著者名(日)
藤木 三千人
雑誌名
東洋大学社会学部紀要
巻
38
号
1
ページ
5-20
発行年
2000-12
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002238/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja社会調査と私の歩んだ足跡
The Achievements in My Social Research
藤木三千人
FUJIKI Michihito
※このレボートは、2000年3月退職された社会学部藤木三千人教授の最終講義(1月11日、東洋大学白山キャンパス)をま とめ、一部加筆修正したものです。 ただいま、学部長に過分なご挨拶を頂き、気後れしているところでございま す。自分自身がどのような歩みをしてきたのたか、よく分からないまま40年た って、定年ということになり、最終講義を向かえました。時間の許す限り、お 話しさせていただきたいと思っております。 * * *1.社会学への入門
先ほど「社会学と私の歩んだ足跡」というテーマを「社会調査と私の歩んだ足跡」ということに 替えていただいたのですが、私は、社会学に入りました時、とんでもないことを考えておりました。 私の父は、農林省から出向した陸軍関係の農業土木技術者でありました。当時の日本陸軍の構想 のひとつに中国の黄河の水を白くするということがありました。黄河は、上流地域で黄土(loess) が川の中に入り、どんどん濁っていき、黄色い水になります。黄土は粘土質の土ですから、黄河の 水は灌概用水には使えません。そこで、ダムを百幾つか中流に造りますと、下流では黄土が沈殿し て白くなる。そうすると下流からは灌概用水に使えるということを、私は、父親の友人から度々聞 いておりました。私の経歴の中に、東洋大学に入る前に盛岡の農林専門学校にいたことが書いてあ りますが、私はそこで農業土木を勉強しておりました。つまり、父と同じ専攻でした。私はその技 術を持って、中国に渡り、そういう仕事、そういう技術に携わりたいというような気持ちになって おりました。しかし、終戦直後でありますから、それは可能ではありませんでした。中国に行くこ とは難しかったわけです。ですから、その志は、なすすべくもなく、夢と消えたわけです。その時に、東洋大学社会学部に入ることを決めました。当時は米林富男先生が主任教授でおられました。 米林先生からドイツの社会経済学者、ウィットホーゲルの話を伺いました。それは「水と東洋社会」 というものでした。そこで私は、農村社会学の分野でも十分に「灌概用水と東洋社会の論理」とい うものを研究することができると思い、北上川の水系による農村社会の研究を、灌1既用水を中心に 調査することを卒業論文にしたいと思ったわけです。旧制の大学ですから、卒業論文を書くことは 非常に重要なことで、現在の大学の単位全体と同じぐらいの評価が与えられるわけです。私は、北 上川の流域というか、灌概用水の影響が及ぶ全村落を調査して歩こうという志を持っておりました。 ですから、一年間はその時間に充てなくてはいけないと思っておりました。 ところが、私は、その時に「フランス社会学説史」の講義があることを知り、参加してみました。 この講義の時間が、変な時間帯で、夜の5時から始まって8時頃までやるという講義でした。その 講義に出席している方は5、6人で、ほとんどが他の大学の先生方でした。学生は私一人でした。 「学生はここにいないだろうな」と、講義されている田辺先生がおっしゃったので、「僕は学生なん ですが」と言いましたら、「お前、フランス語読めるか」と聞かれ、はっきりと「フランス語は読め ません」と答え、「これから勉強しますからどうか参加させて下さい」とお願いいたしました。やっ と参加させていただいて、社会学説史の講義を聴いたわけです。しかし、予備知識のない私には、 サッパリ理解できませんでした。それでフランス語を一から勉強し始めるというようなことになり ました。
2.はじめての社会鯛査
田辺先生は、神奈川県の文化、教育に関する顧問をやっておられました。当時、県知事は内田と いう方で、以前にブラジル大使になられた方ですが、その方の顧問をやっておられたわけです。そ の田辺先生から、神奈川県下の漁村の調査をやるということで、その調査に参加しないか、という お誘いを受けました。「僕は帰って、北上川流域の農村の調査をやりたい」と話をいたしましたら、 「それもひとつの方法だけれども、農村は誰でもやっているんだから、漁村をやってみないか」と言 われました。参考文献はほとんどありません。調査地域は、江の島、片瀬、腰越といったところで した。田辺先生はそのあたりに別荘を持っておられて、住んでおられたことがあるということでし た。それで、先生はその漁村の社会調査をやってみたいという気持ちがおありだったのだと思いま す。私はわけも分からないままに、調査に参加することになってしまいました。現在でもそうです が、そのあたりは海水浴場です。ですから、他の学生たちも、海水浴ができるということもあり、 参加したということです。 調査ですから、当然、調査票が必要になります。調査票は、卒業生の大先輩で、民俗学者の方 (関 敬吾先生)が「漁村」をやっておられたということもあり、その先生が作成された調査票をも とにして作成しました。しかし、江の島、片瀬、腰越の地域には当てはまらない調査票でした。で すから、使いようがありませんでしたが、曲がりなりにもそれを持って、調査に出かけることになりました。でも、ほとんどの学生は、むしろ海水浴の方が主だったものですから、海水浴をやっち ゃあ疲れて帰ってきて、かつおの刺身で一杯やるというような繰り返しの合宿をしておりました。 