図上に復原することを試みた。今 泊集落の神人構成については前述したが,後継者不足などにより現在は構成員が全てそろってい るわけではない。また,神人の名称も若干変わっているために現在の神人が過去のどの神人に当 たるのかを考える必要もある。そのため『今泊誌』記載の「屋号調査票」と「門中調査票」,海 神際での神人の座位置の確認(第
9
図),今帰仁ノロ家の住人および公民館館長,古老への聞き 取り調査をおこない神人が出自する門中を調査することによって神人を排出する門中を図上に復 原した。調査の一例を挙げれば第9
図の海神祭に参加する神人の座位置からかつての神人名称を 特定する。次にこれをもとに現在はカータヌウフヤク(カータヌ大屋子)がカターヌペーフと呼 び名が変化したことを確認し、現在のカターヌペーフ一族の系図を確認する。この一族は7
代目 で3
つの家系に分かれる。3つに分かれたそれぞれが屋号を持つが、長男がハータヌペーフであ ることから、門中からはカータヌウフヤクと呼ばれた神人が輩出されていた事がわかる(第10
図)。このような調査を繰り返すことによって神人を輩出する門中およびその宗家を確認してい く。調査過程を経て神人輩出宗家の位置を示したのが第
11
図である。この図では調査資料と聞き第
9
図 海神際での神人の座位置(今帰仁村歴史文化センター準備室
1994, 8
頁より引用。)第
10
図 カータヌウフヤクの系図(今泊誌編集員会
1994
に加筆。)― 271 ―
取り調査によって得られた情報を全て記した。公民館館長によれば現在,年中行事に参加するの は館長を含めて
5
名程度と神人の高齢化や後継者不足により昔に比べると著しく減っている。そ のため図上で示した家はあくまで調査によって系図をたどったものであり,現在は神人を輩出し ない家も含まれている。しかし,個別の名称を持つ神人(例えばシマヌペーフなど)については ほぼ復原できたと思われる。なお,図上では現在,ノロを輩出している家については門中宗家と は別にそのまま記した。今帰仁ノロについては嫁継などの継承方法もあって門中宗家から現在も ノロを輩出している。一方,供のかねノロとトゥムニハーニノロは呼び方が方言であるかどうか だけで同じノロである。図上ではトゥムニハーニノロを輩出する門中宗家をトゥムニハーニノ ロ,現在のトゥムニハーニノロが居住する家を供のかねノロとして示している。神人の分布を概観するとその多くは親泊原に集中し今帰仁原にはわずかしか居住していない。
神人が旧家の中でも有力門中によって代々継承されることを考えれば,このような分布からは旧 今帰仁・旧親泊集落が移動する際に計画的に親泊原へ有力者が移動したと考えられる。すると,
祭祀空間の分布から推定したように旧今帰仁集落は今帰仁原へ,旧親泊集落は親泊原へという従
第
11
図 神人の分布― 272 ―
来の伝承はここでも否定される。また祭祀空間と祭祀者の分布をあわせて確認すると親泊原北側 にはフプハサギがあってトゥムニハーニノロが居住し,親泊原南側にはハサギングヮーがあって 今帰仁ノロが居住していた。この祭祀空間と祭祀者の一致した分布は,現在の集落が旧集落から 移動する際に祭祀面を考慮して計画的に移動されたことを示唆する。
先行研究では琉球の祭祀空間および祭祀者の移動パターンから近世における集落移動の型を区 分すれば二通りのタイプが見いだされることが指摘されている。一つは全住民が新たな集落へと 移動するタイプで,その場合の各旧家は集落の上位,すなわち集落中央の背面か左右背面に配置 される。もう一つのタイプはノロ家・根人家などの最高神事家だけは移動することなく,他の住 民だけが先に新集落へと移動する型である。後者のタイプではすでに集落の上位は占有されてい るため,下位に位置することになる。
