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環境問題への地域からの取り組みの促進に向けて : 日韓両国を比較しながら(特集論文 Ⅱ「豊かな」社会の到来と生活空間の変容 : 日韓比較)

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Academic year: 2021

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環境問題への地域からの取り組みの促進に向けて

―日韓両国を比較しながら―

梅澤 直樹

A Consideration on Local Civilian Movements to solve

Environmental Issues

Comparison of Japan and South Korea ―

Naoki UMEZAWA

Faculty of Economics, Shiga University

Local citizen's activities to preserve environmental conditions have attracted considerable attention. It is also found that each country develops different dimension of such activities affected by its own history. Therefore, this paper attempts to compare such activities in Japan and South Korea by examining one typical organization in each country. First, we look back to history of environmental movements in South Korea to realize background of activities that we focus on. Then we identify devices of the organization that produce excellent performance. We also pay attention to difficulties that even such organization is facing now. Thirdly, we examine activities of the Japanese organization and identify devices and difficulties. Finally, we check how far each country has matured in the dimension relatively developed in each other in order to learn from the experience.

Keywords: local citizen, environmental movements, governance, dialogue, grass roots

1 はじめに 20 世紀末「社会主義」1)が破綻するとともにますます勢 威を増した経済のグローバル化はワーキングプア問題や金 融不安に象徴されるような諸経済・社会問題を噴出させ、 グローバル化を推し進めた市場原理主義的な新自由主義的 思潮の見直しが迫られている。しかも、市場経済システム の欠陥を補正する政府の機能を単に復権させるというので はない。むしろ、近代化とともに市場と政府の両側から蚕 食され、痩せ細ってきた地域的な「共」の世界を再評価す べきという問題関心が高まっている。 環境問題への対応についても例外ではない。じっさい、 かつて地域の環境は、長年その地域の気候風土とつきあう なかで培われ鍛えられてきた、地域共同体に根付く慣習や くらしの知恵によって保全されてきたところがある。のみ ならず、現代科学をもってしても複雑な相互作用を内包し た生態系を知悉しうるものではなく、むしろ科学技術に依 拠して自然を支配・管理しうるとみなしてきた近代的な世 界観こそが環境問題を深刻化させてきた根源ではなかった か、遅れたものと蔑ろにしてきた前近代のくらしの知恵の なかに――便益や効率の最大化を目指すより適度な水準を クリアすれば満足するといった発想を含めて――あらため て学ぶべきものがあるのではないかとの反省、いわゆる近 特集論文 滋賀大学経済学部・環境総合研究センター研究員(環境経済研究部門)

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代の再審という論点が尖鋭に浮上している。 しかしながら、高度経済成長のもたらした「豊かな」2) 社会の到来が人々の価値観や社会を大きく変容させたこと もまた争えない。その結果、地域共同体自身が空洞化して しまっているのではないか、上記のような生活環境主義的 主張3)はたしかに魅力的ではあるけれど、その現実的基盤 は存在しているのか、少なくともなお回復可能なのかと いった疑念も投げかけられる。「豊かな」社会の到来に伴う 地域生活空間の変容という問題である。たしかに、近年 「共」の世界としての N G O や NPOの活動は地域に密着したも のも含めてかなり広範に展開されている。だが、財政的脆 弱さや専門的人材の不足に日本の多くの N G O 等が悩まされ ていることも周知のとおりである。くわえて、一方で「お 上」的風土がなお払拭されたとは言い難い日本において、し かも他方でそうした風土の希薄化を促した「豊かな」社会 の到来が知識や教養をも「使い捨ての情報」化して公共的 問題に深い関心を寄せない人々を輩出しているなかで、NPO 等の活動が「ふつうの人々」にどこまで広く深く浸透して いくか、決して楽観は許されないであろう4)。 とはいえ、うえにも触れたように、環境問題への効果的 取り組みには当該地域を知り、その地に根を下ろして暮ら している地域住民の積極的な関わりがやはり欠かせない。 したがって、現代的な諸条件の下でいかにそれを促すかが 我々にとっての課題となる。また、分権や参加、説明責任 や透明性などをキーワードとした民主化の機運に加えて財 政危機という問題もあって、ガバメントから「ガバナンス」 へ、すなわち行政のみならず当該地域に暮らし、活動を営 む人々や企業も「協働」して地域が当面している諸問題の 解決や地域の発展にあたろうという動き5)が広がりつつあ ることも事実である。 そのさい、協働は大別すると二つの次元に分けられる。 一方で、地域の環境保全や環境改善に向けての政策や戦略 づくり、他方で、環境保全や改善のための実践的活動であ る。かつ、各国の環境問題や市民運動の歴史、さらには社 会風土等にも規定され、上記の二次元のいずれか一方がよ り発展するということはありえよう。 じっさい、日本と韓国について言えば、本号所収の金善 泰論文にもあるように、前者の次元に関わって韓国におい て注目すべきモデルが生み出されている。それに対し、草 の根レベルでの自主的な実践的活動という点では日本のほ うが相対的に進んでいる。但し、歴史や社会風土のゆえに そのようにしか発展しえないというものでもない。 第 3 節 で触れるように、日本でも地方自治体の「お上」的体質か らの脱皮がそれなりに進みつつある。したがって、相対的 により進歩している国ないし事例から学ぶことは、それら の動きを加速させるうえでも意味のあることと解される。 そこで、以下では、まず、韓国と日本においてそれぞれ が進歩していると思われる次元での注目すべき事例を取り 上げ、どのような工夫、努力に支えられて成功してきたの か、またなおどのような問題を抱えているのかを考察して みたい。さらに、そうしたモデルから相手国が学びうる可 能性について、若干のヒアリング調査の結果をも交えなが ら少し立ち入ってみよう。 2 シファ地域持続可能発展協議会をめぐって (1) 韓国における「豊かな」社会の形成 標記協議会の活動自身については金氏の論文において詳 しく論じられているので、本節では同協議会の背景をなす、 韓国における「豊かな」社会の形成史及びそれと連関した 市民社会の成長や環境運動の発展史を先行研究を参照しつ つ辿ってみる。そのうえで、標記協議会活動の注目すべき 特質を再確認するとともに、それがなお抱える課題に目を 向けてみることとしたい。 今の韓国からは想像し難いが、1960年代初頭、国民 1 人 当たり G D P は100ドルに満たなかった。それが朴政権時代の 約20年間に平均 9 %強の年経済成長率を記録し、70年代末 には 1600 ドルを上回るまでに成長する。さらに、第二次石 油ショックにより若干の後退を経験するも、83 年には 2000 ドルを、ソウルオリンピックに向けて再び二桁成長が 3 年 間続いた88年には4000ドルを突破する。そして、95年には ついに10000ドルを突破するわけである6)。 この間、就業構造も大きく変化した。1960 年代初頭に 65 %を占めていた第一次産業従事者は、70年代初頭に50%を、 80年代前半には30%を割り込み、95年にはついに13%にま で下降した。それに対して、第二次産業従事者は 70 年代半 ばに 20%を超え、その後 80 年代初頭の若干の後退期を除い て漸増してゆくが、88 年の 28%強をピークに反転、95 年に は 23%台まで落ち込んでいる。他方で、第三次産業従事者 は75年の35%台からほぼ一貫して増大を続け、95年には64 %に達した7)。 こうした就業構造の変化は著しい都市化の進展をも伴っ た。すなわち、1960 年には国民の 28%に過ぎなかった都市 人口が、71年には41%、80年には57%に達し、90年には75 %弱にまで膨張、95 年には 80%台をも窺おうかという状況

