• 検索結果がありません。

張文環の従軍演習体験 利用統計を見る

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "張文環の従軍演習体験 利用統計を見る"

Copied!
23
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

張文環の従軍演習体験

著者名(日)

野間 信幸

雑誌名

東洋大学中国哲学文学科紀要

17

ページ

1-22

発行年

2009-03-10

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002436/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

張文環の従軍演習体験

野 間信 幸

 従軍ルポというものは、基調は生真面目なものであり、滑稽さが目立つような作品など存在しない、とこれまで思 っていた。いくら実戦ではなく演習だとはいっても、演習を行っている側は真剣なのであるから、それを報道記録す る側も厳粛な気持ちにならざるをえないだろう。ところが張文環の書いた従軍演習のルポ﹁舎営印象記﹂は、作者の 意図はどうであれ、作中に漂う滑稽さが印象に残る作品なのである。もちろん張文環は大真面目に書いているのでは あるが、それにもかかわらず作品に漂う緊張感は薄いのである。そういう意味で、本篇は異色の従軍ルポといってよ いだろう。  本稿は、一九四一年十二月に発表された張文環の﹁舎営印象記﹂をとりあげ、紹介と分析を試みるものである。 張文環の従軍演習体験

(3)

東洋大学中国哲学文学科紀要 第十七号 二 張文環と﹁舎営印象記﹂  張文環二九〇九−七八︶の﹁舎営印象記﹂は、一九四一年﹃台湾時報﹄十二月号︵十二月一日︶に掲載された。 このころの張文環は、﹁父の要求﹂︵一九三五年﹃台湾文芸﹄︶、﹁山茶花﹂︵一九四〇年﹃台湾新民報﹄連載︶、﹁藝姐の 家﹂︵一九四一年﹃台湾文学﹄︶﹁論語と鶏﹂︵一九四一年﹃台湾文学三等々の作品を発表しており、すでに名の知ら れた作家となっていた。さらに半年前には王井泉・陳逸松らとともに啓文社を設立し、文芸季刊誌﹃台湾文学﹄を創 刊二九四一年六月︶してもいた。  張文環の七十年の人生のなかで、一九四一年から一九四三年あたりまでが、作家として最も脂ののっていたころと 見なすことができる。その時期に書かれた﹁舎営印象記﹂はルポルタージュであり、張文環の本領が発揮される小説 とはジャンルを異にするが、執筆時期ということでは、創作意欲の旺盛なころに書かれた作品ということができる。  ところで、﹁舎営印象記﹂は﹃台湾時報﹄十二月号に発表されたものとは別に、もう一篇同名の作品が同時期に発 表されている。﹃朝日新聞﹄台湾版に掲載された﹁舎営印象記﹂︵]九四一年十一月二六日︶である。  ﹃朝日新聞﹄掲載の作品は、同じルポルタージュとはいえ、﹃台湾時報﹄掲載のものと比べて字数が極端に少なく、 速報性を重視した構成になっている。そのため後日の﹃台湾時報﹄のほうが中身は詳細であり、具体的な描写も多い。 両者に内容面での矛盾は見られないが、作品としての魅力は﹃台湾時報﹄の方がまさる。そこで本稿ではもっぱら ﹃台湾時報﹄所載の﹁舎営印象記﹂を対象として考察を加える。  そもそも﹁舎営印象記﹂の報ずる軍事演習とは、台湾の北東部に広がる宜蘭平原で、一九四一年十↓月十四日から 十六日にかけて、宜蘭・羅東・蘇湊の順に行われたものである。十四日は宜蘭市外の堤防︵写真①︶で、翌十五日は

(4)

羅東街外で、

]滅ポ

轡〆  、S P レ亘ざ・

断﹃冶60辱   1 ﹁      1

ザ﹃㎡

今#     } ;L’^1噛\、  1    へ.         ト t>    ㍉  ;   統’  ,    ・     ’    ]興害    、3旦’     1

麹ぶ譲ごil

、鋤r㌃ さ ら に 翌 は 蘇襖 市 外 で行 わ れ て いる o  剖 くぶ 4云屡 鵠.    せ。 そ畢.

