近江商人・初代伊藤忠兵衛のリスク管理と信仰の相克
はじめに 、 i ﹁■■▼ー ノー功・深見 泰孝
近年企業家、資産家、投資家等の歴史研究が各方面で進捗する中で、 出資リスクを担う資産家としての商人層の投資活動をリスクをキーワー ドとして解析しようとする研究動向が見られる。たとえば谷本雅之、阿 部武司両氏は﹁投資集中度の高い⋮地元企業へ相対的にリスク・テーキ ングな投資を行なっていた﹂﹁必ずしも﹃企業家﹄として経営を積極的 ︵1︶ に担わないが⋮相対的にリスキーな企業投資を敢行する資産家﹂を﹁地 方名望家﹂的資産家類型として分類した。また末永國紀氏も企業勃興期 の一二県の会社設立動向を分析し三都商人等の﹁単なる出資者ではなく、 ︵2> しばしば設立発起時から経営に携わる積極的性格﹂を指摘した。また商 人層の投資活動を史料に依拠して具体的に分析した先行研究として、た ︵3︶ とえば中西聡氏による酒谷家の事例研究がある。 こうした先行研究を踏まえて、本稿では﹁近江商人﹂が近代の資本家 へ移行する過程において、どのような有価証券投資活動を実践したのか、 投資に不可避なリスクをどのように認識し、いかにして回避したのか ︵または可避できなかったのか︶を、代表的な近江商人の一人である初 代伊藤忠兵衛の具体的事例で検討しようと試みたものである。 初代伊藤忠兵衛に関してはすでに宇佐美英機氏が先行研究を精査する 近江商人・初代伊藤忠兵衛のリスク管理と信仰の相克 ︵4︶ とともに、いくつかの論文を公表しているのでここでは繰り返さない。 ︵5︶ 今回参照することができた﹁伊藤忠兵衛家文書﹂の中には幸いにも明治 二十五年時点を記載した二十六年作成分から明治末期まで﹃掌帳﹄ない ︵6︶ し単に﹃掌﹄と記載された一連の文書群が含まれている。素材とした史 料・﹃掌帳﹄は一見して伊藤忠兵衛家に関わる公社債、株式、融資、預 金その他の財産目録としての性格が見て取れるが、詳細な史料の検討は これからの段階である。有価証券︵公社債、株式︶の銘柄には数多くの 企業名が掲載されており、その中には近江鉄道、近江銀行等すでに先行 ︵7︶ 研究や関係社史・伝記類の中で伊藤忠兵衛との関係が明らかにされてい る企業群も含まれている。しかし株数、金額、取得・売却の年月、名義 株、店卸除、年度別の増減などの詳細な取引情報を含む投資活動の全貌 は今回の﹃掌帳﹄により初めて明確になるものである。なお﹃掌帳﹄掲 載企業のうち伊藤外海組に関しては宇佐美英機氏が平成十七年十一月十 九日の経営史学会全国大会で﹁伊藤忠兵衛家文書﹂等に基づき﹁初代伊 藤忠兵衛の貿易事業﹂として報告済みで、本誌に論文が掲載されている。 今回はとりあえず宇佐美氏を中心に組織された共同研究の第一段階と して初代伊藤忠兵衛のリスク管理活動と信仰の接点の解明に限定して、 ﹃掌帳﹄を利用することから開始し、今後に予定されている﹁伊藤忠兵 衛家文書﹂の全体の史料整理・分析作業と歩調をあわせて総合的な共同 研究を進めることとなった。我々が信仰との接点に特に注目したのは初 代伊藤忠兵衛の信仰を抜きにしては説明しえない一連の西本願寺関連銘 柄の存在の故である。初代伊藤忠兵衛の信仰については社史・伝記類で も言及されているが、具体的な投資活動の局面において信仰と投資が複 ︵8︶ 合した事案が具体的に議論された近江商人研究は管見の限りでは植松忠 五一滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十九号 ︵9︶ 博氏の﹁仏教と経済活動﹂など、まだまだ少ないように思われる。 リターンを求めない喜捨・寄進行為と、当然にリターンを求めずには おかぬ投資行為とが相互に絡みあったと想像される西本願寺関連銘柄の 検討は近江商人を含む富裕商人層・資産家の投資活動に関する先行研究 にも新たな視角を加えるという意義を見出だせるのではなかろうか。 現在は主にリスク管理面に取組み中の小川は過去に生保研究の一環と して真宗信徒生命に関して若干の考察を行ったことがあり、深見は破綻 した京都の銀行である鴨東銀行に引き続き、西本願寺関連の起業銀行等 の研究を開始している。上述した共通の問題意識のもとに両人で分担し て、リスク管理面と信仰面という一見相矛盾する二つの根源的基盤同士 の間ぎあいを初代伊藤忠兵衛という一人の人間がどのように調和させた のかどうかという、リスク管理と信仰の相克問題を取り上げることとし た。 本稿のうちリスク管理面は主に小川が、真宗信徒生命・起業銀行関係 等の信仰面にかかわる投資活動と当該史料のうち本稿に取り上げた範囲 での初代伊藤忠兵衛の関与企業︵明治三十七年まで︶に限定した図表 ︵文末に添付︶作成は深見が担当した。 一、﹃掌帳﹄に見る初代伊藤忠兵衛のリスク管理 初代伊藤忠兵衛︵以下、初代忠兵衛と略称する︶が直接・間接に関与 したと考えられる明治三十六・七年までの﹃画帳﹄を見ると、①名義株、 ②﹁店卸除﹂銘柄、③解散企業、④継承企業などが相当数あるといった 特色が見られる。このうち③の解散企業の発生は﹃血道﹄の記載対象と 五二 する期問に、初代忠兵衛の本拠としていた大阪等を中心に明治三十四年 恐慌が勃発したことの反映と考えられよう。また④の継承企業の存在も、 解散企業等の一部が新たに受け皿として継承企業を設立した結果と思わ れる。したがってここでの検討は明治三十四年恐慌の到来という巨大リ スクを現実に抱えていた時点における初代忠兵衛のリスク管理面での資 質・性向をより反映した①と②とに絞る。 初代忠兵衛が名義株を利用した理由がほぼ推測可能なものは、婿養子 の伊藤忠三の﹁店主代理﹂格としての機能発揮目的の名義貸、申込が殺 ︵10︶ 介しそうな人気銘柄への応募や、発起人となった初代忠兵衛が横並びの 発起人としての株数以外で店員名義で申込んだ場合︵起業銀行︶などで ある。 また初代忠兵衛が役員を兼ねた近江銀行、起業銀行など緊密度の高い 投資先には本人以外の役員派遣など何らかの戦略的な意図も感じられ る。当時の企業の多くは定款で役員選任の資格を、たとえば五〇株以上 の株・王に限るなど、持株を義務付けていたからである。こうした名義株 は初代忠兵衛に限らず、比較的一般的な利用形態と考えられる。 いま一つの名義株利用の目的として想定可能なのは当面の様子見、す なわちリスク回避上の判断からである。多店舗展開を特色とする近江商 人においては、古くから﹁店名前﹂︵架空の名義人による店舗営業︶、分 ︵11︶ 家等の諸慣習が﹁投資リスクの回避﹂﹁危険分散の意味﹂からも採用さ れていたことが知られる。こうしたリスク管理の知恵が初代忠兵衛にも 継承され、株式投資に応用されたのであろうか。 リスク管理能力に長けた鉄道資本家として著名な今村清之助の場合も ブームに乗っただけの泡沫的な鉄道等が﹁発起を君に報じ、且つ其賛助
