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新羅王京の整備における基準線と尺度

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(1)

新羅王京の整備 にお ける基準線 と尺度 黄   仁   鏑

I.は

じめ に

.新

羅 王 京 の坊 里

.王

京 の計 画都 市 化 の 過 程

.都

市 計 画 の基 準 線 と尺 度

V.お

わ りに

 

  

新羅真興工代 における新宮 (皇龍寺

)建

設計画 に始 まる王京の計画都市化 は、 まず、月城お よび皇龍寺一帯の王京中心部 において限定的に始 まる。北川以北 と南川以南の外郭地域 にまで都市整備 が段 階的に及び、その完成 を見 るには、約200年 かか った。王城であった月城 は存在 したが、各段 階別 に都市設計の基準 となった拠点施設は、皇龍寺 (1段階)、 北宮 (2段階)と別個 に存在 し、拠点施設 の立地選定には、すでに存在 していた主要幹線道路 も考慮 されていたであろう。初期 における都市計画 の基準線 としては、皇龍寺南門前 を東西に通る幹線道路、そ して月城や後の臨海殿 (月池宮

)一

帯 の王 宮地区 とその北東 に隣接する皇龍寺地区の境 となる南北道路、そ して狼山西麓を南北 に通過 し浦項・蔚 山方面へ と続 く南北道路 な どがある。皇龍寺 を中心 として左右対称 に配置 された幹線道路 の間には、4 つの区画 (BIock)が 存在 し、各区画の規模 は、一辺が 1尺 約35.5cmの高句麗尺で460尺 (宅地400尺 、 道路敷地60尺

)に

該当する。三国時代末に唐尺が導入 され、用途によって高句麗尺 と唐尺 は区別 して用 い られたが、市街地区画および坊培の設置など、工京整備に関 しては継続 して高句麗尺が使用 された。

二聖山城出上の物差に見 られるように高句麗尺 は、漢尺 (約23,7cm)は 無論のこと、当時の山東地域 な ど北方地域の長尺系統 とも互換が可能なように考案 された漢尺の応用物差であった と考えられる。

キーワー ド

  

新羅王京

 

坊里制

 

都市計画

 

基準線

 

高句麗尺

国立 中原文化財研 究所

(2)

I. 

は じめ1こ

韓 国古代史の一翼 を担 う新羅文化の中心地であった慶州 は、国力 と政治状況の変化によ って都城 を移 した高句麗や百済 とは異な り、千年近い歳月、新羅の首都であった。慶州に おいて、坊里制 とい う一種 の都市計画によって、それ以前 とは大 きく異なる体系的な首都 整備が開始 されたのは、中古期 の真興王代頃であ り、その完成 まで、約

200年

もの歳月が 必要であった。

当時広 く盛行 していた中国式の都城制 は、中央集権的 な支配概念 を内包 してお り、律令 国家 の基礎 を整 え、大部中心の伝統的な権力体系 を王権 中心 に一元化 してい くための制度 的な装置 と考 え られる。 このような動 きは、

5世

紀末〜

6世

紀前半の各分野 における制度的 な変化 に基づ いてお り、王京内部の行政体系 の改編 にとどまらない。九州五小京 という拠 点都市の運営 に も見 られるように、地方経営 にも多 くの影響 を及ぼ してお り、王京内部の 改変 と地方経営 は相互に関連 していたもの とみ られる。

坊里名 を設定 した という慈悲王代の記録 は、

6世

紀中葉の皇龍寺創建頃を上限年代 とす る

460尺

(約

163.3m)単

位 の方格市街地の区画 を整備 した時期 とは、約

80年

のずれがある。

古代 日本 において、京域の条坊 とは別に広域 の土地区画制度である条里制が施行されてい たように、新羅 において も坊制 による都市整備が本格 的に実施 される以前に、既存の王京 六部の村落 と土地 を一定の形態に規格化 していた可能性がある。

以後、王京の計画都市化 は、月城お よび皇龍寺周辺一帯か ら始 まり、北川以北や南川以 南の外郭地域 まで、漸進的に行 われた。各段 階別 に、最小 の行政単位区域 (坊と推定

)の

規模 や形態 は多少調整 され、場合 によっては変則的な もの も生 じたが、新宮の分割方式が 互いに連結で きるように、道切 に使い分け られる とい う特徴 も確認で きる。王京道路の路 幅 自体 は、周辺の状況に応 じて臨機応変に決定 された ようであるが、設計当時には

60尺

(1 段階)、

40尺 (2段

)、

20尺 (3段

)と

均等 に道路敷地が確定 したことも明 らかに した。

以上の ように、王京の整備 は王城たる月城 を中心 に行 われたが、各段階において都市設 計の基準 となった拠点施設は、皇龍寺

(1段

)、 北宮

(2段

)と

月城 とは別に存在 した。

この ような拠点 は、すでに存在 していた主要幹線道路 とも、非常 に密接 な関係があったと いえる。

本稿 においては、 まず、最近の王京遺跡 における発掘調査 によって確認 された坊里痕跡 の意味 と、段 階別の計画都市化の過程 について検討 し、次 に、初期の都市設計の基準線 と して活用 された と思われる招知王代 に整備 された官道 とその基準尺度について考えてみ よ うと思 う。

(3)

新羅王京の整備 における基準線 と尺度

Ⅱ。新羅王京 の坊里

新 羅

20代

慈悲 王 12年

(469)に

京都 の「坊 里 名 」 を定 めた とい う 『三 国史記』 巻

3の

記 録 は、 王 京 の改編 時期 と関連 して注 目され る もの の ひ とつ で あ る。 ここに、行 政 区域 の改 編 が

5世

紀 に実 際 に行 われ た のか、 そ れ と も既 存 の編 制 の名 前 だ け を単純 に変 更 した のか とい う疑 間が生 じる。 なぜ な らば、 これ までの ところ、 この記録 と符合するような同時期 の坊里関連の都市遺跡 に関する調査事例が、慶州 にはないか らである。

この点については、早い時期か ら行政区域であった六部の もとに、新たな行政単位である 坊里が編成 され、単位政治体であった六部の性格 に変化が起 こった とする見解が大勢 を占 めてい るようである。例 えば、 申衡錫 は、部体制の基本的な枠組み を維持 していた慈悲王 代 に里制が まず実施 されたが、 これは既存の六部内部 に対す る効率的な統制のために、王 権 による一定の再編が行 なわれた結果 とみている。 また、坊制 については、人口増加 な ど 新 たな単位編成の必要か ら、遅 くとも統一新羅初期 には設定 され、「坊里」名 と坊 と里 を続 けて記 したのは、後代の事実 を遡 らせて記録 したため と推定 した1。 全徳在 もまた、単 に六 部の諸集落 を里 に編制 し、六部の 自治権 を制限 しつつ各部に対す る影響力 を強化す るきっ かけを作 ったという見解 を提示 したことがある2。

これ まで、

5世

紀代 に慶州の都市計画が行 なわれていたことを立証する考古学的資料 は 未確認である。 よって、慈悲王代 の坊里設定 に関す る記録 は、少な くとも、王京内の市街 地の整備 を伴 う構造的行政体系の改編 を意味す るものではなかった と考えられる。 しか し、

古代 日本の藤原京 (新益京、

694〜 709)や

平城京 (710〜

784)で

は、京域内部の市街地区 画 として適用 された条坊制3とは別に、京域外 では、租税制 と関連 して、方格 の土地区画制 度である条里制が広範囲に施工 されていたことを勘柔すれば、既存の王京六部の村落 と土 地 を、日本の条里制のように、一定の面積で規格化 していた可能性 は少な くはないであろう。

日本の場合、条坊 と条里の空間的範囲は異なるのみならず、その区画の規模 にも違いがあ る。 よって、新羅の坊制 と里侑1も異 なる時期 に施工 された り、施工時期が重 なっていた と して も、その適用範囲が相異 なっていた可能性 はある。ただ し、坊 と里が王京の内部、 ま たは計画都市化が進行中の王京 中心部 な ど、同一の空間範囲における行政単位の上下 を示 す概倉であった可能性 も依然 として排除することはで きない。

新羅王京の規模 と行政区域 に関 しては、王都 の全長が3,075歩、幅が3,018歩であ り、35 里

6部

が存在 したとい う記録 (『三国史記』巻34、 雑志3、 地理

1)が

ある。 また、全盛期 には、京内に178,936戸、1,360坊、

55里

35金

入宅があった とい う記録 (『三 国遺事』巻

1、 紀異1、 辰韓

)も

あ り、さらには

360坊

17万

戸 という記録 (『三国遺事』巻5、 避隠8、

念佛師

)も

ある。そ して、市典 を置いて管轄 した市場 については、

509年

に京都 に初めて東

(4)