だから遅々として調査が進まないという状況でした。 一方、田辺先生は宿舎におられて、社会学の話とか世界情勢の話をされていました。当時は、占 領下で、日本はたいへん不自由をしていた時代でした。食料難の時代でもあり、世界の食料の話か ら原爆の話まで発展するのですが、漁村とはなんら関係ありません。そのような状態ですから、漁 村調査は思うように進みません。このままいったら1週間、いや10日経っても、その三地域の調査 は進みません。さすがの田辺先生もこれはどうしたものかということで、夜、みんなが寝た後、な ぜか僕を起こされました。私の他に、5年前に経済学部の教授を退任された菊浦先生が、学生とし ていまして、菊浦君も私と同じ学年でおりましたから、その二人と、先生方、米林先生、フランス 語の福鎌先生、福鎌先生はフランス語の先生ですから漁村の調査はほとんどやらないわけで、そう いう面々の中で、どうしたものかということになりました。私も、これはいつまで経っても漁村の 調査は終わらないそ、という気持ちを持ちつつ、黙って先生方の話を聞いていました。しかし、先 生方の話が、調査とは関係のないことばかりで、さっぱりまとまりません。それで、仕事をするな らそういうことでは駄目で、段取りがあると思っていたところに、「君、黙っているけれども、君な らどうする」と尋ねられました。「私なら、学生を5人預けていただければ、1週間で終わりますか ら」とはったりで答えました。すると、田辺先生は「お前やれ、他の者を帰そう」ということにな り、選んだ5人を残し、他の者は次の日には帰されたわけです。 それが大学の2年の時です。旧制ですから、また、その頃の学生というのは復員の学生がたくさ んおりましたので、みんな年をとっておりました。残った5人のなかには、海軍少尉で復員してき た人などが含まれておりました。そういう人達と「じゃあどうしよう」ということで、とにかく漁 業協同組合員の家族の実態とそこでどういう漁業形態をやっているかということだけでも押さえよ うじゃないかとスケジュールを立て、確か5日間でその地域の調査を終えたと思います。「これでい いのかな、悪いのかな」という判断はつかなかったのですが、それは神奈川県の仕事でしたから、 その調査はまとめられて本になっております。その後、私は、現在防衛大学のある鴨居というとこ ろで、鯛の一本釣りの調査をやらせて頂いて、神奈川県の漁村調査報告というものに出させていた だいております。それがとにかく私の大学に入って社会調査をやった始まりです。
3.社会調査の基本
その当時、漁村調査の参考文献になるものはほとんどありませんでした。参考文献がありません から、自分で考えざるを得ないということです。だから現実の対象者から調査を学ぶということを せざるを得なかったのです。社会調査の本は当然その頃一冊もございません。授業にも社会調査と いうのはありませんでした。若干の社会調査の本といえば、戸田先生の『社会調査』という本が出 ていました。あるいは、『農村に関する社会調査法』というのを鈴木榮太郎先生が出しておられました。しかしその頃は、学術書というのはほとんど出版されておりませんでしたから、それを手に入 れることは大変なことでした。塚本先生からだったのでしょうか、ぼろぼろになった本をお借りし たという記憶がございます。そういう時代でございますので、自分で考えて自分で調査する、調査 対象から学ぶということであります。それが、「悉皆調査」をやらなければ、という気持ちにもつな がってくるのだろうと思います。 それからもう一つは「必要性」ということです。太平洋戦争の前は日本は世界一の水産国であっ たわけであります。占領政策の中にマッカーサーラインというものがありまして、敗戦によって世 界の海から閉め出され、日本の出漁範囲というのは日本列島沿岸5海里以内と限られたわけであり ます。日本の国民のタンパク源というのは、ほとんど漁業から供給されておったわけでございます から、沿岸漁業に限られてしまいますと、日本の国民のタンパク源を、この狭い国土からどうして 得るのかということになるわけです。急にヨーロッパ、欧米のような畜産に切り替えるというわけ にはいかないわけです。こんな狭い国土でありますから牧畜・畜産というようなことは到底考えら れないわけでございます。 かつての世界一の水産国であった日本の漁業とは、どんどん生産高を上げていくという略奪的な 勢いを持った漁業だったのです。「獲る漁業」ということでありましょう。そこで、田辺先生がおっ しゃるには、「もはや日本では、獲る漁業はできないから、むしろ『育てる漁業』というものを考え なきゃいかんだろう、それには沿岸漁業というものを大切にして、その実態から漁民の生活実態と いうものを調べておく必要があるんじゃないか、社会学ではそういう貢献をしなきゃいかんだろう」 とのことでした。その当時、先生は水産大学の講師を兼ねておられました。ですからそういう影響 もあったんだろうと思うのですが、とにかく、漁村研究を東京に近いところからやろうじゃないか ということで始められたことなのです。それに第一に関わっていったのが、学生である私であった わけです。それが漁業との運命的な出会いになったわけでございます。 4.東北大学での「三陸調査」 経歴に書きましたが、それから私は、東北大学の竹内利美先生に師事しました。この先生の著作 は、若干漁村に関するものがありましたけれども、系統だったものではないのです。しかしながら、 調査に非常に詳しい方でございました。その先生の下で、ここでは、東北・仙台でございますから、 三陸の調査を宮城県、岩手県で実施していくことになりました。そこで先生の影響を受けまして、 体系的な勉強はできなかったのですけれども、先生の豊かな知識の中で、調査をやるわけです。竹 内先生の専門は、漁村だけではございませんで、山村、農村ということについて有賀喜左衛門先生 の系統と学風を持っておられました。日本水産史といいますか、漁村史というような系統だったテ キストはございませんから、系統だって勉強することもできませんでした。竹内先生のおっしゃる ことも、その体系においてどういう所でどういう位置にあるかということがなかなかつかめなかっ たのです。先生と調査に一緒に行き、その質問を聴いていても、その意図が理解できず、その質問
