〔研究ノート〕
カントの諸空間一般(6)承前
瀨 戸 一 夫
第 20 節 如何なる部分も全体かつ無限の空間
まず、諸関係の概念は諸関係が無限であるという原理をもち合わせてい る点に注目し、カントがどのような関係のことを語っているのか検討しよ う。かれが「関係」について述べている 2 箇所を引用する。〔…〕:daß alles, was in unserem Erkenntnis zur Anschauung gehört, (also Gefühl der Lust und Unlust, und den Willen, die gar nicht Erkenntnisse sind, ausgenommen,)nichts als bloße Verhältnisse ent-halte, der Örter in einer Anschauung(Ausdehnung) , Veränderung der Örter(Bewegung), und Gesetze, nach denen diese Veränderung bestimmt wird(bewegende Kräfte)(B66f.).
われわれがもつ認識のなかで、直観に属するものは(それゆえ快・不快 の感情および意志は認識でないから除外して)すべて、或る一つの直観 (延長)というかたちをとった〔複数の〕場所、場所〔複数形〕の変化 (運動)、ならびに、この変化を規定する諸法則(動かす諸力)といっ
た、純然たる諸関係しか含んでいないということ、〔…〕。
erkannt: also ist wohl zu urteilen, daß, da uns durch den äußeren Sinn nichts als bloße Verhältnisvorstellungen gegeben werden, dieser auch nur das Verhältnis eines Gegenstandes auf das Subjekt in seiner Vorstellung enthalten könne, und nicht das Innere, was dem Objekte an sich zukommt(B67). ところで、純然たる諸関係によっては、事象自体はなお認識されず、そ れゆえ外的感覚器官をつうじて、われわれには純然たる関係の諸表象し か与えられないのだから、それら諸表象にも、主観に対する何らかの対 象の関係がその表象というかたちで含まれうるだけで、客観自体に固有 の内在的なものは含まれえないと判断してよい。 直観に属するものに含まれているのは諸関係のみであり、われわれには純 然たる関係の諸表象しか与えられず、何らかの対象が主観に対してもつ関 係(das Verhältnis eines Gegenstandes auf das Subjekt)も、関係の表象 というかたちで諸表象に含まれている。カントはこう述べている。
ほとんどの場合、複数形の関係が用いられ、関係の表象もまた複数形で ある。他の箇所も調べてみると、関係はかなりの頻度で複数形になってお
り(29)、単数形で登場する用例はかなり少ない(30)。付言すると、上掲 2 つ
の引用文中で、例外的に単数形の「主観に対する何らかの対象の関係 das Verhältnis eines Gegenstandes auf das Subjekt」は、観察者に対する対象 の相対運動だけが知覚されるといった、ガリレオの独創的な「ものの見 方」に該当し、かれの運動論と地動説の世界観を支える基本原理でもあ る。しかし、自然科学の基礎について詳しく論じる余裕はないので(31)、 図 1 x y z O
ここで引用した単数形の関係は観察者(主観)が採用する基準の唯一性と 表裏することだけを、現時点では予告するにとどめ、以下では幾何学のモ デルをもとに議論したい。 前頁の図 1 は、空間の広がりを思い浮かべるためのツール、x y z 座標 を表している。当然すぎることの確認だが、われわれはこの座標系を、眼 前の紙面上に見ている。にもかかわらず、座標原点 O を視点として開け る空間の広がりを、自ずと感じ取っている、あるいは自然に思い浮かべる ことができるのではないだろうか。そのように思い浮かべるのは、けっし て異常なことでもなければ、異例のことでさえなく、むしろ日常的なこと である。たとえば、地図を見ながら予定の行き先に向かうとき、地図上で 自分がどこに居るのかを探しつつ、いま実際に駅を背にして正面に銀行が 見えるのだから、この位置から見渡すと、右斜めの方向には高層ビルが聳 えているはずだと考えて、すぐに確認してみるという類いの経験を、われ われは当たり前のようにしている。つまり、われわれはこの場合、地図上 のどこかに x y z 座標を想定して、その座標原点に自分の視点があれば、 どのような空間と景色が開けるのか想像しながら、想像される空間と景色 を、現に目の前に開けている空間の状態と照らし合わせているのである。 こうして、外部に在る何かを見出すと同時に、われわれは「自分自身を見 出す」こともまた日頃から経験している。カントが述べていたとおり、こ れは各人の空間に認められる根本的な特徴であり、意外にも、かれは当然 のことを述べているにすぎなかった。 x y z 座標はさらに、地図上のあらゆる位置に想定可能であり、どこに 想定するかに応じて、実に多様な空間と景色が思い描ける。だからこそ、 われわれは地図を頼りにしながら、目的地に到達できるのである。ここで 重要なのは、当たり前すぎるために誰も問題にしないともいえそうな、ま さにこの実情にほかならない。そして、地図上のどこに座標原点を設けて も、その原点を視点としたときに開ける空間は、際限なく拡大しうるとい う意味で無限である。 空間は唯一であり、空間の内なる多様も、したがって「諸空間一般」の 一般概念もまた、ただ複数の制限によるのであった。複数の制限とは、す なわち、いかようにも設けられる座標系によって、こう設ければ空間がこ のように開け、これとは別様に設けるのであれば、別の仕方で開けるであ ろうと、空間をあれこれ制限する「諸制限」のことだったのである。実
際、どの場合も、座標原点を視点として開ける空間は無限であり、われわ れは地図を見る視点に開けている空間――地図なので自分自身の視点から 俯瞰される 2 次元空間――の内に、どこまでも多様で、いずれも無限の空 間が開ける様子を、ほとんど理屈以前に自ずと感じ取っているのである。 こうして、カントの指摘どおり、空間は常に多様を伴い、それ自身の内に 多様を含んでいる。しかも、空間はどこに視点を定めようと、定められた 視点に固有の開け方になるのであるから、いずれも個別の表象である。ま た、どの箇所に視点を定め、どのような方向をむいても、開ける空間の内 部には例外なく多様が含まれている。如何なる制限――すなわち座標設定 ――で開ける個別で固有の空間も、以上のような本質的属性を等しくもつ ため、それらから抽象されて構成される諸空間一般の一般概念は、これも 指摘されていたとおり、もとをただせば諸制限――あれこれの座標設定 ――にもとづくのである。 以上に加え、自分自身の視点を各所に定めて、たったいま目の前にして いる事物や景色、さらには眼前に開けている空間の広がり方が、各所の視 点に立つと、それぞれどのようになりそうかを、概念その他、厳密なツー ルに頼るまでもなく、われわれは自ずと思い浮かべている――表象できて いる――のである。だからこそ、対象との距離をそのつど「主観に対する 当該対象の関係」として直観しながらでなければできない普段の生活が、 現に、われわれには難なくできているのである。こうして、直観は無際限 に進展するのであり、各視点相互の諸関係という概念は、諸関係が無限で あるという原理を、当然もち合わせていなければならない。これもまた、 大方の予想に反して、赤裸々な実情の指摘であった。現象(単数)も現象 の多様(単数)も、さらには諸現象の多様(単数)それぞれも、複数の関 係どころか、ほとんど無数の関係で秩序づけられている。この点からする と、カントの言う「諸対象一般」の性格が、不思議なほど「諸知覚一般」 や「諸空間一般」の性格と類似していたのは、いずれも各視点相互の諸関 係を背景に成り立つ構造体であったのだから当然である。 さらに、空間と時間、ならびに空間と時間のあらゆる諸部分の、いずれ も多様を伴う「個別性」が「適用に際して重要である」と、カントが指摘 していたこと(第 18 節)の意味も、以上にもとづいて理解可能になる。 すなわち、自分自身の視点を各所に定め、いま眼前に開けている空間の広 がり方が、他の各視点ではどのように開けるのか思い描けるためには、各