市が設置 され、

695年

に西市 と南市 を設置 したとい う記録 (『三国史記』巻4、 新羅本紀4、

智證麻立干

12年

、『三国史記』巻8、 新羅本紀8、 孝昭王

4年 )が

ある。

以上の ような記録 を見ると、新羅 は六部のもとに、

35あ

るいは

55の

里 と、360あ るいは 1,360の坊 を置 き、

3つ

の市場 を運営 していたことになる。全盛期には、王京内に 17万 人以 上が居住 し、

35の

大邸宅が存在 した。

坊里 は本来、中国の西周時代か ら始 まるもので (『考工記』「匠人」)4、 都城制度の基本構 成 をなす宮城計画、廟社計画、市里計画、道路計画のなかの一つ として扱われていた。里 または間里 は、都市 における居住区域や周辺集落の組織単位 として、古 くは周代の金石文 などにその用例が認め られる。宮内においては、まず坊 として呼び表されるようにな り、『魏 書』 によれば、北魏平城 の都市 において も坊 と呼ばれ、北魏洛陽の民衆の間で も、家戸が 多い場合 には坊 と呼ばれた とい う5。

国家 に火急の事態が生 じた際には、百姓たちに里門 (関

)を

厳 しく守 らせた という『周礼』

「郷大夫」の記録 に見 られるように、里は四方に囲緒 をめ ぐらせ る形態で、里門を除いては、

事実上出入 りが統制 されていた構造であったことがわかる。

北魏の平城 と赫連夏の統萬城 においては、被征服民の受容 と効率的な統制、管理を通 し て、生産の能率 を向上 させてい くために坊培制が施行 された。五胡十六国か ら北朝を経て、

唐代の長安で完成す る都城の形式は、中国古代か ら続いて きた形式 とは異なる側面がある。

その最たる ものの一つが、被征服民 として徒民 された人々を統制するために坊培制が出現 した点であ り、 これ こそが遊牧民族 に出 自をもつ王朝の都城の もっとも重要 な指標 とみる 見解がある6。

新羅 において も、王京中心部の「坊」 と推定 される居住単位区域それぞれの四方には、坊 培がめ ぐってお り、居住民 に対する一定の統制 と管理が可能な構造である。 しか し、外郭 の坊塔 に隣接す る大規模 な家屋の場合、門を道路側に直接設けてお り、坊培制固有の統制 機能は、多少弱 くなっていたことが うかがえる。

新羅が工京 に碁盤状の市街地 と道路網 を造成 したことは、『周礼

y考

工記に基づいた当時

の東 アジアの伝統的 な都市計画 と関連があることは事実である。 しか し、中国式の都城制 をその まま受容す るのではな く、当時の状況に合わせて部分的に変更を加えて都市整備に 適用 したため、坊里 の構造や規模 において周辺国家の都城 と比較 して、様々な特徴 を有す ることになった と考 えられる。

大 きな特徴 としては、まず王京道路 によって分割 された最小の単位区域の規模が、位置に よって、より明確 に言 えば造成時期 によって異なるという点を挙げることがで きる。高旬麗、

百済、あるいは 日本の ように、遷都 を通 した都城の建設が行なわれなかった新羅であるが 故 に、三京内部の都市整備が時間差 を持 って段 階別 に行われた事実については、容易に認

(5)

新羅王京の整備における基準線と尺度

め る こ とが で きるで あ ろ う。 しか し、各段 階別 に都 市 の構 造、お よび地割 の規模 が それぞ れ異 なっていた とい う点 については、検討すべ き様 々な課題 として残 っている。

先 に言 及 した 『三 国 史記』 と『三 国遺事

Jに

お い て、相 互 に異 な って記述 され た坊 里 の 数 もまた、 王 京 の復元研 究 に大 きな混乱 を もた ら して い る。 これ までの王京 の構 造 や規模 に関す る諸先学 の多 くの研 究成果が、実際 の発掘 調査 に よって確 認 され る考古 資料 とあ ま

り符合 しない とい う現状 もあ る。

周 知 の よ うに、 月城 の北 東 、 そ れ ほ ど遠 くない場 所 に位 置す る皇 龍寺l■の東方地 区 にお い て、最 初 に坊里 の区画痕跡 と思 われ る規格化 され た最小単位地域 が全面的 に発掘調査 さ れ た。 以 後、各所 にお いて部分 的で はあ るが王京遺 跡 が発掘調査 された こ とで、 その構 造 や規模 、 地割 の向 きな どが画一 的で はない とい う事 実 が知 られ る よ うになった。皇龍寺創 建 時 期 と関連 のあ る坊 里 の痕 跡 をは じめ と して、 王 京 の市 街地 を格 子状 に区画 したそれぞ れの単位 区域 は、都市整備 の時期 によって、大 き くい くつかの類型 に区分す ることが で きる。

大 きい もの は約 26,670∬ の方形 、小 さい もの は約 19,850∬ と、王京 の改編 に伴 う最小行政 区 域 の規模 と形 態 は、少 しずつ異 なって はい るが、文献 の坊 里 の うちの「坊 」 に該 当す る も の と考 え られている。

しか し、新 羅 の

360(ま

た は1,360)個 とい う坊 は、 中国西安や 日本 の奈 良の条坊 と比較 して、単位規模 に大 きな違 いがある7。 単純 にみれ ば中国、 日本 の条坊 は、 む しろ新 羅の 35

(も しくは

55)個

の「里」 に姑応すると考えるべ きであろう。 しか し、里が坊の上位単位で あったのか、里の もとにい くつの坊が編成 されていたのかについては、いまだ明確ではな く、

比較が難 しいのが実情である。

複雑 な様相 を呈 してはいるが、王京の行政区域の改変 と直接的に関連する都市計画の痕跡 が、実際の発掘調査 において確認が相次いでお り、上述の難題は今後、ある程度解決 され てい くのではないか と考 える。ただ し、 ここで注意 しなければな らない点は、 これ までの ところ、

6世

紀以前 にさかのぼる坊里 に関連する考古資料が確認 されていないことである。

す なわち、 この状況 と、

469年

(慈悲王

12)に

坊里名 を定めた とい う文献記録 をどの よう に適用 させ るかである。あるいは

5世

紀頃に、首都整備 を含 めた本格的な行政改編の先行 事業 として、慶州盆地各地 に位置す る既存の村落 と土地 を区画、整理す る里制が行 なわれ たのではなかろうか。 この ような推論 は、後 に六部 中心の既存の集落が、新たに王京 中心 部の計画都市の中に編入 されてい く過程 とも、関連付 けて検討 してい く必要があろう。

.王

京 の 計 画 都 市 化 の 過 程

皇 龍寺址 周辺 地域 にお ける古代都 市遺跡 の発掘調査 は、新羅王京 の計画都市化 の過程 を 考古 学 的 に解 明す る出発 点 とな った とい う点 にお い て、 王 京研 究 の新 地 平 を開い た。 1976

(6)

年か ら始 まった皇龍寺 の中心伽藍 の発掘調査 は、

8年

間か けて行 われ た。その後 、寺域 の境 を確 認す るための外 郭調査 が行 なわれたが、 その調査 が まさに進展 中の時 に、坊培 の外側 において寺院 とは関連 の ない規格化 された都市遺跡が確 認 されたのであ る。

皇龍寺址調査 の延長 と して、1987年か ら

16年

間学術 発掘調査が行 なわれた皇龍寺l■東方 の王京遺跡で は、『三 国遺事』辰韓 条 と念佛 師条 の「坊 」 に該当す る とみ られる王京改編の 最小 単位 区域

(SlEl地

区、約 26,670∬

)の

全 貌が 明 らか となった8。 続 い て、 北 川 (東川

ともい う

)以

北 の東 川 洞 681‑1、

690‑3番

地 遺跡9に

お い て も、坊 の企画 と造営尺 度 を復 元 し得 る資料が確 認 され るな ど、以後、王京遺跡 における様 々な発掘調査が行 なわれた。そ の成果 を通 して、行政 区域 の改編 に伴 って造成 された王京 内の計画都市 の構造 とその変遷 につ いて、断片 的で はあ るが、検討す ることがで きる ようになったのである。