I  pme制・∼.ご鵬槌・

』≧

鵬ト讃犀     ■》 Σ_.,_一

ゲ人ぷ

_蹴’宜

.ノ’IL}s  、su x “o

Ln

k

 Ω’㍗ 雲鼓声  宇

饗誕準

匝野   頂’鳩嶽口ぱノ  レ

 標題にみえる﹁舎営﹂とは、 対義語といえよう。宜蘭平原で演習を行う兵士たちは、 という仕組みになっていた。よって張文環のルポルタージュも、

       ー

..拶 

  宿泊したりすることをいい、露営や野営の         それを張文環たちが報道する 軍隊が民間の家屋などで休養をとったり、       前日から民家に宿泊しており、       十三日からはじまり十六日まで続くことになる。 張文環の従軍演習体験 三

(5)

東洋大学中国哲学文学科紀要 第十七号 四   二 張文環の動き つこう四日間の張文環の動きは、 作者自身の心境の変化も併せ記すかたちで、以下のように展開してゆく。 ︿十一月十三日﹀  台北から午前九時三十分発蘇漢行きの汽車に乗り、 十二時過ぎ宜蘭駅到着。市役所で昼食を食べた後、 孔子廟︵写真②︶へ行き取材する。  初日の張文環は、引っ込み思案で内気な姿を晒し ている。まず宜蘭に向った車中では、﹁本誌に命ぜ られたま・引きうけたもの・、自分なんかのやうな 痩馬が果してこんな所に出てきてい・ものかどうか と、些か反省させられる所があるのである﹂と、も のおじする気持ちが隠せない。  さらに午後の孔子廟での取材で、意気込みが空回 りしてしまい、﹁私は心の中で不慣れな商売に少し 閉口してしまつた.、急いで宿屋に戻つてくると今度 は独りでは出ないことにしようと思﹂うのであった。 地図2 日治時期台湾都市発展地図集(南天書局)より

(6)

こうしていくぶん意気消沈して、初日を終えるのであった。 ︿十一月十四日﹀  午前中、舎営の葉氏宅などを見てまわり、城陸廟︵写真③二畏の長屋に住む元志願兵を訪問する。午後は宜蘭市外 の堤防で演習を見学する。夕方、大山氏宅での座談会に出席、五時すぎ荘天禄氏宅で兵士たちと夕食をともにする。  二日目を迎え、張文環はいくらか落ち着きを取り戻してくる。舎営宅を訪問して、﹁お正月が来た気持で一家総動 員で準備にとりか・つてゐるのである。また附近の内地の御婦人に手伝つてもらつたり、布団を借りたりすると云ふ ことは正に台湾一家と云ふ歴史をかざるにふさはしい一頁と云はなければならない﹂と感想を述べている。  また、軍事演習の見学後には、﹁観衆は最初運動会を見にくるやうなかるい気持でゐるらしかつたが、戦闘が開始 されるのをみると俄かに緊張してきた。殊に三時頃に於ける敵前上陸は思はず胸が一杯になつて目がかすんでくるほ ど、勇士達の果敢な進撃に胸を打れて泣いてるものもゐたやうである。伝馬船から河に跳び込む兵隊の顔は真剣その ものである。その顔が国を守り、国のために開拓するのである。それが観衆の心を動かしたのだと思ふのである﹂と 記す,二日目は、演習見学を境にして取材が軌道にのってくるのであった。 ︿十一月十五日﹀  早朝、部隊の移動を宜蘭の大通りで見送り、昼前に宜蘭駅から汽車に乗って羅東駅に向う。羅東では郡役所︵写真 ④︶で昼食をとり、宿舎に予定されていた工業会社倶楽部に向う。その後羅東の舎営宅を訪問し、午後三時半から羅 東街外での戦闘演習を見学する。 張文環の従軍演習体験 五

(7)

東洋大学中国哲学文学科紀要 第十七号 ノ、  この日は、早朝の部隊移動を見送ったあとの記述に、張文環の高揚感がよく表れている。﹁今朝自分の家から出て いつた兵隊、それは天皇陛下の兵隊であり、自分の同胞だ、自分の兄弟だ、と云ふやうなちかしい気持と喜びを宜蘭 の本島人が始めて直かに感じたのだと思ふのである。部隊の後ろ姿が遠くなつていつたにも拘らず舎主の喜びの色が まだはつきりと顔にのこつてゐるのを私は見のがさなかつた﹂という具合である。  当夜は・・維東で宿泊するが、張文環は﹁明日はもう汽車ではなく、小林部隊の後ろについて、蘇襖に行くことに決め た﹂と述べるのである。三日目になると張文環にも落ち着きが出てきた模様である。ルポルタージュにも、手際のよ   .,、4パ