がこの村落構造とどういう関係があるのかということをなかなかつかめなかったのです。 水産史というのは漁業生産手段の形態の変遷をとらえることが大切で、漁船、漁具、特に網の歴 史です。これはわら網、麻網から綿糸網になり、それから戦後はナイロン、合繊という形に展開し てくるわけなんですが、綿糸網になったというのは「大革命」ですね。そういう網の歴史というも のは、やっぱり分からないとまずいわけです。網も大変なお金がかかるものでありますから、ここ には農村とは違った組織があります。漁船も大変お金がかかるものです。漁船の種類も、手こぎの 船、帆をかけて5人、6人の櫓でかく手こぎの船、それから焼玉エンジン船、ディーゼル船になり、 電気着火船になる。そういうような形で展開していくわけでありますが、漁船を持つということ、 それ自身が一つの組織になります。村の組織であります。網を持つということも組織です。持つ者 と持たない者、これは農業村落の地主、小作とは違った形になります。それから、漁獲したものは、 これは売らなきゃ金にならないのですから「流通過程」というのがそこにある。それも一年かかっ て収穫をあげて、という稲作とは違います。その日の内に商品化してしまわねばならない。あるい は干して「乾物」にして商品にする。そしてそれを買い上げる商人がいるというような構造を持つ わけであります。ですから農村の構造をそのまま漁村に当てはめるというわけにはいかないのであ ります。 また、各漁村、漁浦によってそれぞれその漁業形態が違います。と言いますのは、「共同漁業権」 と言いますけれども、地先の海の状況で、海流の関係、気候風土、それからもちろんプランクトン の関係がありますから、そういうものを醸成するための、地先の魚礁といいますか、海底の地形が 大きなウェートを持っているわけです。ですから隣の部落と比べましても、漁業形態が全く違うこ とがあるのです。 私が、東北大学で最初に対象にしたのは、現在は原発で有名なところとなっているのですが、「女 川」という所です。その女川のすぐ近く、牡鹿半島の裏浜に属する五部浦という一つの湾です。戦 争中は特殊潜行艇の基地にもなったくらいリアス式の非常に深い所で、小さな湾でありますけれど も、5つの部落がそこに点在しているわけであります。そこの部落を全部調査したわけであります。 その一番奥が野々浜、そして横浦、大石原、飯子浜、塚浜という5つの部落が、わずか2キロか3 キロぐらいしか離れていないのですが、隣の部落というところでも、地先の地形や海流の関係によ って、そこの漁業形態がみんな違うのです。ですから、湾の口にある所の村と一番奥の村とそれが 歴史的展開の過程で、変わっていく「質」も違っていくのです。一番奥から沿岸漁業がすたれ、遠 洋漁業の従事者が出ていくわけです。そこで、いわゆる漁業資源が枯れてくるという問題が出てき ます。そこで、中間に属する部落は牡蠣養殖ということで養殖業に転換していきます。ただ湾の口 にある所は未だに磯漁に、漁業資源が豊富なものですから、そのまま残って豊かな沿岸漁業を営ん でいるというようにです。展開過程がわずか二、三十年の間にも、その漁業形態がどんどん変わっ ているのです。ですから、これは「沿岸漁業とは」、「漁村とは」という形で簡単に集約してしまう わけにはいかないのだと思います。ですから、私は5つの部落を丹念に調査するということになり
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ます。そこで漁村の調査は、悉皆調査をやらなければならないと考えたわけであります。わずか2 キロか3キロしか離れていない隣の部落でさえも、考え方も、信仰形態も、そこに祀る氏神の祭祀 行事の形態まで違うのです。 このような状況でありますが、小・中学校は皆同じ学校に通うわけです。隣の部落同士で、子ど もたちは仲が悪いのです。他の部落の奴らがそこを通ると皆けんかをするというようなことで、船 を出して通学をするということにもなったのです。 非常に特色のある小さな湾でありましたけれども、私は、そこで十分学ばせていただききました。 その時は、竹内先生の指導もあるのですが、それはそれなりに、自分たちで考えて調査をやってい きました。共通していえるのは、「漁業形態の変遷」ということが一つのテーマになります。それと 村落体制、村落のあり方、その変動過程、動くものと動かないもの、動かないものは何か、動くも のは何か、漁業形態の変遷によって動くものはないか、それから、言うなれば地先の漁業権の用益 価値です。地先の海の豊度というものによって、その村落体制が対応し、漁業形態、漁業組織も対 応する。それから村落の組織もそれによって変化する。動かないものもあるし、あるいは共通する ものもあるけれども、そういう形で漁村は展開するのだということを勉強させていただきました。
5.社会鯛査と自然的条件