慶州盆 地 内の各 地 において、碁盤 目状 の市街地区画の痕跡が確 認 され るにつれて、都市空 間 を分割す るための制 度、す なわ ち坊里 制 の一定の規則性 を見 出す研 究が進 め られ る よう になった。この ような研 究課題 は、新 たに整備 された計画都市 と既存 の大部地域 Юとの関係、

さ らには新羅 王京 の整 備 背景 と当時 の政治社 会相 を明 らか にす るため には、欠 かす こ との で きない もの と考 え られている。

2図

は、慶 州 にお いて最近 まで に発掘調査 された主要 な王京 遺跡 の 中で、空 間分析 の 規則性 が よ く反映 され都 市計画 の標識的 な遺構 と評価 で きる王京 道路 や坊培 の主要属性 を、

図式化 した ものであ る・ 。別宮、苑池、寺利 な どの国家 的施設 をは じめ として、 その他の公 共 施設や多 くの家屋 が並 び立つ空 間 を、一定 の形態 と規模 の単位 区域 (街区

)と

して整 然

と分割す る ものは、道路網 である。そのため、道路計画 は坊里制 と不可分の関係 にある。

古代 日本 の藤原京 の条坊 規格 につ いて、小 澤毅 は、藤 原京 の条坊 が大宝令大尺 (35 4cm) に よって設計 され た とい う井上和 人 の研 究 ワが立証 された と評価 す る。 そ して、 条坊道路 を側溝心 々間の距 離 で比較 す る と、偶数条坊 大路 は

45大

尺 (約 16m)、 奇 数 条坊 大路 は 25 大尺 (約9m)、 一般小路 は

20大

(約

7m)と

3段

階の規格 に よって整然 と設定 されて お り、朱雀大路 の場 合 は藤原宮外 で は

70大

(25m)で

あ るが、宮 内部 で は偶数条坊大路 と同一 で あ った こ とを指摘 した。 また、 この ような藤 原京 の条坊 は、天武朝段 階か ら京 の 範 囲全域 に施工 された とみている 彎。

新 羅 の場合 も、最小 幅

4m内

外 か ら最大 幅

20m以

上 までの多様 な道路遺構 が確 認 されて お り、大路、 中路 、小路 (十字路

)な

ど大 き く

3つ

の規格 に類型化 す る ことは可能 である。

よつて、 日本 の事例 の ように、大路 によって市街地 を大 き く区画 した後 に、 これを小路 (十 字路

)に

よって再 度 四分 割す るこ とで、最小 単位 区域 を設定す る方式 が採 択 され た可能性 はあ る。 しか し、 この よ うな空 間の分割方式 を立証 し、坊 里 な どの分割単位 との相 関関係 を明 らか にす るため に は、大路 や小路 (十字路

)な

どの一 定規格 の道路 が、一定 の方 向 と

(7)

新羅王京の整備 における基準線 と尺度

順序 に配置 され なければな らないが、現状 で は複雑 な様相 を呈 してお り、問題 となっている。

この点 で、 筆者 は道路計 画 を考 える際 に、路 幅 の類型 化 が実際 の坊 里 の分割単位 と直接 的 に 関連 が あ るの か、 とい う疑 問 を抱 くよ うに な り、 別 の角 度 か らの解 釈 を試 み た こ とが あ る 。 そ こで は、道路 の設計段 階 におい て道路 それぞ れ の路 幅 は、分割単位 と関連 して さ した る意 味 を持 た ないが、 それぞれの単位 区域 間の空 間 (具体 的 に は、 隣接 す る坊 培 間の 道路 が 設 け られ る空 間)、 す なわ ち道路敷 地が 、市街 地 を一 定 の単位 に分割す る実際の役割

を果 た した と考 えた。

特 に、個 別 の道路 が位 置 に よって不規則 な規模 で設置 され てい る状 況 とは異 な り、道路 を 設 置 す るた め に あ らか じめ確 保 され た道路 敷 地 が、均 等 な規 模 で割 り当 て られ てい た こ と を示す発掘調査 の結果 は、示唆す る ところが大 きい。皇龍寺l■東方 に位 置す る最小単位 区域 で あ る

SOEl地

区 とそ の南方 の

SlEl地

区の 間、 そ して

SlEl地

区 とその南 に隣接 す る

S2El

地 区の間の道路敷地 は、約

21mと

一 定の幅 を維持 してい る。一方 で、

SOEl地

区 と

SlEl地

区の 間の 道路 敷 地 には、小 幅 の東 西 道路 (幅

55〜 75m)が

敷 か れ、

SlEl地

区 と

S2El地

区の 間 には、大路 (幅12.5〜

155m)に

該 当す る東西道路 が敷 かれ るな ど、道路 の規格 は ま ち まちで あ る。前 者 の場合、道路敷 地 に比べ て実際 の幅 が非常 に狭 く、道路 の周辺 に帯状 の空 間が長 く延 びる状況が生 じた りもす る。

要す るに、道路敷 地 は道路 の規格 や改変 に よる路 幅 の変化 とは関係 な く、均等 に定 めてい たの で あ る。 実 際 に設置 された東西道路 の規格 に違 いが あ る理 由 につい て は、 閉 じてい る 皇龍寺東面坊塔へ と続 く小路 と、通行量が非常 に多 い皇龍寺正 門 (南門

)へ

と通 じる大路 と い う、機能 の違 いではないか と考 える。す なわち道路 の施工 においては、該 当区間の交通条 件 や物流 、隣接 施 設 な どの周辺 の状 況 と関連 させ て、路 幅 を調節 した と推 測 され、そのため、

道路 敷地全体 が道路 と して活用 されず に 不必 要 な余剰 空 間が生 じた りも したのであ ろ う。

この ように、均― な規格 の「道路敷地」 に よって、まず市街地 を一定の単位 区域 に区画 し、

道路 の路 幅 を周 辺 の状況 に合 わせ て調節す る「均等分割 方 式」 とで も呼ぶべ き方式 が、藤 原京 や平城京 の条坊制 と対比 され る新羅固有 の空間分割方式 であった可能性 がある。

皇 龍寺l■東 方 の王京 遺 跡 (SOEl・

SlEl'S2El地

)の

発 掘 成 果 に よれ ば、王京 の最小 単位 区域 を区画す る道路敷 地 は、他 で もない高句 麗尺 (35.5cm)の

60尺

(約

21.3m)に

該 当 す る。 また、 道路 敷地 に よって区画 された方格 の単位 区域 の一辺 は

400尺

(約

142m)と

な るい。 この二 つ を合 わせ た一辺

460尺

(約

163.3m)の

方 格 区画 の痕 跡 は、 雁 鴨池北 方 の仁 旺洞

556番

地 遺跡、皇龍寺西方 の廃寺址 遺跡 、慶州博物館 敷地 内遺跡 な どで も共通 して確 認 され た こ とに よって、王京 中心 部 に該 当す る月城 と皇 龍 寺 周 辺 地域 にお け る都 市 整備 の 様相 をあ る程 度把 握す る こ とが で きる ようにな った硲。

一 方、新 羅 中古期

Vに

始 まる王京都市 整備 の もう一つ の特徴 と しては、 月城 を基準 と し

(8)

て大 陵苑 と東西 に対称 位 置 となる月城北 東方 の地域 (仁旺 洞、 九責洞 一帯

)に

お い て、 ま

ず都 市計画が施行 され、 そ の後、若干 の変化 を見せ なが ら外 郭地域 まで都市化が漸進 的 に 拡張 してい った とい う点 を挙 げ る こ とが で きる。 この よ うにみ る根拠 と して、かつ ての慶 州 邑城 に当た る西部洞 一帯 や北 川以北 地域 な ど、統 一期 以後 に追加 して計画都市 に編入 さ れ た地域 (2・

3段

階 整 備 区域

)で

は一 辺

460尺 (163.3m)を

基 本 とす る方 格 の市街 地 区 域 の痕跡が確認 されてい ない点 を挙 げ るこ とがで きる。 また、城東洞 の殿廊址 (推定北宮址)

や九責洞の芥皇寺一帯 をは じめ とす る北川以南 の地域

(2段

階区域

)で

は、一辺

400尺

の方 格 単位 区域 の規模 はそ の ま ま維持 され るが、道路敷地 は既存 の

60尺

か ら

40尺

(約14.2m)