この視点からノロ家の位置を確認すると供のかねノロを輩出した門中宗家(図中ではトゥムニ ハーニノロ)は親泊原の北側,今帰仁ノロは南側にそれぞれ位置する。ノロ家が旧集落から移動 してきた時期については明確な資料が残っておらず,ノロ家住民に対する聞き取りからも判然と しない。そのため,旧集落の住人が一緒に移動してきたのか,旧家だけが後に移動したのかは不 明である。年代を特定する一つの手がかりは各屋敷地の大きさである。1737年に導入された宅 地割では一般住民は規制値(265 m2)以下の宅地しか認められない。しかし両ノロ家はこれ以上 の敷地を有していることから,少なくとも宅地割導入以前に移動していたと考えられる。
では両ノロ家が今帰仁城焼き討ちの
1609
年から宅地割制度導入の1737
年までの約130
年の間 でいつ移動したのかを考えると,トゥムニハーニノロ宗家は親泊原の中央部の集落でも中心部に あるため,焼き討ち後に早々と移動したと考えて良いだろう。一方,今帰仁ノロは周縁部に立地 する。これを先述の移動タイプを踏まえて先行住民の後から移動したために周縁部に位置したと 見るか,あえて初めから周縁部に位置したと見るかが問題である。これについては様々な見方が できるが,樹木の大きさを一つの指標として考えれば,今帰仁ノロ家には樹幹が3 m 40 cm
を越 える琉球松の大木がある。この大きさから考えれば今帰仁城が焼き討ち後,それほど間を経ずに 現在地へと移動したと考えて良いのではないだろうか。次に今泊集落では上位の方角をどこに設定すれば適当なのだろうか。ノロ家が後から移動した のでないとすれば,両ノロ家の位置から考えて親泊原側,つまり集落東側を上位とみるべきだろ う。親泊集落がすでに先行して親泊原に集落を形成していたという事もあるだろうが,その要因 の一つとしては今泊集落の地形もあると考えられる。第
12
図は南を上とした字今泊の空中写真 である。写真からわかるように今泊集落はやや海岸部に突き出すように位置しているために海風 が強い。しかし,親泊原の東端の津屋口墓付近は崖状になっていて直接の風を受けにくい。この ような生活に適した地形が集落形成の際に考慮されて親泊側に最初に住居がつくられる要因とな ったと考えられる。また,津屋口墓は今帰仁監守であった尚和賢の墓で,今帰仁城焼き討ち後は 大道の東端に監守一族が居住していたといわれ,監守一族に関する施設は親泊原にのみに立地す る。このような自然環境とそこに居住する住民の階層を踏まえれば親泊側が上位と考えられる。― 273 ―
したがって,今泊集落の祭祀空間と祭祀者が計画性を持って移動されたと仮定すれば,集落東側 の南部を上位として認識していたと考えられる。
第
12
図 字今泊の空中写真(今泊誌編集員会
1994
より引用。)― 274 ―
3.旧集落と現集落の拝所構成
前章では集落内の祭祀空間と祭祀者の分布から集落の形成過程やその計画性について考えてき た。続いて旧集落と現集落の拝所を比べることによって集落の計画性を考えてみたい。
現集落にはハサギングヮー,フプハサギ,オーレウドゥンの
3
つの拝所があって,それぞれを 今帰仁ノロ,供のかねノロ,阿応理屋恵ノロの3
人が管理していた。一方,今帰仁城に近接した 旧集落にも今帰仁ノロ殿内火神(第13
図),トモノハーニー(供のかね)火神(第14
図),阿応 理屋恵按司火神(第15
図),さらに古宇利ノ火神(第16
図)の4
つの拝所があってそれぞれ対 応するノロが管理していた(第17
