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六国後半に見る飢と疫と災 : 平安時代初期における庶民生活の生活衛生学的概観

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(1)

一一24一 食 物学会 誌 ・第35号

調 査 資 料

六 国後 半 に見 る飢 と疫 と災

平安 時代初 期に おけ る庶 民生 活 の生活衛 生学 的概観

浅 見 益 吉 郎*,新

田 絹 代*

On starvations,

epidemics

and disasters,

revealed

in the later

compilations

of "Rikkokushi"

series

—A hygienical

aspect of folk—livings at the early days

of "Heian—era" (792-887)

Masukichiro

Asami*,

Kinuyo

Nieda*

1 は じ め に

さ き に筆 者 らの一 人(浅 見)は,奈 良 時 代 を 完 全 に 包 括 す る続 日本 紀(以 下C{続 紀"と 略 記)の 記 事 を 通 覧 し,文 武 天 皇 二 年 よ り延 暦 十 年 に 至 る95年 間(698 ∼791)*1(以 下 この 期 間 を本 報 で は"前 時 代"と 呼 ぶ) に発 生 した"飢 饅 な い し凶 作"*2,"疫 病"な らび に こ れ ら と関 連 が深 か っ た と思 わ れ る"各 種 災 害"*3(以 下 これ らを 単 に"飢","疫"な らび に"災"と 呼 ぶ) の 記 録 を及 ぶ 限 り拾 摘 し。飢 ・疫 ・災3者 間 の 相 互 関 係 を 検 討 す る と共 に,当 時 の庶 民 生 活 に 対 す る生 活 衛 生 学 的 側 面 よ り の概 観 を 試 み た1)。 そ の結 果 と して 。 華 や か に彩 られ た天 平 文 化 の底 辺 に,絶 え 間 な い 飢 ・ 疫 ・災 の脅 威 に打 ち ひ しが れ て い た 当 時 の庶 民 の 悲 惨 な生 活 実 態 や,苛 酷 な 諌 求 の み を事 と し,救 荒,防 疫 な い し防 災 に ほ とん ど為 す 術 を 知 らな か った 権 力 者 の 無 能 ぶ りを,あ る程 度 まで 客 観 的 に把 握 す る こ とが で き た と考 え て い る 。 これ を承 け た作 業 と して,筆 者 ら は続 紀 に続 く六 国 史 後 半 の4史 書("日 本 後 紀","続 日本 後 紀","日 本 文 徳 天 皇 実 録"お よ び"日 本 三 代 実 録",以 下 こ れ ら を "後 紀" ,●"続後 紀","文 実"お よび"三 実"と 略 記)に よ り,こ れ ら の編 年 史 書が 包 括 す る延 暦 十 一 年(792) *衛 生 学 第1研 究 室(Laboratory of Hygiene,1) よ り仁 和 三 年(887)に 至 る96年 間 に発 生 した 飢 ・疫 ・ 災 の 記 録 を,前 報 と同一 の 手 法 を も って 集 計 処 理 し, これ に も とつ い て平 安 時 代 初 期 に お け る庶 民 の 生 活 像 を生 活 衛 生 学 的 観点 よ り うか が う試 み を 企 て た 。 以 下 に そ の 結 果 を報 告 す る 。 根 拠 と した 各 史 書 は い ず れ も"新 訂 増 補 国 史 大 系 本"2)で あ る。 しか しな が ら この 時 期 の 冒頭41年 間 を 叙 綴 した後 紀 ・40巻 は疾 く散 侠 し,辛 う じて10巻 だ け が 伝 存 さ れ て い るに過 ぎな い 。 従 っ て そ の 欠 巻 部 の 空 白 を 完 全 に埋 め る こ と は不 可 能 で あ るが,こ の期 間 の 記 録 の 渉 索 は,か つ て佐 伯 有 義 が 丹 念 綿 密 に 他 の 史 書 よ り採 録,編 纂 した"日 本 後 紀 逸 文"3)に 拠 り,必 要 に 応 じ"類 聚 国 史"4)(以 ド"類 史"),"日 本 紀 略"(以 下"紀 略")5)な らび に"平 安 通 志"6)な ど も参 照 して 補 訂 し た 。 皿 平 安 初 期 に お け る飢 ・疫 ・災 各 根 拠 史 書 に 記 載 さ れ た 飢 ・疫 お よ び 災 の発 生 記 録 数 を 地 方 別 に も れ な く拾 摘 して集 計 した の が 表1で あ る*4。 さ ら に これ らの 数 値 を前 報 で 報 告 した 前 時 代 の 数 値 と道 別 に比 較 す れ ば表2の と お りで あ る*5。 これ らの表 を 通 覧 して ま ず 注 目 さ れ るの は飢 の発 生 記 録 が 飛 騨 を 除 くす べ て の 園 に わ た って お り,そ の 件 数 も前 時 代 よ り大 巾 に増 加 して い る点 で あ る 。