に修正 された とみてい る。 よって、市街地 の分割単位 は既存 の

460尺

か ら

20尺

少 ない 440 尺 (約

1562m)に

縮 小 され た こ とに な り、 この ような空 間分割 の痕跡 が芥皇寺南方 の東西 道路 、芥皇寺東方 の苑池遺跡 、殿廊址 西方 の南北 道路、西部洞

19番

地遺跡 な どで確 認 され た18。

そ して、最終 的 に都 市 整備 が完 了す る地域 の一つ であ る北 川以北 の東川洞や龍江洞一帯

(3段

階 区域

)で

は、道路敷 地が既存 の

40尺

か ら

20尺

(約

7.lm)に

さ らに縮小 され、単位 区域 もまた方

400尺

か ら東西430×南北

330尺

の東西 に長 い規模へ大 き く修正 された事実が 明 らか とな って い る。 この よ うに、東西

450尺

(約 159,7m)、 南 北

350尺

(約

124.2m)を

基本単位 とす る全 く新 しい市街 地分害Jの痕跡 が、北 門路 王京遺跡、東 川洞

681‑1遺

跡 、東 ナIII同

690‑3番

地遺跡、東川洞

696‑2番

地遺跡 な どで相次いで確認 され てい る19。

460尺

を基本単位 とす る

1段

階の都市計画 に よって整備 された方格 区域 の範 囲 は、現在 の ところ北側 と西側 の境 界 が 明 らか となってい る。北側 の境界 は、皇龍寺北辺 に隣接す る東 西道路 (敷地

)の

延 長線 であ り、西側 の境界 は

SOW5地

区の西辺 に隣接 す る南北道路 (敷地)

の延 長線 であ る。 この西側境 界線 は月城 の南北 中軸線 と連結す るので、

2段

階 目の都 市 整 備 は、推 定北宮l■ (殿廊 llL)と 月城 を南北 に結 ぶい わゆる朱雀大路推 定線 を基準 とす るの であろ う。

月城 を基準 とみ る と き、皇 龍寺 の あ る東北側 に偏 ってい る

1段

階 目の計 画都 市 は、西 方 側 の大 陵苑 な どの陵墓 地域 や鶏林 、皓星台、官衛 が密集す る地域 と東西 に対置す る新興 の 核 心 地域 に造成 され た とい え る。 したが って、娼 知王

9年 (487)の

月 城 修 築 以後20、 名 実 と もに王宮 と して位 置 づ け られた月城 が、

 1段

階都市整備 の中心 にあ った と見 るこ とも で きよう。 しか し、筆者 は各段 階の都 市設計 の拠 点施設 は、 これ とは別 にあった と考 えて い る。

皇龍寺 は宮 に比す る国家 的 な大寺 院であ り加、南 門前 には大規模 な広場 を備 えていた。 ま た、寺域 は

4つ

の単位 区域 (坊

)を

占め る程 に広大 であ り、周辺 の計 画都 市 と有機 的 な関 連 を有 してお り、

 1段

階都 市 整備 の拠 点施設 であ る可能性 を示 してい る。 これ まで明 らか

(9)

新羅工京の整備における基準線 と尺度

となっている皇龍寺周辺 に位置す る都市遺跡の上限年代 は、皇龍寺 の創建時期 にまでは遡 らず、多少時期が下 るが、

SlEl地

区の西辺南北道路 は創建伽藍 に沿 って造成 されている。

また、

 1段

階 目の区域 に属す る近隣の仁旺洞

556番

地遺跡では、短脚高杯や無瓦桶式平瓦、

模骨瓦 な ど皇龍寺創建時期 にほぼ一致す る

6世

紀中・後半 に位置づ けられる遺物が、多数 出土 している。

皇龍寺 の創建計画 (当初 は新官 の造成計画

)は

、律令 を基礎 とす ることで支配体制 を改 編 してい こうとす る試行の一環であつた と考 え られる。王権 と貴族勢力の間の折 り合いの 中で、新宮ではな く皇龍寺が造営 された と見れば、王京内の都市整備が当初 は月城や皇龍 寺周辺 に限定 して小規模 に推進 された状況 も、同様の背景の中である程度理解することは で きるであろう。

以上の ように、王京の中心部か ら始 まった計画都市の建設事業 は、王京全域 に同一のパ ター ンで行 われたわけではなかった。少 な くとも、三度にわたる拡大、改編が認め られる 都市計画 は、以前 の方式 を修正、補完 した ものであった。

2段

階都市計画 は、初期の計画 よ りも道路敷地の規模 を

60尺

か ら

40尺

に縮小す る程度の変更 に とどまったが、

3段

階 目 においては道路敷地が さらに

20尺

縮小 され、単位区域 (宅地

)も

また規模が大 きく修正 さ れた。道路敷地が段 階的に縮小 された理 由 としては、当初か ら均― に割 り振 られた道路敷 地の規模 に比べ て実際の道路幅が狭 い場合 に生 じる不必要 な空間を、最大限少 な くす るた めと考えてお きたい。

ただ し、各段 階の新 たに修正、補完 された空間分割方式が、該 当地域 に対 して一律的に 適用 されたわけではなかろう。新たな道路網 をすでに整備が完了 した既存の道路網 と有機 的に連結す ることがで きるように、新旧の方式を適宜使い分けていた ものと考 える。例えば、

2段

階 目の整備 区域 に入る芥皇寺一帯では、

440尺

を基準 とす る新たな分害J方式が、東西南 北 に全て適用 されたわけではなかった。すでに、南方の皇龍寺周辺地域 は

460尺

単位 に空 間が分割 されていたために、新たに

440尺

の基準 を一律 に適用 して しまうと、二つの地域 をつな ぐ南北道路が境界地点で全て屈折 して しまうことになる。 したがって、南北道路 (敷 地

)は

既存の方式の まま

60尺

幅で設置 し、既設の道路網 とのつ なが りが問題 とならない東 西道路 (敷地

)に

ついては新たに

40尺

幅で設置 したのであろ う。

この ような様相 は、

3段

階整備区域 において も認め られる。 ただ、北川以北の東川洞一 帯の ように、河川が通 り既存の地域 との連結 を考慮す る必要が ない場合 には、分割方向に 沿 う道路敷地の規格 をよ り自由に調整す ることがで きたであろ うし、単位 区域 の規模や形 態 を実用的に変更 して も、 さほど問題 にはならなかったと考 え られる。

最終の

3段

階都市計画によって整備 された王京の外郭地域 においては、特殊 な変形構造 も認め られ るようになる。す なわち、一般的には道路や坊培、建物址等の中軸 を真北方向

(10)

に揃 えるの に対 し、 この段 階 で は軸 が大 き く振 れ た市街 地 区画の痕跡 が相 次 いで確認 され てい る22。

この点 に関 しては、芥皇寺東方 の苑池遺跡 で確認 された磁北か ら20°程東へ と振 れ る

8世

紀代 の建物址 の ように、小 金剛 山や北川 な どの地形 の影響 によって、既存 の 区画方向 とは異 な り東 に振 れ る区画が存在 した と李恩碩 がす でに指摘 した ことが あ り23、 実 際 に これ を裏付 けるような発掘成果 も確認 されている。 まず、

2007年

に発掘調査 された東川洞

891‑10香

地遺跡では、磁北か ら

20度

以上東 に振れた道路遺構が約

6m分

確認 された24。 また、月城 南側 に隣接する仁旺洞

412番

地遺跡 において も、磁北か ら

4度

以上西に振れる道路遺構 (路 幅は約

84m)と

建物l」Lが確認 された25。

王京 内の都市整備 において最終の

3段

階区域 に入 る地域 において、 この ように変形 した 空間分割の痕跡が認め られる理 由は、必ず しも明確ではない。ただ、変形構造が確認 され る芥皇寺東方一帯や東川洞

891‑10番

地一帯、仁旺洞

412番

地一帯 は、共通 して北川 に隣 接 していた り、北川 と山裾が出会 い、細長 く狭 い平野部を形成 している地域 である。北川 (東川

)の

水量や川幅は現在 とは異 なっていたであろうが、河川の方向は大 き くは一致する。

その流れの方向が、変形 した市街地区域の方向 と一致 していた と考えられ よう。また、仁 旺洞

412番

地一帯の場合 も、月城 と南山北麓の間の狭い平野部を南川が東西 に横切っている。

軸が振れているこの地域 に都市が拡張 される際に、地形条件 に合わせて変形 させた市街地 の区画が行なわれた もの と考えられる。

以上の ように、主 に

8世

紀以後、

3段

階整備区域 において確認 され る斜格 子形態の空間 分割 は、地形条件 に合 わせ て限 られた土地の活用度を上げるための ものであったと考えら れる。 また、王京の外郭へ と都市化が段 階別に進行 しなが ら、低い身分の者が居住する宅 地の規模 を小 さくし、道路敷地の不必要 な部分 も最小化 させ ようという意図 と軌 を―にす る側面 もあるといえよう26。

