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トリノの憂鬱 : 晩年のボッビオ教授

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神戸市外国語大学 学術情報リポジトリ

トリノの憂鬱 : 晩年のボッビオ教授

タイトル(その他言語

)

Le Spleen de Turin : Prof. Bobbio dans ses

dernieres annees

著者

村上 信一郎

雑誌名

神戸外大論叢

62

1

ページ

1-30

発行年

2011-11-30

URL

http://id.nii.ac.jp/1085/00000432/

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トリノの憂鬱

―晩年のボッビオ教授―

     

Le Spleen de Turin : Prof. Bobbio dans ses dernières années

  

  

  

     

モーツアルト・バイオリン協奏曲第五番ト長調「トルコ風」

  最後にお会いしたのはいつのことだったのか。そんな昔のことではないのに、沢山の古い手帳を繰ってみても、なか なかその日付が見つからない。そうだ。あの日はトリノで何かの 見 フ ィ エ ー ラ 本市 があったせいで、宿がなかなか見つからなかっ たのだ。もうこんな所しか残っていないけれど、と言いながらアルベルト・パプッツィさんが申し訳なさそうに、駅裏 の安宿まで私を案内してくれたことを思い出した。いやいや、悪いのは、急に思い立ってトリノに行くと言い出した私 の方です。おそらくは、そんなことから、私の手帳には宿の名前が残されなかったのであろう。   だが、手帳に記された前後の記録をあれこれと辿っていくなかで、それは二〇〇三年九月六日のことだと確信するに 至った。その夜は、パプッツィさんが会長を務めるトリノ 音 ウニオーネ・ムジカーレ 楽 連 合 のコンサートが 王 テアートロ・レージョ 立 劇 場 で あ り 、 そ こ に 招 待

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されて、ウト・ウーギが演奏するモーツアルトのバイオリン協奏曲第五番ト長調K二一九番を聞いたのである。そうそ う、 こ の 曲 が「 ト ア ッ ラ ・ ト ゥ ル カ ル コ 風 」 と 言 わ れ る 所 ゆ え ん 以 と も な っ た 第 三 楽 章 ロ ン ド を、 ウ ー ギ が ア ン コ ー ル で も 得 意 げ に 繰 り 返 し ていた情景まで脳裏に甦ってきた。それにしても、どうして手帳に、その日のことを書き留めておかなかったのであろ うか。   ノルベルト・ボッビオ教授のお宅は、トリノの中央駅であるポルタ・ヌオーヴァ駅の横を走る路面電車の軌道に沿っ て な が く 続 く、 サ ヴ ィ ア ・ サ ッ キ ・ セ ッ サ ン タ セ イ ッ キ 通 六 六 番 地 に あ っ た 。 サ ッ キ 通 は 一 八 五 三 年 に 建 築 が 始 ま っ た 折 衷 様 式 の 凡 庸 な 建 物 か ら 成 り 立っており、アーケードのある一階には、洋装店や雑貨店や文具店や書店や 喫 ル 茶店 といったごくありふれた商店が並ん でいて、その上が住宅となっている。閑静な住宅街とはとてもいえない、都会の喧騒の絶えることがない庶民の街であ る。教授のお宅はアルプスの山々が遠望できる、その 最 ア ッ テ ィ コ 上階 にあった。一九三四年以来二〇〇四年に亡くなるまで、教 授は七〇年近くもそこで暮らし続けたのである。   私 が 最 後 に お 訪 ね し た の が 二 〇 〇 三 年 だ と す れ ば、 教 授 は そ の 時 す で に 九 三 歳 で あ っ た。 キ ケ ロ に 準 なぞら え て 教 授 が 『 老 デ ・ セ ネ ク ト ゥ ー テ 年 に つ い て 』 を 著 し た の は 一 九 九 七 年 、 八 八 歳 の 時 で あ る ( ち な み に キ ケ ロ が 紀 元 前 四 四 年 に 同 名 の 書 を 著 し た の は 六 二 歳 の 時 で あ っ た )。 そ の 時 か ら 数 え て も、 す で に も う 六 年 が 過 ぎ て い た。 た し か に 老 い さ ら ば え た と は い え、 聳 そび え立つがごとき高い鼻梁と 猛 もうきんるい 禽類 のような鋭い眼差には、いささかの変化もなかった。だが薄暗い書斎で車椅子に座り ながら語りかける姿は、私の知っている教授とはもうまるで別人のようであった。私が形どおりの挨拶をし、二〇〇一 年四月二二日に八四歳で亡くなったヴァレリア夫人のお悔やみを述べようとしたとたん、教授はまるで何かに憑かれた よ う に 嗚 お え つ 咽 し 始 め た の で あ る。 淋 ソ ノ ・ ト リ ス テ し い の で す 。 悲 ソ ノ ・ ト リ ス テ し い の で す 。 ヴ ァ レ リ ア は 気 コ ン ソ ル テ ・ デ ィ ・ ブ オ ン ・ ウ モ ー レ 立 て の 良 い 伴 侶 で し た 。 陽 気 で 茶 目 っ

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気 に 溢 れ、 私 の よ う な 憂 鬱 質 の 悲 観 論 者 に と っ て は、 本 当 に 慰 め で あ り、 救 い で し た。 ヴ ァ レ リ ア と 一 緒 だ っ た こ と で、ヴァレリアのお陰で、ヴァレリアを通して、死とは何か、また愛とは何かを私は理解したのです。愛が死よりも強 いということが分かりました。彼女はまだここにいます。私の胸の中にいます。でも私は年を取り過ぎました。淋しい のです。   親密とはとても言い難い、遠来のしかも異邦人の客にまで、もはや自らを繕おうともせず、取り乱すことをも厭わず 真 情 を 吐 露 し つ づ け な が ら、 死 か ら 目 を そ ら す こ と な く、 真 摯 に 死 と 向 き 合 お う と し て い る 一 人 の 老 哲 学 者 を 前 に し て、一体私には何を言葉にすることができたのであろうか。それについてはほとんど記憶がないのである。

     

バッハ・ヨハネ受難曲

  ナタリーア・ギンツブルグにはチェーザレ・パヴェーゼを追憶する美しい文章がある。   「 私 た ち の 友 だ ち が 大 好 き だ っ た こ の 町 は い つ も 同 じ。 変 わ っ た と し て も ほ ん の ち ょ っ ぴ り。 ト ロ リ ー バ ス が 通 っ た り、 地 下 道 が で き た り し た だ け。 新 し い 映 画 館 は で き な か っ た わ。 昔 な が ら の 名 前 で や っ て い る 映 画 館 な ら あ る け れ ど。そんな映画館の名前を繰り返し口にしていると、子どもの頃や若い頃を思い出してしまうの。   それに私たちの町って根っからの憂鬱質なのよね。真冬の朝には、この町のものとしかいいようのない駅からの臭い や煤煙の臭いが、街角や大通にまで漂ってきたわ。そんな朝、この町に列車で到着すると、霧で町は灰色に覆われてあ の何ともいえない臭いに包まれているの。ときおり霧の中からは、微かな太陽の光が滲み出て、積もった雪の塊や葉の

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落ちた木々の梢を薔薇色や薄紫色に染めていくのよ。   この町の本質的な性格というのは憂鬱質なのよ。ポー川は遠く消え去りそうになりながら、真昼でも夕暮れをおもわ せる菫色をした霧の地平の彼方に沈んでいく。どこにいたって煤煙の根暗で忙しげなあの臭いがして、列車の汽笛も聞 こえてくる。   今 気 付 い た ん だ け れ ど、 こ の 町 っ て さ、 こ の 町 が 大 好 き だ っ た 私 た ち が 失 っ て し ま っ た 友 だ ち に、 よ く 似 て い る ん じ ゃ な い か し ら。 眉 間 に 皺 を 寄 せ て ひ た む き に、 一 生 懸 命 頑 張 っ て い る か と 思 う と、 ど こ と な し に や る せ な く、 無 為 に ひ が な 一 日 を 過 ご し た り、 夢 ば っ か り 見 つ づ け て い た 私 た ち の 友 だ ち に 」( 「 或 る 友 だ ち の 肖 像 」 『 ち レ ・ ピ ッ コ レ ・ ヴ ィ ル ト ゥ ー っぽけな美徳なんて 』一九六二年) 。   チ ェ ー ザ レ・ パ ヴ ェ ー ゼ は、 一 九 五 〇 年 八 月 二 七 日 ポ ル タ・ ヌ オ ー ヴ ァ 駅 か ら も 近 い ホ テ ル・ ロ ー マ で 睡 眠 薬 を 飲 み、自殺した。四二歳の誕生日を迎える一三日前のことであった。パヴェーゼはボッビオよりも一歳年長で、二人はト リノの名門校の中等高等学校マッシモ・ダゼリオに入学して以来の友人であった。また後にナタリーアの最初の夫とな るレオーネ・ギンツブルグも、ボッビオと同じ一九〇九年に、ウクライナのオデッサに生まれた富裕なユダヤ系ロシア 人貿易商の息子で、ダゼリオ高等学校の同級生であった。この三人はダゼリオ高等学校で恩師アウグスト・モンティの 薫陶を受け、それぞれのやり方で反ファシストの道を歩んでいくことになる。だがその後の運命は大きく異なったもの となった。なかでもレオーネ・ギンツブルグは、妻のナタリーアと三人の幼い子どもを遺したまま、一九四四年二月五 日にはローマのレジーナ・チェーリ刑務所で拷問により獄死してしまう。まだ三四歳であった。   このようにボッビオは、自分が生涯を終える六〇年も前に、反ファシズム闘争に献身した親友の一人をナチ・ファシ