︵12︶ を乞ひたりしも、君は容易に之に応ぜざりき﹂といわれ、﹁其自己の名 を署名したるは、概ね多く有利有望のものに係り﹂、不本意なものは ﹁往々家族親族の名を以て﹂渋々引受けるなど、彼の伝記で﹁世上に ︵13︶ 巧智﹂であったと評されている。 二代目伊藤忠兵衛︵以下、二代目忠兵衛と略称する︶は初代忠兵衛が ︵14︶ ﹁日清戦役前後の綿糸紡績の創立に二一二関係﹂したとする。﹃日本産業金 ︵15︶ 融史研究 紡績金融編﹄には伊藤忠兵衛の大和紡績二〇〇株以外には他 紡績会社への出資・役員兼務の記載がないが、﹃掌帳﹄には二代目忠兵 衛の記憶通り、明治二十九年に大和紡績のほか東華紡績、日本繊綜、河 州紡績等に出資したことが記載されている。他の有力綿糸商・呉服商た ちが本業とも密接に関連する紡績業へ積極的に投資した実態は﹃日本産 業金融史研究 紡績金融編﹄の巻末付表に克明に示されているなかで、 初代忠兵衛の関与ぶりは当時の資産力がさほどでなかったとしても、投 資規模は過少であるように感じられる。 しかも明治二十九年設立の大和紡績の場合、本人の名を出さず支配人 の田附源兵衛名義でまず二〇〇株︵持株順位第]二位︶の発起人株を保 有したが、その後業績に見込みあると見たのか三十一年には初代忠兵衛 の名義にするとともに、石井庄七より五〇株追加で買入れた。しかし同 時期に取得した他の繊維三社はいずれも欠損続きで店卸除となった。当 初大和紡績を支配人名義に止めたのは当面は様子を見た上、見込みあり として本人名義に戻し、買増ししたのではないかと考えられる。 こうした諸点から②の﹁店卸除﹂銘柄の存在を検討すると、一部銘柄 では不良性の資産を春陰で温存することなく、なんらかの情報に基づく 伊藤家としての判断に基づき、解散に先立つ減資、債務超過等の段階で 近江商人・初代伊藤忠兵衛のリスク管理と信仰の相克 店卸から除外して、全額評価不算入とする堅実な資産評価を実行してい る。たとえば魚商合資を﹁二十九年ヨリ損失ト見倣シ店卸ヲ省ク﹂︵三 〇︶、中立起業も引受けと同時に﹁三十一年度店卸ヲ除ク﹂︵三二︶と注 記するなどである。台湾の中立起業の件では株主総会等での当局者から の開示情報だけでなく、雄節で述べる江商合資等の台湾進出企業の乱脈 経営ぶりを直接・問接に見聞した経験もおそらく加味されたものと推測 される。 こうした﹃血忌﹄の記載内容の特色から、リスク管理には慎重で堅実 な初代忠兵衛の資質・性向が窺える。初代仁兵衛の経営者としての性格 に関しては以下のような近親者の証言が知られている。二代目忠兵衛は ﹃在りし日の父﹄の中で初代忠兵衛の﹁頭脳の出来はたしかに直観力に優 ︵16︶ れ計数力の正確さと共に比較推理力による可否の見さかいがついた﹂人物 ︵17︶ と評価する。そして﹁相場を忌むで商機を掴む﹂、﹁投機を蔑みて対者の 何れかを傷ふに反し、商売道の尊さは売り買ひ何れをも益し世の不足を ︵18︶ うづめ、御仏の心にかなふもの﹂との投機観、商売観を持っていたとす ︵19︶ る。﹁常二前途二相当ナ計ヲ立テテイタ﹂初代忠兵衛は具体的には天候、 石炭の動きと値ごろなどに依拠して景気動向に気を配っていたという。 ︵20︶ 阿部房次郎も﹁投機心はチットも無かった﹂初代忠兵衛は近江銀行等 を共同設立した仲間から﹁︿伊藤﹀忠兵衛さんは固すぎてどうにもな ︵21︶ らぬ﹂と評されていたと回顧している。これに対して初代忠兵衛の方で ︵22︶ は﹁下郷はドウも勝手な事をして困る﹂と感じており、京都の別荘を実 査せぬまま大金を投じた﹁下郷は偉い、彼の別荘を見もしないで買取 ︵23︶ つた﹂と、先代・下郷伝平︵久道︶の豪胆さに驚愕したという。 糸偏が関係深い紡績業へ投資するのは自然な流れであったが、初代忠 五三
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十九号 兵衛は当時勃興しつつあった紡績業に対して﹁よく工場から火災を起し ︵翼︶ たので⋮そんなものは危いから持たぬ方針﹂であったという。 初代忠兵衛のリスク管理には概して固すぎるとの周囲の評価が多いよ うであるが、二代目忠兵衛の回顧では﹁商売人ワバクチが大切ダ。バク ︵お︶ チヲウテ﹂と正月に家族・店員に小遣いを配って賭け事を楽しみ、一人 勝ちして全員から回収し﹁敵ノ手ト自分ノ手ノ動キヲ見ルノが商売ノコ ツダ。ソシテ常二精神力ヲ集中スルノダ⋮バクチニマケル奴ワ人生ノ敗 ︵26V 者ダ﹂と諭したという。 ︵27︶ こうした一面を持ち﹁新事業に対する想像力が広すぎ﹂た初代忠兵衛 は当然ながら当時としてはまれな海外事業をはじめ幾度かの大きな投資 ︵28︶ を敢行するなど﹁世の実業家の踏んだ道は一ト通り試み﹂た。田中良蔵 は、初代忠兵衛は常に﹁今迄やってきた中で一番大胆でやまを張ったの ︵29︶ は大阪に出て仕事をすることと、この︿本町新店舗﹀建築をやった事だ﹂ といっていたと回顧し、阿部房次郎は初代忠兵衛が明治二十一年ころ ﹁貿易その他新規事業で損をして﹃これでワシの店もギチギチだ﹄など蔵 ︵30︶ す所なく話された﹂と回顧している。 二、﹃掌帳﹄記載の投資先の個別検討 ここでは信仰面に関わる投資先以外のものを個別に検討する。 (一 j公債投資 初代忠兵衛は松方デフレに先立つ明治十四年ころ掛売りを縮小して、 ﹁現金制度﹂という標語を掲げて現金取引を原則とする方針を厳しく打出 し、こうして得た余剰資金を挙げて安全な公債買入れにシフトさせ、﹁物 五四 ︵31︶ 価が三分ノ一力半分ニナッタトキ、涼シイ顔ヲシテ逆二曲ヲナシタ﹂こ とを一生の自慢の一つにしていたという。具体的には旧士族の売却する 一割利付の秩禄公債、金魚公債を時価七〇∼八○円で買入れた。当時井 上保次郎、山口吉郎兵衛ら大阪の両替商出身の老舗の銀行家が公債買入 ︵32︶ れに動いたのに追随したものであった。とくに黒川幸七とは田中良蔵に ︵33︶ よれば初代忠兵衛、岩井文助と﹁中船場の三人男﹂と称され、阿部房次 ︵34︶ 郎によれば=番の友達﹂であった。田中良蔵は初代忠兵衛が﹁経済界 ︵35︶ の消長は⋮循環的に必然来るべき事を予見﹂した卓見だと解している。 明治二十八年夏﹃掌帳﹄の﹁株券売買証拠金其他付込﹂欄には山陽鉄 道二〇株、讃岐鉄道二〇株などの売付証拠金が記載されており、黒川仲 買店との取引が曽野作太郎︵近江銀行、近江鉄道、児島鉄道などで取引︶ などとともに存在したことが裏付けられる。 ︵二︶日本絹糸紡績 江正系集団の例として下郷伝平、馬場新三、松居久左衛門らの仲間で は﹁当時我々お互ひの間には、総べて他から何か︿投資﹀話を受けた場 合には、話し合うことにしよう、と云ふ事になって居ました⋮此の遣り ︵36︶ 方は、商略としては誠に実際的だ﹂との証言がある。 松居久左衛門︵横田久二︶は明治二十九年京都側の発起人から日本絹 綜紡績創立の話を受けて、上記の約束に従って下郷伝平ら江州人の仲間 に話したところ、下郷伝平は﹁先方より話を受けて、此方が加入するこ ︵37︶ とになれば、先方に権力を握られて仕舞ふ﹂と主張、結局﹁発起人とし て先方は五、六人掛あるのに此方では十人も出来た故、此方に全部委せ ︵38︶ よと云ふ事を談判して会社創立の実権を全部此方に取って仕舞った﹂と 回顧している。
日本絹糸紡績はこうした経緯で下郷伝平らの主導で明治二十九年七月 資本金一〇〇万円でごまかして輸出される弊害のある﹁屑物を利用して、 ︵39︶ 新に絹糸紡績を製出しやう﹂との目的で京都府葛野郡大内村に設立され た。社長下郷伝平、取締役馬場新三、小泉新助、松居久左衛門、中村治 兵衛、藤川源兵衛、荒川宗助、監査役阿部市郎兵衛、山中利右衛門、井 ︵40> 上吉兵衛、副支配人杉本有信であった。初代忠兵衛も発起人となって五 〇〇株を引受け、二十九年では大阪店一〇〇、長兵衛七〇、中村清四五、 忠次郎三〇の各名義を併せ七四五株を保有した。日本絹糸紡績は明治三 十五年七月、統合により共立絹糸紡績、第一絹糸紡績、新町紡績所とと もに絹糸紡績を新設して解散した。三十六年目﹃台帳﹄には﹁解散二付 ︵絹糸紡績会社合併︶更二左下訂正ス 旧会社百株二付言会社四十株ノ 割当﹂﹁旧日本絹糸一株十六銭宛割戻リ﹂︵三六︶と注記されている。 ︵三︶江商合資←東洋土木←日本興業 リスク管理上の問題含みと見られる典型的銘柄は江商合資︵後の江商 とは同名異社︶とその後継企業である。下郷伝平ら江州人が﹁虚業家﹂ とも思える連中に手を変え品を変えて何度も儲け話に乗せられている。 