Ⅳ .都 市 計 画 の基 準 線 と尺 度

1.都 市計画の基準線

新羅 は中古期 に入 り、具体 的には皇龍寺創建頃か ら、一種の都市計画 といえる坊里制を 基礎 として体系的な首都整備 に着手 した。王京六部を中心 とした権力構造か ら脱皮 し、律 令国家の統治基盤 を確立す るための王京改編の一環であった と考えられる。月城に隣接 し た王京中心部か ら部分的に始 まった計画都市化は、三国統一以後に北川以北 と南川以南の 外郭地域 にまで段 階的に拡大 した。 これ と関連す る市街地区画の痕跡は、今 日においても 比較的よ く遺存 している。

前節で概観 したように、

1980年

代以後、都市遺跡の発掘調査が本格化 し、「坊」 と推定 さ

(11)

新羅王京の整備における基準線 と尺度

れ る王京 の最小行政単位 区域 とそれ を区画す る道路網 の設計法則 を明 らか に し得 る端緒 が、

断 片 的で はあ るが確 認 され る ようになった。 国家 的施設や 宅地が入 る空 間 を同一 の規模 と 形 態 に分割 す るため には、 その基準 にな る原 点 また は基準 線 が存在 したであ ろ う し、特 定 の基準線 か ら一定の距離 を計測す るため には、統一の基準尺 度が必要であったろ う。

周 知 の ように、新羅 における都城 の建 設 また は整備 におけ る核心 は、王宮 たる月城 であ る。

4世

紀 には何 らかの実体 が存在 した こ とが考古 学 的 に立証 され27、

487年

の修築以後、政治 、 軍事 的 に求心体 と して の役 割 を担 っ た月城 は、 王京 内の都 市 計 画基準 の原 点 と定 め られ た

もの と考 え られ る。 なぜ な らば、 月城 は四方 を山で 囲 まれ た慶州盆地の中央 や や南 寄 りに 位 置 してお り、約

200年

(真興 王 〜景徳 王代

)を

か けて段 階的 に建設 された計画都市 (王京)

が 月城 を中心 に発達 してお り、 さ らには月城 の南北 中軸線 が王京 を左右 に分 け る重 要 な基 準 線 にな ってい るか らであ る。

月城 の 中央 を南北 に通過 す る基準 線 は、 一辺

460尺

の方格 市街 地 区画が適用 され た

1段

階 区域 の西側境界線 にあた り、

2段

階 目の都 市 設計 にお け る拠 点施設 と思 われ る北 宮 (城 東洞殿廊址 )か ら南方の月城へ真直 ぐ連結 してい る。北宮 と推 定 され る殿廊址 は月城 の真北 、

2段

階 目の都 市整備 におけ る事 実上 の境 界 た る北 川 の南側 丘 陵 に位置す る。 よって、北 宮 の立 地 は 日本 の平城宮 の立地条件 を連想 させ 、正宮 た る月城 とも有機 的 な関係 を うか が わ せ る。

一 方で、

 1段

階 目の都 市計画 において中核 た る月城 とは別 に、皇龍寺 とい う拠点施設 が存 在 した とみ られ る。 王京改 編 と関連 して、 計 画都 市 が本格 的 に建 設 され始 めたの は、坊 里 名設 定記事 か ら

80年

余 り過 ぎた

6世

紀 中葉 、 皇龍寺創建 の 頃で あ った。前 節 で皇龍 寺址 と 都 市 遺跡 との有機 的 な関連性 に言及 したが、 そ の他 に も皇 龍寺創建 の背景 や そ の立 地 条 件 、 周 辺 の幹線 道路 は、

 1段

階 目の都 市 整 備 にお い て皇 龍寺 が 占め る重要性 を よ く物 語 って い る。

よ く知 られているように、皇龍寺の創建計画 については、真興王が王太后の摂政 を終 わ らせ、新 たな改革政治の意志 を貫徹す るために、月城 に代 わる新 たな新宮 の建設 を計画 し た ことに始 まるといえる。真興王

14年 (553)の

「春二月 王命所司 築新宮羹月城東 黄龍 見其地 王疑之 改烏佛寺 賜琥 日皇龍」 とい う記事 (『三国史記』巻

4新

羅本紀

4)と

関連 し て、趙由典 は新 たな宮閉建設の背景 として、真興王が

20歳

となった在位

14年

目に、摂 政 期 の宮閥であった月城 を脱 け出 し、直接 に政事 を管掌で きる親政体制への変化 を模索 して いた とみた。新宮の建設位置は、月城 と明活城の中間位置 に当たる現在の皇龍寺l■である。

この場所 は明活山 (東)、 仙桃 山 (西)、 慶州南 山 (南)、 小金岡J山 (北

)の

頂上 を線で結 ん だ時 にその線が交差す る位置 にあた り、慶州盆地のほぼ中心 にあたる。 また、皇龍寺址 の 伽藍面積は約82,000どと、宮閉を新たに築 くにも十分な広 さであ り、位置、敷地 ともに申 し

(12)

分 ない もので あ った28。

朴 方龍 もまた、皇龍寺が工京の中心 に位置 していた とみ た29。 皇龍寺創建 に関連す る縁起 説話 の、新宮 を創建 しようとしたが、黄龍が現 れたため に寺刹 に変 えた とい う内容 を念頭 に 置 き、「黄龍

Jの

「黄

Jは

、五 方位 の正 中央 を象徴 す る もの と理解 した。 そ して、皇龍寺南 方 に近接 す る狼 山は新羅時代初期 に中岳 に比 定 されてお り30、 新 羅 人 には、 王京全体 を仏 国 土 とみて、そ の 中の須 弥 山に該 当す る場所 が狼 山で あ る とい う観念が存在 した とみた。 こ れは、善徳女王が狼 山 (の

)を

切利 天 と呼 んだ こ とと関連 がある としている。

真 興王代 にお いて、王京 中心部 に該 当す る月城東北方 の低 湿地帯 に新 た に建 設 しようとし た宮 閉は、皇龍寺 とい う仏寺 に変わ りこそ したが、政治 と宗教思想 を合 わせ た護国寺刹 の創 建 、それ に時 を合 わせ て造営 され始 めた周辺 の計画都市 は、中央集権体制 を 目指す政治的力 量 の表れではなか ったか と考 える。 この政治的力量 はあ る意味で限定的 な もので もあった。

新 羅 は真興 王代 に大 々的 に領土 を拡張 し、 漢江 流域 を占め、真 興王

18年

(557)│こ 1ま高 句麗 の 国原城 が位 置 していた忠州 に小京 を設置す る 凱。 その後、武王

18年 (678)か

ら神 文 王

5年 (685)に

か けて、北原小京 (原州)、金官小京 (金海)、西 原小 京 (清州)、南原小京 (南 原

)な

ど、他の五小京 を設置 し、地方行政区域 た る九州 を初 めて定め る32。 景徳 王16年 (757)

には、 これ らを中国式名称 に変更す る。 この ように、新 羅 は三 国統一 を前後す る一定期 間、

地方の支配体 制 を強化す るの に併せ て、都市計画 に基づ く首都 王京 の改編作 業 を段階的に推 し進 めている。

6〜 8世

紀 にか けて、中央 と地方 に大 々的 に城 を築 き、都市 を造営 してい くが、

現在 の「新行 政首都 」 とい える世宗新都市建 設 を取 り巻 く政 治、社 会 的 な葛 藤 に も見 られ る よ うに、 当時 にお いて も王権 と貴族勢力、 また は他 の勢力 との葛藤が、 国策事業 に大 き な影響 を及 ぼ した もの と予想 される。実際 に、神 文王

9年

(689)に首都 を達句伐 (今の大邸) に移 そ うとい う計画が霧散 し、すでに述べ た ように、真興王

14年 (553)に

1ま、月城東北 方 に宮 閉を造営 しようとい う計画が、皇龍寺創建事業へ と変更 された。そ して、皇龍寺周 辺に限定 して、部分的に計画都市化が推進 された点 も、同様の脈絡で理解で きるであろう。

立地の選定や寺格 な ど、様 々な状況 を総合すれば、皇龍寺が

1段

階計画都市の建設 にお いて重要 なラン ドマークの ような性格 を持つ拠点施設であったと考えられる。ただ し、既 存の施設、特 に月城の存在 を意識せ ざるを得 なかったために、皇龍寺の南北中軸線が