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ストの拷問によって失い、五〇年以上も前に、反ファシズム闘争を生き延びたもう一人の親友をも自死によって失って いたのである。運命の悪戯というにしては余りにも大きな違いであった。ボッビオは長生きをすればするほど、記憶の なかでは、かえって鮮やかとなっていく若くして亡くなった親友たちの不条理な死についても、自分が死ぬまで彼らの 分まで煩悶し続けなければならなくなったのである。   ボッビオは、ファシズムやナチズムや共産主義やネオ・ブルジョワ社会が悪かったというよりも、近代がもたらした 無神論すなわち超越論の放棄こそが諸悪の根源であるとするアウグスト・デル・ノーチェと一九八九年に交わした往復 書 簡 の な か で こ う 述 べ て い る。 「 絶 マ ー レ ・ ア ッ ソ ル ー ト 対 悪 と い う も の が 、 も し 仮 に あ る と す る な ら ば 、 ち ょ っ と 逆 説 的 な 言 い 方 を す る よ う で す が、 そ れ は 大 文 字 で 書 く と こ ろ の 歴 史 で す。 歴 史 は 今 ま で の と こ ろ、 自 分 自 身 の た め の 救 レ デ ン ツ ィ オ ー ネ い を 何 一 つ 見いだしてはいないのです」 。   歴 史 に は 今 の と こ ろ 贖 レ デ ン ツ ィ オ ー ネ 罪 す な わ ち 犠 牲 に よ る 罪 の あ が な い な ど な い 。 こ れ が ボ ッ ビ オ の 悲 観 論 の 根 底 に 横 た わ る歴史観であった。ならば救いはどこにあるのか。ボッビオは二〇〇〇年にこう書いている。   「 私 は 信 仰 の 人 間 で は な く 理 性 の 人 間 で す の で、 あ ら ゆ る 信 仰 を 信 じ ま せ ん が、 宗 教 と 宗 教 的 な る も の と は 区 別 し て い ま す。 宗 教 的 な る も の と い う の は、 私 に と っ て は、 た ん に 自 分 の 限 界 の 感 覚 を 持 つ と い う こ と を 意 味 す る に す ぎ ず、 また人間の理性が、広大無辺の宇宙と比べれば、一隅を照らす小さな燭台でしかないということを意味するにすぎませ ん」 。   「究極の問いに答えが見出せないまま、人生の終わりに辿り着いたと感じるとき、私の知性は辱められているのです。 そ う 屈 辱 で す。 で も 私 は こ の 屈 辱 を 受 け 容 れ ま す。 そ れ を 認 め ま す。 私 に は 踏 み 出 す こ と が で き な い 道 で あ る 信 仰 に

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よって、この屈辱を乗り切りたいとは思いません。私の理性は限られたものであり、辱しめられたものです。でもそう し た 理 性 を 持 つ 人 間 の ま ま で い た い と 思 い ま す。 私 は 知 ら な い と い う こ と を 知 っ て い ま す。 こ れ が 《 私 の 宗 教 的 な る も の》 なのです」 。   「 悪 の 問 題 や、 悪 意 に 満 ち た 正 義 の 配 分 の 問 題 に は、 答 が あ り ま せ ん。 ス タ ー リ ン は 自 分 の ベ ッ ド の 上 で 死 に、 ピ ノ チェトも自分のベッドの上で死ぬでしょう。そしてアンネ・フランクは絶滅収容所で死にました。暴君たちはベッドの 上で死に、何の罪もない少女が強制収容所で死ぬ。何によってもそれは正当化できません。端的に言って恐ろしいこと で す。 神 様 の 判 断 は 不 可 解 だ、 と い っ て も 答 え た こ と に は な り ま せ ん。 そ れ は 答 で は な く、 信 仰 の 証 で し か あ り ま せ ん」 。   「 説 明 し え な い こ と が、 説 明 の 原 理 と な り う る。 捉 え ら れ な い も の が、 答 え を 与 え る た め の 定 点 と な る。 認 識 し え な いものが、私たちの認識の源泉となりうる。測りえないものが、物事の根底にまで辿り着くことを、私たちに可能とす る測定器となりうる。そんなことは、私にはとても理解しがたいことなのです。口で言い表せないことについては、何 も言うことができません」 (「宗教と宗教的なるもの」 『ミクロメガ』二〇一〇年二月号に再録) 。   ボッビオと生前会って話すことは一度もなかったが、カルロ・マリア・マルティーニ枢機卿は二〇〇四年のボッビオ の死に際し、彼のこうした考察に心からの共感を表明していた。   マ ル テ ィ ー ニ は、 一 九 二 七 年 に ト リ ノ に 生 ま れ た イ エ ズ ス 会 士 の 聖 書 学 者 で、 教 皇 ヨ ハ ネ・ パ ウ ロ 二 世 に よ っ て 一 九 七 九 年 に ミ ラ ノ 大 司 教 に 任 命 さ れ、 二 〇 〇 二 年 に 七 五 歳 の 定 年 で 大 司 教 を 辞 め た の ち は、 イ ェ ル サ レ ム の 教 皇 庁 立 聖 書 研 究 所 に 居 を 移 し て い た。 彼 が ミ ラ ノ 大 司 教 の と き に は、 一 九 八 七 年 以 来、 毎 年「 信 カ ッ テ ド ラ ・ デ イ ・ ノ ン ・ ク レ デ ン テ ィ 仰 な き も の の 講 座 」 を

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主 催 す る な ど、 教 会 の 外 で 生 き る 人 々 と の 対 話 に も 努 め て い た。 そ こ か ら は、 例 え ば ウ ン ベ ル ト・ エ ー コ と の 共 著 『 信 イ ン ・ コ ー ザ ・ ク レ デ ・ キ ・ ノ ン ・ ク レ デ 仰なきものは何を信じているのか 』(一九九六年)など、重要な成果が数多く生み出されている。   マルティーニ枢機卿はボッビオのいう「宗教的なるものの感覚」すなわち「私たちをとりかこむ根本的なこの深い神 秘の感覚」は、まさに自分自身が日々感じてきたものであり、その限りにおいてボッビオと自分を隔てるものは、ほと んどないと述べている。そればかりか「実存の意味に関わる問いを前にして、安易な答えで満足することなく、真摯に 向き合うことの重要性を多くの人々に示すことができる、屈辱と苦悩に満ちた探求心をもった模範であり、誠実さと信 頼の深さをもった模範である」として、ボッビオに対し最大級の敬意を表するとともに、少なくとも知性の次元におい ては、ボッビオの救済に関する懐疑と悲観論をも含めて、二人のあいだを根本的に隔てる溝についても、深い理解を示 していたのである。   ノルベルト・ボッビオは二〇〇四年一月九日午後五時に亡くなった。享年九四歳であった。四年前の九〇歳の誕生日 に は、 次 の よ う な 遺 言 を 遺 し て い た。 「 死 を 想 う ほ ど の 疲 れ を 癒 し て く れ る も の は、 死 に よ っ て 永 遠 の 安 息 を 得 る こ と で し か な い。 《 主 レ ク イ エ ム ・ ア エ テ ル ナ ム ・ ド ナ ・ エ イ ス ・ ド ミ ネ よ、 永 遠 の 安 息 を 彼 ら に 与 え た ま え 》。 バ ッ ハ の ヨ ハ ネ 受 難 曲 で 、 イ エ ス の 死 の 直 後 に 歌 わ れ る 最 後 の ひ と き わ 美 し い 合 唱《 安 ー ト ・ ヴ ォ ー ル ら か に お 眠 り 下 さ い 》」 そ し て 「 私 は 、 自 分 が 無 テ オ 神 論 者 で あ る と も、 不 ア ニ ョ ス テ ィ コ 可 知 論 者 で あ る と も 思 っ て い な い 」。 し か し 三 〇 年 以 上 も 前 か ら「 市 フ ネ ラ ー リ ・ チ ヴ ィ ー リ 民 と し て の 葬 儀 」、 す な わ ち 「 簡 素 で 公 的 で は な く 私 的 な 葬 儀 」 を 強 く 望 む と 述 べ て い た。 と に か く 葬 儀 は 静 寂 に 短 く。 美 辞 麗 句 を 並 べ た 鬱 陶 し い 弔 辞 は 一 切 無 用。 葬 儀 後 た だ ち に リ ヴ ァ ル タ・ ボ ル ミ ー ダ( ア レ ッ サ ン ド リ ア 県 ) に あ る 家 族 の 墓 に 埋 葬 の こ と。 墓 碑 銘 に は 氏 名 と 生 没 年 月 日 及 び「 ル イージとローザ・カヴィリアの息子」とのみ刻むように、と。