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に至った。なかでもソウルへの人口集中は著しく、70 年か ら85年の15年間に534万人から964万人へ、人口比にして17 %から24%へと膨れ上がった。また、釜山を加えた 2 大都 市だけで33%、さらに大邱、仁川、光州を加えた 5 大都市 では44%へと達した。しかも、第5位の光州とソウルを比較 すれば後者は 10 倍以上の規模を持つというように、ソウル の突出振りは際立っていた8)。 とともに、職業構造も変化した。1970 年には 5 %であっ た専門・技術・行政・管理職が90年には 9 %に、6 %であっ た事務・関連職が 13%にというように、ホワイトカラー職 が増加した。とくにソウルについては、80 年代後半、ホワ イトカラーが就業者の 3 分の 1 に達し、プロレタリアート とほぼ拮抗するに至った9)。 のみならず、製造業部門の実質賃金が 1960 年代後半から 上昇を始め、70年代後半以降その上昇を加速させていった。 その結果、90 年代前半には、製造業の一日当り実質賃金は 60年代半ばの10倍に達するに至った10)。 こうした高度経済成長の結果、韓国社会にはそれなりに 層の厚い中流層が形成された。政府の実施した社会統計調 査(1988 年)によれば、労働者の 61%が自らを中流に帰属 すると意識していた。また、労働研究院の『韓国労働者意 識研究』(1990年)でも、事務職の71%、生産職の48%が自 らを中流に属すると意識している。さらに、延世大学校に よる『韓国勤労者の生活の質に関する研究』(1995年)では 78%が自らを中流と意識している。中流をさらに細分すれ ば後二者の調査の中流層の4割前後が「中の下」と答えてい るのではあるが、国民にそれなりに広く中流意識が浸透し ていること自体は疑いのないところであろう。但し、1980 年代後半以降、企業規模別賃金格差がどんどん開き始めて いることも、後述の中流市民層の「生活保守主義」志向と の関連で見逃せない11)。 こうした中流意識の浸透は消費構造の変化からも窺われ る。1976年でも家計支出の48%を占めていた食費は94年に は30%へと下落した。とくに穀類は23%から 4 %へと劇的 に下落した。対照的な動きを見せたのが外食費で、この間 に 1 %から 9 %へと著増した。より詳しくこれらの動きを 追うと、穀類は80年15%、85年10%、89年 7 %というよう に70年代後半から80年代前半にかけて大きな変化を見せて いる。それに対して外食費は、85 年まで漸増しながら 3 % だったものが89年に 7 %へと跳ね上がっている。また、交 通・通信費もこの間に 4 %から12%へと急増しているが、自 動車関係費がはっきり顔を覗かせたのは 89 年 3 %であり、 それが94年には 7 %へと上昇している。さらに、文化・リ クレーション費の比重が変化を見せるのも 85 年、89 年で あった。こうして、家計消費の構造変化からも、1980 年代 とくにその後半には韓国社会がいわゆる大衆消費社会に突 入していたことが見えてくる12)。 ちなみに、この間教育費も1976年 6 %から80年 5 %へと 一時下落した後反転し、94 年 8 %まで漸増している。高度 経済成長のなかで 70 年代後半には人材不足が露呈し、80 年 代初めより大学の新設と増員が図られたこともあって、大 学進学率は80年から85年にかけて10%程度上昇して36%に 達し、さらに90年から95年にかけてもういちど15%強上昇 してついに 50%を上回るにいたっているが、そうしたこと に連動した受験競争の過熱が教育費の動きに反映している のかもしれない。ともあれ、大学へ進学する者が同世代の 過半数に達するということ自体も中流社会化の一環として 注目されよう13)。但し、後述のように、これをただちに市 民社会の成熟化要因とみなしてよいかには疑問が残る。  (2) 市民社会の形成と環境運動の発展史 上記のような高度経済成長は、一方で長期にわたって続 いた開発独裁体制の下で公害問題を深刻化させた。他方で、 高度経済成長に伴う中流層の増加は抑圧的政治体制に一応 の終止符を打つとともに、階級運動とは異なるものとして の「市民運動」をも発展させることとなった。といっても、 冷戦構造の最前線に立たされた分断国家として、経済成長 が即「市民社会」の形成に結びついたわけではない14)。む しろ、日本の植民地からの解放直後から既に芽吹いていた 「市民」的契機が、なんども抑圧的政治体制を揺さぶり、 その反動としての苛烈な締め付けに虐げられ、また鍛えら れながら、やがてもはや堰き止めえないまでに成長して いったと解したほうがよいかもしれない。ともあれ、以下、 まず主として具度完説に依拠しつつ韓国の環境運動史を考 察し、ついで韓国における市民社会の形成という問題に立 ち戻ることとしよう。 「漢江の奇跡」とも呼ばれた高度経済成長、とくに1973年 の「重化学工業化開発政策宣言」以降の重化学工業化の進 展は、開発独裁体制の下で深刻な公害問題を頻出させた。 たとえば、既に 60 年代末に蔚山工業団地のアルミニウム工 場による大気汚染で周辺の三山平野に農作物被害が発生 し、その後も被害は継続していった。また、70 年代末には 麗川工業団地の化学工場の近隣村において多数の子どもを 含む住民が大気汚染によって眼病・皮膚病・中耳炎に罹患