1段

階 目における都市整備の絶姑的な基準線であった とみ ることは多少無理がある。慶州博物 館敷地内遺跡 と皇龍寺西方の廃寺l■遺跡で確認 された南北大路 は、月城 の東側境界 を南北 につ な ぐ主要 な幹線道路の一つである33。 この幹線道路 は、狼山西麓を南北に通過 し蔚山や 浦項方面 につ なが る現在の産業道路の下で調査 された もう一つの主要な幹線道路34と、皇 龍寺 を中心 において紺称の位置にあ り、注 目で きる。

この二つの幹線道路の間には、東西に

4つ

の単位 区画が存在 し、皇龍寺 はその真中の二

(13)

新羅上京の整備における基準線 と尺度

つ の 区域 を占め てい る。皇龍寺 の西側 幹線 道路 の場 合、 月城 と文武王代 に造営 され た東宮 た る臨海殿址 (月池宮、 雁 鴨池

)一

帯 を包括 す る「王宮 地 区」 と、 その北東方 に隣接 す る

「皇龍寺 地 区」 の境 界 とな り、同時 にこの二つ の地 区 を最短距離 で結 んでいる。 この ように、

主要 な基準線 の一つ と考 え られ る。

さ らに、

 1段

階都市整備 の基準 とな った皇龍 寺周辺 の幹線 道路 の一つ として、皇龍 寺南 門前 を東西 に通過す る道路 も注 目す る必 要が あ る。 これ と関連 して、 イヒ ョンテは新 羅王 京 に適 用 され た里坊 制 の受 容 時期 を、律 令 が頒 布 され た法興王

7年

(520)ま で遡 らせ て考 えて お り、王京 を里坊 に よって 区画す るの に先 立 ち、皇龍寺南 門前 と興輪寺南 門前 を東西 に通過す る中心軸線 を定めた とみてい る35。

法 興 王代 (528年

)に

仏教 が公認 され た後、新 羅 で最初 に創建 された興輪寺 (真興 王

5年 (544))は

、 そ の位置が明確 にはなってい ない。現 在 の興輪寺 が位置す る伝興輪寺址 につ い て は、文 化財研 究所 慶 州古蹟 発掘 調査 団 (国立 慶 州 文化 財研 究所 の前 身機 関

)に

よっ て、

1970年

代 初頭 か ら

80年

代 初頭 にか けて

4次

にわ た る発掘調査 が行 なわれた。その結果、新 羅 時代 の一塔 式創 建伽藍 か ら統一期 以後 の双塔 式 重建伽 藍へ の変遷 が確認 された。 しか し、

こ こか ら「霊廟 之斜 (も し くは寺)」、「大令妙寺造 瓦」 な どの銘文瓦が出土 したため に、霊 廟寺址 (635年創建

)に

比 定 され るこ とが一般 的であった。興輪寺 の位置 については、味舞呂 王 陵が興輪寺東方 に存在 した とい う記録(『三 国遺事ゴ巻

1紀

1味

男Ь王竹葉軍条)と 金橋(西 川之橋)東方 の天鏡林 に興輪寺 が建 て られ た とい う記録(『三 国遺事』巻

3興

3阿

道基 羅条)

が あ る。金橋 が現在 の西 川橋付 近 で あ った と見 る と、西 川橋 と大 陵苑 の伝 味窮呂王 陵 を結 ぶ 東西 の線上 に興輸寺 が存在 した と推 定す る見解 もあ る36。 近年、慶州工業高等学校 の排水路 工事 中 に、「□興□」、「・・・寺」 な どの銘 文瓦が 出土 し、慶州工業高等学校一帯 に興輪寺 が造 営 され た可能性 が高 まってい る37。

しか し、「 金橋 (西川橋

)一

興 輪 寺 (慶州工 高一帯

)一

伝 味鴇卜王 陵 ―皇龍寺」 と連 結 す る 王京 の東西 中軸線が存在 したのであれ ば、 これ は明 らか に王京 の都 市計画 に大 きな影響 を及 ぼ した もの と考 え られ る。今後、興輪寺 門前 の道路 につ いての調査 が行 なわれれ ば、正確 な比 較研 究が可能 となろ う。皇龍寺南 門前 の広場 に繋が る皇龍寺東方 の

SlEl地

区で確 認 さ れ た東西大路 (最大幅

155m)は

、上 の東西 中軸線状 に位置す るのみ な らず、実際 に興輪寺 門前 へ と繁 が る可 能性 はあ る と考 え る。 近年 、 この道路 の延長線 上 において、道路遺構 が 2 ヶ所確 認 されている。

まず、 臨海殿址 東方 の王京遺跡38で調 査 され た

7〜 10m幅

の東西道路 は、現在 まで の検 出状 況 を見 る と皇龍 寺南 門前へ 続 く道路 で あ るが、 この道路 の存 続 時期 は、大型建 物 群 な ど雁 鴨池 (月

)周

辺 の臨海殿 (月池宮

)関

連 施 設 が造 営 され る文武王

14年 (674)以

前 に限 られ る と考 え られ る。す なわち、

 1段

階都 市 計 画 に よって皇龍寺創建 頃 に敷 かれ た道

(14)

路 で はあ るが、 王宮 地 区が 月城北 方へ拡 張 しなが ら廃棄 され た もの とみ られ る。 また、報 告 され た道路 の幅が、皇龍寺址東方

SlEl地

区の道路 と大 き く異 なっているが、 これは前節 で言及 した ように、高句麗尺

60尺

(約

213m)の

幅 で均等 に分割 された道路敷地 内において、

実 際 に道路 と して活用 した範 囲が それぞれの地点 に よって異 な っていた こ とを示す事例 で ある。

もう一 つの道路 遺構 は、

1999年

に仁 旺洞

759‑2番

地 遺跡 で調 査 された

6.7m幅

の推定東 西道路 で あ る。調査 地域 は、過去 に月城路古墳 群 な どが発掘 され た こ ともあ る旧教育庁十 字路周辺 であ る。 ここで、

2次

にわたって造営 された道路遺構 が調査 された。北 川以北の東 川洞

681‑1番

地 遺 跡、東 川洞

690‑3番

地 遺跡 な どで確 認 され た、側溝 の代 わ りに道路 中 央 に暗渠式のつF水 路 を設置 した道路遺構 と、 この道路 は類似す る構造である39。

この道路が設 置 され た地域 は、王 陵や貴族 た ちの墳 墓 が造営 された陵墓地 区 に属 してお り、王京 内の計画都市化 が進行す る以前か ら、一種 の神聖 区域 と して保護 されていた場所 で あ る。そのため、 月城 の南北 中軸線 を境 として西側 に該 当す るこの一帯 は、

460尺

を分害」単 位 とす る

1段

階 目の都 市 計画 の範 囲か ら除外 され た と推 定 して きた。 この道路 遺構 と関連 す る都 市 遺跡 の造成 時期 につ いては精密 な検討が必 要であ るが、道路 の敷設方法 や規模が、

3段

階 目の者「市整備 区域 の様相 と類似す ることか ら見 て、

8世

紀 以後 に計画都 市 が外郭地域 へ と広 が って い く頃 に、王京 中心部 において も部分 的 に都市整備 が追加 的にな された もの

と考 え られ る。

興 輪寺 門前 か ら皇龍寺南 門前へ 繁が る東西方 向の基準線 上 で は、

 1段

階 目の王京改編 と 関連 して設置 され た道路 が一定期 間機 能 した後 に廃 棄 され た り、

 1〜 3段

階 を通 して運営 され た り、 あ るい は最終 の

3段

階 目に至 って道路 が 追加 的 に設置、運営 され た りす る状況 が確 認 され た こ とに なる。 この ように、坊 里制 に基 づ く王京 内部 の計画都市化 は、遅 くと も真興王代 の新 宮 造成 計画 (皇龍 寺創建事業

)と

関連 して本格 的 に開始 され、 月城 以外 に も皇 龍寺 の ような拠 点施 設 を中心 と して、既存 の主要幹線 道路 を都 市設計 の基準線 と して 定めた もの と推定 され る。

F三国史記』巻

3新

羅本紀

3招

知麻立千九年 (487)│こ お ける「春二月

 

置神宮於奈 乙始祖 初生 之庭 也

 

三 月

 

始 置 四方郵繹

 

命所 司修 理 官 道

 

秋 七 月

 

葺 月城

 

冬 十 月

 

雷、 十年 春正 月

 