図)。一見すると新旧両集落にある拝所は管轄するノロが同じ だけで共通性はないようにみえる。しかし,旧集落の拝所の古い名称を確認すると今帰仁ノロ殿 内は「上の殿」, トモノハーニー火神がある敷地には供のかねノロが居住し「下の殿」と呼ばれ ていた。さらに「上の殿」にはいくつかの香炉があり,南南西に向かって置かれる香炉はクバの 御嶽への遥拝所となっている。前述したように「殿」と御嶽は同質の拝所で,御嶽を遙拝する目 的でつくられたのが「殿」である。その「殿」をさらに統合したのが神アサギであるため,旧集 落の拝所と現集落の拝所は今帰仁ノロ殿内=ハサギングワァー,トモノハーニー火神=フプハサ ギと読み替えることができる。阿応理屋恵按司火神についても阿応理屋恵ノロの邸宅があったと 考えられているので,阿応理屋恵按司火神=オーレウドゥンと読み替えても差し支えないだろ第
13
図 今帰仁ノロ殿内にある火神 第14
図 トモノハーニー火神第
15
図 阿応理屋恵按司火神 第16
図 古宇利ノ火神― 275 ―
う。
旧集落にあった
4
つの拝所の位置を確認すると中央の街路(第17
図の中央太線)を挟んで東 側に今帰仁ノロ殿内とトモノハーニー火神,古宇利ノ火神,西側に阿応理屋恵按司火神がある。続いてこの拝所の相対的な位置関係を考えたい。
高橋は旧集落の地筆を考察し,シニグンニから阿応理屋恵按司火神,今帰仁ノロ殿内,古宇利 ノ火神を経て今帰仁城跡の正門へと連続している地筆郡を移動前の旧今帰仁集落の痕跡と考え た。また中央街路の交差点の東西にはその南北の地筆郡と比較するとやや大きな地筆郡が続いて いることから,旧今帰仁集落内に性格を異にする二つのブロックを想定している。その一つは阿 応理屋恵按司火神を中心としたブロック「阿応理屋恵按司火神地筆郡」で,もう一つは「古宇利 ノ火神地筆郡」である。さらに,二つの地筆郡のうち「古宇利ノ火神地筆郡」が今帰仁城跡の外 郭に取り込まれていることに着目して,一つのまとまりを持った旧今帰仁集落のうちでより核心 的であった一部が,まだ集落が存続している時期に防備を固めるなどの目的で石垣に取り込まれ
第
17
図 旧集落の拝所と地筆(高橋
2003
に加筆。)― 276 ―
たと考えれば,「古宇利ノ火神地筆郡」の確信性や重要性が浮かび上がってくると推測してい る
23)
。古宇利ノ火神が位置する敷地には古宇利殿内があって古宇利島への遙拝がおこなわれていた。
古宇利島は沖縄の人類発祥伝説を持ち,『琉球国由来記』にも「郡村」としてその祭祀が記載さ れている由来のはっきりとした島である。城(グスク)の初期形成には有力者の居宅,祭祀空 間,共同葬所など様々な説があるが,城内に祭祀空間があるのが一般的なことを考えれば由緒あ る祭祀空間をあえて城内に取り込んだと考えても不思議ではない。もし,あえて「古宇利ノ火神 を取り込んだとすればこの拝所の階層性はかなり高い」といえるだろう。
現今泊集落では古宇利ノ火神は今帰仁ノロ家の敷地内に祠を建て祀られており,現集落で再 度,拝所の位置を確認すると親泊原側にハサギングヮー,フプハサギ,古宇利ノ火神があり,今 帰仁原側にオーレウドゥンが位置する。そこで現集落における拝所の位置と旧集落における拝所 の位置を比較すると,現集落の小字境界線と旧集落の中央街路を一つの境界として,旧集落で中 央街路の東側に位置する今帰仁ノロ殿内,トモノハーニー火神,古宇利ノ火神は現集落でも対応 するハサギングヮー,フプハサギ,古宇利ノ火神が集落東側の親泊原に位置し,旧集落西側に位 置する阿応理屋恵按司火神は現集落でも対応するオーレウドゥンが集落西側の今帰仁原位置し,
旧集落の拝所の位置が新集落においてもそのまま対応していることがわかる。つまり新旧両集落 の拝所の位置を大観すれば,その位置は街路を境として東西の方向性を踏襲しているといえる。
次に現今泊集落の拝所が旧集落の拝所の位置をどれほど踏襲しているかをみていきたい。今帰 仁城跡の外郭に取り込まれた古宇利ノ火神は別として,実際に地図上にてハサギングヮーと今帰 仁ノロ火神(今帰仁ノロ殿内)を起点とした