(2)

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六回史(後半〉に記載された国ごとの飢・疫・災に関する記録数 ハ U A U A リ 凡 U A U ハ U n U

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ではほぼ半減しているが. 後述のように,平安時代に入って庶民の生活衛生環境 が決して好転したわけ-ではなく,むしろ各種疫疾の蔓 廷による打撃は前時代より一層深刻化したと考えられ │弓名注・ 1:延暦十三(794)長岡京より遷都, る。

(3)

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E

考 察

A

平安時代初期の生活衛生学的概観 いうまでもなく,平安京は桓武帝が前時代の沈滞腐 敗し切った民心と不穏な政情を一新する目的で,山河 襟帯,交通要衝の地であった山城盆地を相し,雄大な 経略と構想、のもとに建設されたものである。その後帝 都として千余年の命脈を保ち得たこの新京への遷都は. 確かに歴史を画するに足る壮挙ではあったであろうが, 本報が対象とする9世紀末までのその初期は,政治体 制として前時代からの律令制を踏襲し.むしろその整 備.強化に力が注がれていたので.少なくとも民政の 部面には本質的な革新意欲を汲みとることができない。 従ってこのような体制下に組み込まれた当時の庶民も. 実質的に前時代と全く変らない劣悪な生活環境10申吟 するのを余儀なくされていたといえよう。筆者らの調 査結果でも,総括的に見て当時の庶民の生活環境や生 活水準は前時代と較べて向上どころか.いくらか低下 した傾向さえうかがわれる。 このことは小鹿島の調査結果10)に基いて作成した表 4を見ても明らかである。すなわち本報の調査期間に ほぼ匹敵する2つの半世紀間 (791-840と841-890) において発生した各種災害発生件数の,全有史期(小 鹿島が調査した391-1890年の1500年間)を通じての 総発生件数に対する千分比はきわめて高しこの 2半 世紀聞における各種災害の発生係数 (B:表注参照) のほとんどは前時代を上廻り,この時期がわが国の全 有史期を通じても,最悪の生活環境状態に置かれてい たことを物語っている。 ことに新都の経営と辺境の治安維持のために桓武帝 以降.歴代の政権が負った財政的負担は,民力の根底 を揺がすほど深刻なものであったと考えられる判。 B 飢について

(4)

- 27ー 昭和55年11月 (1980年〉 一 均 一

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続日本後紀 嵯 記号,

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豊年{⑧:大飢(凶)年

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・:飢(凶)年

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:災年 とが記述されている柑。 政府は中央,地方を問わず,飢疫に際して常に租調 を減免したり,その安易な施行は戒めつつも判糧食や 医薬を賑給するなど,種々の対応策は講じているが, 何分累年の凶作や兵乱に財政が之しく,しばしば肝腎 本報の対象とした平安初期は,全期間を通じて庶民 が最も飢にさいなまれた時代といえよう。とくに 830 年代前後はその頂点をなす感があり,疫・災の困苦も 重なって.都都を問わず惨'陪たる状態に置かれ,京中 でさえ飢病者の死骸が野晒しのまま放置されていたこ

(5)