⋮鍵額

     コドぐ

魏灘蓮

 蓑違寸   . 鳩A1ges 妻,存

蕎難

 パ∀⋮、 E\’       x’: ’醐   二㌣      ,反 s      コ1   、、 書芸吉,

灘懸

︰+ヨ珊. 籔.、鷲 、牢

漿露

 ♂,.、、鎗“ ‘べ1ラ琴 $i㌧∀. L ユ‘    コニ ゴ十四、,

鷺蒜蕾酬麗

頃実毒晋ミ璽嵩   藻匡箪蓋辛墜一拾墓㌫ 印副所東京交通鮭印刷所  鷺存高東束女通敢 篇達、木葺佗∠. ‘■ ∵璽、 地図3  一  』 ・・tn『”.・ _研せ捻.;儂㌻庁遮己、こ三;事灘一・ 日治時期台湾都市発展地図集(南天書局)より

(8)

い取材ぶりがうかがえる。 ︿十一月十⊥ハ日V  羅東から自転車に乗り、﹁羅東の連山﹂︵写真⑤︶を眺めつつ、部隊の移動についてゆく。冬山国民学校︵写真⑥︶ では、官民合同の歓迎会が催された。その後武著橋︵写真⑦︶を渡り、新城に入る。さらに蘇漢市外での演習を見学 してから、蘇漢国民学校︵写真⑧︶で休憩をとる。午後二時ごろ蘇襖駅︵写真⑨︶から汽車に乗り、部隊とともに帰 路につく。  最終日は、冬山国民学校で催された歓迎会の感動が際立っている。ちなみに﹃朝日新聞﹄の﹁舎営印象記﹂では、 大半が冬山国民学校でのルポルタージュになっている。﹃台湾時報﹄においては、﹁小林部隊長の命令で大砲が三発放 マて された。これは軍事思想の普及のために資したことは云ふまでもない。私は武人としての小林部隊長の細かい心つか        ママ ひに感激したのである。これとい・対象だと思つたのは、連絡兵が休憩所に這入つて来ないのを見と“けた本田郡守 が青年団員に命じて、机に並んでゐる一人分の蜜柑と菓子を持たせたと云ふことである。文武ともにこんなに細かい 心づかひをみてゐるやうなかんじで、たのもしいと思ふのである﹂と記す。  帰路の車中で、小林部隊長に呼び出されてねぎらいのことばをかけられる。そして﹁今までの生活は何か知らまが ぬけてゐたやうな感じがした、家にかへるのがうつろな氣がするのだつた。男はやつばり一度は戦場に立つべきだと 思ふのだ﹂と記して、本篇をとじるのである。最終日は、感動と決意の日になった、といえよう。 張文環の従軍演習体験 七

(9)

東洋大学中国哲学文学科紀要 第十七号 八    三 本篇の特徴  ﹁舎営印象記﹂は、﹁男はやつぱり一度は戦場に立つべきだと思ふのだ﹂という文で締めくくられる。この文言か ら推察して、本篇では軍事演習の様子が感動的にレポートされているだろう、と想像してもおかしくはない。しかし その期待は裏切られ、軍事演習の内容はほとんど記されないのである。  軍事演習は宜蘭︵十四日︶、羅東︵十五日︶、蘇漢︵十六日︶の各地で行われた。三回のうち、宜蘭での演習が十六 行にわたって記述されているものの、羅東と蘇漢の演習内容については描写がみえない。  ﹁舎営印象記﹂には、従軍ルポらしからぬ雰囲気が漂っている。その原因のひとつに、軍事演習の中身をほとんど 報じていないことがあげられよう。  軍事演習が記述されない分、本篇では﹁舎営﹂を提供した民間人の様子がよく描かれている。﹁舎営印象記﹂の作 品としての特徴は、一般の人々の姿を描写したところに認められるのである。  では張文環の取材した一般の人々は、どのように描かれたのであろうか。作品中に登場した人々は、子供から老人 まで年齢層はじつに幅ひろい。しかもそのなかに印象に残る人々が、ずいぶん登場する。     ︵一︶正直な保育園児  十一月十三日に宜蘭の孔子廟を訪れたときのことである。朽ちかけた孔子廟であったが、廊下の一部が仕切られて ﹁保育院﹂として利用されていた。そこでは園児たちが遊戯を教わっていたので、張文環はてっきり演習に来た兵隊 に披露するものと思い込んだのであるが、じつは別口の用途があった。冒頭からつまついてしまい、そのまま歯車が