3
つの拝所の相対的位置関係を計測すると,それぞ れの拝所までの距離は近似し,新旧両集落の拝所の位置関係は極めて似ている。さらに,旧集落 の中央街路と現集落の小字境界線の持つ意味を考えると,両街路ともに国レベルの祭祀をおこな う阿応理屋恵ノロと集落単位の祭祀をおこなう地方ノロとの境界分布線とみることができる。つ まり,祭祀レベルの違いが旧集落では「阿応理屋恵按司火神地筆郡」と「古宇利ノ火神地筆郡」という
2
つの地筆郡の違いになり,現集落では小字の違いとなって現れていると考えることがで きるのである。第
6
表 新旧両拝所の相対的位置関係起点 対象拝所 距離(m)
ハサギングヮー フプハサギ
97.1
オーレウドゥン
105.2
起点 対象拝所 距離(m)
今帰仁ノロ火神 トモノハーニー火神
82.3
阿応理屋恵按司火神92.5
― 277 ―
Ⅳ おわりに
本論では今帰仁村字今泊を対象として村落計画にみられる祭祀的理念を検証してきた。拝所の 分布から集落構造をみるとハサギングヮー,フプハサギの両神アサギがともに親泊原にあって,
今帰仁原に旧今帰仁集落が移動し親泊原に旧親泊集落が移動したという従来の伝承とは一致しな い配置となっていた。また神人を輩出する門中の復原でも神人は親泊原に集中して居住してい た。したがって,旧今帰仁村・旧親泊集落ともに有力者は親泊原に移動したと考えるのが妥当で ある。実際に今帰仁監守の居住地が親泊原にあることもそれを裏付けているといえる。親泊原に 多くの有力者が居住したのは親泊原の方が居住環境からみて好条件であったことと,すでに親泊 集落が一部形成されていたためだと思われる。このような要因から自然と親泊原に有力者を集中 的に居住させるマスタープランが作成され,その基軸として大道が形成されたのだと考えられ る。
マスタープランでは祭祀空間の位置も重要視されたと考えられ,旧集落の祭祀空間と現集落の 祭祀空間は非常に似た配置がおこなわれていた。琉球集落では「腰当」思想にもみられるように 祭祀空間の位置は極めて重要で,風水思想とともに最も重視される要因の一つといえる。そのた め旧集落から今泊集落への移動は,大道と現在は小字界となっている南北街路を基軸とした祭祀 空間の配置が大前提としてあったといえる。したがって琉球の集落形成では基軸の設定に祭祀空 間の位置が大きく影響していたと考えてよいだろう。
今後,さらに今帰仁城跡周辺の発掘調査が進むことによって旧集落の実態がますます明らかと なる。それにともない今帰仁城,旧集落の祭祀空間と旧集落の土地割という
3
つの空間の関係も 徐々に明らかになっていくと思われる。この点については今後の検討課題としたい。注
1)沖縄県立芸術大学付属研究所編『鎌倉芳太郎資料集(ノート篇)第二巻 民俗・宗教』沖縄県立芸術大 学付属研究所,2006, 10-16.
2)今泊誌編集委員会編『今泊誌』今帰仁村字今泊公民館,1994, 617.
3)高橋誠一「今帰仁城近接地からの集落移動と今泊集落の形成−土地所有からみた分析−」(関西大学ア ジア文化交流研究センター編,アジア文化交流研究,4,関西大学アジア文化交流研究 セ ン タ ー,
2009),10-11.
4)今帰仁村教育委員会編『今帰仁周辺遺跡Ⅲ』今帰仁村教育委員会,2007.
5)本論での古琉球の定義は農耕社会の成立から島津氏の琉球征伐(1609年)までの期間とする。
6)グスクの本質をめぐっては,倉庫・武備的グスク,村の拝所としてのグスク,原始社会から古代社会へ 移行する時期の防御された集落など,様々な議論が存在する。安里進『グスク・共同体・村−沖縄歴史 考古学序説−』榕樹書林,1998, 81-93.