慎重な初代忠兵衛もいやいや引きずり込まれたのは下郷伝平が主導的に 話を進めた傾向があることに加え、甥の外海鉄次郎も出資者・株主とし て森清右衛門、広瀬満正、磯村音量らに大いに共鳴したためと推測され ︵41︶ る。慎重な初代忠兵衛は暴走気味の﹁下郷はドウも勝手な事をして困る﹂ と愚痴っていたといわれる。 まず質商合資は荒尾精が﹁台湾が日本の領地になりし故、江州の有力 ︵42︶ 家と資本家とで台湾で事業を始めたら宜からう﹂と籠手田滋賀県知事を 説得し、森清右衛門が荒尾精の紹介で有力な江州人に新領土台湾での事 近江商人・初代伊藤忠兵衛のリスク管理と信仰の相克 業経営の有利さを説いて、下郷伝平らが発起人となり明治二十八年十月 大阪市東区備後町三丁目に﹁商品売買宿敵委託販売﹂を目的に資本金一 〇万円で設立された。業務担当社員は下郷伝平、小泉新助、阿部市郎兵 ︵43> 衛であった。同社の初代支配人は後に日糖事件で﹁虚名を以て世を欺き、 ︵翌 それにて世を渡る﹂﹁いかさま物﹂と酷評された磯村音介であったが、 ︵45︶ 江商合資でもやはり問題を起して﹁放逐され﹂、野崎盛幸が後任の支配 人となった。 初代忠兵衛も森清右衛門に会見して八○○○円を負担、二十八年十二 月第一回八○○円、二十九年十一月第二回八○○円を出金した。また江 商合資への出資金一〇〇〇円を六%の金利で外海鉄次郎に貸付けた︵三 〇︶。しかし江商合資はうまくいかず﹁二十九年ヨリ損失ト見倣シ店卸 ヲ省ク﹂︵三〇︶状態であった。 主唱者の森清右衛門はさらに土木建築が有利と称して﹁江商合資会社 ︵46︶ を引継いで⋮東洋土木株式会社と云ふのを起し﹂たと回顧している。東 洋土木は明治二十九年十二月大阪市東区に﹁土木建築請負及設計監督並 に材料調達﹂等を目的に資本金五〇万円で設立された。社長森清右衛門、 取締役下郷伝平、小泉新助、中村治兵衛、監査役山中利右衛門、小林吟 ︵47︶ 右衛門であった。伊藤家は三十年では二〇〇株を保有した。また外海鉄 次郎の東洋土木一二五株の代金一五六二円五〇銭も同人に貸付けた︵三 〇︶。 しかし明治三十年台湾で疑獄事件が起り、しかも責任者の荒尾精が現 地で病死したことも重なって官庁工事主体の同社は大打撃を被った。こ のため減資を余儀なくされ三十一年には一一四株になり、﹁三十一年店 卸ヲ除キ全損二帰ス﹂︵三一︶と注記されている。 五五
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十九号 このため森清右衛門は三たび東洋土木﹁会社を造り変へ⋮日本興業と ︵48︶ 名づけて、専ら樟脳の製造、煉瓦の製造に従事﹂したとする。日本興業 に改称後の明治三十一年では資本金は二〇万円、監査役小林吟右衛門に ︵49︶ 代り野崎盛幸︵前江商合資支配人︶、出張所を台北に置いていた。 ﹂三十二年に一一四株あった日本興業株は翌三十三年には再度の減資で 五七株に半減、しかも﹁店卸ヲ除ク﹂︵三三︶と注記されている。田村 ︵50︶ 正寛は﹁其の結果は妙な事になって仕舞った﹂と言葉を濁すが、森清右 衛門は﹁内憂外患交々到ると云ふ有様で、株金の払込方を相談しても、 株主は容易に之に応ぜず﹂﹁事業は⋮旨々と失敗し、皆で三十万円も損 をした﹂結果﹁下郷君や、小泉君が他の江州の方々から八ケ問敷く言は ︵51︶ れた﹂と回顧するとおり、当該日本興業株式は不用株券としてそのまま 伊藤家に保管されている。 ︵四︶日本貿易銀行・日本貿易倉庫 古川鉄次郎の回顧によれば初代忠兵衛は﹁川崎正蔵翁の希望で初期の 川崎造船の組合員となり、又広瀬宰平氏・松方幸次郎影青と謀りて神戸 に日本貿易銀行・神戸︿日本が正当﹀貿易倉庫、兵庫運河、湊川改修を ︵磐 ⋮発起﹂したとする。たしかに川崎正蔵の﹃日賀恵要書﹄には日本貿易 銀行三三〇株︵額面一六五〇〇円、払込五五五七円︶、日本貿易倉庫八 ︵53︶ ○株︵額面四〇〇〇円、払込七〇一円︶が記載されており、川崎正蔵が 明治三十四年算∼十月に払込を終了させた事実が確認できる。現時点で 最も精緻な伝記﹃造船王川崎正蔵の生涯﹄の中で三島氏は正蔵の養子・ 川崎芳太郎が日本貿易銀行の取締役となったとするが、川崎側の関与は ︵琶 かならずしも明らかではない。日本貿易銀行は代議士の松尾寛三が前田 ︵55︶ 正名に﹁貿易業の機関銀行として、為替銀行を起さねばならぬ﹂と説い 五六 ︵56︶ て、前田正名の主導で﹁前田氏と大層懇意であった﹂下郷伝平が江州人 を引き入れ、明治二十八年九月二十八日資本金一五〇万円で神戸市に設 ︵57︶ ︵58> ︵59> 立された。頭取広瀬満正、取締役松方幸次郎、川崎芳太郎、竹村藤兵衛、 ︵60︶ 下郷伝平、山中利右衛門、山本亀太郎、監査役辻忠郎兵衛、水木利三郎、 伊藤忠兵衛、評議員小泉新助、柴田喜蔵、松村甚右衛門、兼松房次郎、 ︵61︶ 池田貫兵衛、支配人成瀬正恭であった。 同行役員中の下郷伝平、山中利右衛門、初代忠兵衛、小泉新助の四名 は近江銀行役員であった。明治二十八年十月十日初代忠兵衛は五〇〇株 と上柳幸吉名義で六〇株の第一回払込︵一二・五円︶を行った。上柳幸 ︵62︶ 吉は甲賀郡出身の伊藤外海組内地仕入主任で、明治三十年で日東合資払 ︹63︶ 込金で五〇〇円の貸借関係があった人物である。 姉妹関係にある日本貿易倉庫を三十五年十二月三菱系の東京倉庫に売 却した後、三十七年九月二十五日継承銀行なく任意解散した。この経緯か ら見て同行は経営不振で整理を余儀なくされた可能性が高いと見られる。 次に同系の日本貿易倉庫は﹁銀行と倉庫を起すの必要を感じ﹂た松尾 ︵64︶ 寛三が次に﹁倉庫を造らねばならぬと云ふ考へで、皆に勧めて﹂明治二 十九年二月神戸市の日本貿易銀行内に設立、資本金一五〇万円、頭取広 瀬満正、取締役川崎芳太郎、山本亀太郎、下郷伝平、山中利右衛門、中 井三郎兵衛、監査役辻忠郎兵衛、竹村藤兵衛、柴田喜蔵、評議員渡辺徹、 ︵65︶ 松尾寛三、兼松房次郎であった。同社役員一二名言の中井三郎兵衛、柴 田喜蔵、渡辺徹、松尾寛三以外は日本貿易銀行役員であり、電話も共通 であった。 日本貿易倉庫は明治二十九年一五〇株と塚本喜兵衛名義で四〇株を取 得した。日本貿易倉庫は明治三十五年十二月三菱系の東京倉庫に買収さ
れ解散した。これを受けて﹃掌帳﹄では三十五年十二月二十八日号一回 割戻金として一株当り一〇円を受入れ、三十六年には残余財産の分配に より一七円払込の一株当り三円二〇銭の戻入があり、一六二円五〇銭を 雑損益に計上している。 ︵五︶大和紡績 大和紡績は明治二十九年一月奈良県高田に設立された。二十九年二月 八日支配人の田附源兵衛名義で二〇〇株、五円の証拠金を払い込んだ。 三十一年には初代忠兵衛の名義とするとともに、石井庄七より五〇株買 ︵66︶ 入れた。三十三年上期では社長阿部周吉、取締役田附政次郎ら、筆頭株 主は小泉新助六〇八株、初代忠兵衛の持株は第一二位二〇〇株、下郷伝 ︹67︶ 平は二一位一二〇株となっている。大和紡績は明治三十五年三月摂津紡 績に買収され解散した。 ︵六︶日本織剛綜 日本繊縣は先発三製麻会社に遅れて明治二十九年二月阿部市三郎らに より当初はラミー︵後に大麻、亜麻に転換︶紡績を目的として大阪府西 成郡に資本金二〇〇万円で設立され、社長阿部市三郎、専務宮川彦一郎、 ︵68︶ ︵69︶ 監査役阿部市蔵らであった。専務の宮川彦一郎は明治二十七年近江銀行 五〇株主名義人の﹁宮川彦﹂︵二七︶と同一人と推測される。日本早耳 の持株は二十九年一〇〇株、三十年五〇株、三十一年四〇株と漸減し、 ﹁三十一年店卸欠損ト見ル﹂と注記された。日本軸心は明治三十五年七 月大阪麻糸と改称、翌三十六年七月安田善次郎の主導のもとに近江麻糸 ︵70︶ 紡織、下野製麻︵安田系︶とともに日本製麻を結成した。 近江商人・初代伊藤忠兵衛のリスク管理と信仰の相克 三、初代忠兵衛による西本願寺系列金融機関への投資活動 (一 j初代忠兵衛の浄土真宗信仰 初代忠兵衛は、持ち下り業から身を興した近江商人としての側面だけ でなく、熱心な真宗信徒でもあったことが知られている。初代忠兵衛は、 北九州へ行商の旅に行くたびに、必ず万行寺︵現在の福岡市博多区下祇 園町︶の七里恒業和上の下を訪ねて教えを乞うていた。そのことは、明 治四年に北九州への持ち下り業を兄長兵衛に譲る際に﹁苦労シテキズ