- 28- 食物学会誌・第35号 表4 9世紀当時の各種災異発生の千分比(小鹿島9)の資料による〉 年 紀 延 ト 承 和 七

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発 生 係 数 ( 同 西 暦 791-v840 841-v891 の発生係数1) 一 ー 一一一一一一一一一一 飢 鍾 120.00 120.00 240.00 3.600 3.0α) 疫 病 67.41 52.43 119.84 1.798 2.191 災 早 魅 83.83 83.83 167.66 2.515 1.976 大 風 30.82 78.77 109.59 1.644 0.976 霧 雨 44.12 169.11 223.25 3.349 1.434 洪 水 25.06 59.23 84.29 1.264 0.376 地 震 77.49 282.16 359.65 5.395 0.899 異 噴 火 19.74 39.47 59.21 0.888 0.296 火 災 14.78 35.62 50.40 O. 756 0.101 海 輔 17.86 17.42 35.28 0.529 0.536 表注:100年間の平均千分比 (T)=l,α)()X1oo/1, 500=66. 667, B =A/T. の救岨原資にも事欠く有様であった。窮余の策として, 富農の私穀を借貸したことも数回記録されているが. 結果的 lとは彼等を一層肥らせて貧富の較差を拡げるば かりであったキ100 また備荒の目的で既に前時代から 定められていた義倉の制度も,納入義務を怠る有人が 多く*1l, その機能を十分発揮したとは認め難い。さ らに,京中に常平所を設けて官米の放出をはかったこ とも記されているが*12. 以後の米価の安定に何程役 立ったのか知ると乙ろがない。遂には国家の基本資産 ともいうべき不動倉の在時米まで急、弱を凌ぐために流 用しなければならない破目に陥りホ13 (もっともみだ りに不動穀を流・転用するととを厳しく警告してはい るが州),民心は誌々荒廃して治安は乱れ(求和五年 (838)以降,群盗横行の記事は枚挙にいとまがない), 窮極的花形骸化した律令制の矛問・を露呈してその崩壊 を招いたものと考えられる。 表 3において,延暦廿三年 (804)以降前後7回に わたり,一応豊作年と判定したのは,いずれもその年 疫 飢 の の

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年〉 に:哩稔を嘉祝する詔勅が下されたり,諸仲への報謝が 行われているからであるが*15. これらが真の意味で, 2度にわたり京師をはじめ全国に蔓延してその感染の 速さと症状のすさまじさは貴賎を均しく恐慌状態に陥 稔り多い豊能年であったか否かについては疑念が多いa... れた干200・Fことに初回の流行時には該疫が相腫ぐ政変 とj:-jうのは,いずれの“豊年"にもその翌年に早くも に究罪を被って横死した早良皇太子,伊予親王.藤原 f;!L凶による賑給が行われている有様であり.飢の発生 仲成らの怨魂の果りと信じられ,数度に

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り御霊会や が同時に記載されている草作年(大抵は収穫以前の絶 糧状態に因るものであるが)さえ少なくないからであ る。恐らくこれらの史書にいう“豊稔"とは今日のい わゆる“平年作"が全国的に大過なく確保できた程度 の作柄を指すのではなかろうか。 凶 1は全調査期間を通じての飢および疫の月別(太 陽暦による,次の図も同じ)発生件数を示すものであ る。収稼以前の夏季に絶糧による飢の発生が多くても あえて異とするに足りないだろうが.収穫直後の秋か ら冬にかけても決して少なくないのはどのような理由 によるのか,更に検えすを要すると考える,)

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疫について 前述のように,疫に関する同別記録数は前時代より かなり減少してはいるが,各史書の記載内容を詳細に 検討すればその惨状は日を覆うばかりで,一々の同名 を列挙する煩にi甚えないほどの狙概年が多かったこと を物語っている*160 とりわけ大同三年

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の疫害 は想像に絶し,藤原緒嗣は「当今天下困レ疫.亡残殆 半

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(後記・十七)と述べている程である。文字どお りに人口が半減までしなかったとしても,京中はじめ 全土にわたって無数の疫死体が路傍に放置され,地獄 図絵さながらの状を呈していたことは容易に想像し得 る*170 相騒ぐ激甚な疫の流行に当時の民力は著しく 殺がれ.農耕や儒調ζl要する労働力だけでなく,辺境 の鎮定に派遣すべき兵力にまで影響を及ぼしたことは. 緒嗣が前言に続いて「丁壮之余, 猶未ニ休息1 是却] 民窮兵疲,