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したり、蔚山工業団地周辺において皮膚病の集団発生や六 価クロムによる飲料水汚染が発生したりした。さらに 80 年 代に入ると、仁川沿岸でカドミウム・鉛の関与が濃厚に疑 われる魚貝類大量死が発生したり(83年)、三山平野で30万 坪が工場煤煙で枯死したり(83年)、漢江で魚が大量死した り(84 年)といった具合である。そして、85 年には「温山 病」が社会問題化した。すなわち、温山工業団地周辺にお いては 78 年の操業直後から各種重金属排水と大気汚染によ る被害が続発していたのだが、82 年になって神経痛と皮膚 病を伴った温山病患者が現れ始めた。患者は翌年から急増 し、住民500名以上が患者と目されるにいたった。この事件 が全国紙により韓国におけるイタイイタイ病として報道さ れ、誠実に対応しようとしなかった政府の不手際もあって 大きく社会問題化したのである15)。 1980 年代後半には、シファ地域持続可能発展協議会の地 元である始興郡でも井戸水から砒素が検出され、皮膚病が 集団発生するという事件が起こっているが、全国的にも水 道水汚染問題が大きくクローズアップされた。水道水が重 金属によって汚染されていたことを政府が認めた第一次水 道水ショック(89 年)である。これは、水道水から発ガン 物 質 で あ る ト リ ハ ロ メ タ ン が 検 出 さ れ た 第 二 次 水 道 水 ショック(90 年)を経て、韓国第三の都市大邱の浄水場に 電子工場から漏出したフェノール原液が流れ込み水道水を 汚染した「フェノール事件(第三次水道水ショック、91年)」 へと拡大していった。フェノール事件は財閥系企業が引き 起こしたものであり、企業や政府の対応の不手際ともあい まって全国的な同グループ製品の不買運動へと広がるな ど、大きな反響を呼んだ16)。 こうした公害事件のみならず、一般的な環境汚染レベル においても 1980 年代は下記のような状況にあった。まず、 大気汚染について見れば、80年代初頭のソウルは0.10ppmに 近い亜硫酸ガス濃度を記録し、その後低下したとはいえ 80 年代を通じてなお許容基準を上回る 0.06ppm 前後に留まっ ていた。釜山もソウルほど高い濃度は記録していないが、80 年代前半からソウルをやや下回る程度で推移しているし、 大邱は 80 年代前半にやや上昇してソウルや釜山と大差ない 水準に達し、90 年代にはやや低下傾向を示したソウルを上 回るに至っていた17)。 また、河川の汚染について見ると、漢江では 1980 年代前 半BOD 5 mg/lをたえず上回り、7 mg/l近くを記録したことも あった。そして80年代後半以降も3.5mg/l前後を行き来して いた。80 年代前半には漢江と比較的類似の動きを示してい た栄山江は80年代後半 7 mg/lにまで上昇し、90年代に入っ てもなお4.5mg/lを上回っていた。また、フェノール事件の 現場となった洛東江は 80 年代前半からほぼ 3.5mg/l 前後で 推移し、錦江は80年代前半から趨勢的に上昇して90年代に は漢江や洛東江と大差ない水準に至っていた。こうして 90 年代初頭の 4 大河川の水質基準は、ほぼそのいずれもが上 水源用水としては 3 級レベル(3 - 6 mg/l)、すなわち高度の 上水処理をしなければ上水源として利用できないという状 態であった18)。 このような環境状況に直面して環境運動はどのように展 開されてきたのであろうか。具氏は 1990 年代半ばまでの韓 国における環境運動史を 4 つの時期に区分している。60-70 年代の環境運動前史の時期、80-87 年の反公害運動期、88-91 年の環境運動の模索期、そして 92 年以降の環境運動の拡 散期である。 すなわち、第 1 期の1970年代までは、「散発的で局地的な 公害被害住民の自発的な抗議・陳情・デモなどを通じた被 害賠償運動」が主流で、未だ知識人など中間階級を中心と した専門環境運動組織は生まれていなかった19)。 それに対して、1987年の民主化までの第 2 期には、温山 病事件が象徴するように、「地域住民の自発的抵抗運動と専 門環境運動組織の結合」がなされ始めた。そのさい、韓国 公害問題研究所(公問研)など専門環境運動組織において は「民衆運動論」が支配的位置を占めていた。民主化とい う大義が社会運動全般を支配し、その主流を占めた伝統的 な左派の理念が環境運動にも強い影響を及ぼしていたので ある。但し、左派の影響を色濃く受けつつも、キリスト教 系団体の幹事が主婦中心に組織した公害反対市民運動協議 会(公民協)のように、名称的にも構成員の実体からも「市 民」性を帯びた組織が立ち上がっていることにもちょっと 注目しておきたい。他方で、住民運動組織の活動は「制度 レベルの要求にも達せず、集団・組織の利益の防御」に留 まらざるをえない状況であった。 こうしたなか、政府も 1977 年の環境保全法制定に続いて 80 年には環境庁を発足させるなど、なお経済成長をきわめ て高く評価しつつ、環境との調和にも一定の配慮が必要と いう姿勢を見せ始めていた20)。 1987年の民主化以降の第 3 期の特色は、「相対的に開かれ た政治空間と環境に対する関心の広がりを基盤として、多 様な専門環境運動組織が生まれ、住民運動の社会的波及力 もとても高まった」ことであった。多様な専門環境運動組 織の誕生は、「市民運動論」に立脚した経済正義実践市民連

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合(経実連)やソウル YMCA が積極的に環境問題に取り組み 始めたり、ハンサルリムのように「エコロジー」を掲げる 組織が現れたりというように、伝統的な左派の理念を離れ た運動が登場してきたこと、つまり「新しい環境パラダイ ム」が出現し始めたことを意味している。ちなみに、91 年 のフェノール事件の折にまず行動を起こしたのは大邱の経 実連と YMCAであり、全国的な不買運動を主導したのも経実 連にほかならなかった。 また、政府も 1990 年に環境庁を環境処に昇格させるとと もに、「環境に影響を与える経済・社会の総合的なアプロー チと根本的な対策は不十分だった」と反省し、事前対策を 中心とし、産業構造を環境にやさしい方向へ改革してゆく という政策目標を掲げ始めた。さらにマスコミには、環境 保全優先論もときとして顔を覗かせるようになった。 国民が世論調査において環境問題に鋭い関心を寄せ始め るのもこの時期であった。1982 年にも韓国の環境汚染状況 を「深刻」と捉えていた国民は70%を数えたが、「とても深 刻」とまで捉えていた国民は17%であった。それに対して、 80 年代に汚染状況がとくに悪化したという事実はないにも かかわらず、87年には「とても深刻」のみで52%に達した。 また、優先すべき政策の選択において、82 年には「自然生 態系保全及び公害防止」は国民教育や国防、あるいはイン フレや失業といった経済問題からかなり後塵の 7 位(6 %) であったのに対して、87年には17%で 3 位を占めるに至っ た。もっとも 82 年は抑圧政権の下での環境庁による調査で あるから、「とても深刻」と感じていても「深刻」と回答す るといった配慮が多少ともなされていたかもしれない21)。 1992 年の地球サミットの影響を強く受けた第 4 期、グ ローバル・スタンダードを遵守できなければ韓国経済は国 際競争に敗れるという強い危機感の下22)、政府は、環境保 全優先の国土利用計画、国民参加とそのための積極的な情 報公開、さらに企業責任にも論及した「環境保全のための 国家宣言文」を発表するに至った。また企業も、企業活動 と環境保全との「調和」を謳った「企業人環境宣言」を発 表したりして、環境問題への取り組みに積極的な姿勢を示 し始めた。 他方で、専門環境運動組織においても、地球環境問題へ の関心が本格化し、国際的連携を構築し始めた。のみなら ず、「企業や国家への敵対戦略よりは妥協戦略」が、そして 「敵対的民衆運動論よりは市民運動論」が主流となっていっ た。たとえば、公問研の影響を受けていた公民協と公青協 (公害追放運動青年協議会)が統合して誕生した公害追放運 動連合(88 年)は、さらに各地の公害追放運動組織を統合 しつつ環境運動連合へと衣替えした(93年)。被害者と加害 者の関係を曖昧にしたくないと敢えて「環境」ではなく「公 害」を名称に掲げていた路線との離別である。と同時に、 それは旧来の「民衆運動論」から、自らが加害者でもある こと、生活スタイルもまた重要な問題であることを掲げる 「市民運動論」への転換でもあった。 最後に、国民の環境意識においても重要な変化が認めら れた。1987 年の世論調査では過半数の人々が環境汚染状態 は「とても深刻」と認識しつつ、「経済成長と環境保全との 調和」を圧倒的多数の人々(89%)が選んでいたのに対し て、1992 年には環境優先、調和、経済成長優先が三分され るかたちになっているというわけである23)。カッコつきで あれ豊かな社会になったことのひとつの表れでもあろう。 このように環境運動の発展史を見てくると、環境運動に 取り組む「市民」の生成は 1980 年代に入って若干萌芽を見 せつつも、本格的には 87 年の民主化以降というように解さ れる。したがって、韓国における環境市民運動は未だ歴史 の浅いものということになる。じっさい具氏自身、1000 人 以上の会員を持つ環境運動組織は自然保護団体と官製団体 を除けばわずか二つであるというように、欧米と比して会 員の動員能力がとても弱いことの原因を「韓国の環境運動 の歴史」の浅さに求めるとともに、さらに「公共のための 市民運動の歴史」の浅さ、「市民社会の形成の遅れ」と結び つけて捉えている24)。 しかも、水野邦彦氏が韓国の社会理論家を参照しつつ興 味深く展開しているように、儒教文化が根深く浸透してき た韓国では家族主義が社会秩序の枠組みを形成しており、 市民社会の形成はそもそも遅れざるを得なかったという見 方も存在する。儒教的な家族主義の下では年齢や性といっ た生得の属性に基づく序列意識が当然のものとして受け入 れられ、「自律的で対等な個人」意識は育ち難い。さらに、 家族という情愛的な私的共同体のウチかソトかという区分 で人間関係が形成されていくかぎり「公共」意識も育ち難 い25)、と。たしかに、韓国における血縁意識の強さ、縁故 主義や主情主義はしばしば指摘されるところである。 だが、韓国の民衆は水野氏が想定しているほど家族に全 人的に帰属しているのではなく、嫁姑関係にもみられるよ うに「個人が自分の意見をはっきり主張するように育てら れている」ところもあると言われる。この点は、韓国に広 がっているキリスト教信仰において教会の選択が「自分の 意思」で行われ、「信者の流動性がかなり高い」ところから