視点に応じて開ける空間がすべて多様を伴い、いずれも個別の空間である ことが、自覚の有無にかかわらず、当初から受け容れられていなければな らない。こうして、空間とそのあらゆる諸部分は、例外なく多様を伴う個 別の空間であった。カントはこの特性が「空間の適用に際して重要であ る」(B136Anm.)と指摘していたのである。 時間についても同様であり、われわれはたとえば、病気で何日か欠勤し た後に、明日の出勤時刻を座標原点とする時間軸上で、職場に到着したと きに自分の健康状態がどのようであるのかを思い描く。また、昨夜の特定 時刻を座標原点にした時間軸上で、出社準備が現時点で予定よりも遅れて いないかどうかを、あるいは職場到着時に同僚たちの仕事が計画どおり進 んでいるのか否かなどを、われわれはそれぞれの時刻に確認し、予測しな がら生活している。以上からも分かるように、明日の職場到着時などをは じめとして、時間および時間の各部分は、すべて座標原点の定め方に応じ て異なった現れ方をするのであるから、いずれも多様を伴う個別の時間 だったのである。こうして、空間と時間、ならびに空間と時間のあらゆる 諸部分は、必ず多様を伴う個別の空間と時間であり、そのような個別性が 空間と時間の適用に際しては重要なのである。 ところで、空間の直観と共に、何らかの結合が与えられているとも主張 されていた(形式的直観)。これはどのような指摘であったのだろうか。 この指摘が意味するところを探るためには、しかし、すでに引用して訳出 した箇所(B160f.Anm.)を読み返すだけで事足りる。 空間は(実際に幾何学で必要とされているとおり)対ㅡ象ㅡとして表象さ れ、直観の単なる形式以上のものを、つまり感性の形式に従って与えら れる多様を何らかの直ㅡ観ㅡ的ㅡ表象に統ㅡ合ㅡすㅡるㅡこㅡとㅡも含んでいるため、直ㅡ観ㅡ のㅡ形ㅡ式ㅡが単に多様を与える一方、形ㅡ式ㅡ的ㅡ直ㅡ観ㅡは表象の統一を与えている のである。わたしは感性論でこの統一を感性に数え入れたにすぎない。 それはただ、空間と時間の諸概念すべてを初めて可能にし、感覚諸器官 には属していない或る総合が、たしかにその前提になるとはいえ、この 統一があらゆる概念に先立つことを注記する目的からであった。なぜな ら、この統一により(悟性が感性を規定することで)初めて、空間また は時間が諸直観として与ㅡえㅡらㅡれㅡるため、このア・プリオリな直観の統一 は空間と時間に属しているのであり、悟性の概念には属していないから
なのである。 いまや、カントが語るとおりに、しかも容易に理解できるのではなかろう か。形式的直観とは、すなわち、対象の直観ではないながらも、諸事物の 経験的な直観とそのつど表裏一体に与えられ、直観する「仕方」という点 で形式的な、言い換えれば「どのように直観しているのかということ」の 直観にほかならない。すでに確認したように、それは特別な心的機能とい うよりも、われわれが日常生活のなかで、そのつど理屈以前に感じ取り、 多くの場合は暗黙のうちに自ずと察している「直観する仕方」の直観、換 言すると「或る特定の仕方で直観していること」の直観であった。さら に、諸空間一般に加えて、諸知覚一般、感性的な諸直観一般、および多様 のなかでも、その下部構造を支える現象の多様や諸現象の多様、そして諸 直観の内なる多様もまた、悟性が感性に働きかけて総合しているとはい え、あくまでも直観として「与ㅡえㅡらㅡれㅡる」かぎり常に、しかも「あらゆる 概念に先立つ」結合を含む各種の構造体だったのである。 ここで、あらためて「超越論的感性論への一般的注解」と題された感性 論の終盤を読み返すと、その細部に、微妙でありながらも重大な確認事項 があることに気づかされる。すでに論及した箇所も含むが、全体像を捉え るために、あらためて訳出しなおしたい。
Wir kennen nichts, als unsere Art, sie〔Gegenstände〕wahrzunehmen, die uns eigentümlich ist, die auch nicht notwendig jedem Wesen, obzwar jedem Menschen, zukommen muß. Mit dieser haben wir es lediglich zu tun. Raum und Zeit sind die reinen Formen derselben, Empfindung überhaupt die Materie. Jene können wir allein a priori, d.i. vor aller wirklichen Wahrnehmung erkennen, und sie heißt darum reine Anschauung; diese aber ist das in unserem Erkenntnis, was da macht, daß sie(*)Erkenntnis a posteriori, d. i. empirische Anschauung
heißt. Jene hängen unserer Sinnlichkeit schlechthin notwendig an, welcher Art auch unsere Empfindungen sein mögen; diese können sehr verschieden sein. Wenn wir diese unsere Anschauung auch zum höchsten Grade der Deutlichkeit bringen könnten, so würden wir dadurch der Beschaffenheit der Gegenstände an sich selbst nicht näher
kommen. Denn wir würden auf allen Fall doch nur unsere Art der Anschauung, d. i. unsere Sinnlichkeit vollständig erkennen, und diese immer nur unter den, dem Subjekt ursprünglich anhängenden Bedin-gungen, von Raum und Zeit;〔…〕(A42f./B59f.).
(*)B.Erdmann: es. われわれはそれら〔諸対象〕を知覚する自分たち自身の仕方しか知ら ず、その仕方はわれわれに特有であり、あらゆる存在者に必ず帰属して いるのではないにしても、それぞれの人間に例外なく帰属している。わ れわれはただこの仕方だけを問題にしなければならない。空間と時間は その〔われわれが諸対象を知覚する仕方の〕純粋諸形式であり、感覚は おしなべてその質料である。われわれは前者〔空間と時間〕のみをア・ プリオリに、すなわち現実のあらゆる知覚に先立って認識することがで きるので、それ〔われわれが諸対象を知覚する仕方〕は純粋直観である 一方、われわれが認識するに際して、後者〔感覚〕はそれ〔純粋直観〕 がア・ポステリオリな認識、すなわち経験的直観であるようにしている ものである。前者〔空間と時間〕は、われわれのもつ諸感覚がどのよう な種類のものであれ、端的に、例外なく感性について回る〔ため、ア・ プリオリに認識できる〕のであるが、後者〔われわれのもつ諸感覚〕は 極めて多様でありうる〔から、ア・プリオリには認識できない〕のであ る。こうしたわれわれの直観を最高度の判明さにもたらすことが、たと えわれわれにできたとしても、われわれがそのことによって諸対象自体 の性質に、より迫ることにはならないだろう。なぜなら、われわれは如 何なる場合も、ただわれわれが直観する仕方のみを、すなわち、われわ れの感性だけを完全に認識することになるのであり、しかも常に、空間 および時間という、根源から主観につきまとう諸条件のもとでのみ、わ れわれの感性を(diese)認識することになるであろうからである。 B・エアトマンは上掲の校訂案によって、女性・単数の代名詞《sie》が 「純粋直観 reine Anschauung」または「現実の知覚 wirkliche
Er kommt, wie es heißt, morgen. かれは明日やって来るということだ。
と同様、従節を非人称にしたいのであろう。しかしながら、この校訂案を 採用したとしても、問題の《das …, was da macht, daß … heißt》という 箇所は「ア・ポステリオリな認識、すなわち経験的直観と称されるように しているもの」となり、いったい何がア・ポステリオリな認識、すなわち 経験的直観と称されるようにしているのかを特定しないかぎり、カントが ここで述べていることは理解できない。 また、繰り返し登場している動詞《heißen》は、しばしば「~と呼ば れている」あるいは「~と称されている」のように和訳される。しかし、 このように和訳すると、カントが独自の意味で「純粋直観」や「経験的直 観」という語を用いているのではなく、これらがあたかも当時の標準的な 用語であり、また用例であったかのように読めてしまう。上掲の訳文は、 無冠詞の名詞を用いた言い回しの、たとえば
Leben heißt Kämpfen.