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  二〇〇四年一月一〇日午後二時三〇分にボッビオ教授の亡骸は、一九四八年以来三〇年にわたって法哲学や政治哲学 を 講 じ て き た ヴ ェ ル デ ィ 通 八 番 地 に あ る ト リ ノ 大 学 の 本 レ ッ ト ラ ー ト 部 棟 に 移 さ れ、 そ の 大 ア ウ ラ ・ マ ー ニ ャ 講 堂 で 通 夜 が 営 ま れ る こ と に な っ た 。 真 っ 先 に 駆 け 付 け て き た の は、 行 動 党 に お い て 反 フ ァ シ ズ ム 闘 争 の 体 験 を 共 有 し た 親 友 の 第 一 〇 代 イ タ リ ア 共 和 国 大 統 領 カ ル ロ・ ア ゼ リ オ・ チ ャ ン ピ で あ っ た。 ご く 少 人 数 の 内 輪 で 営 ま れ た 非 公 開 の 通 夜 の 席 で は、 故 人 の 願 い ど お り、 バッハのヨハネ受難曲が静かに流されていたという。   ここで言い添えておくならば、ボッビオは社会党出身のサンドロ・ペルティーニ大統領によって、一九八四年に終身 上院議員に任命されていた。それもあって、ボッビオの遺志に反することにはなるとしても、公人としてのボッビオに 対する弔問をすべて拒否することは、遺族にとって不可能なことであった。大統領のみならず上下両院議長、トリノ市 長、その他政財界の要人も多数弔問に訪れた。そして大講堂での弔問が翌日午後一時までトリノ市民にも公開されたこ とによって、ボッビオの通夜は事実上の「市民葬」という形をとることになった。その日も、七千人から八千人ものト リノ市民が、長蛇の列をなして弔問に訪れたという。   い ず れ に せ よ、 カ ト リ ッ ク 教 会 で、 ボ ッ ビ オ の た め の ミ サ が 執 り 行 わ れ る と い う こ と は な か っ た。 ボ ッ ビ オ の 亡 骸 は、遺言どおり、内輪の葬儀の後、ただちに家族の墓地に埋葬された。      

自由主義革命

  あたふたとタクシーに乗り込んだ時には、もう午後六時を回っていたであろうか。せっかくトリノにまで来てくれた

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の だ か ら、 ぜ ひ 会 っ て ら っ し ゃ い よ。 カ ル ラ・ ゴ ベ ッ テ ィ の 有 無 を 言 わ せ ぬ 勧 め に よ り、 思 い も か け ず 私 が ノ ル ベ ル ト・ボッビオのお宅を訪ねることになったのは、一九九四年九月八日のことである。カルラは夫のパオロや彼の母アー ダ・ゴベッティとともにファブロ通六番地の自宅に、一九六一年ピエーロ・ゴベッティ研究センターを開設し、その運 営に携わっていた。またボッビオがその所長を務めていた。   そしてそのころアーダ ・ ゴベッティ著『パルチザン日記―一九四三 四五年』の日本語版の監修をしていたイタリア ・ アナーキズム研究    一九八八年にはナポリ大学叢書の一冊として『エッリコ・マラテスタ―マッツィーニからバクー ニンへ』を上梓した    でも知られている戸田三三冬の紹介によって、私はたまたまこの研究センターに立ち寄ったに す ぎ な か っ た。 ミ サ ト の 親 友 だ っ た カ ル ラ の 好 意 の お か げ で、 私 は 老 碩 学 の お 宅 を 訪 問 す る と い う 思 い が け な い 栄 誉 を、得ることになったのである。   それにしてもピエーロ・ゴベッティは不思議な人物である。一九〇一年にトリノで生まれ、一九二六年にパリで客死 した。わずか二四年たらずのあまりにも短い生涯であった。それにもかかわらず第一次大戦後のトリノ文化を代表する 文化人として、思想家として、いまだに語り継がれ、論じ続けられているのである。   食 料 品 店 の 一 人 息 子 と し て 生 ま れ た ピ エ ー ロ は、 一 七 歳 と な っ て ト リ ノ 大 学 法 学 部 に 入 学 す る や い な や、 三 人 の 友 人 と と も に 九 月 二 〇 日 通 六 〇 番 地 の 自 宅 を 編 集 部 と し て、 月 に 二 回 発 行 す る 雑 誌『 新 エ ネ ル ジ ー エ ・ ノ ー ヴ ェ し い エ ネ ル ギ ー 』 を 創 刊 し た 。 一九一八年一一月のことであった。疲れ切ったトリノに思想の運動を起こし、死んだようなトリノを目覚めさせたいと いうのである。その友人の一人が、後に妻となるアーダ・プロスペロだった。王室御用達の裕福な果実店の一人娘であ るアーダは、ピエーロよりも一歳年下で、同じ建物の違う階に暮らしており、同じ中学と高校に通った幼なじみであっ

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た。一七歳と一六歳の若い二人は、同人誌の刊行と同時に婚約もしていていたのである。   それにもまして驚くべきことには、 まだ一七歳の「 華 エ ジ レ ・ ビ ヨ ン ド ・ ミ オ ペ ・ ラ ガ ッ ツ ィ ー ノ 奢で金髪の眼鏡をかけた少年 」 が 発 行 す る こ の 雑 誌 に は 、 フ ィ レ ン ツ ェ に あ っ て 週 刊 紙『 統 ウ ニ タ 一 』 を 通 し て 彼 ら に 強 い 刺 激 を 与 え た 歴 史 家 で 南 部 問 題 の 解 決 な ど 様 々 な 政 治 社 会 改 革 を唱えたガエターノ・サルヴェーミニのみならず、自由主義経済学者として定評のあるトリノ大学財政学教授のルイー ジ・エイナウディ、さらにはイタリア観念論を代表する哲学者ベネデット・クローチェやジョヴァンニ・ジェンティー レといった錚々たる知識人までもが寄稿していたのである。   お よ そ 半 年 後 の 一 九 一 九 年 五 月 一 日 に、 ト リ ノ で 社 会 主 義 文 化 の 週 刊 紙『 新 オ ル デ ィ ネ ・ ヌ オ ー ヴ ォ 秩 序 』 を 創 刊 し た ア ン ト ニ オ ・ グ ラムシやアンジェロ・タスカやパルミーロ・トリアッティやウンベルト・テッラチーニは、ゴベッティよりもそれぞれ 一〇歳、九歳、八歳、六歳年長であった。この四人は、すでに社会党トリノ支部共産主義グループとしての活発な言論 活動を展開しており、やがてはソヴィエトに範をとった工場評議会運動にも着手していく。ゴベッティ自身も「イタリ アで最も知的な新聞だ」と『新秩序』を高く評価していた。ところがそんな四人からすれば、ゴベッティは知ったかぶ り の 未 熟 な 観 念 論 者 に す ぎ ず、 そ の 雑 誌 も「 文 パ ラ ッ シ ー テ ィ ・ デ ッ ラ ・ ク ル ト ゥ ー ラ 化 の 寄 生 虫 」( ト リ ア ッ テ ィ ) で し か な か っ た 。 と は い え ゴ ベ ッ ティが一九二〇年二月に突如自己批判して、この雑誌の休刊を宣言すると、グラムシは『新秩序』の演劇批評欄を、ゴ ベッティに委ねることになるのだが。   と こ ろ が、 ゴ ベ ッ テ ィ が 驚 異 的 な 不 屈 の 精 神 を 発 揮 す る の は、 そ れ か ら で あ る。 一 九 二 二 年 二 月 一 二 日 に 週 刊 誌 『 自 リ ヴ ォ ル ツ ィ オ ー ネ ・ リ ベ ラ ー レ 由 主 義 革 命 』 を 創 刊 す る 。 そ し て 権 力 奪 取 へ の 道 を ひ た 進 ん で い た フ ァ シ ズ ム と の 壮 絶 な 戦 い を 、 そ の 紙 面 上 で 繰 り 広 げ て い く こ と に な る。 ピ エ ー ロ と ア ー ダ は 一 九 二 三 年 一 月 に 結 婚 し た。 ほ ど な く 住 居 は 現 在 「 ピ エ ー ロ ・ ゴ