(10)

かみ合うことなく、張文環のインタビューは空回りをはじめる。  この子供さん達の家には兵隊さんが泊りますか、ときいてみたら、その女の先生らしい女性は弱々しい声で、こ の人達の家は貧しいから泊つてもらへないのです。︵中略︶私はそばにゐる娘にあなたの家は?ときいてみた。﹁隣 に腸チブスの患者がゐるので泊りません。﹂︵中略︶女先生は私と云ふ閲入者が面倒くさくなつたのか、﹁そんなこ とは町の世話役にきいた方がくはしいと思ひますが。﹂と私に云つた。  子供の口から﹁舎営﹂を語ってもらおうと期待したのであろうが、正直な子供は﹁隣に腸チブスの患者がゐる﹂と 明かしてしまった。この園児よりさらに輪をかけて正直だったのは、子供のことばをそのまま記録した張文環であっ た、ともいえる。    ︵二︶阿片中毒の人々−その一 宜蘭での二日目、十一月十四日に張文環は元志願兵の李天賜宅を訪れ、 インタビューを試みている。  城陛廟の裏のじめじめした長屋に住んでゐる李天賜氏を先に訪ねることにした。今年七十一になるお爺さんで、 阿片を吸つてゐるせゐか痩せこけて、頭がもうろうとしてゐて、云ふことが要領を得ない。︵中略︶何をきいても 同じことばかりくりかへすのである。今日兵隊さんが宜蘭へ演習に来るのを知つてゐますかときいたら、人からき いて始めてわかりました。演習を見に行きますか、﹁うん、私は阿片を吸つてゐるんだ。で行けたら行つて見よう 張文環の従軍演習体験 九

(11)

東洋大学中国哲学文学科紀要 第十七号 ○ かと思つている﹂と云ふのである。  元志願兵の口から、軍事演習への期待を語ってもらおうとしたのであろうが、演習があることも知らなかったと正 直に白状してしまう。さらに演習見学よりも阿片吸引の方が大事だ、と言わんばかりのことばを継ぐ。ここでも張文 環の筆は、つつみ隠さず事実を記している。     ︵三︶阿片中毒の人々1その二  李天賜に続いて、近所に住むやはり元志願兵の李根宅を訪ねることになった。 が自転車を走らせて呼んできてくれたのであった。 しかし訪問時に李根は不在で、甲長  李阿根爺さんを訪ねたのである。阿片を買う日なのでお爺さんはゐない・・︵中略︶彼の語る所によれば、︵志願 兵になってからi筆者注︶辮髪を切るために二週間の余裕を與へられて、お正月家にかへつて遊んでから聯隊に戻つて 辮髪を切つてもらつた  辮髪を切るために与えられた期間を遊び、結局は部隊に戻って断髪したという、 ている。李天賜に続いて、李根の能天気な発言が追討ちをかけた。 いい加減な話がさりげなく記され

(12)

    ︵四︶羅東の舎営宅  十一月十五日羅東に移った張文環は、 る。 当地の舎営宅を訪ねてまわり、各家の用意周到な様子や配慮ぶりを記してい  或る家では子供達に着せる着物まで細心の注意をはらつてゐるのである。 さらないやうにと気をつかつてゐる点は心を打れるばかりである。 兵隊さんに抱かれても御気持を悪くな  舎営の家の人々のこうした気遣いをみて、張文環は 裏を返せば普段子供たちが着ている服が、兵隊さんの る。 ﹁いたる所で胸を打れて思はず目がかすんで了ふのである﹂が、 ﹁御気持を悪く﹂させてしまうほど汚かったということでもあ  以上のような民衆のありのままの姿を描いたところに、本篇の特徴を認めることができる。従軍中、張文環が最も 感動したという冬山国民学校での官民合同歓迎会︵十一月十六日︶の描写も、隣家に腸チフス患者が住む女児のこと ばや、阿片を止められない元志願兵の強烈なとぼけぶりを見せられてしまうと、影が薄れてしまうのである。  ﹁男はやつばり一度は戦場に立つべきだと思ふのだ﹂という本篇の締めのことばがかすんでしまうほど、これら民 衆の姿は強い印象を残しているといえよう。  民衆ばかりではない。作者の張文環からして、本人の緊張ぶりはさておき、ピントのずれた行為を重ねている。車 中に持ち込んだ改造文庫も、そのひとつである。 張文環の従軍演習体験