生きるとは闘うことである〔闘うと称されていることを意味する〕。 に倣っている。そして、このように読むと、エアトマンの校訂では不明の 指示関係が、前後の完全な対比の構文
Jene können wir … erkennen, und sie heißt darum reine Anschauung; われわれは前者を…認識できるので(darum)、それは純粋直観であり、 diese aber ist das …, was da macht, daß sie(*)Erkenntnis a posteriori,
d.i. empirische Anschauung heißt.
他方、後者〔感覚〕はそれ(*)がア・ポステリオリな認識、すなわち経
験的直観であるようにしているものである。
から明確になる。実際、この対比構文に着目すると、カントがここで問題 にしているのは、純粋直観と経験的直観の関係にほかならない。すると、 校訂案を採用するまでもなく、上掲の原文どおりに《sie》が《reine
An-schauung》を指しているように読み取れる。 カントが理解する純粋直観は、経験的直観から乖離しているのではな く、感覚によってア・ポステリオリな認識に具体化され、経験的直観とい うかたちを借りて受けとられるのである。しかも、具体例で考えれば、こ れは当然のことである。すでに検討した図 1 が表しているのは、空間とい う「われわれが諸対象を知覚する仕方の純粋形式」にほかならない。われ われはこの形式を「ア・プリオリに、すなわち現実のあらゆる知覚に先 立って認識することができる」のであり、また純粋に直観すること(形式 的直観)が実際にできていた。とはいえ、視覚という感覚がこの純粋直観 を「ア・ポステリオリな認識、すなわち経験的直観であるようにして」い たからこそ、われわれは図 1 を空間の純粋形式として受けとれたのではな いだろうか。 純粋直観は自律的な働きでありながら、少なくとも当初は感覚を介して ア・ポステリオリに、あくまでも経験的直観と表裏するその「形式」を、 すなわち、われわれが経験的に直観するその普遍的な「仕方」を、純粋に 直観する働きにほかならなかったのである。 さらに、上掲の引用箇所には、本研究にとって特に重要な確認事項が含 まれている。「われわれは如何なる場合も、ただわれわれが直観する仕方 のみを、すなわち、われわれの感性だけを完全に認識することになり、し かも常に、空ㅡ間ㅡおㅡよㅡびㅡ時ㅡ間ㅡとㅡいㅡっㅡたㅡ、根ㅡ源ㅡかㅡらㅡ主ㅡ観ㅡにㅡつㅡきㅡまㅡとㅡうㅡ諸ㅡ条ㅡ件ㅡのㅡ もㅡとㅡでㅡのㅡみㅡ、われわれの感性を認識することになる」(強調点は引用者に よるものである)。われわれが自分たちの感性を認識する場合も、その感 性は必ず、主観につきまとう空間と時間といった諸条件のもとでのみ認識 されているのである。 これも図 1 をもとに考えれば当然のことであり、紙面上に描かれた 3 次 元空間の純粋に形式的な――われわれ自身に備わる感性の――成り立ち は、これを見る視点にもまた常につきまとっている空間的な形式(および 時間的な形式)に沿って認識されていた。言い換えれば、紙面上の図 1 が 読者の視点から空間(と時間)の形式に沿って経験的に直観されるのと同 様、この経験的直観と表裏する空間の純粋直観も、例外なく空間(と時 間)の形式に沿ってのみ可能なのである。そして、以上のように解釈する と、幾何学の客観性の基礎が如何にして解明されるのかも判明する。次節 ではその問題を検討することにしたい。
第 21 節 客観性を支える視点相互で対等な対称性
ここからは、議論をできるだけ単純明快にする目的で、3 次元のモデル から 2 次元のモデルに変更したい。論理の成り立ちは、3 次元のモデルで も基本的に、2 次元の場合と同様になる。つまり、平面幾何学の客観性を 支える基礎は、立体幾何学の基礎へと拡張されうるのである。 図 2 は内なる多様として、原点 O の x y 座標系を仮に基準とした場合の 空間(平面)に、座標軸の尺度が縦も横も基準の半分になる x′ y′座標系の 空間と、縦軸の尺度は基準と同じである一方、横軸の尺度が基準の半分に なっている x′′ y′′座標系の空間を表している。また、原点 O の x y 座標系 を基準にしているので、三角形ABCは x y 座標系の空間に描かれている ものとしよう。 このとき、もしも視点を変えて、原点 O′の x′ y′座標系を採用すると、 その空間ではどのような 2 次元空間が開け、三角形ABCはどのような形 になって見える――直観される――のかを、われわれは実際に見るまでも なく、この意味でア・プリオリに思い描ける。三角形は空間もろとも拡大 され、相似比で 2 倍の大きさになり、形については同じに見える――直観 される――だろう。さらに視点を変え、原点 O′′の x′′ y′′座標系を、今度 は採用してみよう。その場合には、三角形ABCが空間もろとも横方向に 伸び広がり、x y 座標系の空間に在る三角形ABCと比べて、横幅がちょ うど 2 倍の三角形になることを、これもまたア・プリオリに思い描ける。 おそらくカントであれば、以上のようになるというこㅡとㅡが分かるとき、そ の直観を指して「形式的直観」と言うのではないか。いずれにせよ、図 2 図 2 x y O A C B x′ y′ O′ x′′ y′′ O′′の設定から、幾何学の客観性に秘められた真相が浮かび上がる。
いま、仮の基準としている x y 座標系の空間で、三角形ABCという個 別の一例をもとに、たとえば内角の和が 2 直角であることを証明したとし よう。すると、座標系を変更するごとに視点が移行し、移行に伴って次々 に「直観の進展 Fortgang der Anschauung」(A25)が起こる。さらに、 x 軸と y 軸が直角でない角度で交わる様々な斜交座標系にまで座標系の変 更を拡大すると、証明に使われた個別で固有の三角形だけでなく、形状や 大きさの異なる無際限に多くの三角形について、当の証明が達成されてい ることになる。数学の認識は普遍的に成り立つ事柄を個別の一例でア・プ リオリに考察する。ここからも分かるように、前頁の図 2 で採用している 幾何学のモデルは、すでに検討した「或る一つの ~ 一般」の典型的な具 体例だったのである。 そして、見逃してはならないのが、あくまでも仮に x y 座標系とその空 間を基準としたのであり、他の座標系を基準に採用してもよいという前提 に立つかぎりでのみ、カントの語る「直観の進展」は例ㅡ外ㅡなㅡきㅡ客観性に到 達できるという側面である。しかも、x y 座標系の空間が特権的な唯一の 空間であること――すなわち他のあらゆる座標系の空間を凌駕して包括す る絶対的な空間であること――を証明しようと企てたところで、徒労に終 わるほかないだろう。いずれを基準にしてもよいという、まさにこの点 で、証明の客観性は「視点相互の対等性」に支えられていたのである。 第 19 節で整理したように、カントは『純粋理性批判』(第一批判)初版 の超越論的演繹のなかで、ただ一つ「でない」(複数の?)経験を反実仮 想していた。ところが、この異様な反実仮想の謎もまた、目下の実例で解 明されている。視点の移行に伴う「直観の進展」は、図 2 の各座標系に開 ける各空間をもとに理解したとおり、多様で無数の空間と、各空間に固有 な三角形での証明を次々に、そして際限なく経験させていた。それゆえ、 図 2 の各座標系で証明する経験は、座標系の数だけあるという意味で「一 ならざる経験」であり、われわれは自覚の有無にかかわらず、無際限に多 様な三角形での証明が経験可能であること(mögliche Erfahrung)も同時 に経験している。そうした「一ならざる経験」を仮想して、視点相互の優 劣を廃しつつも、なおいずれか一つの座標系――たとえば原点 O の x y 座 標系――を採用している点で「一なる経験」が維持されると、かねてより 幾何学の証明に認められてきた客観性が、あらゆる視点で対等に成り立つ