王 移居 月城 …」 の記事 の ように、新羅 は

5世

紀 末以 降 に激化す る三 国抗争 に合 せ て、月城 を中心 として内部的な結束 を固める一方 で、中央 と地方 を連結す る郵酵 を設置 し、

官道 を整備す るな ど地方 に対す る統制 も強化す る ようになる。

この記事 と関連 づ け るので あれ ば、皇龍寺南 門前 に連結 し、 月城北方の王京 中心部 を経 て金橋 (西 川之橋

)を

渡 り、牟 良騨 を通過 し西方 の大邸方面へ と連結す る幹 線 道路、 そ し て皇龍寺 の東 西 を走 る

2本

の南北 方 向の幹線道路、 さ らには月城南北 中軸線 の延 長 で北 は

(15)

新羅王京の整備 における基準線 と尺度

浦項 、東 南 へ は蔚 山方面 へ と続 く幹線 道路 は、招 知 王代 に4多理 され た官道であったろ う し、

これ らが初期都市計画の基準線 として活用 された可能性 が高い。

古 代 日本 の場合 も、最初 の律令制都城 た る藤原京 (694〜

709年 )造

営 の基準 となった上 ツ道 、中 ツ道、下 ツ道の

3本

の南北道路や、 これ らと直交す る横大路 とい う東西道路が、官 道 と して整備 されたのは、推古

21年 (613)の

こ とであ る。

2.基

準 尺 度

都 市 計 画 の基準線 に合せ て、慶州市街 地 を一 定 の大 きさの行政単位 区域 (坊里

)に

区画 す るた め に は、 まず正確 で統 一 され た基 準 尺 度が準備 されてい なけれ ばな らない。古代 国 家 の発 展 と と もに、流 通 お よび交易 が拡 大 し、大 規模 な土木、建築工事 が増 えるにつれて、

制 度 的 な枠 組 み の 中で度量衡 の標 準化 や改 良が行 なわれて きた。 そ の中で も尺 度 は、単 な る物 の長 さ以外 に も、 当時の土地 や租税 制 度 と関連 の あ る距 離、面積 の概 念 を包括 してい たため に、重要 に扱 われて きた。

当時 の度 量 衡 の体系 を明 らか にす る文献 史料 や金石 文 は非常 に限定的であ るため、残存 す る古 代 建 造 物 や遺 跡発 掘 で抽 出 され た一 定 の単位 値 か ら、基準尺 度 を復 元 しよう とい う 研 究 が行 なわ れ て きた。 その 中で、皇 龍 寺址 周辺 の調 査 成果 を土台 と して、王京道路 の造 営尺 が 高句 麗 尺 で はな く周尺 で あ った とす る見解 が あ る40。

1段

階 目の都 市整備 区域 に該 当 す る月城 お よび皇 龍寺址 周 辺 で は、多様 な路 幅 の王京 道路 が調査 されてい る。 これ らの道 路 は少 ない場 合 は1、

2次

、多 い場合 に は3、

4次

に わ た る改築工事 が行 なわれ、道路 の 中心 軸 も移 動 し、路 幅 の変化 も

3mに

も至 る場合 も多 い。 この ような状況 を考慮すれ ば、王 京 道路 自然 の単位 尺 度 を算 出す る こ とに は無 理 が あ る とせ ざるを得 ない。 また、 これ らの 道路 が周尺 に よって造営 され た と して も、 中国や 日本 の条坊 区画 の ように、分割単位 に よ って一 定 の路 幅 を有す る道路 が一定の方 向 とパ ター ンで敷設 され た こ とを立証 で きるか に つ いては、現状 では疑間である。

よって、坊 里 の区画体系 を把握す るため には、状 況 に応 じて流動 的 な王京道路 の路 幅 よ りは、 設 計段 階 か ら均 等 に分割 され た と考 え られ る道路 敷地 (隣り合 う坊 塔 間の距 離

)と

個別 の単位 区域 の規模や、その単位尺度 に主眼 を置 いて検討す る必要があろ う。

前 節 にお い て、 王 京 改編 と関連 す る市 街 地 整 備 が、 初 期 に は一 辺

460尺

の方格 区画 と し て開始 され、その後、

440尺

を単位 とす る区画 に一部修正 され、最終 的 に

450尺

×

350尺

(北 川以北)、 または

380尺

×

380尺

(南川以南

)と

い う区画 に変更 された とい う過程 について 検討 して きた。公共施設や宅地が入 る空 間を格子 目状 の道路網 によって一定に区画す る際 に用い られた尺度は、他で もない高句麗尺であった。 また、王京内の都市整備が終了する8 世紀以後 になって も、継続 して同 じ尺度が用い られた もの と考えられる。三国時代末に唐尺 が導入 され、統一新羅時代には一般的に唐大尺が流行 したが4、 王京の坊里区画については、

(16)

依 然 と して高句 麗尺 が適用 されていた。唐 か ら唐 大尺 が導 入 され る前 まで は、お お むね漢 尺が高句麗 を中心 と して用 い られてお り、その後、東魏尺 とも知 られ る高麗尺 (高句麗尺

)が

、 高句麗 は無論 の こ と百済 や新羅 において も広 く通用 された もの と知 られてい る。近年 では、

高句麗尺、唐 尺 な どの実物 資料 が発掘 調査 にお いて出土 してお り、 当時の尺 度 の用 い方 に 関す る新 たな見解 も提示 されてい る。

1998年忠 清 南 道扶 余 郡 双 北里遺跡 で唐 大尺 に該 当す る百済 時代 の木製物 差が 出土 した。

物 差 は、 一端 が 欠失 し約 19.2c皿分 の み残 存す るので、正 確 な規格 は知 りえないが、14.5〜

15.Omm単 位 (0.5寸

)の

目盛 が刻 まれ てい る。李康承 は

1尺

の長 さが 29,0〜 29 5cmと 復 原 さ れ る唐尺 であ った と推 定 してい る。 また、百済の唐 尺 受容 時期 につ いて も、扶 余外里 で出 土 した方形導 の大 きさに、 この唐尺 の長 さが反映 され てい る とみ て、 この方形埠 の年代 で あ る

7世

紀前 半 を百 済が唐尺 を採用 していた時点 と比定 している42。

一方、京畿道河南市春宮 洞 に位置す る二聖 山城 の

C地

区貯水池 か らは、

2点

の木製物差が 出土 し、 学界 の注 目を浴 びた43。 その 中の一つ は、

1999年

に出土 した もので、全体 の長 さ

が29.8cmと 、扶余双北里 出土 品 と同様 に唐大尺 に該 当す る ものであ る。扁平 な物差 の一側面

1寸

単位 の 目盛 が刻 まれてお り、10日 盛分 (10寸、

 1尺 )を

構 成 してい る。

も う一つ は、 これ まで高麗尺、 あ るい は東魏尺 と誤 って知 られ て きた 35.6cmの 高句 麗 の 物 差 で、

2000年

に二 聖 山城 貯水 池 第

5文

化 層 か ら

4つ

の破 片 と して 出土 した。 この高句麗 の物差 は角材状 の形態 で、一端 に 0.5cmの 間隔 を空 けて 目盛 が始 まってお り、物差 の全長 は 36 1cmと な る。 この物差 の時異 な点 は、目盛 の振 り方 にあ る。一般 的 には、10日 盛分 (10寸)

1尺

を成す のであ るが、 この物差 は5目盛分 を一つ の区間 として、 この区間が

3つ

あ り、

計15日盛 分 (15寸

)が

一 つ の物差 (1尺

)を

構 成 して い る。 また、最初 の区間の

5目

盛分 には、 それぞれの 目盛 を

5分

割 す る

2分

単位 の細 部 目盛 が刻 まれ て い るの に対 して、

2香

目の 区間で は細 部 目盛 は省 略 され、

3番

目の 区画 になる と、

 1寸

の 目盛 まで もが省 略 され て しまってい る。 目盛 はな くて も、

3番

目の区画の長 さは

5寸

で維持 されてい る。

高句麗尺 に関す る研 究 の 中で、ユ テ ヨンは二聖 山城 出土 品 を根拠 と して、 高句 麗物 差 の 正確 な用尺 は 35 6001cmで 、北方系 長尺 の影響 を受 けて、高句麗 が独 自に開発 した尺度 と理 解 した。 また、

5世

紀 頃 か ら少 な くとも渤海が減亡す る

10世

紀 まで、 中国 とは全 く異 なる 35,0〜 35 6cmに 該 当す る高句麗尺が、満州、朝鮮半島、 日本列 島、 山東半島にかけて広範囲 に使用 された とみた44。