(13)

東洋大学中国哲学文学科紀要 第十七号 =一     ︵五︶メリメ﹃二重の誤解﹄  張文環は宜蘭に向う往きの汽車のなかで、ものおじしてみずからを自虐的に﹁痩馬﹂とたとえてしまう︵張文環は       ニ 痩身であったわけでない︶始末であった。そこで気を紛らわすために、持参したメリメの小説﹁二重の誤解﹂を読み        パニ 始める。持ち込んだ本は、改造文庫であった。  私は氣押されたま・小さくなつて座つてゐた。 解”を取り出して活字をひろひ始めるのである。 それをごまかすために、私は早速改造文庫のメリメの“二重の誤 張文環の読んだ﹁二重の誤解﹂は、次のような内容をもった十九世紀のフランス小説である。  シャベルニ夫人ジュリイ︵ヒロイン︶は、夫との仲が冷えきっていた。美貌のジュリイにはシャトウフオルはじ め言い寄る男たちがいたが、相手にしなかった。  ある日、ランベル夫人宅のサロンで、旧知の外交官ダルシイと再会する。ダルシイにはかつて心ひかれたことも あったが、彼の貧しさゆえに結婚には至らなかった。サロンからの帰路、アクシデント︵脱輪︶のためにダルシイ の馬車に乗り換えることになったジュリイは、寂しい心の隙をダルシイに付け込まれてしまう。そのことでジユリ イは自分を責め、逃げ場がないまでに自分を追い詰めてしまい、まもなく命を落としてしまう。一方ダルシイの方 は、その三、四ヶ月後に﹁有利な結婚﹂をしてしまうのであった。

(14)

 ﹁二重の誤解﹂は、以上のようなメロドラマ仕立ての恋愛小説である。軍事演習の取材に向う途上でこんな内容の 作品を読むのは、張文環もさすがに気が引けたのであろう。読書を中断して、言い訳がましいことを述べる。  何か知ら現地に乗り込むのにこんな甘いものをよんでは兵隊さんにすまないやうなかんじがしたので、また本を 閉じて迷想に更けることにした。演習の現地にいつて、気持が堅くなるのをおそれて、私はなるだけ静かな思索を 抱かせる本を持つて行くことに決めたけれどそれを読む閑があるとは思つてゐなかつた。.  従軍しようとする張文環からして、このようにどこかピントの外れた心構えをみせてしまっているのである.、もっ とも張文環には、ありのままの姿を告白することで軍事演習の価値を下げようとしたり、取材に対して消極的であっ たと弁解したりする意図など、まったくない。むしろ使命感を携えて行動しており、任務の重さに緊張を隠せないで いるほどである。  それにもかかわらず、このとぼけた行為と表現は、作品をなごませ、主題を緩ませ、そして全篇に不思議なゆとり をもたらしているのである。このような張文環の行動と表現は、どのように理解すればよいのであろうか。    四 張文環の思考と行動への理解 張文環の言動の複雑さや、多面的に見えてしまう人物像のわかりにくさについて、これまでも検討をくわえてきた        こ ことがある。その場合、後掲のマトリクスが張文環理解を助けてくれた。今次もこれによって張文環の行動と表現が 、張文環の従軍演習体験 三

(15)