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ベッティ研究センター」のあるファブロ通六番地に転居したが、編集部は九月二〇日通六〇番地のままであった。警察 に逮捕され、家宅捜査やファシストの暴行を受け、何度も押収されながら、一九二五年一一月まで『自由主義革命』を 発行し続けた。そればかりかゴベッティ出版社まで立ち上げる。一九二四年から二五年にかけて、およそ一〇〇冊もの 書 籍 を 刊 行 し た。 ル イ ジ・ サ ル ヴ ァ ト レ ッ リ の『 民 ナ ツ ィ オ ナ ル フ ァ シ ズ モ 族 フ ァ シ ズ ム 』 や グ イ ド・ ド ル ソ の『 南 リ ヴ ォ ル ツ ィ オ ー ネ ・ メ リ デ ィ オ ナ ー レ 部 革 命 』 あ る い は 後 に ノ ー ベ ル 文 学 賞 を 受 賞 す る エ ウ ジ ェ ー ニ オ・ モ ン タ ー レ の 処 女 詩 集『 烏 オ ッ シ ・ デ ィ ・ セ ッ ピ ア 賊 の 骨 』 と い っ た 、 今 で も 読 み 継 がれている優れた作品を世に送り出している。   だが一九二六年二月三日、すでに心臓を病んでいたピエーロは、ついにパリへと亡命の旅に発つ。前年一二月二八日 に息子パオロが生まれたばかりである。そこで先ずは一人で旅立った。しかし二月一五日には気管支炎が悪化して、死 亡。妻アーダと幼子パオロをトリノに残したままである。享年二四歳。あまりにも早すぎる死であった。   それから一七年後の一九四三年九月、アーダは再婚した夫のエットーレ・マルケジーニや一八歳になったパオロとと もにパルチザン部隊を組織して、ナチ・ファシストに対する武装レジスタンス闘争に参加していくことになる。その記 録が『パルチザン日記』であった。   「 フ ァ シ ズ ム は 民 アウトビオグラフィーア・デッラ・ナツィオーネ 族 の 自 叙 伝 で あ る 」。 ピ エ ー ロ ・ ゴ ベ ッ テ ィ は 『 自 由 主 義 革 命 』( 一 九 二 二 年 一 一 月 二 三 日号)でそう断言していた。のちにファシズムを、健康な身体に突如発症した病気のようなものだとして、統一以降の イ タ リ ア 自 由 主 義 国 家 を 擁 護 し た ベ ネ デ ッ ト・ ク ロ ー チ ェ と は、 真 っ 向 か ら 対 立 す る 主 張 で あ っ た。 じ っ さ い ク ロ ー チ ェ は 一 九 三 二 年 に 著 し た『 一 九 世 紀 ヨ ー ロ ッ パ 史 』 で こ う 述 べ て い る。 「 も し 政 治 史 に お い て も 芸 術 作 品 と 同 じ く 傑 作といえるものがあるとすれば、イタリアの独立・自由・統一の過程は、一九世紀の自由主義民族運動の傑作というに

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値するであろう」 。「この過程は、 かつて同じイタリアを舞台に《 ギリシアの 復 リソルジメント 興 》が語られたごとく、 《 民 リ ソ ル ジ メ ン ト 族復興 》 と 名 付 け ら れ た が、 じ つ は そ れ は《 民 ソ ル ジ メ ン ト 族 勃 興 》 で あ っ た 。 何 世 紀 も の 歴 史 を 通 じ て 初 め て 、 す べ て の イ タ リ ア 民 族 を 含むところのイタリア民族だけからなるひとつの理想によって形づくられたイタリア国家が、誕生したのである」 。   ところがゴベッティからすれば、ファシズムは、リソルジメントが共和主義的な民族革命なき王朝による国家統一に 終 わ っ た こ と か ら 始 ま る、 イ タ リ ア 民 族 の 政 治 的 頽 廃 の 最 終 的 な 帰 結 に 他 な ら な か っ た。 イ タ リ ア 民 族 の 卑 屈 で 狭 量 な 奴 隷 根 性 の 露 呈 に 他 な ら な か っ た。 だ か ら「 ム ッ ソ リ ー ニ に は 何 も 新 し い も の は な い 」 と 考 え た の で あ る。 「 ム ッ ソ リ ー ニ に も 国 王 ヴ ィ ッ ト ー リ オ・ エ マ ヌ エ レ に も 支 配 者 の 力 量 な ど な い の に、 イ タ リ ア 人 の 方 が 奴 隷 根 性 を 抱 い て し ま っ て い る の だ 」。 し た が っ て「 我 々 の 反 フ ァ シ ズ ム は イ デ オ ロ ギ ー で あ る よ り も 前 に 本 能 で あ る 」。 「 世 界 に は 不 屈 の 価値が一つある。それは非妥協である。我々はこの瞬間から、ある意味では、すべてに絶望した非妥協の聖職者となら ざるをえない」 。   ゴ ベ ッ テ ィ は 一 九 二 三 年 に、 自 ら の 出 版 社 か ら、 学 位 論 文『 ヴ ィ ッ ト ー リ オ・ ア ル フ ィ エ ー リ の 政 治 哲 学 』 を 出 版 し て い た。 ア ル フ ィ エ ー リ は、 一 七 四 九 年 に ピ エ モ ン テ は ア ス テ ィ の 貴 族 の 家 に 生 ま れ、 ヨ ー ロ ッ パ 中 を 遍 歴 し て 恋 愛 に 情 熱 を 注 ぐ な か、 母 語 の フ ラ ン ス 語 で は な く イ タ リ ア 語 に よ る 劇 作 に 目 覚 め て 数 多 く の 傑 作 を 残 し、 あ ら ゆ る 圧 政 と 闘 う 自 由 な 民 衆 に よ る イ タ リ ア の 再 興 を 希 求 し つ づ け た、 啓 蒙 主 義 か ら ロ マ ン 主 義 へ の 過 渡 期 を 代 表 す る 反 逆 的 な 自 リ ベ ル タ ー リ オ 由 思 想 家 で あ っ た 。 ゴ ベ ッ テ ィ は 、 自 ら の 出 版 社 か ら 刊 行 し た 書 籍 の 表 紙 に ア ル フ ィ エ ー リ の 「 奴 隷 と 一 緒 に 何 ができるというのか」というギリシア語のロゴタイプを印字していた。また一九二六年の死後出版となった息子カルロ への献辞を持つ『英雄なきリソルジメント』でもアルフィエーリに即して、隷属の時代にあればこそ独裁者を敢然と見

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下す自由の精神の高みに立って、道徳的な非妥協の抵抗を貫くことが肝要であると述べていた。   さ ら に ゴ ベ ッ テ ィ は、 ア ル フ ィ エ ー リ を と お し て、 『 テ ィ ト ゥ ス・ リ ウ ィ ウ ス の 最 初 の 一 〇 巻 に 関 す る 論 デ ィ ス コ ル シ 考 』 第 一 冊第四章で「ローマの平民と元老院の 軋 ディズウニオーネ 轢 こ そ が 共 和 国 を 自 由 で 強 力 な も の と し た 」 と す る 共 和 主 義 者 ニ ッ コ ロ ・ マキャヴェッリを再発見していた。ゴベッティもまた対立や闘争なくしては真の自由は生まれないと考えていた。した がってゴベッティの自由主義革命とは、反ファシズム闘争におけるイタリアの共和主義の伝統に根ざしたリソルジメン トの継続と徹底を意味するものに他ならなかったのである。

     

 

 

  ノ ル ベ ル ト・ ボ ッ ビ オ は、 一 九 〇 九 年 一 〇 月 一 八 日 に ト リ ノ で 生 ま れ た。 父 親 の ル イ ジ・ ボ ッ ビ オ は、 サ ン・ ジ ョ ヴァンニ病院の外科部長を務める著名で裕福な医師であった。自家用車が二台もあり、二人の召使と一人のお抱え運転 手がいた。そして夏休みともなれば田舎の別荘で過ごすという典型的な都会のブルジョワ的中産階級の家庭に育った。   とはいえ田舎では、裸足で走り回る農民の子どもたちとも一緒になって、朝から晩まで遊び回った。そこは子ども同 士、暮らし向きや階級の違いなど臆することなく、本当に仲の良い遊び友だちとなった。しかしその翌年の夏休みに田 舎に戻ってくると、必ず遊び友だちのうちの誰かが、結核で死んだと知ることになる。だが都会の学校の級友が病気で 死んだという記憶は全くない。ボッビオは、こんな理不尽きわまりない貧富の差や強者と弱者の間の不公平に、どうし ようもなくやりきれない気持ちを抱いたことから、政治に関心を持つようになり、何らかの形で政治にたずさわる「義

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務」を感じるようになった。それとともに自分を、いつも「左」側の人間だと考えるようになったという。それから半 世紀以上ものちの一九九四年の著作『右と左   政治的区別の理由と意味』にもそう記している。   だがボッビオは、生まれながらの政治的人間ではなかった。もともと病弱で憂鬱質であったせいか、ショーペンハウ アーやニーチェなどを好んで読む早熟な文学少年であった。そのころからの愛読書となったのはトーマス・マンの『魔 の 山 』 で、 「 世 界 の 死 の 乱 舞 の な か か ら も、 私 た ち の ま わ り の 雨 ま じ り の 夜 を 焦 が す こ の 陰 鬱 な 狂 乱 の 炎 か ら も、 い つ か愛が生れいずるのであろうか」という最後の一節を生涯忘れることはなかったという。   こうして名門校のダゼリオ中等高等学校に進学し、グラムシの友人であった哲学のジーノ・ジーニ先生や、自分より も二〇歳も年少のゴベッティの衣鉢を継いだラテン語とイタリア語のアウグスト・モンティ先生から反ファシズムにつ いての多大な影響を受けてはいたものの、博学にして秀才の誉れ高い級長のレオーネ・ギンツブルグように、直ちに行 動に転じようとする強靭な意志の持ち主とはいえなかった。その後トリノ大学法学部に入学するが、父親も一九二三年 以来のファシスト党員であり、彼自身も一九二八年からファシスト学生団(GUF)に入団している。一九三一年に法 哲学に関する卒業論文を書いて法学部を卒業するが、一九三三年にはフッサールの現象学に関する卒業論文を書いて哲 学部も卒業した。そして一九三四年には初めて学術論文「社会法哲学における現象学の動向」を公表し、法哲学の大学 教授資格も得ている。   ところが一九三三年ごろからボッビオは、ポー川を見下ろす丘の上に建つバルバラ・アラソン女史の豪邸に足しげく 通うようになる。彼女は陸軍大将の娘でドイツ文学の教授、夫はスイス系イタリア人の化学技師、ボッビオと同い年の 息 子 ジ ャ ン カ ル ロ・ ヴ ィ ッ ク は 後 に 著 名 な 理 論 物 理 学 者 と な る。 じ つ は 彼 女 の サ ロ ン は、 一 九 二 九 年 に「 自 由 主 義 的