イタ商売ヲ兄ニユズルコトヲベツニオシイトモオモワナカッタガ
イチバンツラカッタノワ七里和上ノオ慈悲ヲウケラレナクナルコト ︵7!> デアッタ﹂と二代目忠兵衛に話していることからもわかる。また、二 代目忠兵衛も﹁父を語るべく伝ふべきもの・第一であって最後のものは 彼の一生を貫いた宗教に対する信条であります。⋮毎年正月本山御七昼 夜のお籠りに、朝夕の礼拝読経に、御同行或は家族との法語に、自己の 職務以外の最も多くの時間を法の恵みに過しわかちたるは日常を細る家 ︵72︶ 族皆認めをる処であります﹂と述べており、初代忠兵衛の熱心な信仰の 一面がよく表れている。 ︵73︶ また従業員には﹁正信偶・和讃﹂と念珠を配り、毎朝店内の仏壇に念 仏を唱え、毎日北御堂参拝も欠かさなかった。田申良蔵によれば、﹁入 店後多忙の店で仏法の御話しなどとても聴聞する暇は無きものと思って 居りましたが量図らんや主人は⋮サア重手のあいている者は皆ゴザイと たちどころに店員数名を引き連れて安土町の御堂さんに参詣され毎最行 はる・本山特派の講師の法話を聴聞するのでありました。この主人の真 摯なる熱情に感激しそのお蔭で今直に仕遂げなければならぬと云ふ用事 五七滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十九号 ︵巴 の外はこれをあと廻はしにしても遠慮なく避雷﹂したと回顧している。 その他にも、毎月本山や各地の名僧を招いて法話会を開催し、従業員は もちろん得意先にも声をかけて多くの人に法話を聞かせていた。 さらに、初代忠兵衛は本願寺↓=世明豊上人や島地黙雷、赤松連城と いった本願寺の高僧とも交流を深め、明治二十五年には浄土真宗本願寺 ︵75︶ 派︵以下、西本願寺と略称する︶の財政面に参与する勘定役に就任し、 ︵76︶ ︵77︶ 明治三十二年には大日本佛教慈善会の創立にも関与している。この大日 本仏教慈善会は、貧者施療、孤児・貧児養育、罹災救助、感化事業、免 囚保護、布教費補助、学校補助金などをその事業として、具体的には広 島育児院、広島感化院、広島保護院の経営などを行っていた。このよう に、初代忠兵衛自身が非常に熱心に浄土真宗を信仰していたことは言う までもなく、自身のみならず従業員の人格形成にも真宗の教義が用いら れていたと考えることができる。このような近江商人における信仰心の 篤さについては従来指摘されていることであるが、本山の勘定役に就く ほどの信頼を受けた者はほとんど見られなかったということを考慮する ならば、ここに初代忠兵衛の特異性を見ることができ、分析の意味があ、 るのである。 ︵二︶真宗信徒生命保険 さて、初代忠兵衛が勘定役として西本願寺と関係を持ったことに引き 続き、生命保険会社等を通した関わりも重要である。すなわち、明治二 十八年四月、西本願寺有力門信徒一七名︵小西新右衛門、阿部市郎兵衛、 池田長兵衛、井上治郎丘ハ衛、石崎嘉兵衛、岡田治衛武、渡邊甚吉、勝田 悌三郎、高井幸三、高木善兵衛、鎌田勝太郎、牛谷富太郎、伊丹弥太郎、 五八 伊藤忠兵衛、芝原嘉兵衛、杉本薪左衛門、野村恒造︶を発起人にして、 真宗信徒生命保険︵以下、真宗信徒生命と略称する︶が資本金五〇万円 (一 伯ワ〇円,総株数一万株︶で設立された。設立当初の役員は、小西 新右衛門︵社長︶、高井幸三︵専務取締役︶、芝原嘉兵衛︵常務取締役︶、 鎌田勝太郎・豊永長吉・伊丹弥太郎・高木善兵衛・牛谷富太郎︵取締 役︶、阿部市郎兵衛・渡邊甚吉・杉本新左衛門・初代忠兵衛︵監査役︶ であった。 設立趣旨書によれば、会社設立の目的は、﹁内ハ同朋信徒ヲシテ簡易 貯蓄ノ途ヲ得セシメ、死後ノ遺族ヲシテ飢餓ノ悲境田螺ハシメズ⋮外ハ 国家ノ害毒禍乱ヲ未繭二先遣長ク治安ヲ保チ、真俗二諦ノ念佛行者タル ︵78︶ 名誉ヲ発揚シ、以テ油糧鴻恩ノ萬分ヲ報スル﹂ことであった。株主は財 産家であり名望ある特に熱心な浄土真宗の信者と西本願寺と長い間深い 関係を持つ者を中心とし、社員には巡教使又は末寺の住職もいた。当然 被保人は西本願寺の門徒を主としていたが、他派他宗の信者であっても 本人が希望すれば加入できた。 当時代理店に指名された住職は、﹁お西の御門跡から名ざされた真宗 信徒生命保険代理店と云うトテツもないハイカラな名前の御墨付を頂戴 して帰り、随喜の涙をこぼしておった⋮ところが御説法で聴聞する極楽 参りの道筋とは勝手が違い、どだい保険と云うもの・意味がチンプンカ ンプンで判らぬ連中とて毎日毎晩甲論乙駁し検討して居ったが、何が何 だか判らぬま・に兎も角も勿体ない事じゃ、此世の中を御救い遊ばされ るための尊い事業であるから加入したものにも定めしよき功徳があるに 決まっている。丁度極楽行の切符を頂いた様なものだろう。ア・かたじ ︵79︶ けなや南無阿弥陀仏と云うわけです﹂と保険に関しては素人である末寺
住職の保険募集に対する苦悩と本山の事業に寄与する喜びを回顧してい る。 ︵80︶ 真宗信徒生命で注目されることは次の定款規定である。すなわち、 第九条 株式ヲ売渡若シクハ譲与セントスルモノハ、本社所定ノ書 式二依リ其売渡人買受人若シクハ譲渡人譲受人井二証人ト連 署シタル書面ヲ会社二差出スヘシ 会社ハ相当ノ手続ヲ為シタル上、取締役記名捺印シ株主名簿 二登録ノ上、売買譲与ヲ証スヘシ 第四〇条 純益金ノ内其十分ノ細螺真宗本願寺派本願寺慈善資金ト シテ、当会社ヨリ毎年度必同寺二寄贈スルモノトス 第四一条 純益金ハ左ノ順序二拠リ分配スヘシ 第一 真宗本願寺派本願寺寄贈金 第二 役員及事務員賞与金 第三 株主利益配当金 ︵81︶ 第九条は、明治二十九年九月にこの制限はなくされたが、他宗の門徒が 大株主となり定款を改正され、本山への寄付が妨げられないように、設 立当初の株主である西本願寺有力門信徒、住職を株式売買・譲渡の際の 証人にし、流動性を抑えることで、西本願寺関係者以外に株式譲渡され ることを防ぐ目的があった。第四〇条・四一条においては、純益金の三 〇%を西本願寺に慈善資金として寄付し、利益分配の順序も第一順位で あることを明記していた。一方、利益の寄付を受ける西本願寺側は真宗 信徒生命に対する支援として、執行長より各教区に対して諭告を発し、 ︵82︶ 被保人斡旋を含め側面的に営業支援を行っていた。 ところで、真宗信徒生命の利益の三〇%を西本願寺に慈善事業原資と 近江商人・初代伊藤忠兵衛のリスク管理と信仰の相克 して寄付するのは、当時仏教教団が行っていた仏教慈善活動が影響した ものと考えられる。それは、幕末維新期にかけて起こった廃仏殿釈や開 国によるキリスト教の勢力拡大、明治二十七年日英通商航海条約締結に よる内地解放の実施︵明治三十二年から︶などにより、仏教教団による ︵83> キリスト教への危機意識は非常に高まっていた。この危機感を背景に仏 教慈善活動は、これまでの感情中心、発作的断片的なものから理性中心、 ︵84︶ 科学的、系統的なものへの移行が求められた。このような経緯の中で、 ︵85︶ 明治三十二年七月二十日に明如上人は次のような親諭を発した。 多年国民の希望したりし対等権利の得らる・こと・なるは、国家の 為め一同に慶賀すべきことである、然るに此の条約実施には内地雑 居が伴ふて、外国人の国内処々へ自由に入込むこと・なる儀なれば ⋮外人即ち基教徒は従来の例証より推すに、必ず吾国内に於て種々 の方面に向て盛に慈善的事業を興し、以て基教弘通の方便に供する ことならん この親諭によって、条約改正による外国人の内地雑居とキリスト教徒に よる社会活動を通じた勢力拡大に対抗するため、仏教の本旨に基づく慈 善の行為を振興し、社会の福祉の増進を目的として、貧者施療、孤児貧 者の養育その他一般細民の教育、罹災救助、感化、免囚保護、布教費補 助、学校補助金、その他必要な事業を行うため大日本佛教慈善会を設立 している。 さて、西本願寺の仏教慈善活動と真宗信徒生命の設立がどう関係する かと言えば、西本願寺からの指示もあり、設立趣意書に次のように書か ︵86︶ れている。すなわち、 耶蘇教徒ノ伝道方ヲ鑑察スルニ、始メハ盲唖院ヲ立テ育児院ヲ置キ 五九