という仕方で確保される。さらに「一ならざる意識」の謎も、図 2 で考え れば、無限に多様な空間と様々な三角形を直観する「一ならざる意識」が 反実仮想され、それでもなお一つの座標系を採用する「一なる意識」が維 持されるとき、如何なる座標系で直観する意識にとっても対等に成り立つ 客観性が、幾何学の証明によって獲得されていたのである。 付言すると、第 16 節で引用した原文(A111)を読み解くにあたって、 K・ケーアバハの校訂案を採用しなかった理由は、反実仮想の真相が以上 のとおりだからである。引用した原文には、諸カテゴリーが一なる可能な 経験「というかたちで in」考える思考の諸条件である一方、空間と時間 は同じその一なる可能な経験「に向かって zu」直観する諸条件を含んで いると記されていた。問題の校訂案は、前者の《in》を《zu》に改め、思 考と直観に付されている前置詞を一律化するよう求めている。しかし、カ ント当人は総合的に統一する思考の役割を、進展する直観の役割から截然 と区別していた。そのうえで、かれは両者が表裏一体に働くことを前提 に、諸カテゴリーが一なる可能な経験の成立に寄与する思ㅡ考ㅡのㅡ「形式的な 諸条件」であるのは、空間と時間が同じ一なる可能な経験の成立に寄与す る直ㅡ観ㅡのㅡ「形式的な諸条件」を含むのと同様であると、自らの基本設定ど おりに説明していたのである。 ところで、幾何学の証明を具体例として採用すると、未解明のまま残さ れている他の問題も具体像を結んで氷解する。 上の図 3 は、原点 O の x y 座標系の空間(平面)を仮に基準とした場 合、その座標系と比べて横軸が反対方向になっている座標系を、原点 O′ の x′ y′座標系としている。つまり、x y 座標系と x′ y′座標系は、互いに鏡 図 3 x y O x′ y′ O′ A C B
像対称の関係にある。この図 3 も、原点 O の x y 座標系を基準とし、三角 形ABCは x y 座標系の空間に描かれているものとしよう。先ほどと異な るのは、辺ABと辺ACが等しいこと、すなわち二等辺三角形ABCが描 かれていることである。さらに、この図 3 で原点 O の x y 座標系を採用す る場合は、紙面の手前から紙面の奥側を眺める視点に立つのに対して、原 点 O′の x′ y′座標系を採用する場合は、図 2 の設定と異なり、紙面の奥か ら紙面の手前側を眺める視点に立つことにしよう。 まず、鏡に映った自分の像を目の前にして、像の視点から本物の自分を 見た場合、どのように見えるのか思い描くのは、それほど難しいことでは ない。像の視点から見える自分は、空間もろとも左右が逆になっているだ ろう。鏡に自分を映したとき以外でも、われわれは対面している他者の視 点から、自分自身がどのように見えるのか思い描ける。実情からすると、 日常生活を送るなかで、ときおり鏡に映して自分の姿(身だしなみ)を確 かめるのは、他者の視点から見える自分自身を確認しているのである。こ の点からすると、仮の基準としている x y 座標系に開けているのが「わた し」の空間であるのに対して、x′ y′座標系に開けているのは自分と対面す る他者にとっての空間に相当する。 しかし、対面する他者の視点――たとえば x′ y′座標系の原点 O′――に 立って、自分自身の側を見るのであるから、逆に x y 座標系の x 軸が左向 きになっているだろう。そして、直前まで基準としていた x y 座標系に開 けていた空間は、左右が逆転した空間であったことに気づく。また、対面 している他者が「わたし」の視点――たとえば x y 座標の原点 O――に立 つと、直前まで基準としていた x′ y′座標系の x′軸が左向きになっているこ とに加え、基準としていた x′ y′座標系に開けていた空間が左右逆の空間で あったことも確認するだろう。 以上のように、左右が逆転する「その仕方」は、自己と他者のあいだで 完全に同じである。意外にも、直観の形式が相互に変化する仕方は、視点 の違いにまったく左右(影響)されない同一の「対称性」を維持してい る。すなわち、自他の完全な対等性が、自他相互の差異を貫いて成り立つ のである。言い換えれば、相互に対等で同一の対称性が、自己の視点と他 者の視点、および自己の座標系に開ける空間と他者の座標系に開ける空間 との「あいだ」で成り立つ。われわれはこのことを、実際に視点を変えて 確認するまでもなく、ア・プリオリに思い描けるのではないか。
ところで、二等辺三角形はその定義から、2 つの辺が等しい三角形であ り、角についての情報(内包)は定義のなかに含まれていない。以下では このことを認めたうえで考えてみよう。さて、x′ y′座標系を採用すると、 二等辺三角形ABCはどのように直観されるだろうか。x′ y′座標系の視点 に立てば、開ける空間もろとも左右が逆転するのであるから、直観される 図形は二等辺三角形ACBにならざるをえない。まさにそうした二等辺三 角形ABCが、仮に x y 座標系を基準として開ける空間に、当初から描か れていたのである。 以上からすると、同じ一つの二等辺三角形が二等辺三角形ABCであ り、同時にまた二等辺三角形ACBでもなければならない。実際、どちら の座標系も、横軸の向きが逆ということ以外、互いに差異のない直交座標 の系であるならば、定義にもとづいて辺ABと辺ACは等しく、底辺BC は向きが逆になるだけであるから同じ長さである(図 4)。したがって、 二等辺三角形ABCを二等辺三角形ACBと重ねようとすれば、辺ABと 辺AC、辺ACと辺AB、さらに辺BCと辺CBは、それぞれ完全に重な ることになるだろう。そして、二等辺三角形ABCと二等辺三角形ACB が完全に重なるかぎり、∠Bと∠Cは等しいと認めざるをえない。これは 古代ギリシアのタレースが行ったとされる証明法――「重ね合わせ」の方 法(32)――をもとにしている(vgl.BXIf.)。 奇妙な指摘になるが、x′ y′座標系を採用しても二等辺三角形ABCは全 面的に同じ二等辺三角形であると主張するのであれば、x′ y′座標系の空間 に在るのは二等辺三角形ACBでなく、二等辺三角形ABCであると断定 していることになる。すると、二等辺三角形ABCが、同じ二等辺三角形 ABCと完全に重なるにすぎない。これでは、しかし、3 つの辺がそれぞ れ一致するのは当然であり、∠Bは∠Bと等しく、∠Cは∠Cと等しいだ けであるから、何も新しい知見は得られない。左右が逆であるという理由 図 4 A C B A B C
で、二等辺三角形ABCが二等辺三角形ACBから区別され、互いに異な ると、一旦は認められるからこそ、∠Bと∠Cは完全に重なって等しくな らざるをえないという、定義には含まれていない新たな定理が得られたの である。それを可能にしているのは、つまるところ、自分自身と対等な他 者の視点であった。しかも、或る一つの視点と他の視点とが厳密に対等で あるためには、時間差さえなく「同時に」両視点が対等でなければならな い一方、一つの視点に立つと「同時に」他の視点に立つことは、そもそも 視点(基準)の意味からして不可能である。それゆえ、幾何学の客観的な 証明には、現に一つの視点に立っている自分自身に代わって、しかもたっ た今、他の視点に立つ他者の存在が不可欠なのである。 自他の違いを率直に認めたうえでの対等性が、視点の違いを貫く――右 と左を峻別しつつも視点の違いに左右(影響)されない――対称性の成立 と表裏して、誰にとっても公平に成り立ち、誰もが公平(対等)に支え合 うことで有効な客観性を保障している。幾何学の客観性は実のところ、客 観そのものがもつ特性でもなければ、諸客観の相互関係にもとづく特性で もなく、さらには主観と客観の関係で成り立つような特性でさえなかっ た。幾何学の客観性は、その真相からすると、自己と他者の「あいだ」で 織り成される「主観相互の対称的な関係」に支えられていたのである。こ れに対して、一方の座標系を基準にしたときに、もしも他方が直交座標系 ではなく、たとえば斜交座標系であれば、主観相互の関係は非対称である ため、上述のような証明はできない。次にこの問題を検討する。 図 5 を見ると、基準として採用された x y 座標系の空間に、x′ y′座標系 に開ける空間の形式が、カントの用語法を用いると「形式的直観」として 描き出されている。x′ y′座標は斜交座標なので、その座標系を基準に採用 図 5 y O x′ y′ A C B x O′ 図 6 y x y′ D F E x′ O′ O