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社 会 主 義 」 を 唱 え る カ ル ロ・ ロ ッ セ ッ リ が パ リ で 結 成 し た「 正 ジ ュ ス テ ィ ツ ィ ア ・ エ ・ リ ベ ル タ 義 と 自 由 」 に 共 鳴 す る 反 フ ァ シ ス ト の 秘 密 集 会 所 と な っ て い た( ち な み に こ の 名 称 は、 一 九 〇 六 年 に ノ ー ベ ル 文 学 賞 を 受 賞 し た 国 民 詩 人 ジ ョ ズ エ・ カ ル ド ゥ ッ チ の 言 葉「 生 き 残 っ た 最 後 の 女 神 は 正 義 と 自 由 」 に 由 来 す る )。 だ が 警 察 は、 と っ く の 昔 に そ の 秘 密 を 知 っ て い た。 ボ ッ ビ オ についても、要注意人物として内偵と電話盗聴が進められ、その記録が今でも内務省資料として残されている。そして 一九三五年五月一五日には一斉検挙にあって、七日間拘留され、夜間外出禁止命令を受けていた。   ボッビオは、それから六〇年以上ものちの一九九七年に刊行した『自伝』に、国立公文書館内務省公安警察庁資料と し て 保 管 さ れ て い た 一 九 三 五 年 七 月 八 日 付「 ム ッ ソ リ ー ニ 閣 下 」 宛 嘆 願 書 を 再 録 し て い る。 こ ん な 嘆 願 書 を 送 っ た の は、 マ ル ケ 州 の 小 都 市 に あ る カ メ リ ー ノ 大 学 に よ る 教 員 公 募 の 採 用 決 定 が 取 り 消 さ れ る こ と を 恐 れ て い た か ら で あ る。 ところが一九九二年六月二一日付週刊誌『パノラマ』がこの嘆願書を国立公文書館から発掘し、ボッビオほどの著名な 反ファシスト知識人にはあるまじき「醜聞」だとして大々的に報道したことから、新聞各紙でも大きな論議を呼ぶこと に な っ た( ち な み に『 パ ノ ラ マ 』 は、 シ ル ヴ ィ オ・ ベ ル ル ス コ ー ニ が 所 有 す る 当 時 は イ タ リ ア 第 二 位 の 企 業 集 団 フ ィ ニ ン ヴ ェ ス ト 傘 下 の モ ン ダ ド ー リ 出 版 社 が 発 行 し て い た。 こ の 種 の「 偶 イ コ ノ ク ラ ズ ム 像 破 壊 」 は ベ ル ル ス コ ー ニ の メ デ ィ ア 戦 略 の 常 套手段となる) 。   だが考えてみれば当たり前のことだが、ファシズムの時代にニコデミズム、すなわちヨハネ福音書三章にあるニコデ モ の ご と き 偽 装 改 宗 な く し て、 学 問 を 志 す 若 者 が 大 学 教 師 に な る こ と な ど 絶 対 に あ り え な い こ と で あ っ た。 そ れ で も ボッビオが、この「醜聞」に深く傷ついたことだけはまちがいない。まるで書斎に籠る学究の道を選んだその人生を恥 じ入るかのように、自分が生きてきた激動の時代のことを思えば、自分の人生はあまりにも平凡すぎて話すに値するよ

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うなことは何一つない、と言い続けるのであった。   しかしそれは事実に反する。ボッビオは一九三五年一一月から、カメリーノ大学で教鞭を執り始めた。その後公募に よって一九三八年にはシエナ大学に、一九四〇年からはパドヴァ大学に移っている。こうしてトリノの実家を離れて自 由になったことから、ボッビオは反ファシストの世界へと一気に接近していく。   彼 が 参 加 し た の は、 ナ ポ レ オ ン 一 世 に よ っ て 一 八 一 〇 年 に 創 設 さ れ た イ タ リ ア 屈 指 の 名 門 校 で あ り、 哲 学 者 の ジ ョ ヴァンニ・ジェンティーレが学長を務めていたピサ高等師範学校の哲学史の教授であったグイド・カロージェロと、奨 学 生 と し て 同 校 を 卒 業 後 そ の ま ま 事 務 局 に 勤 務 し て い た 非 暴 力 ガ ン ジ ー 主 義 者 の 宗 教 哲 学 者 ア ル ド・ カ ピ テ ィ ー ニ が、 一 九 三 六 年 ご ろ か ら 始 め た 地 下 組 織「 自 ソ チ ア リ ズ モ ・ リ ベ ラ ー レ 由 主 義 的 社 会 主 義 」 で あ る 。 サ ヴ ォ イ ア 王 家 に も 近 い ピ エ モ ン テ の 出 身 の 陸 軍大将の息子でありながら、ゴベッティの親友で『自由主義革命』にも寄稿していたウンベルト・モッラ・ディ・ラヴ リアーノがトスカーナ州のコルティーナ郊外に所有する美しい邸宅が、しばしば彼らの密会の場となった。たまたまそ こに居合わせた表現主義の画家レナート・グットゥーゾが、参加者を描いた素描が『自伝』には掲載されている。ボッ ビオは、こうした会合を通じて、フィレンツェ大学の民事訴訟法の教授で一九二五年一月にはガエターノ・サルヴェー ミ ニ や ロ ッ セ ッ リ 兄 弟 ら と と も に 非 合 法 日 刊 紙『 屈 ノ ン ・ モ ッ ラ ー レ 伏 す る な 』 を 創 刊 し 、 同 年 五 月 に は ベ ネ デ ッ ト ・ ク ロ ー チ ェ が 起 草したいわゆる反ファシスト知識人宣言にも署名したピエーロ・カラマンドレイのような反ファシストとも、交流を深 めていった(そんなカラマンドレイでも教授職に留まるにはファシスト体制への忠誠を一九三一年に宣言しなければな らなかった。反ファシスト活動の再開には一〇年の雌伏の時を要した) 。   ボ ッ ビ オ が 非 合 法 政 治 活 動 へ の 決 定 的 な 一 歩 を 踏 み 出 す の は、 一 九 四 二 年 一 〇 月 の こ と で あ っ た。 す で に 彼 は パ ド

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ヴ ァ 大 学 法 学 部 の 正 教 授 に 就 任 し て い た。 そ の 彼 が、 ト レ ヴ ィ ー ゾ の 弁 護 士 宅 で 秘 密 裏 に 開 催 さ れ た 行 動 党 の ヴ ェ ネ ト 支 部 設 立 総 会 に、 パ ド ヴ ァ 代 表 と し て 参 加 し た の で あ る。 行 パルティート・ダツィオーネ 動 党 と い う 名 称 は 、 ジ ュ ゼ ッ ペ ・ マ ッ ツ ィ ー ニ が 一八五三年に結成し、一八六七年に潰えた政党名に由来する。それはリソルジメントが裏切った共和主義の伝統の復活 を含意するものであった。いいかえるとゴベッティの「自由主義革命」を嚆矢として、一九三七年にフランスで暗殺さ れたロッセッリ兄弟の「正義と自由」や、カロージェロの「自由主義的社会主義」が唱えた、反ファシズム闘争による 共和制の実現を、目標としていた。そして一九四二年六月四日に、ローマのとある私邸で極秘裏に開催された行動党の 結 党 集 会 で は、 「 七 項 目 」 か ら な る 基 本 綱 領 が 定 め ら れ た( 三 権 分 立 の 議 会 制 共 和 国、 州 自 治 に よ る 地 方 分 権、 独 占 企 業の国有化、農地改革、労働組合の諸権利、政教分離、欧州連邦制) 。   しかし行動党はたんなる急進的改革政党ではなかった。武装パルチザン全体の五分の一に当たる三万五千人もの軍事 組 織「 正 義 と 自 由 」 を 擁 す る 戦 闘 的 革 命 政 党 で も あ っ た( ア ー ダ・ ゴ ベ ッ テ ィ は「 正 義 と 自 由 」 第 四 師 団 の 大 尉 と な る )。 そ れ ゆ え 行 動 党 に と っ て、 反 フ ァ シ ズ ム 武 装 闘 争 は 国 家 体 制 の 変 革 の た め の 非 妥 協 的 な 革 命 闘 争 に 他 な ら な か っ た。一九四三年七月二五日のムッソリーニ解任後に成立し、しかも連合国との九月八日の休戦条約公表後にはローマを 捨てて連合軍が占領する南部のブリンディジに逃亡したピエトロ・バドリオ元帥を首班とするサヴォイア王家の政府と 妥協することなど許せないことであった。行動党にとって、国民解放委員会(CLN)は反ファシスト諸党派が妥協す るための調整機関ではなく、民主主義革命を推進するための政治機関でなければならなかったのである。   ところでボッビオは一九四三年四月二八日に、ダゼリオ中等高等学校の同窓生で、八歳年下のトリノ大学医学部産婦 人科教授の娘ヴァレリア・コーヴァと結婚する。ファシズム体制は同年七月二五日に崩壊したが、ドイツ軍に救出され