高句麗尺 の内容 を知 る こ とので きる 日本の文献史料 としては、

9世

紀 に作成 され た養老令 の私撰注釈書 であ る 『令 集解』 が あ る。 それ までの様 々 な注釈 を集成 した ものであ り、大 宝令(701〜

757年

)の 内容 とその前後の尺度改定の状況が詳細 に紹介 されてい る。『令集解』

の 中には、「令 以五尺烏 歩者

 

是 高麗法用角度地令便

 

而尺作 長大

 

以二 百五 十歩角段 者

(17)

新羅王京の整備 における基準線 と尺度

是亦高麗術 云 之

 

即 以 高麗 五尺

 

准今 尺 大 六尺 相 首 」 とい う和銅

6年 (713)2月

の尺度改 定 の 内容 が あ り、大 宝 令 以前 に通用 して い た高 句 麗 の量 田法 お よび量 地 尺 (高麗尺

)の

内 容 を知 る こ とが で きる。 す なわ ち、土 地測 量 に使 用 され た大 宝令 大 尺 は以前 か ら通用 して いた高 (句

)麗

尺 に該 当 し、 これ は大宝令小尺 (唐大 尺

)の

2尺

と同 じで、実際の長 さは 35.4〜 35.5cm前 後 であ る45。 また、高句麗尺

5尺 1歩

は、和 銅格 に よって尺 度が小尺 に改定

され た

713年

以後 の

6尺 1歩

と同 じと記 されてい る。

古代 の 日本 にお いて は、律令 制都城 の成立 と して知 られ る藤原京 (新益 京、

694〜 709年

)

は無論 の こ と、大宝令 の概念 を実現す るために唐 の長安城 を再現 した平城京 (710〜

784年

)

の建設 において も、大宝令大尺 を利用 し市街地 (条坊

)を

区画 してい る。 また、中国 F周礼』

考工 記 の 匠 人 営 国条 に記 述 され た都 城 の理想 型 に倣 って、 長 方形 の都 城 の 中央 に宮 を置 い た藤原京 と、京域北端 に宮 を設置 した平城京 は、その平面名 においては対照 をな してい るが、

二つ の都 城 の単位 区画 につ いて は同一 であ る。す なわ ち、条坊 大路 に よって区画 され る1 坊 の大 きさは、

530m(1,500大

尺 、

 1里 )四

方 で

16町

か らなってお り、小路 に よって囲 ま れ た条坊 制 の最小単位 であ る と坪 は、約

133m(375大

)四

方 で

1町

に該 当す る。

ここで、新羅王京 と古代 日本の藤原京、平城京 において、京域 を区画す る単位尺度 として 大尺 す なわ ち高句麗尺 が用 い られてい る点 は重要 で、唐 尺 が伝 来 した後 に も継続 して高句 麗尺 が 使 用 され てい る こ とを示 してい る。新 羅 の場 合 、都 市 計 画 が段 階別 に少 しず つ 変化 した こ とに よって歩尺 の数 は調整 され たが、坊 里 の 区画 お よび土地 の測 量 において高句麗 尺が一貫 して用 い られた と考 え られる。一方で建物 の築造 においては、日本 の場合 と同様 に、

唐大尺へ と基準 尺度が転換 した こ とは、多 くの先行研 究 に よって、確 認 されてい る。

城 郭 につ い て は、慶 州 関 門城 で確 認 され た銘 文石 に記 され た築 城 工事 に動 員 され た地域 集 団 ご との担 当 区 間 (受地 距離

)と

、現在 の 関門城 の城壁 長 を比較 して、米 田美代治46が 提示 した29 4cmと い う唐尺が築城 に用 い られた基準尺度であることを明 らか に した研究があ る47。 こ こで、 第

1銘

文石 と第

2銘

文石 の 間の距 離

(760cm)が

、 第

2銘

文石 に記録 され た

4歩 1尺 8寸

とい う受地距離 と一致す るため には、「唐 尺

6尺 1歩

」 とい う条件 が前提 とな るが、 これ は上述 の和銅格 の内容 とも一致す る。

尺 度 の単位値 は、おお むね時代 が下 る程 に徐 々に長 くな り、場合 に よって は大尺、小尺 と分 けて使 用 され る。 ただ、新羅 の場合 は、遅 くとも統 一期 か らは長尺 の高句麗尺 と新 た に導入 され た唐 大尺 を用途や使用場所 に よって、使 い分 けていた ことが うかが える。 ただ、

この よ うな二 つ の尺度が準備 されていて も、 国家 的 に もっ とも重要 な王 京整備 において各 種 の測 量 や 土 木 工事 に は高句 麗 尺 が用 い られ てお り、依 然 と して長尺 の伝 統 が維 持 されて いた ことが うかが える。

王 京 道路 や水 路 の建設以外 に も、王京 の最小行政 区域 を取 り巻 く坊 塔 の築造 には高句麗

(18)

尺 が使用 された。慶州仁旺洞

556番

地遺跡 で、交差路 の一部 と坊培、建物l■が調査 されたが、

坊 培 の築造単位 は高句麗尺 の

10尺

(約

3.55m)で

あ った。 また、坊塔 の角 か ら最初 の出入 施設 までの距離 も正確 に

30尺

(約

10,7m)で

あ った こ とが、調査成果 か ら確認 で きた48。

上述 した二聖 山城 出土 の高句麗物差 は、 日盛が刻 まれた

10寸

(23.73cm)分と全 く目盛が ない

5寸

(11.87clll)分で構 成 されてい る。 これ は、漠尺 (約23 7cm)イ こ

5寸

分 を追加 して 長 くした、漢尺 の運用 物差 とみ る こ ともで きる。 よって、 漢 四郡 を通 じて朝鮮 半 島 に伝 わ った漢尺 を、高句 麗が

10寸

単 位 で は な く

15寸

単位 に変 更 して高句 麗 尺 を開発 した と想 定 してみることがで きよう。 この ように、高句麗 によって開発 された物差 は、既存の漢尺 と 北方地域 で広 まっていた長尺 を自在 に使用す ることがで きるように、考案 されたものでは ないか と推定 される。 ともあれ、漢尺の ■

5倍

である長35.0〜 35 6cmの高句麗長尺の伝統が、

いつ どの ように始 まったのか については正確 に知ることはで きないが、唐 との文物交流 に よって新たな尺度 (29,4〜 29 8cm)が 伝 わった後 にも、新羅や古代 日本 においては都城建設 お よび首都整備 において、継続 して高句麗尺が活用 された事実 はうかがい知 ることがで き よう。

V。

おわりに

6世

紀 中葉 の新 羅真興王代 にお ける新官 (皇龍寺

)建

設計画 に始 まる新 羅王京 の計画都市 化 は、 中央集権体 制 お よび律 令 国家 の枠 組 み を具備 す るため に行 った行 政体系 の改編 の一 環 であ った。 そ れ に先立 ち、

487年

(招知王

9)に

中央 と地方 の結束、地方へ の統制 を 目的 として王城 たる月城 を4多築 し、 郵酵 と官道 を整備 した。 さ らに、律令頒布 (520年

)梁

との

通交 開始 (521)、 仏 法公認

(528)な

ど、一連の改革 的 な施 策が なされ、王京 改編 のための 政治、社 会的基盤が準備 されていった。

坊 里 とい う行政 区域 の編成 は、慈悲王12年 (469)にす で に存在 した と記録 されてい るが、

月城 や皇龍寺周辺 な ど王京 中心 部 において、市街 地 の区画、整備 が実施 されたのは、皇龍 寺創 建 頃であ った。

360(あ

るい は1,360)坊と想定 され る

460尺

(約

163m)を

基本単位 と す る方格 で格 子 目状 の空 間分 割方式 は確 認 され るが、藤 原京 の場 合 の よ うに、行政単位 区 域 と関連 して

3つ

の規格 で道路 が設定 された とみ る根拠 は、現状 で は認 め られない。 また、

古代 日本 において京域 に限定 される条坊制 とは別 に条里制が広 く実施 された ように、坊制 中心の都市計画 とは別の土地 区画 (里制

)が

先行 して施工 された可能性 や、両者の空 間的 範囲が相異 なっていた可能性がある。

坊里制 を通 じて、六部中心 の既存集落を王京中心部の計画都市 に新 たに編入 してい く過 程 は、政治体の性格が強か った王京六部の伝統的な基盤 を揺 り動かす変革 として受 け止 め られたのであろう。そのためか、都市整備が王京中心部の一部 に限定的 に行われた後、約

参照

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