それから、一般の社会調査というのは自然的条件というようなものはあまり要素に入れないもの です。けれども、「漁村」の場合、「農村」をやってる人もそうなんですが、やはり自然的条件、す なわち気候風土を第一に考えなければならない。農村ですと土壌の関係と利水の状況とか、漁村に なりますとそれは海流の関係、プランクトンの関係、水温の関係、それから地先の海底の関係です。 それから陸上の地形も、森林も大いに影響するわけであります。それに加えて、漁業形態が対応し ますから、網漁業なのか、あるいは漁船漁業なのか、漁船も大きいものか小さいものか、沖合に出 る必要性があるかないか、などです。牡鹿半島には表浜と裏浜がありまして、表浜は早くから造船 業が盛んです。黒潮に洗われる所なのですが、早くから漁業資源が枯渇しているのです。裏浜は寒 流が入ってくるものですから、漁業形態はそのまま維持しているところもありました。牡鹿半島の 中でもいろんな漁場、漁業が点在する、あるいは沖合漁業までいく、あるいはそこで造船業が発達 するといったように、海面の地形、自然的な条件によってその発展過程、展開過程が違うというこ とを、そこで勉強させてもらいました。 この最初の、竹内先生の指導の下にやった、調査というのが私自身の本格的な漁村調査における 出発でもありました。ただ系統的ではありませんでした。ですから、まずはじめに自然的な条件、 海面の条件です。それから生産手段であるところの漁船、漁網、それをどのように村の人間が扱っ てきたか。それは持つ者、持たない者があるわけですから、資本のあるところでは大きな船を造る、 あるいは優れた漁網を買い込んで網を張ることができるわけですけれども、資本のないところでは それはできないということです。しかし、それは流通過程の人が対応する場合もあるし、漁業から離れた人が網主になったりする場合もあります。それから、漁家が共同して持ち合うこともありま す。これは戦後、漁業協同組合が共同漁業権を管理するというようになりまして、共同化というの はあちこちで進んではおります。山を持って陸上の生産基盤を持っている地主がいたり、大きな町 では個人持ちという形で網持ちというのがいて、それが支配をする。陸上の生産基盤も含めて支配 するということです。それが行政上のことに及んでくるということにもなります。 それはさておいて、そういう形で沿岸漁業に閉じこめられた日本であったわけですが、講和条約 が発効いたしまして遠洋漁業が解禁になるわけです。そういたしますと、「待ってました」とばかり に日本の漁業は遠洋漁業として展開いたします。それで一番初めの方に展開したのがマグロ漁船で、 マグロ漁業です。これは、南下して南洋群島といったところが主漁場でありますから、そこを起点 にいたしまして、東に行くところと西に行くところ、これはインド洋まで行く、マダガスカルまで 行く、というふうにです。更に南の方に行きます。そうすると、オーストラリアの南まで拡張いた します。そうしてマグロ漁業を中心に遠洋漁業がまた、世界の略奪漁業ではありませんが、世界に 展開するという状況が間もなくやって参りました。 6. 「地域開発」との出会い それと同時に、日本は朝鮮戦争を契機にして重工業化が進展します。これは内面の陸地の工業開 発を進めるのではなく、海を埋め立てて工場用地を確保しようとするものでした。特に太平洋岸側 はわりと浅瀬が多い所であります。昔から埋め立てがあったところでございますから、瀬戸内海を 中心に埋め立て工業化というものが進んでいきます。遠洋漁業に転換できるところは遠洋漁業に転 換したののですが、今度はまた別に地域開発ということによって、海面が埋め立てられるというよ うな状況が出てくるわけです。 その頃、私は東洋大学に戻ってまいりまして、東京でありますから、三陸沖に出かけるよりも東 京湾の調査をやった方がいいということになりまして、その時に出会いましたのが「地域開発」と の出会いだったのです。地域開発によって海面が埋め立てられ、そこに工業用地が造られるという ことが、ごくあたり前のごとく日本のあちこちで起きるわけです。特に瀬戸内海、これは戦争中か ら、そういうことが出ておりました。伊勢湾の奥の名古屋市の所には、工業用地を造って「ゼロ戦」 などの飛行機が造られたという三菱の用地がありましたし、それから水島工業地帯、これも戦争中 からです。そういう中で、今までの阪神工業地帯、京浜工業地帯は狭いものですから、重化学工業 の質が違ってくるとともに、専用港などございませんのでアクセスが必要になります。そこで「海 面埋め立て」というのがどんどんされました。すると沿岸漁業が共同漁業権を放棄しなければなら ないという問題が出てまいりまして、漁業補償というようなものが出てくるのです。私が調査した 昭和35、36年頃で、一年間で海苔の養殖などをやっている所は、200万から300万円の年間収入です。 浅草海苔養殖です。そこに100名の漁業協同組合の組合員がいるとします。すると100名全員が海苔 養殖をやっていて、それぞれ区画漁業権を持っている。その人たちが全部はんこを押し、承認しな
いと漁業権を放棄できないわけです。1人でも反対があればできないのです。ですから、全員やる ということになりますが、そこはよくしたもので、漁村では網主、あるいは船主を中心にした、共 同体的なつながりというのが支配しているという形態があちこちにあります。ですから漁業協同組 合の幹部というのは大体が船主であり、網主の人たちであります。その支配層がおりますから、そ れが許せば大体はそれに「右にならえ」で判を押すということが、はじめはあったのです。しかし、 だんだんと地域開発によって補償金の問題が出てまいりますから、「どこそこの補償金はいくらもら ったんだ」というようなことが聞こえてまいります。 ある県を例に取りますと、県は工業開発というものを受け入れる方です。受け入れて、むしろ積 極的に受け入れると、工業開発によって固定資産税が入るということもありますから、受け入れ態 勢を整えるわけです。ですから地域開発はナショナルレベルで進みます。