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年以降

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固にも及ん でいるのは一考に値しよう。今日の常識よりすれば, 特に夏季高温多湿で病原体の繁殖に好適なわが国の風 1.0において,早天.すなわち乾燥状態の持続と.疫. すなわち伝染病原体の淫浸を直接結びつける接点を筆 者らは見出すことができない。早疫の実態については, さらに考究の機を得たい。 D 災についてr この時代はまた.衆庶の生活を困苦に陥れ,農業生 産に大きな障害を与えたと推察される各種災害も異常 に多かった時期で,既述のようにこの面でも全有史期 を通じ最悪の状態であったといえよう。件数の比較だ けで.その質的軽重を論ずるのはいささか失当の誘り を免れないであろうが,表 31こ拠っても各種災異の発 生係数のほとんどは大きく前時代のそれを上廻ってお り,とくに飢・疫と相関性の高い早・風・霧および洪 水などの件数増加は著明である。これらの月別発生数 は図 2のとおりで,やはり前時代と傾向をーにして稲 の出穂・分けつ期の早害と,開花・収穫期の風雨が最 も切実な損害の原因をなしたことが了解される*210 地震の記録は件数とじては極めて多いが.その大部 分は被害を伴わない程度の有感地震であったと考えら れ.多少なりとも実害を併記したものは至って少ない。 その中にあって天長四・七・十二

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11)には じまり,漸次減衰しつつも翌五年半ば頃まで続いた群 発地震の克明な記録(類史・一七一)は.別な観点か らも有益な資料となるであろう。 またこの時代は全国的に火山活動が活発で,

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にわたる富士山の噴火をはじめ. 豊後鶴見岳

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,肥後阿蘇山

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, 出羽鳥海山

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,薩摩開聞岳

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など各地の火山活動 が記録されており,噴灰による農業被害や気象異変も

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食物学会誌・第

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図2 各史書に記録された早害(マ)および水害(企)の月別発生数 さることながら,心理的にも.迷信深い当時の庶民に 不安と動揺を与え,暗潜とした世情の醸成に拍車的な 影響を与えた点も見逃す乙とができないであろう。

町 む

す び

既述のように,この時代の飢・疫・災が,いずれも 前時代にまして京中ならびに畿内諸国で集中的に発生 しているのは注目すべき現象である。その理由として, この種災異が辺境ないし遠隔諸国においてよりも,膝 許の首都圏に発生した方が政府にとってより重大かっ 深刻な事態として評価された点も挙げられるが.恒久 的な首都を意図して建設された平安京とその後背地と しての五畿内には,わが国が嘗て経験したことのない 人口集中(都市化現象)が既に当時より起乙っていた ためではないか.とも推察される。乙とに平安京は雄 大な構想、にもとづいて営まれたとはいえ.余りにも規 矩に拘わり自然条件を無視して造成された人工都市で あった故に,当初から生活環境条件の劣悪な低湿地域 を彊内に抱えていた。生活基盤の弱い貧民たちは勢い 乙のような地区に追い込まれて密集雑居を余儀なくさ れ,相腫ぐ災害をもろに蒙って.疫病蔓延の温床と化 する結果を招いたのではないかと考えられる。京中住 民への救世は遷都後間もない延暦十五年 (796)以降数 え切れぬ程行われているが.乙のような政府の特恵的 施策にも拘らず.住民の生活水準も衛生環境も向上を 示した兆は全くうかがわれない。 それにつけても,乙の時代の歴代政府の民生に対す る無策振りは自を覆うばかりである。各種災異の間断 無い来襲に苦しむ庶民に対して,政府の行った具体的 な施策は.精々官庫を聞いての賑給や出挙程度で,積 極的な治水濯翫なと、の対策を行った記録は数える程し か見出せない。人々をさいなむ自然の猛威に対しては, ひたすら百僧を偲請して仏前に加護を祈り,諸神に遣 使して奉幣鎮謝するばかりであった。見方を変えれば 当時の官人たちは諸災異に対するこのような謂わば “形而上的"対応こそが,朝廷の本来果すべき第一義 的な責務であり.物糧の恵岨など具体的施策はむしろ 乙れに付帯する副次的なものと心得ていたのではない かとも思えてくる。 現代の尺度を以て千余年前の当時を批判するのは必 ずしも当を得ていないだろうが,漸く硬直化の兆しを 示しはじめた律令体制の下で.民情に明るく実務的才 幹を具えたテクノクラートlとその羽翼を伸ばし得る場 を与えられていなかったことが.理財,民政の貧困化 の一因となった乙とが十分に考えられる。 ともあれ,今日のわれわれならば一日として耐えら れそうもない劣悪な生活環境下で,瀕死の痛手を蒙り つつも生命の灯を絶やさなかった当時の庶民の強勅な 生活力に,改めて驚異を感じる次第である。