する視点に開ける空間では、x y 座標系の二等辺三角形はもはや二等辺に ならない。このため、図 4 で達成されたような証明は、図 5 で新たに設け られた x y 座標系の視点と x′ y′座標系の視点とのあいだでは達成不可能で ある。しかし、ここで特に注目したいのは、われわれが図 5 を見て理解す るときに、当初から x y 座標が直交座標であることを暗黙の前提にしてい る点にほかならない。実際、その前提が成り立つかぎりでのみ、x′ y′座標 は斜交座標なのである。もしも当初、x′ y′座標系の視点を採用していれ ば、図 6 のように x y 座標の側が斜交座標になっているとも考えられ、そ の考え方は x y 座標を直交座標とする考え方と比べて、何らの優劣もなく 首尾一貫している。そして、x′ y′座標系に開ける空間に二等辺三角形を描 いても、x y 座標系の視点からすると、同じその三角形は二等辺でない。 また、図 5 と図 6 を比較して分かるように、x y 座標系の視点と x′ y′座 標系の視点は、左右が逆転することに関しては互いに対等であるけれど も、逆転するその仕方は前者(自己)と後者(他者)のあいだで異なる。 換言すると、直観の形式が視点間で変化する仕方は、x y 座標系が基準に 採用されて図 5 を見る視点と、x′ y′座標系が基準に採用されて図 6 を見る 視点とのあいだで、図 5 と図 6 を比較すれば明らかであるように、大きく 異なっているのである。このため、図 4 で理解した自ㅡ他ㅡ対ㅡ等ㅡの対称性は、 図 5 を見る視点と図 6 を見る視点とのあいだでは成り立っていない。 しかし、前節の図 1 について再び考えてみると、われわれは 3 次元の直 交座標系に、原点 O を視点として空間が開けることだけでなく、紙面上 に描かれた 3 次元座標を紙面の外から眺めている自分自身の視点が、斜交 座標系ではなく直交座標系の原点であることを暗黙の前提にしていた。す でに第 17 節で確認したとおり、空間に属している根本的な特徴は、外部 に存在する何かだけではなく、同時にまた「わたしが自分自身を見出す ich mich befinde」(A23/B38)ということであった。この真相からする と、図 1 の x 軸と y 軸と z 軸が互いに直交していることは、この図 1 を見 ているわれわれ自身に備わった「直観の仕方」――自らの視点が直交座標 系の原点であるという暗黙の前提――を示しているのであり、われわれは 自分たち自身が直観する仕方を、x 軸と y 軸と z 軸の直交という形式で見 出していたのである。この点はさらに、3 次元と 2 次元の違いがあるとは いえ、図 5 と図 6 でもまったく同様である。 われわれは図 5 を理解する際に、x y 座標が直交座標であることだけで
なく、紙面上の x y 座標を眺めている自らの視点が直交座標系の原点であ ると、どこか暗黙の前提にしていたのではないだろうか。図 6 でも、x′ y′ 座標が直交座標であることに加え、紙面上の x′ y′座標を眺める自分たち自 身の視点が、理由はともかく直交座標系の原点であることを、われわれは 当初から前提にしているといってよいだろう。図 5 の斜行 x′ y′座標はあく までも、わたし自身が唯一の基準として身を置く直交 x y 座標系で直観す る「他者の直観形式」であり、図 6 の斜行 x y 座標はこれと表裏して、他 者が唯一の基準として身を置く直交 x′ y′座標系で直観する「わたし自身の 直観形式」である(形式的直観)。こうした実情をも自他相互で対等に承 認し、x y 座標と x′ y′座標を共に同じ尺度の直交座標として達成されてい たのが、実は図 3 と図 4 で検討した二等辺三角形の証明にほかならなかっ た。その証明ではまさに、自己と他者のあいだで対等な――すなわち、右 と左を峻別しつつ、それでもなお視点の違いに左右(影響)されない―― 対称性が成り立つため、誰にとっても「あらゆる面で対等に成り立つ」と いう意味での客観性が確保されていたのである。 さらに、本節の最初に掲げた図 2――紙面の手前から紙面の奥側を眺め る設定――で判明したことが、二等辺三角形の証明でもやや形を変えて成 り立つ。両底角相等という定理をはじめ、特定の二等辺三角形で何かが証 明されると、尺度や縦横比の異なる直ㅡ交ㅡ座標系を基準として採用するごと に、すでに検討したような「一ならざる意識」と「一ならざる経験」を介 して(直観の進展)、様々な二等辺三角形での証明が「一なる意識」なら びに「一なる経験」へと総合的に統一されることになる。このため、あら ゆる大きさとあらゆる形状の二等辺三角形で、その何かは同時に証明され ているのである。 自分と他の誰もが対等に、直交座標系の原点に開ける空間を、感性的直 観の形式としている。これは実のところ、純粋な幾何学が普遍性と必然性 をもつための基礎であると同時に、われわれ人間の経験――「そのなかで 〔主観相互で対等に保証されつつ共有される〕諸対象がわれわれに与えら れる唯一の認識としての経験 die Erfahrung, als das einzige Erkenntnis 〔…〕, worin uns Gegenstände gegeben werden」(A230/B283)――を、
そもそも可能にしている基礎にほかならない。カントはこうして、われわ れ人間の赤裸々な実情を見極め、純粋な幾何学と経験の可能性に共通する 基礎を、多様・構造体という空間の成り立ちから厳密に浮かび上がらせて
いたのである。
Wir können uns keine Linie denken, ohne sie in Gedanken zu z i e h e n, keinen Zirkel denken, ohne ihn zu b e s c h r e i b e n, die drei Abmessungen des Raumes gar nicht vorstellen, ohne aus demsel-ben Punkte drei Linien senkrecht aufeinander zu s e t z e n,〔…〕 (B154). 思考のなかで線を引ㅡくㅡのでなければ、われわれには如何なる線も想像で きず、円を描ㅡくㅡのでなければけっして円を想像することはできず、同じ 点から互いに垂直に 3 本の線を設ㅡけㅡるㅡのでなければ、空間の 3 つの寸法 〔縦・横・奥行き〕をまったく思い浮かべられないのであり、〔…〕。 カントがこう語るとき、直交座標系相互で対等に確保される幾何学の客観 性が、かれの脳裏にあったとしても、さほど意外なことではないだろう。 この点はともかく、次節では、第 19 節にあげた諸問題のなかでも、最大 の難問を検討したい。
第 22 節 多様の秩序づけを単に促す「現象の形式」
第二版の感性論で初版から書き換えられた文面を細かく検討した結果、 諸現象の多様が感性的な諸直観一般の純粋形式で自ずと直観される、つま り多様が複数の現象から成るのであれば、その多様は自ずと直観されるの に対して、多様が単数の現象そのものであると、現象の形式はその多様が 複数の関係で秩序づけ「られうる」ように、ただ「促す」にすぎないとさ れていた(第 4 節・第 16 節参照)。カントは「十分条件」であるかのよう にも読み取れる初版の或る文面を、第二版では正確に「可能性の条件」と して読める文面へと慎重に書き換え、複数の現象かㅡらㅡ成ㅡるㅡ多様と単数の現 象そㅡのㅡもㅡのㅡでㅡあㅡるㅡ多様とを、より明確に区別していたのである。おそら く、前者の多様と後者の多様では、複数の関係で秩序づけられる際に、重 大な違いがあると考えられたのであろう。しかし、それはいったい、どの ような違いなのか。また、かれは両者を明確に区別して、そもそも何を問 題にしていたのだろうか。実は、前節で用いたいくつかの図が、すでにこれらの難問を解き明かし ている。図 4 は諸ㅡ現象かㅡらㅡ成ㅡるㅡ多様の一具体例であった。見てのとおり、 図 4 全体は二等辺三角形ABCと二等辺三角形ACBという、2 つの現象 から成る構造体としての多様である。