東洋大学中国哲学文学科紀要 第十七号 一四 読み解けるかどうか、検討してみよう。  ﹁舎営印象記﹂で張文環は、二つの顔を見せている。二つのうち のひとつは、軍民の協力や交流に感動し、本篇末尾で﹁男はやつば り一度は戦場に立つべきだと思ふのだ﹂とのべるに至る高揚ぶりで ある。もうひとつは阿片中毒の民衆を描いたり、自分のひ弱な内面 を告白してしまったりする、謂わばネガティブな面の描写に見られ るものである。  本篇において、社会的使命を帯びて執筆された部分は、軍民協力 と高揚感を伝えたところに反映している。これはマトリクスでいう と、﹁A﹂のゾーンで描かれている。  一方、庶民のあるがままの姿を正直に写しとった部分は、﹁C﹂の ゾーンで描かれている。  双方が座標軸をはさんで対極に位置しているので、一方が目立っ ても、他方がそれを打ち消し、一方が自己主張をはじめても、他方 が本音や舞台裏を見せてしまうといった関係にあり、互いに牽制し あうことになる。  ﹃朝日新聞﹄に発表された﹁舎営印象記﹂では、冬山国民学校で 公 結ばれる部分 編集活動 』の経営 文学活動(作家として) 』同人との交際 生活・郷土回顧 つ部分 B:張文環像が 会への参加 創作活動・ 東亜文学者大会 『台湾文学 C:本音の部分 との交際 『台湾文学 係 大稲埋での A:戦争協力の目立  評論i舌動・座言炎  皇民奉公会・大 社会活動(文化人として) D:心砕く部分   内地人(官方)   水面下の私的関 私

(16)

の歓迎会で軍民の交流の様子が感動的であったと強調されていたが、﹃台湾時報﹄掲載の﹁舎営印象記﹂の場合、感 動的なシーンだけが強調されて終わることはない。むしろ本篇でいちばん印象に残ってしまうのは、軍事演習の参観 よりも阿片吸引を優先させた元志願兵の李天賜の姿といえるかもしれない。  このように庶民の姿を描いたことで、高揚感の漂うシーンがかすんでしまったところに、本篇の特徴が見出される。 ただし張文環は意図的にこうした手法を使ったのではなく、自分のよく知る台湾の社会とそこに住む人々の姿をあり のままに写しとったにすぎず、結果的にそのことが本篇の硬直化を牽制し所期のテーマの濃度を下げてしまったので ある。  ﹁男はやつばり一度は戦場に立つべきだと思ふのだ﹂と記してしまう張文環ではあるが、全篇がこうした雰囲気に おおわれているわけでもなく、むしろスローガンのごとき文言が蛇足に思えてしまうところに本篇の救いがあり、ま たそれがこの作家を多面的に見せてしまう原因になっているのである。 五 宜蘭民謡﹁芸去銅仔﹂ 宜蘭に向う汽車のなかで張文環は突如、宜蘭地方の民謡を思い浮かべるのである。  汽車がトンネルに這入つたときに、私は宜蘭特有の、くすぐつたいやうな汽車に因んだ民謡を思ひ出して独りで 笑ひたくなるのである。何か知らまだ見たことのない宜蘭の人達は皆朗らかで、この民謡句調のやうに、朗らかに なると両の肩を突きあげて、火車行到膀穴内、と唄ひ出したいやうな気がするのだつた 張文環の従軍演習体験 一五

(17)

東洋大学中国哲学文学科紀要 第十七号  ﹁火車行到膀穴内﹂という歌詞をもつ宜蘭の民謡とは、 のようである。 火車行到阿末伊都芸 嗅晴膀穴内 膀空的水伊都去去銅︵滴滴吹、︶ 阿末伊都云仔伊都滴落来 仔伊都 おそらく﹁云去銅仔﹂ 汽車は走るよ トンネルに入れば 水がポタポタ落ちてきて 水滴払って走ってゆくよ  張文環が﹁くすぐつたいやうな﹂と感じたこの民謡のメロディ ーは、軽快で弾んだ調子を持っている。軽快な曲調は汽車の疾走 感を想像させるが、行軍の兵士の歩調には合わないだろう。勇壮 な響きを期待した向きには、拍子抜けしてしまうメロディーであ  ニコ  る。  軍事演習の取材に向う途上で、張文環は気負けして小さくなり ながら、メリメ﹃二重の誤解﹄を読み、宜蘭の民謡﹁云云銅仔﹂ を思い浮かべて﹁独りで笑ひたくな﹂っていた。このような書き 込みは、本篇に期待される使命からすると不用のものに思えてし