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十九号 或ハ不時ノ罹災民ヲ救血スル等慈善ヲ主トシテ先ヅ其地建ノ感情ヲ 惹キ置キ、而シテ後徐々二己力教旨ヲ演へ之レヲ勧化シ七二凝固ナ ル信者ヲ得ルニ至ル⋮今此真宗信徒生命保険会社起ランカ此社ヨリ 寄スル所ノ資財ヲ以テ慈善資金二充ツルコトトセバ、実二是永遠里 固ノ収入ニシテ必スや前途頗ル有力ナル慈善救血ノ行動ヲ為スヲ得 ベシ⋮如斯ナレバ本山ハ百年不変ノ財源ヲ得タルモノニシテ、護持 会資ト並ヒ立テ鳥ノ両翼ノ如ク教学慈善相共二値フシ、布教伝道勇 往敢進至大ノ功ヲ奏スヘキコト火ヲ観ルヨリモ明カナり つまりキリスト教の慈善活動を活用した伝道方法を示した上で、西本願 寺教団が組織的な仏教慈善活動を行うためのファンドを真宗信徒生命が 拠出することをも設立目的にしていることが明らかとなる。つまり、真 宗信徒生命の出資者及び被保人となることは、その行為を通じて西本願 寺に対する浄財を寄進するような気持ちであったのではなかろうか。 したがって、真宗信徒生命は保険事業を通じて浄土真宗信者間の相互 救済を行い、かつ西本願寺が、当時キリスト教に懐いていた危機感から 行われた組織的慈善活動への関与を通じて、自派の信者囲い込みつまり 勢力拡大に寄与させることを目的にしており、浄土真宗の熱心な信者で ある初代忠兵衛は真宗信徒生命株二〇〇株を保有し、被保険金一〇〇〇 円の生命保険を掛けるという投資行動を採ったのではなかろうか。 ︵三︶起業銀行 西本願寺有力門信徒が設立に関与した会社としては、真宗信徒生命と もう一社、起業銀行がある。起業銀行は、真宗信徒生命を設立した翌年、 西本願寺の有力信者によって普通銀行として資本金二〇〇万円で設立さ 六〇 れた。もちろん、初代忠兵衛も起業銀行設立に関与していることから、 少し触れておく。 起業銀行の設立時の役員の顔ぶれは、阿部市郎兵衛︵頭取︶、豊永長 吉・初代忠兵衛・芝原嘉兵衛・鎌田勝太郎・高井幸三⊥局木善兵衛・伊 藤長次郎︵取締役︶、小西新右衛門・杉本新左衛門・伊丹弥太郎・前川 善三郎︵監査役︶であった。 設立当初の真宗信徒生命・起業銀行両社役員の顔ぶれをみると、各々 の役員一二名のうち一〇名が両社役員を兼任している。また、両社の明 治三十一年の株主比較を行うと、真宗信徒生命株主のうち起業銀行株を 重複保有している人数が一三〇名︵五一.四%︶、株数は一五八二九株 ︵87︶ ︵三九.六%︶を占めていた。また、支店は西本願寺の門徒の多い地区 である大阪、赤問関︵現在の下関︶、小月・長府︵出張店︶に展開して ︵88︶ いた。このように役員・株主構成・店舗網から、設立目的は真宗信徒生 命と同じく﹁西本願寺信者間の相互救済﹂を目的にしたと推測できる。 西本願寺は、起業銀行の筆頭株主が本願寺第二二世門主大谷光瑞︵明 治三十一年末現在、二〇〇〇株︶であったことや、大株主も阿部市郎兵 衛︵同、一五〇〇株︶、小西新右衛門︵同、一〇八○株︶、杉本新左衛門 ︵同、一〇〇〇株︶らを始め西本願寺の有力信徒が株を引き受けていた ため、=切の出納を委任するの意ありて本山金庫の標札を掲ぐるを ︵89︶ 許可﹂し、西本願寺の信用力をバックに預金が集められるよう営業支援 を行っていた。また、西本願寺自身も明治三十.年十二月現在で、五九万 二五五七円八銭三厘を起業銀行小口当座預金、三井銀行小口当座預金、 勧業銀行株券、福井県土木公債、整理公債、海軍公債で運用している ︵90︶ ことから、相応の預金をしていたと推測できる。さらに、真宗信徒生命
も明治三十年九月末に、一三万二四〇〇円九五銭九厘を起業銀行他一口 ︵91︶ で運用しており、この両者が大ロ預金者であったと推察できる。 一方、初代忠兵衛は、西本願寺信者間の相互救済を営業目的としてい たと思われる起業銀行に対し、設立当初本人名義六〇〇株、忠三・精一 名義各一〇〇株、鈴木栄次郎・瀬尾喜次郎名義各五〇株、鈴木伝次郎・ 大堀徳兵衛・米本庄三郎・石坂政藤名義各三〇株、古川鉄次郎名義一〇 株の合計一〇三〇株を保有しており、起業銀行への出資比率は約二. 六%、一方の真宗信徒生命は二%となり、両社に対してほぼ同程度の比 率の出資をしていたことになる。 ︵四︶日本生命、大阪生命への初代忠兵衛の関与 さて、西本願寺有力門信徒が設立し、西本願寺信者間の相互救済を営 業目的とした真宗信徒生命及び起業銀行は、明治三十五年八月以降、 ︵92︶ ﹁保険界の兇傑﹂と畏怖された大阪生命の岡部廣の株式買占による会社 乗っ取りを受けている。初代忠兵衛は真宗信徒生命への参画に先立ち、 日本生命、大阪生命両社の創立にも関わっていたが、皮肉にも真宗信徒 生命、日本生命両社は大阪生命による買収の標的となり、株主構成、経 営面に影響を余儀なくされた因縁を有する。﹃掌帳﹄の中にはこれら三 社が登場しており、ここでは日本生命、大阪生命への関与に言及する。 ︵93︶ まず、日本生命の﹁創立願﹂の書類では、下郷伝平、西川貞次郎、西 川重威、楽節貫治、広野織蔵、珠玖清左衛門の江州系発起人六名全員の 捺印は弘世助三郎の代印で処理され、株式申込書でも初代忠兵衛等江州 系発起人は、数多く弘仁助三郎による代印が押されており、初代忠兵衛 を含む江世系発起人は弘世助三郎による日本生命への投資呼掛けに応じ 近江商人・初代伊藤忠兵衛のリスク管理と信仰の相克 たものと考えられる。このことは、田中良蔵が初代忠兵衛の交友関係と ︵94︶ して列挙した者に、馬場新三、下郷伝平らとともに弘世助三郎が含まれ ることもこの推測をある程度裏付けよう。また、一世助三郎のパートナ ーとして日本生命副社長に就任した前滋賀県警部長の片岡直温は、その 後日本生命と関係の深い日本共同銀行頭取、日本海陸保険、関西鉄道の 各社長に就任したほか、中立銀行とその後身たる日本中立銀行の各監査 役、摂丹鉄道等の発起人となった。つまり、初代忠兵衛の投資先のうち 日本海陸保険、日本共同銀行、中立銀行、中立起業、摂丹鉄道、天満織 物などの銘柄は日本生命への出資に派生した投資と考えられる。すなわ ち日本生命の姉妹会社である日本海陸保険、日本共同銀行は日本生命株 主への割当によるもので、初代忠兵衛の持株も日本生命株と同じ保有株 数である三〇株である。そして、摂丹鉄道は弘世助三郎、片岡直温、岡 橋治助らが発起人となった日本生命系統の新線計画であるが、初代忠兵 衛は恐らく弘世助三郎らの依頼により、明治二十五年十二月に五〇株を 申込んだのであろう。しかし摂丹鉄道は明治二十七年十月八日申請が却 ︵95︶ 下され、結局計画は立ち消えとなった。 また、中立銀行は日本の銀行の中で、最初に台湾島での植民地金融を 行った私立銀行であり、台湾において四〇万坪もの土地を所有していた。 同系統の三十四銀行、日本共同銀行との合併に伴う不良資産の分離のた め、当該銀行株主の一人であった初代忠兵衛も、﹃掌帳﹄に﹁中立銀行 台湾不動産共有財産出資金﹂と注記された﹁中立銀行付替﹂株式の中立 起業株の引受けを余儀なくされている。中立起業は台湾島において、不 動産の売買賃貸借を行う純粋の不動産管理会社として明治三十二年四月 に設立され、日本中立銀行旧株主らが役員に就任した。初代忠兵衛は当 六一