われわれはこの多様を、互いに左右 が逆であり、しかも完全に重なる 2 つの二等辺三角形として直観する。し かし、それだけではなく、左右が逆転するように裏返せば、どのような形 状や大きさの二等辺三角形であろうと、例外なく、裏返す前の二等辺三角 形と完全に重なるこㅡとㅡもまた、われわれは当初から共に、すなわち「感性 的な諸直観一般の純粋形式で」自ずと直観していたのである。もしも、そ のこㅡとㅡが自ずと直観されていなければ、われわれは定義に含まれていない 両底角相等という新たな認識を、少なくとも普遍的かつ必然的に成り立つ 定理としては獲得できなかったであろう。 他方、図 3 が表しているのは、単ㅡ数ㅡのㅡ現象そㅡのㅡもㅡのㅡでㅡあㅡるㅡ多様・構造体 ――単独で或る構造をもつ多様――の一具体例である。実際、図 3 として 描かれているのは、二等辺三角形ABCだけである。たしかに、直観の進 展に伴って、ほとんど無数の関係で成り立つ多様・構造体として、その素 顔を現すことになるのかもしれない。しかし、図 3 のなかに外的現象の形 式として示されている x′ y′座標を参考にしても、カントが指摘していたと おり、当の形式はたかだか、この単数の現象そのものである多様が複数の 関係――視点相互の諸関係――で秩序づけ「られうる」よう「促す」にと どまるだろう。というのも、図 3 の二等辺三角形ABCだけをもとにし て、両底角相等の証明に思い至るためには、古代ギリシア有数の天才で あったと伝えられているタレースと、同じ水準の革新的センス、自由奔放 な想像力、および強靭な論理的思考力が求められるからである。常人の大 半にとっては、二等辺三角形ABCが当初から、新たな定理をもたらす図 形として「自ずと直観される」どころではない。おそらく、タレース当人 にとってさえ、当初は常人と同様であっただろう。 現象の形式は図 3 の場合、単数の現象そのものである多様――すなわち 二等辺三角形ABC――が複数の関係で秩序づけ「られうる」ように、わ れわれをたかだか「促して」いるにすぎなかったのである。そして一般 に、単数の現象そのものである多様には、たしかに程度の差はあるとして も、タレースの証明と同様の性格があるといってよいのではないか。これ で最後の難問も解明された。
かくして、カントの理解する「空間」は、その客観性を対等に支える人 の数だけ複数かつ個別の諸空間から成り、それらが総合されて「諸空間一 般」へと統一されている多様・構造体であった。原則論(直観の公理)に は次のような叙述がある。ただし、これまでと同様、原文中の斜体表記と 訳文中の下線は、引用者による強調である。
Die Synthesis der Räume und Zeiten, als der(*1)wesentlichen Form(*2)
aller Anschauung, ist das, was zugleich die Apprehension der Erschei-nung, mithin jede äußere Erfahrung, folglich auch alle Erkenntnis der Gegenstände derselben, möglich macht, und was die Mathematik im reinen Gebrauch von jener beweist, das gilt auch notwendig von dieser (A165f./B206).
(*1)B.Erdmann: als die Synthesis der.
(*2)Idem: Formen; J.B.Meyer: die wesentliche Form.
あらゆる直観の本質的な形態〔単数形〕である諸空間と諸時間の総合 は、同時に現象の覚知を可能にし、それゆえ、いずれの外的経験も、し たがって外的経験の諸対象〔について〕のあらゆる認識もまた可能にし ている。そして、数学が前者〔諸空間と諸時間の総合:われわれの心的 機能が諸空間と諸時間を多様・構造体にしている総合〕を純粋に利用し て証明することは、後者〔外的経験の諸対象についてのあらゆる認識〕 に関してもまた必然的に妥当する。 B・エアトマンの校訂案もJ・B・マイヤーの校訂案も不必要である。こ れらの案は真相を隠してしまう。なぜなら、カント当人にとって「諸空間 と諸時間 Räume und Zeiten」は、唯一無二(単数)の「あらゆる直観の 本質的な形態 die wesentliche Form aller Anschauung」だったからであ る。なお、引用箇所の最後にある 3 格の指示代名詞「後者に dieser」は、 女性単数の名詞(句)を指示するのが文法上の原則であるから、該当する もののなかで最も近くにある「外的経験の諸対象〔について〕のあらゆる 認識」が、指示される名詞(句)の第一候補となる。とはいえ、相対的に 遠い位置にある「現象の覚知」も「外的経験」も女性単数であり、文脈か
らして「前者に jener」が指示する「諸空間と諸時間の総合」と対比され る点ではいずれも同等だといってよい。また、カント当人の叙述に沿って 解釈しても、数学が諸空間と諸時間の総合を純粋に利用して証明すること は、現象の覚知に関して必然的に妥当するのであるから、いずれの外的経 験に関しても必然的に妥当するのであり、したがって外的経験の諸対象に ついてのあらゆる認識に関しても必然的に妥当する。かれはそう考えてい たのであろう。 さらに、構造体としての「諸知覚一般」は、第一批判の一部分にだけ適 合する一つの解釈にとどまるのではなく、むしろ第一批判の枠組み全体を 特徴づけている「総合された多様・構造体」全般の一特殊ケースにほかな らない。次に超越論的演繹(§ 16)の注記から引用する。
Die analytische Einheit des Bewußtseins hängt allen gemeinsamen Begriffen, als solchen, an, z. B. wenn ich mir r o t überhaupt denke, so stelle ich mir dadurch eine Beschaffenheit vor, die(als Merkmal) irgendworan angetroffen, oder mit anderen Vorstellungen verbunden sein kann; also nur vermöge einer vorausgedachten möglichen synthetischen Einheit kann ich mir die analytische vorstellen. Eine Vorstellung, die als v e r s c h i e d e n e n gemein gedacht werden soll, wird als zu solchen gehörig angesehen, die außer ihr noch etwas V e r-s c h i e d e n e r-s an r-sich haben, folglich muß r-sie in r-synthetir-scher Einheit mit anderen(wenngleich nur möglichen Vorstellungen)vor-her gedacht werden, ehe ich die analytische Einheit des Bewußtseins, welche sie zum conceptus communis macht, an ihr denken kann. Und so ist die synthetische Einheit der Apperzeption der höchste Punkt, an dem man allen Verstandesgebrauch, selbst die ganze Logik, und, nach ihr, die Transzendental-Philosophie heften muß, ja dieses Vermögen ist der Verstand selbst(B133f.Anm.).