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も、すなわち日本の教会が「共同体的(corporative)な組 織を志向」しているのとは少し異質であるところからもう かがわれる26)。縁故主義や主情主義が広がっているのも組 織における個人の裁量権が大きいことの反映でもあるわけ である。また、後述するように、農村においてさえ「契」の ような対等互恵の市民的社会関係がきわめて活発に展開さ れてきており、必ずしも身内か否かといった人間関係ばか りが広がっていたわけではない。 じっさい、文京洙氏の韓国現代史に従うなら、そして「民 衆運動」の担い手たちもまた「自律的な主体」たらんとし、 そうした主体として「公共的」問題に真摯に取り組んだ 人々であったという意味で「市民」とみなしてよいとすれ ば、韓国における市民のコア層のそれなりの広がりをもっ ての生成ははるかに遡って捉えることができそうである。 すなわち、植民地からの解放直後、朝鮮半島には「各地 でじつに多様な住民の自治組織が噴出」したという。南に ついて言えば、ソウルからの呼びかけに応え、8 月中に145 の建国準備委員会支部が結成された。さらに、 9 月末から 11 月初旬にかけて、これらは人民委員会へと改編されて いったのだが、同委員会は市、郡、邑、面レベルでは治安 維持や民生問題の多くを担当し、治安・食糧・財政などの 部署を備え、綱領には日本人財産の没収などに加え、土地 の分配や工場の管理・所有をも掲げていたのである。だが、 「草の根的な社会革命の機運」は米軍政から嫌われ、1946年 の 10 月抗争を境に劣勢に回った。さらに、朝鮮戦争時の両 陣営からの悲惨な虐殺・テロの経験が続いた。こうして、結 局、「朝鮮戦争休戦までの解放 8 年の歩みは、人々がそれぞ れの村や町で発揮した自治や共和の精神を跡形もなく打ち のめす過程でもあった」と総括されることとなる27)。 だが、市民的胎動はこれで完全に潰えたわけではなかっ た。周知のように、1960年李承晩政権を倒したのは「4 月学 生革命」であった。市民的契機の跡づけという文脈のなか で本稿として注目しておきたいことは、まず、この事件の 前史として、56 年の正・副大統領選挙において「反共とい う枠内で、民主主義や進歩を旗印に反独裁」を訴えた野党 候補が副大統領選挙を制したということである。その結果、 李政権は激烈な政府批判を行っていた京郷新聞の廃刊をも 含めて圧制を強化するのだが、新聞について言えば 60 年前 後に115の日刊紙が存在し、さらに1500以上の定期刊行物が 数えられたという。また、大学レベルの教育機関も 62 存在 し、学生数も 10 万人に迫ろうとしていた。経済的には貧し くとも、教育・マスメディアの点ではヨーロッパの先進国 に伍す水準にあったというわけである。さらに、李政権退 陣の直接の契機となった「血の日曜日」においては、10 万 人を超える学生・市民がソウルの光化門広場を埋めたので あった。もっとも、この市民運動の盛り上がりも、まもな く第二共和国政権を軍事クーデターで覆した朴政権の初期 に「徹底的に去勢され」た28)。 その後朴政権は形式的な民生移管を演じつつ 20 年近く続 くのだが、その間にも 1964 年には日韓条約をめぐって学生 を主体とする激烈な反対運動が展開された。その反動が第 一次人民革命党事件というでっちあげを含む弾圧である。 しかるに、大統領三選を禁じた憲法を強引に改正しての71 年の大統領選挙では、政権側のなりふりかまわぬ金権選挙 にもかかわらず、ソウルの遊説において30万人という大聴 衆を集めるほどの「空前の野党ブーム」が金大中候補によ り引き起こされた。維新体制が敷かれ、「社会全体の兵営 化」が推し進められることとなったのは、こうした状況に 朴政権が脅威を感じてのことである。 しかも、そうした圧政にもかかわらず、1970 年代末には 「市民」の動きは再び抑えられなくなった。学生たちの捨て 身の示威行動、在野勢力の「第二の民主救国宣言」や「民 主主義と民族統一のための国民連合」結成に加え、労働基 本権が保障されていないなかで東一紡績の女子労働者の長 期争議や YH 貿易の女子労働者による野党本部に篭城しての 闘争などが繰り広げられた。また、78 年の国会議員選挙で は野党の新民党が躍進した。その新民党の新総裁となった のが金泳三であり、彼に対する弾圧、それに抗議した地元 釜山や馬山での学生・市民による激しい示威行動・暴動、そ して戒厳令にもかかわらず収拾のめどがつかない政治的混 乱のなかで、結局、朴大統領は腹心の凶弾に倒れた。 この後の「ソウルの春」では、学園の民主化を求め、ま た軍事教練に反対して学生によって闘争が繰り広げられ、 10 万人余りの学生がソウル駅前に集結するということも あった。だが、市民の呼応は意外に少なく、結局「ソウル の春」も全斗煥らの新軍部政権に抑え込まれた。そのさい に生じた悲劇が光州事件である29)。 この全政権を倒したのが 1987 年の「6 月民主抗争」であ り、ピークには全国34の都市と 4 つの郡で文字通りあらゆ る階層の100万人以上が「国民平和大行進」に参加した。と 同時に、本稿としては、国家安全企画部などを使った苛烈 な恐怖政治やマスメディアの統制・操作で始まった全政権 も、83 年には「和合路線」と称する宥和策に出るしかない ほどに「市民」の潜在的な力が成長していたことに注目し