問題は漁民の人が一人残 らず賛成し、共同漁業権を放棄することで、それが開発の第一条件となります。それをやらないこ とには地域開発は進まないわけです。そこで資本の論理といいますか、大手企業が大同団結しまし て、「これでもかこれでもか」という形でその漁村の地域にさまざまな攻勢をかけてくる。「漁民は 宵越しの金はもたない」、「漁獲があったらどんどん使う」、「博打が好き」とかで、観光ホテルを建 てて博打場を造る、娯楽施設を造る、あるいは家を建てる建築会社とタイアップして家を新築する。 漁村の家というのは、ご存じかもしれませんが、非常に狭くて込み入ったところにひしめき合って いるのが普通です。ですから、家の改築をやるというような形でサービスを連携してやるわけです。 某サルベージ会社が埋め立て工事をやっておりましたから、幹部を招待、接待するところも同系列 のホテルです。そういう形で漁村の全員にはんこを押させる段取りをするわけです。そういうよう なことで、漁村はパニック状態になるのです。 「これからそこを開発するぞ」ということになり、そういう情報が流れる。補償金の問題が発生 する。とにかく、海苔の養殖者が400万から500万円、アワビは200万から300万円ですか、寒い時に 海に入り手をあかぎれにさせながら漁業労働をやっているわけですが、よくて200万から300万円の 収入のところに、何千万円の補償金が出るということになりますと、それだけで、その情報だけで 仕事に手がつかない、という形です。そういうような状況が出てくるわけです。 私がちょうど調査をやった時に、富津というところに東洋大学の学生寮がありましたから、そこ を本拠にして社会調査をやりました。富津は非常に豊かな漁村ですから、海苔の養殖もやるし、外 洋に出る船も持ってるし、沿岸漁業もやっているという形で、300近い漁家があった大きな漁業協同 組合がありました。ところが、私の認識不足で、そういう情報が流れているということは知らない で、「漁業振興のためにということで調査をさせていただきたい」と言ったら、漁業振興なんかはそ っちのけの時代だったのです。漁業協同組合の幹部は賛成するために箱根のホテルで宴会をやって るわけです。何でそこにに行くのかな、と思ったら、資本の根は一つのなのです。埋め立て工事を やるサルベージ会社のグループなのです。 日本の埋め立て工事というのは、世界第一位でありまして、水深50メートルぐらいの所はあっと
言う間に陸地にすることが出来るのです。海の中にパイプを入れまして、わ一と混ぜると海底の砂 がど一と上がってくるわけです。それをやることができる技術を持っておりますから、そういうこ とができるわけです。 そういうのが一体になって、観光攻勢をやるわけです。ですから、幹部の人たちはもう漁業振興 とか漁業の技術の研究とかというものはそっちのけであったわけです。そのような時に「漁業振興」 と、間抜けたことを言いながら調査をさせてもらおうとしたら、調査自身が「お断り」でした。「何 しに来たんだ」、「反対運動を仕掛けに来たのか」ということでございました。その時には「博打場 のある観光ホテル」も出来ておりましたし、それから大体、漁業共同組合は金融機関もありますか らいろいな漁業資金を貸し付けます。ですから、そういう貸付業を通して家を改築するなど、うまく やっているわけです。 うどん屋に入って聴きましたら、「このごろは、食う人なんかいないんだ、ほとんどがぜいたくに なったんだ」というようなことなのです。そういう情報が流れたことによって、もう漁民の人たち は、仕事が手につかない、補償金を何千万から何千何百万円に上げるんだとか、隣の木更津市の情 報とか、そういう漁業補償の情報だけで動いてるという状況だったのです。 7. 「漁村」「生活」の重み忘れた漁業補償 これは何も東京湾だけじゃないです。そのころに、私たちは、磯村先生の関係もありまして、地 域開発の調査をやらせていただきました。その時、私が「さすがだな」と思ったのは、運輸省が漁 業補償などを出したり決めたりする。沿岸漁業に関することは港湾建設局が担当で、そういう仕事 をやっているのです。ですから、「なるべく安く漁業補償をやりたい」というのが政府機関の頭にあ ったと思います。また、そこにどういう企業を貼り付けるかというようなことは経済企画庁です。 通産省もそれに対応するという形で、三省が地域開発の前には一つになってやるわけであります。 その時に直接の関係のある所は港湾建設局です。そこの調査でもあったのです。さすがに「反対の 立場に立っている漁村の調査をやれ」ということを言ってくれまして、「それはどんな方法でもいい か、どういう考え方でもいいか」、と私達はむしろ「漁業を守る、沿岸漁業を守る方の立場で調査や ってもいいか」と言ったら、「それでもいい」ということでしたから、非常におおらかな調査でした。 宇部からずっと回って、下関を通って大分県までです。世界最大のコンビナートが造られる予定 でした。鹿島の十何倍の最大出荷量ですから、そういう規模で計画するということがあったのです。 そういう調査を、「沿岸漁村の調査を含めて考えろ」ということがあったわけです。むつ・小川原の 地域開発が頓挫いたしましたので、幸いなるかな、それに連動して周防灘の世界第一位のコンビナ ートは造れなかったわけです。 その調査の時、ヘリコプターで上から見ますと、地域開発が瀬戸内海のあちこちで工業開発とし て行われ、いろいろな重化学工業が林立しているわけであります。まさにその時に濁った水が関門 海峡から出ます。そうするとそれが出てしまわないうちに、今度はまた満ち潮となって入ってくる