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十九号 該株式の資産価値は疑問だとして、明治三十一年度の棚卸し対象から除 外している。 さらに、初代忠兵衛は大阪生命の設立当初の名称である大阪病菌保険 株も﹁00株保有している。大阪病傷保険は金巾製織専務の田村正寛ら 大阪の綿糸紡績各社の労務担当幹部が、﹁労働者が病気に罹り、或は負 ︵96︶ 傷をした場合の救護策﹂として、明治二十七年九月十一日に在阪紡績各 社役員による共同出資で設立された資本金一〇万円の第三分野の専門保 険会社であった。当初の役員は杉山孝平︵専務︶、金沢仁作・田村正 寛・中橋和之・菊池恭三・山辺丈夫・鈴木勝夫︵取締役︶、金沢仁兵衛、 俣野景孝、藤本清兵衛︵監査役︶、須永隆副︵支配人︶であった。 田村正寛の回顧では、﹁私が下郷さんに相談して、社長になって貰ひ、 ︵97︶ 原源太郎氏︵当時の滋賀県高島郡長︶を専務取締役にしました﹂と、次 第に江州系統主導の保険会社になっていった。弘世助三郎の主導した日 ︵98︶ 本生命の成功に刺激され、下郷伝平、藤井善助、田附政次郎などの江州 系資本家は後に仁寿、日之出、日本共立︵前川︶、博愛各生命を買収し 経営するのであるが、大阪南幸保険への積極的関与もその一環としてと ︵99︶ らえることが可能であろう。しかし、株式投資には慎重であった初代忠 兵衛の大阪病毒保険への投資額は、仲間である下郷伝平や田村正寛から ︵㎜︶ すれば不満が出た株数かもしれない。 江州系統主導であった大阪生命に、いよいよ岡部廣グループによる保 険会社の併呑計画が迫ってきた。こうした中で初代忠兵衛は明治三十四 年十月十一日、大阪生命の全持株一〇〇株を一株三円六五銭で売却した。 既払込額の一二.五円の三割弱での捨値処分であり、同社の前途を見切 ったものと考えられる。この直後の十月十六日、大阪生命は重役会で明 六二 教生命との合併を協議し、十一月十六日岡部廣ら毒茸生命役員五名が大 阪生命の新役員となった。この時点では大阪生命は﹁全株の三分の二以 上も又明教株主の所有なれば事実上は殆ど明教とり合併成りたるものと ︵m︶ 見て可なるに似たり﹂と報じられた。﹃掌帳﹄には、伊藤家の売却先に 関する記述はないものの、結果として岡部廣が買い集めた株式の中に含 まれよう。こうして伊藤家とは縁が切れたはずの大阪生命が、やがて真 宗信徒生命にも買収の手を延ばすこととなる。 ︵五︶岡部廣の登場 明治三十五年岡部廣は大阪府知事に﹁三十五年已来我国ノ保険界ノ状 況二号テ小会社合併ノ必要ヲ感ジ苦心経営之結果遂二十五会社ヲーノト ︵齪︶ ラストノ下二合同仕癖﹂と報告した。同書簡に添付の参考資料には﹁合 同会社株式購入ノ為二支出セシ金額﹂五〇万七九七五円の内訳として大 阪生命六〇〇〇株 七.五万円、九州生命六〇〇〇株 七.五万円、北 陸生命六〇〇〇株 一五万円、京都生命一二〇〇株 三万二五〇〇円、 真宗信徒生命七〇一九株 一七万五四七五円が示されている。 真宗信徒生命に対しては、岡部廣︵明治三十五年九月末現在一六六株 保有︶は、まず明治三十五年八月に松村甚左衛門︵大阪生命庶務課員一 同四四〇株︶、土岐秀苗︵同社統計係員一同二二〇株︶、黒田恵一郎︵同 社徴収係長一同二〇〇株︶、中村岩太郎︵同一五〇株︶と真宗信徒革新同 盟会︵持株比率二一.七六%︶を結成し、真宗信徒生命と起業銀行と の関係や投資方法に対する意見書を出し、大阪生命と合併すべく揺さぶ ︵鵬︶ 繭︶ りをかけた。同時期に起業銀行に対しても、﹁京都日出新聞﹂によれば、 預金者を混乱に陥れるべく憶測を流布し、真宗信徒生命合併への側面攻
繭﹀ 撃を加えていた。これに対し、小西新右衛門︵前年比六三〇株増加︶、牛 谷富太郎︵同四二五株増︶、伊藤長次郎︵同四〇〇株増︶、伊丹弥太郎︵同 二四〇株増︶、鎌田勝太郎︵同点〇〇株増︶、高井幸三︵同二〇〇株増︶ らも株式を買い集め、岡部廣の乗っ取りを阻止するとともに、西本願寺 関係者が岡部廣に持株を処分しているという噂に対し、西本願寺執行長 利井明朗、水原慈音、赤松連城、小田尊名に﹁本山当路に在りながら右 革新同盟会に加担する而己既の至に不堪候、前にも陳述仕蟻通本社は本 山慈善事業費を宛つる平め設立したものなれば⋮本社の反対者に加担せ ︵鵬︶ られ候ては⋮本山の慈善事業費に妨害を為すは明かなり﹂として真相の 調査を求めている。 岡部廣からの真宗信徒生命に対する攻撃はこれだけでは終わらなかっ た。明治三十五年十月には、真宗信徒生命から十分な説明を受け承知し たはずの営業帳簿について同内容の質問書を送りつけるなど執拗な攻撃 ︵断︶ を続けた。 さらに、明治三十六年冬から岡部廣による真宗信徒生命に対する攻撃 が再度始まった。その手段は、起業銀行の経営危機を攻撃材料に用いて ﹁中傷、誹諺、強迫、買収など手段を撰ばぬ好策と、価格無視の株式買 煽りに持株を手放す株主が多く、役員中にさえもその術中に陥る者がで ︵鵬︶ る始末で⋮岡部の支配株数はたちまち総株数の七割を占め﹂られていた。 その結果、岡部廣グループの一員であった三田勝俊を取締役に、野守嘉 猷を監査役にそれぞれ就任させた。 また、起業銀行は明治三十六年には、平安紡績の倒産により、二十万 以上の固定貸しが残っており、同行の破綻時にも﹁同行の暗影は三十四 ︵聖 年恐慌時代から伴っていた、即ち平安紡績に対する投資の蹉蹟﹂と破綻 近江商人・初代伊藤忠兵衛のリスク管理と信仰の相克 原因とされる程の大問題を抱えており、明治三十六年にはこの問題融資 の処理を行う一環として減資と役員による弁償金出金、役員改選が行わ れていた時期であった。この時期、すなわち明治三十六年、三十七年に 伊藤家は、所有していた起業銀行、真宗信徒生命株を売却していること が明らかである。 近江商人は、日本全国で交易をしていたことは広く知られている事実 である。例えば、北御堂や北海道の江差別院は近江商人によって建立、 ︵011︶ 護持されてきたと言われており、近江商人の信仰心の篤さは従来から指 摘されていることである。その中でも、初代忠兵衛は西本願寺の勘定役 を務めるなど、熱心な真宗門徒であったことはよく知られている。しか しながら、西本願寺の事業である慈善活動に繋がる生命保険や銀行への 出資を、明治三十六年、三十七年に引き上げた理由はどこにあったのだ ろうか。伊藤忠兵衛が両株を売却した時期に、起業銀行は不良債権処理 中、真宗信徒生命は岡部廣による乗っ取り工作中であった。このように、 初代忠兵衛からすれば西本願寺の事業に対する出資であったにもかかわ らず、宗門と全く関係のない岡部廣による乗っ取り行為によって、﹁本 願寺﹂色の薄まった両社株を継続保有する意義を見出すことができなか ったと解することもできるが、その点は今後さらに詳細に伊藤忠兵衛家 文書その他関連史料を調べることにしたい。 むすびにかえて 二代目忠兵衛が指摘通り、慎重さが目立つ初代忠兵衛のリスク管理に も、いくつか例外的にリスクを積極的にとった注目すべき企業関与が存 六三