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たい。だからまた、全政権の思惑とは逆に、この宥和策を 契機に民主化運動が一気に活気づいた。大学のキャンパス のみならず、労働運動においては大宇自動車のストライキ 闘争のように、重工業部門の男子労働者もまた運動を繰り 広げるようになった。こうした動きの延長線上に、 6 月民 主抗争はあったのである30)。 こうして、主体性と公共的関心に着目して韓国現代史に おける「市民」的契機を辿ってみると、既に日本の植民地 からの解放直後にかなり広範に芽生えていたし、その後の 抑圧的政権の下でも節目でなんども力を発揮してきたこと がわかる。たしかに、そうした折に闘いの前面に立ったの はさしあたり名望家、知識人や学生という一部のエリート 層であったし、1960年の 4 月学生革命も1980年のソウルの 春も、軍政に抗して広範に人々の支持を獲得しいっそうの 展開を見せるには至らなかった。しかしながら、植民地か らの解放直後には全国各所に多様な草の根の自治組織が成 立していた。さらに、命を賭して軍事政権に立ち向かうと いう重い主体的決断を下した学生等、そうした主体性と公 共的関心を備えた人々が 10 万人を超える規模で繰り返し現 代史の舞台に登場していた。のみならず、そうした学生等 の背後には大統領選挙や国会議員選挙において独裁政権に なんども異議を突きつけ、市民的自由を求める広範な人々 が存在していた。解放直後に各所に見出された市民的胎動 は決して潰えることなく、むしろ伏流しつつ機会があれば 噴出を繰り返していたと解されるのである。 したがって、韓国の経済発展が日本より遅れていたから といって、また長く軍事独裁政権が君臨していたからと いって、市民的契機の成長もまた日本より遅れていたとは 限らない。むしろ、苛烈な圧制と対峙してきたからこそ水 面下では日本より強力に鍛えられた市民のコア層が形成さ れていたとも解される。のみならず、そうした人々が声を 上げたときそれに呼応する民衆レベルでの市民意識もそれ なりに培われていた。だからこそ、 6 月民主抗争もあれほ どの広がりと高まりを見せることができたのであろう。た だ、軍事独裁政権の下ではじっさいに市民社会的活動を展 開することは不可能であったから、市民社会的活動の経験 という点では未だ浅い。さらに、儒教文化の伝統もなお根 強く、「ふつうの人々」は、折があれば一時的には積極的な 意思表示もするけれど、日常的には必ずしも「市民」性を 活発には発揮しない。したがって、環境運動への日常的な 参加もなお限定されているということではなかろうか。 くわえて、上記のように鍛えられ、成長してきたとすれ ば、市民的契機はなにより政治的にならざるをえなかった。 それは具氏の規定する環境運動第 2 期における専門組織の 特質にも看取される。のみならず、一応の民主化を達成し たことでかえって共通の大目標を見失い、分裂、混迷が広 がっていっただけでなく、地球環境問題への関心の高まり やソ連・東欧社会主義圏の崩壊といった世界的動向にも刺 激ないし促迫され、既存の組織の中で環境運動に積極的関 心を寄せたり、むしろ環境運動に転向した人々も少なくな かったようである。そうしたさい、もともと政治志向で あった組織的ないし人的特質がなお影響し、中央集権的な 社会風土とあいまって、制度改革や政策形成により大きな 関心が寄せられて、地道な草の根での環境保全活動の実践 といった側面では後れをとるという現象が生じたのではな いだろうか。そもそも市民運動論に立脚した経実連を見て も、「市民の自発的な参加を通じて企業と政府に対する監視 と圧力を組織する」ことに力点が置かれているようである。 この点、ハンサンリムは少し異質であるが31)。 他面で、「市民」を「豊かな」社会の形成と関連させて捉 えてみると、したがって「市民」をやはりその原点で帯び ていた「特権性」32)に即して「中流層」中心に捉えてみる と、異なる様相が見えてくる。すなわち、韓国も80年代、と くにその後半以降「豊かな」社会に突入していたことは先 に見たとおりであるが、この「豊かな」社会は J. ボードリ ヤール言うところの「記号消費」が支配する社会であって、 その住民である中流層は「一人前」と認められるために所 持すべき商品セットを、しかも次々と新たな「差異」が生 み出され、更新されてゆく商品セットを追いかけながら差 異化の海で戯れることに慣れてゆくこととなる。さらに、こ の社会では知識や教養も一人前であるために知っておくべ き消耗品として「情報」化され、次々に使い捨てられてゆ きがちとなる。そもそもそういう情報の氾濫のなかで、リ アリティとヴァーチャルリアリティの差異も曖昧化されて ゆく。この点は社会問題についても同様である。したがっ て、深く内的関連を探求したり、ある問題に拘ったりする より、表面的に浅く広く知り、また忘れてゆくという態度 が広がる。こうしたところに公共的問題との真摯な格闘は 生まれ難いわけで、現代は先に見てきたような意味での「市 民」は容易には輩出されない世界でもあることとなる。だ からまた、現代の韓国の大学キャンパスに過去の面影はほ とんど見出せない33)。 しかしながら、そうした「遊戯」の世界には空しさもつ きまとう。「刹那的」楽しみを追い求めながら、ときとして

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そうではない生き方に触れてノスタルジーや「切なさ」を 感じもするわけである34)。この両義的「セツナ」のいずれ に軸足を置くかで環境問題との関わり方は大きく変わる。 大量生産・大量消費・大量廃棄の世界を差異と戯れつつ漂 うか、適度な満足水準での、他者のまなざしに振り回され ない生き方を選ぶかというわけである。後者への関心もそ れなりに広がりつつあることは、1990 年代に入っての世論 調査において経済成長より環境保全をという意見が一定の 比重を占めていたことからもうかがえる。だが、世論調査 からも多数派はときどき後者の世界に立ち戻りつつ、概ね 前者の世界に生きていると解される。そのさい、ときどき 切なく反省したり、あるいは環境にやさしいライフスタイ ルに浸ったりということが、他者のまなざしを意識したい わばファッションのひとつとして選択されるということも ありえよう。ともあれ、こうした中流層の人々にとって、 政治色の強い活動や組織はむしろ嫌われる。そして、とき どき切ない世界に回帰する場として、若者にとっては大 きな災害時のボランティアなどは恰好の対象たりえよう が35)、主婦層や初老男性層には地域に密着した草の根での 日常的な環境保全や改善活動もひとつの選択肢となってこ よう。 そもそも、中流層として民主化を求めた「市民」は、厚 みを増しているとはいえ、現実の格差社会のなかでの恵ま れた層であり、またそうした格差を捨象してみんな同じ「市 民」へと抽象化された存在でもある。当然、同じという建 前の下に現実にはなおこんなに多くの人々が格差に喘いで いるのはおかしいと格差の是正に目を向ける「市民」も現 れよう。だが、格差を是正する改革が自らの中流としての 生活基盤を脅かすと直観すれば、同じという建前に安住し て格差問題には目をつぶりたいという「市民」も出てくる。 公共的関心を持つ場合にも、日常的秩序を揺さぶりかねな い深みまで社会システムについて考究するより、現行の日 常的秩序の枠内で「多少とも良き」市民でいたいというわ けである。早くに日高六郎氏が指摘していた、市民運動の 帯びがちな「ある種の軽さ」という問題である。市民運動 における目標の限定性に連動した「参加の部分性」は容認 されるべきとしても、その背後に「面倒のないかぎり、危 険のないかぎり」でつきあうという「市民」が陥りがちな 弊が見え隠れしていないかが問われている。この弊を乗り 越えるには、「部分目標のなかに全体を見出してゆく」ない し「目標の部分性と志の全体性を結びつける」ことが求め られるのだが、そのように全体ないしシステムを問うとい うことからは、すなわちもっとも政治的な営為からは遠ざ かっていたいというのが中流層ではなかろうか36)。 じっさい、6 月民主抗争と中流層との関わりについて、朴 一氏が次のような興味深い見解を提出している。この闘争 が「無血革命」に帰結したのは台頭してきた新中間層に負 うところが大きい。彼らは開かれた社会の実現を求め政治 参加意欲も旺盛であったが、「自分たちの安定した生活を脅 かすような急進的な運動に対しては警戒的」という二面性 を備えた人々であって、全政権が学生運動の急進グループ を拘束し、学生運動のヘゲモニーが穏健派に移っていたか ら、朴鐘哲君拷問致死事件を契機に大多数の中間階層が安 んじて反政府にまわった。それが瞬く間に野党や学生の運 動をあれほどの大衆運動へと発展させた。もし、新中間階 層という二面性を保持したクッションがなく、利害が真っ 向から対立する二大勢力が正面衝突していたらもっと大き な犠牲を生んでいたであろう、と。さらに、朴氏は、こう した新中間層の体質は、1980 年代後半から労働運動が長期 化し、経済不況に影響するようになると、新中間層をして 「一転して労働運動を非難する側にまわ」らせたことを指摘 し、「民主化の推進力として中間階層の役割を過大評価する ことも危険」であって、「新たな権威主義体制」の下で進め られつつある「民主改革」の行く末は決して楽観されるも のではないと展望していたのである37)。 こうして、 6 月民主抗争の考察からさえも、「豊かな」社 会の到来がもたらした「市民」の増加はいわば「生活保守 主義」的な「市民」の増加でもある可能性、したがって既 述の考察と重ね合わせれば、政治志向の強い環境運動より 地域における草の根での環境保全ないし改善活動になら関 心を抱く「市民」が増えている可能性が示唆されてくる。 最後に、伝統的に中央集権的社会風土がきわめて強かっ た韓国において、1990 年代半ば以降全面的な地方自治制が 実施され、自治体首長が住民による選挙で直接に選ばれよ うになったことに象徴されるように、地方分権化が進んで いることにも注目しておきたい。身近な世界での民主化の 進展であり、後述のように、自らが暮らす地域の問題に主 体的に公共的関心を高め、あるいは直接に活動に参加する 意欲を高める契機となっていると解される。 (3) シファ地域持続可能発展協議会の特質と課題 これまで見てきたような韓国社会の変容と環境運動史を 背景に、2004 年、シファ地域持続可能発展協議会は設立さ れた。同協議会の活動については金氏の論文に詳述されて