幡噛銅仔

であ そ・ 膓 採 録さ れ て いる 歌 詞1i は 次 六 ’ 9 |」_≒』」][一主_工12 亘_⊥ 火  車   行 郵伊8  阿末伊8  垂  境噛

lliil1iiEiEEisi1iiei

5 6i  5 礎 空   内 6 i l6iLfi.1 日  空   的本伊8

lifflgiiiiSiiiig;iiiiigi

i 並|〕i6i上__旦ul亙_⊥旦_皇1 芸  垂蛋 娼仔伊8 阿末伊轟 蚕仔伊否 2  6 嶺  荏 5 來 1

(18)

まうが、逆にいうと、こうした寄り道がなければ張文環の作品らしく思えないだろう。ここに張文環文学の特徴があ るのである。  前述のとおり本篇が一元的な描写に陥らなかったのは、張文環が飾らない庶民の姿をありのままに描いたからであ った。そんな庶民の登場を、宜蘭に向う車中の﹁去云銅仔﹂が、すでに予告していたのである。 1 注 ︵2︶ ︵3  ︵4> ︵5︶ プロスベル・メリメニ八〇三ー七〇冒、フランスの作家、考古学者。パリ生まれ..ユーゴらの保守的ロマン派に対抗して、 スタンダールらとともに自由主義的で写実的な一派を形成した。代表作に﹁カルメン﹂がある.。 昭和卜五年九月二二日発行 江口清訳。表題作のほか、短篇六篇を収録する。 拙稿﹁張文環の戦争協力と文学活動﹂﹃台湾の﹁大東亜戦争﹂﹄︵東京大学出版会 二〇〇二年十二月二〇口︶、﹁張文環﹃頓 悟﹄について﹂﹃東洋大学中国哲学文学科紀要﹄第十]号︵二〇〇三年三月十日︶等。 簡上仁著﹃台湾民謡﹄︵衆文図書公司 初版不明・民国89年6月2版5刷︶▽ぺO。楽譜は葛。.に掲載。 各地の民謡を集めた﹃桃花過渡﹄︵上揚有声出版有限公司︶の中に﹁去去銅仔﹂が収録されている。歌は入らず演奏のみで あるが、曲調を知ることができる.・ 張文環の従軍演習体験 一七

(19)

写真①  宜蘭河の河川敷 写真③ 現在の城陸廟 ,購 @難 写真②  現在の孔子廟 東洋大学中国哲学文学科紀.要 第十七号 一八

(20)

難饗 難璃鑓 灘、 写真④ 羅東鎮公所(現在の役場) ミン

羅東郊外の西南に広がる連山 写真.5 張文環の従軍演習体験 九

(21)

東洋大弓中国哲学文字利紀要 第十七弓 写真(6−1 元冬山国民学校であったと思われる冬山国小。現在は幼稚園になっている 写真⑥一2      ℃        9k 冬山国小(現幼稚園)       変諜難        諜難鎌謹購 は、広いクランドをもっている 「J

(22)

張文京の従軍] 付 ぽ尺 写真⑦一1 現在の武著坑橋は吊橋ではない 織袖   湯 灘「 oぷ 写真⑦一2 橋上からの眺め

(23)

市爪ぞ、汗Lへ杉†中国折]甲土−・て・一ナ利n川礼璽共  統㌢上−七[万

写真⑧ 元蘇漢国民学校であったと思われる蘇漢国小

騨・

参照

関連したドキュメント

 グローバルな視点を持つ「世界のリーダー」を養成

・「中学生の職場体験学習」は、市内 2 中学 から 7 名の依頼があり、 図書館の仕事を理 解、体験し働くことの意義を習得して頂い た。

文字を読むことに慣れていない小学校低学年 の学習者にとって,文字情報のみから物語世界

人口 10 万人あたりの寺院数がもっとも多いのが北陸 (161.8 ヶ寺) で、以下、甲信越 (112.9 ヶ寺) ・ 中国 (87.8 ヶ寺) ・東海 (82.3 ヶ寺) ・近畿 (80.0

大きな要因として働いていることが見えてくるように思われるので 1はじめに 大江健三郎とテクノロジー

長尾氏は『通俗三国志』の訳文について、俗語をどのように訳しているか

長尾氏は『通俗三国志』の訳文について、俗語をどのように訳しているか

本時は、「どのクラスが一番、テスト前の学習を頑張ったか」という課題を解決する際、その判断の根