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たムッソリーニは九月二三日ガルダ湖畔サロに「イタリア社会共和国」を樹立し、ナチ・ドイツ軍の庇護下にサレルノ 以北のイタリアを支配していた。そして一九四三年一二月六日、パドヴァで新婚生活を始めていたボッビオは、妻とホ テルで食事中に、赴任してきたばかりの国防義勇軍の警察隊長によってついに逮捕されてしまう。そして一か月後には ヴ ェ ロ ー ナ の ス カ ル ツ ィ 刑 務 所 の 雑 居 房 に 移 送 さ れ る。 翌 年 の 一 月 一 一 日 に は、 ム ッ ソ リ ー ニ の 女 婿 の ガ レ ア ッ ツ ォ・ チャーノを含む五人のファシスト高官の銃殺刑が執行されることになる刑務所である。   復讐心に燃えるイタリア社会共和国のにわか仕立ての警察は、反ファシストよりも、ムッソリーニを裏切ったファシ スト高官の摘発に血道をあげていた。ボッビオは、すでに逃亡したパドヴァ大学学長の行方を追及するために、逮捕さ れたのである。尋問では、学長の行方を教えなければ生きては出獄できないと脅迫されるが、結局のところ何も知らな かったボッビオは二月末に釈放される。すでにヴァレリアは妊娠していた。長男のルイージが誕生したのは、出獄して 二週間後の三月一六日のことであった。   ボッビオは『自伝』において「私たちは陰謀家となることを志願していたのですが、実のところ陰謀など企てたこと もない陰謀家といったようなものでした」とまるで自嘲するかのように、この頃のことを回想している。だが、ちょっ と し た 運 命 の 悪 戯 で、 い と も た や す く 無 数 の 犠 牲 者 の 一 人 と な り う る よ う な 時 代 に 生 き て い た こ と だ け は ま ち が い な い。そしてボッビオとて、その例外ではなかった。   ところで一九四三年一〇月一三日に、バドリオ政権はドイツに対して宣戦を布告した。バドリオ政権は、反ファシス ト闘争を対独国民解放戦争に転轍することで政権を維持し、サヴォイア王家の存続を図ろうとしたのである。これに反 ファシスト諸政党は激しく反発し、国王の即時退位と国民解放委員会が組閣する臨時政府への全権移譲を求めた。英米

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連合国もまだバドリオ政権を正式には承認していなかった。   しかしソ連政府は一九四四年三月一四日、突如バドリオ政権の承認を発表する。また三月二七日にはモスクワに亡命 していたイタリア共産党書記長パルミーロ・トリアッティが帰国する。そして四月一日にサレルノで開催された党首会 談 で 王 制 の 存 続 と バ ド リ オ 政 権 の 承 認 を 提 案 し た。 こ れ が 世 に い う「 サ ズ ヴ ォ ル タ ・ デ ィ ・ サ レ ル ノ レ ル ノ 転 回 」 で あ る 。 国 民 の 総 力 を 対 独 国 民 解放戦争に結集するというのが、その理由であった。これが独ソ戦の勝利を至上目的とする、ソ連の国益に沿った判断 であることは明白であった。だが当時スターリンの権威は絶対であった。こうして共産党の強力な支持とともに、北部 イタリアでの武装パルチザンによる解放地区の自立的統治を懸念しはじめた連合国の承認を得たことで、バドリオ政権 とそれを継承した元首相のイヴァノエ・ボノーミを首班とする政権は、ファシズム時代の国家構造を基本的には温存す ることができたのである。行動党の前に立ちはだかったのは、トリアッティであった。   ところが一九四五年四月末になると、イタリア北部の主要都市は、武装パルチザンの一斉蜂起によって次々と解放さ れていく。スイスに逃亡を図ったムッソリーニも処刑され、四月二九日にはミラノのロレート広場で愛人のクララ・ペ タ ッ チ の 遺 体 と と も に、 逆 さ 吊 り に さ れ て し ま う。 こ う し た「 北 風 」 の 勢 い に 乗 っ て ボ ノ ー ミ 政 権 は 退 陣 に 追 い 込 ま れ、六月二一日にはついに、行動党の武装パルチザンの指導者フェルルッチョ・パッリが国民解放委員会六党連立政権 の首相に就任した。パッリ政権は著しく急進的であった。ナチ・ファシズムの共犯者となった経営者を追放して工場評 議 会 の 自 主 管 理 に 委 ね る と と も に、 資 本 課 税 の 強 化 を 図 ろ う と し た。 だ が 連 合 国 軍 政 府 は そ の 撤 回 を 求 め た。 さ ら に ファシズムと結託した高級官僚の公職追放を行おうとしたが、自由党の閣僚が辞表を提出し、共産党もこれに同調した ため、政権はわずか五か月で崩壊した。

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  一九四五年一二月一〇日には、キリスト教民主党のアルチーデ・デ・ガスペリが首相となる。それはコミンテルンに おける人民戦線の理論家であったトリアッティが、行動党よりもカトリック教徒からなる大衆基盤をもつキリスト教民 主党との同盟を選択したからである。かくして国民解放委員会に結集した反ファシスト諸政党の統一は瓦解する。そし てあっというまにキリスト教民主党、共産党、プロレタリア統一社会党という三つの大衆組織政党からなる連合政権の 時 代 へ と 移 行 し て い っ た。 そ れ は 明 白 な「 逆 コ ー ス 」 を 意 味 し た。 連 合 国 す な わ ち ア メ リ カ 合 衆 国 も そ れ を 支 持 し た。 一九四六年一月に国民解放委員会が任命した県知事や警察署長が更迭された一方、三月末にはファシズム制裁高等委員 会が解散となり、ファシズムと結託した旧指導階級の責任追及が停止されて公職への復帰が可能となった。さらに法務 大臣となったトリアッティは、政治犯に対する大規模な恩赦を実施する。パッリ政権によるファシスト粛清に始まる体 制変革の試みは、根本から否定されていった。   パドヴァ大学に戻ったボッビオは、一九四六年六月二日の政治体制(王制か共和制か)を選択する国民投票と同時に 実施された制憲議会議員選挙に、行動党員としてパドヴァ・ヴィチェンツァ・ヴェローナ選挙区から立候補した。選挙 運 動 で は か な り の 手 ご た え を 感 じ た と い う。 し か し 行 動 党 の 得 票 率 は わ ず か 一 ・ 五 %、 七 議 席 し か 獲 得 で き な か っ た。 行動党は、自由民主主義の伝統を欠くイタリアでは、大衆基盤のない中流ブルジョワ知識人政党でしかなかった。いか に行動党が急進的な民主主義革命を唱えたとしても、第一次大戦前からの労働運動や農民運動の伝統に根ざす大衆基盤 を継承したばかりか、スターリンをカリスマ的指導者に抱くソ連の影響下にマルクス主義を不謬のイデオロギーとして 信奉する、社会党や共産党が圧倒的な影響力を行使していた左翼陣営の一角を占めることは不可能に近かった。   イタリア国民は共和制を選択した。だが行動党は一九四七年一〇月二〇日公式に解散を決定する。それ以降、ボッビ

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オが政党活動に直接的な形で関わることは、一度もなかった。

     

 

 

  一九九四年九月八日に話を戻そう。ボッビオ教授のお宅のエレベーターを降りると、玄関でドアを開けて待つお仕着 せのエプロンを着たお手伝いさんが、書斎にまで案内してくれた。書斎は広く天井が高かった。壁面を取り囲み天上に ま で 届 く 書 棚 に は、 こ の 種 の 書 斎 に は あ り が ち な 装 飾 的 な 皮 の 背 表 紙 の 豪 華 本 が 整 然 と 並 ん で い る と い う わ け で は な く、何の変哲もない書物や無粋な講義録のファイルがただぎっしり詰まっていただけなので、取りたてて立派な書斎と いう印象を受けなかった。だからこそかえって八五歳という高齢にもかかわらず、教授の現にまだここで毎日仕事を続 けているのだという雰囲気が、ひしひしと伝わってきた。   イ タ リ ア で は 一 九 九 四 年 三 月 二 七 日 と 二 八 日 の 両 日 に、 そ れ ま で の 比 例 代 表 制 に 替 わ る 小 選 挙 区 比 例 代 表 並 立 制 と い う 新 た な 選 挙 制 度 の 下 で 初 め て の 総 選 挙 が 実 施 さ れ、 四 千 八 百 万 人 の 有 権 者 が 投 票 し た。 そ し て イ タ リ ア 「 第 ラ・プリマ・レプッブリカ 一 共 和 制 」は最期の日を迎えることになった。   第一共和制というのはフランスの共和制の変遷になぞらえた比喩的表現に過ぎない。なぜならば一九四八年一月一日 から施行されたイタリア共和国憲法に、例えば大統領制の導入といった重大な修正が加えられたわけではないからであ る。 そ れ に も か か わ ら ず、 戦 争 や 革 命 や 内 乱 や ク ー デ タ が 生 じ た わ け は な い の に、 キ リ ス ト 教 民 主 党、 共 産 党、 社 会 党、社会民主党、共和党、自由党といった第二次大戦後のイタリア政党システムをほぼ五〇年にわたって構成し続けて