7)北山滅亡の時期に関しては
2
つの説が存在し,『蔡温本中山世譜』,『球陽』などでは1416
年,『蔡鐸本 中山世譜』,『中山世鑑』などでは1422
年に北山滅亡の記述がある。和田はこれら資料の記述を整理す ることにより,北山の滅亡が1422
年であることを指摘した。以下,本稿では1422
年を北山滅亡の時期― 278 ―
としてあつかう。和田久徳「琉球国の三山統一についての新考察」お茶の水大学人文科学紀要,28(2)
, 1975, 13-39.
8)仲原弘哲「今帰仁のムラや集落の移動」『すくみち 第
13
号』今帰仁村教育委員会・今帰仁村歴史資料 館準備室編,1990(今帰仁村歴史資料館準備室編『今帰仁研究2』沖縄県今帰仁村歴史資料館準備室,
1992
に収録),169-174.9)高橋誠一「琉球今帰仁城周辺の集落とその移動」関西大学東西学術研究所紀要,36, 2003, 1-27.
10)宮城弘樹・玉城靖「集落遺跡に関する考古学的研究」(沖縄県今帰仁村教育委員会『今帰仁村文化財調 査報告書第
20
集 今帰仁城跡周辺遺跡Ⅱ−今帰仁城跡周辺整備事業に伴う緊急発掘調査報告−』今帰 仁村教育委員会,2005),173-180.11)沖縄県今帰仁村歴史文化財センター編『なきじん研究
7
今帰仁の地名−字名と小字−』沖縄県今帰仁 村教育委員会今帰仁村歴史文化財センター,1997, 45-56.12)前掲
9)1〜27.
13)高橋誠一「今帰仁城近接地からの集落移動と今泊集落の形成−土地所有からみた分析−」(関西大学ア ジア文化交流研究センター編,アジア文化交流研究,4,関西大学アジア文化交流研究 セ ン タ ー,
2009),469-496.
14)琉球新報社編『沖縄コンパクト辞典』琉球新報社,2003, 122.
15)仲松弥秀『神と村』,梟社,1990, 179-189.
16)殿内(とぅんち)は狭義には按司以下の上級士族(親方家)総地頭家の邸宅,広義には士族の屋敷を指 す。宗教上の屋敷にも殿内と呼ばれるものがあり,地方の祝女(ノロ)屋敷も祝女殿内と呼ばれた。琉 球新報社編『沖縄コンパクト辞典』琉球新報社,2003, 291.
17)伊波普猷・東恩納寛惇・横山重編.『琉球史料叢書第二』名取書店刊行会,1940, 15.
18)仲松弥秀『古層の村 沖縄文化論』沖縄タイムス社,1977, 139-155.
19)宮城永昌編『沖縄のノロの研究』吉川弘文館,1979, 63.
20)三十三君とは多数の神女という意である。地方ノロの上位に位置し,その役職に就くものは王家出身で あった。
21)神人は祭祀をとりおこなう人を指し,ノロも広義では神人の一人である。特定の家系から代々輩出され る。
22)前掲
2)353.
23)前掲
9)17.
― 279 ―
A Ritual Idea in Ryukyu Village Planning
MATSUI Koichi*
The purpose of this paper is to consider the ritual planning in the Ryukyu settlement. Imadomari was the one of the old settlements which Nakijin Castle had at the foot of the castle and located in the cen- tral part of Hokuzan. But the settlement was demolished by the invasion of Satsuma into Ryukyu. The new settlement was moved to the coast and rebuilt. The rebuilt settlement didn’t seem to have a clear plan from the consideration of the distribution of head families (Soke), however the priest houses dis- tributed unevenly. Besides the distribution of the ritual spaces was very similar to the former settlement.
It became obvious that former distribution of the ritual spaces was clearly succeeded to the newly built settlement.
Key words : Ryukyu settlement, ritual space, settlement movement
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Faculty of Letters, Kansai University E-mail : [email protected]
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