意識の〔主語的 2 格〕分析的統一は、すべての共通概念〔複数〕その
ものに〔いつも〕ついて回るのであり、たとえば赤ㅡ一般を考えるとき、
わたしはそのことによって、どこかに(徴表として)見出されうる、あ るいは他の諸表象と結びついていることが可能な、或る一つの性質を思
い浮かべている。それゆえ、前以て考えられている可能な総合的統一の おかげでのみ、わたしは分析的統一を思い浮かべることができるのであ る。様ㅡ々ㅡなㅡもㅡのㅡごㅡとㅡ〔諸表象〕に共通すると考えられるべき或る一つの 表象は、当の表象以外の何か異ㅡなㅡるㅡもㅡのㅡ〔性質など〕をもそれ自身で もっている〔帯びている〕ものに属すると見なされている。したがっ て、或る一つの表象を共通概念にする、〔まさにそのような〕意識の分 析的統一を、わたしがその或る一つの表象で考えうる以前に、その或る 一つの表象は(たとえ単に可能な諸表象とではあっても)他の諸表象と 総合的に統一されて〔つまり、他の諸表象と総合され、統一されたかた ちで〕、あらかじめ考えられているのでなければならない。それゆえま た、統覚の〔主語的 2 格〕総合的統一は、あらゆる悟性使用と全論理学 さえをも、さらには全論理学に従って、超越論哲学をも繋ぎ合わせてい るに違いない最高点であり、それどころか、この〔統覚の総合的統一と いう〕能力こそが悟性そのものなのである。 すでにニュートン力学の第二法則を例にして、外観からすると単数の事物 一般について成り立つように思える客観的認識も、実は諸ㅡ事物一般につい て普遍的かつ必然的に成り立つ認識であることを示した(第 15 節)。この 例を振り返ってみたい。 ニュートンの第二法則は〈ma=f 〉と定式化される。このため、かれの 第二法則は外見からすると、或る質量をもつ単数の「事物一般」について 成り立つように思える。とはいえ、この式を構成している質量 m と加速 度 a と外力 f は、質量 m1をもち、加速度 a1を呈し、外力 f1を受けている だけでなく、さらに数多くの諸性質が付帯するものとして総合されている 物体Ⅰ、質量 m2をもち、加速度 a2を呈し、外力 f2を受けているだけでな く、さらに数多くの諸性質が付帯するものとして総合されている物体Ⅱ、 質量 m3をもち、加速度 a3を呈し、外力 f3を受けているだけでなく、さら に数多くの性質が付帯するものとして総合されている物体Ⅲ、…物体Ⅳ、 …物体Ⅴ、以下同様、といった、すでに諸表象が総合的に統一されている 「諸ㅡ事物一般」から、あらためて分析されて統一された各概念であった。 実際に、単数の事物(物体)を、他の事物と比較することなく分析しよう としても、質量や加速度や外力を区別するどころか、それぞれに着目する ことさえできないだろう。カントが上掲の引用箇所で指摘しているのは、
ニュートンの第二法則その他、ア・プリオリな総合判断(認識)を可能に している悟性の根源的機能、すなわち意識による分析的統一と統覚による 総合的統一に秘められた最深部の真相にほかならない。 われわれの悟性による分析は、もともと或る物体Ⅰ――単独の事物―― へと総合的に統一されている諸属性、m1・a1・f1…の総体から、質量 m1 や加速度 a1や外力 f1を単独で分離するのではない。悟性は分析に先立っ て、質量 m1や加速度 a1や外力 f1を、他の物体Ⅱとして総合的に統一され ている m2や a2や f2と、あるいはまた別の物体Ⅲとして総合的に統一され ている m3や a3や f3と、さらには物体Ⅳの m4や a4や f4と、…以下同様、 次々に置き換えていく。悟性はそのような仕方で、質量と加速度と外力、 および他の諸属性を互いに截然と区別すると同時に、任意の質量と加速度 と外力のあいだで常に成り立つ関係へと総合して統一する。こうして、わ れわれ人間の悟性は常に、総合的統一と表裏一体の分析的統一を行ってい るのである。ニュートンの第二法則もまた、ア・プリオリな総合によって 統一されている関係〈ma=f 〉と表裏一体に、質量一般(m)と加速度一 般(a)ならびに外力一般( f )が分析され、それぞれ任意の質量、任意 の加速度、ならびに任意の外力といった、一般概念それぞれへと総合され て統一された法則にほかならなかったのである。 ここで例示した m1・a1・f1…の総体が総合された物体Ⅰの認識、ある いは第二法則〈ma=f 〉の認識その他から分かるように、カントは与えら れるものの「総合」を本来の機能とする人間固有の悟性にとって、分析と いう営みがどのようにして可能であるのかを解明していた。否、それどこ ろか、諸空間一般と空間の内なる多様が構造体であったという真相をもと に一貫して解釈すると、たとえば空間内の位置だけを表し、大きさをもた ないため、それ以上は分析不可能と思える純粋に数学的な点さえ、自他の 視点相互で異なる位置の諸表象を、外的直観の形式(空間)に従って、わ れわれの悟性がそのつどすでに、すなわちア・プリオリに総合している多 様・構造体でなければならない。それゆえ、純粋な幾何学が普遍性と必然 性をもつことは、われわれ人間の――悟性による総合および統一で成り立 つ――経験が可能であるための基礎そのものであった。仮にそうでなけれ ば、空間内の位置について客観的に「認識」できないどころか、感覚可能 な大きさをもつ点や線や面などの、ありふれた空間的「知覚」すら、われ われにはけっしてできないだろう。
最後に、再び原則論(直観の公理)から、もう一箇所だけ引用したい。 細部を度外視して表現すると、いわば「空間・時間もろとも、そして空 間・時間一般が規定されるのと同じ仕方で総合され、統一されている諸現 象」が、言い換えれば、そのように総合されている多様・構造体こそが、 カントにとっての客観的な――空間・時間的な――諸現象なのであった。
Also ist selbst die Wahrnehmung eines Objekts, als Erscheinung, nur durch dieselbe synthetische Einheit des Mannigfaltigen der gegebenen sinnlichen Anschauung möglich, wodurch die Einheit der Zusammen-setzung des mannigfaltigen Gleichartigen im Begriffe einer G r ö ß e gedacht wird; d. i. die Erscheinungen sind insgesamt Größen, und zwar e x t e n s i v e G r ö ß e n, weil sie als Anschauungen im Raume oder der Zeit durch dieselbe Synthesis vorgestellt werden müssen, als wodurch Raum und Zeit überhaupt bestimmt werden(B203).