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いるので、ここでは同論文及び同協議会の活動をめぐって 開催された「葛藤解決と社会的合意形成市民大討論会」 (2007年 7 月)の資料集38)を参考に、同協議会の積極的特 質を再確認するとともに、同協議会がなお悩んできた課題 について考察してみよう。 シファ持続可能発展協議会の注目すべき特質として金氏 も上記討論会のほとんどの講演者も挙げているのは、粘り 強く精力的な「対話と討論」を通して国策事業をめぐる葛 藤の解決に向け一定の社会的合意を築き上げてきたことで ある。密室行政的で、環境意識の薄い、縦割り行政の弊害 を諸に露見させた「土建主義による国土管理失敗の象徴」と されるシファ湖問題について、かつ盧武鉉政権の下で「参 与ガバナンス(participatory governance)」を推進しよう としつつもいかに具体的制度化を図るべきか未だ模索過程 にあって、金論文にもあったように他の多くの代表的葛藤 事例では社会的合意の導出に失敗しているなかでのことで あるだけに39)、いっそう注目されるわけである。 この一定の成功の背後には、金論文で挙示されていたよ うに、決してアリバイづくり的な諮問機関、すなわち政府 に好都合な委員を人選し、既定のスケジュールに合わせて 答申を求めうるような諮問機関を立ち上げたのではなく、 むしろ反対運動の主体を対話のパートナーと認め、委員の 人選も合意に基づき、政府案はいったん白紙に戻して、反 対派が推薦する専門家の調査も受け入れて問題点やその解 決策についての共通認識を深め、時間をかけて対話と討論 を精力的に重ねてゆき、その結果を積極的に公開しながら、 合意できたものだけを事業化してゆくという「実質的民主 主義」を保障した協議会の運営方式があった。とくに、多 数決原理は採らずに合意を粘り強く探った決定方式は、話 し合いを重ねて相互理解を深めながら互いの溝を埋め、共 有認識を広げてゆくうえでひじょうに有益だったとされ る。さらに、政府側がシファ湖の水質改善事業を着々と進 めるなど、実績を通じて相互の信頼関係の醸成に努めたこ とも評価されてよい40)。 こうしたことが生じえたのは、前項での考察に照らせば、 一方で、環境運動主体の側で「民衆運動論」から「市民運 動論」へと主潮が変化していたからと解される。さらに言 えば、シファ持続可能発展協議会については、地域の問題 を地域を熟知した人々が主体となって解決すべく、中央環 境運動団体から距離を置いたことがいっそう「対話と討論」 路線を強めたとみなす人々が多い41)。 他方で、政府の側も、やはり前項で見たように、国際競 争に立ち向かうべく環境政策を積極化させ、国民の参加も 積極的に求める方向に転じていた。したがって、かつての ようにラディカルではなくなっている環境運動に対しては むしろ取り込めるなら取り込みたいという思惑も生じてい たわけである42)。 また、前項末で論及した地方分権化の進展とあいまって、 地域開発計画への市民参加制度についてもかなりの前進が みられていた。たとえば、1991 年の都市計画法改正におい て都市基本計画の承認に地方議会の意見聴取が求められる ようになり、95 年には民間にも都市計画の提案権が与えら れ、2000 年には都市計画施設の設置・整備及び改良や地区 単位計画の樹立・変更等に関して住民提案制度が導入され たというように。さらに、盧武鉉政権の下で、04 年 1 月に は住民投票法が制定されて、10 年前の地方自治法改正で形 式的には認められていた住民投票制度に漸く血が通うよう にもなっていた43)。 さらに、中流層の増加という要因も関与していたと解さ れる。一方で、金氏の論文でも触れられていたように、大 気汚染問題は工業団地周辺に建設された住宅団地への移住 者からの苦情が大きな契機をなしていた。そこには、新住 民の増加とともに「市民運動の人的、物的土台が強化され た」という要因が働いていると解されるが、これは新住民 の少なからずが高等教育を受け、一定の政治意識を備えた 中流市民層であってこそのことだったのではなかろうか。 他方で、そうした新住民は前項で見たように生活保守主義 者でもあって、長く解決の糸口を見出せなかった大気汚染 問題が MTV 開発から期待される利益金を注ぎ込むことで緩 和されるのであれば、生態系に一応の配慮をした規模での MTV 開発に妥協することはやむをえないのではないかとい う「現実主義」的判断を支持し、「市民運動に対する問題解 決圧力を加重」44)したことも想像に難くないところであろ う。 ところで、このようにシファ持続可能発展協議会を一定 の成功に導いた諸工夫、努力とその背景を整理したとき、 同協議会が直面した苦悩も見えてくる。すなわち、一定の 成功が「現実主義」的判断と不可分のものであるとすると き、その妥協案のもたらす利害の大小が地域によって異な る限りそれを「現実主義」的妥協と認めうるか否かも地域 によって異なることとなる。さらに、そうしたものは生活 保守主義的な妥協であって、真に現実主義的とは思えない と考える人々からの反発も生じるであろう。 じっさい、ユ・ホンボンシファ湖市民連帯会執行委員長