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十九号 在する。一つは親戚の外海鉄次郎が関わったものなど特定の企業群への 肩入れ、今一つはおそらく信仰面からしか投資動機を説明しえない西本 願寺系列金融機関への関与である。前者のうち伊藤外海組等は宇佐美氏 の先行研究があるので、本稿では日本貿易銀行等の数々を抽出するにと どめた。省略した近江銀行への関与などはいずれ稿を改めることとしたい。 また本稿では初代忠兵衛の有した資質の特徴の一つと考えられるリス ク管理面、信仰面のみに限定して﹃掌帳﹄の一部を垣間見たもので、他 の﹁伊藤忠兵衛家文書﹂との比較対照は済んでいない。すなわち﹃押歯﹄ のうち初代忠兵衛在世中の明治三十六年の翌三十七年までに限定した部 分的かつ暫定的な分析である。したがって本稿で言及しなかった有価証 券以外の資産はもとより、株式でも近江銀行等の残余の企業や三十七年 以降の時期に関しては当該研究会の共同研究の今後の取組課題として残 されている。また肝心の﹃掌帳﹄そのものの性格に関しても、掌帳の意 味、作成主体、目的、時期、記載範囲等の確定など、今後検討すべき事 項が多く残された。これらの課題は当然ながら伊藤忠兵衛家文書全体の 史料整理、目録作成、総合的な検討作業を経て、当該研究会の共同研究 の一環として順次明らかにされるべきものであろう。 また、今ひとつの本稿の主題である初代忠兵衛の経済面と信仰面との 関係に関して、植松忠博氏は﹁近江商人の一人として、篤い信仰と堅実 ︵m︶ な事業を両立させた﹂という解釈をとる。しかし我々は二代目忠兵衛の 回顧の中の﹁後本山の御世話も⋮熱心だったが、必ず正門からの参拝に ︵皿︶ とどめ、ある将以外には決して踏み入れなかった﹂との一節に着目する。 二代目忠兵衛は﹁今になってやっと父の心持ちが判って来たやうな気が ︵鵬︶ する﹂として、こうした﹁一寸変った﹂父の態度を若いころには近親者 六四 でさえも計り兼ねていたことがわかる。﹃在りし日の父﹄の当該部分の小 見出しは﹁後本山と公私の別﹂とあり、初代忠兵衛が御本山との関係を 公的領域︵正門から︶にとどめ、私的領域への踏み入れを畏れ多いとご 遠慮申し上げたものと解釈しているようである。我々はこのような初代 の畏怖の感情は信仰面からの産物というよりも、むしろ投資面で初代忠 兵衛が見せた企業への関与度合い︵投資額、持株比率、役員就任等︶の 決断時において、何らかの与信限度枠といった自律的ルールを自らに厳 しく課して、いくら親友等から熱心な勧誘を受けても﹁ある将以外には 決して踏み入れなかった﹂リスク回避行動と一脈相通ずるものがあるよ うにも感じるが、現段階では単なる推論の域を出ない。真宗信徒生命へ の初代忠兵衛の関与にもこうした自律的な節度があったのかどうか、同 ︵m︶ じ時期に役員を勤めた小西新右衛門、伊藤長次郎など他の信心深い財界 人の行動との比較なども今後必要となろう。
︹諮一鼎︺書冷強黙謡淋繍S冊碑菊針針自開昧欝斗劃浬謙繭︵斜掛剖難山懸囎“臼弼紐︶ 温謎望薄 下露ま岳 溜郎旨頬 温丞N。。醤 濫酌露り醤 下郎ωO岳 潟郎ω一醤 濫誌も。N岳 下郎も。し。醤 万雷も。酷薄 温謎。。㎝岳 温謎も。Φ頬 温郎鵯岳 痂 瞭 ︵旧︶ 四嫡蹄鄭︾煎 りbOO 耐藩︾露 NOOO 丑忌嵐︾煎 一〇勺OO 職糊︾臨 一bOO 騰曲︾煎︵竃NO.一碧︶
嵩8
膳”N8 NOOO 一匂OO 一b8 一b8 一一bOO 拝OOO 一一bOO =bOO昼80
一ρおO 面︾漁︵ζ卜。諺痔︶ ω姻OO NqOO 悼UOO 一勧αO N切O 欄壇︾蕪 一、おO 心.おO ︽80 蘇贈逓旨暑煎 らQnO もQnO もQnO 卜OnO b⊃nO NOO 一〇〇 δO 粟 跳 ︵菜︶ 肖酋瑠鉛 おO 駆OO80
おO 心OO 軽OO おO “OO おO 癖αO 粗切O 肖酋斑輸︵団無圏歯熱︶ 悼㎝ 肖酋麹鉛︵朗#置畏剰蹟齢︶ 一〇 誉首彊鉛︵強面軸川歯郵︶ ㎝O OO ΦO8
HOQ◎ H刈◎◎ H刈○◎ 肖酋斑鉛︵昔瞬舗済応冨齢︶ もcn
お みO 肖自斑⇒︵蒸誉醤瞭φ︶ 一〇 肖酋瑠鉛︵錨科錦澤歯熱︶ HO 一〇 肖酋建鉛︵晋E圏茸歯灘︶ 一〇 肖酋賠識︵引購慕済応厨歯齢︶ 膳O 心O 肖酋賠鉛︵晋ヨ菌藤︶ OO 肖首賠命︵画﹂一面菌熱︶ qO 肖酋斑⇒︵︸料盲針翻田φ︶ 一〇 尚酋瑠⇒︵輯#沖菌齢︶ 切 博首賠鉛︵線冴雲歯螺︶ ㎝O OO ㎝O 肖心胆鉛︵轍海翻歯齢︶ ωO ωO ωO 尚酋翻鉛︵十薬︶ 鼻OO 心OO 偽OO 心OO 軽OO 肖酋駐⇒尊誰︵強無晦国菌灘︶ OO OO 肖酋瑠⇒萱郭 姻O 筒酋辱嵐 一〇〇 一〇〇 心O らO 切O ㎝O 近江商人・初代伊藤忠兵衛のリスク管理と信仰の相克 六五滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十九号 六六 曲誌揺醤 爵慾b。O岳 謎謎b。¶や 温郎N。。岳 温慾卜。り醤 濃郎も。O岳 澄瀞も。H岳 温誌ωb。暑 紐慾q。も。喰 濫倫も。令岳 沼郎Q朝醤 遇瀞も。①盆 温慾も。刈醤 酋≧群欝恥洋 一〇〇 一〇〇 一〇〇 尊蚕強ゆ洋︵ご暴聲蓋蚕盤︶ 一〇〇 HOO 圏圏聾嵐︾洋 NO 卜o
n
商淋彊踏 ①OO80
08
80
①OO ①8 おO 軽OO 喬購斑⇒︵瞬国齢齢︶ 一〇〇 一〇〇 δO 庖淋塗鉛︵講一菌熱︶ 一〇〇 一8 HOO 面藩號鉛︵歯黙商鼎慕涛猫[い︶ OO 面淋斑識︵菌熱蔀暑強済応病︶ QQn
融淋瑠輸︵歯灘汁苗鐡瀬強︶ ωO 薔淋瑠識︵菌欝沫斜瞭国雲︶ ωO 磁淋嬉謡︵歯齢潮蘭尽爵︶ G◎n
耐懸賠鉛︵歯齢踏細瑠涛輩 ㎝O 商藩獄醸︵菌齢肚=辱努書 一〇 藺饗號識︵団#々メ歯黙︶ ㎝ 商懸瑠識︵颯遡歯齢︶ OO ㎝O ロ料#画彊鉛←田+廻逸輸 ωO ωO GQn
じQn
GQn
苗即弊嵐 ㎝O 切O ㎝O ㎝O 懸韓辱臨 ωO 謡 磯属聾臨蝋誰 ωO E騨弊臨 NOO80
おO も。pO ω㎝O80
ωQQら ①QO鼻 Oωら Oωら 刈軽q ○◎mα E灘弊臨︵田丑奇沖強φ︶ 一〇〇 同房璽臨尊難 一QO心 μGQ心 一もQ心 卜opQ一 吋Qo一 E爺弊嵐蝋勢 一= 一= 一= 一= 一一一 E灘辱墜皿勢 ㎝O 細弧粛離餅舎究弼 NOO 卜⇒リO NOO 悼OO NOO NOO bっW
NOO 悼OO b⊃nO 餅寄蕊激論弼←汁齎餅砂 一8 一〇〇 一〇〇 一〇〇 δO 一〇〇 一8 煎中弊嵐8
qO 丑睡賠諭 も◎n
も◎n
90O
丑旨商懸恥洋 一〇 一〇 δ 曼露謬︶ 洲離欝曹 Nω O⑩ りN りbQ温謎争議 温郎NO醤 温郎ミ岳 爵郎卜。。。醤 爵謎NO盆 温灰も。O岳 温謎ω目岳 温郎も。N岳 溜謎も。ω喰 沼謎も。心岳 濫郎も。α盆 濫誌ωO岳 濫郎鵯醤 洲蟄蕪薗蝋雰 NらQ りbQ りN 洲灘購書藩圏勢斗 NもQ NらQ 洲蟄蕪書繍団蝋発 器 洲燃群強恥洋 NOO NOO NOO 悼OO 洲幕ト暑恥洋 卜◎nO bOnO 一竃 □耕濁淋恥資測幕臣勢痔菌︶ =鼻 =昏 零 ㎝刈 □料藩醗究薄 ωO GQ
n
ωO8
□料驚藩究弼蝋薬 らQn
□暑叢楽群欝←謎※麟強恥洋 αOO αOO αOO 切OO ㎝OO 心OO50
一切O 膳O 刈らQ 田耕説米群璽強鶏慕努応冨︶ らQn
ωO □料叢米詳欝︵強鼎醇済袈菌︶ 日OO 一〇〇 一〇〇 一〇〇 一〇〇 □材溢米欝蟷︵即躰薄菌︶ 刈O □斜溢米群糞強羅“※歯︶ 刈O □料説米群強︵汁齎蔚菌齢︶ 一〇〇 δO 一〇〇 一〇〇 □料讃券諮強︵モ斗嵩鰍N浬菌︶ 軽α みα □景餅静究弼恥洋 QOn
ωO Q。n
しQn
ωO □料蓬※恥洋 一〇〇 αO お蔚毬弼 □料難糸か洋︵営羅歯灘︶ NO □料欝聚恥洋︵叫三菌齢︶ NO 山料聰湿賠⇒ αOO ㎝OO ㎝OO 切OO G月nO80