というような状況です。ですから、これは漁業者自身も売れる時に海を売っておいた方がいいんじ ゃないかという考え方もでないことはないのです。 それから、船に乗って見させていただいたことがあるんですが、いわゆる刺し網です。刺し網を 引き上げますと、そこに刺さってるのは魚、車エビ、高級魚と同時に、空き缶とかゴミとかそうい うものがどんどん詰まっているのです。でありますから、これは漁民自身が「高く売れる時に売っ てしまわなければいかんな」という考え方になるのも無理はないなという感じがしました。漁民の 苦労も、商業であり、商売でありますから、収入がないと困る。「高く売れる時には少しでも高く売 りたい」という気持ちは起きます。漁民自身も売ること、あるいは漁業から離れることに賛成をし ているような状況、漁業権放棄に漁業者自身が同意をしている面も無きにしもあらずです。 また進学率が高くなっていくと、親は小学校もろくすっぽ行かないで漁業に従事しているケース が非常に多かったのですが、子どもは高校にやり、大学に進学させるというケースもあって、「漁業 補償によって経済的に豊かな生活をするということも考えないではない」ということです。「漁業を 続けたいですか、止めたいですか」というようなことを質問いたしますと、「どちらでもない」とい う返事。「なぜですか」といいますと、「子どもを学校に行かせて普通の職業に就かせたいんだ」と いうのも圧倒的に多かったです。「明日どういうものが獲れるかということが分からない商売だから、 漁業から離れる」ということもあります。それから、進出した企業は、大体大規模な重化学工業で ありますから、そこで漁民の人を使ってやるといいましても、大体年寄りはもう全然使ってもらえ ません。若い、気の利いた人で大体守衛になるか、あるいは倉庫番になるかぐらいです。発達した オートメーション化された企業の中で技術者としての位置づけなんかは到底ないわけです。ですか ら、漁民の人が、漁業補償をもらった上にそういう仕事にも就くことが出来るんだぞというのはま やかしであるということが、だんだん分かってきまして、反対運動もわりと組織的になった。それ から、地域開発の計画もそれ自身が「むつ・小川原」で止まってしまいました。ですから、沿岸漁 業での漁業放棄というものは一応落ち着いてしまったわけです。 私が漁村の調査をやるこのころは、ほとんど全ての沿岸漁村は漁業権放棄の問題、漁業を継続す るかしないか、後継者の問題、こういったものと突き当たらざるを得なかったわけですから、純粋 な、いわゆる沿岸漁業をやっている漁村にはなかなか行き当たることはできなかったのです。 地域開発の問題と、漁村をどうするかという問題が大きな課題となっていた時代でございますが、 その時の漁業補償の問題というのは、全く資本の論理の中で組み立てられていたということであり ます。もちろん「国益」ということでいろんな影響を及ぼすということ、コンビナートを造って生 産を上げるんだということも、これはまさに日本の経済構造を変える意味では大切なことではあり ます。ところが、漁業補償の問題は、漁獲高が基準になるということなのです。いわゆる「量」で 計って、それの何年分というかけ算でやっていくというような補償しかやってないのです。 漁村というのはそこに海があるから、そこで生活できるから、魚を獲って生活ができるからとい う、その「質的な問題」は、無視されておったということであります。何年間の平均値を取って、
それにかけるいくらと、それも大体5年か6年、それでも額としては大きいです。まあ、宝くじが 当たったような感覚になるのでしょう。「それがあったら」という形で、それ自身漁民の心に平常心 を欠いているわけであります。補償金が高くなることだけを狙って、ここの漁業をどうしたらいい のかということはそっちのけになってしまうということでもあったわけで、それが一つであります。 8. 「日本の海であるけれど、世界の海だ」 それから先程も言いましたように、マッカーサーラインというものに釘付けされておったのが、 開放されて、東に西に、日本の遠洋漁業が拡大していく。そこで日本のまた悪いところが出てくる わけでありますが、例えばサケ・マス漁です。これは小さなサケ・マスは獲らない、だからそれを 積んでおった船は検査されて違反だということにされるものですから、今度は、刺し網で獲るので すが、大きいものだけ残し、小さいものは捨ててしまうのです。ただ獲るのは同じで、もう死んで いるものですから、日本の漁船団が行った後には、小さなサケ・マスの死体が浮いてるというよう な状況が出てくるのです。 こういったことも200海里を規定する、海は世界のものなんだという考え方等を助長することにな ったと思います。今、200海里時代という形で規制されておりますから、そういうことはないと思う のですが、やはり、これからの漁村というのは、「自分たちの海」ではなくて「日本の海であるけれ ど、世界の海だ」という認識を強めないといけないということも一つ、反省としてあるのです。 こういう形で日本の漁業というのは、「獲る漁業」から「作る漁業」へ展開する。ただ「放牧漁業」 というのもありまして、いわゆる養蓄です。小さいものを獲ってきて育てる、しかしこれは相当な お金が要りますから、漁村対策としては対応できません。ただ丸紅とか、大きな企業がそういうこ とをやってくれて、やっているところもあるのです。蓄養する、育てるという、そういう漁業とい うものもぜひ、これから必要であるし、研究しなければならないということです。 いまだに、漁村というものは、漁業自身の側にもいろいろ問題があり、養殖漁業そのものにも問 題があります。これは、えさを使って太らせるものですから、それ自身の中にも海を汚す状況があ るのです。海を汚すのは、何も工業汚水・排水だけではないのです。ですから、漁民自身も「世界 の海だ」ということの認識を持たなければならないということでございます。 9.共に生き、考える「社会調査」 私が経歴表に書いておきましたのはほとんど漁村の調査なのですが、実際は、大体これの倍ぐら いの調査をしております。書き物になったり報告書になったものが大体この程度あるということで ございます。 漁村に行って、まとめることは必要なのですけれども、社会学者は一応検証することも必要なの でありまして、漁村民とともにそこの海のことを一緒に考えるということも調査の一つの目的では あるのです。行って、すぐきれいにまとめて論文にするのも必要ではありますけれども、一緒にい