それゆえ、何か或る客観を現象として知覚することでさえも、与えられ た感性的直観の〔説明の 2 格〕多様を総合的に統一する、〔つまり〕何 らかの量ㅡの概念で様々な同種のものを合成する統一が考えられるのと同 じ総合的統一によってのみ可能である、すなわち、諸現象がすべて合わ せて諸量であり、しかも諸ㅡ外ㅡ延ㅡ量ㅡであるのは、空間と時間が一般に規定 されるのと同じ総合によって、諸現象が空間または時間における〔空間 的または時間的な〕諸直観として表象されざるをえないからである。 全文を見渡すと、単なる知覚に関わる単数形の「量」と対比的に、諸現象 と諸直観に関わる「量」と「外延量」がどちらも複数形になっている。外 延量では部分の表象が全体の表象を可能にする(A162/B203)。そもそも 現象の知覚さえ、或る量の概念で様々な同種のものを合成する統一(単 位)が考えられるのと同じ総合的統一によってのみ可能であり、空間と時 間が一般に規定されるのと同じ総合によって表象されざるをえない複数の 現象は、すべて合わせて複数の外延量になるのであろう。しかしながら、 現段階でさらに重要なのは、外延量の単位そのものが一律ではないとい う、まさにこの点である。 図 3 が示しているとおり、もしも外延量がただ一つの尺度や単位でしか
考えられないとすれば、カントが構想する「直観の進展」と諸現象の総合 的統一は当初から打ち止めになる。すでに引用して検討した感性論の叙述 のなかで「空間の(フィートにも 1 エレにも共通する)一般概念は大きさ 〔Größe:量〕に関して何も規定することができない」(A25)と指摘され ていた。しかし、この否定的で消極的な指摘の深層に隠れている積極的な 意味は、1 フィートでも 1 エレでもその他でもありうるとする直観の進展 ――すなわち「一ならざる」意識――を介した「諸量 Größen」のうち、 如何なる量も対等に承認するかぎりでの 1 フィート、あるいは 1 エレ―― すなわち「一なる」意識――といった、概念の普遍性に到達しうる無規定 性ないし未規定性であったのかもしれない。 本研究では当初、同箇所(A25)を訳出するにあたって、K・ケーアバ ハの校訂案を暫定的に採用し、フィートの定冠詞を不定冠詞に改めて訳出 した。しかし、現時点では、カントがフィートの側に定冠詞を付している 理由も分かる。ともかく、まず最初に、特定の尺度(単位)を基準とする のでなければ、諸空間は「唯ㅡ一ㅡのㅡ空間の内なる多様 das Mannigfaltige in ihm」にならない。そして、基準が定まらないかぎり、様々な尺度で開け る諸空間の「一ならざる」意識は、ただ分散しているだけであるから、諸 量相互の関係を直観できないだろう。それどころか、基準がまったく定め られていないのであれば、大きさはもとより、何もかも無規定ないし永遠 に未規定であるのは当然すぎることでしかない。これでは、つまるとこ ろ、何も決めないのだから、何も決まらないと、カントが述べていること になってしまう。すると、そもそも「空間の一般概念が大きさに関して何 も規定できない」という指摘は、まったく指摘に価しないともいえる。か れがそのような議論をしていたとは考えにくい。 カント当人は、おそらく、それ以外の尺度であってもよい一つの実例を 表す「1 エレ eine Elle」と区別するために、基準として定められている側 の「フィート」には定冠詞を付していたのであろう。かれの指摘を慎重に 解釈すると、フィートを基準に採用している場合、当のフィートという尺 度に限定されないのはもとより、たとえばエレという別の尺度にも限定さ れず、それでいて、どちらにも共通するような「空間の一般概念」は、大 きさ(量)に関して何も規定することができないのである。 いずれにせよ、独自に立てられた「純粋数学はどのようにして可能なの か」という問いに対して、カントは少なくともその解答を与えうる厳密な
枠組みの呈示というかたちで応答していた。幾何学に関するその解答と は、すなわち、自他相互で全面的に対等な「対称性」の成立と表裏して、 如何なる視点を採用しても視点相互で対等に成り立つという意味での「客 観性」が獲得されるという真相にほかならない。かくして、本研究の主題 であった「諸空間一般」は、こうした前人未踏の桁外れに深遠な客観性の 真相に迫る突破口であった。唯一、個別、かつ無限で、どの部分も多様を 内に含む。これが空間の真相にほかならない。カントが洞察したこの謎め いた特性は、しかし、かれの与えた解答の画期性と根源性を、実は当初か らそれとなく暗示していたのである。
結 語 主観と客観の関係から主観相互の関係へ
ニュートン力学の第一法則は、推測とはいえ、まず間違いなく、カント に決定的な衝撃を与えている。如何なる物体であれ、それが静止している のか、等速直線運動しているのか、これを決定するために、客観である物 体の側をどのような方法で調べても、徒労に終わるほかない。第一法則は この実情を白日の下に晒していた。このため、認識の客観性を支える基盤 が客観(事物)の側に求められるかぎり、ありとあらゆる努力は必ず水泡 に帰する。さらには、客観性の基盤を主観と客観の関係に求めても、その 関係を捉える際に欠かせない絶対的な基準はどこにもない。冷徹にも、 ニュートンの第一法則によって、従来の理論的な枠組みで想定される認識 の客観性は、完全にその成立基盤を失うことが原理的に運命づけられてい たのである。 カントは以上のような実情を率直に受け容れたに違いない。そして、か れは大胆にも、客観性の根拠を主観相互の関係に求めるという、類例なき 探究へと方向転換していた。本研究はその探究を追跡しつつ、数学(幾何 学)の客観性をめぐる謎の真相に迫ったが、実は数学的自然科学の客観性 もまた、主観相互で対等な関係――視点の違いに左右されない対称性―― を究極の基盤として成り立っていたのである(33)。 高度の客観性を誇る数学、そして数学的自然科学は、大方の予想に反し て主観相互の関係を基盤に成り立っていた。ここで、われわれ人間がもつ 膨大な理論的認識(知識)の総体を巨峰に譬えれば、数学と数学的自然科 学はその頂上領域に相当する。とはいえ、中腹に支えられていない頂上などなく、頂上領域は中腹と共に広範な裾野に支えられている。この譬喩で 考えると、広範な裾野とはすなわち、人間の行為が従うべき――主体相互 の対等な関係を基調とする――道徳と倫理の領域にほかならない。人間主 体の相互行為によって織り成されるその領域が、もしも適正に機能してい なければ、諸科学の客観性も基盤を喪失して崩壊するか、われわれ人間に とって、そもそも成り立つ意義がなくなってしまうだろう。 かくして、カントは「主観(主体)相互の関係こそが客観的な認識の基 盤にほかならない」という洞察から、理論と実践の両面に及ぶ理性の全貌 を解明していた。このように理解すれば、厳密な諸科学の基礎を探究した カントが、学問分野として遠く隔たった道徳の研究に携わるのは、偶然の 成り行きどころか、そうでなかったなら驚かなければならないほど当然の ことだったのである。 主観と客観の関係から主観相互の関係への転回。この歴史上も類い稀な る思想革命の一側面を、本研究は第一批判の検討によって、謎めいた諸論 点の細部から浮かび上がらせた。この点を最後に確認することで結語に代 えたい。 註
(29)A23/B38; A24/B39; A27/B43; A33/B50; A34/B51; A40/B57; A42/B59; u.a. (30)単数形が用いられているのは、引用した箇所を除くと、たとえば以下の箇所
である。A6; A33/B50; A49/B66.
(31)自然科学のなかでも、特にニュートン力学の基礎については、前註(23)に あげた拙著の特に 36-62 ページを参照。
(32)伊東俊太郎『ギリシア人の数学』(講談社、1990 年)104 ページ参照。 (33)詳しくは前註(23)にあげた拙著の第一章第一節を参照。