引 用 文 献

1) 浅見益吉郎:本誌. 34, 32 (1979).

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2) 国史大系編集会編:“日本後紀'¥“続日本後紀'¥ “日本文徳天皇実録'¥“日本三代実録"・前後篇 (古川弘文館.1934). 3) 佐伯有義編:“校訂~;,t 日本後紀逸文" (“増補六 国 史 "6 J (朝日新聞社.1941). 4) 国 史 大 系 編 集 会 編 : “ 類 粟 国 史 " 第1-4.編 年 索 引 ( 吉 川 弘 文 館 .1933). 5) 向上編:“日本紀略"前篇(吉川弘文館.1929). 6) 京都市参事会編:“平安通史"(1895 C復刻版・ 新 人 物 往 来 社 .1977J). 7) 小鹿島果:“日本災異志"(1894 C復 刻 版 ・ 忠 文 閣. 1973)). 8) 中島陽一郎:“飢催日本史"(雄山閣. 1976). 9) 富 士 川 遊:“日本疾病史"(1912 C再 刻 版 ・ 平 凡社. 1961)). 10) 小 鹿 島 果 : 既 掲 書 付 録 (1894). 文 注

*

1 以下年号および和暦による年月日は漢数字で,西暦年 数および太陽暦による年月日は算用数字で、示す。和暦 年月日の太陽暦への換算は,歴史研究会編:“日本史 年表門(岩波書庖, 1966)付録3の対照表に記載され た各暦年元旦の日付を基準とした。

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2 凶作がただちに飢謹の招来を意味するものではないの で,両者を一括して集計することは必ずしも当を得て いるとは言えないかもしれなし、。しかし食生活という 観点に立てぽ,凶と飢は明らかに因果関係で結ばれて おり,かつ凶作による食糧事情の悪化と飢餓状態の発 生の聞には明確な境界線を画することができないとも 考えられるので,本報では,両者に関する記録を区別 せずに集計した。

*

3 本報に採録した“災"の内容は早ばっ,霧雨,洪水, 地震,火災および虫害など多岐にわたっているが,い ずれも農業生産や住民の生活に直接的な被害ないし悪 影響を及ぼしたと推定されるものだけに限定した。と くに地震の発生はどの史書にも極めて多数記録されて いるが, rl1崩れや家屋倒壊などの被害が併記されてい るものに限り拾摘した。火災についても,穀倉や民家, 山林などの大規模火災だけを採り,官庁や社寺などの 炎上記録は,直接住民の生活に関係しなかったものと 見なして集計から除いた。

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4 根拠とした各史書はそれぞれ編集方針を異にしている ので,飢・疫・災などの記載にかなりの精粗が見られ しかも既述のように後紀欠巻部の復元も不定全であ る。さらにこれらの発作件数の多寡は発生した被害の 質的な深刻度とは一応無関係であるので,本報に掲げ る集計数値は,単にその概勢を把握するための参考と しての意義を持つだけで、あろう。

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5 前報は95年間,本報は96年間とほとんど同一年数なの で,表 2で、は補正を行わずに比較を行った。

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6 小鹿島は飢年に限り大飢年を指定している。筆者らは 豊・飢・疫・災の程度を判断するための基準も別に存 在しないので,各史書の記載内容を検討して主観的に 判定した。

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7 [以下の注に引用する各史書原文で・は, 難解な古漢字 で現用の同義漢字のあるものはj血宜これに置き替え た。〕 延暦廿四・十ニ・七 (806・1・4)