つも海を考えようということも、我々漁村調査をやる者にとっては必要なことだというように思っ ております。ですから「乱獲」、それから「公害」の問題、いろいろ口で言うのも必要ですけど、一 緒にやって生活を考えるということも調査の一つの目的ではあると思います。漁村は、先程言いま したように、一つ一つ個性がある、違いがある、発展過程が違う、だからそこに住んでいる人たち も考え方も違う、ということであり、断片的に各地域の漁村調査をやって、「これが日本の漁村」だ というわけにはいかないのです。こういう形態の所にはこういう、こういう状況のところにはこう いう漁村があるんだという、その状況をきれいに分析をしてですね、そしてそれを日本全体の漁村 のなかに位置付けなければならないということでもあります。条件が整えば同じようなものも考え られると思うのです。そういう漁村調査を通して、やっぱり個別的な調査、悉皆調査というものが 大切だということを私は考えているわけであります。
10.残された課題:体系的全国漁村調査
それから私は、農村調査の大家で、地域調査では日本の第一人者でありました、鈴木榮太郎先生 にも東洋大学で師事しまして、教えていただいたわけですが、その時に「漁村の調査をやるのはい いんだけれども、体系的にやっている人は少ないんだから、全国の漁村をやりたまえ」って言うん です。ただ全国の漁村となりますと、漁業協同組合の数だけでも大変な数です。しかし、「これは大 変だけれども、これはできるだろう」と。「その漁村に、漁業協同組合、すなわち掌握している漁業 権を保持している漁民達はどこの漁場を使って漁業をしているか、そしてそれはどこで水揚げをし て、どこでお金に換えてるか、ということ。そのために必要な漁業形態と生産手段、船を使ってい るか、網を使っているか、その漁業組織、それぐらいのことは全国でできるでしょう」というよう なことで言われて、そのことに着手しようと思って、全国の漁村のリストアップだけはしたのです けども、それは一向に進んでおりません。 いまだに個別的な調査をやらせていただけるところに調査に行くということであり、漁村の研究 者は、大体みんなそういう方法を取っているのですけれども、必要に迫られて個別の調査をやって おるわけです。だから、系統だった全国調査というものは、これはやはり、まずやらなきゃならな いことだなと思っております。私は、これから、全国の漁村を少しでも多くやることができるな、 と思っています。まとめるのはその後になりますけれども、せっかくやった所は一応まとめて補足 調査の形ででもやっておきたいとは思っております。11.ブラジル海外移住鯛査
それから先程紹介があったように、きっかけを作って下さる先生方(三原信一先生、嶋 澄先生) がいらしたものですから、1960年代の一時期にブラジルの海外移住調査のこともやっておりました。 しかし、向こうに行っていなければ調査はできませんので、それも中断して、元の「漁村」に戻っ てやっておったわけです。1980年代後半から日系人の出稼ぎ労働者の方が多く日本に来ておられる。日系人ですから、日系 人としてブラジル国籍を持ってる方もいらっしゃいますし、日本国籍を持っている、また2つの国 籍を持っている2世の方もいらっしゃいます。そういうことで日本で働きやすい、比較的他の国の 人よりも働きやすいということで、日系人の方々が労働者としてたくさん来ておられます。そこで 1994年に文部省の科学研究費をもらいまして、ブラジルの移民の調査をする機会がございました。 私は、それ以前に、30年前(1960年代前半)に日本から南米への移住者調査をやった時に、ブラジ ル、アマゾンのトメアスという移住地を対象地として日本で資料を調べていました。その頃はもう 胡椒景気で大変な隆盛を極めたところなのです。胡撤はご存じのように東南アジアが主産地であり ますが、これは偶然でありますけれど、向こうに苗を持っていって植えた臼井さんという方がいら っしゃいました。東南アジアは戦場になっておりましたので世界の胡椒の需要というものをまかな いきれなかったのです。その人の苗が戦争が終わったときに育っておって、その種をまいたところ が、トメアスの地域のものが高値を呼びまして、大変な景気になったわけです。 日本人の悪い癖で、「それっ」というばかりに日系社会のコロニアでは、開拓で切り開いた畑のあ ちこちに、胡椒ばっかり植えたのです。日本でもそうですけど単作ですと、必ず病気が出ます。日 本人はきれいに圃場を整備して、ぴしっとした形で支柱と胡椒を植えるのです。ですから、余計に 病気にかかるのです。アマゾンというところは、いろんな植物が混在して原始林を構成してるので す。ですから、混在していれば病気は発生しないのです。前に、南拓がゴム林を作りましたが、ゴ ムだけを植えたものですから、それは大失敗しました。ゴムと胡椒とパッションフルーッと、いろ んなものを一緒に混在させて栽培いたしますと、それは何とかやっていけるようになるという現地 調査の結果を聴いております。 これからは、アマゾン地域で、出稼ぎしなくても農業だけでやっていけるようになったらいいな、 というように思っておりますけれども、こちらに来た人達に調査をやりますと、「帰りたくない」と いう意見、「日本の方がうんと楽だ」という若者もいます。