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きた伝統的な諸政党が、この総選挙と相前後してすべて消滅したことを念頭におくならば、第一共和制の終焉というの もあながち誤った表現とはいえない。   そしてフォルツァ・イタリアや北部同盟といった新興勢力に、これまで政権から排除され続けてきたネオ・ファシス ト 政 党 で あ る イ タ リ ア 社 会 運 動 を 前 身 と す る 国 民 同 盟 が 加 わ っ た シ ル ヴ ィ オ・ ベ ル ル ス コ ー ニ 首 相 の 率 い る「 中 道 右 派」連立政権が誕生した。   ボ ッ ビ オ 教 授 は、 こ の 総 選 挙 直 前 の 一 九 九 四 年 二 月 に、 『 右 と 左 ― 政 治 的 区 別 の 理 由 と 意 味 』 と い う 百 ペ ー ジ 足 ら ず の小さな本を世に問うていた。フランス革命以来、ほぼ二世紀にわたって政治の世界を対立する二つの部分に分けるの に用いられてきた左右の区分が、もはや時代遅れであるといわれて久しいが、果たしてそういえるのであろうか。   左右の区別は、イデオロギーの終焉によって無意味となったというけれど、イデオロギーが地上から消滅したことは 未だかつてなく、イデオロギーの終焉を唱えること自体が実はイデオロギーとはいえないであろうか。あるいは多元主 義的な民主主義のもとでは、政党システムがその中央=中道に位置する第三極に収斂していく傾向があるから、左右の 区 別 は 無 意 味 と な る と い う け れ ど、 そ れ は 本 当 だ ろ う か。 「 あ れ か、 こ れ か 」 と い う 左 右 の 区 別 で は な く「 あ れ も、 こ れも」という左右の区別を乗り越えた第三の道があるというかもしれないが、実は、それは左右いずれかの立場から相 手側を自らに引き寄せて中立化することにより、危機に陥った自分自身の立場を救いだそうとする試みに、他ならない の で は な い だ ろ う か。 さ ら に、 自 然 環 境 を 争 点 と す る 緑 の 運 動 や 堕 胎 の よ う な 生 命 倫 理 を 争 点 と す る 新 し い 社 会 運 動 は、左右の区別を時代遅れとするかに見えるけれど、そうではない。そうした運動であっても、問題を突きつめてゆけ ば、結局のところ左右の区別が不可避となるのではないだろうか。

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  また、冷戦後のソ連を始めとする共産主義体制の崩壊によって、左翼は消滅したといわれている。かつて左翼が隆盛 であった時代には、まだ右翼に存在理由はあるのかと問われてきた。今では左翼の存在理由が問われている。まだ左右 の 区 別 が 残 っ て い る と し て も、 「 い ろ ん な 左 翼 」 と「 い ろ ん な 右 翼 」 が い る だ け で、 新 し く て 複 雑 な 個 々 の 現 実 を 前 に した場合には、いずれもがほとんど同じことしかいわなくなっているという。だから、もはや左右の区別は虚構となっ てしまったというけれど、果たしてそういえるのであろうか。   そ こ で ボ ッ ビ オ 教 授 は、 左 右 の 区 別 と は 別 に 極 エ ス ト レ ミ ズ モ 端 主 義 と 穏 モ デ ラ テ ィ ズ モ 健 主 義 の 区 別 を 立 て る こ と を 提 案 す る 。 左 右 の 極 端 主 義 ( 過 激 主 義 ) に 共 通 す る 特 徴 は、 反 啓 蒙 主 義 的( 時 に は 非 合 理 主 義 的 ) で 破 局 論 的 な 歴 史 観 で あ り、 英 雄 主 義 的 で 反 民 主主義的な政治観である。他方、穏健主義は、漸進主義的で進化論的な歴史観を特徴とする。そしてそれは、民主主義 の本質ともいえる相対立する利益のあいだの妥協には不可欠な前提となる、慎重・寛容・打算・調停といった商人的な 美徳とも親和的である。すなわち極端主義と穏健主義の違いは方法に関わり、右と左の違いは価値に関わる。だから左 翼 と 極 端 主 義 を 混 同 し て は な ら な い と い う( ち な み に ボ ッ ビ オ 教 授 は、 一 九 八 三 年 の 講 演 で『 柔 エ ロ ー ジ オ ・ デ ッ ラ ・ ミ テ ッ ツ ァ 和 礼 讃 』 と い う道徳哲学論を公にしている) 。   それでは左右の区別とは一体何を意味するのであろうか。ボッビオ教授は政治的表象においては、未だに空間的時間 的隠喩(例えば左右、上下、高低、深浅、遠近、前後、新旧など)を用いた二元論が機能し続けていることを再確認し たうえで、左右を区別する基準とは何かを探っていく。そして、それは平等という理想に対する態度の違いにあるとす る。さらに具体的には、何らかの差別を正当化するか否かに関わるものだとする。   今では性、人種、言語、宗教、政治信条などによる差別の撤廃や教育権・労働権・健康権といった社会的諸権利の承

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認は、左右の別なく当然のこととされている。だが平等という理想を追求する社会主義運動がなければ、それが実現す ることもなかった。それは左翼の最も輝かしい成果なのである。たしかに共産主義が唱えた平等主義のユートピアは理 想とは正反対のものとなってしまった。歴史のなかの共産主義は敗北した。だがそれが挑戦しようとした課題は未解決 のまま残っている。左翼にとって平等という理想は、これまでも見つめてきたし、これからも見つめ続ける北極星のよ うなものである。左翼はその役割を終えたどころか、やっとそれに取りかかったばかりなのである。   『 右 と 左 』 は ボ ッ ビ オ 教 授 が こ の 総 選 挙 に 向 け て 著 し た 遺 書 と も い え る マ ニ フ ェ ス ト で あ っ た。 し か し 一 九 九 四 年 の 総選挙後に私を前にした教授は、アームチェアに深く腰を下ろしながら、いいようもなく淋しそうな表情で、こう言っ たのである。イタリアの自由主義はこの総選挙によって三度目の敗北を喫しました。一度目はいうまでもなくファシズ ムによってです。二度目はキリスト教民主党によってです。そして三度目はベルルスコーニによってです。ボッビオ教 授は、たしかに左翼ではなく、自由主義が敗北したといった。一九九五年の『右と左』改訂版ではゴベッティの恩師で あり、後に大統領にもなったイタリアを代表する自由主義経済学者ルイージ・エイナウディの最終講義『自由主義と社 会主義の類似点と相違点をめぐる基本的考察』が生涯にわたる座右の書であったとして、次のような言葉を引用してい る。 「 自 由 主 義 的 な 人 間 と 社 会 主 義 的 な 人 間 は 対 立 す る と い え ど も 敵 ど う し で は な い。 な ぜ な ら ば 両 者 と も に 相 手 の 意 見を尊重するからだ。また自分の原則が実現されるだけでは限界のあることを知っているからだ」 。「最適解は全体主義 的専制が強制する平和のなかでは得られない。それは自由主義と社会主義という二つの理想のあいだの、どちらかが負 けると共倒れになるという、不断の闘いを通して得られるのである」 。   ボッビオ教授は自由主義者であり社会主義者であった。それが教授のいう左翼だった。

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いやな感じ

  シルヴィオ・ベルルスコーニは左翼政権の誕生阻止を至上命題として政界に出馬した。イタリア共産党は、ベルリン の壁が崩壊した三日後の一九八九年一一月一二日に、アキッレ・オッケット書記長がボローニャの下町ボロニーニャで のパルチザン闘争四五周年記念集会において突如路線転換を提唱したことをきっかけとする激しい党内論争を経て、リ ミ ニ で 開 催 さ れ た 第 二 〇 回 党 大 会 の 最 終 日 の 一 九 九 二 年 二 月 三 日 に 解 散 を 決 定 し、 そ の 七 一 年 に 及 ぶ 歴 史 に 終 止 符 を 打って、新たに左翼民主党と名乗るようになっていた。   思えばボッビオ教授は、イタリア共産党のもっとも誠実な対話者であると同時に、もっとも容赦なき批判者でもあっ た。 一 九 五 五 年 に は ロ デ リ ー ゴ・ デ ィ・ カ ス テ ィ リ ア( 共 産 党 書 記 長 ト リ ア ッ テ ィ の 筆 名 ) の 自 由 主 義 批 判 に 対 し て 「 自 由 と 権 力 」 と い う 論 文 を 著 し、 自 由 主 義 を ブ ル ジ ョ ワ 権 力 に と っ て の 自 由 の 理 論 と 実 践 で は な く「 国 家 権 力 の 制 限 をめぐる理論と実践として捉えるならば、特に全知全能を誇る国家が数多く見られる我らの時代に、自由主義を厄介払 いしてしまうなどというのはとてつもなく難しいことである」と反論していた。そして自由主義の伝統に基づく市民的 諸自由と民主主義に起源をもつ政治的諸自由、さらには労働運動の成果である社会的諸権利は、決して過去の残滓や少 数者の特権などではなく、人格を有するすべての個人にとっては譲り渡すことのできない遺産であると述べて、個人を まるで国家機構の全体性を構成する一部品であるかのように扱う共産党によるプロレタリアート独裁国家を、厳しく批 判していた。   それにもかかわらずボッビオ教授は反共主義者ではなかった。というのもイタリア共産党が、勤労者大衆の解放と社