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自身「長らくシファ湖に対して悩みを共にしてきた 11 団体 中 3 団体が脱退したことはひじょうに遺憾で、残念」で あったと述懐しているように、安山地域の一部の市民団体 は脱退し、地域の13団体で「シファ MTV開発反対安山市民対 策委員会」を結成した45)。また、ヨム・ヒョンチョル環境 運動連合国土生態本部処長のように、シファ持続可能発展 協議会が合意した内容は生態系持続可能性という観点から はとうてい受け入れがたいと批判する人もいる46)。 要するに、市民参加が現実となったとき、利害や理念へ の拘りの度合いを異にする人々がどのように歩み寄り、ど こまでまとまれるか、また場合によっては、「建設的な」社 会的合意のためにどこで一部の人々と袂を分かつこともや むをえないと判断すべきなのかという問題が生じるという わけである47)。 シファ持続可能発展協議会の場合、協議会内部において 実質的民主主義を確保すべく既述したような努力が払われ たのみでなく、協議会に参加した市民運動側委員の内部で 意見が異なる論点に直面したときには協議会を中断してで も委員間で討論を尽くす努力が重ねられたのであるが、そ れでも協議会外部の人々との対話は不十分であったとの指 摘をユ氏も受け入れている。どのように一般の人々にわか りやすい広報を行うか、あるいは協議会の進行とともに当 初とは異なる問題が浮上してくるといった「状況の変化」に 対応してどのように協議会外部の人々の意見を収斂してい くか――委員の交代も含めて――といった課題が同協議会 の経験から浮上してきたわけである48)。 さらに、地域での社会的合意を構築していこうとすると き、それが地域エゴに堕しかねない危惧もなくはない。地 域の問題と考えられていることが地域を超えた波及効果を 及ぼすことがありうるからである。たとえば、MTV計画への 合意が、地域でだけ合意すれば干潟埋め立てが可能という ムードを社会的に広め、他所で干潟埋め立て反対運動を展 開している人々に、しかもせっかく政府が大規模な干潟の 埋め立て禁止政策を発表した時点で、打撃を与えたのでは ないか、あるいはシファ湖の淡水化を、したがってシファ 湖からの用水供給を断念しながら、かなりの規模の開発を 推し進めようとすることは、水源として新たな開発地にな るところへ負担をツケ回しするものではないかと、ヨム氏 は指摘している49)。 最後に、シファ持続可能発展協議会活動もやはり市民に よる草の根での環境保全活動の促進という面でなお不十分 であったことを確認しておきたい。たしかに、同協議会は 地域市民団体や地域住民が直接参加して地域環境をモニ ターする方式の推進に努力してきた。その結果、地域の大 気環境を一日単位でモニターし、それをホームページに掲 載したり、第4幹線水路の水質改善に民間参加の監視努力が 貢献したりといった実も結んできた。だが、それでもなお、 「自発的な地域住民と企業の参加を誘導できていない」と イ・ジェジュン氏は評価し50)、ユ氏も反論していない。 3 「びわこ豊穣の郷」をめぐって (1) 活動の概略と足跡 本節では、日本の方が相対的に進んでいると目される草 の根での環境市民運動の事例として、滋賀県守山市で活動 している N P O 法人「びわこ豊穣の郷」を取り上げ、その努 力・工夫や抱えている課題について考察してみよう。びわ こ豊穣の郷は、国土交通省からまちづくり表彰を受けたり、 日本水環境学会から水環境文化賞を受けたりというよう に、全国的に高い評価を受けて活躍している環境市民運動 組織であるというばかりでなく、「お上」的風土が大なり小 なりなお残存する日本社会で市民運動組織を生成・発展さ せるうえで地方自治体はいかなる役割を果たしうるかとい う点で興味深い経験を有している。さらに、地域に環境市 民運動を浸透させてゆくうえでひとつの大きな課題となっ てくる、町内会のような伝統的地域住民組織との関わり 方51)という点でもユニークな活動を展開している注目すべ き環境市民運動組織である。 びわこ豊穣の郷は、まず N G O 「豊穣の郷赤野井湾流域協 議会」として1996年 9 月に設立され、その後2004年に NPO法 人「びわこ豊穣の郷」に転換した(以下、いずれも「豊穣 の郷」と略記)。N G O としての発足当初からの目標である 「ゲンジボタルが乱舞する故郷の再現」及び「琵琶湖とシジ ミに親しむ湖辺の再現」を目指して、現在では次のように 活発な諸活動を展開している。 まず、調査改善活動部会と啓発広報活動部会の二つの部 会を備え、前者には河川水質調査、モデル河川づくり、赤 野井湾探検会、水辺の楽校、水生生物調査、河川ウォッチ ング、環境学習会、ホタル飼育、ビオトープ研究、先進地 研修の 10 委員会を、後者には機関紙、ホームページ運営の ほか、水環境サロン、パソコン講座、地域情報ネットワー ク化、学区民のつどいといった情報交流・地域交流を促進 しようとするユニークなセクションを配置している。また、 ほたるの森資料館運営のほか、ほたるパーク&ウォークや 環境省「いきづく湖沼ふれあいモデル事業」及び国土交通

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省「都市再生モデル調査事業」といったプロジェクトをも 実施している。 つまり、赤野井湾に流入する地域河川の水質、水量を100 カ所、年に 5 回(春夏秋冬+代掻き期)調査してデータを パソコン入力し、GIS を使って解析、経年的変化をホー ムページ上で公開するという組織全体の基盤的活動から、 市民が憩い、子どもが遊べる川づくりを目標に心地よい汗 を流す活動、自然の体験・観察会、そしてパーク&ライド 方式を取り入れて観光客のクルマの乗り入れによる地域環 境悪化を防ぎつつ地域生態系改善の成果を多くの人々に楽 しんでもらい、また地域の活性化にも貢献しようという「ほ たる祭り」52)、さらに地域の交流を深めるために各町内会 のホームページづくりを支援したり、あるいは地域の人々 がふらっと立ち寄って気軽に交流できる場としてのサロン を設けたりまで、じつに多彩な活動を繰り広げているわけ である。 さらに、豊穣の郷には国内から多様な人々が訪れるばか りでなく、一方で J I C A の研修生の受け入れ、韓国環境省か らの視察、他方で世界湖沼会議への積極的なコミットメン トなど、国際的交流も活発に行われている。そもそも、後 述するように、豊穣の郷の市民運動組織としての飛躍の契 機は、滋賀県で開催された世界湖沼会議のさいに地元守山 において独自のセッションを成功させたことにあった。 会員は、2007年時点で個人365人、団体109組織から成る。 また、年間予算は約 3000 万円に達するが、うち会費収入は 約 60 万円なので、ほとんどを補助金及び委託金でまかなっ ていることとなる。2000 年には 600 万円ほど、2003 年でも 900万円ほどの年間予算規模であったから、N P O 転換ととも に上記のプロジェクト事業が示す如く積極的に委託事業等 を拡大した様子がうかがえる。また、専任の事務局長とそ れぞれ週 3 日勤務のパートのスタッフ 2 名を有し、独自の 事務所を確保している53)。 さて、設立からの足跡を振り返ってみると、1996 年の設 立当初、主導権は県にあった。すなわち、県には、1972 年 から 25 年続いた琵琶湖総合開発プロジェクトの終了を目前 に、湖沼水質保全特別措置法をにらみながら地元での活動 実績を積み上げたいという事情があった。そこで、かつて 琵琶湖の富栄養化に危機感を抱いて活発な活動を展開した せっけん運動を担った市民組織を母体に、琵琶湖の環境保 全に取り組む市民運動を立ち上げようといくつかの市に働 きかけた。こうして、もともとはきれいな水質を誇り、琵 琶湖屈指の漁場であったが地形的に水が淀みやすく琵琶湖 のなかでも富栄養化現象が顕著に進んだ赤野井湾を抱える 守山市において、守山せっけん使用推進協議会を母体に、 自治会や婦人会、青年会議所、企業等に広く働きかけて消 費者のみに偏ることなくメンバーを募って、豊穣の郷赤野 井湾流域協議会を発足させたのである。 ともあれ、このさいの県の姿勢はそれまでの「県提唱で 県主導」型のものから大きく変化していた。時代の流れに 敏感に、「住民参加から住民参画、さらに住民主導」型への 転換を展望して、「市民が自ら調べ、自ら目標を作って、自 らが対策を考える」過程を、行政は「決して先走ることな く」、むしろ「伴走者」に徹そうとしたというわけである。 もちろん、守山市も含めて、それなりの補助金を交付して いる以上、補助金の趣旨を逸脱するような懸念があれば行 政の側からブレーキをかけるし、豊穣の郷内部での意見対 立がなかなかとけそうもなければ「専門的アドバイス」を 利用して誘導もしたそうであるが。このあたり、発足当初 の理事の一人であり、現在の事務局長である N 氏も、県か らの縛りは緩やかであったと認めている。県のイニシア ティヴで発足させたけれども、「お上」として市民を萎縮さ せることはなかったわけである。 しかも、当初、資金的には県と市が全面的にバックアッ プした。すなわち、当初はなにより会員を広げることを優 先し、予定していた会費規定も削除した。したがって、収 入は補助金と寄付金に、実質的には県と市が 5 割ずつ負担 する補助金500万円弱に依存することとなったのである。く わえて、県調査部会直接経費として 500 万円が交付された。 翌年度には、補助金額はほぼ変わらないまま、県からの調 査部会直接経費が 62 万円へと激減したので、他団体からの 助成金を探す必要に迫られたが、ここでもやはり市職員で 事務局をサポートしていた Y 氏が情報を探したり、申請書 や報告書の作成を手伝ったりという助力を行った。 さらに、事務局も主に市によって支えられた。事務所は 守山市役所の別館の一部を借用していたし、事務員も当初 はアルバイト中心で、上記の Y 氏が議会からクレームが出 るほどに豊穣の郷事務所に詰めていたとのことである。 N 氏が 2001 年夏に勤務先を退職し、専従の事務局スタッフと なったことで、こうした状況も解消し、豊穣の郷も自立化 に大きく踏み出していくわけであるが、このあたりは先に 触れた世界湖沼会議の守山セッション開催に深く関わるこ ととなる。 すなわち、2001 年に滋賀県で開催予定の世界湖沼会議を 前に、豊穣の郷発足当初から助言を得ていた滋賀県琵琶湖