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是日…・・・有レ勅。 令下参議・…・・藤京朝臣緒嗣。与二参議……菅野朝臣真 道一。相

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論天下徳政上。千時緒嗣議云。方今天下所レ 苦軍事与ニ造作一也。停二此両事-。百姓安レ之・…ー」 (後紀・一三)。

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8 承和九・十・十四 (842・11・23)

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勅二左右京職東西 悲田一並給二料物ー。令レ焼ニ数嶋田及鴨河原等輯瞳ー。 惣五千五百余頭。J(杭後紀・一二)C嶋田の地,不詳

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9 弘仁田・五・廿五 (813・6・30)

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勅。治国之要在二 於7百予民。民有二其蓄ー。 Iポ│年是妨・・・・・・今諸国之吏深 背二委寄ー。……無レ心二撫宇一。因レ此繋元失レ業。 飢瞳自随。非レ縁二災妖 .0 Iff~告ニ民飢ー。何二年々賑 給ー。倉麗殆虚。若有ニ災害ー何以相済。…・・・宜自今以 後。非下有二田業損害-。 及有ニ疾病等一上。不レ得請二ー 賑給ーJ(類史・一七三、。

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10 ①延磨廿二・六・四 (803・7・3)

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勅。去年不レ登。 民業絶乏。宮謄之章。唯有ニ余儲。耀則要以二貴価ー。 借則責二之大利一。因レ蕊貧民弥賞。…...J(類史・八 四)

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鯉は米を売ること

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⑨弘仁十・ニ・廿 (819・3• 24)

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公卿奏目。頻年不 稔。百姓飢館。倉麗空尽ロ無物二賑票-。窮民臨レ飢。 必忘ザ廉恥-。臣等伏望。遺下二使畿内-。実二録富豪之 貯-。借中貸困窮之徒上……

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(類史・八四7。 ③貞観十ニ・五・廿六 (870・7・2)

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河 内 国 年 穀 不レ登。民苦二飢鰭ー。太政官処分。借二境内富豪貯稲 一万三千束-。班二給百姓ー。待レ秩返給。J (三実・ 一八

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11 ①大岡田・五・ー (809・6・21)i始制。留下五位以 上不輸二義倉一者封禄。J(紀略・前一四、口 ②元慶五・五・九 (881・6• 13)

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制。拘下留不レ輸二 義倉一三位以上家司季禄iニ……J(三実・三九、

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12 貞観九・四・廿ニ (867・6・2)

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東西京始置二常平 所ー。出二官米一而売レ之。米一升直新銭八文。京邑之 人来買者如レ雲。是時穀価騰躍。内外飢躍。米一石直 新銭一千四百文。 I甘レ走。官売以救ニ俗弊一馬。J (三 突・一回、。

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13 ①斉衡元・三・廿三 (854・4・27)

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石見国奏請。 以二不動稲三万五千余束-。賑二給飢民-。許レ之。」 (文実・六、。 ②元慶二・ー・十五 (878・2・24)

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勅。以二播磨因 不動穀六千石一。転充二和泉国一。班給百姓-。以二去 年皐飢一也。J(三実・三三、。 ③元慶二・二・廿八 (878・4・8)

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勅。備前国不動 穀一万石。運二充河内国一。班二給百姓ーO 以二去年早 損民多飢餓一也。J(三実・三三、。 ④元慶二・五・ニ (878・6・10)

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摂津国早飢。詔 転二運播磨備前両国不動穀各三千石- 0班ニ賦百姓一。」

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- 32-(三実・三三)。

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14貞観八・十二・八 (867・1・21)i禁下五畿国非レキ[二 裁許- 0 師B~tþ用不動穀上。 若不二勤慎一。 罪以ニ違 勅ー。J(三実・一三) [鯨:¥,、つでもすぐにの意

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。 ス ナ ワ ラ

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15①延暦廿三・十・十 (804・11・19)i詔日……今年J皮 年実豊稔ヨ人々産業毛取収弓在。……