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会的諸権利の推進に貢献したのみならず、反ファシズム・レジスタンス闘争の先頭に立って、これを勝利に導いたこと により、イタリア共和国の成立とイタリア共和国憲法の制定に決定的な役割を果たしたことを、高く評価していたから である。   と こ ろ が 選 挙 運 動 中 の ベ ル ル ス コ ー ニ は、 す で に イ タ リ ア 共 産 党 が 消 滅 し た の に、 イ タ リ ア は 共 産 党 政 権 に な れ ば 自 由 の な い「 収 容 所 列 島 」 に な っ て し ま う と い っ た「 反 共 」 宣 伝 を 繰 り 広 げ て い た。 そ れ は 彼 の 所 有 す る 世 論 調 査 会 社 デ ィ ア ク ロ ン が フ ォ ー カ ス・ グ ル ー プ を 用 い た マ ー ケ ッ ト・ リ サ ー チ を 行 っ た 結 果、 「 反 共 」 が ネ ガ テ ィ ヴ・ キ ャ ン ペーンにはまだもっとも効果的な政治シンボルであることを、発見したからに他ならない。その意味においてベルルス コーニはイデオロギッシュな右翼でもなければ反共主義者でもなかった。   ボ ッ ビ オ 教 授 は、 ほ ん と う に「 い ア リ ア ・ チ ニ カ や な 感 じ 」 が す る ね 、 と 目 を 伏 せ た 。 そ し て こ う 続 け た 。 ベ ル ル ス コ ー ニ に は 、 彼に好意的な論者がいうような、ポスト冷戦時代にふさわしい新しさや爽やかさなど微塵も感じられない。そもそも彼 は自由主義者ではない。じつは自由などどうでもよいのだ。むしろ そ プ レ ジ ュ デ ィ カ ー ト んな理念から自由である からこそ、選挙戦略の必 要に応じてそのつど有用なシンボルを、シニカルな合理性にもとづいて選んでいけばよいと考えているのだ。   イ デ オ ロ ギ ー の 終 焉 と い い、 右 も 左 も な く な っ た と い い な が ら、 そ こ に 生 じ た の は イ デ オ ロ ギ ー の「 真 ァ ク オ 空 状 態 」 な のではないか。まるでパンドラの箱が開けられてしまったかのように、かえってイデオロギー的には何でもありの状態 となってしまった。しかもそこに噴出してきたのは、戦後民主主義体制の下ですでに乗り越えられたと思われてきた右 翼 的 で 反 動 的 な 諸 潮 流 で あ っ た。 「 歴 史 の 終 焉 」 と い わ れ て、 世 界 で 自 由 民 主 主 義 が 最 終 的 な 勝 利 を 収 め た と さ れ る 冷 戦後の状況のなかから、それまで封印されてきた伝統主義的で非合理主義的な反動的言説が、ときにはポスト・モダン

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的な色彩を帯びつつ復権し始めたのである。   ベルルスコーニ政権には、戦後初めて、五人ものネオ・ファシスト(国民同盟)党員が入閣していた。黒シャツでは な く ダ ブ ル の ス ー ツ を 着 た 戦 後 生 ま れ の 国 民 同 盟 書 記 長 ジ ャ ン フ ラ ン コ・ フ ィ ー ニ は、 ポ ス ト・ フ ァ シ ス ト と 称 し つ つ、ムッソリーニを今世紀最大の政治家だと公言して憚らなかった。また国民同盟の議員たちは、イタリア共和国憲法 補則一二項「解散となったファシスト党の再建はいかなる形であれ禁止する」の廃止を求める憲法改正案を、下院に提 出した。さらにレジスタンスの勝利を祝う四月二五日の「国民解放記念日」に替えて、第一次大戦の開戦記念日である 五月二四日を「祖国の祝日」とすることを提案していた。だから一九九四年五月四日欧州議会は、イタリア共和国大統 領エウジェーニオ・スカルファロに対して、新内閣からネオ・ファシスト閣僚を排除するよう異例の勧告を行ったので ある。   ボッビオ教授は「ファシズムと反ファシズムを等距離において見ることなど断じてできません。警察国家と法治国家 が同じものだといえるのか。ファシズムが、世界で初めてイタリアに誕生したのは私たちの恥でしかないことを、若い 人たちも理解しなければなりません」と語気を強めて述べ、歴史修正主義の流れがますます強くなり、反ファシズムと レジスタンスという戦後民主主義の正統性の根拠が相対化されていくことに、強い危惧の念を示した。   さらに教授はこんなことも話題にした。イタリアの戦後政治を長期にわたり支配してきたキリスト教民主党が政治腐 敗と統治能力の喪失によって解体してしまい、キリスト教民主主義の下でのカトリック教徒の政治的統一という原則が 消滅したとたん、すでに克服されもはや過去の亡霊と考えられてきたカトリック非妥協主義や伝統主義、あるいはイン テグラリズモ(カトリック原理主義)の諸潮流が、ここぞとばかりに息を吹き返してきたのです。

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  イレーネ・ピヴェッティという弱冠三一歳にして、イタリア史上初めて女性の下院議長となった女性をご存知でしょ うか。彼女はイタリアの国家統一の歴史を否定し、北部の分離独立を唱えるウンベルト・ボッシの率いる北部同盟に属 しています。それなのに、フランス革命において一七九三年にカトリック王党派が起こしたヴァンデーの反乱に因んだ 十字架をつねに胸にして、それまで使用されていなかった下院議事堂の礼拝室でミサを立て、この八月にはリミニで開 催 さ れ た カ ト リ ッ ク 原 理 主 義 共 同 体「 聖 コ ム ニ オ ー ネ ・ エ ・ リ ベ ラ ツ ィ オ ー ネ 餐 と 解 放 」 の「 人 フ ェ ス タ ・ デ ッ ラ ミ チ ツ ィ ア ・ ポ ポ ラ ー レ 民 友 好 祭 」 に 出 席 し て 、 フ ラ ン ス 革 命 が もたらした無神論が諸悪の根源であると演説したと聞いています。   キリスト教民主党が大混乱に陥るなかで、一九九三年七月にイタリア人民党と改称されたときに幹事長に抜擢された のは、テラーモ大学の政治哲学教授ロッコ・ブッティリオーネでした。彼は「聖餐と解放」のイデオローグです。それ までカトリック系の学界でも無名の人物であり、教皇ヨハネ・パウロ二世の伝記を書いたことによる教皇との個人的な 縁故関係が、彼の唯一の政治的「資源」だったのです。ボッビオ教授は、こんな知的にも凡庸で時代錯誤的なインテグ ラリスタ(カトリック原理主義者)が、政界の表舞台に登場することになろうとは夢にも思わなかったと述懐した。   と こ ろ で「 聖 餐 と 解 放 」 は ミ ラ ノ の 司 祭 ル イ ー ジ・ ジ ュ ッ サ ー ニ が 一 九 五 四 年 に 始 め た 学 生 青 年 会 を 起 源 と す る。 そ し て 第 二 ヴ ァ チ カ ン 公 会 議( 一 九 六 二 ― 六 五 年 ) に 始 ま る カ ト リ ッ ク 教 会 の「 現 ア ッ ジ ョ ル ナ メ ン ト 代 化 」 に 伴 う 世 俗 化 の 進 行 と 、 一 九 六 八 年 の 五 月 革 命 以 降 の 左 翼 急 進 主 義 の 台 頭 に 強 烈 な 危 機 感 を 抱 い た こ と か ら、 一 九 七 〇 年 代 に 入 る と 心 理 療 法 ( カ ル ト ) 的 改 宗 手 段 を 駆 使 し て 在 俗 信 者( な か で も 学 生 ) を 折 伏 す る カ リ ス マ 的 共 同 体 へ と 発 展 し て い っ た。 す な わ ち 聖 職 者 位 階 制 に 従 属 す る 公 式 の 在 俗 信 者 組 織 で あ る「 イ ア ツ ィ オ ー ネ ・ カ ッ ト ー リ カ ・ イ タ リ ア ー ナ タ リ ア・ カ ト リ ッ ク 活 動 団 」( A C I ) の 形 骸 化 と ル ー テ ィ ン化に対抗して、ジュッサーニ師というカリスマ的指導者の下での自発的で戦闘的な在俗信者による「下から」の改宗

参照

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