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研究所所長(当時) NK氏の示唆もあって、10名の代表団を 第 8 回世界湖沼会議(コペンハーゲン)に派遣し、 2 年後 の滋賀県での再会を訴えた。これがほぼ私費負担であった ことに端的に表れているように、きわめて意欲的、主体的 な取り組みである。そして、世界湖沼会議を「学識者だけ の会議に終わらせるのではなく」、世界の人々がその「水辺 や暮らし」を「生の声で語」り合って交流し、そこからさ まざまの教訓を得る場にして、「地域住民と、地域行政、事 業者、学識者の協働で『琵琶湖の再生』に向かって、これ からの私たちの運動に生かしたい」という想いを込めた守 山セッションを見事に成功させた。これによって、豊穣の 郷は市民運動として自信を深めたし、他者からの評価や信 頼も上昇した。また、守山セッションにボランティアとし て協力した人々が豊穣の郷会員として加入してきた。他方 で、県は既述の姿勢のもと最初から 5 年間で手を放す予定 であったし、これがちょうどその時期にあたった。そうし たこともあって、いわば行政への義理で参加していた会員 は退会していった。こうして、世界湖沼会議を契機に豊穣 の郷は市民運動として自立の度をおおいに高めたのであ る。ひとつの意欲的な挑戦が組織を鍛え、力量を高め、自 信を付与して、市民運動を成長させたきわめて興味深い事 例と言えよう54)。 ところで、市民運動組織が活動を続けてゆくうえでメン バーが固定化し、活動がマンネリ化するといったことが起 こりうる。そうでなくとも、同じ活動を何年か続けてゆけ ば惰性化し、低迷することが考えられる55)。じっさい、豊 穣の郷でもこうした懸念が垣間見えたことがあった。それ はどのように乗り越えられていったのであろうか。 まず、当初からの中心的活動の一つであった市民の手に よる水質検査において、集まった膨大なデータ56)を解析す ることが課題となったが、滋賀県琵琶湖研究所(当時)の 協力によって「容易に入力」でき、しかも「簡単な操作」で 解析結果をグラフとして、あるいは地域の地図上に表示で きるシステムが提供された。さらに、こうして表示された 水質項目ごとの地域分布や季節変化などのグラフィカルな 情報に強い関心を抱いた主婦たちのなかから、それを「冊 子として公表」しようという動きが生まれた。そして、 2 年目に公刊されたその冊子『水環境マップ』やそれを生み 出した活動が研究者や行政関係者の一部から「高く評価」さ れることとなって、活動に弾みがついた。「住民グループの 要望に呼応する形で研究者がパソコンプログラム開発に関 わり、それが牽引力となり会員の意欲が向上し」たという わけである。しかしながら、 4 年目を迎える頃には、なか なか水質改善効果が明確に見えてこないなかで、「調査参加 者の意欲が薄れてきた」という。「『水環境マップ』作成と いう、目前にあった明確な目標が達成されたことから生じ た倦怠」とも解されている。そこで、水質調査活動の意義 を再認識できるように、「モデル河川づくり」の基礎データ として利用することが企図されたのであるが、ここでも専 門家の協力が威力を発揮した。そうした利用を可能とする ために、やはり琵琶湖研究所員の協力で「専門家が調査研 究データを自前で解析する作業の一部を、肩代わりする環 境情報システム」が開発されたのである。要するに、「他人 まかせでなく、会員みずからが自分たちでデータベースを つくっていく」ことをコンセプトに、インターネットを利 用して容易にデータの入力と修正ができるシステムが作成 され、「調査後、速やかに結果が入力される」仕組みができ あがったというわけである。のみならず、パソコン操作に 習熟した人材を育成すべく、民間会社の協力のもと、非会 員向けの「パソコン教室」が開講されるようになった。そ の結果、57 名の新会員が加わるとともに、ホームページづ くりや水質調査の解析といった活動を推進するための人材 をも増やすことができた57)。 以上の経過を、メンバーの活動の持続、意欲の喚起とい う観点から見つめ直したとき、グラフやマップの形で「結 果を速やかに確かめられる」こと、しかもそれを「自力で できる」こと、またそれを可能とする「自らの成長ないし 能力アップ」、総じてそれらを通じて活動が「楽しい」こと が、重要な要因として浮かび上がってくる。さらに、その ような楽しさを実現するために、操作が容易で結果が速や かに得られるシステムを開発し、また会員の能力アップを 支援した「専門家の協力」も大きく寄与した。 「楽しさ」についてもう少し補足しておくと、ヒアリング 訪問時に会うことのできた 9 名の人々から得た、豊穣の郷 の「活動が持続してきた理由」に関しての回答にも、次の ように「楽しさ」に関わるものが多数見出された。 たとえば、「楽しむということが継続のカギであり、楽し さは自然も人も含めたこの地域、この場への愛情があるか らこそと思う」あるいは、「やっていることの手応えを感じ られないと続かない」。また、「手応え」に関わってパソコ ンを指導している女性からはより具体的に次のような声も 寄せられた。「各人が自分の仕事に責任と誇りを持っている こと、だからこそやりたくないことも続けられる。ホーム ページの作成者として入会したが、当時はそれが楽しかっ

参照

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