αOO ㎝OO 加OO □材聰即賠塗旨曹珊叫菌藤︶ ①O ①O 口耕遮湿ゆ画 扇O 一㎝O 一㎝O 扇O 一αO 一㎝O 扇O 切O 口料聰即ゆ墨痴砦嘱獅識歯齢︶ 心O 汁苫群強︾洋 N㎝O N㎝O80
NOO 悼OO 辻暴欝︾蔓田葦舜海蕪歯齢︶ 悼OO 鱒OO ︵蹄黛︶﹃憾煎﹄㊦モ碁、①温郎悼O岳寄爵サ①溜郎9。刈岳寄痔歌詰浮がθ甲︹升oぺ構雌寄薄︵温郎NO醤瀞φ“艸菰料冷轟︶ 洋典菌欝璽艸﹃憾煎﹄書庄㊦甜難㊦融O伴C浸。岳海叢㊦購蒔嘩海曲﹁㊥照冴θ湘響嘩薗渾Cぺ︵寿∼。 近江商入・初代伊藤忠兵衛のリスク管理と信仰の相克 六七滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十九号 六八 注 ︵1︶ 宮本又郎・阿部武司﹃日本経営面繋 経営革新と工業化﹄岩波書 店、平成七年、一一八−一二〇頁。 ︵2︶ 末永芳紀﹃近代近江商人経営史論﹄有斐閣、平成九年、四〇三頁。 ︵3︶ 中西聡﹁二〇世紀前半における地方資産家の収益とその運用−石 川県橋立村酒谷宗七家の事例を中心として一﹂﹃経済科学﹄五〇巻四 号、平成十五年。中西氏は酒谷家は期待収益率・リスクの度合を重 署し、﹁比較的低リスクを前提とし、その上でそこそこ利回りが高い﹂ ︵四三頁︶運用方針をとったとした。 ︵4︶ 宇佐美英機﹁初代伊藤忠兵衛の創業期における商業活動の一駒﹂ ﹃同志社商学﹄五六巻五・六号、平成十七年三月、五〇頁以下。初代 忠兵衛に関する参考文献等は六七頁。同﹁伊藤長兵衛商店店則﹂当 史料館﹃研究紀要﹄三五号、平成十四年三月、同﹁伊藤長兵衛商店 博多支店規則﹂当史料館﹃研究紀要﹄三七号、平成十六年二月 ︵5︶ ﹁伊藤忠兵衛家文書﹂については当史料館図録﹃館蔵史料にみる 近江の社会 中世から近代へ一﹄の中で宇佐美氏によりその一部が 紹介されている。 ︵6︶ ﹃掌帳﹄という文書の性格そのものについての検討は、今回は保 留としておく。中西氏が利用した酒谷長蔵家文書の名称は各年度 ﹁大福帳︵有貨調、調帳、資産簿、原帳︶﹂等︵中西前掲稿二四頁︶ であった。伊藤家とほぼ同時期の川崎正蔵の﹃明治二十九年二月吉 日改日賀恵要書﹄︵三島康雄﹃造船王川崎正蔵の生涯﹄同文館出版、 平成五年、二六九頁︶と比較しても﹃通帳﹄の記載内容は川崎が執 着していた土地は別にして、その充実度において遜色ないと思われ る。なお本文での引用は年次︵漢数字︶で示した。 ︵7︶ 石井寛治﹁近江銀行の救済と破綻﹂﹃地方金融史研究﹄三十一号、 平成十二年三月︵圧縮版を石井寛治・杉山和雄編﹁金融危機と地方 銀行﹄東大出版会、平成十三年、四一五頁以下にも掲載︶。近江銀行 に関する史料・先行研究も石井稿に詳しい。また社史・伝記類では 伊藤忠商事、丸紅関係での記載は当然のことであるが、一部投資先 の社史においても例えば﹃日本生命百年史 資料編﹄では初代の追 加発起人・三〇株主︵一六八頁︶、姉妹会社の日本海陸保険三〇株主 ︵四九〇頁︶、同日本共同銀行三〇株主︵五三六頁︶たる事実が株主 名簿の転載により明らかにされている。︵日生系三社の株主の名義人、 株数とも﹃掌帳﹄記載と一致︶ ︵8︶ 末永國紀氏は前掲﹃近代近江商人経営史論﹄の中で、外村与左衛 門家、矢尾喜兵衛家、山中兵右衛門家母の宗旨をいずれも浄土真宗 とし、上村雅洋氏も﹃近江商人の経営史﹄︵清文堂出版、平成十二年︶ の中で、西川伝右衛門家、谷口兵左衛門家の各使用人の宗旨の分布 で浄土真宗が最大である事実ほかを指摘するなど、近江商人と浄土 真宗の深い関係に言及している。 ︵9︶ 植松忠博﹁仏教と経済活動﹂﹃国際協力論集﹄三巻一号、平成七年 六月、神戸大学 ︵10︶対象時期から外れるが、三十九年の南満洲鉄道など ︵11︶ 上村前掲﹃近江商人の経営士﹄六三二頁。 ︵12︶︵13︶ ﹃今村清之助君事歴﹄明治三十九年、四七九、四八五頁。 ︵14︶ 三田一編輯・発行﹃在りし日の父﹄昭和十二年初版、昭和二十七 年再版、非売品、七頁。︵大阪府立中之島図書館蔵︶ ︵15︶ 山口和雄編﹃日本産業金融史研究 紡績金融編﹄昭和四十五年、 巻末二二頁。 ︵16︶ 前掲﹃在りし日の父﹄三五頁。 ︵17︶ 前掲﹃在りし日の父﹄四三頁。 ︵18︶ 前掲﹃在りし日の父﹄二九頁。 ︵19︶ 二代目伊藤忠兵衛﹃父ノコトドモ 創業百年五二因ンデ﹄ =一頁。 ︵大阪府立中之島図書館蔵︶ ︵20︶︵30︶ 阿部房次郎の回顧、前掲﹃在りし日の父﹄六二頁。 ︵21︶ 阿部房次郎の回顧、前掲﹃在りし日の父﹄五七頁。 ︵22︶︵23︶ ﹃下郷久道謬伝﹄昭和十九年、下郷共済会、三八六頁。同様
に堅実派の野田吉兵衛と下郷とも﹁余程気が合はなかったものと見 えて何かに就て始終互に衝突﹂︵馬場金太郎談、前掲﹃下郷久道翁伝﹄ 四五四箇日した。 ︵24︶ 前掲﹃在りし日の父﹄六一頁。 ︵25︶︵26︶ 前掲﹃父ノコトドモ﹄一一頁。 ︵27︶︵28︶ 前掲﹃在りし日の父﹄二七頁。 ︵29︶ 前掲﹃在りし日の父﹄七一頁。 ︵31︶ 前掲﹃父ノコトドモ﹄八頁。 ︵32︶ 初代黒川幸七は両替商出身、株式仲買人、丸三銀行大阪支店主任 等を経て株式現物問屋に転じた。二代幸七は明治四十三年野村らと 大阪現物団を組織した。黒川商店については森泰博﹁大阪における 証券業者の塾頭﹂作道洋太郎編﹃近代大阪の企業者活動﹄思文閣出 版、平成九年、二八九頁以下参照。 ︵33︶ 前掲﹃在りし日の父﹄一一一頁。 ︵34︶ 前掲﹁在りし日の父﹄六一頁。 ︵35︶ 前掲﹃在りし日の父﹄七九頁。 ︵36︶︵37︶︵38︶ 横田久二談、前掲﹃下郷久道翁伝﹄三八七頁。 ︵39︶︵42︶ 前掲﹃下郷久道山伝﹂三九三∼四頁。 ︵40︶ ﹃日本全国商工人名録﹄明治三十一年、ろ=二頁。 ︵41︶ 前掲﹃下郷久道翁伝﹄三八六頁。 ︵43︶ ﹃日本全国諸会社役員録﹄明治二十九年、一八四頁。 ︵44︶ 山路愛山﹃現代富豪論﹄大正三年、六一−六二頁。磯村音入ら日 糖旧重役については久保文克﹁大日本製糖の破綻と再生﹂宇田川勝 ﹃失敗と再生の経営史﹄有斐閣、平成十七年、一七頁以下参照。 ︵45︶︵46︶︵48︶︵51︶ 前掲﹃下郷久道玉磨﹄四一四−八頁。 ︵47︶ ﹃日本全国諸会社役員録﹄明治三十年、二四二頁。 ︵49︶ ﹃日本全国諸会社役員録﹄明治三十一年、二五七頁。 ︵50︶ 前掲﹃下郷久道翁伝﹄三八四頁。 ︵52︶ 前掲﹃在りし日の父﹄九二頁。 ︵53︶ 三島康雄﹃造船王川崎正蔵の生涯﹄同文館出版、平成五年、二七 〇頁。 ︵54︶ 松尾寛三は後に日本勧業銀行、起業銀行監査役、日米信託常任監 査役、大正六年十一月二十八日創立の南洋製糖取締役︵大正六年十 ]月二十九日読売︶ ︵55︶︵56︶︵64︶ 前掲﹃下郷久道有瀬﹄四二〇一四二一頁。 ︵57︶ ﹃本邦銀行変遷史﹄東京銀行協会、平成十年、六二九頁。 ︵58︶ 広瀬満正は野洲郡中主出身の元住友家総理人・広瀬宰平の長男、 大地主、元住友家勤務 ︵59︶ 竹村藤兵衛は中京銀行頭取、下縫保険、日本貿易銀行、仏教図書 出版各取締役、日本貿易倉庫、日本生糸貿易各監査役、京都合資相 談役、川東貯金銀行顧問︵﹃日本現今人名辞典﹄明治三十三年、た八 八頁、﹃日本全国諸会社役員録﹄明治三十二年︶ ︵60︶ 辻忠郎兵衛は京都の木綿呉服商・大老、大正二年では日本製布① 五〇〇〇株主︵山口前掲書、八三頁︶ ︵61︶︵65︶ ﹃日本全国諸会社役員録﹄明治二十九年、二〇三頁、二二五 頁。 ︵62︶ 前掲﹃在りし日の父﹄八二・八三頁。 ︵63︶ ﹃明治三十手掌帳﹄﹁貸借﹂欄 ︵66︶ 阿部周吉は阿部市郎兵衛の別家で阿部本家主務者、近江銀行取締