けれども、心の底では自分たちの故郷で すから、日本人、日系人といえども、トメアスとアマゾンというのが彼らの故郷で農業をやって採 算がとれるというのであればいいな、と思っております。アマゾンの調査で、これまでやりました 所はトメアスという所、パラ州です。モンテアレグレ、これは古い街でコロニアというよりも昔か ら日本人が入っていたところであります。それからアマゾナス州のマナウスの近郊、ベラビスタ、 エフィゼニオ・ヂ・サーレス。これも日本人だけで入植しております。そこで日系人の調査を続け ております。 先程言ったように、悉皆調査といいましても、一部落40軒か、トメアスは354世帯も入っておりま すからこれは大きいのですけれども、その他の所は大体30軒から40軒ぐらいのところです。ただ隣 りといっても日本のようにすぐ隣ではないので、隣が30キロ、40キロ離れていますから、隣りに行 くのも「はい、こんにちは」というわけにはいかないので、調査は大変です。しかし、対象家族が 決まっておりますから、悉皆調査はそう難しいことではないのです。ほんとうは現地の人(エスパ
ニア系)たちの調査もやらないといけないのですが、何しろ、日本語で調査をやるわけで、調査票 はもちろんポルトガル語も持って行くのですが、私は日本語しか話せないので限定があります。け れども、やってるところはきちっとまとめておきたいな、と、「アマゾンにおける日系人の生活実態 調査」というものも「漁村の調査」に加えて、老骨に鞭打って頑張りたいなと思っています。 * * * これからも続けて行くんですが、調査費を何とかしなきゃいかんなと思います。飲むのを少し倹 約すれば行けるかなと思うのだけれども、少しぐらいではだめなんで、みなさん、お付き合いは 程々に願いたいと思います。以上です。 (2000年1月11日・東洋大学白山校舎1202番教室) ※調査研究活動一覧(抜粋) 1952 江の島・片瀬漁村の実態 1953 鴨居における沿岸漁村の調査 1956 漁村災害の実態とその経営におよぼす影響 1957 漁村と新生活 1958 沿岸小漁村における漁業形態の変遷と村落構造 1958 沿岸漁村のモノグラフ∼牡鹿半島裏浜∼ 1959 東北村落と年序組織 1960 海外移住者の社会的背景∼移住動機調査∼ 1962 海外移住者の社会経済的構造(高知県大正町) 1963 合成繊維拡大生産販売のための市場構造分析 1964 地域開発と住民組織 1969 広域商業診断(船橋市商業市場圏調査) 1970 地域綜合計画(静岡県吉田町) 1970 蕨市綜合振興計画(基本構想調査) 1972 地域綜合計画(静岡県菊川町) 1973 臨海地域開発が(地域社会に)およぼす影響と問題点 1974 地域綜合計画(KJ法による地域リーダーの意識調査) 1976 稲作農家の兼業化と家族形態(山形県戸沢村調査) 1980 沿岸漁村と地域開発(福岡県行橋市)
⑭
1980 地域社会計画と住民参加(長崎県市諌早市調査) 1980 沿岸漁村と社会構造分析(愛知県南知多群南知多町篠島調査) 1980 沿岸漁村と社会構造分析(愛知県南知多群南知多町日間賀島調査) 1980 沿岸漁村と社会構造分析(愛知県南知多群蒲郡市佐久島調査) 1981弥彦村∼住民の生活と意識∼(新潟県弥彦村) lg81地域社会計画と住民参加(新潟県三条市) 1982 地域と教育(栃木県芳賀郡茂木町) 1982 地域社会計画と住民参加(保谷市調査) 1982 沿岸漁村社会構造分析(宮城県気仙沼市三陸町越喜来崎小壁漁協一大型定置網調査) 1984 地域社会計画と住民参加 上福岡市調査(その1) 1985 地域社会計画と住民参加 上福岡市調査(その2) 1987 沿岸漁村の社会構造分析 高知県幡多群大月町古講目漁協(大型定置網調査) 1988 沿岸漁村の社会構造分析 石川県七尾市庵漁協(大型定置網調査・その1) lg8g 沿岸漁村の社会構造分析 石川県七尾市庵漁協(大型定置網調査・その2) 1982 地域と教育(島根県鹿足郡日原町) 1991 ヒトの国際化に関する実証的調査研究 ∼ブラジル・サンパウロ市近郊スザノ地区福博村アマゾンベレン市、マナオス市∼ 1992 沿岸漁村の社会構造分析 山口県阿武郡田万川町 1gg4 沿岸漁村の社会構造分析 大分県南海部郡蒲江町(1999年現在継続中) 1994 ブラジル移民および来住ブラジル人の生活構造意識調査に関する総合的現地調査研究 ∼アマゾン地域パラ州トメアス、モンテアレグレ、アマゾン州マナウス市近郊 ベラビスタ、エフィゼニオ・デ・サーレス、各移住地∼(1999年現在継続中) 1995 中山間地農村の社会構造分析(長野県下伊那郡豊丘村、1999年現在継続中) ※藤木三千人教授・略歴 1929.9.16 1946 1951 1953 1955 1957 1959 兵庫県生まれ 青森県立青森中学校4年修了 盛岡農林専門学校卒業 東洋大学文学部社会学科卒業 東北大学教育学部助手(教育社会学研究室勤務) 東北大学教育教養部講師(併任) 東洋大学社会学部専任講師
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1962 1970 1978 1979 1980 1985 1988 1989 1992 1995 2000.3 2000.4 東洋大学社会学部助教授 東洋大学社会学部教授 社会学部第1部杜会学科主任 社会学部第1部社会学科主任 社会学部長に就任 東洋大学評議員に就任 社会学研究所長に就任 東洋大学理事に就任 東洋大学評議員(再任) 社会学部長(再任) 東洋大学評議員(再任) 社会学部長(再任) 社会学研究所長(再任) 東洋大学定年退職 東洋大学名誉教授