J

(後記・一二)0 ②弘仁ニ・五・八 (811・6・6) i勅…・・・今官庫之 貯。頗有ニ盈余_ 0…・・

J

(後杷・二~\。 ③弘仁田・十・三 (813・11・3) i奉二幣於名神ー。 報二豊稔一也。J (紀略・前一四)。 ④弘仁五・八・廿九 (814・10・19)i詔日……頃年以 降。春耕候レ花。不ν謬二濯枝之潤ー。秩稼垂レ頴。 可レ余二栖畝之根一・・…・朕思下膚ニ斯嘉賜-。寄ニ中実 於百神ー。欣二彼豊稔ー。報中勤労於百姓上・…・・J (後 記・二四70 ⑤弘仁七・七・廿 (R16・8・20)i勅。...今開。今 蕊青苗滋茂。宜下敬二神道ー。大致中豊稔上。庶使コ嘉 穀盈レ畝。害容元股冨-。……J (類史・

--70

@弘仁十二・八・三 (821・9・7)i勅。今嘉穀]E.レ 穂。多稔豊熟0 ・…・・J(類史・一一)。 同年八・十八 (9・21)i奉二幣名神口報二豊稔一也。J(紀略・前 一四)。 ⑦承和五・九・廿九 (838・10・25;i…・・・今忍畿内七 道。倶是豊稔。五穀価賎…・ーJ (杭後紀・七、。

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16全国的な疫の流行を記載した数聞を以下に挙げる。 ⑦大同三・五・十 (808・6.11) i詔日。……頃者天 下諸国飢j鞍繁興。皮膚相尋。多致二夫折ー・0 ・…・・

J

(後 記・一七) ②天長十・六・八 (833・7・2)i勅日。如レ開。諸 国疫属。天亡者衆。・…・・J (続後紀・二、。 ③仁寿三・ニ (853・3-4) i是月。京師及畿外多 患二繭唐ー。死者甚衆。天平九年及弘仁五年有三此搭 居、-。今年復不レ免二此疫4而己。J(文実・五、 食物学会誌・第35号 ④貞観六・十一・十二 (864・12・18) i勅令下ニ五畿 内弁山陽南海両道一。預鎮謝二疫癌-。兼転中読般若 大乗上…・0 0 (三実・九、_I

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17 ⑦大同三・ー・十三 (808・2・16)i遺レ使煙ニ飲京 中酪商- 0勅。頃者疫璃方犠。死亡柏多。庶資ニ恵力一。 救ニ蕊病若- 0・…・・J(類史・一七三)。 ②大間三・ニ・四 (808・3・8)i勅。今問。往還百 姓。在レ路病患。或因二飢渇-o.Pl

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致二死亡- 0・…・・又 頃者疫揮。死者梢多。屍骸無レ飲。露二委路傍ー。甚 背二掩骸埋菌之儀- 0J[レ令下諸国巡検看養。一依二先 格ー。所レ有之骸。皆悉収飲上

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(類史・一七三)

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は骨に付着した残肉]。

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18 貞観三・八 (861・9-10) [""是月……患二赤痢ー者衆。 十歳己不男女児染ニ苦此病ー。死者衆突J(三実・五)。 キ19 富士川町によれば咳逆は当時“シワプキヤミ"と和訓 され,今日のインフ/レエンザに該当する疾患で、ある。

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20 ①貞観五・ー・廿七 (863・2・22)i賑二給京師飢病 尤甚者一。白二去年末- 0至二

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是周一。京域及畿内畿 外。多患、二咳逆-。死者甚衆突_I (三実・七、。 ②貞観十四・ー・廿 (872・3. 7)i是月。京邑咳逆 病発。死亡者衆。人間言。勘海;客来。異土毒気令レ然 喬一。J(三実・二~\。

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21 ここで、注意を要するのは,各史書に記載された事件の 日付である。すなわち,当時の交通・通信事情よりし て,諸国より朝廷への報告は京師までの距離に比例し て日数を要したのは当然で、ある。例えば,天長七・ー ・三(幻0・2・3) 出羽に発生した地震の報告は当 時の至急便であった駅伝奏を以てしでも,秋田城より 京師へ26日聞を要している。従って各史書の記載日付 を必ずしも当該事件の発生日と見倣し得ないが,適切 な修正手段も見つからないので,図1-2の月別類別 は各史書記載日付に拠った。

参照

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